工場計画論(2) グローバル展開のゆくえ

電車にゆられながら吊り広告を見ていると、宣伝というのはつくづく一般消費者の欲望を刺激することで成り立っているものだな、と感じる。あれは素敵だ、これは面白そう、こんな心配はありませんか? こんな夢はどうでしょう--そういう風に、広告はできている。だから、その気になって広告をよく観察すると、“普通の人々”が何に対して欲望を感じているのかが、逆に分かってくる。

欧米などに比べると、日本の電車は際だって広告の量が多い。最近は電車の外側まで広告で塗りたくっている。まさに『欲望という名前の電車』が街中を走っているわけだ。その車内広告の中でも、くりかえしくりかえし登場するのが、英会話教室のPRだろう。それだけ、「英会話ができるようになったらカッコいい」と望んでいる人が多いわけだ。まあ、パリの郊外電車の中でも英会話教室の広告を見かけたことがあるから、あそこの国の人だって内心は“英語がしゃべれたらカッコいい”と思っているのかもしれない。

日本では、「英語がしゃべれること」と『国際化』という言葉は、車の両輪か同じコインの両面のように考えられてきた。外国=欧米=英語、という風に、思考回路の中でショートしたみたいに連想がつながっている。とくに年配の人の中では、その傾向が強いかもしれぬ。日本企業では、“国際畑”を歩いたキャリア、というと何となくエリート・コースのように聞こえる。

その国際畑とは何か。それは十中八九、海外営業部門を意味する。日本の製造業の海外展開というのはパターンがあって、それはまず製品の輸出からはじまる。大昔なら生糸、昔は繊維製品、そして現代は自動車や家電が輸出の主役だ。どれもみな、大量見込生産品であることに注意してほしい。それらは高品質で、かつフェアな価格だから売れてきた(’85年代以前は円も安かったから、フェアどころか低価格だった)。買い手はお金を持っている欧米先進国が中心だった。

輸出の場合、最初は商社経由で、現地の販売代理店が売っていた。セールスというのは、つねに現地密着型でないとできない職種だ。そのうち販売額がかなり大きくなると、相手先企業と提携して、合弁の会社(海外子会社)を設立することになる。主な仕事は販売とサポートである。セールスマンやセールスレップを雇い入れ、それを管理するのが支社に派遣された海外営業部門の人たちの役割だった。

そのうちに、現地のローカルなニーズにあった製品がほしい、という声が高くなってくる。だから、営業企画部門を海外でも持つようになる。本格的製品開発までは無理でも、簡単なローカライズくらいならやれるような体制になっていく。物流倉庫もいる。そして機械製品なら、保守のためのサービスセンターも持つようになる。

さて、ここまでのところ、まったく「工場」という単語が出てこなかった点に注意してほしい。あくまでも、日本企業のグローバル展開というのは、『プロダクト・アウト型』なのである。欧米志向、営業主導、見込生産品--これが“国際化”の正体だった。

では、この間、工場の人たちは何をしていたのか。技術畑の人間にとって、昔は「技術導入」の形で海外とのつながりが多少あった。しかし日本企業の技術開発力が上がるにつれて、(一部業種を除けば)ライセンス生産は減ってくる。しだいに『純国産型』の生産体系になってきた。

そして、バブル崩壊である。不況で、モノが売れなくなった。すでにバブル経済の時代に、工場は都市近郊から地方に追いやられていた。そこに、「原価低減」の重圧が本社からかかってくる。売れないのは価格が高いせいだ、うちの工場は高コスト体質で困る。これでは価格破壊の時代に生き残れない--こう考える人が本社では多かったらしい。バブル時代には、「もっと高付加価値な」(つまり豪華で単価の高い)製品を開発しろ! と叫んでいた同じ人たちが、手のひらを返したように、もっと安くて売れるものを作れ! と命じるようになった。

ここでちょっと、考えてみてほしい。高度成長期が終わって、市場も技術も成熟期に入ると、世の中の平衡点は供給過剰側にシフトしている。力を持つのは、最終消費者だ。そして、それに近い、小売業者である。それまでのプロダクト・アウト型の大量生産販売体制は、マーケット・イン型の、小口受注短納期型の生産販売体制に移行しなければならなかった。そうしなければ、販売機会の損失が増大するのだ。だから、販売と開発と生産は、より密な連携が必要になり、すぐ近くにいることが望まれたはずだ。

なのに、日本の製造業の現実は、そういう風には進行しなかった。国内需要減を海外輸出で補うことがテーマになった。だが、すぐ背後からは韓国・台湾など中進国が低価格を武器に追いかけてきた。だったら、人件費も材料費も安いアジアに生産をシフトするのが、頭の良いやり方だ、という通念が生まれた。アジアでものづくりをして、欧米に輸出する。それを日本が企画・管理する。それが「グローバル展開のあるべき姿だ」というイメージが広まり、大企業だろうが中堅・中小だろうが、自社のサプライチェーンの質や量も考えずに(といったら失礼かもしれないが)中国に工場を移転し、かくて「中国を世界の生産工場に」するために貢献したのである。

この間、忘れられていたことが一つある。それは、中進国やアジア諸国を「輸出先の市場として考えること」である。国際化とは欧米進出だ、という固定観念がまだ残っていたのだろうか。国際営業畑は欧米に顔を向け、生産畑はアジア諸国の方を向く、という奇妙な分裂状態がいまだに続いているのである。

2000年代も半ば頃になって、はじめて「製造業の国内回帰」ということが言われるようになった。軽々しく工場を海外移転したが、失敗例が意識されるようになったのである。それはある意味、当然だろう。見込大量生産時代の意識を残したまま、むしろその地理的な距離を広げた上で、マーケット・インの時代に対応しようとしても、簡単にいくとは考えにくい。工場の立地は、サプライチェーンの形と量と性質によって決める--この原則に、もう一度立ち返るべき時が来たのである。

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