高度人財の価値をはかるには

  • 物流の価値と、高度物流人材の価値

先日のエントリ「物流は本当に付加価値がない業務なのか」 (2023-06-04)でも書いたことだが、国交省は「高度物流人材」の育成策を講じている。わたし自身も昨年度から、日本ロジスティクスシステム協会の「ストラテジックSCMコース」の講師をお手伝いすることになったので、少しばかり身近に感じる立場である。

ただ、そこにも書いた通り、物流業務はふつう、付加価値を生まない業務として低く見られている。理由は、モノを保管したり需要地に移したりしても、会計上は価値が変わらないことになっているからだ。モノの価値は、その市場価格によって客観的に決まる。産地の米を消費地に移しても、価値が変わるわけではない。むしろ原価が上がるだけ。これが会計学の主流の考え方だ。

これに対して、同じモノでも、需要に近いほうが価値が高い(在庫毀損のリスクが小さい)と考えれば、物流にも付加価値が生じてくる。これがわたしの考え方だが、いいかえると、価値は見る人によって異なるという主張だ。リスクは、それを考える主体の目的・意思や、起こりうる事態の予測への信念の度合いに依存するからだ。

では、人材の価値はどうだろう? それはどのように測り、どのような形で表現されるのか。

たとえば、人材の価値とは、その人が得る給料(収入)だろうか。あるいは、その人の将来収入を積算して、適当な利率で割り引いた金額だろうか。保険会社や裁判所なら、そうだと云うだろう。でも、ある人がその勤務先からもらう給料は、「市場価格」だと言えるのか。転職しても同じ給与をもらえるだろうか。転職へのハードルが高い、今のわたし達の社会で、人材の市場価格は測れるのだろうか。

  • 人材から人財へ、そして「人的資本」へ

御存知の通り、何年か前から、「人材」のかわりに「人財」という漢字を使う人や組織が増えた。人間を材料扱いする立場から、財産と見る立場に変化しようという意図だろう。もちろん結構なことだ。わたし達の島国にある唯一最大の資源は人なのだから、それを大切にするのは当然であろう。

これは、英語でHuman resourceという用語が、Human capitalとかわってきた経緯と並行している現象だろう。前者は「人的資源」だったが、後者は「人的資本」という訳だ。

ちなみに経済産業省は、2022 年5月に「人材版伊藤レポート 2.0」を公開し、「人的資本経営」の実現のために、経営戦略と人材戦略を融合すべきと提言した。くわえて内閣官房の非財務情報可視化研究会で「人的資本可視化指針」が検討され、2022 年8月に成案 が公表された。

それは結構なのだが、奇妙なのは、それが「資本」であるにもかかわらず、非財務情報開示の枠組みで議論されていることだ。資本だというのなら、なぜお金や機械設備・固定資産と同じように、財務諸表に表さないのか。

ちなみに、この問題についてChatGPTにちょっと聞いてみた(笑)。以下が、その答えである:

「最近の傾向として、企業は人的資本を財務諸表に表示する方法に関心を持ち始めています。人的資本の評価には市場価値法やコスト法があります。財務諸表への表示方法としては、給与や福利厚生費の評価や人的資本の価値を認識する方法があります。ただし、標準化された方法や枠組みはまだ確立されておらず、各企業が独自の評価方法を構築する必要があります。非財務指標も考慮し、人的資本の最適活用や育成にも注力することが重要です。」

ホエ、そうですか。まあ、ネットから有りネタを集めてきて、もっともらしい言説を生成する機械の言う事だから、あまりあてにはできないが、こうしたことが議論されているらしいことは分かる。

  • 人の「資産価値」を考える

わたし自身はこの問題について以前、「人件費の一部は労働の対価ではなく、職務能力のビルドアップ投資と考えて、企業の人件費の20%程度を、経費ではなく設備費(繰延資産)として計上する」というアイデアを書いたことがある(「クリスマス・メッセージ:見えるコストと見えない価値」 (2016-12-25)。

たとえば人件費が年間500万円なら、資産価値100万円がその人に積み上がる。10年間続けて働いたら、1千万円の価値がその人間にあると評価する。10年というのはまあ、一人前のプロフェッショナルになるのに必要な時間だろう。

社内にプロが100人いたら、10億円の資産価値だ。100人の首を斬るのは、10億円の機械設備をドブに捨てるのと同じことになる。そういう風に、具体的な値段をつけると初めて、真剣になる経営者だって多いだろう。そうなれば、高度物流人材に対する接し方だって、少しは変わろうというものだ。

日本企業はかつて、一括で新卒採用をして、社内教育で人を育てることをしてきた。大学名や偏差値は重視するが、大学で何を学んだかは、あまり気にしない。必要な知識は、社内で働く中で身につける。これが基本の考え方だったから、大学での専門職業教育は発達しなかったし、大学側もそれでいいと思っていた。

しかし不況が長引くに連れて、企業は「即戦力」を求めるようになった。これはいいかえると、社内教育に予算をかけたくなくなった、ということだ。そこでにわかに、資格と結びつけた外部教育が注目されるようになった。逆に働く側も、終身雇用制が薄らいで、いつ首を切られるかわからない、それくらいなら自分で外を探す、という気持ちで、資格を求めるようになった。

そして、技術・スキルに関する資格制度は、きちんと機能している。医師国家試験、司法試験から、技術士、一級建築士、そしてIT技術の各種資格まで、どれも経済的な意義(資産価値)がある。中には「取っても食えない」資格もあるが、それは市場の需給関係のためで、食うための必要条件だが十分条件になっていないだけだ。

  • なぜ日本では「高度人財」の資格制度が活かされないか

ところが、MBA(経営学修士)、MOT(技術管理学)修士、PMPなどは少し異なる。受験者や取得者はそれなりに多い。だが、これらの資格を取得したら企業に良い処遇で採用されるか? そんな事はあまり聞かない。そして、来るべき「高度物流人材」だって、このカテゴリーに入る可能性が高い。

なぜか? それは、これらの資格が、特定の技術・技能よりも、主にその分野で「人の上に立ってマネジメントする」仕事のための資格だからだ。こうした仕事に資格試験を適用することは、わたし達の社会で深く内面化されている、一種の「人間主義」に反するのである。

仕事の成果は、その組織の上に立つ個人の「人間力」でほとんど決まるーーこれが、わたしが「人間主義」と呼ぶ信念である。成果の属人主義といってもいい。人間主義の信念は、具体的には次のようになっている:

  1. 知識・技術などの部分は、教育トレーニング可能である。そのために学校やセミナーがある
  2. しかし仕事の成果を決める、より深い部分の能力は「才能」「人柄」などで、これはほぼ生まれつきで決まっている
  3. ただし「熱意」があれば、その不足を補うことができる。そのための訓練の場としては、徒弟制度や「道場」が機能する


人間主義(属人主義)を信じる者は、普遍的な知識に基づく資格試験制度を信用しない。知識を身につければ、誰でも成果を出せるという考え方は、彼らの信条に合わないからである。

人間主義者が試験制度に意義を認めるとしたら、それは「傑出した人材を選別する」機能としてだけである。そのためには、試験は狭き門でなければならない。一流大学の入試とか、司法試験とかがわたし達の社会で重視されるのは、このためだ。そして傑出した人材は、その後どんな分野に行こうとも、優れた成果を出せると信じられている。

  • 未来のビジョンを示さない企業は人財が流出する

人間主義が大手を振るう社会にあっては、SCMだとかプロジェクト・マネジメントとかを教える意味は、きわめて薄い。資格をとっても、資産価値には換算できない。だったら、誰が自分に教育投資するだろうか?

わたし達の社会では、教育投資は「受益者負担」で「自己責任」だということになっている。自己啓発に基づく自己責任論を、最初に日本で提出したのは経団連だと言われている。人材教育は企業の投資でもなく、社会投資でもない。自己投資である。これが世の中の合意事項らしい。

ところで、最初に述べたように、同じ物事の「価値」であっても、見る人によって異なる。だとすると、人の資産価値も異なるわけだ。

企業の側から見ると、価値ある高度人材とは、払っている給与に比べて、出してくれる成果が高く、かつ、急にやめたりするリスクも小さい人のことだ。逆に、普通の人材とは、「いつでも首にしたり雇ったりできる」人たち、ちょうどタイヤやワイパーなど自動車部品のように、安い市場価格でいつでも手に入り、『交換可能な』人々のことである。

昔の日本社会では、肉体労働に近い現場職種ほど「交換可能」で、知識労働のホワイトカラーは高度人材だった。ホワイトカラーは、じつは業界や各社によって業務プロセスも必要な知識もみな違うため、転職しても急に役に立たない。そういう意味でも、会社を離れる心配はなかった。かくて昭和の大企業では、「人事部」と「労務部」が別に存在し、それぞれホワイトカラーとブルーカラーを所轄していた。

だが、企業が不況で教育投資を手放した結果、どうなったか。外部が教育するなら、カリキュラムも共通化する。あらゆる種類のスキルや技術が、どの業種どの会社でも役に立つ形に、まとめられるようになった。こうなると、採用も楽だが離職も楽になる。いつの間にか、働き手の側が、会社への就労の価値を見て、選ぶようになってきた。

働く側から見ると、「得られる給与」「仕事の面白さ」「それ以外のベネフィット(人間関係を含む)」そして「将来も継続できるという期待」が、働き続ける価値である。

このうち給与は概ね、市場原理に従うので、あまり大きな格差はつけにくい。何よりも、今の人材市場で重視されるのは、将来性という価値の側面である。

先日聞いたばかりの話だが、米国では石油メジャーの技術者の平均給与は年収18万ドル(2千5百万以上)である。一方、風力発電などの技術者は、その1/3強の7万ドル程度(約1千万円)だ。だが、それでも今や、若い技術者は巨大企業のオイルメジャーではなく、再生可能エネルギーの職場を選ぶのだという。それは結局、化石燃料の世界に将来性を感じられないからだろう。

人間主義(成果の属人主義)に長らく依存しながら、同時に「即戦力」志向で転職へのハードルを強引に下げてしまった日本企業は、この先どうするのだろうか? マネジメントにも専門技術があることを認識して、高度人材の資格制度を受け入れるのか。それは属人主義を捨てて、社内の仕事をシステム化する事を意味していく。はたまたそれとも、リーダーは社内で選別育成を(この人材不足時代に)続けていくのだろうか。

何れにせよはっきりしている事が一つだけある。将来へのビジョンを明確に示せない企業からは、どんどん人財が流出していく、ということである。

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