Chirstmas メッセージ--若さと成熟
Merry Christmas!!
久しぶりに大学の同期で集まった。化学工学科出身だが案外いろいろな職種に就いている。半導体・化学・石油・エンジニアリング・商社・特許事務所・大学教員・研究機関・・。そして、お互いに「変わった」とか「変わってないな」とか言いながら、酒を飲んだ。
変わった部分と変わっていない部分は、誰しも同じだ。肉体的には誰もが平等に、一年ずつ変わっていく。髪が白くなったり腹が出たりして。でも、変わらないのは心の方だ。不思議なことに、自分の心というものは、ちっとも歳をとらない。ような気がする。15歳の時から比べて、知識がふえ経験が増し、ガマンやら諦めやらも身につけては来たが、本質はちっとも変わっていない。
変わらないということは、成熟もしていないということだ。じっさい、不惑をとうに超えたのに、あれこれといつも惑っている。『まだ歳も四十でいれば面白き』という川柳があるが、じじつ不惑というのは、いかにも生煮えな自分がまだ残っているものだ、と感じざるを得ない。
そもそも「不惑」という言葉は、晩年の孔子が自分の生涯をふりかえって語った言葉からきている。“我十有五にして学を志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳従い、七十にして己の欲するところに従って、矩(のり)を超えず”--この一節はその後の人間観に、大きな影響を与えた。
たとえば、昔の武家の子息は15歳で元服する習慣だった。これは数え年だから、今で言えばせいぜい中学2年生である。それでも一応大人扱いされるようになったのは、なぜか。それは、我十有五にして、の一語があったからだろう。また、わが国では今でも参議院の被選挙権は30歳以上と決まっている。これは一人前の良識ある大人になるのが三十歳だ、との伝統から来た(40歳の「不惑」に対して30歳を「而立」と呼ぶ)。
ところで、心が歳をとらないというのは、実はウソだ。心だって、成長はする。少なくとも、変化する。それなのに変わらないような気がするのは、われわれが情報化社会に生きているからかもしれない。情報の特徴は、それをCDのようなメディアに焼き付けてしまえば、全く経年変化しないことだ。われわれの脳だって、記憶のメディアである。少しは取り出しに時間がかかるようになるが、コンテンツ自体はまず変わらない。
おそらく、そのおかげで、今日の人間は心の変化が肉体の変化に付いていけずにいるのだ。私は、この際、みなが自分の精神年齢を、肉体年齢の2割引にして考えた方がいいのではないかと、よく思う。そして、そう思えば、「近頃の若いもん」のやることにも怒らずに済むのだ。24歳にしては書く文章がお粗末、と感じても、まあ二十になったばかりじゃ仕方がないか、とあきらめがつく。自分だって、若くなったような気がして、楽しい。ウソだと思ったら、やってごらんなさい。なんだ、自分もまだ惑っていいのか、立ってなくていいのか、なんて思える。
しかし。よく考えると、それで良いのだろうか。なぜなら、上記の孔子の言葉を2割り増しで換算し直すと、こうなる--“われ18にして学を志し、36にして立つ。48にして惑わず、60にして天命を知る。72にして耳従い、84にして己の欲するところに従って法を超えず”--言いかえるならば、現代人とは、次のような人たちだ:
- 大学生になるまでは、自分が何を勉強したいのか分からない
- 一番元気の良い30代前半までは、自立できてない
- 社会的に最も責任の重い40代管理職のほとんどは、勇気ある決断ができない
- 社会を引退する頃、はじめて自分のなすべき使命に気づく
- 年金生活を謳歌しているときは、まだ若いつもりで他人の忠告を聞かない
- 自分の足で歩けるうちは、まだ煩悩や欲望が捨てきれない
いい加減にしてもらいたい、とも思う。しかしこれが現実への冷静な認識なのだろう。だって、新聞の社会面をこの目で見ると、じつに合点がいくもの。
思うに、われわれは余計な知識や情報を、未消化なまま背負いすぎているのだ。自分から、学歴もキャリアも消してみること。そうすれば、もう少し、素直な自分の姿が見えてくるのかもしれない。それによってはじめて、自分の若さを脱ぎ捨てて成熟に一歩近づけるのだろう。
そして、そんな作業は、心静かな、平和な時間でしか行えない。世界中が、とりあえず静かに、平和を願うこの季節こそ、私たちがみな平等に一つ歳をとり、また一つ成長するべき時なのだ。