書評:科学の終焉(おわり) ジョン・ホーガン著、筒井康隆監修・竹内薫訳
『科学の終焉』 (Amazon)
1994年の春、アリゾナ州フェニックスにあるサンタフェ研究所で「科学的知識の限界」をテーマにした、3日間の研究会合が開かれた。参加したのは、数学者のキャスティ、計算機科学者トラウプ、情報理論のチェイティン、カオス理論のカウフマン、天体物理学者ピエト・フット、情報物理学者ラウダウアー、経済学者アーサー、生化学者ロスラー、といったそうそうたる面々。著者のジョン・ホーガンもこの会合に参加し、その有様を生き生きと伝えている。
活発な議論が交わされ、とても生産的な会議だったと、参加者たちは評価した。だが、著者の意見は少し違うようだ。このような会議が、学際的な複雑系研究のメッカである、サンタフェ研究所で開かれたこと自体、現在の科学が直面している。難しい状況を示している、と。
難しい状況とは何か。それは、現在の科学において、偉大な発見が生まれにくくなりつつあり、経済学で言う「収益逓減の法則」に似た、スローダウンの時代に入ってきているらしいことである。
その前年にあたる93年、米国議会は、超伝導超大型加速器SSCの建設予算承認を拒否した。このプロジェクトは、既にその時までに約1700億円の費用を投じて、テキサスの平原で掘削工事を行っていたにもかかわらず、中止されたのである。理由は、金がかかりすぎるから、そして得られる科学的成果に対して、それだけの価値を米国として見出せないから、であった。
現代科学は、少なくとも素粒子物理学は、ビッグサイエンスと化し、次第に巨大な研究施設と大勢の人員を必要とする方向に進化してきた。だが投下した資本に、見合うだけの巨大な研究成果が生まれているのだろうかというのが、社会からの問いだ。
とはいえ、著者のパースペクティブは、単なる資本効率の問いよりも、もっと広い。著者ジョン・ホーガンは、米国を代表する科学雑誌の一つ『サイエンティフィック・アメリカン』のベテラン・サイエンス・ライターだ。本書で彼は、膨大な数の科学者・研究者とインタビューし、彼らの科学に関する楽観主義の裏側にある焦りや戸惑いを、見事にあぶり出す。
その戸惑いとは、科学には結局、究極の答え=「最終理論」が存在するのかどうか、そして存在するのだとしたら、それを見つけた後、科学は一体何をやればいいのか、と言う問いだ。逆に、それがもし存在しないのなら、科学とは何に向かって進むべき営為なのか? これらが現代の最先端の科学者の胸の内にある、ひそかな疑問らしい。
この問題に関する、物理学者ロジャー・ペンローズとの対話から、本書が始まる。ペンローズは、一般相対論の特異点定理とブラックホールの予言で有名なノーベル賞物理学者だが、インタビューの時点では、脳科学と心の問題について、非常に独特な角度から研究していた。究極の答えはあるはずだ、だがそれを発見してしまったら、科学者のやることは終わってしまうだろう、とペンローズは考えていた。
分子生物学者のステントは、もう少し別の面から、科学のスローダウンについて警鐘を鳴らしていた。生物学の究極の問いは、生命の発生、多細胞生物への発現、脳の情報処理機能、の3つだ。そして科学の進展スピードは、すでに発見された成果に比例しつつ、対象領域に残る未知の部分に制約される。分子生物学はもちろん有用だが、もうすぐ減速期に入るかもしれない。それが彼の見通しだった。
情報理論学者のチェイティンは、最終理論について、もう少し理論的な面から疑問を投げかける。チェイティンは「与えられたコンピューター・プログラムが、ある問題を解決するのに1番『簡潔』なものかどうか、誰も決定できない」ことを証明していた(p.452)。これはすなわち、「真の最終理論、すなわち、最も簡明に自然を説明できるような理論を発見したかどうか、物理学者が確信する事は決してない」(同)、という意味を内包する。
本書のすばらしいところは、こうした問いかけを、極めて広い分野の科学者たちと、それも世界のトップクラスの天才たちと交わしつつ、多角的に、科学のスピードダウンについて描いていることだ。扱われる分野は物理学、宇宙論、進化論生物学、社会科学、神経科学、カオス・複雑系量、などである。
無論、足りない分野をあげつらうことはできよう。例えば、化学がない、生態学がない、医学がない、など。数学はどうなんだ、と言う問いだってあろう。著者の関心が、やはりなんといっても物理学にある事は、隠しようもない。物理学こそ科学の中心、学問の女王である(と物理学者たちは内心思っている)。
したがって、監修者の筒井康隆が序文で指摘しているように、第3章「物理学の終焉」が本書の白眉と言える。「物理学は、絶対に実証不可能な理論の発明(「発見」ではなく)をして以来、(中略)誰かが安上がりで高エネルギーを作る方法を見つけるまで、何もすることがなくなってしまった」(p.4)。筒井康隆は監修者としては殆ど何も貢献していない、と書いているが、にもかかわらずこの序文は秀逸で、さすがである。
ちなみに、わたしの個人的な感想だが、物理学における『超ひも理論』、言語学の『チョムスキー言語理論』、多くの『新古典派ミクロ経済学』、そして一部の『数理生態学』などは、ほとんど実証の手段を欠いている、ないし実証に興味を示さない点が、共通している。これらは論理的に美しい構築物だが、科学ではない、というのが、わたしの素人的な偏見である。
それにしても、じつは本書でわたしが最も心惹かれたのは、科学哲学者たちを扱った第2章であった。科学の終焉を扱うに際して、科学論を研究してきたポパーや、トマス・クーン、ファイヤアーベントなどに語ってもらうのは、とても重要だろう。
著者の叙述のスタイルは、インタビュー相手の発言を記すのみでなく、相手の身なりや表情、癖、さらにパートナーとのちょっとした対話なども含む、文学的で奥行きのあるものだ。特に、反骨の科学哲学者ファイヤアーベントと、そのパートナーであるイタリア人物理学者グラツィア・ポリーニの描像など、忘れがたい印象を残す。
ちなみに最終章で著者は、目立たぬ形ながら、自分の一種の神秘体験について触れている。神秘体験というのは、いわば、宇宙の真理なり啓示(つまり「究極の答え」)と、言語を超えて直接一致を体験することである。これは若い頃の体験らしいが、長い間著者のうちにあって、科学の終焉という問いの形で、あらためて発芽したのだろう。しかし、アメリカのジャーナリストらしく、この問題に対して極めて真摯に、時間をかけ、多数の人との意見交換を通じて、取り組んでいる。
原書は1996年に発刊され、翌97年に邦訳された。竹内薫氏の若い頃の訳業だが、これだけの浩瀚な内容を、稚気のある文体で、非常に良くまとめている。2000年に文庫化されているが、現在は品切れのようで、わたしは古書店で入手した。しかし、非常に面白い本である。
そして、本書発刊から30年近く経った今、物理学者をはじめとする多くの科学者や、科学ライター・編集者たちが、科学に本当にスローダウン現象が起きているのかについて、どう考えているか、ぜひ意見を聞いてみたいところである。