製造業の問題はミッドスケールのシステムで生じる

わたしは株はやらない。自社の株ももっていない。内部から見ていると、勤務先の株価は内実を正確に反映しているどころか、ずいぶん奇妙なきっかけで大きく振れたり、いいトピックなのに全然上がらなかったり、実に不可思議である。だから他社の株価だって、ずいぶん実質とは関係のないところで動いているのだろうと想像している。価格が実質と関係の薄いところで上下するものを取引して利をねらう行為は、一種の賭博ないしゲームであろう。もちろん、賭博やゲームがいけないとは言わない。ただ、自分はそうした事柄は上手でないのを知っているから、手を出さないだけだ。

それでも、証券業界のアナリストがわたしの勤務先を評価しているのを読むと、さすがプロだと感心する部分はある。プラント・エンジニアリング会社というのは日本に類例が少なく、しかも、ものづくりや販売力ではなく「プロジェクト・マネジメント」で稼ぐ業態である。普通の人には分かりにくいはずの業態を、市場・競合・リソース・技術などの要素からうまく分析して、それなりに長所や弱点などをつかみ出している。

アナリストの分析でもう一つ気持ちがいい点は、経営者の個人的な資質であまり説明しない事だ。というのも、巷間耳にするサラリーマン達の企業批評は、かなりの部分が経営者批評だからである。歳の若さから学歴や気質、そして頭の毛の量の多寡まで、あれこれが批評のネタになる。あたかも企業の業績はもっぱら、社長個人の資質で決まるかのようだ。たしかに経営者の能力が、組織のパフォーマンスに与える影響は大きい、とわたしも思う。しかしそれで事象を100%説明するのは、関ヶ原の合戦の勝敗を徳川家康と石田三成の性格論だけで説明するようなものではないか、と思う。あるいは日露戦争の勝敗を、ステッセルと乃木希典の性格の違いだけで説明するような。



いや、チームの戦績は指揮官によって決まる、たとえば長く不調だったチームが名監督を得てめざましい成績を上げる例は、スポーツの世界に多いではないか--そう、反論される向きもあろう。たしかにその通りだ。だが、スポーツの世界では、1チームを構成するメンバー人数はせいぜい数十人程度であることを忘れてはならない。中小企業診断士のベテランの先輩達によると、企業は社員数が200~300人を超えるところで、質的に変化するという。それ以前は、社長個人がすべてを見渡し、取りしきることができる。ところが300人以上になると、組織と仕組みで動かしていかないと、きちんと機能しなくなるのである。企業組織というのは、そのサイズのあたりに、質量転化の臨界点があるらしい。

サラリーマンの企業批評でもう一つ盛んに取り上げられる論点は、『製品』である。これはたとえば、iPhoneのような魅力的な製品を日本企業がなぜ作れないのか、といった論調に現れる。良い新製品を作れば、業績は必ず上がる--こうした確信は、メディアを含め広く受け入れられているようだ。わたしのように個別受注ビジネスで生きている人間から見れば、これはあまりにも「大量見込生産」時代の思想に感じられる。わたしの勤務先だけではない、日本にはBtoBの受注生産の会社は数え切れないくらいあるはずだが、世間の論調はもっぱら、家電や自動車といった、“製品”が直接消費者に受け渡されるビジネスに焦点がむけられている。良い新製品が生まれれば、そして良い経営者を得られれば、日本企業は復活する。これがわたし達の聞かされる、国民的信条ないし子守歌であろう。

新製品、経営者--こうした事柄は、企業の本社レベルで決まる、マクロな論点である。多くの人は、このマクロ的視点から、企業を評価したがる。他方、全く逆の視点から企業業績を捉える人たちもいる。その人達のキーワードは、『現場力』である。現場の組立工程で、作業員が部品を手にとるため横に一歩踏み出すところを、レイアウトを工夫して半歩ですむようにすれば、1個あたり0.3秒の作業時間のムダとりができる。年に30万個を扱うなら、合計25時間分の労賃の原価削減になる。こうしたミクロな努力の積み重ねこそ、製造業の業績を左右する。お金は現場に落ちている。現地現物を見て考えろ。これこそ、現場主義の人たちの信条である。



わたしが見たところ、日本の少なからぬ工場の現場は、たしかにまだまだ改善の余地がある。かりに現場改善の努力を積み重ねて、製造原価を3%下げることができれば、(意外に聞こえるかもしれないが)それは画期的である。というのは、企業の業績というのは、たいてい±5%程度の差で勝敗が決まるからだ。同業他社と3割も4割も価格が違うことは、成熟した産業ではあり得ない。わずかなマージンを取るか取らないかで、受注確度が変わる。そして受注量が変われば、採算点も変わるのだ。事業部にとって、赤字か黒字かは天と地ほどの差がある。その差が実際にはわずかでも、利益-2%と+3%では志気は大違いなのである。

しかし、このサイトの論調を見てこられた読者の方はお気づきだろうが、わたしは現場改善だけが業績の鍵だ、という見方には批判的である。トヨタを真似て、いわゆる“JIT生産”を導入すれば問題解決との楽観論に、わたしは警鐘を鳴らし続けてきた。前提条件の違いを無視して他社を真似れば、別の大きな問題を生むことの方が多い。どうしてそうなるかといえば、ミクロな現場主義者達が見落としている点があるからだ。ただしそれは、マクロな経営者の資質や製品開発力でもない。マクロとミクロの中間スケールにある、組織を動かす生産システムの問題である。

生産システムとは、繰り返し述べたように、「需要情報というインプットを、製品というモノに変換してアウトプットする仕組み」のことである。これは営業-企画-開発-設計-購買-製造-物流といった、企業内の機能の連鎖によって実現される。そのシステムが、一貫したプランの元に、整合性のある動きをして、矛盾は即座に自己解決しながら進むなら、それは「まとも」な生産システムである。そのシステムが、互いに分断されたプランと指標のもと、他とかみ合わない動きをして、問題は抱え込まれ伏流していくなら、それは「普通」の生産システムである。企業というのは面白いことに、「普通」なシステムでも市場が右肩上がりの時には成り立っていく(だから「ダメ」と言わずに「普通」と呼んでいる)。違いが見えてくるのは下り坂になったときだ。「まとも」なシステムの方が、ずっと弾力性が高いからである。

そして、このような中間スケールでのシステムの質は、有価証券報告書や企業の組織図だけを見たって分からない。また、現場の整理整頓レベルだけを見たって分からない。情報とものの流れを丹念に追って、決断がどのポイントでどういう基準でなされるかを分析する必要があるのだ。こうした仕事をするのが、中小企業診断士などの生産系コンサルタントである。もっとも診断士にもいろいろな得意分野があるし、逆に資格がなくても立派なコンサルティング能力を持つ人も多い。

わたし達、中小企業診断協会「生産革新フォーラム」の仲間が、あえてこの時期に『“JIT生産”を卒業するための本』を世に問うたのは、こうしたミッドスケールの問題点があまりにも見過ごされているからであった。人は足腰の筋力だけ鍛えても、スポーツの良いプレイヤーにはなれない。頭だけ良くても、やはり良いプレイヤーにはなれない。五体が機敏に無駄なくちゃんと反応してこそ、いい成果が出せるのだ。日本企業の問題は、マクロでもミクロでもなく、ミッドスケールのシステムで生じているのである。

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