近似値としてのCoreaとJapon
新聞を見ていたら、最近、韓国と北朝鮮の学者が合同で、自分たちの民族の英語表記”Korea”を、”Corea”に変えるよう運動しているとの記事があった。頭文字のKをCに変えたいというのだ。
その理由として、昔は英語でもCoreaだったのに、20世紀に入ってからKoreaと変えられてしまったのは、日本の植民地政策によるものだった、という主張がされている。Koreaだと、アルファベット順で日本よりも後になり、オリンピックの入場行進でも日本が先に目立つから、ということらしい。日本の帝国主義支配者たちの民族文化に対する悪業が、また一つ明らかになったというわけだ。
私は、固有名詞に関しては現地主義だ。現地の人が認知し、また実際に使っているものを優先させたいと思っている。だから、隣人たちが「これからはCoreaにしたい」と公式に決めたなら、明日からでも喜んで従おう。アルファベット一文字で数千万人の人がハッピーになれるのならば、安いものだ。これまでも、「ザイールでなくコンゴだ」と言われれば私はコンゴと呼んできたし、「この国はビルマでなくミャンマーだ」とjuntaが言えば、それに従った(juntaが何かを知りたければ英和辞典をどうぞ)。アメリカ人みたいに、Napoliをネープルズと言ったり、Munchenをミューニックと呼びつづけるのは、何だか滑稽だと私も思う。
ただし、記事を読んでわずかに違和感を感じたのは、なぜこの人たちが英語表記にだけこだわるのか、ということだった(現にフランス語ではCoreeで、Cで始まっている)。ドイツ語は、ロシア語はどうする? いや、そもそもなぜ「コリア」なのか。この人たちの国は、たしかハンとかチョソンとかいうのではなかったか(私の発音が悪いのは許していただきたい)。なぜ高麗などという、今はどこにも存在しない国号をベースにした呼称で満足しているのか。
この奇妙さ加減は、東海をはさんだ隣国の人々の不思議さ加減と、ちょうど良い対称をなしている。そこの人々は、自分たちの国をジャパンだとか、ひどいときにはジャポンだとか称して喜んでいる。雑誌のタイトルや外資系企業の名刺からは、私にはそうとしか思えない。現地語ではふつうニホンと呼んでいるにもかかわらず、だ。Japanなどという中途半端な中国語読みからの転訛で満足していないで、なぜ世界中の地図を「Nihon」と訂正させる努力をはらわないのか、私には不思議でたまらない(まあ、国粋主義者は、正しくは”Nippon”だ、と言うかもしれないが)
もっとも、Nihonと変更させても、まだ悩みはつきない。ラテン系言語の連中が正しく発音して読めるとはとうてい思えないからだ。明日からスペイン語圏の人々がいっせいにハポンからニォンに切り替えたからといって、それでオリジナルな発音に近づいたとは、いいがたい。
いや、それどころか、私は現地主義といいながら、「神戸」や「沖縄」を正しい現地のアクセントで発音することさえ、じつはできない。自分にできるのは、せいぜい近似値としての発音なのだ。まして隣国の首都ソウルとなると、正しく綴ることも発音することもおぼつかない。固有名詞は言語の体系の中に存在するので、異なる言語システムの中では、そもそも近似でしか表現できないものなのだ。
固有名詞の問題がややこしいのは、じつは固有名詞が自我の延長線上に存在するからである。誰もが自分に属する固有名詞は、自分の自我と同様に、尊重してもらいたいと思っている。それを汚されると、不快・怒りなどの感情に直結しやすい。私が現地主義なのも、他人の自我の外延を土足で踏みにじるようなことを、したくないためだ。
しかし、私達はお互いに、異なる言語の中では近似値しか持ち得ないことも悟るべきだろう。できるのは、多元連立方程式の近似解に、一歩一歩近づいてゆくことだけだ。
誤解しないでほしいが、私は別に、KoreaをCoreaに変えようとしている人々を茶化すつもりは、まったくない。近似値を改善しようという運動は、きわめて当然のものだ。この人達が英語を当面のターゲットにしているのも、「コリア」で我慢しているのも、やむを得ない理由があることと想像する。改善の動きをほとんど起こそうとしない日本人に比べれば、はるかにましというべきだ。
ただ、私達は、そうした運動は「正しさ」を求める訴訟活動ではなく、より良い「近似」を求める改善作業なのだということを、忘れてはならない。固有名詞の問題は、正義の見地からではなく、友愛の観点からおし進めるべきなのである。