「不況」の根源的問題(2002/3/18)
ヨーロッパに暮らしているおかげで、ときどき日本に関する質問を受ける。好奇心まじりの質問もあるが、文化や日常生活に関することならば、たいがいはなんとか答えられる。
しかし、一番答えに窮する質問、かつヨーロッパ人が今もっとも関心を寄せている質問が一つある。それは、『日本はなぜこんなにひどい不況に落ち込んだままでいるのか?』という問いだ。何が原因でこんなひどいことになったのか、と。
これは答えるのがむずかしい。この問いをめぐって多くの経済学者が論争している。あるものは不良債権が問題だと言い、あるいは財政政策の緊縮が失敗だったと主張し、あるいは通貨供給に不備があった、いや株価対策が大事だ、そもそも土地の値段が下がりすぎたのが原因だ、等々と百家争鳴も甚だしい。
このような中で、経済学の素人が言える答えはたった一つだ。それは、「決して単一の原因からこの状況が生まれたわけではないだろう」ということだ。なぜか?
それは、一つの社会の経済、一国の経済は、本来複数の要因が相互に連関しあった複雑なシステムの一部を構成しているはずだと考えるからだ。政治・社会・文化・教育・インフラ・・全てのことがお互いにからみ合い、原因であると同時に結果でもある連鎖をなしていると信じるからだ。これだけの巨大なシステムが、10年がかりである一つの状態に向かっているとしたら、それは単一の原因であるはずはない。
換金可能かつ交換可能な資産(株や土地はその典型だ)には、「市場」が形成される。市場では、そのもの自体が持つ使用価値とは離れた、期待ないし思惑による「相場」が生まれる。相場は結局、投資者の主観によって動かされる。あらゆる相場が全体として下降の方向にある状態を不況と呼ぶのである。
では、好況時に資産の相場の裏書きをしていたのは何だろうか。それは、企業・農家・商店等を含む産業全体が、収益を生み出しつづけることが可能である、という「信用」であった。国際競争力の高さから生まれる収益力への信用。その信用が失われている状態が「不況」である。
逆にいいかえるならば、不況の中心的問題とは、日本の企業が全体として競争力を失っていることにある。
しかし、まちがえないでほしい。これは問題の中核を解りやすく言い替えただけであって、けっして原因を示しているのではない。
「先生、昨日から頭が痛いんです。」
「どれどれ。ははあ、これは頭痛ですね・・・」
こんな言いかえは診断ではないし、処方箋も書けない。日本の企業が全体として競争力を失った原因、それは決して単一の原因から導き出されるものではないし、そういう単純化した議論には落とし穴があるはずだ。
それでも、もし何か一つをやり玉に挙げなければならないとしたら、私は「考える能力」の欠如をあげるしかない。真の思考能力とは、事実をおそれずに客観的に直視する能力、そして事実による検証の刃によって、自らの論理の枠組みを多角的に問い直す能力である。その欠如はたとえば、失礼ながら上に述べたエコノミスト諸子百家の論争に、典型的にあらわれている。彼らは「不況をどう解決するか」という同じ問いの枠組みから出発するばかりで、客観的な仮説検証のプロセスが欠けている。いや、それだけでなく、根元的な「不況論」が欠けている。
そもそも、「不況」とはそんなに悪いことなのだろうか。え? お前も職を失ってみれば分かるだろうって? なるほど。自分を取りまくミクロ経済的には悪いと実感をもって言えるだろう。しかし、そもそも、不況とは何なのか。どういう状況をさして不況と呼ぶのか。好況時とはマクロ経済のプロセスが、どこで違うのか? インフレの不都合と不況の困惑はどちらがひどいのか。そもそも経済循環の存在は悪と言えるのか--?
今のわれわれ日本人に最も欠けているのは、「そもそも論」なのではないか。「そもそも」から出発して、根本を考えつづける作業こそ、その日暮らしとその場凌ぎの連続の日常から抜け出す唯一の道なのだ。
ミクロな状況判断をつみ重ねても、決してマクロな方向性を定めることはできない。戦略の不在を戦術の工夫で切りぬけることなど、そもそも不可能なのだから。