Christmasメッセージ --今はまだ異文化を語らず
Merry Christmas!!
先月、とうとう年齢が大台に乗ってしまった。もう押しも押されもせぬオッサンである。ここまで生き延びられたことは、まさに『神に感謝』というしかない。
短い期間ながらいくつかの国に住み、若干の経験を重ねてきて思うのは、“人間てのは、なんと似ているんだろう”という感想である。アラビアの半島でも、南米の海岸でも、北国の大都会でも、そう感じた。言葉はかすかにしか通じないが、だいたいお互いに思うことは知れている。それはとくに、ビジネスの世界で顕著である。お金に動かされる経済合理性の領域だからかもしれない。寝る前にお祈りする方角は異なっても、利益を前にしてとる行動はよく似ている。
最近、会社の友人と共著でプロジェクト・マネジメントに関する論文を書いた。海外企業との共同プロジェクト遂行におけるリスク要因について考察したもので、学会誌に投稿したから運がよければ掲載されるかもしれない。論考のポイントは、プロジェクトにおける最適な「フォーメーション・デザイン」=スコープの分担計画であり、ジョイント・ベンチャーやコンソーシアムなどにおいて遭遇しがちな典型的問題点を列挙した。
この論文を書き始めたとき二人で決めたのは、「リスク問題を“異文化のせい”で説明するのは絶対やめよう」ということだった。複数企業の共同プロジェクト運営がうまく行かなくなると、相手側企業の『文化が違うから』という言い訳がすぐ出てくる。しかし、自体を冷静に分析してみると、じつは互いに持つ経済的動機の差異が原因となっているケースが殆どなのだ。各社はおのおの自分の動機で行動を決める。それは経済合理性にしたがって生じる問題であり、言語や生活習慣や宗教といった文化の違いで説明するのはかえって本質を隠してしまう--そう、われわれは考えたのだ。
海外との取引が増えるにつれ、我々は気軽に「文化の違い」を口にするようになってきた。だが、文化の違いとはどこから生まれるのか。異文化を理解し安全に共存するにはどうしたらよいのか。そうしたことはエンジニアの領域ではないし、大学で習った覚えもない。そもそも、文化とは何だろうか。
「文明とは人間に利便性を与え、文化とは人間にアイデンティティを与えるものである」という説明が一番納得がいくので、私はいつもこの文脈で、文化という言葉を使うようにしている。言語・家族制度・宗教・生活習慣といった文化の要素は、いずれも人間のアイデンティティを支えるものだ。これに対して、産業・通貨・都市基盤・科学技術といったものは、人間に利便性を与えてくれる文明に属している。
いいかえれば、文明とは“抽象化・普遍化・交換可能性”を指向するものである。あらゆるものを通貨と交換可能と考える経済合理性は、文明の論理だ。他方、文化とは“個性化・多様性”を求める。愛はお金じゃ買えないわ、というのが文化の論理だ。
おかしなことに我々企業人は、そのはざまに立っている。企業は経済合理性を追求する存在であり、仕事は誰がやっても同じ成果を得られるようにすべきだ、との方向性がある。従業員は交換可能な存在たるべし、というわけだ。その一方で、仕事は自分の存在証明でもあり、自己のスキルを他者から求められ評価されることが会社員の生きがいでもある。そうした個性を持つ人間たちが、気ままな需要を形づくって市場を動かしていく。
こうした事情を、2千年前にパレスチナを行脚し遊説した賢者は、“人はパンのみに生きるにあらず”と呼んだ。この人はさらに、財貨に囲まれて経済の論理だけに生きる人間について、「彼らが天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がたやすい」と喝破した。われわれは文明の半面だけで生きることはできないのだ。自分の個性を認めたければ、まず他者を理解することからはじめなければならない。そのためには、「異文化だから」という思考停止の色眼鏡を自分から外していく必要がある。
冬至の前のこの季節、地上の少なからぬ人々が、2千年前の賢者の生誕を記念して、平和の祭を祝おうとしている。私もまたその一人でありたい。薄氷のように危うい世界に生きながら、明日への希望を持ち続けるためにも、文化と文明の和解を祈ろうではないか。