希望の配当——ロボットとAIは人間を創造的にするか
生まれて初めて中東の国を訪問したのは90年代半ばのことだった。かつて「パンのみに生きるにあらず」 という記事にも書いたが、季節はまだ確か5月か6月、本当の真夏になる前だった。でも、好奇心から持っていった温度計で、ホテルの裏の路地を測ってみて、気温34度と言う数字にぶったまげた。
「なんて暑いんだ。」日本では信じられないほどの暑さだ。・・実際、その頃、関東では真夏になっても、気温が33度を超えることなど、めったになかったのだ。
暑いだけではない。ペルシャ湾(アラビア湾)に面したその国では、大気中の湿度が非常に高いのだった。これは現地に行ってみるまでわからない、意外な事実だった。砂漠の国=カラカラに乾燥した土地、と言うイメージしか持っていなかったからだ。湿度がほとんど100%なのに、半年間、一滴の雨も降らないような天候が存在するなど、誰が想像できるだろうか。
そんな気候なので、驚くような出来事に次々、出くわした。例えば日本では冬に、ガラス眼鏡をかけて外から室内に入ると、眼鏡が湿気で曇ることがある。でも、この国では夏に、メガネが曇る。エアコンの効いたホテルから眼鏡をかけて外に出ると、外の湿気で一気に曇るのだ。
ホテルの窓ガラスも結露する。ただし外側に結露するのである。中は冷房で冷えているので、外側の湿気が、ガラス表面に凝縮するからだ。だったらペルチェ効果で冷やした金属線を縦横に格子状に張り巡らせたら、空気から水だけを分離回収できるのではないか。そんな空想をしたりした。
ホテルではシャワーの水とお湯に気を付けろ、と言われた。なぜか。実は「お湯」とラベルされた蛇口から出るお湯より、「水」の温度の方が高いのだ。ほとんどの建物では、給水タンクは屋上に設置される。むき出しだから、太陽が照りつけて、簡単に60〜70度になる。ところがお湯の蛇口は、ボイラーの給水系統につながっている。ボイラー・フィードウォーターのタンクは普通、屋内に設置する。だからボイラーの「お湯」は、40度くらいで来るのである。
中東の地は、色々と生活習慣も違う。何しろ、イスラム教の国である。朝昼晩、1日5回お祈りのタイミングがあり、そのたびに各所のモスクに設置してある拡声器から、アザーンの呼び声が大音量で聞こえてくる。
お酒も基本的には許されていない。なのでいい歳をしたおっさん達が、長い昼下がりを、お茶と甘いお菓子だけで延々、おしゃべりして過ごす姿を、あちこちで見た。なんとも優雅な(いや正直、怠惰な)風景だ。だから中東社会では、糖尿病患者が非常に多い。
ただしお酒について、外国人をどう処遇するかは、国によって厳格さが異なる。当時その国では、首都の中に4カ所だけ、お酒を出すレストランないしバーが許されていた。その1つは、わたし達のホテルの中にあるレストランだった。ただし入り口の前に大きな机をデンと置いて、宗教警察の担当官が見張っている。もちろん、その国の人間が入ったりしないかチェックするためにだ。
外国人かどうか、どうやって見分けるのだろう? わたし達、日本人や韓国人なら見かけですぐわかる。欧米人もまぁ、わかりやすいだろう。だがアラブ人とパキスタン人とトルコ人を、顔つきだけできちんと見分けられるかというと、なかなか難しい。
実はアラブ人は人種的には、非常に幅のある、ある意味、ブロードな民族なのである。ほとんど白人と見紛うような人から、ブラック・アフリカに近い肌色の人まで、アラビア半島には雑居している。
でも、その国の宗教警察にとって、判断基準は簡単だった。服装でわかるのである。その国の国民は、上から下まで白いアラブ風の装束を着ている。一方、外国人は、開襟シャツやスラックスといった西洋風のカジュアルな格好をしている。これで区別するのだ。
外国人が、その国のアラブ風の民族衣装を着てはいけない、という法律があるわけではない。だが習慣として、皆そうしている。わたし達、日本人だって、わざわざ白装束に着替えて仕事をしたりはしない。
そして働いているうちに、だんだんわかってきたのだが、その国--べつに批評しようというつもりで書いているのではないから、ここでは仮に「Q国」と呼んでおく--の人口と社会構成には、際立った特徴があった。それは、住民数と国民数の違いである。
Q国の住民の数は当時、約50万人だった。ところがそのうち国民の人口は、10万人に過ぎない。つまり、5人に1人しか、Q国の国民ではないのだ。土地に住んで社会を構成している人間の8割は、外国から来ている出稼ぎの人間たちなのであった。それがどんな社会か、想像がつくだろうか?
オフィスで働いている人たちは、ざっくり3階層に分かれる。一番下には、雑役、あるいは単純な事務処理的な仕事がある。こうした仕事のほとんどは、インド・パキスタン系の男性たちが受け持っていた。屋外で働く建設労働者たちなども、同様である。中東社会では、オフィスのお茶くみなども、ボーイがやる仕事なので、とにかく男性の比率が高い。
真ん中にいる階層は、エンジニアなどホワイトカラー層である。この階層はほとんどが外国人なのだった。出身国は主に、欧米だ。アジアなら、日本だったり、韓国だったりもする(当時まだ中国人エンジニアはそれほど中東に進出していなかった)。
欧米・極東と並んで、第3の勢力が、レバノンやパレスチナといった「同じアラブ圏だが、あまり石油資源に恵まれない国」から来た、エンジニアたちだった。彼らはアラブ人で、アラビア語を話していたが、白装束を着ずに、普通のオフィス風の格好をしていた。
そしてピラミッド組織の一番上に君臨するのが、Q国の国民たちである。石油資源に恵まれたQ国では、税金は全て無税だった。それどころか国民に対して、いろいろな形でかなりの金額の所得配分を行っていた。何せ地面を掘れば、石油やガスが吹き出してくるのだ。
もちろん、Q国の国民として生まれた有為の若者の中には、志を持って職人技を習得しようとしたり、エンジニアとして技量を身に付けようと留学したりする者たちもいる。でも相対的には少数派だ。何せ、中層の職種にも、下層の職種にも、外国から希望者がいくらでも押し寄せてくるのだ。放っておいても、国はお金をくれるのに、なんでわざわざ苦労して、働いたりしなければいけないのか。
働くとは、人間にとって何を意味することなのか、こういう国に行ってみるとよくわかる。お金のために働く事は、誰にとっても最低ラインである。お金がなければ生きていけない。だから皆、まず生きていくために働く。
だが、まさに、かつて「パンのみに生きるにあらず」と言う記事に書いたように、人は働くことによって、パン以上の何かを得たいと願うのだ。それはかっこよく言えば、達成感とか自己実現とか、あるいは心理学的に「承認欲求」などと呼んでも良い。自分が価値ある存在であることを、職業を通じて、他人にも自分にも示したいのだ。
ただ、そのためには大事な条件がある。それは、その人の仕事が創造的であるということだ。単に誰かの模倣だけだったら、どうして他人が感謝し称賛するだろうか。
生成型AIの話で、今や世間は持ちきりだ。何か調べてくれと頼むと、それらしい内容を、そつのない文体で書き上げてくれる。プログラミングもこなし、うまく仕込めば設計的な仕事もできそうだ。ホワイトカラーの仕事の、大きな部分を代替してくれるとも言う。戦略コンサルティングファームでは、若手中堅の仕事の大きな部分が、この生成型AIによって自動化され、置き換わるのではないかと言われている。
でもそんなこと、中東では25年も前に、とっくに実用化されていた。ただしAIではなく、外国人エンジニアという名の道具を使って、だが。
これからは単純な繰り返し労働も、人と一緒の環境で働ける「協働ロボット」が普及して、置き換わるだろうとも予測されている。すでに工場の危険作業は、それなりに工業用ロボットが担っているし、少し種類は違うが、オフィスの単純作業もRPA=Robotics Process Automationが引き受けてくれる。ロボットは24時間いつでも文句を言わず働くし、壊れたり古くなったら捨てればいいし、労働組合を結成して人権を主張したりもしない。
でも、これも中東では25年前から、外国人労働者という名の『人的ロボット』によって、とっくに実用化されていた。彼らには居住権がないから、文句を言う奴は出身国に送り返せばいい。代わりに来て働きたがる奴だって、いくらでもいるのだ。ヒト1人に対して、ロボット4人。それで社会はちゃんと成立していた。
その結果、国民達はきわめて創造的に働くようになっただろうか。この地域から、すばらしい文化や芸術、科学や技術が続々と、生まれ出ただろうか? いや、むしろ中世のアラビア科学や文学の精髄の方が、ずっと世界を驚嘆させたのではなかったか。
ロボットやAIが普及すれば、人間は今ほどあくせく働かずに暮らせるようになり、皆がもっと文化的人生を楽しめるようになる、といった未来予想は、ずっと以前から存在した。だがわたしは懐疑的だ。
まず、ロボットだとかAIソフトだとかいった道具は、値段が高い。それを所有できるのは、経営者であり資産家層である。彼らはロボットやAIを、自社の生産性向上のために活用するだろうが、それはつまり、不要になった従業員を切るという形で実現する。つまりロボットのおかげで、人間が失業するのである。
え? AIは無料じゃないか、って? それはAIベンダーが、無料で使わせてくれているからで、その代償としてユーザからインプットデータをたくさん得ているのである。自前でLLMなどを動かそうと思ったら、それなりにコストがかかるし、まして独自にLLMを開発しようと思ったら、途方も無い巨額の費用とデータセンター資源が必要になる。こういう芸当ができるのは大資本だけで、もはや天才的プログラマが個人で立ち向かえる分野ではなくなりつつある。
技術は一般に、装置や設備や道具の形に結実し、実装される。そうした高価な道具を当初、所有するのは、一般の働く人たちではなく、すでに生産資源を有する企業など大資本側である。もしもその技術が、「生産性向上」タイプの効果を生むならば(その例がロボットや生成型AIであるが)、当然ながらその果実は道具の所有者が手に入れ、無用になった人間の労働力は切られることになる。つまり、テクノロジーというのは本質的に、経済社会における格差拡大を助ける傾向があるのだ。
その技術が真の普及期に入り、誰もが(スマホのように)手に入れられるようになったら、格差拡大のパワーは弱まる。その代わり各人は、テクノロジーのおかげで手に入れた余剰の時間を、どう使うかについて、覚悟を問われる。放っておけば、余剰(余暇)時間を誰もが創造的に使うだろうと思うのは、いささか楽観的に過ぎる。それは長い午後、お茶とお菓子で延々と時間を潰していた、Q国民達の姿を思えばわかる。
テクノロジーとは、非常に社会的な存在である。技術屋はつい、これを趣味的な愛好の対象物のように捉え、投資すれば配当を期待できるように感じ、社会的コストも危険も忘れがちになる。だが、うっかり放っておけば、わたし達は怠惰に陥るか、さもなければ職も居場所も失うリスクをはらんでいるのだ。それは決して、遠く離れた中東の地だけの問題では無い。現に、我々の住む島国でも、気温35℃は全く珍しくなくなったではないか。それは、今や全地球が、中東化しつつある象徴なのである。
<関連エントリ>
「パンのみに生きるにあらず」 https://mgt-technology.info/11000113/ (2009-08-30)