タイム・コンサルタントの日誌から(2017年)
(佐藤 知一)
システムズ・エンジニアリングとは何か (2017-04-09)
Pushで教育し、Pullで成長する (2017-02-19)
意外性に動じない心を持つために (2017-02-09)
システムズ・エンジニアリングとは何か (2017-04-09)
日本にはあまり知られていないが、欧米では確立され重視されている技術の分野がある。それは「システムズ・エンジニアリング」=システム工学である。
・・と書けば、“何を馬鹿な”と思われる方が大半であろう。日本にはシステム・エンジニア(SE)と呼ばれる職種の技術者が、少なく見積もっても十万人単位で存在する。それに、大学でもそれなりに教えているではないか。「システム工学」と名のつく学科だって、数十は存在する。それなのに、「あまり知られていない」などとは何ごとか!
そう憤慨される読者諸賢に、それでは、一つご質問したい。貴方が学校で学ばれた「システム工学」の、代表的な教科書をあげていただきたい。これ一つ読めば、システム工学の基礎が大体分かる、読んでいない奴はモグリだ、というような定番の教科書である。システムとは何を指すのか、システムはどのように設計すべきか、設計手法は何があるのか、システムの分析や評価はどう行うのか、システム工学研究の最新の課題は何なのか、すっぱり分かる教科書である。経済学におけるサムエルソンの本みたいなやつだ。1冊ではなくシリーズでもいい。確立した工学分野なら、そういう教科書が必ずあるはずではないか。
え? 思い当たらない? そんなら、最近流行の「知識体系」を書いた標準書かハンドブックでもかまわぬ。プロジェクト・マネジメント分野におけるPMBOK Guide (R)みたいなやつだ。一流のプロを目指す人間なら、誰でも座右において、でも実際には滅多にめくって見たりはしないアレである。え? それも存在しないって。だとすると、世の中のシステム・エンジニアはどうやって勉強してきたのか。まさか習うより慣れろ、先輩の背中を見て育て、だろうか。また学術研究は、どう進められているか。今、念のためにちらりと調べてみたが、「日本システム工学会」のような組織も無さそうだが・・?
そうなのだ。日本には、「システム工学」一般を扱う学会も、それを教える大学も、存在しない。たとえば「日本の大学」というサイトで調べると(http://www.gakkou.net/daigaku/src/?srcmode=gkm&gkm=04011)、76件の学科が出てくる。だが、機械システム工学、情報システム工学、制御システム学、化学システム工学など、何か特定の修飾がつく学科ばかりだ(かつては神戸大学と静岡大学に「システム工学科」が存在していたが、どちらも今はもう無い)。学会で言えば「システム制御情報学会」 が存在する(わたしも以前、学会誌に一度寄稿したことがある)が、これも元は自動制御論の学会である。さて、世の中のSEの皆さんで、ラプラス変換や伝達関数を毎日仕事で使いこなしている方はどれくらいいるだろうか?
率直に言って、わたし達の社会には、「システム」という概念に対し、奇妙な歪み、ないし偏向がある。システムとは「目的を成し遂げるために、相互に作用する要素(element)を組み合わせたものであり、これにはハードウェア、ソフトウェア、ファームウェア、人、情報、技術、設備、サービスおよび他の支援要素が含まれる」と定義される。システムというのは非常に一般的な概念だ。そこには機械的なシステム、たとえば自動車だとかカメラだとか人工衛星だとかも含まれるし、工場やプラントみたいなものもシステムだし、人間系を含んだ仕組み、たとえば企業の経営組織だってシステムの一種である。少なくとも、学術の世界ではそう認識されていて、(学会は専門分化する方向が強いので)個別に「○○システム学科」が生まれていく。
ところが、一歩大学の外に出ると、なぜだか突然、「システムとはコンピュータのこと」という『常識』が世間を覆っていることに気づく。そして、SEと呼ばれる人たちは、もっぱら計算機のハードウェアだとかソフトウェアだとかを設計・実装するITエンジニアばかりなのである。『システム』という言葉自体、外来語で、日本語に該当するもののない、わかりにくい抽象概念だった。だから<システム=計算機>という目に見えるものにマッピングして理解されることが起きたのかもしれない。
しかし、このような偏向ないし偏在は、いろいろなところで問題や見えない非効率を生み出している。たとえば少なからぬメーカーにおける製品は、複数要素から成り立っており、システムである可能性が高い。だが、そこにコンピュータ要素がないと、『システム』として認知されない。すると、システム工学が得ている知見や常識が活かされず、その製品設計プロセスにも、システム工学で常識となっているモデル(後述する)が適用されないケースが多いと思われる。あるいは、生産管理などの仕組みも、一種のシステムである(現にトヨタは「トヨタ生産システム」と呼んでいる)。だが、そこにもシステム工学で常識となっている事柄が十分活かされず、ただ個人の頑張りや浪花節的調整や「気合い」やらで組み上げられたりする。欧米ライバル会社では、そこが理知的に設計されスケーラブルになっている可能性が高いのに、である。
ところで、二つ上の段落に書いた「目的を成し遂げるために・・要素が含まれる」という定義は、じつはINCOSE(The International Council on Systems Engineering http://www.incose.org )という団体による定義を引用したものだ。INCOSEは文字通り、システム工学に関する国際的団体である。事務局は現在、米国サンディエゴにあるが、理事のメンバーを見ればわかるとおり、欧米にまたがっている。大学人あり、航空宇宙業界ありソフトウェア業界ありエンジニアリング業界ありで、かなり広汎だ。そして(例によって)日本人は一人もいない。
このINCOSEという団体は、”INCOSE Systems Engineering Handbook: A Guide for System Life Cycle Processes and Activities”というハンドブックを出版している。現在第4版で、Amazonなどからも手に入る(。これを眺めると、現在のシステム工学というものが、何を問題にし、どういう方法論で挑もうとしているのかが少し見えてくる。
たとえば、同書の中には、システム開発の「V字モデル」の図が出てくる。こういう図だ。
これに似た図は、ITエンジニアの人たちなら、見たことが多いのではないだろうか。日本でも、大手ITメーカーの社内標準や開発プロセス定義に取り入れられている。INCOSEのハンドブックの説明によると、このV字モデルの概念は1990年頃に萌芽が生まれたが、このような形で提案されたのは、Forsberg, Mooz & Cottermanの”Visualizing Project Management”(3rd edition, John Wiley and Sons, 2005)がオリジナルであるという。
念のために説明しておくと、システムは通常、その中にサブシステムを持っており、サブシステムはさらに下位の要素などから階層的に構成される。上位システムは何らかの要件を持っており、エンジニアはその機能を満たすために内部構造を考える。つまり、下位のサブシステムが満たすべき要件と、その要素間の関係を規定する訳だ。設計とはそもそも、満たすべき要件と制約条件の中で、利用可能な材料から、機能・構造・制御機構を持つ案を考え、その中で価値が高いものを選ぶ行為である。そして下位のサブシステムについては、その要件を満たすべく、さらに下位の要素の組み合わせで設計する。
こうして、設計段階は、上から下におりていく。ところが、それを実現する(製造・実装)段階では、まず要素を作り、その要素レベルでの機能検証を行った上で、上位のサブシステムを構成し、サブシステム・レベルでの検証をすませてから、全体システムへと進む。そこで、各段階の設計において、あらかじめ検証のための方法を計画しておかなければならない。
これは、今日のITエンジニアにはほとんど常識であろう。事実、ISO12207 「ソフトウェアライフサイクルモデル」などにも、この概念は取り入れられていて、テストは単体→結合→総合、という風に下から上に上がってくるのである。これを逆にはできないし、すべきでもない。ただ、こうした概念がIT分野で常識化してきたのは、この10年くらいのことかもしれない。そして、IT以外の分野では、まだあまり常識ではない。たとえば、IT系の会社で組織体制を決めるとき(これは立派なシステム設計行為だ)、上から順に機能定義を展開し、下から順にそれを検証しているだろうか? そうしていないとしたら、それは何故なのか?
それは、「システム」という概念がコンピュータ回りに偏向しているからだろう。上に述べたINCOSEのシステム定義が、要素としてちゃんと「人間」を含んでいる点に注意してほしい。人は、システムの重要な要素なのだ。まあ、わたしは実務家であって、必ずしも抽象的一般理論の信奉者ではない。だが、必要に応じて、抽象レベルを上げて考える能力は、技術リーダーに必須のスキルだと信じている。そして、それをシステムという観点から行うのが、『システムズ・アプローチ』なのである。
ちなみに、INCOSEは数年前に、プロジェクト・マネジメントの本家団体であるPMIと、戦略的提携関係を結んだ。さらに、MIT(マサチューセッツ工科大学)とも協力して、プログラム・マネジメントについて新たに共同開発を行っている。これは、わたしにとって驚きのニュースであった(もっとも、こういうニュースがこの国ではちっとも驚きを持って広まらないのだが・・)。そして、共同で新しく本を編纂するというので、日本プロジェクトマネジメント協会PMAJの光藤理事長が寄稿された。出版は少し遅れているようだが、近々刊行されると思う。
ともあれ、わたしの知る限り、今日の日本において、IT以外の分野で「システム・エンジニア」という職種が認知されているのは、JAXAに代表される航空宇宙業界、一部の物流設備業界、そしてプラント業界くらいだ(化学プラントの世界では「プロセスシステム」という概念が確立していて、これを専門に設計する職種がいる。ただしプロセス・エンジニアと呼ぶことが多い)。でも、もっと多くの分野で、システム工学の考え方を知り、また独自に技法を案出できるといいと思う。
こうしたシステム工学の考え方に興味を持たれた方に、ちょっとだけ耳寄りな情報(笑)をお教えしよう。上記のINOCSEの英語版ハンドブックを読むのは、なかなか大変だ。そういう方は、JAXA(宇宙航空研究開発機構)が、
JAXA (2007)「システムズエンジニアリングの基本的な考え方」
https://ssl.tksc.jaxa.jp/isasse01/kanren/BDB/BDB06007BSEkihon.pdfという解説記事をネットで公開されている。こちらをまず、勉強されることをおすすめしたい。わたし自身、INCOSEのハンドブックに書かれている方法論だけでは、工学としてまだ物足りない部分があるとも考えている。とくに、System ArchitectureやSynthesis、つまりシステム合成のための設計指針が、もっとほしいと感じる。だが、そのギャップを埋めるには、大勢の叡智を集める必要があろう。そして、より多くの人が、こういうシステム工学の存在を知ってほしいと思うのである。
Pushで教育し、Pullで成長する (2017/02/22)
子どもがまだ小さかった頃、よく「きかんしゃトーマス」を一緒に見た。このイギリス製の人形劇は、どうやら英国社会を引き写しているらしく、階級制になっている。機関車はおおむね真面目で勤勉だが、彼らに引かれて走る客車はいつも適当な連中で、機会があればサボることを考え、しょっちゅう脱線事故などの面倒を引き起こす。つまり機関車(Engine)は、技術者(Engineer)のような中産階級を連想させ、客車はすぐにストやサボタージュをする労働者階級を思わせる、という具合だ。
あるとき主人公のトーマスが、例によって客車にトラブルを起こされ、手を焼いていた。すると、となりの線路をゴードンという機関車がちらとトーマスを横目で見て、「人生は勉強だな」といって通り過ぎるシーンがあった。きかんしゃゴードンは中年男を思わせる横柄なキャラなのだが、この台詞はなぜかぴったりと役にはまっており、見ていたわたしと連れ合いはその後しばしば、小さなトラブルに遭遇するたびに「人生は勉強だな」と言い合って笑ったりした。
人はいくつになっても成長できる。逆に言えば、人は一生、学び続けなければならない。ゴードンの名台詞はこのことを表している。ところで、英国のコンサルタントであるMarcus Buckinghamの説によると、人間の学習スタイルには、「分析型」、「行動型」、「観察型」の三つのタイプがあるのだそうだ。それによると、
・分析型は事前の学習時間を十分とる
・行動型は早く未経験の環境に置く
・観察型は手本になるベテランの傍らで、仕事を俯瞰的に見ながら模倣させる
というのが、それぞれOJTのやり方としてふさわしいらしい。このことは、稲山文孝氏の「アプリ開発チームのためのプロジェクトマネジメント」 という本で読んだ。なるほど、とは思ったものの、上記の3タイプはあくまで英米人の類型かな、とも感じる。わたし達の社会なら、このほかに「感情型」だとか「競争型」とかを付け加えたくなる。感情型は好きな人を手本にして感性や情に訴えて学ばせる、「競争型」は試験を課して成績で競わせる、と言う具合だ。
まあ人間の類型論は医学・心理学から社会学まで、いろいろなバリエーションがある。だが、学びという点で見ると、大きく「受動型」と「能動型」に二分できるのではないかと、よく感じる。というのは、この区分は、育成・訓練におけるマニュアル整備の是非の論議に、しばしば登場するからだ。マニュアル論議といういうのは、仕事について伝えるべき一切合切、なるべくすべてをマニュアル化すべきか、という論争である。いや、親切すぎると相手の「学び」が働かなくなるのでは、という疑念や、緊急時対応はどこまでマニュアル化できるか、といった疑問もこれに近い。マニュアルがないと対応能力が下がる。しかし、あまりすべてをマニュアル化すると、今度は「想定外」に対応できなくなるパラドックスが生じる。
こういう議論では、どうも意見に世代間ギャップがあるな、とわたしは感じている。おじさん世代(わたし自身を含む)にとって、知識は稀少資源だった。わたしが社会人になった頃は、パソコンというものすら存在していなかった(きっと日本昔話みたいに聞こえるだろうなあ)。知識はほぼ全て、紙の中にあった。そして、知識情報は自分の個人的資産として「囲い込む」(机の中にしまっておく)ものだった。人が知らないことを知っているのが、自分の優位性だ??そういう感覚が強かった。
その時代、「技術は盗むもの」と信じられていた。教えすぎてはいけない、と。教えなくても優秀な人は、自然に身につけるものだ。何より、生まれつきのセンスが一番大事で、あとは「やる気」、気持ちの問題だ。つまり、自分から知識を取りに行く(Pull型)の態度が主流だったのだ。
ところで、このような態度は時代とともにかわっていく。若い世代(定義は難しいがバブル時代以降か)にとって、知識は世界に氾濫しているものだ。知識はネットでふんだんに流通している。あとは自分で好きに探せばいい。知識は他者から与えられ(Push型)、選び取るものになった。情報整理とフィルタリングの感度が自分の優位性だ、と感じているのではないか。
このギャップは、世代間で知識情報を伝達する「教育研修」において、重大な影響を与える。シニア世代は、若手が取りに来るのを待っている。若手は逆に、シニアが教えてくれるのを待つ。つまり「教育のデッドロック現象」が起きているのだ。こうなると、組織的な「学び」が働きにくくなる。それは、同じような間違いやトラブルを繰り返す原因になるだろう。
このところPMの教育について、ずっと考えている。マネジメント能力の育成は、知識教育だけではまったく不十分だと、わたしは思う。そもそもマネージャーとは、教育すべきものなのか、それとも自己成長なのか? 「俺の背中を見て育て」というおじさん世代にとって、マネジメント能力は自分から取りに行く(盗む)のが当然という考え方が強い。おまけにその世代は、マネジメントの仕事を伝達可能な形で言語化していないことも多い。
もちろん、マネジメントの能力には、言語化できる部分とできない部分がある。つまり属人的なソフト・スキル(技能)の部分と、軽量化し伝達可能なマネジメント・テクノロジー(技術)の部分とがある。そして後者は、先ほど述べたマネジメントの「マニュアル化」の議論につながりがちだ。どこまでマニュアル化できるのか、またマニュアル化すべきなのか?
こうした育成をめぐるPushとPullの議論が混乱する理由は、いろんなレベルの知識情報をごっちゃに話していることにある。そこで知識のレベルを「基本」と「応用」に分けて考えてみよう。
(1) 基本レベル
仕事に必要な基本的知識は、伝える側=先輩が、受け手=後輩に教えこむべき(Push型伝達)ものだろう。そうでなければ、組織として効率がわるすぎる。基本レベルとはつまり、テクニカルで伝達可能な知識やハード・スキルである。そして、そのためには知識に関するPushのシステム(仕組み)を作り上げる必要がある。つまり、教科書化・マニュアル化する訳である。あるいは昨今ならば、 ITツール(e-Learning)も活用することになる。
システム(仕組み)である以上、教える側の体制も構築しなければいけない。なぜなら、「人に教える」こと自体が学びにもなるからだ。組織としては、それを評価褒賞にも組入れる必要がある。
(2) 応用レベル
これに対し、応用的な知識やスキル(主にソフト・スキル)は、受け手が自分から学びに行く(Pull型)べきものである。そうでなければ、能力として本当には身につくまい。そのためには、Pullの知識獲得のための態度・思考習慣(OS)を持つことが必要だ。また、応用レベルは一般にマニュアル化に向かない。範囲が広く例外事象が多いため、教科書・マニュアルでカバーするには効率がわるすぎるからだ。
そこで中心になるのは、学ぶ事自体の面白さだ。身につけば、仕事の幅を広げるのに役に立つ。いや、直接すぐに役に立たなくても、いつか役に立つ潜在的可能性があればいい。そして応用レベルの問題には、必ずしも正解はない。だから、自分の頭で考え、自分のスタンスや価値観を持つ態度が求められる。
以上の二つのレベルのあり方は、ちょうど、学校教育でも実現されている。小中学校の基本レベルは、義務教育であり、先生が生徒に知識をプッシュで教え込む。子どもの側は、なんでこんなことを覚えなけりゃならないのか、などと疑問を持つこともあるが、そこは問答無用ということになっている。これに対し、大学・大学院というところは、(本来は)応用レベルを学ぶ場所だ。そこではいちいち、手取り足取り、教えたりしない。自分の頭で考えて、レポートや卒論などにまとめることが要求される。
ただし、(1)の基本レベルと、(2)の応用レベルを結ぶために、大事なことがある。それは、基本レベルを教える過程の中で、同時に「自分で学びに行く態度」を育てなければならない、ということだ。これがあるからこそ、応用レベルで自ら成長していけるのだ。そのためには、教え手が見本(モデル)となって示す必要がある。質問されたら、誠実に答える姿。難しい問い(つまりよい質問)に対しては、必ずしも全知ではない姿。そして自分も新たに学んだ、学べて面白い、という姿を、見せること。これがあってはじめて、基本レベルの生徒にも「学ぶ態度」が少しずつ身についていくのだ。
しかし現実を見ていると、どうやら「学ぶ態度を教える」ことが、ミッシング・リンクとなって 欠けていることがある。そうなると、基本レベルから応用レベルに壁を越えてジャンプできない。学校教育でも、高校から大学へはジャンプがある。これにつまづくと、昔なら五月病にかかった。今は、大学自体がPush型中心の、手取り足取りやたらと面倒見のいい(?)教育に、重心を移してきている。そうなると今度は、社会に出たときがジャンプになってしまう・・そこで大切になるのが、知識のナビゲーター(水先案内人)を組織の中にたてることではないだろうか。まだ十分にPull型の「学ぶ力」が身についていない人を、知識のある場所や、よく知っている先達に適切に導く役柄だ。わたしのこの小さなサイトも、及ばずながらマネジメント・テクノロジーへの水先案内役をしているつもりだ。
もう一つ。これもわたしの仮説だが、Pull型を習慣化し身につけるのは、一人の意思だけでやるのはしんどい。そこで、上級レベルへと学ぶ人のためのコミュニティがいるのだ。その証拠に、だから大学はゼミ方式になっているではないか。
思うに、Push型の教育は、ビジネス化できる。世に沢山、予備校だとか塾だとか資格学校だとかがあるのを見れば明らかだ。ところが、Pull型の成長は、ビジネスになりにくい。「学びに行く態度」を教えるには、マンツーマンの部分が必要であり、マスプロ教育の大量生産に比べるといかにも効率がわるいからだ。
それと同じことで、今の世間のPM教育には「応用」への道筋が欠けているように感じられる。基本レベルは、たとえばPMBOK Guide(R)でカバーできる。そこには有用な知識情報がライブラリ化されている。そしてPMP資格のための教育プロバイダーも多い。だが、本当は「PMBOK以降」への準備が同時に必要なのではないか。PMPは出発点に過ぎない。PMBOK以降も自分で考え、学び続けるための方法と場所がいるはずだ。だからこそわたしは、研究部会の仲間とともに、PMを学ぶためのオルタナティブな仕組みを構想しているのである。
最近、職場の大先輩が語っていたのだが、仕事はあるところから面白くなる、という。最初のうちは覚えることも多いし、担えるのは小さな役割に過ぎない。しかし基本レベルをマスターして、うまく先に進めると、Pushで与えられた専門の枠を超えて、周囲も巻き込んで大きな仕事をつくれるようになる。そして複利計算的に、自分を拡大再生産できるようになる。学ぶ能力自体が資産になるのだ。この大先輩は、基本から応用にジャンプするための、Pullで学ぶ力を身につけたからだろう。
学ぶ力とは、潜在的な能力をみずから獲得するための力である。すなわち学ぶ力とは、能力を得るための能力だ。それを身につけることは、単なる「即戦力」などの教育よりも、ずっと大切なことなのだ。
「教育の目的は、自分たちが聡明ではないことを教えることである。」(アラン・ケイ)
大学3年生の時、専門科目の学生実験があった。わたし達の班は「流動層の伝熱測定」という課題が与えられた。流動層というのは、丸い円筒形の容器の中に、細かな粒子(粉体)を半分くらいまで入れて、容器の底のノズルから気体を送り込んでやる装置だ。気体の流量がある点を超えると、それまでは単なる粉の集まった固体のように見えた層の中に、急に泡が生じて、全体がまるで液体のようにふるまい出す。これを流動化速度と呼ぶ。中で起きているのは、固体と気体とが混じり合って、液のような乱流を示す現象だ。化学プラントでは、細かな触媒粒子を使う化学反応で、反応熱が大きいときに、よくこのような装置を使う。中が良く混ざるので、熱がホットスポットのように集中しないですむからだ。
さて、わたし達の班は指定された運転条件で実験装置を動かし、得られたデータを元に計算した。ところが、教科書に載っている伝熱係数の推算式と、結果が3割も違う! どうしようか。皆で相談したが名案もなく、また実験を最初からやり直す時間もなかった。わたし達は、結果の面接を担当するK教授のところに、おそるおそる行った。K先生は当時、学会長をされていた著名な学者である。にこやかな方だが、学生から見るとちょっとコワい。どうなるだろう。もしかしたら居残り再実験を命じられるだろうか・・?
ところが、K先生はわたしたちの班のレポートのグラフを見て、一言「良く合っているじゃないですか」と講評された。え、良く合ってる? だって3割もずれてしまったんですよ。すると、K先生は笑いながら、その後わたしが一生忘れない言葉を口にされた。「これだけ複雑な現象の挙動を推算する式なんだから、精度はそんなものですよ。」
わたしの専門は化学工学だ。英語で言うとケミカル・エンジニアリング Chemical Engineeringである。これは化学プラントの設計論なのだが、そうか、その中心となる反応装置の設計の精度って、ときには3割も違うことがあるのか。もちろん、わたし達の実験が拙劣だったという事情もあるだろう。だが、両対数グラフでばらつく点群から、むりやり相関をとった推算式なのだ。1-2割程度ずれても、意外ではない。いやむしろ、これほど複雑な現象に対して、なんとか1-2割程度の誤差で推測できるモデル式を作れる工学の力が偉大なのだ。
帰り道に、班の仲間がいった。「それにしても、電気・電子工学の連中がきいたら驚くだろうな。電気回路の実験なんか、3割どころか3%ずれたって大目玉だろ。それだけ精密な分野なんだもの。」 わたしも考えた。「彼らは、結果を正確に予測できる分野にいるのだ。あいにくぼくらは、違う。」
その後、エンジニアリング会社で働くようになったわたしは、何年かして奇妙なことに気がついた。わたし達の業界では、プロジェクト・マネージャーという職種が一番大事である。プロマネは偉い。個人が偉いのではなくて、プロマネという職種が、あらゆることの最終決定と責任を持つエラい『役割』なのだ。ただ、わたしの勤務先には百人単位のプロマネたちがいるが、有能な人、業界で名を知られて上位に上がっていく人たちには、ある傾向が見えた。
それは、有能なプロマネにはなぜか、化学工学と土木工学の出身者が多い、という事実だ。わたしは直接、統計的なエビデンスを示すことはできないが、経験的にそう感じる。エンジニアリング会社というのは工学のデパートみたいな所で、機械・電気・建築・制御・・と、ほぼありとあらゆる分野の専門技術者がいる。他方、日本には「プロジェクトマネジメント学科」をもつ大学は事実上1校しかない状態で、プロマネのキャリアは普通、別の専門技術を学んだ者がなっていく。だから、あらゆる専門の出身者がプロマネにいて良い訳だし、中には文系出身者だって立派にいる。
それなのに、なぜか先の二つの工学の出身者が、プロマネの中ではいやに目立つのである。わたしの業界には俗に「御三家」と呼ばれる大手3社があるが、何年か前は、3社の社長がそろって土木技術者、それも東北大学の土木科出身だったことがある。皆、プロマネ経験者である。国内だけではない。海外の同業他社でも、優秀なプロマネのキャリアを見ると、ああ、この人もシビル・エンジニアかケミカル・エンジニアだったんだ、と感じることが多いように思う。
(念のため言い添えておくが、この2分野だけからプロマネが出ている、などと主張しているのではない。機械出身の優秀なプロマネや電気出身の有能なプロマネだって知っているし、いろんな出身者が事実いる。だが、化工屋と土木屋がなぜか他より少し目立つのだ)
これは、なぜだろうか?
断言していいが、大学の化学工学科は、マネジメント教育にあえて力を入れたりはしていなかった。少なくともわたしの時代はそうだ。わたしは今、出身学科に頼まれて、年に2コマだけプロジェクト・マネジメントを教えているが、たぶんそれで全部だ。ではなぜ、プロマネを多く輩出できるのか?
たしかに化学プラントのプロジェクトでは、基本設計を担うのは化学工学出身者だ。プロセス産業では、最初の基本設計をプロセス設計とよび、これを担当する技術者をプロセス・エンジニアないしプロセスシステム・エンジニアという。しかし、基本設計の担当者だからプロマネになれる、というほどこの分野のプロジェクトは単純なものではない。それに、土木はどうなのか? こういっちゃ失礼に聞こえるかもしれないが、土木設計はプラント設計の中心とは、言いがたい。必須で、とても大切な仕事だ。だが、機器や配管を支えるための架構や土台の設計で、むしろ縁の下の力持ちに近い。なぜ、ここから有力なプロマネが輩出するのか?
模範的な答えは、たぶん、「シビル設計と工事は、プロジェクト全体のクリティカル・パスに乗ることが多いから」かもしれない。たしかに、架構や基礎は、最後に設計が決まって、最初に施工しなければならない。設計というのは、ふつう上から下に進む。上物の重量や位置が決まって、はじめて下の設計ができるからだ。そして工事というのは、下から上に積み上げて進むしかない。だから、シビル工事はつねに最後まで図面が決まらず、最初に手をつけなければいけない。クリティカル・パスに乗りやすいから、彼らはプロジェクト全体を見て仕事をする経験を積むことになる・・
たしかに、その通りだ。だが、クリティカルになりやすいといえば、配管だとか回転機だとかだってそうだし、制御弁だって空冷熱交だって受電設備だって、そうではないか。機械工学や計測工学や電気工学にだって、チャンス(?)はほぼ、公平なのだ。なのになぜ、化工屋と土木屋なのか。
わたしの推測は、「化学工学と土木工学では、意外な事態が出現しても、あまり動じないから」ではないか、というものだ。結果が3割違っても、化学工学者が驚かないことは、最初に紹介した通りだ。では土木は? 土木の世界では、「しょせん掘ってみないと分からない」という言葉が表している。土木工学は地面とその下を相手にする仕事だ。理論はある。推測もある。だが、地面を掘ったら何が出てくるか、じつは分からない分野なのだ。でかい石塊かもしれない。岩盤かもしれない。遺跡だったりすることもある。だが、それに一々驚いていては、シビル屋の仕事にはならない。
理論はある。推測式もある。だが、意外な事態に動じない。内心、驚きはするだろう。だが、そこからすぐに回復する。推測が当たらなかったからといって、「こんな推測はナンセンスだ」などと言いもしない。だってモデル化と推測は工学の命綱なのだ。それを捨てたら、ほんとに何の根拠もないバクチになってしまう。工学と博打は違う。似ているように見えるかもしれないが、違うのだ。
マネジメントという仕事の要件について、わたしはずっと考えているし、人に教えたりもしている。マネジメントという仕事の中核には、「人を動かす」という行為がある。他人に働いてもらって、共通の目的を達すること。自分で直接、手を動かすことはマネジメントとはいわない。このことは、本サイトでも繰り返し書いている。しかし、それと並んで、必要なことがある。それは、「先読み」と「決断」の能力である。
先を読んで、手を打つこと。これがマネジメントとして重要だ。先を読まないマネージャーなんて、何のためにいるのか分からない。ダメなマネージャーは、ただ目の前の問題つぶしだけにかかずらう。目の前のボールを反射的に追いかけるだけの、ダメなサッカー・プレイヤーのように。先を読むということは、計画を立てるということだ。計画はマネジメントの重要な一部で、だからこのサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』なのだ。
だが、「決断」については、もう一つ、死活的に重要なことがある。それは、予想外のことが起きても動じない、ということだ。リーダーは、簡単にうろたえてはいけない。たとえ驚いても、感情的にアップセットしてはいけない。なぜなら、ネガティブな感情に動かされているときは、決して良い判断ができないからだ。
意外性に動じない心を持つために、大事なこと。それは、先読みの予測が当たらなくても、あまり驚かないこと。とくに自然現象ではなくて、人々を相手にしたときには、なおさらだ。人を動かすことの複雑さ・予想のつかなさは、流動層の比ではない。自分で予測はするが、予測の精度について限界をわきまえていること。土木と化工の二つの分野は、たぶん、こうした覚悟を早い時期から身につけざるを得ないのだ。それが、良きプロマネを生み出す土壌になっているのだろう。・・これがわたしの想像である。そういえば、GEの伝説的経営者ジャック・ウェルチも、化学工学出身だったな。
だからといってわたしは、企業がもっと土木や化工出身者を重用すべきだ、などといっているのではない。それにこのわたし自身、化学工学の出だが、業界に名の知れたプロジェクト・マネージャーという訳でもない。出身だけでは、動じない力は決まらないのだ。
では、どうしたらいいのか? 動じない心、といえば、度量の大きな人物の特徴である。まるで西郷隆盛か誰かみたいな。だが、西郷さんのような器量の大きな人物に生まれつかなかったわたし達は、どうしたらいいのか?
わたし自身が動じやすい人間だから、ここから先は、推測である。
まず、「ああすれば、こうなる」式の予測は当たらないこともある、という認識を身につけること。これは最低条件だろう。
その上で、たぶん大事なプラクティスが三つある。まず第一に、推測・予測には精度があり、その有効範囲があるということを、きちんと意識し共有することだ。工学的な推測だけではない。法律上の、あるいはビジネス上の予測についても、同様だ。当たらない可能性は1?2割あるな、といった判断を、意識の上にのぼらせること。あるいは言葉にしておくこと。精度がわるいときには、フォールバック・プランとか保険をかけるとかいったことも、手を打っておく。そうすれば、意外な事態に驚いても、動揺は小さくなる。
二番目に、リスク・マネジメントをきちんと実施すること。とくに、事前のリスク・アセスメントを、複数の仲間で一緒に行うこと。計画している事柄について、起こりうる事象を、よってたかって洗い出し、その発生確率や影響度を、ラフでもいいから数字で考えてみる。これは一人でやるより、複数の目で見る方が、絶対に有用だ。こうすれば、想定外な事象は少なくなる。
三番目。これはなかなか難しいことだが、自分の感情をコントロールする訓練をつんでおくこと。感情筋を鍛える、とでもいおうか。リーダーにとって、一番まずいのは感情的になること、つまり自分の感情に自分が乗っ取られる事態だ。部下から見て、感情的なリーダーほど始末におえないものはない。それは誰しも経験があるだろう。
自分の感情をコントロールするにはどうしたらいいか。それには、まず、「自分は今、どのような感情を持っているか」を自覚することが大切だと、心理学は教える。自己チェックすることで、自分の感情を対象化できるからだ。対象化したからといって、すぐにその感情が消え去る訳ではないが、それでも無意識に振り回されることからは、多少避けやすくなる。こうした感情のトレーニングは、若いときに、意識して訓練をしておく方がよい。自分の経験でも、管理職に就く中年になってからでは、遅いと思う。
感情をコントロールするとは、決して感情を押し殺すことではない。また感情を表に出さぬよう、能面のように我慢することでもない。そうした無理は、むしろ害がある。感情はわたし達の生活を豊かにする、一種の資源である。わたし達はむしろ、感情を豊かに育てる必要がある。そうすることで、妙に歪んだり暴発したりしないようにできるのだ。
まあ、こんなことは、わたし達の文化や教育の中には、あまり根付いていない。わたし自身、だいぶん遅くなるまで気がつかなかった(おまけに短気だし気が小さいし、ずいぶん人に迷惑をかけたろうと思う)。ただ、一つ方法がある。それは、ネゴシエーション=交渉の練習をすることだ。交渉は感情的になったら負けだし、感情を読まれるだけでも不利になる。絶好のトレーニングの機会なのだ。だからこそ、わたしは自著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」の最後の章に、あえてネゴシエーションの練習風景を入れたりしたのだ。
世の中のことは、なかなか、はかりがたい。余計なことだが、昨今は、海をはさんだ隣国の権力者の、予見しがたい判断や行動に、大勢が右往左往しつつあるように見える。法律や道徳やルールで権力者に枠をはめ、その行動の予見可能性を高めようとすることは、人類社会の知恵だと言っていい。予測可能にしておくことは大切だ。
だが、予測が外れたときにも、動揺して自分の判断が狂わないように、自分の心のレジリエンシーを高めることも必要なのだ。そこの重要性が、どうもわたし達の社会では、あまり認識されていない。「ああすれば、こうなる」の類いの、決まり切った予見、正解、公式ばかりが闊歩しているように見える。それはあまり安全なこととは、いえない。国家レベルのことはともかく、せめてわたし達の身の回りだけでも、もう少し「動じない心」を育てたいではないか。