書評2冊:「『ゆらぎ』と『遅れ』 ~ 不確実さの数理学」大平徹・著、 「インフレーション宇宙論」佐藤勝彦・著
・「『ゆらぎ』と『遅れ』 ~ 不確実さの数理学」大平徹・著

「『ゆらぎ』と『遅れ』」 (新潮選書) (Amazon.co.jp)
自分にとって数学とは、なんだか片思いに終わった初恋の相手のように感じる。好きだったのだが、決して自分の味方にはならないのだ。
小さい頃は、つまり小中学生の頃は、算数・数学が得意だった。小学校6年の時に、すでに微分や積分の本を読んで理解していた。成績も優秀。それが、高校2年の時に突然、スランプに陥った。きっかけは最大最小問題だったと思う。とにかく、それまでは何となく分かった問題への解法が、さっぱり「降りて」来なくなった。
悔しい思いでなんとかキャッチアップして、大学は理系に進んだが、大学の数学でまた挫折感を味わう。解析学の厳密な論証にも、線形代数の目的や意義にも共感を持てぬまま、工学部に進む。一応それでも、簡単な微分方程式は解けるくらいの、つまり工業数学の最低ラインには到達したが、それまでだ。到底、自分の数学能力に自信が持てぬまま、高等教育は終わった。
50代になってから、博士論文を書いた。工学部の学位請求論文だったので、数式だらけだ。プロジェクト・マネジメントの研究だが、実験のできない分野なので、OR的なアプローチを取るしかなかった。微分方程式も最大原理も扱ったが、数学的には工学部の学部生レベルである。今でもときどき、家庭教師について数学を学び直したい、と夢想したりする。
本書は、不確実性と安定性に関するやさしい入門書である。著者は高校までは文系だったが、卒業後に米国_英国に留学。最後は米シカゴ大で博士号をとり、ソニーコンピュータサイエンス研究所勤務を経て、名古屋大学教授という人だ。
最初に「ゆらぎ」として、単振動などの振動現象、共鳴、ブラウン運動などが解説される。そして著者は「確率共鳴」の効果を紹介する。信号に、ある程度のノイズを乗せた方が、検知性能が上がる現象である。それから、フィードバック制御における「遅れ」の話になり、「ゆらぎ」との組合せで、棒の倒立制御が紹介される。
倒立制御とは、手のひらに棒を立てて、倒れないように手を動かすことで、小学生なら誰でもやったことのある遊びだろう。これは著者が研究上の興味をもつ問題らしく、人間の被験者にいろいろな実験をさせる。あえてノイズを加えるために、棒を立てている手とは逆の手で、ペットボトルを持って振らせたりすると、成績が向上する人が多いという。
著者はさらに、「遅れランダム・ウォーク」モデルや、それと確率共鳴を組み合わせた「遅れ確率共鳴」の数理モデル研究にも進んでいるが、内容がやや数学的に高度なためか、本書ではあまり詳しく書かれていない。ちょっと残念である。
とはいえ、不確実性と安定性についてきちんと理解するためには、測度論を基礎とした確率論と、複素関数解析の理論が必要なはずだ。残念ながらわたし自身はそのレベルに到達していない。まあ、だからこそ、本書のような入門書にひかれるのだろう。
数式をなるべく排して数理学を語ろうという、著者の方針はたいへん興味深い。だが、いろいろな現象への言及が多くて、若干「ゆらぎ」が大きく、もう少し骨太な編集であっても良いのに、とも感じた。縦書きの本で、数式を載せにくいのも分かる。でも教養書では、高校数学くらいまでは許容範囲ではないだろうか。著者は高校は文系で数2までしか習わなかったという。だからこそ、そのレベルまでは平然と書くぐらいで良いと思うのだが。
・「インフレーション宇宙論」 佐藤勝彦

「インフレーション宇宙論―ビッグバンの前に何が起こったのか」 (ブルーバックス) Amazon.co.jp
子どものころ、ブルーバックスを読むのが好きだった。講談社から出ている、あの科学専門の新書版シリーズである。光沢のある白地に、青いアクセントカラーのカバー表紙。昭和の頃からほとんどスタイルが変わっていないが、今でも続いているのは心強い限りだ。科学とは不思議への探求で、だから何となくワクワクする。学問の根本に、そういう感情的価値を宿している。
「この宇宙には『はじまり』があったのだろうか? それはどのようなものだったのか? かつては、これらの疑問に答えられるのは、宗教や哲学しかないと考えられていました。しかし、いま、『科学の言葉』でこれらの疑問に答えることができる時代になってきています。」——本書の序文はこんな風に、はじまる。まさに、ワクワクするではないか。
著者の佐藤勝彦氏は東大名誉教授で、世界の宇宙論を長らくリードしてこられた方だ。本書は2010年の刊行だから、東大を退官された翌年の著作になる。素人向けに、いわば退官記念講演をまとめられたような形だ。そしてこの人は、素人に分かりやすく説明する能力に長けておられる。それは上記の序文の平明な言葉づかいや、自然体に見える漢字の選び方などを見ても、よく分かる。
宇宙の始まりは火の玉で、それが「膨張していく中で次第に 温度が下がり、ガスが固まって星が生まれ、銀河や銀河団が形成され、現在のような多様で美しい宇宙が作られた」(p.41)。これが『ビッグバン』理論だ。それはマイクロ波背景放射の観測によっても支持されている。
しかしビッグバン理論には難点もあった。現在の宇宙の曲率がなぜか、ほぼゼロであるという「平坦性問題」、なぜ始まりが火の玉だったかを説明できない点、などなど。これらを解決するために、著者やグースらが同時期に提唱したのが「インフレーション宇宙論」である。
インフレーション宇宙論では、1ナノメートルよりも小さかった宇宙が、10の-34乗秒後に、137億光年(現在の観測可能な宇宙の半径)よりもずっと大きなサイズに指数関数的膨張をした、と考える。そうなる理由は、真空が持つ真空エネルギーの相転移による斥力であった、と。
真空は完全な空虚ではなく、不確定性原理にしたがって素粒子が対生成・対消滅を繰り返している場所だということは、これもブルーバックス「真空とはなにか 〜じつは空っぽではなかった」(広瀬立成・細田昌孝 著)を昔読んで、知っていた。相転移についてもまあ、一応、大学で習った化学熱力学のアナロジーで分からんことも、ない。というような、半可通な理解で先を読みつづける。
しかし、ビレンケンの理論になると、なにせ虚数時間でゼロから宇宙が始まり、トンネル効果で実宇宙が誕生してから、実時間がスタート、その後インフレーションと共に真空の相転移が生じて火の玉になった…という話だから、なかなかついて行くのは大変である。「虚数時間が本当にあるのかは、分かりません」と著者も正直に書いている(p.83)
この後、本書はさらにダークマターとダークエネルギー、多世界宇宙(マルチバース)、膜宇宙論へと進んでいくが、はんちくなダイジェスト紹介はもうやめよう。興味がある方はぜひ、本書を手に取って読んでほしい。実に読みやすく、読者を引きつけるような書き方がされている。著者は研究能力だけでなく、イマジネーションと説明能力も傑出した人だと分かる。科学書ファンに強くお勧めする。