英語のLetterとSpirit

復活祭の季節だ。先週はHoly Week=『聖週間』と呼ばれ、キリスト教徒にとってはクリスマスとならんで最も重要な祝祭のための7日間だった。この時期、ヨーロッパやアメリカの企業に電子メールやFAXで何かを依頼しても、返事などろくにかえってきやしない。飛行機はとれず宿も満員になる。敬虔なクリスチャンにとっては神聖な黙想のための週であり、敬虔でないクリスチャン(つまりほとんどの欧米人)にとっては、家族で休暇旅行に出かけるための週である。


日本人はクリスマスを輸入したが、なぜか復活祭は持ち込まなかった。十字架上で受難したイエス・キリストが3日目に復活して甦えったことを記念する--これが本来の意義だが、北半球の人間にとっては、冬が過ぎ去って、春の生命の復活を祝うシーズンでもある。これが日本に入らなかったのは、すでに花見や春休みや花祭りがあったからかもしれぬ。


復活祭は移動祝祭日と呼ばれ、毎年その日付が変わる。これは、「春分の日のあとの最初の満月の次の日曜日」という定義によって決められるからだ。太陽暦と太陰暦が入り混じったような不思議な設定になっているので、D. Knuth教授の『算法基礎』には、復活祭の日付の計算は中世を通じて最大の算法問題であった、とある。さもありなん。どうみてもプログラマを困らせるために発明されたとしか思えぬ祝日である。


復活祭の日付がTOEICの英語テスト問題に出たことがあるかどうか、私は知らない。たぶん、特定の宗教の習慣について問うのは"politically correct"ではないから、出ないだろうと想像する。しかし、復活祭という習慣は現に存在して、英語のネイティブ・スピーカーだったら誰でもそれを知っている。宗教は文化の一部であり、言語も文化の主要素である以上、切っても切れない関係がある。TOEICだけで英語の理解能力が計れないと私が思うのは、こういう点だ。


グローバル・ビジネスの道具としての英語に、宗教の知識など無縁だろうって? はたしてそうだろうか。何年も前のことだが、私はある米国企業とのプロジェクトのために、チーム・ビルディングの会場に向かっていた。ちょうど復活祭の直前の季節で、朝はまだ寒かった記憶がある。参加者の7割以上は日本人だったが、使用言語は英語だった。米国流のチーム・ビルディングがどんなものなのか、詳細はまた別の機会に書くことにしよう。とにかくその会場で、我々は「共同決意宣言」を英語で作ることになった。


その宣言文の討議の中で問題になったのは、契約書の扱いである。顧客の米国企業側は契約書の厳密な履行を求めた。われわれ請負側の日本企業は、「柔軟な運用」を欲した。議論はかなり並行線をたどったが、最後に我々の側にいたある米国人が、「契約の文言ではなく精神で」(Not by the letter but by the spirit)と提案したら、すんなり合意された。気のきいた言い回しだとは思ったが、なぜそれでぴたりと議論が収束したのか、私には分からなかった。


ところで、しばらくしてから、私は突然この文句は新約聖書にあるパウロの手紙の中の引用であることに気がついた。パウロは、人間を救うのは(旧いユダヤ教の)律法の字句letterではなく、聖霊spiritの恩寵である、と主張していたのだ。そして、このテーゼは、「契約社会」と呼ばれる彼らの考え方の底流を規定しているのである。だからあの宣言文は見事な助け船になりえたのだ。


もう一つ、例をあげようか。プロジェクト・マネジメント論の中で、マトリクス型組織の功罪という問題がある。マトリクス型のプロジェクト組織は、現代の経営学においては最も先進的な形態だと考えられている。そこにおいては、機能部署の指示系統とプロジェクト別の指示系統が二重に存在する。しかし、古典的名著「人月の神話」を書いたBrooks Jr.はこれを批判して、『人は誰も二人の主人に仕えることはできない』と主張する。とはいえ、これで反論になるのだろうか?


この文句も実は、新約聖書からの引用になっている。人は誰も、「神とお金という二つの主人に」同時に仕えることはできない--これが本来の意味である。確かに、この2種類の主人は相反する価値を体現している。Brooksの主張は、ここまで読み込めば、強いインパクトを持つ反論であることが理解できる。そして、ごくふつうのアメリカ人ならば、「二人の主人に仕える」と言われれば、すぐにこの文句の意味にピンとくるのだ。


一説によれば、英会話の学習というのは、約700時間を費やせば一人前になれるという。1日1時間として、ほぼ2年間である。まあ、そんなものかもしれないな、と私も思う。しかし、それでトレーニングできるのは、せいぜい読み書き聞き話す、枝葉の技術である。一番大事な「文化を理解する」という能力については、実はほとんど、これでよいという際限がない。


復活祭の7日前の日曜日を、英語でPalm Sunday=『枝の主日』と呼ぶ。この日、(宗派によって習慣は異なるが、たとえばカトリックなら)信者たちは棕櫚の小枝を持って聖堂の外に集まり、キリストのエルサレム入城を祝った史実を模して、十字架を先導とする行列をつくって聖堂に入る。そして、福音書の受難劇の部分を朗読する。この時につかった棕櫚の小枝は、翌年の復活祭の40日前の水曜日、いわゆるAsh Wednesday=『灰の水曜日』に燃やして灰にする。そして、信者はその灰を額に十文字型に塗りつける。その日は街中で額に灰を塗った人々と行き交うことになる。灰の水曜日から復活祭の日曜日までの期間を『四旬節』といい、原則として禁欲の期間となる・・


こういう知識は、TOEICの試験問題では問われない。だからTOEICの参考書にも出てこないだろう。しかし、キリスト教を信じようと信じまいと、英語のネイティブ・スピーカーたちは、みなこういう習慣を「肌で知って」いるのだ。多くの日本人にとって、宗教だの聖書だのはひどく縁遠い代物である。しかし、それは確実に欧米文化圏の世界観を規定している。その世界観は、思わぬ瞬間に、ひょっこりと顔を出す。なぜなら人間は「パンのみに生きるにあらず」、つねに意味を求めて生きている存在だからだ。そして、だから私はいつも、“ぼくらに英語はわからない”と言い続けているのだ。