考えるヒント(03)
合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2) (2006/11/10)
合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む (2006/10/29)
ホワイトボードの謎 - 在庫の「見える化」の効用 (2006/09/12)
科学の子 (2006/06/04)
必要な人はいつもたった一人しかいない - その原因と帰結
(2006/04/01)
必要な人はいつもたった一人しかいない
(2006/03/06)
Chirstmas メッセージ--若さと成熟 (2005/12/22)
システムとは何だろうか? (2005/11/26)
頭の良いおバカさんたち (2005/10/23)
スケールアップの法則 (2005/09/29)
モノを買うのか、機能を買うのか (2005/07/21)
決めない人々 (2005/06/21)
英語のLetterとSpirit (2005/03/27)
理系でもなく文系でもない (2005/02/06)
合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2)
(2006/11/10)
前回書いた「囚人のジレンマ」の問題をセミナーなどで説明し、自分ならどの行動をとるかを聴衆にたずねてみると、過半数はやはり『自白』を選択すると答える。つまり、相棒がどちらの行動に出ても、自分のこうむるリスクを最小化する方を選ぶというのだ。すなわち、自分の損得というミクロな観点から言えば、きわめて合理的な判断である。
その同じ判断が、分業化した会社の中でもしばしば行なわれる。たとえば、こうだ:購買部門は安い資材部品を納期通りに調達することを、部門の目標として与えられている。だから、他の部門から手配部品の納期を聞かれたら、長めに答えることになる。短い納期見積を答えて、サプライヤーがそれに応じられなかったら、購買部門の失点になるからだ。リスク最小化の原理である。同じ理由で、発注ロットサイズをたずねられたら、多めに言いたくなる。その方が安く買える可能性が高いからだ。つまり、納期は長めに、発注量は多めになりがちだ。
一方、設計部門はどうか。業績評価の尺度は、設計の品質と稼働率だ。品質自体は直接測りにくいから、同じ性能や顧客仕様を満たすために、どれだけ経済設計できるかでおきかえられる。部品数が少なく、重量や肉厚がぎりぎりまでしぼってあるほど良い。こうなると設計の期間は長くなりがちだし、手配部品も個別仕様品が増えていく。でも、標準部品を使って設計マージンが大きくなりすぎたら、失点になる。多少手間はかかっても、稼働率も上がったほうが文句を言われない。客のわがままな仕様のせいにすればいい。
資材倉庫部門はどうか。材料出庫指示が来たとき欠品だと、製造部から文句を言われる。いきおい安全在庫レベルは高めにとることになる。手配も早め早めにかけることになる・・。
おわかりだろうか。どの部門もリードタイムは長め長めに、在庫量は多め多めに動くことになる。各部門がそれぞれリスク最小化のために、余分なサバ読みを行なっている。それが部門レベルで合理的に行動した結果だ。だが、その結果、会社レベルではどうなるか。あきらかに高コストで長納期、競争力のまるで無い状態に陥るのだ。分業の発達した企業では、こうしてあちこちで囚人のジレンマが発生する。全員が合理的に行動して生まれる事象だから、“馬鹿者”と一喝しても、“もっと頑張れ”と尻を叩いても、いよいよ事態は増長するばかりだ。
それでは、どうしたら良いのか? ある意味、答えは簡単だ。『囚人のジレンマ』はゲーム理論で言う「非協力ゲーム」であり、相棒と意志疎通できないことが障害になっている。一言でも話ができて、“一緒に罪状を否認しよう”と協力を合意すればジレンマを脱出できる。だから、会社だって部門間の壁を超えて話し合えば、良さそうな気がする。
しかし、月次の生販会議も毎週の設計工程会議もやっているのに、解決しないのはなぜなんだ。そう自問自答する人も多かろう。それは、皆が「非協力の結果」を理解していないからなのだ。前回の説明で、“二人のくらいこむ年数の合計”の表を見てほしい。これが、組織全体の収支の表だ。
ところが製造業の場合、誰がどういう行動をとると全体がどうなるかが、じつは直感的には分かりにくい。安全在庫水準を5割増やしたら、あるいは調達リードタイムが3週間延びたら、コスト競争力にはどう響くのか? こうしたことは、生産という巨大なシステムのふるまいを対象とした、正しい生産管理の理論を知らないと、正確には答えられない。
分業病は各部門にたいして、異なる評価尺度を与える組織に起こる病気だ。真に解決するには三つの方法しかない。一つは、全員に正しく生産管理を理解してもらうこと。これは理想だが、かなり遼遠な道である。第二は、全体を見通すコントロールセンターの部署を作って、手配指示はそこから出すようにすること。これは計画系機能の強化策である。第三は、各部門の評価尺度を、全体最適を実現できるような矛盾のないものに変えてしまうこと。組織の中の人間は、しょせんモノサシで動かされる存在である。そして、なにより、部分的な合理性をつみ上げても、全体のマクロな合理性は生まれないことを知るべきなのだ。
合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む
(2006/10/29)
企業が変わることは難しい。緩やかな景気拡大が続く中、新規設備投資やIT投資が行なわれるようになり、それに並行して業務を合理化しよう、生産を革新しよう、という運動も活発になってきた。しかし、目に見える工場ラインやコンピュータ導入に比べ、目に見えにくい業務運用のソフト部分は、なかなかうまく変えられない。業務改革プロジェクトを立ち上げて何度か会合を開いても、“総論賛成・各論反対”でなかなか前に進まない--こんな話を、旗振り役の部署の人から聞くことも多い。
会社が変わらないのは、従業員の頭が固くて保守的なせいなのか。はたまた企業文化や風土のせいなのか。どちらも違う、と私は考える。会社がマクロな不合理に陥っているのは、各人が合理的な意志決定をつみあげたせいなのだ。製品納期が遅れたのも、部品在庫や仕掛品が山のようにあるのも、そのくせ肝心な部品が欠品するのも、皆が残業また残業で疲弊しているのも、じつは各人が合理的にふるまったせいなのだ。
なぜそのようなことが起きるのか? その理由は、経済合理性の背後にある『リスク最小化の原理』にあるのだ。だが、理由をを紐解く前に、ちょっとこういう問題を考えていただきたい。
いま、ここにギャングXとYがいる。彼ら二人は共謀して、銀行強盗を働いたばかりだ。しかし逃走して潜伏中に、別々に警察に捕まってしまう。警察は二人が銀行強盗だとにらんでいるが、直接の物証がない。そこで微罪で別件逮捕したのだ。警察は彼らを(共謀できないように)別々の留置場に収監して、銀行強盗の自白を迫る。相手が罪状を否認しているとき、自分だけが自白すれば、司法取引により自分は無罪放免になる。逆に自分が自白を拒否して、相手がしゃべってしまえば、自分は懲役7年は覚悟せねばなるまい。
自分も相手も互いにしらを切り通せば、二人とも微罪で1年収監程度で済む。逆に二人とも自供してしまえば、改悛の情を一応見せたことで懲役5年程度ですむだろう。このような情況の時、あなたがギャングXだったら、どのような行動をとるべきか。自白か、否認か?
このような状況下での合理的な決断について、考えてみよう。相手はどう出るか分からないし、連絡もとりようがない。そこで自分の選択と、相手の選択で合計4種類のシチュエーションが想定される。それを、下記のような行列で表現する(これを利得行列と呼ぶ)。単位は年数で、懲役だからマイナス値で表示してある。
自 分
否認
自白
相手
否認
-1
0
自白
-7
-5
もし、相手が否認した場合を想定してみよう。すると、自分も否認すると-1、自分が自白すれば0だ。したがって、刑罰のリスクが最小となるのは、自分が自白をするケースだ。また、もし相手が自白したらどうだろう? 自分が否認するとー7、自白するとー5だ。この場合も、自白の方が懲役のリスクが小さい。
したがって、相手がどう出るか分からない不確実環境下で、自分がこうむるリスクを最小化するためには(「リスク最小化の原理」)、自白することが『合理的』だと判断できる。
ところが、よく考えてほしい。相手も、同じ情況なのだ。だから、相手も自白するのが『合理的』だと判断する。その結果、どうなるか。二人とも自白して、ともに懲役5年である。二人が一緒に否認すれば、1年で済んだのに! いや、それどころか、二人の懲役年数を合計すると、次の表のようになる。
自 分
否認
自白
相手
否認
-2
-7
自白
-7
-10
これから分かることは、共に自白すると、二人組という組織にとっては最低の結果に陥ることである。リスク最小化原理に沿った“合理的”行為をつみ上げた結果が、組織にとってはもっとも不合理な結果を生む。これが、ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」の物語である。
それでは、企業内にとって、いかに囚人のジレンマに似た状況が生まれてくるのか。また、そこから脱出するためにはどうしたらよいのか。少し長くなってきたので、この続きはまた書こう。
私は世界中のオフィス事情を知っているわけではないが、「電子黒板」は他国に比べて日本が圧倒的に普及率が高いように感じる。米国のオフィスはあいかわらずフリップ・チャート(flip
chart)が主流だ。フリップ・チャートとは、油絵のイーゼルみたいな台木の上に、白い紙を何枚も重ねたもので、1枚書き終わるとめくって次の紙を出すようになっている。なぜか彼らはこのローテクで安価な道具がお好きだ。フランスとか、ヨーロッパではホワイトボードをよく見かけたが、複写機能がないので、結局それをまたノートに写さなくてはいけない。せっかくきれいな図を書き終えて、さて、と思ったら複写できないのに気づき、がっかりしたことは一度や二度ではない。
それにひきかえ、わが国では電子黒板(正確には電子白板か)がよく普及している。何年か前、米国の自動化システムベンダーが私の勤務先に来て、あちこちで電子黒板を活用しているのに感心して帰った。しばらくしてから彼らのオフィスを訪問したら、真新しい電子黒板をうれしそうに見せて、“これでやっと俺達の会社も21世紀に仲間入りだ”とジョークを言っていた。
ところで、これほど便利なホワイトボードだが、私はその米国のオフィスで実際に打合に使おうとして、日本と全く同じ問題点を発見して、びっくりした。フェルトペンが、書けないのだ。書こうとすると、すぐにインクがかすれてしまう。別のペンを手に取ってみるが、そちらも同じだ。5,6本おいてあった中で、まともに書けたペンは1本もなかった。
このホワイトボード用ペンのインク切れ現象は、わが日本でもいたる所で遭遇する。どこかの秘密結社の陰謀か嫌がらせではないかと思うくらいだ。電子黒板を用いた打合の生産性は、おそらくインク切れ問題のために、どこでも2割くらい低下しているのではないか。日本でもアメリカでも、なぜ、この問題を放置しておくのだろうか? 不思議である。というのも、この問題を解決する、ごく簡単な方法を私は知っているからだ。
その方法だが、まず、透明なビニール袋を用意する。それを、電子黒板の枠にぶら下げる。そして、インクが減って書けなくなってきたペンは、そのビニール袋の中に、即座に捨てるのだ。そして、事務用品の担当者は、毎日、各部屋の電子黒板を見て回り、袋にペンが捨てられていたらそれを回収し、同じ色の新品のペンを置いておくのだ。ペンは、各色2本ずつ電子黒板に置いておく。こうすれば1本が書けなくなっても、まだ残りの1本は使える状態にある。
いつも不思議に思うのは、使えなくなったペンを捨てずにトレイに残しておくことだ。だから毎回、使おうとしても使えない問題に皆が遭遇する。たぶん、インクがある時点からすっぱり無くならないで、少しずつかすれていくから、捨てにくい心理が働くのだろう。だから捨て場と、補充の流れを作ってやれば、問題は解決する。
しかし、この問題の根本は、ペンに残っているインクの「在庫量」が見えないことにある。もしもインクの残量を外から見えるように何か工夫したら(フェルト式だから難しいとは思うが)、たぶんインク切れのペンがトレイに残っていることはなくなるはずだ。
「見える化」という言葉はトヨタ自動車が使っているおかげで、ずいぶんと普及した。しかし、ホワイトボードの謎を見ると、まだまだ本当の意義は浸透していないのかな、とも感じる。たとえば、見えない在庫量を見えるようにしてやれば、それだけでいくらでも工夫の余地が生まれてくるのだ。見えないと、誰も改善しない。
いや、もう少し正確に言おう。「見える化」の効用は、在庫削減や生産効率の向上もさることながら、イライラ感の減少にたいへん役立つのだ。ちょうど書けないペンを持ってイライラすることが減るように。それはカッコよく言えば、リスクの減少である。事実を見せれば、人間は馬鹿ではないから、落とし穴は避けて通れるのだ。
リスクのある環境では、われわれは余計な思考の労力と心配を必要とする。それを無くすることは、単なる能率の向上以上に、価値があるのだ。それは、以前ここに書いた「静寂の価値」にも通じることだ。在庫の「見える化」は何よりもまず、この点に意義を見いだすべきなのである。
Chirstmas メッセージ--若さと成熟
(2005/12/22)
Merry Christmas!!
久しぶりに大学の同期で集まった。化学工学科出身だが案外いろいろな職種に就いている。半導体・化学・石油・エンジニアリング・商社・特許事務所・大学教員・研究機関・・。そして、お互いに「変わった」とか「変わってないな」とか言いながら、酒を飲んだ。
変わった部分と変わっていない部分は、誰しも同じだ。肉体的には誰もが平等に、一年ずつ変わっていく。髪が白くなったり腹が出たりして。でも、変わらないのは心の方だ。不思議なことに、自分の心というものは、ちっとも歳をとらない。ような気がする。15歳の時から比べて、知識がふえ経験が増し、ガマンやら諦めやらも身につけては来たが、本質はちっとも変わっていない。
変わらないということは、成熟もしていないということだ。じっさい、不惑をとうに超えたのに、あれこれといつも惑っている。『まだ歳も四十でいれば面白き』という川柳があるが、じじつ不惑というのは、いかにも生煮えな自分がまだ残っているものだ、と感じざるを得ない。
そもそも「不惑」という言葉は、晩年の孔子が自分の生涯をふりかえって語った言葉からきている。“我十有五にして学を志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳従い、七十にして己の欲するところに従って、矩(のり)を超えず”--この一節はその後の人間観に、大きな影響を与えた。
たとえば、昔の武家の子息は15歳で元服する習慣だった。これは数え年だから、今で言えばせいぜい中学2年生である。それでも一応大人扱いされるようになったのは、なぜか。それは、我十有五にして、の一語があったからだろう。また、わが国では今でも参議院の被選挙権は30歳以上と決まっている。これは一人前の良識ある大人になるのが三十歳だ、との伝統から来た(40歳の「不惑」に対して30歳を「而立」と呼ぶ)。
ところで、心が歳をとらないというのは、実はウソだ。心だって、成長はする。少なくとも、変化する。それなのに変わらないような気がするのは、われわれが情報化社会に生きているからかもしれない。情報の特徴は、それをCDのようなメディアに焼き付けてしまえば、全く経年変化しないことだ。われわれの脳だって、記憶のメディアである。少しは取り出しに時間がかかるようになるが、コンテンツ自体はまず変わらない。
おそらく、そのおかげで、今日の人間は心の変化が肉体の変化に付いていけずにいるのだ。私は、この際、みなが自分の精神年齢を、肉体年齢の2割引にして考えた方がいいのではないかと、よく思う。そして、そう思えば、「近頃の若いもん」のやることにも怒らずに済むのだ。24歳にしては書く文章がお粗末、と感じても、まあ二十になったばかりじゃ仕方がないか、とあきらめがつく。自分だって、若くなったような気がして、楽しい。ウソだと思ったら、やってごらんなさい。なんだ、自分もまだ惑っていいのか、立ってなくていいのか、なんて思える。
しかし。よく考えると、それで良いのだろうか。なぜなら、上記の孔子の言葉を2割り増しで換算し直すと、こうなる--“われ18にして学を志し、36にして立つ。48にして惑わず、60にして天命を知る。72にして耳従い、84にして己の欲するところに従って法を超えず”--言いかえるならば、現代人とは、次のような人たちだ:
- 大学生になるまでは、自分が何を勉強したいのか分からない
- 一番元気の良い30代前半までは、自立できてない
- 社会的に最も責任の重い40代管理職のほとんどは、勇気ある決断ができない
- 社会を引退する頃、はじめて自分のなすべき使命に気づく
- 年金生活を謳歌しているときは、まだ若いつもりで他人の忠告を聞かない
- 自分の足で歩けるうちは、まだ煩悩や欲望が捨てきれない
いい加減にしてもらいたい、とも思う。しかしこれが現実への冷静な認識なのだろう。だって、新聞の社会面をこの目で見ると、じつに合点がいくもの。
思うに、われわれは余計な知識や情報を、未消化なまま背負いすぎているのだ。自分から、学歴もキャリアも消してみること。そうすれば、もう少し、素直な自分の姿が見えてくるのかもしれない。それによってはじめて、自分の若さを脱ぎ捨てて成熟に一歩近づけるのだろう。
そして、そんな作業は、心静かな、平和な時間でしか行えない。世界中が、とりあえず静かに、平和を願うこの季節こそ、私たちがみな平等に一つ歳をとり、また一つ成長するべき時なのだ。
「京都賞」をご存じの方は多いと思う。基礎科学・先端技術・思想芸術の3部門で、毎年世界の傑出した研究者に賞が与えられている。ある意味ではノーベル賞のむこうをはっており、数学・哲学・言語学・生物学・建築・音楽など『ノーベル賞のもらえそうもない分野の人を選んで賞をあげている』という印象もある。たとえば、K・ポパー、N・チョムスキー、アラン・ケイ、J・グドールなどの人が授賞している。
今年の京都賞基礎科学部門は、生態学者のサイモン・レヴィン博士が授賞した。彼は数理生態学・空間生態学の分野で若い頃から研究分野をリードしてきた人だ。そのニュースを聞き、私はとてもうれしく思った。というのも、たまたま昔、私はレヴィン博士の知遇をえる機会があり、彼の研究室を訪ねたり、あるいは来日した時は横浜の自宅に招いたりしたこともあったのだ。だから11月12日に京都で行われた記念シンポジウムには、私もはせ参じて、授賞を祝し、再会を喜びあった。
レヴィン博士の業績の一つに、"The Problems of Scales and Patterns
in Ecology"という論文がある。これは90年代を通じて最も広く引用された生態学の論文と言われる。彼の主要な研究テーマは、生態系(=エコシステムecosystem)のさまざまなスケールにおいて観察されるパターンと多様性が、いかにミクロな生物個体レベルのルールから生成するかを調べることである。生態学とは、エコシステムの機能と構造を研究する学問だが、彼はエコシステムが特定の目的と機能をもって存在するかのような目的論的見方とは異なる、パターン認識的見地から取り組んでいる。
初めて知り合ったとき、レヴィン博士はコーネル大学のCenter of Ecology and Systematicsの所長だった。私はSystematicsとは「システム科学」のことかとたずねたが、「いや、系統分類学の意味だ」との答えが返ってきた。系統分類! それをシステムと呼ぶのか。その時の驚きは、その後、英語におけるsystemの語の意味を深く知るようになるにつれ、次第に納得にかわっていった。たとえば、太陽系のことはSolar
Systemと呼ぶのだ。
「システム」というとコンピュータのことだと思う人は少なくない。いや、世の中の大多数だろう。技術の世界では、ガスタービン発電システムとか自動倉庫システムとか、ある種の機械的な仕組みのこともシステムと呼ぶことがある。しかし、私のように工場やら製品までをシステムと考える人間は少数派だ(「システムとしての工場、システムとしての製品」参照)。
製品がシステム? じゃあ、パン屋が焼くあんパンも、家具職人が作るテーブルもシステムだというのか? そう問いつめられると、私も、ちと違うな、と答えざるを得ない。「所定の目的を達成するために要素または系を結合した全体」「特定の機能を果たすように配置した、相互に関係するアイテムの組合せ」という定義(JIS工業用語大辞典)から見ると、4本の脚と天板からなるテーブルだってシステムに合致して良さそうなものだ。だが、どうも要素が静的に結びつけられた構造は、今ひとつ「システム」というイメージに合わないのだ。
「システム」という語がフィットするものは、どうやら動的な機能や特性をもつものに限られるようだ。ジェームズ・ワットの発明した蒸気機関は、回転数を安定化させるための巧妙な調節弁の仕組みをそなえていたが、ここらへんがシステムの始まりらしい。彼のフィードバック制御は機械要素の組合せで実現していたが、目的は力を伝達することではなく、制御にあった。
つまり、「制御」の有無こそ、システムを単なる部品の集まりから区別する鍵なのだ。そして、制御のために、一種の神経系統をもつこと。現代ではこの神経系の役割をたいていコンピュータが果しているので、「システム=コンピュータ」という思いこみが固定化したのだろう。たしかに、テーブルのように部品材料の寄せ集めだけでは、動的特性は発揮できない。
「システム」が制御機構を持つ動的な仕組みである以上、システムの『価値』も、その動的特性にある。だからこそ私は、「工場という名のシステム」は“計画・指図・報告”という制御機能のよしあしで性能が変わりうることを、くり返して主張したいのだ。
しかし、こうして見てみると、日本語の(=JISの)システム概念は、かなり「目的」「機能」にしばられていることが分かる。太陽系やら生物系統分類やらも含む英語のsystemからは、かなりずれている。英語の世界のsystemとは、せいぜい「一つ一つの要素を数え上げずとも、系統的に、頭を使わずに展開できるようなまとまり」という程度の意味しかない。
無論、生態系ecosystemの中には、全体を安定させるフィードバック的な仕組みも確かに存在する。しかし、生態系には「目的」はない。自然界に存在するものには、特定の目的はなく、しいて言えば、「存続自体を目的と見なせる」程度なのである(レヴィン博士が目的論的見方を退けるのは、この危険性があるからだろう)。企業もこれに似ていて、本来は何らかの目的があって結成されたはずなのだが、多くはもはや目的を失って、存続自体が自己目的化してしまっている。こんなところにシステムの機能論を持ち込むのは、場違いなのだ。
私は、あまりにも多義語化している「システム」の概念を、もう一度、再整理すべき時が来ているように思う。たぶん、システム・場・メカニズムなどの使い分けを、もう少しきちんとするべきなのだ。そして、それこそ「システム・アナリスト」の最重要な仕事だと思う。なぜなら、これを怠ると、システム分析の仕事自体が、ひどく混乱したものになってしまうに違いないからだ。
今回は、「論理的だがシステマティックでない人」の続きだ。
歌を歌いながら、頭の中で数を数えられますか? --誰かにそう聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか。
ノーベル賞物理学者のファインマンは、これができたという。なかなか面白い資質だ。そう思いながら、ためしに自分もトライしてみたら、一応不器用ながらもできることに気がついた。だからといって、私がファインマンなみに頭が良いわけではない。第一、私は高等数学が苦手だ。
その理由はなぜかというと、頭の中での代入操作が下手だからだ。頭の中にひとつの記号を保持しておいて、それを別の記号で連続して置き換えていくような『演繹』的操作ができない。数式の展開や、複雑なプロットのミステリーはとまどうばかり。囲碁将棋などでは「3手先を読む」こともできないので、人に勝てたためしがない。私が好きなのは、『帰納』的に情報を集約することで、「それは要するにこうでしょ?」と乱暴な断定をして、人をあきれさせるのが得意技である。
ついでにいうと、私は年々歳々、記憶力の減衰を実感している。とくに、短期記憶が弱い。意味のない記号列や、単語だけの記憶力が弱いので、ひどいときには同僚宛の電話の伝言を受けて、受話器を置いた瞬間に相手の名前を忘れていたりする。“なんて頭がわるいんだ”と自分でもあきれる。聞いている最中に紙にメモしないと、頭に残らないのだ。
世界史の年号暗記なども学生時代からひどく不得意である。そもそも、理解しないものごとを暗記することができないのだ。ただし、長期の記憶、それもエピソードや五感や情動に裏打ちされた記憶は、それなりに頭の中に残る。
だが、そもそも「頭が良い」とは、どのようなことを意味しているのだろうか? 心理学者のC・G・ユングは人間の心理的な類型を、『思考型』『感情型』『直感型』『感覚型』の4種類に大別した。どうやらここに大きなヒントがあるようだ。元のドイツ語と日本語の訳語(漢語)の対応が良くないので、わかりにくいが、思考型の人間は言語的な論理性を中心に演繹的にものを考える傾向があり、直感型は非言語的なパターン認識能力によって帰納的にものを判断するのが得意であるらしい。私は明らかに直感型に属するようだ。つまり、思いつき型、である。これは私の家族も同僚も苦笑しながら同意してくれると思う。
私のような直感型の人間にとって、筆記試験のための勉強とは、暗記でも論理性のトレーニングでもない。「出題者はこの種の問題でどいういう答えを求めているのか?」を推測するための、パターンの検出こそが試験勉強なのだった。出題者は受験者の論理能力とか、記憶力とかを、たぶん測るつもりでいるのだろう。しかし、私は、他人のモノサシを検出する能力を磨くことで、試験をくぐり抜けてきた。
日本では、記憶力の良い人、勉強がよくできる人を指して、「頭が良い」と評することが多い。しかし、こうしてみると、頭のよしあしの方向というものは、いろいろあるのだ。それはちょうど、身体能力といっても、いろいろあるようなものだ。目が良い、足が速い、動作が俊敏である、力が強い・・頭が良いという性質は、こうしたことと同列のことでしかない。
かつて狩猟と採集の時代には、目が良いことや足が速いことは、とても生存に有利だったにちがいない。農耕の時代には、力が強いことが大事だったはずだ。手工業の職人の時代なら、手先が器用である、とか。どの能力が幅を利かせるかは、その時代の生活様式によって決まる。
ポスト工業時代の現代は、「頭の良い」人たちがいろいろと幅を利かせる時代である。試験勉強がお上手で、良い大学を出て高学歴を誇る人たちは、自分たちが赤の他人に命令する天賦の権利を持つ、ひとかどの人間であると考えるらしい。若くしてキャリア職やマネージャー職について、采配を振るうことになる。お勉強上手の人たちは、「わかる」ことと「知る」ことの違いを気にかけない。そんなことに煩わされていたら、よくわかりもしない事象について、本社から末端現場に指示を出せなくなってしまう、というわけだ。
“日本を代表する自動車の2大メーカーのうち、片方の企業は一時、まったく東大出の人間を採用しなかった。もう一方の企業は、東大出をどんどん採用し続けた。その結果はどうだ。会社としての実力は完全に差がついてしまったではないか”--そんな話を昔、父親から聞いた記憶がある。真偽のほどは定かではない。しかし、後者の企業はプレゼン上手な人が出世する、というような噂を聞くと、さもありなん、と思ってしまう。
お勉強上手なだけの「頭の良い」人達の話を、あまり鵜呑みにしない方がいい。彼らは自分の頭のよさを証明するために生きているような人が多い。だから自分のロジックに酔うのだ。狭いスコープの中で自分の論理性をひけらかすのに忙しくて、マクロな視点から問題を捉えることを怠る。モノサシを疑えないのだ。
大事なことは、賢くなることだ。私はこの言葉を、頭が良い、とは別の、人格を含めた意味で使っている。両者は、無関係の属性だ。大した教育は受けていなくても賢い人は賢い。頭が良くておバカな人も多い。頭のいい人は与えられた問題を解く。しかし、賢い人はより適切な問題を提示する。
そして、こいつが難しいのだ。頭の良さは、大学で学べば少しは磨かれる。しかし賢さは大学では学べない。そもそも、教えたり教えられたりできることではないのだから。
高校の物理の教科書に、口絵としてのっていた写真を、今でも良く覚えている。水らしき流れの中に円柱が立っていて、その回りの流れと渦の模様が、美しく写し出されている。キャプションには「この写真を見て、円柱の大きさをあてられるだろうか?」と書いてある。そして、ページの下の方に、追加の説明がこうあった。
「じつは、円筒のまわりの流れの模様は、その円筒の大きさや流れの速さにはよらず、
円筒の径×流れの速さ
----------
流体の粘度
で計算される値(レイノルズ数とよばれる)が同じならば、同じパターンになる。」
と書かれていた。10cmの大きさの円柱が10cm/sの水流にあるときと、1cmの円柱が100cm/sの中にあるときの流れのパターンは、同じになる。これを『流れの相似則』と呼ぶ、逆にいうと、流体の中で流れの模様だけを見ていても、その現象の固有の大きさを推定することはできないのだ。
残念ながら、教科書の本文のどこを読んでも、それ以上の説明はなかった。流体力学は、なぜか高校の物理では一切教えないのだ。その先を知るには、大学の専門課程まで待つしかなかった。
大学では化学工学を専攻した。化学工学(Chemical Engineering)というのは、化学工場の設計論を中心とした工学だ。アメリカでは機械工学とならぶ人気科目だが、日本ではひどく知名度が低い。これは石油・ガス資源のある国と、無い国の差かもしれない。「化学」全般の人気の薄さも手伝っているかもしれないが、じつは化学工学が扱うのは伝熱や拡散や流動といった物理現象がほとんどだ。化学それ自体はあまり知らなくても間に合う。化学が「何を」つくるかに関する学問だとすれば、化学工学とは「いかにつくるか」に関する技術論なのである。
化学者がフラスコとビーカーで化学反応の方法を確立したら、化学工学のエンジニアは、それを工場規模で連続大量生産するにはどういう装置の組合せが必要かを考えるのが仕事だ。これを「スケール・アップ」と呼ぶ。化学工学とはスケール・アップの技術論なのだった。
ところで、面白いことに、理科の教科書にのっていた「レイノルズ数」がここで役にたつのだ。実験室のフラスコだろうと、プラントの巨大なタンクだろうと、レイノルズ数が同じならば、その中の流れは同じになる。したがって、小規模な実験装置のデータから、大規模の工業装置へのスケールアップが可能になるのだ。流体力学の基礎方程式はナヴィエ=ストークスの式という微分方程式だが、この式は非線形性が強くて、そのままでは簡単に解けない。しかし、レイノルズ数を用いれば、直接解かなくても流れのパターンを予測できるのだ。
ちなみに、レイノルズ数が小さい内は、流れは「層流」と呼ばれる、落ち着いた、秩序だった流れでいる。しかし10,000を超えると、流れは「乱流」の状態になる。もはやランダムな動きのかたまりとなり、それは厳密な予測の不可能な、カオス状態になってしまう。だが、乱流には別の意味で、マクロな統計的規則性があるのだ。水の粘度はほぼ0.01[cm2/s]程度だから、水の中でちょっと手を動かすと、すぐ乱流をつくれる。
レイノルズ数は、上の式を計算するとわかるように、cmだとかsecだとかの単位系がない。そこで無次元数と呼ばれる。化学工学では、レイノルズ数に類する無次元数の概念を多用する。シャーウッド数、ヌッセルト数、シュミット数・・。伝熱や拡散などをともなう、複雑な物理現象を工学的に取り扱うにには、無次元数による相似則がきわめて有用だ。
化学エンジニアとして仕事をし始めてから、ずいぶんたつ。その間に、私は次第にシステム・アナリストやプロジェクト・マネジメントの職域に移っていった。しかし、無次元数と相似則の概念は、私にはいつでも有用なアナロジーを提供してくれる。極めて多数の要素からなりたつ系の、複雑な現象をモデル化しなければならないとき、私は『相似則』を無意識に探し求めている。それは、一見ランダムな現象の後ろ側にも、マクロな法則性が隠れているはずだという私の信念を、支えてくれているのである。
フランスの北東部にエペルネという街がある。特急の乗換駅で、葡萄畑に囲まれた田園地帯の小さな都市だ。ところで、あまり知られていないことだが、このエペルネは首都パリを追い抜いて、住民の平均所得が全仏で一番高い、豊かな街なのである。
なぜこんな田舎の町が豊かなのか。それは、このエペルネが、シャンパーニュ地方の中心の一つであり、モエ・エ・シャンドンをはじめとするシャンパンの有力ブランドのメーカーを多数抱えているからだ。
シャンパン工場は見学するとなかなか面白い。瓶内発酵をさせるため、貯蔵庫は岩盤をくりぬいた半地下にあって、温度・湿度の変化を避けている。しかも、BOMの観点から見ると興味深いことに、シャンパンは製品の一部を、次の年度の製品仕込みのための原料に使っている。BOMにリサイクルがある、「Q型」の構造をしているのだ。これは毎年の品質を一定に保つための知恵である。
法律で決めた産地呼称制限によって、シャンパーニュ地方の限られた葡萄畑から作られる発泡性ワインだけがシャンパンと名乗ることを許されている。発泡性のワインはフランスに限らずイタリアにもスペインにもあって珍しくないが、シャンパンだけが特別に珍重され、値段が高い。買い手がそこに「価値」を見いだすからだろう。だが、それはどのような価値なのか。味? 香り? 品質への信頼感、それとも希少性?
話は急に飛ぶが、かつてIntel社が新型のCPUを発売したとき、数値演算コプロセッサを内蔵したタイプと、内蔵しないものと、二種類を同時に売り出したことがある。昔の話だ。しかし、非内蔵型というのは、実はコプロの回路パターンは焼き付けてありながら、単にその機能を呼び出す部分を殺して売っていたことを、後になって知った。それを聞いて、なんだかひどくアンフェアな、買い手をばかにした商売の仕方だと感じた。むろん、そうした方が、二種類のパターンを別々に開発するより、安上がりなことは理屈では分かるのだが。
いったい、モノの値段というのは、どうやって決まるのか。買い手から見た価値のあり場所はどこにあるのか。私はそのことを、ずっと考えている。
シャンパーニュ地方では、葡萄が大豊作になり、収穫量が出来すぎると、あえて収穫せずに捨てておくという。そうやって、シャンパンが供給過剰になり、価格が低落するのを防いでいるのだ。彼らの高収入は、必要とあらば高品質な原料さえ捨ててしまうことで成り立っているらしい。大人の知恵、というべきなのだろう。しかし、その話を聞いて感じる居心地の悪さは、IntelのCPU生産方法を知ったときの奇妙な憤りに、どこかで通じている。
「BOM/部品表入門」を書いたとき、私はあえて、『マテリアルとは何か?』という問いを最初の部分に置いた。それは、自分に対する問いかけでもあった。マテリアルとは、物質的な実在があり、在庫可能で、所有権を売買し移転できる性質のものだ。そこがサービスや情報とちがう。しかし、それではマテリアルの値段とは、何で決まるのか? 百グラム何円という単価は、誰が定めるのか。
マテリアルの価値を定めるのは消費者であり、単価はその需要量と販売者の供給量のバランスから決まる。そして消費者にとっての価値とは、そのマテリアルの品質に依存する。--これが経済学の教科書的な回答にちがいない。(ここには製造原価という項目がないことに注意してほしい。製造原価は供給曲線の形に影響を与えるだけで、販売価格には間接的な効果しかないのだ)
では、品質とは何か。それは、顧客満足で測られる、というのが現代品質管理の考え方らしい。製品というマテリアルの品質は、
製品品質=g(構造属性群,材質属性群,機能属性群・・)
という式で表現されると、以前書いた。しかし、よく考えてみると、3種類の属性群は平等ではない。明らかに機能が優先するのだ。
なぜなら、車を買うときのことを考えてほしい。かりに、ブレーキオイルの配管系統にごく小さなピンホールがあったとする。構造や材質は、ほぼ完全に他の車と同等だ。でも、ブレーキは機能しない。そんな車を、あなたはお金を払って買うだろうか?
機能とはマテリアル固有の属性ではなく、マテリアルと使用目的との関係である。このことは明記しておいた方がよい。「移動する」という自動車の主要目的を果たせない製品には価値がない。むろん、コレクターで、所有陳列しておくだけが目的の買い手にとっては、構造(外見)だけでも価値はあろう。目的は、必ずしも一つではない。そして、複数の目的があり、複数の機能尺度があるときに、いくつかの製品を比較評価する総合尺度は、合理的(無矛盾)には構成し得ないことも、以前ここに書いた。これは、消費者の好みが、本質的に多様であることを意味している。
こう考えてみると、実はわれわれはモノに仮託した諸機能への期待を買っていることがわかる。機能自身は買えない。所有権を移転できないし、占有権も許諾できない。だからモノを買うのだ。ところが、われわれの社会の法律や商慣習や経営論理は、ほとんどがモノの売買を機軸にしてできあがっている。経済学は、購買行為が「合理的」であることを前提にできあがっている。だから、あちこちでねじれが生じるのだ。
シャンパンの主要な目的は、味わって酔うこと、では多分ないのだ。高価な製品の封を切る特別な瞬間を味わう、雰囲気が目的なのだ。エペルネのシャンパンメーカーたちは、そう信じているにちがいない。そうでなければ、価格を維持するために、太陽の恵みを犠牲にしたりするはずがない。それは経済原則には合致するだろう。だが、それははたして商品文化の名に値するのだろうか。消費者の求めるものは、本質的に多様だ。売り手のお仕着せによる価値づけは、どこかに矛盾を内蔵していると私には思えるのである。
請負契約の仕事を長年やっていると、プロジェクトの成功・不成功はかなりの程度まで、顧客の性格に左右されるなあ、という感想を持つようになる。性格と呼ぶのは不正確かもしれない。個人個人の人柄の問題というよりも、顧客が組織文化として持っている性質である。それは端的には、「タイムリーに決断できる」か、「なかなか決断できない」か、という違いだ。
なかなか決断してくれない顧客に当たると、大変である。プロジェクトでは判断に迷うケースがいくらでも出てくるからだ。どんな設計も完全ではないし、市場の環境条件は変化するし、ユーザニーズも変わるし、法規制だって変わりうる。「ライバルが革新的な技術を出してきた」「現状を調べてみたら昔の設計図とかなり違っていた」「製品の販売予測が計画当初よりも弱気になってきた」「エンドユーザが操作法の変更に強く抵抗している」・・・『では、どうするべきか?』というのが、プロジェクト遂行途上で突き当たる問題だ。
ところが、“決めない顧客”に当たると、NOとは言うがYESとは言わない。問題は決断されないまま、時間だけが過ぎて行く。どんどん納期のタイムリミットが近づいてくるのだ。しかたなく、「これで行きましょうよ」と提案を作り、良かれと思って仕事を進める。そうすると、後になって「やっぱりやめて、あっちにしてくれ。」と言われる。コストもスケジュールも大きなインパクトを受ける。
決めない人々には、共通する3つの性質がある。(1)まず、現状から変化するようなリスクに異様に敏感である。だから、リスクのある決断での自分の責任を極力回避したがる。(2)つぎに、部門間で言うことが違う。各部署が、きわめて部分最適化されていて、自分に都合のいいことだけしかOKしない。(3)しかも、この種の客先にかぎって、決して追加を認めたがらない。
不思議なことに、決める人か決めない人かは、ほとんど会社の体質によって定まっており、個人の性格には依らない。企業の中で、「決めない人」が一人いたら、他の人もだいたい「決めない人々」だと思ってよい。まあ、たまに例外がいて、その決断力のある人だけが有能だったりするケースもあることはあるが、同じ会社の社員というのは、ほとんど同じだと思った方がよい。なぜ、そうなるのだろうか?
その理由は簡単だ。「決めない人々」の働く会社には、決断の基準となる『仮説』が共有されていないからだ。以前、「仮説検証のトレーニング」にも書いたとおり、戦略とは組織レベルで仮説を共有することだ。「市場はこうしたニーズを持っているはずだ。この製品にはこうした利点がある。だからこんな作り方や売り方をすべきだ・・。」 仮説とはすなわち、賭けである。賭けである以上、当たりはずれがあり、リスクがある。だが、それは会社レベルで選び取られたリスクなのだ。
そもそも会社とは、なんらかの目的を共有した組織であるはずだ。目的があれば、そのための戦略がある。そこには必ず、仮説と賭けがある。逆にいうならば、「決める力」とは、その組織がなんらかの仮説を背後に共有していることを示している。つまり、その会社は、ものの見方に一貫性があるのだ。
そして、悲しい事ながら、一貫性ほど日本の企業に乏しいものはない。あるのは思いつきと行き当たりばったり・・と言えば厳しすぎるかもしれない。しかし工場が営業の販売予測を信用せず、設計部門が購買部門の経験から学ばない会社は、枚挙にいとまがない。
こうした会社は、存続だけが自己目的となっている。現状維持が目的だから、変化するリスクは排除されねばならない。仮説がないから、決断もない。何か前例のないことをやろうとする者は、減点主義によって罰せられる。こうした企業に跋扈するのは、前例重視とと部分最適のルールである。部門ごとの独善と言いかえるべきかもしれない。
決めない人々を顧客に持つことは不幸だ。だが、決めない人々自身も、ある意味では不幸だ。なぜなら、変化に頑強に抵抗することは、急激な絶滅に至る最良の近道となっているからだ。
復活祭の季節だ。先週はHoly Week=『聖週間』と呼ばれ、キリスト教徒にとってはクリスマスとならんで最も重要な祝祭のための7日間だった。この時期、ヨーロッパやアメリカの企業に電子メールやFAXで何かを依頼しても、返事などろくにかえってきやしない。飛行機はとれず宿も満員になる。敬虔なクリスチャンにとっては神聖な黙想のための週であり、敬虔でないクリスチャン(つまりほとんどの欧米人)にとっては、家族で休暇旅行に出かけるための週である。
日本人はクリスマスを輸入したが、なぜか復活祭は持ち込まなかった。十字架上で受難したイエス・キリストが3日目に復活して甦えったことを記念する--これが本来の意義だが、北半球の人間にとっては、冬が過ぎ去って、春の生命の復活を祝うシーズンでもある。これが日本に入らなかったのは、すでに花見や春休みや花祭りがあったからかもしれぬ。
復活祭は移動祝祭日と呼ばれ、毎年その日付が変わる。これは、「春分の日のあとの最初の満月の次の日曜日」という定義によって決められるからだ。太陽暦と太陰暦が入り混じったような不思議な設定になっているので、D.
Knuth教授の『算法基礎』には、復活祭の日付の計算は中世を通じて最大の算法問題であった、とある。さもありなん。どうみてもプログラマを困らせるために発明されたとしか思えぬ祝日である。
復活祭の日付がTOEICの英語テスト問題に出たことがあるかどうか、私は知らない。たぶん、特定の宗教の習慣について問うのは"politically
correct"ではないから、出ないだろうと想像する。しかし、復活祭という習慣は現に存在して、英語のネイティブ・スピーカーだったら誰でもそれを知っている。宗教は文化の一部であり、言語も文化の主要素である以上、切っても切れない関係がある。TOEICだけで英語の理解能力が計れないと私が思うのは、こういう点だ。
グローバル・ビジネスの道具としての英語に、宗教の知識など無縁だろうって? はたしてそうだろうか。何年も前のことだが、私はある米国企業とのプロジェクトのために、チーム・ビルディングの会場に向かっていた。ちょうど復活祭の直前の季節で、朝はまだ寒かった記憶がある。参加者の7割以上は日本人だったが、使用言語は英語だった。米国流のチーム・ビルディングがどんなものなのか、詳細はまた別の機会に書くことにしよう。とにかくその会場で、我々は「共同決意宣言」を英語で作ることになった。
その宣言文の討議の中で問題になったのは、契約書の扱いである。顧客の米国企業側は契約書の厳密な履行を求めた。われわれ請負側の日本企業は、「柔軟な運用」を欲した。議論はかなり並行線をたどったが、最後に我々の側にいたある米国人が、「契約の文言ではなく精神で」(Not
by the letter but by the spirit)と提案したら、すんなり合意された。気のきいた言い回しだとは思ったが、なぜそれでぴたりと議論が収束したのか、私には分からなかった。
ところで、しばらくしてから、私は突然この文句は新約聖書にあるパウロの手紙の中の引用であることに気がついた。パウロは、人間を救うのは(旧いユダヤ教の)律法の字句letterではなく、聖霊spiritの恩寵である、と主張していたのだ。そして、このテーゼは、「契約社会」と呼ばれる彼らの考え方の底流を規定しているのである。だからあの宣言文は見事な助け船になりえたのだ。
もう一つ、例をあげようか。プロジェクト・マネジメント論の中で、マトリクス型組織の功罪という問題がある。マトリクス型のプロジェクト組織は、現代の経営学においては最も先進的な形態だと考えられている。そこにおいては、機能部署の指示系統とプロジェクト別の指示系統が二重に存在する。しかし、古典的名著「人月の神話」を書いたBrooks
Jr.はこれを批判して、『人は誰も二人の主人に仕えることはできない』と主張する。とはいえ、これで反論になるのだろうか?
この文句も実は、新約聖書からの引用になっている。人は誰も、「神とお金という二つの主人に」同時に仕えることはできない--これが本来の意味である。確かに、この2種類の主人は相反する価値を体現している。Brooksの主張は、ここまで読み込めば、強いインパクトを持つ反論であることが理解できる。そして、ごくふつうのアメリカ人ならば、「二人の主人に仕える」と言われれば、すぐにこの文句の意味にピンとくるのだ。
一説によれば、英会話の学習というのは、約700時間を費やせば一人前になれるという。1日1時間として、ほぼ2年間である。まあ、そんなものかもしれないな、と私も思う。しかし、それでトレーニングできるのは、せいぜい読み書き聞き話す、枝葉の技術である。一番大事な「文化を理解する」という能力については、実はほとんど、これでよいという際限がない。
復活祭の7日前の日曜日を、英語でPalm Sunday=『枝の主日』と呼ぶ。この日、(宗派によって習慣は異なるが、たとえばカトリックなら)信者たちは棕櫚の小枝を持って聖堂の外に集まり、キリストのエルサレム入城を祝った史実を模して、十字架を先導とする行列をつくって聖堂に入る。そして、福音書の受難劇の部分を朗読する。この時につかった棕櫚の小枝は、翌年の復活祭の40日前の水曜日、いわゆるAsh
Wednesday=『灰の水曜日』に燃やして灰にする。そして、信者はその灰を額に十文字型に塗りつける。その日は街中で額に灰を塗った人々と行き交うことになる。灰の水曜日から復活祭の日曜日までの期間を『四旬節』といい、原則として禁欲の期間となる・・
こういう知識は、TOEICの試験問題では問われない。だからTOEICの参考書にも出てこないだろう。しかし、キリスト教を信じようと信じまいと、英語のネイティブ・スピーカーたちは、みなこういう習慣を「肌で知って」いるのだ。多くの日本人にとって、宗教だの聖書だのはひどく縁遠い代物である。しかし、それは確実に欧米文化圏の世界観を規定している。その世界観は、思わぬ瞬間に、ひょっこりと顔を出す。なぜなら人間は「パンのみに生きるにあらず」、つねに意味を求めて生きている存在だからだ。そして、だから私はいつも、“ぼくらに英語はわからない”と言い続けているのだ。
落語に、「紺屋高尾」という人情噺がある。吉原の高尾太夫の絵姿に一目惚れした紺屋の職人・久蔵は、太夫を一目見たい逢いたいと、死にものぐるいに3年間働いて給金を貯める。太夫といえば大名豪商しか相手にしない超エリートだから、大金を積まねば会うことなどかなわない。ようやく3年後、給金全額を懐に、知り合いで通人の医師に手引きされ、念願かなうべし、と吉原三浦屋にいく。労働階級など相手にされぬ格式ゆえ、野田の醤油問屋の若旦那といつわるのだ。しかし、手の指を見せればすぐに紺屋の職人だと知れてしまう。そこで久蔵はずっと懐手にしていなければならないのだが・・
士農工商の江戸時代では、「工」に従事する職人の社会的地位は低い。しかし、商品経済にはこの逆順で近いわけで、実際には職人の収入はそこそこのものだった。私が聴いた噺では、久蔵は3年間必死に働いたあとで、親方に自分の給金がいくらたまったかをたずねる。すると親方が25両近くなっている、感心にもよく働いたものだ、と答えるのだ。つまり、働いた分に応じて給金が出る仕組みになっていたらしい。
もともと職人の給金は、出来高払いが基本であった。今風に洒落た言い方をすれば、「アーンドバリュー」にもとづいた、「成果主義」の賃金体系だったのである。そして、その賃率はそれなりに高いものだったらしい。昭和40年頃まで大勢の職人を雇って店をやっていた親戚の話を聞くと、腕一本でかなりの金を稼ぎ、またそれを大抵は飲んでしまうのがふつうであった。職人といえば親方の徒弟制度で技能を学ぶが、しかし雇い主との関係はむしろドライで、気に入らぬ事があるとプイッと辞めて他に移ってしまう。手に職があればこそ、独立独歩のメンタリティだったのだろう。
職人は専門職であったが、理系でも文系でもない。大学教育とは無縁だからだ。日本で職人仕事がそれなりに存続していけたのは昭和40年代いっぱいで、50年代になるとかなり低落しはじめ、バブル経済の平成に入ると完全に崩壊してしまう。かわりに高度成長期に増えたのは、固定給の会社員である(彼らは「月給取り」と揶揄された)。そして大卒の人間が、会社のホワイトカラー・管理職候補生として、採用される。
高賃金を得たければ、大学を卒業して知識を身につけ、企業に就職する--このルートをみなが目指したから、大学生の数は年々増え続けるばかりだった。学歴社会の誕生である。「何をどれだけ作れるか」ではなく、「どういう学歴で何年働いたか」が人間の地位や収入を決めるようになった。そして、ここで初めて、人間を「文系」と「理系」に分ける奇妙な思考が社会に定着しはじめたのである。
文部省は長らく、大学の学部名称と内容を規制していた。学部名称は「学士号」に直結しており、法学士や工学士はあれど、“コミュニケーション学士”や“コンピュータ学士”などは許されなかった。だからコンピュータ学部などというものも存在できなかったのだ。文部省は学生一人あたま年間10万円という補助金を与えることで、学校法人の経営を縛っている。名称とカリキュラムが自由化されたのはつい近年のことだ。役人の縦割り思考の中では、自由な学際などという発想は入り込む余地がなかったのだ。
この縦割り思考は、心理学が文学部に属し、人類学が理学部に、統計学が経済学部に属するような、不可思議な分類を許していた。マウスを使った実験による計量行動心理学がなぜ文学の範疇になるのか、それこそ心理学的には謎である。しかし入学試験の門戸は文系と理系に分けられていて、そこから先へはなぜか行き先が規制されるのだ。
大学入試の18歳の時点で文系理系を選ぶのは、たまたま数学の計算問題が苦手だとか、高校の世界史の先生と相性がよかったとか、その程度の理由でしかない。むろん、人間の人生は運とか縁とかで動かされていくものだと、言えなくはあるまい。しかし、ここにあるのはそういう高尚な諦念ではなく、ミカンを選別するためのコンベヤに似た、マスプロダクション教育の仕組みなのである。
私が文系・理系のどっちが得かといった論争を聞くたびに思うのは、人間を18歳の時点に二種類に分けて平然としている神経の不思議さである。「自分は文系だから・・」「俺はしょせん理系だから・・」などと言って自分を規定し、“だからITは知らなくても良い”とか“だから政治は興味がない”とか自己に許してしまう、怠惰さだ。なぜ自分にそんな分類や尺度を許せるのか。この地平線の端から別の端まで、地上に生起することで自分に無縁なものなど一つもない、というのがまともな大人の認識ではなかったか。
営業職や会計職の方が技術職に比べて生涯賃金が大きい、などと不平等を言い立てるのはおかしい。誰でも同じものが生産できるようにするため技術を使った。そして市場に大量の商品が供給できるようになった。そうしたら、ボトルネックは工場での生産技術から市場における販売に移るのは当然ではないか。成熟した工業化社会では技術屋は代替可能(リプレーサブル)で、その地位が低くなるのは、当たり前の推移なのだ。
それでも、人はパンのみに生きるにあらず、仕事が好きだと思えば技術屋を続ければよい。やっぱりパンが好きだと思えば、技術屋は辞めて経営管理職に専念するべきだ。経営職には本来、文系も理系もない。力関係があるだけだ。
面白いことに、近代的な経営工学の創始者だったテイラーの時代、労働者は出来高払い制度で働いていた。紺屋高尾の職人・久蔵と同じだ。テイラーの「科学的管理法」は、労働生産性を上げて、労働者に多くの賃金を払う結果をもたらした。経営工学は理系だろうか、文系だろうか? どちらでもない。それは合理的思考の産物なのだ。
では、私自身は理系だろうか、文系だろうか? 大学教育は「理工系」だった。しかし、私の自己認識は理系でも文系でもない。どだい、システム・アナリストやプロジェクト・マネージャーの仕事は理系といえるだろうか。
私の仕事は、「複雑系」なのだ。