第20回 『ITって人と人を結びつけるのに役立つの?』(前編)
--ITが社会に与えるインパクト-- (2002/08/29 発信)
--ああ、こんな風に車が流れてくれると、運転ってのはなんて楽なんだろう。さっきまでのあの渋滞の中じゃ、何もしていないのにひどく神経が疲れた。今はもっとまともなことに神経を集中していられる。
「流れるべきところを淀ませてしまうものごとって、それがなんであれ、すごく自然にも人間にも反しているのよね。見ためじゃわからないけど、そういう時って精神的にとってもエネルギーを消耗するもの。」
--ほんとだよね。それは見かけの能率だけからじゃわからないことだな・・。
おっと、このバイパスに降りなきゃあ。
「危なーい。もっとやさしく運転してよ。
・・さっきの電子商取引の話の続きだけれど、でも、全然知らない人たち同士が、同じ本や旅行について意見を交換する場所で知り合うことができるのって、いいわね。ITって人と人を結びつけるのに役立つのかしら? だったらそれこそがITの一番の価値なんじゃない?」
--人を結びつける可能性がある、ってのはある程度ぼくもそう思う。それがITの一番の価値だっていわれると、ちと抵抗があるけどね。
「あら、そう? でも、電子メールひとつとっても、すごい発明だと思うけど。あれ発明した人には、ノーベル賞あげてもいいくらい。」
--あれは特定のだれかの発明品じゃないし、ノーベル賞とはまた大げさな・・だったらインターネットの出会い系サイトだって直木賞あげなきゃならん。
「でもね、宇宙旅行のSFはたぶん昔からたくさんあったと思うけど、電子メールが登場するSFなんて昔はなかったんじゃない? 100年前から人類が待ちこがれて、必然的に誕生したってたぐいのものじゃないはずだわ。」
--そりゃま、地球上のほとんど誰もが(まあこれは極端だけれど、かなりの人間が)Eメール・アドレスをもって通信し合う世界なんて、考えてみりゃかなりSF的ではあるな。でも昔のSFによれば、21世紀にはみんなエア・カーを乗り回していて、いつまでもこんなに地上が車で渋滞してなかったはずなんだけどな。
「いまごろ鉄腕アトムが空を飛んでたはずよね。ロボットとか人工頭脳とかは夢にあったけど、電子メールは夢を超えていると思うわ。」
--さっきの西洋対日本のときも同じ議論したけどね、ぼくは定型化の好きな石頭だから、メール=ITみたいなとらえ方には反対なんだ。君はニッポンの親指メール礼賛論みたいだったけど。
「わたしは西洋との違いを伸ばせといっただけ。だってあなたが若い女の子たちを馬鹿にしているように聞こえたからよ。」
--それはどうも失礼。ぼくにとっては、あやふやな情報をワープロできれいな帳票に打ち込んでは社内メールでたれ流しているおじさん達も、女子高生と同類さ。
「だって石頭のおじさんたちがガチガチに定型化してつくりあげた、日本のこの縦割り社会のおかげでみんな窒息しかかっているんじゃないの! そこに横穴を開けて風通しをよくする電子メールのどこが悪いの。」
--ぼくは定型的な情報の流れと非定型なコミュニケーションは区別しようといっているだけ。それで思いだしたけど、アメリカに有名なホーソン実験というのがあった。
「何それ? 知らない。」
--もうだいぶん以前の話だけれど、アメリカの経営学者たちが、工場労働者の作業能率を向上させる因子は何かを調べようとして、ウェスタン・エレクトリック社のホーソン工場でいろいろな実験をした。たしか電線か何かの工場で、女子労働者がおおぜい働いていた。
「それで?」
--たとえばね、ある班を選び出して、照明の明るさを上げて作業させてみたんだ。そうすると、確かに作業の能率が上がった。なるほど、これは発見だ! そこで、これを逆の面から確かめるために、照明を暗くしてみた。能率は下がるはずだ。ところが。
「ところが?」
--これまた作業の能率が上がってしまったんだ! 学者たちはわけがわからず、頭をかかえた。
「まさか、工場の明るさが、ちょうど一番作業しにくい明るさだった、ってことなの?」
--ちがう。あれこれと確かめてみた結果、学者たちは、その班がテストの対象に選び出されたということだけで作業の能率が上がることに気がついた。たとえば、チームワークがよくなるといった具合にね。
「女の人たちだったら、十分あり得る話だわ。」
--でも、それは、会社の職制を通じた公的なチャネルによる指示でそうなるんじゃない。非公式な、職員同士の横のコミュニケーションでそういう結果が生まれるんだ。そこで、会社組織内には非公式なコミュニケーションが存在して、それは公的なコミュニケーションと同等に近い重みを持っていることを研究者たちは発見した。これは「ホーソン実験」として経営学の重要な発見となった。
「あっきれた・・だからアメリカの経営学なんてみんな大馬鹿だっていうのよ!」
--おいおい。
「だってそうじゃない! 何が“発見した”よ。職場に横のコミュニケーションがあるなんて、どこの会社に勤めたって3分でわかることよ。女工は命令したら黙々と牛馬のごとく働くもんだと思ってたわけ? ご立派な学者先生よねえ。黒人奴隷を働かせて自分だけ楽していたプランテーションの発想だわ。まったく、『女は世界の奴隷か』だわ。」
--しまった。変なところに火をつけちゃったかな。ぼくがいいたいのはね、組織内での人と人との関わり方には公式なものと非公式なものの二種類があるってこと。電子メールを非公式なコミュニケーションの道具として礼賛する前に、ITが公式コミュニケーションを再編する可能性の方を、もっと評価して欲しいんだ。
「公式コミュニケーション? 命令とかのこと?」
--君の軽蔑するアメリカの経営学によるとね、企業というのは、共通目的・協同意識・そしてコミュニケーションの3要素からなっている。これのどれか一つでも失うと、企業組織とは言えないんだ。
共通目的のない集団の例は、町内会や自治体などの、単なるコミュニティ集団だ。これは組織とは言えない。それから、目的は共通だけれど協同意識がない集団もある。予備校のクラスなんかそうさ。組織ではなくライバルの集合体でしかない。そして、目的も協同意識もありながらコミュニケーションのないものは、やはり企業ではなく烏合の衆という。
これまでの職制を通した公式コミュニケーション、つまり指示や報告は、紙か口頭を通したものだった。伝達に時間がかかるし、正確さも低い。ITは多数の相手に同時に発信できて、蓄積も検索もできる。これはいままでのピラミッド型の組織構造を変える可能性さえ秘めてる。
「そうお?」
--ピラミッド組織というのは、そもそも人口の年齢構成もピラミッド型で、かつ年功序列制のときにはじめて意味があるものだ。今みたいに高齢化社会で年齢構成がいびつになって、なおかつ年功序列もあやしくなった時代にはひずみが多い。
「じゃ、どういう風になるの?」
--ぼくも確かなことは言えないけれど、多分今よりももっとフラットな、機能も権限も分散された組織の形になるんじゃないかな。
「ふうん・・今の、一点集中のタテ型社会が崩れてくれるんならうれしいけど、ほんとにそうなるかしら? たとえばネットが発達すれば、遠くから大都会に通勤したりするかわりに、地方に分散して住んだまま仕事ができるようになるといいのにね。」
--はやりのSOHOだね。
「SOHOって?」
--Small Office, Home Officeの略で、自宅や小さな事務所単位で仕事をする形態のこと。高速ネットワークが整備されれば打合なんかもネット上でできるし、報告書や仕事の成果物もメールで送れるようになるから、みんなが巨大なオフィスに通勤して集まる必要はなくなるはずだ。と、喧伝されている。でも、ぼくには疑わしい気がするけれどね。
「どうして?」
--ぼくはどうも、ITが発達すればするほど、一局集中化が進むような気がする。さっきも言ったけど、ITは情報のロジスティックスにたとえられる。でも、現実の交通の世界じゃ、鉄道や新幹線や高速道路網が整備されればされるほど、都市への集中が進んでいく。通勤圏ばかりがやたら広がって、地方の独立性とか独自性とかがどんどん無くなっていってるのが実際の姿だ。
それと同じようなことが情報の世界でも起こるだろう。会社でも官庁でもいいけど、大きな組織の場合でも、あらゆる場所のあらゆる情報が本社に集まるようになるから、決断の権限はみんな本社の統括部門とかに集中されていくだろう。
「ええー、そんなのいやだ。」
--たとえばね、ドイツやアメリカに生まれて世界中に広がってきている「ERP」とよばれる統合業務ソフトがある。これは会社内のあらゆるトランザクションをリアルタイムに記録していけるパッケージ・ソフトなんだけど、中には、あらゆる情報が最終的には本社財務部が見る原価管理の中に集約されていくような思想で作られているものがある。
「はあー。管理が好きなのね。」
--残念ながらね、地方分権というのは、地方で何をやっているのか東京で分からないからこそ成立するものなんだ。しかしITの発達のおかげで、全国がみんな素通しで、このカーナビみたいに全部丸見えになっていくだろう。そのとき、権限だけは分散されていくと思うかい?
「きっと本社が末端のお箸の上げ下ろしまで口を挟むような小姑根性ばっかり発達して行くのよね。ああやだ。・・でも、出張の回数とかは、確実に減りそうな気がするんだけれど。」
--それだってあやしいものだ。だって、単なる数字のレポートだけじゃ言葉が足りないから電子メールを書くわけで、それでも心配なら電話か会って話そう、ってことになるじゃないか、結局は。人間って、情報量の多い方へ多い方へと流れていくものだからね。
それにぼくは、そもそも都市化の進行って歴史的必然だと思う。」
「ずいぶん急に大きくでたわね。じゃSOHOは歴史的必然に反しているってわけ?」
--第1次産業・第2次産業・第3次産業って区分があるのは知ってるだろ。で、農業や漁業は第1次産業。どこでもあまり元手いらずにできるけど、広い土地が必要だ。
でも産業革命を通ると、蓄積資本を投下して第2次産業の工業に走るようになる。この方が儲かるからだ。そして土地の面積あたりの集中度でいえば、工場は農業よりもずっと上だ。とはいえ、でもまだそれなりの広さが必要だけどね。
「それで?」
--しかし、工業は鉱物資源とか人件費が安い国でないと競争力がない。経済が国境を越えてグローバル化してきた今の時代じゃ、いわゆる先進国は第3次産業にシフトせざるを得ないんだ。金融とか流通とか設計・デザインとか。あるいは第2次産業である製造業にしても、医薬品みたいに研究開発が勝負になるような知的集約度の高い商品でお金を稼ぐようになる。スイスやオランダみたいな、土地が少なくて人しか資源のない国を見てるとよく分かる。
でもこういう第3次産業って、本質は情報産業だ。情報を動かしてお金を儲けているんだから。君の翻訳業なんかもね。
「たしかにそうね。」
--これが基本になるから、第3次産業はどうしても人が集中する都市にしか成り立たない。その証拠に、商業施設やオフィスビルは、土地面積あたりの人口集中度でみても、面積あたりの付加価値高でみても、農業や工業よりずっと高くなっている。これが歴史のトレンドなんだ。
「だって、そんなのエコロジーの視点には全く反してるじゃない! ITがなんとかそれを崩せる鍵になれないの?」
--だめだろうね。だって、IT自体が第3次産業なんだ。メールとTV電話だけでソフトの仕事ができるか? ・・まあ正直言って、今の時点では、NOだな。エンド・ユーザーとの顔と顔をつきあわせた打合がどうしても必要になる。そうしない限り、相手が納得しないからね。
「相手のせいにばかりするのはおかしいわ。だって、そもそも、情報って人と人との結びつきの中でしか生まれてこないものなのよ。フェイス・トゥー・フェイス。面と向かって話していれば、顔色や声の表情から、相手が自信を持って言っているのか、ごまかしているのか、あなたの側だってすぐわかるもの。」
--まあね。・・うわ!
「きゃ、危ない! 何よお、今の車!」
--ふう、びっくりした。この先、道が細くなってるから無理に追い越しかけやがったんだ。
「ひどいわねえ。えーとそれで、・・あれ、なんの話だっけ?」
--そもそもは電子メールの話。でもさ、それでも、電子メールというのはかなり役に立つものだと思う。その特殊性を活かせればね。
「電子メールは定型化されていないから低級なんじゃなかったの?」
--ぐっ、低級・高級という言い方はしていないだろ。定型情報も忘れちゃいけないと言ってるだけだってば。メールは非定型なコミュニケーションの手段としてはすぐれていると思うよ。
「あなたのいう、メールの特殊性ってどんなことなの?」
--電子メールというコミュニケーションの特殊性は、電話や手紙・FAXといった従来の手段と比べるとわかりやすい。
電話ってのは同時性を要求するメディアだ。自分と相手が同じ時間に電話線の両端にいなければならない。お互いの空き時間に束縛されるんだな。いっぽう手紙は配達まで日単位の時間がかかる。リアルタイム性に欠けている。電子メールはちょうどこの中間で、送達はふつうほぼ瞬時だが、読む側は自分の都合のいい時間に読むことができる。
電子メールは時差のある海外と仕事をしている部門からまっ先に普及したもの、うちの会社なんか。
「それはでも、FAXも同じね。」
--うん。でも、FAXとちがう点が二つある。まず、cc:による多数の相手への同時配布が非常に簡単だ。それと、蓄積・検索・並び替えが自由にすばやくできる。一種のデータベースの形にできるんだ。このデータベースを多数の人間で共有しようというのが、いわゆる「グループウェア」のアイデアだ。
「でも、そのcarbon copy:による同時発信って、よしあしよね。ちょっとでも関係ありそうな人に配りまくるから、うけとるメールの数がやたら多くなって爆発状態だもの。」
--それはそのとおりだね。それに、インターネットのmailing listとかnews groupという機能を使うと、不特定多数の人間にばらまくこともできてしまう。
「不特定多数同士のコミュニケーションとなると、匿名性の問題なんかもでてくるわね。」
--うん。これはウェブをつかったホームページの場合も同じなんだけど、匿名でどんどん情報を発信できてしまう。これは今までのコミュニケーションには無かった特殊性だ。
しかも、インターネットだと海外でも簡単に届いてしまう。検閲も難しい。だから国境の意味が薄くなってしまう。
「国境の意味って、すでにEU統合なんかでどんどん薄らいできてるわよね。」
--たとえばね、さっきの電子商取引の話にも関連するけど、独占禁止法や不公正競争防止法ってのは、国内法だろう? でも、A国とB国の人が電子メールで商談をしていて、サーバがC国にあったりしたら、国単位の規制法なんか無意味じゃないか。ITってのは、必然的に国家の主権のあり方にさえインパクトを与えていくもんだとぼくは思う。
「っていうことは、ITはグローバリゼーションを進展させるわけ? だって国の主権って煎じ詰めれば領土権と、立法・司法権と、経済主権つまり通貨の管理権なんでしょ? だったら主権を守りたい方々は、インターネットなんか禁止すべきでしょうね。」
--ま、そういう極端な話はともかく、電子メールの匿名性の問題に戻ると、発信者の身元を隠すことだけでなく、偽ることだってやろうと思えば可能だ。そうなると、電子メールによるコミュニケーションの法的有効性というややこしい問題まででてくる。
「確かに判子はつけないものねえ・・どうやって自分を証明するか。」
--はんこやサインのかわりになる、一種の電子サインをつけることは技術的には可能なんだ。こうすると偽造の問題はほぼ無くなる。でも匿名でメールをばらまくことまでは防げない。
「相手の顔が見えないって怖いわね。でも、そういう意味では、あなたが上げなかった電子メールの特殊性がもう一つあるわよ。」
--へえ。なんだい。
「電子メールって書き言葉だけのコミュニケーションだってことよ。これってすごく特殊だわ。」
--そりゃあ、以前の電子メールはいわゆる『テキスト』しかサポートしていなかったさ。でも、やろうとおもえば添付ファイルに写真もつけられるし、最近じゃウェブのホームページと同じ様な見かけをつくるHTML形式のメールだって増えている。かなりマルチメディア化してきているけどな。
「だからあ、なんていうか、そういう技術的な問題じゃないのよ。言葉ってもともと・・ああ、こういう微妙なことって説明が難しい。」
--じゃ、ゆっくり考えていただいている間に、ぼくの側からひとつ言わせてもらおう。ぼくなんか君とちがって外国語が苦手だから、英語でやりとりしなきゃならない外国の相手とは、電話よりも電子メールの方がずっとありがたい。ゆっくり読み書きできるし、聞き間違いもない。書き言葉のありがたい面だね。メールがどんどん進化してTV電話みたいなものになっちゃったら、ぼくみたいな人間はかえって困っちゃう。
「それはそうでしょうけど・・」
--まあ、そもそもインターネットの中では英語が事実上の標準言語みたいになってきているし、ゆくゆくは世界中が英語でやりとりするようになる便利で平和な時代も遠くないのかもしれない。世界中のみなが自国語の他に英語を必ず学ぶような時代にね。
「なんですって?」
--それに、英語の方が日本語よりもずっと論理的だから、日本人のわけ分からなさ加減も少しはよくなるかも。
「ねえ。おねがいだから、私の前で外国語についていいかげんなことを言うのはやめてちょうだい。わざとわたしを怒らせたいのならともかく。」
--なんで怒るのさ? 君の翻訳の仕事が無くなるから?
「あのねえ。言語って、経済の利便や都合だけのためにあるんじゃないのよ。
世界中の人が英語を学ぶ? よしてよ。言語って文化の一部なのよ。今、英語がのしているのは、この200年の間、たまたま英国と米国が軍事力と経済力で世界中を席巻してきたからでしょ? 別に英語がとくべつ素晴らしい言語だからじゃないわ。
英語が論理的? それもぜんぜんおかしいわ。英語は格関係がかなり退化しているし、接続法だって単純な仮定法があるきりだから、他の印欧語に比べるとあまり精密な思考や精緻な感情表現には向かないの。
それでも英語で十分論理的にものが言えるのは、アングロサクソン系の人たちが、多面的で簡潔な事実認識と、歩幅の短い三段論法の積み重ねで考えを進めるのが得意だからなんだわ。つまり使い方の問題なの。やろうとおもえば日本語だって英語以上に論理的になれます。」
--へいへい。
「それにね、歴史的に見ると仕方がないんだけど、英語はゲルマン語にラテン語が混淆して語彙の系統が複雑だし、綴りと発音の関係なんか最大級にめちゃくちゃだから、あまり外国人が最初に学ぶには適していない言葉なのよ。」
--そうですか。ぼくが中学生のとき人生が不幸だったのは、その辺に遠因があったのかもしれないな。でもさ、お説はごもっともで分かったから、ITに話をもどしてもいいかな?
「・・どうぞ。」
--おおきに。
匿名性の問題に戻るんだけど、実はそこにはメリットもある。
「・・たとえば、どんな?」
--まずね、匿名取引が可能だ。電子商取引の仕組み次第ではあるけれど、相手に名前を知らせずに売り買いができるようになる。これは、プライバシーを守りたいときには有用だ。
それと、匿名議論が可能になる。パソコン通信なんかじゃ昔からペンネームみたいなものだけで議論に参加することがよく行われていたけど、たとえば会社の中でだって、実名だと言いにくいが匿名ならば発言できるような事柄がある。今まではそこに実名性の壁があったわけだ。
「あなたの会社ってそんなに息苦しいとこなの? 電子会議とかよりまず、もっと風通しをよくすることからはじめた方がいいんじゃない。」
--いや、だからこれはたとえ話だってば。でもとにかく、実名と匿名の使い分けができるようなネット世界では、これまでとはちがったモラルが必要になってくるだろうな。
「そうかしら? 他人に危害を加えるようなインモラルなことをすれば、結局その罰は現実世界にかえってくるんだから、同じことなんじゃない? そもそもモラルって、何?」
--ブブー。“××ってのは何か”という質問はいっさいお受けしないことになっております。・・いや冗談だけど、まあIT以外の事柄だし。
モラルって、ぼくなりに定義すれば、“やろうと思えばできるけれど、そしてそれが短期的には自分の利益にかなうけれど、長期的には自分の信用や利益をそこなうであろう行動を、思いとどまらせる要請”かな。善行に関しては逆だけど。
「ふうん。社会とか、伝統とか、ましてや宗教とかは関係ないわけ?」
--そういうものは全部捨象しちゃってあります。だって世界規模のネットの中には持ち込めないからね。
「道徳を功利的にしか説明できない状態自体、すでにモラルの退廃を示している・・なんてあなたに言っても通用しないんでしょうね、きっと。でもね、モラルがあるならリスクもあるわよね、きっと。電子メール社会のリスクって何かしら? 受け取れるはずの情報をせき止められること?」
--ぼくらの商売がまず心配することは、大事な情報を盗み見されることだ。それは技術的に何重にも壁を作っているわけだけれど。
でも、ぼく個人の経験で言わせてもらうと、あまりがちがちにセキュリティをきつくしたシステムは、融通がきかなくて結局は使われなくなってしまうことが多い。だから、自分で設計するときは、情報へのアクセスは極力自由にしておく。そのかわり、要所要所のアクセスの記録だけは取れるようにしておく。そして不正を働いたものは厳罰に処する。つまり、『お互い大人だろ?』というルールで運用したいんだ。君が前に話していた、ヨーロッパの鉄道みたいにね。
「それはたしかに良い発想ね。それだったらモラルを語りたい気持ちも少しは分かるわ。
でも、その逆のリスクもあると思うの。あることないことを書き立てられること。昔なら町内の噂を広めていた『放送局』のおばさんにあたる人が、覆面してネット上でしゃべり歩くわけ。ぞっとするでしょ?」
--たしかに、電子メールやウェブ技術の登場のおかげで、個人対個人だった通信と、一対多数だった放送との境目がなくなって、ごちゃまぜになってきた。これまでの放送には一応、放送業界のコードがあり、また覆面では登場できないから、発言者責任もあった。しかし今のネットには、これがない。問題だね。
「でも、そのかわり、いいこともあるわよ。」
--何がさ?
「誰もがお上や大企業の許可なしで発信者になれる自由。放送局になれる自由。
匿名と実名って言うけれど、無名の私たち大多数にとって、違いがあるかしら? 本当は、有名か無名かの違いの方が大きかったんじゃないの? この世の人をそういう基準で二分して、無名人が有名人を羨ましがらせるように仕向けることが、放送局の利益の源泉だったんじゃないかしら。
放送業界のコードなんて・・日本のTVってそんなに独立性が高かった?」
--まあ確かに、日本のTV局がながいこと巨大な広告代理店の影響下にあったことは間違いないだろうな。なにせ、視聴率調査会社が、広告代理店の子会社なんだから。それに巨大広告代理店は二大通信社と緊密な関係にあるから、とうぜん放送や報道もその影響力がおよぶ。
でもさ、代理店の支配力だって足下が崩れつつあるよ。だって雑誌の広告はスペースをまとめて買って小口で売る商売だけれども、インターネットはそうはいかない。
「結局ね、これまで情報って、有名人つまり発信する人と、無名人すなわち受け取る人とに分割されていたわけでしょ? それがくつがえされるなら、ITの少々のリスクは我慢してもいいわ。」
--・・それと似た言葉がITの世界にもあるな。『デジタル・ディバイド』=ITを使う人とITに使われる人への二極分化だ。
「あら。せっかく一つつぶしたと思ったのに、これじゃいたちごっこだわ。」
--まあね。ただ、『使われる』といっても、これは多少は受け取り方の問題でもある。たとえば、ITシステムの提供するヒューマン・インタフェースが狭いとユーザの被害者意識がふえる傾向がある。
「インタフェースが狭い、って?」
--対話の手段が少なかったりチャンネルが狭いこと。あるいは入力方法が分かりにくかったり石頭だったりする場合もそうだ。この二極分化の壁は、ソフトの作り方しだいでは案外乗り越えやすいんじゃないかとぼくは思ってる。
(つづく)
(c) 2002, Tomoichi Sato
(この話の登場人物はすべて架空のものです)