スケールアップの法則

高校の物理の教科書に、口絵としてのっていた写真を、今でも良く覚えている。水らしき流れの中に円柱が立っていて、その回りの流れと渦の模様が、美しく写し出されている。キャプションには「この写真を見て、円柱の大きさをあてられるだろうか?」と書いてある。そして、ページの下の方に、追加の説明がこうあった。

「じつは、円筒のまわりの流れの模様は、その円筒の大きさや流れの速さにはよらず、

円筒の径×流れの速さ----------流体の粘度

で計算される値(レイノルズ数とよばれる)が同じならば、同じパターンになる。」

と書かれていた。10cmの大きさの円柱が10cm/sの水流にあるときと、1cmの円柱が100cm/sの中にあるときの流れのパターンは、同じになる。これを『流れの相似則』と呼ぶ、逆にいうと、流体の中で流れの模様だけを見ていても、その現象の固有の大きさを推定することはできないのだ。

残念ながら、教科書の本文のどこを読んでも、それ以上の説明はなかった。流体力学は、なぜか高校の物理では一切教えないのだ。その先を知るには、大学の専門課程まで待つしかなかった。

大学では化学工学を専攻した。化学工学(Chemical Engineering)というのは、化学工場の設計論を中心とした工学だ。アメリカでは機械工学とならぶ人気科目だが、日本ではひどく知名度が低い。これは石油・ガス資源のある国と、無い国の差かもしれない。「化学」全般の人気の薄さも手伝っているかもしれないが、じつは化学工学が扱うのは伝熱や拡散や流動といった物理現象がほとんどだ。化学それ自体はあまり知らなくても間に合う。化学が「何を」つくるかに関する学問だとすれば、化学工学とは「いかにつくるか」に関する技術論なのである。

化学者がフラスコとビーカーで化学反応の方法を確立したら、化学工学のエンジニアは、それを工場規模で連続大量生産するにはどういう装置の組合せが必要かを考えるのが仕事だ。これを「スケール・アップ」と呼ぶ。化学工学とはスケール・アップの技術論なのだった。

ところで、面白いことに、理科の教科書にのっていた「レイノルズ数」がここで役にたつのだ。実験室のフラスコだろうと、プラントの巨大なタンクだろうと、レイノルズ数が同じならば、その中の流れは同じになる。したがって、小規模な実験装置のデータから、大規模の工業装置へのスケールアップが可能になるのだ。流体力学の基礎方程式はナヴィエ=ストークスの式という微分方程式だが、この式は非線形性が強くて、そのままでは簡単に解けない。しかし、レイノルズ数を用いれば、直接解かなくても流れのパターンを予測できるのだ。

ちなみに、レイノルズ数が小さい内は、流れは「層流」と呼ばれる、落ち着いた、秩序だった流れでいる。しかし10,000を超えると、流れは「乱流」の状態になる。もはやランダムな動きのかたまりとなり、それは厳密な予測の不可能な、カオス状態になってしまう。だが、乱流には別の意味で、マクロな統計的規則性があるのだ。水の粘度はほぼ0.01[cm2/s]程度だから、水の中でちょっと手を動かすと、すぐ乱流をつくれる。

レイノルズ数は、上の式を計算するとわかるように、cmだとかsecだとかの単位系がない。そこで無次元数と呼ばれる。化学工学では、レイノルズ数に類する無次元数の概念を多用する。シャーウッド数、ヌッセルト数、シュミット数・・。伝熱や拡散などをともなう、複雑な物理現象を工学的に取り扱うにには、無次元数による相似則がきわめて有用だ。

化学エンジニアとして仕事をし始めてから、ずいぶんたつ。その間に、私は次第にシステム・アナリストやプロジェクト・マネジメントの職域に移っていった。しかし、無次元数と相似則の概念は、私にはいつでも有用なアナロジーを提供してくれる。極めて多数の要素からなりたつ系の、複雑な現象をモデル化しなければならないとき、私は『相似則』を無意識に探し求めている。それは、一見ランダムな現象の後ろ側にも、マクロな法則性が隠れているはずだという私の信念を、支えてくれているのである。