Christmassメッセージ--障害者とともに暮らす社会を
Merry Christmas!!
今月上梓した新著「BOM/部品表入門」は、2000年に刊行した「革新的生産スケジューリング入門」の姉妹編という位置づけである。前著と同じく、矢口先生という大学の助教授が登場するのだが、今回は企業内のワーキング・グループの席上におもむいて、BOM構築に関する総合的なレクチャーを行なう、という形式になっている。
ところで、前著を読んでいただいた方はご存じのように、この矢口先生という人物、米国で10年以上もコンサルタントとして活動していたが、自動車事故にあって肢体不自由となり、潮時を感じて帰国し大学に職を得た、という設定にしている。つまり、車椅子の人である。
あの原稿を書いたとき、親切な友人から、「なぜ主人公を障碍者に設定したのか?」という質問があった。つまり、余計なフリクションを受ける可能性もありうるから、やめておいたら、とのアドバイスである。まことにもっともな心配であった。が、私はしばらく考えた後に、やはり元の設定のままで進めることにした。そして、今のところそれを後悔していない。
昔、大学生だったころ、私は大学門戸開放運動という活動に多少かかわっていた。私は点友会という、点字翻訳のサークルに属していたのだが、じつはほとんど点訳のボランティアをせず、別のことにかまけていたのである。大学門戸開放運動とは、視覚障碍者であっても、大学入試を受験する権利を認めるべきだ、という主張の活動だった。私が大学に入った’70年代の中頃までは、点字による受験はほとんど認められていなかった。
入試問題を点字に翻訳する場合、誰がいつ、その作業をやるかという問題がある(とうぜんながら試験問題は当日まで厳秘扱いだからだ)。さらに、一般に点字を読み、解答を点字に書くのは、通常の視覚を持つ人が文字を読み書きするよりも、3割以上時間がかかる。したがって、試験時間を少し長くしなければフェアとは言えない。
しかし、こうした入学試験の技術的困難を解決すれば済むのか、というと、じつはそうではなかった。大学門戸開放運動の本質的な問題は、大学側の体制、すなわち学生の入学後の勉学と生活をどう確保できるのか、という点にあったのだ。
講義を聴き、メモを取る。それだけならば視覚に障害があろうとなかろうと、同じようにできる。しかし、学期末の試験やレポートはどうするのか。また、教科書や指定の参考書の点訳/朗読はどうするのか。まだ学内に点字ブロックも敷かれていなかった時代のことだ。こうしたことは、大学の予算措置や大学図書館の積極的な支援などの仕組みが必要だ。善意のボランティアだけでサポートしきれることではない。
それでも、私の入学よりも2年後に、私の大学では創立以来初めて、視覚障碍者の学生の入学が認められた。彼はその後、大学院に進み学究生活に入って、今は静岡県立大学で社会学の教授となっている。私のリンク集にもアドレスを紹介している、石川准氏である。彼は全く視力を持っていないにもかかわらず、現役の大学教授として活躍している。
彼の存在が大学に与えた影響は、計り知れないものがあると思う。むろん彼は努力家であり、かつ優れた才能を持つ学者だ。しかし、普通の大学生がふつうに持って当然と思っている学業能力が、「障害」の有無にかかわらず、実現される権利がある、ということを、学友や教官や職員達はあらためて認識させられたにちがいない。それは、人間とは可能性において多様なものだ、という認識なのである。
ちなみに、肉体的に障碍をもつことを、英語では”disabled“と呼ぶことが多い。ところで、この言葉は、たとえばスキーで足を折って一時的に松葉杖をしている人などにも当てはめられる。障害者と、いわゆる健常者との違いは相対的なものであることを、disabledという言葉は示している。
われわれの社会は今、彼が入学した四半世紀前に比べて、格段に画一化への道を進んでいる。それは、経済社会において富がますます一部の国、一握りの企業に集中していくことと歩を同じにしている。それは経済原則の進展だ。そして、経済合理性は、効率化のための画一を好む。「文明」を、人間に利便を与えるものと定義するならば、文明は画一を好む、と言いかえても良かろう。
ところで、現実の人間は有限の存在である。決して経済合理性だけで生きて行くわけではない(「コンサルタントの日誌から」にもかつて書いたが、『パンのみに生きるにあらず』という聖書のことばはこれを示している)。われわれは、自分の生に価値があることを、あるいは自分の存在が無価値ではないことを、証明するために大いなる努力を払う性質を持つ。つまり、アイデンティティを求めているのだ。文化を、人間にアイデンティティを与える枠組み、と定義するならば、だれもが文化を切望しているのである。
そして、不思議なことに、文化とは多様性によって豊穣となる。この社会が正気を保つためには、社会の中に多様性、多様な個人が共存することが必要なのだ。
多様であるとは、すなわち、無意識の前提がくつがえされるような差異だ。われわれの社会、文明によって常に画一化へと駆り立てられている社会では、経済に奉仕しにくいような身体的なハンディキャップは、どこかに隔離され『保護』されがちな異質となる。しかし、異質が共存する社会にこそ、文化は保たれる。
もう一度くり返すが、われわれ人間は有限の存在だ。生まれてくるとき、親を選ぶことさえ誰にもできない。そうであるならば、自分とは何者か、他者とは何が違うのか、違うことによって何を得ることができるのか、考えていかなければならない。障害者がふつうに、ともに暮らせる社会は、この生活の基盤がどこにあるかをもう一度気付かせてくれる。それは、世の中が健全で平和であることの証となるはずなのである。