「ITって、何?」 第20問 ITって人と人を結びつけるのに役立つの?(その3)
「そういう意味では、あなたが上げなかった電子メールの特殊性がもう一つあるわよ。」
--へえ。なんだい。
「電子メールって書き言葉だけのコミュニケーションだってことよ。これってすごく特殊だわ。」
--でも、飾り文字つきのデコレーションや写真もつけられるし、ウェブのホームページと同じ様な見かけをつくるHTML形式のメールだって増えている。以前の電子メールはいわゆる『テキスト』しかサポートしていなかったけど、かなりマルチメディア化してきているよ。
「だからあ、なんていうか、そういう技術的な問題じゃないのよ。言葉ってもともと・・ああ、こういう微妙なことって説明が難しい。」
--じゃ、ゆっくり考えていただいている間に、ぼくの側からひとつ言わせてもらおう。ぼくなんか君とちがって外国語が苦手だから、英語でやりとりしなきゃならない外国の相手とは、電話よりも電子メールの方がずっとありがたい。ゆっくり読み書きできるし、聞き間違いもない。書き言葉のありがたい面だね。メールがどんどん進化してTV電話みたいなものになっちゃったら、ぼくみたいな人間はかえって困っちゃう。
「それはそうでしょうけど・・」
--まあ、そもそもインターネットの中では英語が事実上の標準言語みたいになってきているし、ゆくゆくは世界中が英語でやりとりするようになる便利で平和な時代も遠くないのかもしれない。世界中のみなが自国語の他に英語を必ず学ぶような時代にね。
「なんですって?」
--それに、英語の方が日本語よりもずっと論理的だから、日本人のわけ分からなさ加減も少しはよくなるかも。
「ねえ。おねがいだから、私の前で外国語についていいかげんなことを言うのはやめてちょうだい。わざとわたしを怒らせたいのならともかく。」
--なんで怒るのさ? 君の翻訳の仕事が無くなるから?
「あのねえ。言語って、経済の利便や都合だけのためにあるんじゃないのよ。
世界中の人が英語を学ぶ? よしてよ。言語って文化の一部なのよ。今、英語がのしているのは、この200年の間、たまたま英国と米国が軍事力と経済力で世界中を席巻してきたからでしょ? 別に英語がとくべつ素晴らしい言語だからじゃないわ。
英語が論理的? それもぜんぜんおかしいわ。英語は格関係がかなり退化しているし、接続法だって単純な仮定法があるきりだから、他の印欧語に比べるとあまり精密な思考や精緻な感情表現には向かないの。
それでも英語で十分論理的にものが言えるのは、アングロサクソン系の人たちが、多面的で簡潔な事実認識と、歩幅の短い三段論法の積み重ねで考えを進めるのが得意だからなんだわ。つまり使い方の問題なの。やろうとおもえば日本語だって英語以上に論理的になれます。」
--へいへい。
「それにね、歴史的に見ると仕方がないんだけど、英語はゲルマン語にラテン語が混淆して語彙の系統が複雑だし、綴りと発音の関係なんか最大級にめちゃくちゃだから、あまり外国人が最初に学ぶには適していない言葉なのよ。」
--そうですか。ぼくが中学生のとき英語の授業中に人生が不幸だったのは、その辺に遠因があったのかもしれないな。でもさ、お説はごもっともで分かったから、ITに話をもどしてもいいかな?
「・・どうぞ。」
--おおきに。
匿名性の問題に戻るんだけど、実はそこにはメリットもある。
「・・たとえば、どんな?」
--まずね、匿名取引が可能だ。電子商取引の仕組み次第ではあるけれど、相手に名前を知らせずに売り買いができるようになる。これは、プライバシーを守りたいときには有用だ。
それと、匿名議論が可能になる。パソコン通信なんかじゃ昔からペンネームみたいなものだけで議論に参加することがよく行われていたけど、たとえば会社の中でだって、実名だと言いにくいが匿名ならば発言できるような事柄がある。今まではそこに実名性の壁があったわけだ。
「あなたの会社ってそんなに息苦しいとこなの? 電子会議とかよりまず、もっと風通しをよくすることからはじめた方がいいんじゃない。」
--いや、だからこれはたとえ話だってば。でもとにかく、実名と匿名の使い分けができるようなネット世界では、これまでとはちがったモラルが必要になってくるだろうな。
「そうかしら? 他人に危害を加えるようなインモラルなことをすれば、結局その罰は現実世界にかえってくるんだから、同じことなんじゃない? そもそもモラルって、何?」
--ブブー。“××ってのは何か”という質問はいっさいお受けしないことになっております。・・いや冗談だけど、まあIT以外の事柄だし。
モラルって、ぼくなりに定義すれば、“やろうと思えばできるけれど、そしてそれが短期的には自分の利益にかなうけれど、長期的には自分の信用や利益をそこなうであろう行動を、思いとどまらせる要請”かな。善行に関しては逆だけど。
「ふうん。社会とか、伝統とか、ましてや宗教とかは関係ないわけ?」
--そういうものは全部捨象しちゃってあります。だって世界規模のネットの中には持ち込めないからね。
「道徳を功利的にしか説明できない状態自体、すでにモラルの退廃を示している・・なんてあなたに言っても通用しないんでしょうね、きっと。でもね、モラルがあるならリスクもあるわよね、きっと。電子メール社会のリスクって何かしら? 受け取れるはずの情報をせき止められること?」
--ぼくらの商売がまず心配することは、大事な情報を盗み見されることだ。それは技術的に何重にも壁を作っているわけだけれど。
でも、ぼく個人の経験で言わせてもらうと、あまりがちがちにセキュリティをきつくしたシステムは、融通がきかなくて結局は使われなくなってしまうことが多い。だから、自分で設計するときは、情報へのアクセスは極力自由にしておく。そのかわり、要所要所のアクセスの記録だけは取れるようにしておく。そして不正を働いたものは厳罰に処する。つまり、『お互い大人だろ?』というルールで運用したいんだ。君が前に話していた、ヨーロッパの鉄道みたいにね。
「それはたしかに良い発想ね。それだったらモラルを語りたい気持ちも少しは分かるわ。
でも、その逆のリスクもあると思うの。あることないことを書き立てられること。昔なら町内の噂を広めていた『放送局』のおばさんにあたる人が、覆面してネット上でしゃべり歩くわけ。ぞっとするでしょ?」
--たしかに、電子メールやウェブ技術の登場のおかげで、個人対個人だった通信と、一対多数だった放送との境目がなくなって、ごちゃまぜになってきた。これまでの放送には一応、放送業界のコードがあり、また覆面では登場できないから、発言者責任もあった。しかし今のネットには、これがない。問題だね。
「でも、そのかわり、いいこともあるわよ。」
--何がさ?
「誰もがお上や大企業の許可なしで発信者になれる自由。放送局になれる自由。
匿名と実名って言うけれど、無名の私たち大多数にとって、違いがあるかしら? 本当は、有名か無名かの違いの方が大きかったんじゃないの? この世の人をそういう基準で二分して、無名人が有名人を羨ましがらせるように仕向けることが、放送局の利益の源泉だったんじゃないかしら。
放送業界のコードなんて・・日本のTVってそんなに独立性が高かった?」
--まあ確かに、日本のTV局がながいこと巨大な広告代理店の影響下にあったことは間違いないだろうな。なにせ、視聴率調査会社が、広告代理店の子会社なんだから。それに巨大広告代理店は二大通信社と緊密な関係にあるから、とうぜん放送や報道もその影響力がおよぶ。
でもさ、代理店の支配力だって足下が崩れつつあるよ。だって雑誌の広告はスペースをまとめて買って小口で売る商売だけれども、インターネットはそうはいかない。
「結局ね、これまで情報って、有名人つまり発信する人と、無名人すなわち受け取る人とに分割されていたわけでしょ? それがくつがえされるなら、ITの少々のリスクは我慢してもいいわ。」
--・・それと似た言葉がITの世界にもあるな。『デジタル・ディバイド』=ITを使う人とITに使われる人への二極分化だ。
「あら。せっかく一つつぶしたと思ったのに、これじゃいたちごっこだわ。」
--まあね。ただ、『使われる』といっても、これは多少は受け取り方の問題でもある。たとえば、ITシステムの提供するヒューマン・インタフェースが狭いとユーザの被害者意識がふえる傾向がある。
「インタフェースが狭い、って?」
--対話の手段が少なかったりチャンネルが狭いこと。あるいは入力方法が分かりにくかったり石頭だったりする場合もそうだ。この二極分化の壁は、ソフトの作り方しだいでは案外乗り越えやすいんじゃないかとぼくは思ってる。
(この項もう少しつづく)