エシェロン在庫とは何か 〜 あるいは、ナフサ不足問題の遠因について


石油とナフサと新入社員

「佐藤さんって、ナフサを見たら、見分けられますか?」懇親会の席で、いきなり聞かれた。ナフサは無色透明な液体である。だから見ただけで分かる訳ありません——そう答えた。もちろん石油製品特有の刺激臭はあるけれど、密閉した容器に入っていたら分からない。ただ爆発性の可燃物だし、普通の人が触るようなモノでもない。聞くと最近、ナフサに関し頓珍漢なコメントをTVでした経済専門家がいて、そんな質問になったらしい。

続いて、「ナフサとガソリンって、何が違うんですか?」という質問も来た。ナフサはガソリンの主原料である。原油を連続蒸留して、ある沸点範囲のものを取り出したのが基本的にナフサだ。あるいは、より重い(=沸点の高い)留分を、水素化分解したり流動層で熱分解すると、そこからも一部得られる。ただしガソリンという商品を作るためには、オクタン価その他、いろいろと性状を調整しなければならないので、接触改質反応で芳香族類の比率を増やしたりする。

・・と、ここまでの説明を聞いたら、たいていの人は、よく分かんないから、もういいやと思うだろう。別にそれをとがめるつもりもない。むしろ、よく分からないのに変なコメントを人前でするより、自分は知らないんだな、と感じる方が正常である。「ナフサ」という言葉が世間をにぎわすようになったのは、もちろん3月のイラン戦争とホルムズ海峡封鎖以来のことだ。

わたしは技術者としてのキャリアを、石油精製プラントの基本計画ではじめた。もう何十年も前のことなのに、新入社員の集合研修が終わって、はじめて所属部署に配属された日のことは、今でもはっきりと覚えている。席に着くと、分厚い英文資料のコピーを渡された。当時のことだから、英文タイプである。それはチームの専門研修のための課題で、中東産の原油を精製するプラントの装置構成を解く問題だった。

添付資料として、『原油マニュアル』と呼ばれるArabian Mediumの原油成分表がついていた。それを見て、ナフサ相当の留分は、原油全体の15%程度しかないことを知った。ナフサはガソリンの基材の他に、石油化学の原材料となる中間製品である。逆に言うと、日本は原油の9割近くを結局、モノづくりの貴重な原料として使わずに、燃料として燃やし消費しているのだ。地面から有限の資源を掘り出して、空中にCO2として放り出す。なんと持続性のない文明だろう。生意気な新入社員は、そう思った。








サプライチェーンと、エシェロン在庫

さて、(いつものことだが)話はいきなり飛ぶ。以前、当サイトで「欠品を起こさないための在庫手配入門」という記事を書いた。全3回シリーズもので、
(1)「まず、累積需給曲線を理解しよう」 
(2)「引当てとストック在庫」 
(3)「安全在庫を確保する」 
という構成の記事である。新米の営業マンを題材に、製品在庫のコントロールについて解説した。ちなみに、累積需給曲線・引当て・ストック・安全在庫などの考え方は、製品在庫だけでなく、原料在庫についても当てはまる。

以前は(つまり2010年代までは)、在庫と言えば、製品在庫が問題だった。だから上記の記事も営業部門の話として書いたのだ。そして、とくに大企業などでは、PS&I計画(Production, Sales and Inventory計画=「生産販売在庫計画」の略)などの仕組みの重要性が議論されていた。PS&I計画は数量ベースだが、これに利益額を入れたS&OP(Sales and Operation Plan)が経営上は大事なんだ、といった話をしたがるコンサルも多かった。

ところで上記のシリーズは、営業所が管轄する自社の製品在庫を扱っている。しかし、本当は企業にとって考えるべき製品在庫の対象範囲は、もっと広い。製品を作ってから顧客に届けるまでの供給連鎖を、「アウトバウンド・サプライチェーン」と呼ぶ。このアウトバウンド・サプライチェーン上にあり、まだ顧客の手に渡っていない製品在庫が他にもあるからだ。それは輸送中の製品であり、さらに一次卸やチェーンストア・小売店舗、あるいは販売商社やディーラーが持っているストックである。これら多段階の在庫をまとめて、『エシェロン在庫』と呼ぶ。エシェロン echelon とは階層の意味で、元はフランス語なので、cheをシェと発音する。




原材料に、エシェロン在庫はあるか

さて20年代に入ると、コロナ禍とウクライナ戦争、そして最近のイラン戦争などの影響により、世界規模でサプライチェーンが混乱した。半導体そのほか部品が入らないため、生産が止まったり欠品が起きたり、という事態が報道されるようになった。調達側の供給連鎖をインバウンド・サプライチェーンと呼ぶが、SCMはむしろ、インバウンド側が焦点になってきた。

ところが、いわゆる従来のSCMのプラクティスや道具立ては、主に製品側=アウトバウンド向けがほとんどだった。念のために書くが、製品側のサプライチェーンを気にかけるのは、消費者に向けて広く製品を売る、B2C企業が主体だった。特定の企業顧客に納入する部品メーカーのようなB2B企業は、製品在庫の配置とか供給ルートなどを気にする余裕はないし必要もない。

そして少なくとも日本では(公式な統計がある訳ではないが)、B2Cの消費財企業よりも、B2Bのメーカーの方が数はずっと多い。こういう企業の人たちが、頼りにできるツールも戦略論も、ない状態だった。そもそも購買・調達の部門自体が、あまり花形とは思われていない。バイヤーの仕事はコストダウン、以上終わり。の状態が何十年も続いてきたのだ。

サプライチェーンの不安定さから自社を守る最初の手立ては、安全在庫を積みますことだ。だが「在庫ゼロ」が長年の経営方針だった。だから大手の企業は、サプライヤーに「JIT納品」を要求してきた。まるきり方向性が逆である。仮にそれを是としても、次の手立ては、すなわち「原材料のエシェロン在庫」を確保することである。だが、購買側のエシェロン在庫とはどういう意味なのか。

ためしに生成AIに聞いてみると、おかしなことを言う。「インバウンドでは、さらに一歩進んで、手元在庫(On-hand)、輸送中在庫(In-transit)、発注残(On-order)、サプライヤ保有在庫、サプライヤの生産能力、まで含めて管理することが多いです」(ChatGPTによる)。ほー、そうですか。でも最初の3項目は良いとして、サプライヤ保有在庫をカウントするのは適切だろうか? そのサプライヤが複数顧客と取引していたら、自社に全部納めてくれるとは限らないではないか。

そもそも、サプライヤが自社の保有在庫を、発注者に開示するのは特殊なケースしかない。調達側で確実にカウントできるのは、すでに自社の手元在庫と、発注済み数量(輸送中を含む)だけであろう。これが、インバウンド・サプライチェーンの難しさなのだ。




日本の石油備蓄8ヶ月分とは

そういうことを理解した上で、最初のナフサ問題に立ち返ってみたい。ナフサを製造するには、原油がいる。これが原料だ。では、それはどれだけ原料在庫があるのか。3月の政府発表によると石油備蓄は約240日分だという。これは実は3種類の内訳からなっている:

(1) 国家備蓄:約146日分
(2) 民間備蓄:約87日分
(3) 産油国共同備蓄:約6日分

このうち、「(1) 国家備蓄」は、国がお金を出して原油を貯蔵しているものだ。貯蔵場所(基地)は、災害を避けるために(+そこに政治も絡んで)全国10ヶ所に分散してある。これが5ヶ月分弱あり、まあ一応、原料の手元在庫と言っていいだろう。

次の「(2) 民間備蓄」というのは、どこかのタンクに眠っている原油の在庫ではない。じつは民間備蓄は原油だけではなく、石油製品も含むのである。すなわち、製油所で処理中の中間留分も、油槽所のガソリン・軽油等も、流通網にある在庫(すなわちアウトバウンド側のエシェロン在庫)も全部含めて、勘定しているのである。これは最低70日分の保有が義務づけられてきた(今年の危機で55日に引き下げられた)。でも製品になってしまったら、今さらナフサには戻せないのだ。

「(3) 産油国共同備蓄」というのは、知らない人がほとんどだろう。じつは日本国内に、産油国のサウジやUAEが、自社保有分を備蓄している。これは先ほどの調達側エシェロン在庫に相当するが、理屈の上では日本の資産ではないから、全量を確保できるとは限らない。量も限られている。

これが、ナフサに関する原料在庫の現状なのだ。ちなみに、国家備蓄には年間1,200〜1,300億円の税金が毎年使われている。これは貯蔵量と原油価格をベースに計算すると、年率3%くらいの在庫費用になる。結構な金額だ。そして国家備蓄の設備はどれも30年くらい前のものであり、いずれ設備更新が必要になる。

この貯蔵量の在庫レベルと、保管費用と、設備更新費用とは、まともな企業ならば経営工学(在庫管理)理論を使って、コントロールすべき事柄だ。では国は、誰かがそういう事を真剣に考えて決めているのか? 考えている人は、実務レベルには、きっといると思う(ミドル層は真面目な人たちが多い国なのだ)。だがこの国で意思決定をするのは、別の層の人たちである。石油のほぼ全量を輸入に頼っているわたし達の社会が、調達と在庫の手法について、もう少しだけ関心を持ってくれることを切に願うばかりだ。