タイム・コンサルタントの日誌から(2015年)

タイム・コンサルタントの日誌から(2015年)


このページは、スケジューリング・生産計画・プロジェクトマネジメント・SCM・MES・電子商取引などに関連するトピックを選んで紹介するとともに、
私自身の個人的視点から簡単なコメントをつけたものです

(佐藤 知一)


→Blog版: タイム・コンサルタントの日誌から



ハラールとは何か、何ではないのか (2015-12-05)

トマト・ケチャップから考える米国のリショア(製造回帰)現象 (2015-11-11)

産業用IoTが生み出す(かもしれない)、新しい『つながる工場』のコア技術とは
(2015-11-03)

忙しすぎる人のための手短な処方箋 (2015/10/15)

人を使うということのオーバーヘッド (2015/08/24)

YesとNoのゲーム - コミュニケーションを教えるということ
(2015/08/02)

OSを持つ、ということ (2015/06/24)

ハイ・パフォーマンス・チームへの道のり (2015/06/02)

顧客ロイヤルティの向上 ~ 次もまた選びたくなる企業となるために
(2015/04/20)

マネジメントのテクニックと技術論について (2015/04/12)

JUAS『ソフトウェアメトリックス調査2014』を読み解く (2015/03/28)

勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて (2015/03/11)

わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか? (2015/02/23)

R先生との対話 ― 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か (2015/02/02)

習慣化の力 (2015/01/05)

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ハラールとは何か、何ではないのか(2015/12/05)

結婚して間もない頃、米国の留学生寮に1年近くすんでいたことがある。主にアジア太平洋地域の各国から来た留学生や、米国の遠くの州から来た若者が一緒にすみ、キッチンは共同だった。独身者と、子どものいないカップルが10数組ずつ、キッチンをシェアする。お互い顔見知りになるから、ときどき招待し合って一緒に食事したり、あるいは学期試験の終わったころにはキッチン全員が持ち寄りパーティを開いたりする。そういうときには、近くの同じスーパーから食材を買ってきているはずなのに、ものすごくバラエティの大きな各国料理がそろい、楽しかった。


仲間の中には、パキスタンからきたイスラム教徒、インドやネパールのヒンズー教徒、タイやスリランカの上座部仏教徒もいる。だから、お互いの食物のルールなどにも気を遣いながら、一緒につくったり食べたりした。ヒンズー教徒の夫婦は厳格な菜食主義で、鰹節のだし汁も使えない。だから昆布でだしを取った。そのかわりお酒はOK。ところがパキスタン人の夫婦になると、ムスリムなのでお酒は御法度。それどころか、料理に使うみりん(英語ではSweetening
wineになる)もダメ。日本料理は醤油+みりん(あるいは酒と砂糖)で甘辛に味付けするものが多い。だから味のバランスをとるにに苦心した。できあがったら、一緒にジュースで乾杯した。


ハラールという言葉が注目されるようになったのは、最近のことだ。イスラム教徒の許容する食事に関して、人々が関心を持つようになったのは、2020年の東京オリンピックで大勢の外国客を迎え入れる予定だからだろう。その際、観光業や飲食業は、なるべく多くのお客様を受け入れたい。そこでにわかに勉強しなくては、となった次第らしい。


念のために書いておくと、わたしはイスラム教徒ではない。だからHalal(ハラール)とは何かについて、書く資格は本当はない。ただ中東・イスラム諸国で多少仕事をし、またイスラム教徒の知人・友人も何人かいる者として、これまで学び、気をつけてきたことについて多少書いてみたい。


「ハラール・フード」という言葉に代表されるように、これはイスラムで認められる食べ物に関する、規則ないし規格だと思っている人は多い。しかし医薬品にも、化粧品にもハラールはある。人が経口ないし皮膚経由で何かを体内に取り込む時に、何が許されるかを判断する基準なのである。その基準になるのはイスラム法(シャリーア)であるが、元々そこに明文規定されていない物事もあるため、基準が必要になるのだ。


ハラールの基準について、今日一番厳密な規定を国家レベルで制定しているのは、中東諸国ではなく、東南アジアの国・マレーシアである。これは、華人が多くすむ地域なので、(あとで述べるように)禁忌とすべき豚肉などが広く流通し、生活圏の中でコンタミネーション(汚濁)の心配が高いからだ。逆に、中東諸国、たとえばサウジアラビアなどでは、そもそもハラールな食品しか原則として流通していない。だからあまり神経質な基準が必要とされなかった、という事情がある。


そのマレーシアの国家規格を読むと、ハラールについてかなり細かく規定しているが、大事な点は「何が許されるか」よりも「何が許されないか」だとわかる。禁止リスト方式なのだ。原則として天地万物は神の創造物であり、天然自然は許容されているが、その中に一部、注意して避けるべきものがある、という理屈になっているからだ。


その典型例が豚肉であり、あるいはその誘導品であるラードそのほかの食材である。しかし、禁じられているのは豚肉だけではない。犬の肉もそうだ。日本では犬を食べる習慣がほとんどないので、とくに心配の必要はないが、知っておいた方が良い。


ちなみに中東では、豚は軽蔑すべき動物だ(ま、たいていの国ではブタは侮蔑語である)が、ユダヤ教の昔から、野犬も軽蔑の対象だった。牧羊犬くらいはいたのじゃないかと思うが、聖書にも犬はあまりいいイメージでは出てこない。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」といった具合だ。


イスラム教で許されないもう一つの代表例が、酒・アルコールである。上にも述べたように、みりんの中に含まれる酒精分さえ避けるべきである。ただし、経口ではなく皮膚経由で吸収されるものは、許容される。化粧品の中にはアルコール成分を含むものもあるが、許されているのはこのためだ。「飲めば酔っ払う可能性のあるもの」を避けるのである。


ただ、だからといってハラールを「ノー・ピッグ、ノー・アルコール」という風に単純化して理解するのは、いささか問題があると思う。じつは、避けるべき禁忌には二種類ある。「汚物」だから避けるべきものと、「誘惑」だから遠ざけるべきものである。豚は汚物の典型だから、食べるべきではない。しかし、酒は人間を惑わせるから、遠ざけるべきなのだ。外国や、人の見ていないところで酒を飲むイスラム教徒は、じつは時々いる。だが、どこの国に旅しようと、豚は食べない。もしまちがって食べたら、(一種の汚物だから)生理的に気持ち悪いと感じるだろう。そういう風に、接する態度が異なるのである。


ちなみに「汚物」に相当するものをNajsとよぶ。豚や犬、その肉や派生品はNajsである。さらに、人や動物の糞尿・嘔吐物などもNajsになる。こうしたものは、食品に入っていてはならない(豚肉以外は、誰にも当たり前に思えることだろう)。


さらにいうと、牛や鳥など許容される家畜の肉であっても、アッラー(神)の名で正式に屠られたもののみがハラールである。「だから私たちは、ほんとはスーパーで売ってるこんな肉を食べちゃダメななのよ。」と、寮のキッチンでパキスタン人の女性は言っていた。ただそんな事を言っていたら、留学生は非イスラム地域では飢え死にしてしまう。だからまあ、妥協して食べているのである。


医薬品の中には、豚由来の酵素を利用しているものがいくつもある。こうした製品も、原則としてハラールではない。だから摂取すべきではないのだが、ただし、その薬に代わるものがなく、かつ命に関わる場合は、人命優先の観点から許されている。そういう点では、イスラム法というのはきわめて合理的かつ実際的にできている。なお、人工的に作られた化学物質は基本的にすべて、ハラールである。だから合成原薬からの医薬品は(アルコールを除いては)問題ない。


マレーシアの国家規格にも明確に定義しているように、Najsだけでなく、一般に不潔なものの混入はハラールの観点から許されない。そういう意味では、ハラール遵守は、エンジニアリングでいう清潔管理や、清汚動線の分離などに非常に近い概念である。また規格には「ハラール・マネジメント・システム」という言葉も登場するが、これは一般的な品質マネジメント・システムと非常に相似な仕組みである。


ハラールは現在、外国人観光客受入(インバウンド)の観点から議論されることが多い。だが、上に述べた点を考えると、ハラール対応はむしろ、日本企業が海外に製品やサービスを輸出する「アウトバウンド」のカギになるのではないだろうか? インドネシア、マレーシアをはじめ、中東諸国、そして中央アジアを含め、世界の新興地域に住むイスラム教徒の人口は3億人以上である。「ハラールな商品」は、この巨大なる未来市場に対して、参入する絶好の機会を与えてくれる。


なんといっても、日本製の製品の品質面での信頼感は非常に高い。とくに化粧品や医薬品は、日本が強い業界でもある。幸いにも、「正直であり、また精確であること」は、日本人が持つ優れた能力であり、他の諸国に比べれば、普通ははるかにまさっている。これはわたし達が父祖から受け継いだ大切な宝物であり、次の世代にも引き継がせるべきことだ。そこにハラールであるという付加価値がつけば、鬼に金棒というべきであろう。


ハラール認証の仕組みが世界的に少しずつできあがってきていることも、追い風だろう。認証は基本的に製品に対して与えられるものだが、製造プロセスや品質保証体制なども審査項目の一つである。製造過程で要求される清潔管理や動線管理などは、新興国の企業ではまだ難しいかもしれないが、まっとうな日本企業なら、ごく普通に実践していることだ。医薬品業界のGMPや食品業界のHACCPを思い出せばいい。工場のエンジニアリング面においては、いくつか注意すべき点があるので、イスラム地域の経験のある会社などに相談する方がいいだろう。ただ、いったんシステムを構築してしまえば、それを守って操業運転することはそう難しいことではない。「5S」が実践できている工場だったら、かけてもいいが、必ずできる。


ただし、ハラール認証は最終的には宗教機関から得なければならない。国家規格というのは、「認証の必要条件」を満たしていることを証明する、必要条件である。また現時点では、ある国で取得したハラール認証が、他国でも自動的に受け入れられるような、万国共通の相互認証制度はまだない。マレーシアが規格や認証に熱心なのは、自国をハラール商品の製造基地にして、中東イスラム圏への輸出ハブにしたいという国家戦略があるからだ。


繰り返すが、ハラールの基本は清潔管理である。ただ、何を禁忌とみなすかについて、我々の通念と少しだけ違っている。それだけのことだ。あまり特殊な要求だと思わない方がいい。


まあ、たしかに食物禁忌というのは理解しにくい。たとえば今日の我々は犬を食べないし、その習慣を広く持つ韓国や中国を侮蔑する人々もいる。だが、現実には、日本人は戦国時代まで犬を食べていたのである。ただ、五代将軍徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発し、とくに犬を勝手に殺すことを厳禁したから、この風が廃れたのである。わたし達が今日、犬を食さないのは、「犬公方」とあだ名された一権力者のためだといってもいい。


ついでにいうと、わたし達が刺身で生の魚を食べる習慣は、もともと中国から入ってきた。ところが本家中国ではその後、風習が変わり、火を通さない食物は原則として食べなくなった。今日、生魚を食する日本人を内心バカにする中国人もいるが、彼らの父祖だって歴史的には刺身を中華風にアレンジして食べていたのだ。だから、食習慣を元にした他民族への侮蔑は、案外、近世的なことだとも言える。そうした弊風は、いずれ世界各国がより近づいて緊密になるにつれ、ゆっくりとではあるが無くなっていくはずである。


若いときに1年間、留学生寮で多くの文化・習慣に触れる機会を得られたことは、わたしにとって、とても幸運だった。おかげで、少なくとも、互いの風習に寛容であるという態度を、少しは身につけることができた。イスラムはたしかにわたし達からは縁遠い宗教だ。だが、他人の伝統や価値観を、分かりにくいからといって軽々しく詮索したり批判したりすべきではない。他人に向けた無思慮な刃は、結局自分に跳ね返ってくるのだ。そのことは、ひどく攻撃的で尊大な一部のイスラム原理主義者たちの姿が、鏡のように逆転して映し出している。


かつて戦国時代や幕末、明治時代に日本を訪れた外国人は、口々に日本人が誠実で礼儀正しいこと褒めたたえた。誰も日本人が、喧嘩早くて議論好きで尊大な人達だ、などと書いたものはいない。ならば私たちも、父祖の残した美点と伝統を守ろうではないか。


ハラールというのは「儲かるために」目指すべきことではない。それは、他者に対するリスペクト、尊重のためにすることである。わたし達が彼の地を訪れるときに、同様に尊重してもらいたいからでもある。そしてなにより、お互いへのリスペクトこそが、長続きするビジネスの前提条件だからである。


トマト・ケチャップから考える米国のリショア(製造回帰)現象(2015/11/11)

ハインツ(ヘインズ)のトマト・ケチャップの瓶を見るたびに、“なんて米国的なモノなんだろう”といつも思う。あの、8角形のガラス瓶で、内容量がたしか11オンス(oz)だかのやつだ。わたしの小さな手で握ると、周囲が余る。もっと手のでかい、白人サイズなのだろう。白い金属のふたの下には、広口瓶のような何の変哲も工夫もないネックが現れる。これを手に持って逆さにして振って、ケチャップを出すのだが、なにせケチャップはどろどろしているし、瓶の口は直径が3/4インチ(2cm弱)くらいあるから、振ってもちっとも出ないか、あるいはドバッと出過ぎるか、どちらかなのである。その大ざっぱさがまた、ある意味アメリカ的だ。


驚くのは、そのシェアの大きさと均質性だ。全米のどこに行っても、食堂ではこれが出てくる(家庭用に樹脂製容器を売り出したのは、何と今世紀に入ってからである)。瓶のサイズも全く同じ。もっといろんなサイズがあっていいと思うのだが、見かけない。ガラスも厚くて、ある種の重みがある。もっと薄手の方が輸送費が少ないはずと思うが、大量輸送で乱暴な扱いにも耐えるよう、強度が大事なのだろう。工場では自動ガラス製瓶機に、同一金型をずらりと並べて作っているに違いない。均一サイズ、大量生産。まことに工業生産向けだ。内容物であるケチャップの味自体、ひどく無個性である。香りも酸味もあまり強くない。


ハインツがどこでこのトマトケチャップを生産しているのか、わたしはよく知らない。一つ頭の体操として、あなたがハインツの社長だったら、この製品のサプライチェーンをどのように設計するか、考えてみてほしい。製造リードタイムを短縮し受注即応、注文があったら、当日製造・翌日配送できるようにするか? まあ、そんなことは考えないに違いない。スーパーの棚に、ずらりと並べておいておける商品だ。当然、見込生産であろう。賃金の安い海外、たとえばメキシコで生産して輸入するか? それも考えにくい。そんなことをすれば、人口の多い東部や西海岸の都市まで運ぶのに、物流費がかかりすぎる。また、この種の食品製造プロセスは一種の装置産業であり、人件費比率はたかがしれいてる。


さらにいえば、ハインツは市場を圧倒するブランド力である。わざわざ安値で売る必要がない。仮にもし参入を試みる業者が現れても、そのときその地域だけ、集中的に安値で売って圧倒すればいいだけだ。こうした王者の戦略を『コスト・リーダーシップ戦略』という。また、そもそも、海外に工場を持っていけば、米国内での付加価値(=製品価格-外部コスト)が減ってしまい、その分はメキシコ国内に移ることになる。つまり米国のGDPが少し減って、その分メキシコのGDPが増えることになる。米国は経済効果をGDPの金額でなく、いちいち「雇用数」で測る国である。何万人分の雇用を創出した、みたいなことを政治家も言いたがる。原料のトマトを含め、全部米国内で生産できるのに、わざわざ海外生産したら雇用が減るではないか。


公的統計によると、米国では2001年に中国がWTOに加盟して以来、320万人の雇用が中国に流れた。その3/4は製造業である。流通販売業には局地性、サービス業には同時性の原理が働くから、海外に移転しにくい。だから、ハインツほど盤石の競争優位性を持っていない製造業が、一番外に流れ出たのだろう。その分、失業率が上がるわけだから、米国政府は苦々しく思ったろうが、個別企業の経営判断なので口は挟めない。その分、利益が上がって税収が入ればいいか、と上は考えるであろう。


しかし、中国・アジアの低賃金国への工場移転が利益をもたらした期間は、思ったほど長くなかった。現地の賃金が上がってきたからである。おまけに、アジアで生産して米国に船積み輸送すると、輸送期間はかるく1ヶ月はかかる。その1ヶ月分、企業は保有する在庫が増える勘定になる。輸送期間が長くなるほど、サプライチェーン内の在庫量は増えるのだ。これは資金的にも重荷だし、需要変化への対応能力をかなり落としてしまう。


(余談だが、在庫管理システムを下手くそなSEが設計すると、自社内の在庫転送にともなって工場Aから出荷し工場Bに入荷するまでの間、よく全社の総在庫保有量が減ってしまうことがある。出荷で在庫を引き、入荷で在庫を足すから、輸送中在庫が消えてしまうのである。しかし、正しくは輸送中だって立派な在『庫』であるから、これが減るようなシステム設計はおかしい)


米国ではすでに、海外生産は再考の時期に入っている。いったん海外に移転した雇用を、国内に戻すことを英語でリショア(Reshore)とよぶ。オフショア(Offshore)の反対語である。"Made
in USA News
" 2015年10月1日付記事によると、オバマ政権下の2010年2月から2014年5月までの期間に、米国内の製造業は45%成長し、64万6千人の雇用が生まれた。さらに、まだ24万3千人分の求人があるという。これが、製造のリショアの流れの背景にある。


そして米国はすでに、2013年に“転機の年”を迎えた。この年、とうとう米国から海外に移転する雇用数を、米国に回帰する雇用数が上回ったのだ。米国にとって、すでに海外移転と空洞化の時代は終わったのである。このニュースは、今回半月ほど米国に出張した中で、わたしが接した最も驚くべきニュースだった。


リショア=製造の国内回帰のメリットは何か。大きく、4つあろう。まず、製造品質である。日本人の目から見れば米国製品もずいぶん粗放だが、それでも中国や新興国よりはレベルが高い。品質問題による顧客信用の失墜と機会損失は、製造や販売の現場にいる人間は肌身で感じている(ただ問題なのは、それが本社の財務屋の目には見えにくいことだが)。第二は、知的財産権の保護である。知財流出問題には日米ともに頭を抱えている。正直、人の知恵をコピーして何とも思わない連中が、新興国にはあまりに多い。


第三は、先ほど述べたように、輸送中の在庫量がずっと削減できること。これは財務諸表的にも明らかだ。第4は、輸送在庫量の減少にも絡んでいるが、サプライチェーン全体の即応性が上がり、コントロールがききやすくなることだ。これは、需要変動が大きく、競合商品の多い業界ほどメリットになる。前にも書いたとおり、広大な米国ゆえ、人件費の安さよりもむしろ消費地への近接性がカギだ。はるか東アジアから1月もかけて荷物を引っ張ってくるより、米国内で生産する方が利益になるソロバン勘定になる。複数国をまたがるサプライチェーンをマネージしたことがある人は、この即応性のメリットを痛感するだろう。


このようなサプライチェーン観をさらに敷衍していくと、前回紹介したようなDistriubuted
Manufacturingのような概念に至るのだろう。複数企業間で、工場の余力を随時取引し、互いに製造や物流を引き受け合って、柔軟性と効率性を両立させる「つながる工場」のシステム。まだ普及はこれからだが、おそらくドイツなども、同じ発想を持って進んでいるのだ。


もっとも、過去5年間で米国内の雇用が増えたのは、いわゆるシェールガス革命によるおかげの部分もあった。オイル&ガス業界はしかし、過去1年間の石油価格低迷で、かなりの痛手を受けた。独立系のシェールガス生産企業は、当初予想よりはかなり長くつぶれずに頑張ってきたが、さすがに生産量が落ちてきている。石油メジャーも、Chevronは7,000人弱を、BPは4,000人を、Shellは7,500人を削減するといっている(いずれも米国内だけでなく全世界の雇用者数)。石油業界の首都であるテキサス州ヒューストンでは、コスト・カットと人減らしの風が吹き荒れていた。


ただし、コインにはつねに表裏の両面がある。石油・天然ガスの値段が安いと、よろこぶ業界もあるのだ。精製された石油やガスを主原料とする化学業界や、電力業界である。あたりまえだが、原料ガスの価格が安いほど、化学製品は利幅が増える。電力会社の中には、火力発電のガス購入価格が安くなったから、コストの高い原子力発電所は廃炉にすると宣言したところまで現れた。


いや、そもそもむしろ、石油業界の方が不思議な業界なのである。どんな製造業だって、普通は原料が安くなれば儲かる。ところが彼らは、原料であるはずの地中の原油や埋蔵ガスの価格が上がる方が、業績がいいのだ。なぜか。それは、彼らの保有する原料の資産評価額が増えるからだ。そして、石油業界は製品への価格転嫁がつねにたやすく行われる。だから原油高=好業績なのだ。しかし他の普通の製造業から見れば、原材料費や電力価格が安くなるほど、競争力が上がるに決まっている。だから(という訳でもないが)わたしの勤務先が米国で現在建設中のプラントは、化学プラントだったりする。


米国におけるリショア=製造回帰の流れが、上記のようなDistributed Manufacturingの動きと結びつくと、サプライチェーンも従来米国で主流だった見込生産的なあり方(Forecast
driven)から、より日欧的な受注即応型生産のあり方(Demand driven)へと変化するだろう、と予測する論者もいる。 本当にそこまで行けば、パラダイム・シフトだといっていい。そして企業経営にとって、最も重要な出来事とはパラダイム・シフトのゆっくりした動きである。


最初にあげたハインツのような寡占メーカーにとって、ケチャップ市場への新規参入者はたいして怖くない。怖いのは、「ケチャップという調味料をつかった料理全体の退潮」というパラダイム・シフトなのである。かつて米国を代表する庶民的食い物だったホットドッグは、今では探さないと食べられなくなってきた。ハンバーガーはまだ旺盛だが、健康志向とともに挽肉料理や揚げ物自体が減っている。だとしたら、ケチャップ屋はどこで生き延びるのか。四半期決算の数字以上に経営者が考えるべき点は、市場全体のゆっくりしたパラダイム・シフトなのである。それがどこに向かっているかを察知するには、世界で最も社会変化の先導が起きやすい米国で事業をするのが一番分かりやすい。


わたしは昨年、知人の田尻正滋氏と共同で、“米国こそ工場立地の適地である”という趣旨の記事を書いた。

 →「お知らせ:ITmedia/MONOistに『実は穴場!?
製造業が米国に工場を設置すべき8つの理由』を公開しました
」(2014-09-09)

 →「なぜアメリカに海外工場を展開しないのか?
(2014-04-06)

そこで、エネルギー価格・原材料価格・物流コストの安さと言った、比較的自明な利点から、離職率の低さ・機械修理の得意な人材といった(常識的通念とは異なる)利点、そして工場組織における改善やイノベーションへの抵抗の薄さ、などをあげた。こうした利点は、原油価格崩壊後の現在、薄まるどころかむしろ強まっている。


そういう観点から、今後も日系企業による米国進出の好機は続くのではないかと思われる。もちろん、米国社会にだって問題はいろいろある。所得格差、麻薬、銃所持、そして隠れた人種差別など。理想社会というのは、わたしの知る限り、この地上には今のところない。だからこそプラスとマイナス、リスクとチャンスをはかりながら、工場立地を決める仕事が面白いのである。

産業用IoTが生み出す(かもしれない)、新しい『つながる工場』のコア技術とは(2015/11/03)

IoTInternet
of Things
=モノのインターネット)という言葉は、現代のIT関連業界では最大の流行語だろう。デジタル的に接続可能なデバイスが全て、インターネットを介して通じ合う。そんな世界像から様々な技術や市場が生まれる、という期待感が世の中にあふれている。


その事情は米国でも変わらない。たまたまこの文章は米国ヒューストンのホテルで書いているが、雑誌やWebなどで見てもIoTの記事の注目度は高いようだ。先週もEmerson社(工場自動化メーカーの大手)が新しい顧客提案を発表したとか、SAP社がIoT部門を新設したとか(これはドイツ企業だが)、かまびすしい。


IoTには、スマホなど一般消費者向けデバイスをビジネスにつなげる面と、産業用途としてIoTを利用する面とがあり、後者を区別のためにIIoT(Industral IoT)と呼んだりしている。調査会社ARCの発行するIIoTニューズレターには、EMCがDellに買収された真の原因は?、という記事があって、IIoTとどう関係するのかと興味を持ってよんだら、Amazon
AWSの伸びが高級ストレージ市場を奪ったという話だった。そこまでIoTの話題にするのは、ちょっと牽強付会すぎるんじゃないだろうかと思う。


じっさい、ガートナー社が8月に発表した2015年の「ハイプ・サイクル」の図によると、IoTは今やまさに『過剰な期待のピーク
にあると位置づけられている。ガートナーのハイプ・サイクル論というは、あらゆるIT系の新技術や新概念は、最初は小さな期待から始まり、ヒットしはじめると急速に注目度が高まるが、それを過ぎると幻滅の谷底に落ち、そこからあらためて着実な現実解へとまたゆっくり成長していく、というモデルである。どうやらIT業界は流行に弱い業界らしく、何かが現れるといったんは救世主の如くあがめられるが、すぐにうち捨てられ、その後ようやく真の普及が始まる、というものらしい。前述の図を見ると、たとえば機械学習(人工知能の要素技術)はすでにピークを過ぎつつある。Hybrid
cloud computingは今、谷底に急落中の例であるらしい。


たしかに、産業用IIoTの技術的核心は何かと思って調べてみても、センサーデータをVPN経由でクラウドに送るだけ、みたいなことしかまだ読み取れぬ。クラウドに送れば、あとはビッグデータ・アナリティクスや機械学習など、他のバズワード要素技術が料理してくれる、ということらしい。そして現実の応用例は、現在のところ工場の予防保全に集中している。たしかに、機械の稼働状況をリアルタイムにモニタリングして、いつ部品交換や定期補修を行うべきかを予測するか、というのは実用的であろう。


ただし、言いたくはないが、その程度のことはプラント業界ではもう15年以上前から取り組んできたことだ。わたしが1999年に南米におさめたプラント用MESでも、その程度の保全用機能は実装していた。それどころかプラント全体で数万点の運転計測データを1秒周期に取り込んで、それを2年分圧縮蓄積し、WAN経由でどこのオフィスからでも見えるようにしたのだ。無論、当時に比べればデータ解析技術は進んだろう。しかし、今更どこがビッグデータだよ、という気持ちがどこかある。


この予防保全の話の出所は、GEの回転機モニタリング技術であろう。GEは世界トップのタービン機器メーカーである。こうした産業用大型回転機は、震動検知が重要だ。震動検知は1秒周期どころかミリ秒単位でデータを監視する。監視データはPCでリアルタイム処理して、異常診断に用いる。この分野でトップだったのが米国のBently
Nevada社だったが、GEは2002年にそこを買収して傘下に収めた。GEのIoT技術の下回りは、ここが基点になっている。


それはともかく、IoTの産業応用はまだ始まったばかりである。そして、この「過剰な期待」の火に油を注いだのが、ドイツ発の『インダストリー4.0』であった。Industrie 4.0は技術的シーズではなく、産業ニーズから出発した概念である。ドイツらしく製造業が中心だが、流通その他の分野もねらっている。Industrie
4.0はIoTなどの要素技術を元に、"Horizontal and vertical integration"をねらうと標榜している。これは政府主導のイニシアチブだが、背後にはドイツ大手企業でGEのライバルであるSiemens社と、ERPで世界を制覇したご存じSAP社が控えている。ちなみにSiemens社の強みとは、PLCのデバイスレベルから火力発電装置まで、世界的技術を垂直統合で持っていることで、ここがGEや日本企業に欠けている点だ。


さて、この動きを見てあわてたのが、われらが経済産業省である。そもそも工場の海外移転を「グローバル戦略」の美名で奨励してきた上に、“もう日本は製造業の時代じゃないし”みたいなことまで内心思っていたフシがある。日本は頼みの電機業界が惨憺たる有様で、あとは自動車業界ぐらいしか世界的な競争力がない。ところがドイツ政府は新しい概念をひっさげて製造業を強化し、EUを束ねようという勢いである。そしてドイツの製造業は、自動車のみならず重電・化学・産業機械などの分野で相変わらず強い。週35時間しか働かないし夏休みはたっぷり取るくせに、何だこの差は!?--と霞ヶ関の人達が思ったかどうか知らないけれども、政府としても何らかの対抗策が必要である。そのキーワードに、Horizontal
and vertical integration=製造の垂直・水平的な連携統合、すなわち「つながる工場」が浮上してきた訳だ。


ところでGoogleで「つながる工場」を検索すると、最初に日本機械学会の研究分科会が出てくる。このリーダーは法政大学の西岡靖之教授だが、この6月に経産省のバックアップもあって、「Industrial Value Chain Initiative」(略称IVI
という標準化のためのコンソーシアムを立ち上げられた(ここもGoogle検索ですぐ下に出てくる)。企業メンバーはトヨタ・日産・ソニー・富士通・三菱重工、とそうそうたるものである。そしてこの配下で20のプロジェクトを動かし、提案している日本版インダストリー4.0としての「つながる工場」IVI標準モデルを実証していくことになっている。このIVIという略称、よく見ると製造(Manufacturing)のMの文字になるのだが、実はここがドイツのIndustrie
4.0研究の日本の公式なカウンターパートの一つになっている。


西岡靖之教授は、じつは昔からの知人である。わたしが現在、法政大学デザイン工学部で講師としてプロジェクト・マネジメントを教えているのも、西岡先生のご縁による。西岡先生は革新的生産スケジューラAPSの研究者でもあり、APSを他のAPSや基幹系システムと連携するためのXMLベースの標準言語仕様「PSLX」を開発されてきた。そして、PSLXの普及のために、「ものづくりAPS推進機構」(略称APSOM)というコンソーシアムを立ち上げられたのだが、わたしはそこの理事でもある。APSOMもまた、IVIのリエゾン団体になっている。


では、「つながる工場」=製造の垂直・水平的な連携統合とは、何を意味するのか。ここから先は、IVIの孫引きではなく、わたし個人の考えになる。


工場の水平垂直連携と言っても、それには三つのレベルがあるはずだ。まず一番下の層として、機械・装置・センサー間のレベルの統合である。次に中間として、部門間ないし同一企業の工場間のレベルにおける統合がある。そして最上位に異なる企業間レベルの統合があると考えられる。ただし、企業間レベルの統合というのは、単なる受発注の関係や、製造委託を指すのではなく、生産計画レベルでの連携調整がなされている状態を指す。


次に区別しなくてはいけないことがもう一つある。それは対象とする工場の生産方式が、ディスクリート型かプロセス型かの区別である。この二つの生産方式によって、実は連携の仕方が大きく異なるからだ。わたしの勤務先が得意としている、いわゆる「プラント」(石油・ガス・化学・発電など)はプロセス系の産業に属する。そしてプラントというのは、機械・装置レベルにおける統合が非常に発達している。それはプラントが『密結合』なシステムだからだ。これに比べて、機械加工組立系のディスクリート型工場は、どうしても工場全体が一種の『疎結合』なシステムになっている。なぜ、プロセス系の工場が密結合になるのかの説明は、長くなるので今回は省略する。


そしてもう一つだけ考えるべき因子がある。それは文化的な違い、ないしは物づくりに対するとらえ方の違いである。典型例として、日本とドイツをとろう。


ディスクリート型工場で活躍する工作機械、その制御盤に入っているシーケンサーには、当然ながらCAD/CAMのプログラムを送り込んで動かすことになる。ところで「ものづくりAPS推進機構」の研究会で最近知ったことだが、日本ではその制御盤の通信インタフェースは、いまだに何と、RS232Cなのだそうだ。このようなシリアル通信をいまだに使っている理由は定かではないが、ともかく、このために各工作機械が、具体的なワーク(加工対象)のどこを削っていて、全体の切削加工の進捗はどれほどで、いつ加工が終わる見込みなのか、監視するのは技術的に簡単でない。


ところが聞くところによるとドイツでは、この工作機械の制御盤に対するインタフェースがデジタル化され、さらにオープンな業界標準化されているらしい。このため、どのワークを今どこまで削っていて、いつ終わりになるのか、といった製造作業の状態監視がリアルタイムにできるようになっているらしい。日本で工作機械の制御盤を作っているのは、事実上たった一つのメーカーなのだが、多くのユーザーが要求すれば、もっと標準的で高速なデジタル・インタフェースにかえることが技術的に難しいとはとうてい思いがたい。したがって業界全体のこの差は、すなわち使うユーザー側の意識レベルの差だと解釈せざるを得ない。


以上を元に、ざっくりと対比してまとめてみたのが、次の表である。



機械・装置・センサー間レベルでは違いが明瞭である。部門間、同一企業の工場間については、日本は(一部の優秀な企業を除いて)一般に壁が高く、サイロとサイロの間に在庫の山がある状況だ。ドイツはどうかというと、これは証拠がなく印象論なのだが、あの国の企業もずいぶんと縦割りになっているが、まあ本社権力が強いので、多少はマシという程度ではないか。ただプロセス系では、国がどこにあるかを問わず、かなり連携がとれている。


異なる企業間の連携について言えば、日本では例は殆ど聞かない。唯一の例外は、自動車業界の「かんばん方式」的なPull型システムで、それは(系列にもよるが)それなりに機能している。ドイツは、わたしは分からない。ただ、米国では日系自動車会社でさえ、カンバンではなく週次確定オーダーで動かしているから、ドイツも似たようなレベルだと想像する。


ところが、プロセス系には昔から「つながる工場」の実例がたくさんある。『コンビナート』とよばれる工場群がそれである。原料・中間品や水素、ユーティリティまで、お互いに配管で結んで融通し合っている。垂直連携の実例を見たければ、化学工業を見ればいいのだ。


では、そもそも製造業における水平・垂直連携とは、どのようなメリットを業界にもたらすのだろうか?


それは、より機敏で柔軟性の高いサプライチェーンの実現という言葉につきよう。部門間連携で考えてみれば分かる。生産・販売・物流の部門間が「つながらない」メリットとは、各部が自律分散・局所最適化で動けることである。そのかわり、在庫の山と部門の壁(非効率)が生じやすい。「つながる」メリットはその逆だ。つまり、在庫削減とリードタイム短縮を同時に実現したかったら、部門間連携は必須なのである。そのかわり、会社の中に中央管制塔が必要になる。トヨタがその良い例である(これについては『トヨタのグローバル・サプライチェーン・マネジメントを理解する鍵』参照)。


同じ事は、企業間連携でも言える。現状の日本の、いや、米国やドイツを含む殆どの国のサプライチェーンは、企業間の、広域的でオフラインで非同期的な「発注と交渉」によって調整されている。つまり疎結合である。サプライチェーンの需給調整のキーとなるのは、価格と在庫の圧力であり、つまり市場原理を介したゆっくりした受動的な調整になる。必然的に、大量見込み生産と値引き交渉こそが利益の源泉、との発想に人を導く。


他方、密結合のシステムでは、需要と供給の推移予測に基づく能動的な制御が可能になる。すなわち地域的でオンライン的で同期化された、ダイナミックな連携の姿である。そこでは需要と供給の可視化と、変動に即応するリアルタイムなスケジューリングが利益の源泉になる。企業間がつながるメリットは、日本の自動車産業である程度実証済みとも言える(ただし電子化はまだこれからだが)。あるいはDellのBTO方式をあげてもいい。Dellはサプライヤーの製造工程まで監視しているが、これはつまり供給予定と生産余力を見ているのである。


疎結合と密結合の違いは、首都圏の人にとっては「湘南新宿ライン」を例に取ると分かりやすい。以前は東北線・高崎線・東海道線・横須賀線そして埼京線が別々のラインとして非同期に動いていた。そこには必然的に「乗り換え」という手間が発生した(サプライチェーンで言えば工程間の在庫に相当する)。それを連結し、また山手線東側(上野・東京)に集中していた物流を西側にも分散することによって、需給のミスマッチを防ぎ、顧客の利便性を向上したのである。


そのかわり、密結合にしたことによって、一箇所の事故や故障がライン全体の停止につながるケースが増えた。水平連携することで、以前は「在庫に隠れていた」問題が水面上に浮かび上がってきた、とも言える。密結合なシステムは、各要素の高信頼性と共に、コア部分の冗長化・複線化が必要なのである。そしていうまでもなく、各サブシステムが、透過的に中央管制塔から見えていなくてはならない。


従来、企業間連携が止まってしまったのは、この透過性が壁になったためである。各社が隠そうとしたという面もあるが、上で触れたように、そもそも工場内でも機械レベルで何がどう進行しているのかよくつかめていないのだ。


産業用IoTという新しい技術は、このような工場間のダイナミックな連携を可能にするイネーブラーとして、大きな潜在的価値を持つとわたしは考えている。今後、企業系列の枠を超えて、サプライチェーンが水平・垂直連携する姿が広がるだろう。工場が互いに製造委託を拡げ、生産余力を取引する時代へと進だろう。こうした構想を、Distributed manufacturingとよぶ。


いずれ遠からぬ将来、工場内がデジタル的に可視化されていないとモノが売れない時代が来るかもしれない。そうなると、工場の(本来の意味での)プロセス・システム・エンジニアリングが必要になるだろう。疎結合と局所最適な工場の時代は終わりが来るのだ。では、そのような「プロセス・システム・エンジニア」という技術職種を組織的に抱えている業種はあるのだろうか?


それは、すでに存在する。それはエンジニアリング会社とよばれる業種だけだよ、というお話でした。



忙しすぎる人のための手短な処方箋(2015/08/24)

「なんで1日は24時間しかないんだろう?」とはじめて思ったのは、大学3年生の秋だった。


朝から昼過ぎまでは授業。その後、ほぼ毎日、学生実験。なんとか夕方までに片付けると、すかさずサークルのあるキャンパスに移動する。それからサークルでイベントの準備。毎日9時ぐらいまでかかっていただろうか。それから外食して家に帰る。家までは片道1時間半だ。帰宅してから、実験のレポート作成。化学工学の実験は、数字の計算量が半端でなく多い。だいたい寝るのは2時半か3時だった。そして翌朝6時半に起きる。これが毎日だ。今からは信じられないだろうが、当時の学校はすべて週休1日が当たり前で、土曜日も授業があった。


「ああ、1日が30時間、いやせめて27時間あれば、あと3時間は余計に眠れるのに」と切実に思った。そんな生活リズムは初めてだったから、まず胃腸がぶっ壊れた。昔から睡眠不足に弱いのだ。


そんな学生時代の自分に、誰かが「忙しさを脱したいなら、1日あと15分間余計に差し出せ」などとアドバイスしてきたら。きっと怒髪天を衝く勢いで怒っただろうな(ついでにいうと、昔から短気なのだ)。


1日15分間、余計に差し出して、何に使うのか。答えは、「日誌とTo Doリストに使う」のである。一日のはじめにTo Doリストを見直して、その日の予定とやらなければならない宿題(タスク)を確認する。タスクはたいてい複数あって溜まっていたりするから、その中の優先順位の高いものを選び出して作業時間を割り当てる。そして1日が終わったら、To
Doリストから終わったタスクを消去し、新たに生じたタスクを追加する。そして1日をふりかえって簡潔に日誌に記録する。計画に5分、振り返りと記録に10分。だいたい15分あれば終わる。


わたしはこれまで、To Doリストと日誌の習慣づけを、全ての人に勧めてきた。「時間管理術
(日経文庫)
」にも書いたし、このサイトでも何度か書いてきたと思う。大学の講義でも、繰り返し説いてきた。


だが、実行に移す人は、決して多くない。なぜだろうか? その理由には心理的なものと、技術的なものがあると思う。


まず、心理的な障害の面からいこう。なぜやる気にならないのか。答えはたぶん、簡単である。「忙しすぎて、そんなことしてる時間なんてない」であろう。『ふりかえり』の時間? とんでもない。今でさえ寝る暇もないのに、この上そんな役にも立たないことなんて、やってられるか! 振り返って反省したら、何か一つでも目の前の仕事は片付くとでも言うのかよ。単に余計な手間が増えるだけだ。計画と優先順位? 計画通りに仕事が進んだら、誰も苦労しねえよ。優先順位なんぞ、中学生じゃあるまいし、頭ん中でその場その場で決めてらぁ。


人が、「忙しすぎてXXなんかできません」というとき、もちろんそれは事実なのだろうが、でも実はその裏に隠された意味があるのが不通だ。それは、「そんなXXなんて自分にとって優先順位が低いので、する気になれません」という意味である。投入する労力に比べて得られる効果が期待できないと思うとき、優先度は低くなる。たいていの人間はバカではないので、自分の中で無意識に優先度を決めている。息をすることを忘れる人間はいないし、飲食だってまず忘れない。睡眠は多少は優先度を下げられるが、最後になると強制的に襲ってくる。そういう部分には、「本能」というファームウェアが強力なフックをかけているからだ。


起きている間に、自分が意思の力で決めることのできる活動にも、人は様々な優先順位のフィルターをかけている。たとえば

「面白い仕事を、つまらない(やりがいのない)仕事より優先する」

「期限が近い作業を、まだ期限が遠い作業より優先する」

「命令した人の地位が高いものほど優先する」(課長より常務に言われたことを先にする)

「自分の人事評価に直結する作業を、評価に関係ない作業より優先させる」

などがそれだ。


そのフィルターの一つに、「直接作業を間接作業よりも優先させる」がある。直接作業とは、具体的な成果物につながる(もっとわかりやすくいえばお金に直結する)仕事だ。たとえば見積書を作るとか、部品加工を外注するとか、顧客にプレゼンするとかだ。他方、間接作業とは、お金にはすぐは結びつかない仕事だ。タイムシートをつけるとか、出張報告を書くとか、ファイルを整理するとか。そして「To
Doリストを維持したり日誌をつけたり」する行為も、このカテゴリーに入る。


こうした間接作業は、心理的に優先度を下げられがちなのを会社も知っている。だからルールで規定したり、お金に結びつけたり(「タイムシートを記入しないと月給が出ないわよ)して、強制する。


ちなみに会社全体で見れば、稼ぎに結びつく直接業務を主に受け持つのは、営業とか製造とか購買などの部門である(「ライン部門」と呼ばれる)。他方、コストを使うだけで稼がない間接業務を主に受け持つのは、たとえば総務とか研究開発とか情報システムといった部門である(「スタッフ部門」と呼ぶ) 。そして多くの企業では、ライン部門の方がスタッフ部門よりも発言権が大きい。出世コースに乗りやすいのはライン部門だし、不況になると真っ先に削減対象となるのはスタッフ部門だ。


そのような序列感覚に不満を持つ人も、スタッフ部門には多い。たしかに直接お金を稼ぐ仕事ではないが、将来の種まきのために投資したり、職場の仕組みや環境を維持・向上することで、間接的に収益アップに貢献している。だから同じように大切なのだ、と。


もしそんな不満を持つ間接部門の人たち、たとえば情報システム部門に働くITエンジニアが、自分自身の中では直接作業ばかりを優先させて、To
Doリストや日誌のような「計画や段取りや振り返りみたいな間接作業なんかムダ」と思っているとしたら、それは自己矛盾というものだろう。


もう少し言うならば、直接作業と間接作業は、価値創出に短期的に貢献するか、中長期的に貢献するか、の違いとみることもできる。研究開発も、サーバのお守りも、それがなければ中長期的に会社のパフォーマンスが下がっていくのだから。目先の短期的な収益ばかりでなく、中長期的な成長のために先行投資や出費も辞さない姿勢こそ、良きマネジメントではないか。多くの人は、そう望んでいる。ならば、それを自己管理にも求めるべきだろう。


もっとも、殆どの人は、そもそも『時間管理』という独立したスキルが存在することを知らない。そして、管理の第一歩は記録をつけて現状を客観的に知ることだ、という初歩を知らない。ダイエットしたい人は体重を計って記録する。お金を貯めたい人は家計簿をつけて出費を記録する。時間も同じである。自分の時間の使い方も正確に知らないで、時間管理の第二歩目を踏み出せるわけがない。ちなみに第二歩目とは、「計画を立てる」だ。To
Doリストはそのための道具で、とくに「失念による混乱」を防ぐのに有効だ。そうした習慣化を組織ぐるみで実践することこそ、わたしの言う『チャレンジのOS』確立への道である。


とはいえ、わたしのサイトを読みに来るような方は、こうした事は先刻ご承知だろう。そこで、少しテクニカルな話をしよう。To
Doリストも日誌もトライした。だが続かずに挫折してしまった。そんな悩みをもつ人向けの処方箋だ。


To Doリストには二種類のタイプがある。追記型と転記型である。追記型とは、一つのリストにどんどんタスクを追記していく。終わったら二重線を引いて消す
(あるいはチェックマークを入れる)。これを続けるタイプだ。リスト全体は次第にどんどんと膨らんでいく。わたしの勤務先の先輩方は、紙のノートにこれをつけている人が多かった。長いプロジェクトだと、ノートが2冊にも、3冊にもなっていく。


しかし、終わらないタスクは元の場所にいつまでも残る。すると当然、残ったタスクはあちこちの頁に取り残されて、大海の中の小島のようになり、一望できなくなる。こうなると、その日のタスクの優先度を決めるのが難しくなってしまう。これが追記型の欠点だ。ただし、世にある多くのTo
Doリスト用ソフトウェアは追記型だが、この欠点を補うために、完了したタスクは一定期間(たとえば翌日)になると表示から消えてしまうようにしている。たとえばasana.comなどはクラウド型としてはよくできたソフトだと思うが、この方式をとっている。


他方、転記型のTo Doリストとは、毎日が別々のセクション(ノートなら別の頁)になっている。その日が終わったら、完了したタスクは当然消す。しかし、その日に完了できなかったタスクは、次の日の欄に転記して、消してしまう。つまり一日の終わりには、その頁のタスクは全て消された状態になる。かくして残タスクは、つねに一望できる状態に保たれる。そのかわり転記作業自体は、ちょっとだけ面倒くさい。


わたしは長い間、HP 200LXというハンドヘルド・コンピュータのTo Doリスト用ソフトを使っていた。このソフトは本質的には追記型だが、見かけ上、転記型に見える工夫をもっていた。HP
200LXが動かなくなった後、ちょっとExcelで追記型をためしたが、その後、転記型にかえた。きっかけは、「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」(ダベンポート著)を読んだことだ。機知にあふれた本書の中で、彼女は転記型To
Doリストを紹介していた。


わたしが転記型をすすめる理由は、二つある。まず、転記作業が「ふりかえり」「タスクの見直し」の契機になるためだ。


実を言うとTo Doリストが続かなくなる最大の理由は、見るのが嫌になるためだ。なぜ、嫌になるのか。それは、いつまでも同じタスクが、何日も何日も消えずに残っているからなのだ。そうした残るタスクは、作業量が大きすぎるか、気が重すぎるか、自分の力量には無理があるからである。やらなければ、と思う。しかしできない。こういう状態を1ヶ月以上も続けると、To
Doリスト自体を見るのを無意識に忌避するようになる。


そんな時は、タスク自体を見直して、大きすぎる時にはサブタスクに分解するとか、重すぎる時は誰かにまずヘルプを頼むという予備タスクを追加する、とかいった工夫が必要だ。転記型の方が、確実に見直しやすい。転記という一手間がそれを促すのだ。


もう一つのメリットは、転記型To Doリストなら、毎日の実際の消費時間をその横に記録できることだ。そうすると日誌と連動しやすい。これは、追記型ではむずかしい。


わたしは現在、To Doリストに、タスクのみならず、その日の会議や外出や講習といったイベントもすべて記入するようにしている。まず、時間の決まっているイベントを順に並べる(自動的にソートする)。その間のあいている時間帯に、タスクを分散して、着手予定時間を決める。


このとき、大事なテクニックがもう一つだけある。それは、1日の勤務時間(たとえば8時間なり9時間なり)を、予定で埋め尽くさないということだ。仕事の種類にもよるが、たいていは予期しない割り込みや、会議の時間延長などが起きる。そこで、1~2時間程度の余裕時間(バッファー)をとっておく。1時間がいいのか2時間でも足りないかは人と仕事によるだろうが、しばらく繰り返すと体感で分かってくる。


そうして、一日の終わりには、To Doリストの予定作業の右に実際の消費時間を記入する。それを日誌にコピー&ペーストすると、日誌の基本部分はできあがってしまう。リストからは完了したタスクを消し、残ったタスクは翌日に転記する。日誌には、以前紹介したように、「その日のラッキーな出来事」を3件、書き加える。これで終わりである。ダベンポートはTo
Doリストを紙のノートで運用しているが、一日終わったら、その頁に大きな×印を書いて消すという。そうすると、リラックスの脳内物質ドーパミンが「どっと分泌される」のだそうだ(笑)。


大学3年生の時のわたしに、こうした説明をしたら、分かってくれただろうか。さて、正直、難しいかもしれないと思う。1日に15分、確実に余計な作業が増える。目の前の仕事は減らない。その効用は何だと、理詰めでつめよってくるだろう。ある種の物事(とくに目に見えにくいマネジメント能力)は、自分で経験し体得してみないと分からないことが多い。To
Doリストと日誌で、計画と振り返りのリズム(お好みならPDCAサイクルと呼んでもいいが)を作ることは、実は多忙を減らしはしない。ただ自分の日々の予見可能性を高めることで、「多忙感」を減らすのだ。


多忙の解決ではなく「多忙感」の解決。なんだ結局、心理面の話じゃないか、とお思いかもしれない。そう言っても、別にかまわない。時間管理の目的は、見えない外乱に振り回される日々ではなく、自分が自分の主人として「考える時間」を持つ日々を作ることにある。その『考える時間』こそ、大学3年生のわたしが渇望していたものだったのだから。


<関連エントリ>

 →「“仕事が面白くない”症候群とたたかう三つの方法」(2015-09-30)


 『チャレンジのOS』については、新著「『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書 ~グローバルなチャレンジを成功させるOSの作り方』」 もご参照ください。


人を使うということのオーバーヘッド(2015/08/24)

なんだかひどく忙しい。そう、あなたは感じている。やらなければならない仕事が山のようにたまってしまった。このままでは期限までにアウトプットが出せそうにない状況だ。自分の下に誰かつけてもらって、やるべき仕事量を分担して進めるしかない。


あなたは上司に窮状を訴え、一時的な手助けのために、なんとか若手を一人つけてもらえることになった。この部に入ったばかりの、まだ右も左も分からない新米だ。しかし贅沢を言っていられる状況ではない。周りも皆、忙しいのだ。儲かってもいないのに、ウチはなぜこんなに忙しいんだ?  あなたは独り言をつぶやきつつ、そもかくその新米を席に呼ぶ。頼みたい仕事を説明するためだ。


頼む仕事は、比較的単純だ。あなたが作ったExcelシートに条件の数字をインプットして、何種類かケーススタディをしてほしい。あなたは、ある案件の原価と収支を計算して、売価や条件を関連部門に連絡しなければいけないのだが、その計算の一部を新米に頼む訳だ。本当は、必要な資材数量や外注価格も調べて、インプットの数字も作ってほしいのだが、それには過去の実績を調べたり、関連部署に問い合わせたりしなければならず、ある程度経験がなければこなせない。だから自分で以前作成した計算用シートへのインプット作業だけを頼む訳だ。とはいっても、検討すべき条件にバリエーションがいろいろあるため、ケーススタディの数もけっこう多い。だから、そこだけでも分担してくれれば少しは助かる。


・・と、思ったのだが、何なんだこの新米。端末で表を見せて説明してやっても、眠たそうな顔をしているだけで、分かったのか分からないのか不安だ。質問もしてこない。打てば響くように、即、作業に向かってくれるのを期待していたのだが、心許ない。「分かった?」と念を押しても、「はあ・・」と頼りなげに答えるばかり。いったん席に戻ったが、しばらくするとまたあなたのところに来て、「それで、インプットのデータはいつそろうんですか?」という。まだ全部はそろわないから、できている基本ケースから着手してくれと言ったじゃないか。すると次は、「このセルに入力しても、結果がすぐ出ないんですが。」という。だからそこはマクロを呼び出すんだよ。


あなたは内心、舌打ちをしながら、しかたないので指示書を書くことにする。インプット諸条件の表(まだほとんどは空欄だが)、Excelの入力セルとマクロの起動、出すべきアウトプットとケーススタディの諸条件。ケーススタディ数は、結果によってはさらに増減する可能性がある。ともあれ最低限のケース条件を決めて、その新米に渡した。指示書を作成するだけで、2時間以上もかかってしまった。これじゃ何のために手助けを入れてもらったのか、わからない。


半日後、新米が最初の計算結果を持ってきた。あなたは数字をちらっと見るが、なんだか変だ。表の入力欄を追いかけてみると、案の定、インプットの場所を間違えている。自分でチェックもできないのか!とあなたは叱って、もう一度やり直しを命じる。その後もまごまごして、結局、最初の答えが出たのは夜になってからだった。あなたが自分でやれば、たぶん1時間以内に終わるはずの仕事だったのに、指示書を作りアウトプットをチェックしていたおかげで、二人で半日、つまり1人日もの工数がかかってしまった。


教訓1:人を増やしても、生産性はすぐには上がらない。指示や教育に必要な余計な手間(オーバーヘッド)が生じるためである。


明くる日の夕方、あなたは数ケースの計算結果を新米から受け取る。ところで、横並びの表を見ているうちに、原価に関しては期待した傾向が出ていないので、少し疑問に思う。中身を再度、一つひとつ追いかけていくと、新米の間違いに気づく。計算ミスではない(そもそもExcelなんだから)。だが原価計算に関して、配賦の考え違いをしているのだ。使えない奴だなあ! あなたは内心、毒づく。人事部も、もっと戦力になる人間をとってくれよ。だいいち、大学でもっと即戦力になるよう、教育すべきじゃないの?


(ここでちょっと一言。大学で、ほんの少しだが教えている立場から弁明しておきたい。学校で教えておくべきことと、企業で社内研修で教えるべき事の線引きは、どこが適当だろうか? 答えは簡単である。社会において共通性の高い、汎用的な知識・スキルは学校で教え、企業ごとに違う、個別化されたスキル・能力は企業内で育てるべきなのだ。たとえば簿記の知識などは汎用的だ。だから会計や簿記教育のコースが成立する。しかし、原価の基本原理はともかく、配賦となると、企業ごとに違う。経営方針を反映しているからだ。


「即戦力」という言葉が、企業内業務の個別性を含んだところまで意味するなら、それを学校教育に求めるのはおかしい。逆に、学校教育に多くを期待したいなら、自社内の業務をなるべく社会や業界の標準にあわせていく必要がある。むろん後者は、多数の企業が同じマインドで協力しなければ実現しないわけだ。


この関係はちょうど、情報システムにおける手作りとパッケージ利用の違いに似ている。業界で共通性の高い仕事は、パッケージソフトが存在するし、それに任せておけばいい。他方、他社とは差別化した業務は本来、競争力の源泉だ。当然ながらそれをサポートするパッケージソフトなど、世の中には存在しない。


問題は、競争力の源泉でもないのに、他社とは違う個別化された特殊業務が、あちこちに存在していることだ。それは確実に生産性の足を引っ張っている。そういう状態に無自覚なまま、「即戦力」だとか「クラウド活用」だとか叫んでも無意味であると思う。だが話がそれたので元に戻そう)


ともあれあなたは、自社の原価に関する配賦基準を説明し、計算のやり直しを命じる。正しい答えが出てきたのは3日目になってからだった。今度からこの種の計算は、ちゃんと指示書をマニュアル化しとかないとまずいなと、あなたは思う。Excelももうちょっと表を分かりやすく作らねば。バカでも間違えずにインプットできるようにしないと、あぶない。


教訓2:人を使って効率が上がるのは、より標準化・定型化された業務である。個別化され臨機応変が要求される業務は、他人に外注するにはあまり向かない。


さて、あなたはいくつかのケーススタディの結果を携えて、企画会議に臨む。その場で議論が発展し、さらに検討すべきことが出てきた。あなたは自分の部署に戻り、新米に指示しなければいけない。口頭で背景を説明し、指示書を改定・追加するわけだが、ひどく面倒な作業に感じる。最初から、新米君も一緒に会議に連れて行けばよかったのか。少なくとも、こんな二度手間は不要になるはずだ。


だがその三日後、次なる企画会議に新米を参加させてみると、2時間の会議の中で、かれに関係ある話題は5分ちょっとで、あとの時間はぼおっとして座っているだけだということが分かった。ただ、その話題がいつ出てくるかが、なかなか事前には読めないのだ。しかも会議に参加している間は、確実に新米君の作業が止まってしまう。


だが、少なくとも会議に出させたおかげで、あなたがなぜこんなケースを追加したのか、どういう結果がほしいのか、了解はさせられたと思う。つまり、仕事の「コンテキスト(文脈)」を新米君にも共有させたのだ。しかし、やっかいなことに、コンテキストを理解したらしたで、こんどは新米が「こうすべきじゃないでしょうか?」などと言い出すようになった。お前さんの中途半端なアイデアなんぞ、期待しとらんのよ。いわれたことだけ、きちんとやってくれ。あなたは、そう言いたくなるところを、ぐっと飲み込んで、ただ聞き流すことにした。


そうこうするうちに、ようやく企画も方向性が決まってきた。あなたが彼にやらせたケーススタディも20を超えたが、やっとミスが減ってきた感じだ。企画会議でも、少しはぴりっとした顔つきになってきた(思いつくアイデアは相変わらず的外れだが)。いろいろ忍耐もしたが、少しは育ったかなと思う。「育成とは忍耐だ。」と先輩が言っていたセリフを、あなたは何となく思い出す。


・・というところで、思わぬ展開があった。この案件自体が、海外生産で対応することになったのだ。競争力を出すため、という命題なのだが、おかげで原価計算から何から、全部やり直しである。しかしトップの指示だから、しかたがない。あなたは、この新人にやらせた計算作業を、今度は海外子会社にやらせなければならない。となると、まずExcelの表も指示書も、英語に翻訳する必要がある。それはまだ我慢できるとしても、あの、多部門を巻き込んだ企画会議のドタバタを、こんどは子会社と繰り返すのかよ、とあなたは思う。案件の企画というのは、クロス・ファンクショナルな、相互調整と交渉の仕事である。やるべきケーススタディの条件も、すべて最初から決める訳にはいかない。20のケースを決めて、まとめて「計算してくれ」と依頼するなら、まだしも楽だ。だが、結果を見ながら条件を微調整して、といった進め方を、言葉も働く時間帯も違う相手と、うまくできるだろうか。


案の定、企画の仕切り直しは当初の倍以上の期間がかかってしまった。とにかく海外子会社あてだと、何を頼むにも一から十まで事細かく説明し文字にしないと伝わらない。いや、文字に書いたって、あちこちで誤解と混線が生まれるのだ。結果が出るまで任せきりにできないから、途中経過も逐一チェックし、軌道修正をかけてやらなければならない。本当にこんな事やっていて、コストダウンにつながるの? むしろエンジニアの手間が増えるばかりじゃないの。何せ相手は、話のコンテキスト(文脈)を共有していないのだから。


教訓3:コンテキスト(文脈)を共有しない海外相手の作業外注は、同じコンテキストを共有する日本人同士より、余計なオーバーヘッド(手間)が倍以上かかる。


コンテキスト・レベル」というのは、アメリカの文化人類学者E・ホールが言い出した概念だ。社会の中でのコミュニケーションにおいて、どれほどお互いがコンテキスト(文脈)を共有しているかに関する、無意識の前提である。ハイ・コンテキストな社会では、お互いが「言わずと分かる」以心伝心・暗黙の了解が、コミュニケーションの基本的スタイルになる。ロー・コンテキストな社会では、すべてを言語化して伝えないと分からないはずだ、というコミュニケーション・スタイルが基本になる。ホールは調査の結果、アメリカ先住民はハイ・コンテキストだが、白人社会はロー・コンテキストであるという意味のことを述べている。アメリカに比べて北欧社会はもっとロー・コンテキストだ、とも。


先日、訪日したスペインのPM学者Dr. Javier Pajaresさんと話していたら、同じヨーロッパ内でもコンテキスト・レベルに差があり、たとえばスペインに比べてドイツはずっとロー・コンテキストだが、旧ソ連のCIS国家はかなりハイ・コンテキストに思える、と言われていた。国際会議で、たまたま旧CISの教授が、ドイツ人の教授と、1対1の会食を希望した。他人のいない場所で、本音で話したいことがあったらしい。しかし、それを遠回しな形でしか伝えなかったために、ドイツ人はPajaresさんをはじめ、知人のイタリア人やら誰やらをみんな呼んでいたので、やってきた旧CISの教授はびっくりしてしまったという。「ドイツ人に何かを伝えたかったら、そのものズバリを言わなきゃダメだよ。ドイツ人にとってYesはYes、NoはNoなんだから」というのが、彼の解説であった。


何度も書いていることだが、「人に働いてもらって目的を達すること」が、『マネジメント』という行為の中核である。人を動かすのだから、テレパシーでも使えない限り、言語化して伝えなければならない。ただし、その手間は、相手と共有する文脈、そして相手がよって立つ文化のコンテキスト・レベルに依存する。日本は非常にハイ・コンテキストな社会である。だから、あまり事細かく言語化しなくても、下にいる人間は、上の意向を忖度(そんたく)して動く。


このやり方に慣れていて、これがそもそも当然であると思っている人が、いったん国境を越えると、あまりに指示に手間がかかるといって驚くことが多い。驚くだけならまだしも、怒ったりあきれたり、さらに「相手はバカだ」と思ったりする。そうなると、ビジネス的コミュニケーションのはずが、感情的なやりとりに転化してしまう(ここに、人種的偏見が微妙に影響したりするから、ますます始末におえない)。そうなったら協力的仕事などうまくいくはずがない。


でも、落ち着いて考えてみると、わたし達の普段の仕事でも、コンテキストを共有しない相手とか、世代が離れていて感覚の違う相手とかだと、やはり大小の違いはあれど似たようなギャップがあるはずなのである。それに気づいて、落ち着いて対処できる態度が身についているかどうかが、じつは大事なのだ。


どんな業界でも職場でも、仕事量には山と谷がある。そして個人の能力にも限界がある。それを超えて仕事量を柔軟に増大したければ、他者を使うときの原理と、コミュニケーションに必要なスキル・態度を身につけなければならない。そして、人を使うときには、それにともなう手間=オーバーヘッドが余計にかかるのだ。一人を二人に増やしたって、生産性は2倍にはならない。3割か、よくてせいぜい5割増し程度だ。それを8割増しくらいに持って行くためには、きちんとした標準化等の準備が必須である。


あいにく、わたし達は、そうしたことをあまりきちんと教育されていないようだ。少なくともわたし個人は、人の使い方を体系立てて教わったり、コーチングを受けた記憶がない。だが、「人を使う」という行為は、課長やマネージャーの地位に就くはるか以前から、実務では必要になる。とくに海外とやるときは、組織的な習慣化(=OS化)が望ましい。だから「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」(技術評論社・近刊)みたいな本を書いた訳だが、たとえ国内とやるときだって、相手が社内にいるときだって、最低限、知っておかなければいけないことがあるのだ。上にあげた3つの教訓などは、その代表例だろう。こうした集合的な知恵とスキルを、わたし達はもっと組織内で蓄えるべきではないかと思うのである。

YesとNoのゲーム - コミュニケーションを教えるということ(2015/08/02)

最初に、『Yes/No』ゲームについて説明しよう。Q&A(質疑応答)ゲーム、ともいう。4、5人ずつのグループでやるゲームだ。大人でも、子供でも、むろん学生でもできる。


ルールはとても簡単である。出題者は、何か具体的で、目に見えて手で触れる、形のあるもの(人でもいい)の名前を紙に書いて、隠しておく。回答者はグループに分かれて、順番に、出題者に対して1つずつ質問をしていく。このとき、質問についてのルールが2つある。一つ目は、質問は必ず、相手が「Yes」か「No」か、または「どちらでもありうる」の三種類のどれかで答えられるような質問であること。二つ目のルールは、誰かが既にした質問を繰り返してはいけないこと。基本はこれだけだ。


たとえば、出題者が「ビーチボール」という答えを用意していたとしよう。質問する側の最初のグループが、

「それは食べられるものですか?」とたずねる。答えは「No」だ。

二番目のグループは、「それはどこの家にもあるものですか?」と聞いてみる。出題者は「うーん、Noかな。」というだろう。

さらに三番目のグループが、「手で持てる大きさのものですか?」と質問し、「Yes」の答えを得る・・といった具合である。こうして順番に質問を浴びせていき、最後に、「それはビーチボールですか?」とたずねて「Yes」の答えを得た班が勝利者になる。


「それは何ですか?」「それはどうやって作るものですか?」といった質問ではなく、必ず「Yes/No/どちらもありうる」で答えられる質問、というところがミソだ。このように、答えの選択肢が限定されている質問のことを、コミュニケーション論の分野では、Closed Questionと呼ぶ。他方、「それは何?」のように答えに限定がない質問は、Open Questionという。このゲームは、いいかえると、有限の数のClosed
Questionをつかって、どれだけ早く正解に絞り込めるかを競うゲームだといってもいい。


むろん、このとき、他の班の質問と答えも利用していい。というか、利用しないと、競争に勝てない。しかもルールの二番目、「同じ質問を繰り返してはいけない」が厳然としてあるので、他の班の質問をちゃんと聞いていなかったら、失格になる可能性がかなり高くなる。


わたしはこれを、大学でプロジェクト・マネジメントを教える講義の中で、何度か演習に使ってみた。そして、非常に効果があるという実感を得ている。学生から毎回提出してもらう出席シートでの反応も、概して良い。ゲームとして面白いだけではない。何となく、コミュニケーションの勉強になったという実感があるのである。


「コミュニケーション」はプロジェクト・マネジメントの中核にあるスキルだ。そもそも『マネジメント』という言葉の中核的な原義は、「人に仕事をしてもらって目的を達すること」である。他の人を動かすのには、テレパシー能力でも持っていない限り、言葉にしてコミュニケートする必要がある。「言葉にして伝えること」は、マネジメントの第一歩なのだ。だから、PMBOK
Guide(R)などでも、コミュニケーションは10個の知識エリアの一つに組み込まれている訳だ。


ちなみに、IT技術の分野でも、もっとも重要視されるスキルは「コミュニケーション」である。IPA(情報処理推進機構)のアンケート調査によると、IT企業と教育機関とが重視したい教育項目のトップは、ともにコミュニケーション能力だという(次表参照)


IT企業が重視してほしい教育 トップ5

(1) コミュニケーション能力 61.2%

(2) 問題解決能力 42.6%

(3) 文章力・文章作成能力 30.7%

(4) チームワーク・協調性 25.5%

(5) プログラミング技術 22.2%


教育機関が重視している教育 トップ5

(1) コミュニケーション能力 59.4%

(2) 問題解決能力 29.3%

(3) チームワーク・協調性 24.7%

(4) 文章力・文章作成能力 20.1%

(5) プログラミング技術 19.2%

 (情報処理推進機構 IT人材育成本部編「IT人材白書2013」p.41より抜粋して引用。マルチアンサーなので合計は100%を超える)


どちらも、「プログラミング技術」は第5位にすぎない点が面白い。コーディングの能力より、まず人と話し合える能力を、というわけだ。3位の「文章力・文章作成能力」も、コミュニケーション能力の一部だと考えれば、その重要性はもっと高いことになる。


(ついでながら、「プロジェクト・マネジメント」はIT企業側で7位・11.7%、教育機関側で11位・8.8%しか重視していない。どうやらPMの知識教育は、IT業界ではろくに期待されていないらしい)


なお、上の数字と、新卒採用時に重視する観点(同書 p.83)を比較すると、さらに面白い。


「新卒採用時に重視する観点」

(1) コミュニケーション能力 75.9%

(2) 主体性・積極性 63.7%

(3) チームワーク・協調性 40.1%

(4) 潜在能力・成長可能性 29.3%

(5) 社風との適合性 22.5%

(6) ITに関する技術力 22.3%


「ITに関する技術力」については、入社後習得・育成が可能であると考えられているためか、「コミュニケーション能力」等の資質的な項目よりも下位に位置づけられる結果となっている(p.83)。つまり、「コミュニケーション能力」、「主体性・積極性」、「チームワーク・協調性」などは入社後の習得・育成が可能でないと企業は考えているわけだ。


これほど期待されているにもかかわらず、わたし達の社会では、うまくコミュニケーションができない場面をしばしば見る。また、どうやったらコミュニケーションのスキルを高められるかについて、社会的な合意もないようだ。本来、学校教育の場では「国語」がその任に当たっているはずだ。だが、わたし自身の記憶を振り返っても、現国・古文・漢文の三教科を通して、自身の的確な意思疎通能力を鍛えられたという実感がない。なにか美的な、文学鑑賞能力を問われた記憶はある。漢字の書き取りもずいぶんやらされた(今やワープロを使っているのでほとんど忘れたが^^;)。だがリアルタイムの、切実な意思疎通を、上手にできる教育をうけたとは思えぬ。


コミュニケーションには大雑把にいって二種類のモードがある。おしゃべりモードと切実モードだ。おしゃべりモードは、対話自体が目的のようなもので、何かを伝達することは副次的である。ところが仕事上のコミュニケーションや、日常生活でもある種のコミュニケーションでは、「これをどうしても伝えたい」という切実モードが主体になる。伝達媒体は、対面の会話のこともあるだろうし、メールや、あるいは文書の場合もあろう。ただし文書やメールでうまく伝わらないときは、結局、対面での説明に持ち込まざるをえないから、結局、会話での伝達が一番ボトムラインになるのだ。


ところが、この対話的なコミュニケーションが、教えるのも学ぶのも、案外難しい。時間と手数がかかる上に、相手によって会話の筋道がかわり、再現性が低いから、一定の型を真似ればすむ訳にはいかない。ペーパーテストができないから、教室でのマスプロ的な教育カリキュラムにも乗りにくい。


対話的なコミュニケーションにおいて大事なのは、相手の話を聞きながら、同時に考えることである。聞くことと考えることが、同時にできなくてはならない。そして、相手が知っていることと自分が分かっていることのギャップを、常に意識する必要がある。説明とは、両者の間にある知識・認識のギャップを埋める行為だからだ。


このトレーニングのために、最初に述べた「Yes/Noゲーム」が有効なのである。このゲームにおいては、

→注意して聞く

→聞いたことを覚えておく

→同時に考える

の三つのことをリアルタイムに実行しなければいけない。しかも、勝つためには、それを数人の仲間と一緒にやらないといけないのだ。


もっとも、「Yes/Noゲーム」のルールを説明すると、そんな効率の悪いClosed Questionでは、いくら質問を重ねても、正解に到達するには際限もなく時間がかかるのではないか、と批判する学生があらわれる。だが、実際にやってみると分かるのだが、大学生レベルの知的能力をもっていれば、普通の出題ならだいたい20問以内に正解にたどり着く。Closed
Questionという道具は、賢く使えば、かなり効率よく相手を追い込むことができるのだ。


そして、これができる人は、交渉が上手な人である。交渉(ネゴシエーション)こそ、プロマネに求められる能力の中でもトップクラスのものだろう。人を説得し、動かすことこそ、PMの仕事なのだから。そして交渉においては、きわどい局面ではOpen
Questionは役立たない。価格交渉で「じゃあ結局いくらまで払っていただけますか?」などと問うても、相手がまともに答えてくれるはずはない。このとき、「でも、何か得るものがなければ、お互いに帰れませんよね?」「やはり納期よりも金額ですか?」「それって、たとえばベンツ1台より高いですかね?」・・といった風に、相手の刃を避けつつ、鎧の隙間を狙っていく能力が必要だ。むろん、笑顔や声色やボディランゲージも、巧みに取り入れながらだ。


ところが、この対話的なコミュニケーションが、教えるのも学ぶのも、案外難しい。時間と手数がかかる上に、相手によって会話の筋道がかわり、再現性が低いから、一定の型を真似ればすむ訳にはいかない。ペーパーテストができないから、教室でのマスプロ的な教育カリキュラムにも乗りにくい。


こうした交渉の基礎的能力づくりとして、Yes/Noゲームは有用なのである。このゲームについては昔からなんとなく知っていたが、あらためて学んだのは、英語教育家として著名な故・中津燎子氏の著書(→書評:「英語と運命」)からだった。本来このゲームは子どもの教育用だが、わたしはあえて学生相手に試してみた。


試してみて驚くのは、ルールの二番目、「他と同じ質問を繰り返してはいけない」を破って失格になる者が、ときどき現れることだ。なぜか。他人の発言を、よく聞いていないのだ。上の空で聞き流して、自分の中だけで考えている。これでは良いコミュニケーションができるわけはない。そして、おかしなことに、こうした傾聴の態度・姿勢は、初等中等教育では、ちっとも訓練されていないのだ。つまらぬ教師の話を聞き流すのは、分からんでもない。だが、聞き流したら即、失敗となるゲームの場で、なぜ集中して聞かないのか。


「相手の話を聞いていない」人は、わたし達のビジネスの場でも、しばしば出会う。何を話しても、どうしても聞いてくれない。自分の側の論理だけを、一方的に繰り返す。その相手が権力があったり、顧客だったりしたら、もうお手上げに近い。だが、その相手だって、最終的には聞かないことで損をしているのだ。当然だろう。この世は取引と協力、ギブ・アンド・テイクでできている。テイクしかしない人と、誰がまともな関係を取り結ぶだろう? だれが本当の情報を奏上するだろう?


Communicationという英語は、本当は「伝達」という意味で、一方向にむかった動詞である。相手に着実に伝えること。これがCommunicationなのだ。そして、伝えるためには、逆説的なようだが、聞く耳を持たなければならない。日本ではなぜか「コミュニケーション」は双方的で、だからお互いに責任のない、ふわふわしたもののように理解されがちだ。それはおしゃべりモードの場合だけである。わたし達が何かマネージしたければ、切実モードのコミュニケーション・スキルを身につけるしかないのだ。


OSを持つ、ということ(2015/06/24)

海外の外注先とトラブルが発生した。発注書で決めていた納期が守れそうもないというのだ。我々から彼らにインプットすべき仕様情報が不正確だったし、予定より遅くなったせいだ、と彼らは、いう。こちらから見ると、彼らが出してきた設計承認図や仕様書の品質が低く、かなりコメントをつけてやり直しさせる必要があった。おまけに、両者共通の悩みとして、われらがエンドユーザーである顧客がぐずぐずとなかなか決めず、リサイクル的コメントをつけてくる問題があった。だが、まだ設計の中盤なのに、じりじりとスケジュールが遅れていった。このままだと、下流工程の仕事にも影響が出かねない。


担当者は、プロマネに相談にいくつもりだった。だが、彼のチームのベテランは、それを制した。そのベテランは別プロジェクトに従事していたが、担当者のことはよく面倒を見ていた。

「いったい何を相談に行くんだ?」

--このままだと2ヶ月近く遅れそうです。下流部門の仕事に影響がでそうなので、まずは報告に行きます。それで、どうすればいいか相談しようと思います。

「報告ってお前、対策案はあるのか。」

--いえ。だから相談しようかと。

「そんな相談があるか。相手は忙しいプロマネだぞ。お前が、対策案をいくつか考えて、中ではこれが一番良いと思うので、これで行きたいと思います。ご承認お願いします、って持って行くのが筋だ。」

--・・はい。

「そもそも、スケジュール遅れの原因は何なんだ?」


担当者は、上に書いた事情を説明した。こちらのインプットの遅れ、向こうの低品質、エンドユーザの不決断。それで、外注先の設計作業の生産性が落ちたんじゃないかと。


「ずいぶん曖昧だな。これまで何度も使ったことのある外注先だろう? 向こうの品質だって分かっているし、ウチのやり方だって慣れているんじゃないのか。この顧客とだって、はじめてじゃない。何かもっと別の原因があるはずだ。」

--何でしょう?

「それをつかむのがお前の仕事だろ! 根本原因が分からなかったら、この先でまた同じ遅延問題が何度もぶり返すぞ。外注先に行って自分で見てこい!」


出張から帰ってきた担当者は、ベテランに報告した。


--あの外注先は、コストダウンのために、今回から一部の設計業務をインドに再外注していることが、行ってみて分かりました。それがうまくコントロールできていないんです。

「やっぱりか。今回急に崩れたのは、何か原因があると思った。それで、どういう対策がある?」

--向こうのマネジメントと話し合ってみたんですが、二通りしか策はないようです。つまり、向こうに時間を与えてちゃんとやらせるか、それとも依頼した仕事の一部をこちらが引き取るか・・


これはまあ、10年以上も昔に経験したことである。上の会話は分かりやすいようにレンダリングしたが、実際にはこんなにテンポよく進んだ訳ではなく、数週間以上かかり、いったりきたりした結果である。でも、全体の雰囲気はつかめたと思う。このベテランが担当者に諭したのは、二つのことだ。


・自分の中に対策をもたずに、上に相談に行ってはいけない。たとえ自分の案が不完全でも(その可能性は高いが)、自分はこうしたい、という意思を持って行くこと。


・問題が起きたら、応急的な対処だけでなく、その問題の根本原因をきちんと調べなくてはいけない。さもないと同じようなトラブルがまた発生する。


最初の点については、以前も「あなたは、どう考えるの?」(『考えるヒント』2014-09-28) に書いたことだから、ここではこれ以上、繰り返さない。二番目の点は、問題解決における基本的な態度についてだ。


そもそも問題解決とは、次のような4つのステップを踏む必要がある。

(1) 問題の直接原因と影響範囲をつかむ

(2) 問題の波及を止める(応急措置)

(3) 問題の根本原因をしらべる

(4) 再発を防止する


このうち(3)(4)は、忙しいさなかには同時にできないかもしれない。だが、再発の可能性があるうちは、やはり根本的な解決が必要だから、放置はできない。上のベテランは、このことを指摘した訳だ。一度トラブルを乗り切ったと思っても、似たようなことが再三起きる。それは最初の原因解明が不十分だったからだ。


そして、何よりも大事なことは、上の4つのステップが自分の中で言語化されて、いつでも反射的に取り出せるようになっていることである。トラブルに遭遇し、問題事象に巻き込まれたら、この4つのステップが頭に思い浮かぶこと。それが『OS』化された姿なのだ。


問題解決には、とたえばRoot Cause AnalysisとかLogic Treeとか、いろいろな技法がある。有名なKJ法やブレーンストーミングだって、問題解決技法として登場した。だが、これらはいずれもツールであり、計算機にたとえればアプリケーション・ソフトに相当する。こうした技法を活かすかどうかは、じつはその下のレイヤーにきちんとOSが動いているかどうにかかっている。


OSとは、組織化され体系化された思考態度・行動習慣の集合である。それは個人レベルでも持ちうるし、組織内で共有するものでもある。組織内で、先輩から後輩に必ず受け継がれ、ブラッシュアップされていく仕組みができていれば、それは組織のOSと呼べるだろう。ただし、きちんと伝達され、受け継がれていくためには、(当たり前だが)それが言語化されていなければならない。そうしないと意識の層に上がってこないからだ。単なる職場の慣習で、後輩は先輩の背中を見て覚えるのみ。学ぶも学ばぬも、その当人次第、という状態ではOS化されているとはいえない。


OSがどういうものかは、OSがない状態を考えてみれば分かる。たとえばトラブルが起きる。それに対処する。そしてまた、次のトラブルが起きる。また対処する。つまり、外部からのインパクトやイベントに振り回され、必死に適応するだけの状態になる。つねに受け身で、後手後手の行き方、イベントドリブンな仕事のしかたになる。自分で先を見通せなくなる。


別の例を挙げようか。よく工場の製造現場では「5S」とよばれる標語が壁に貼ってある。5Sとは「整理・整頓・清掃・清潔・習慣化」の略だ(「習慣化」のかわりに「しつけ」という語が使われている場合もある)。5Sというのは、組織化され体系化された態度・習慣の集合で、典型的なOSである。何か材料を加工するとか部品を組み立てるといった作業や、そのための工具装置の操作は、アプリケーションである。このアプリがきちんとスムーズに動くためには、5SというOSが確立していることが望ましい。5Sが働いていないと、しょっちゅう材料のモノを探し回らなければいけないし、作業動線がぎくしゃくして怪我をしやすいし、機械は清掃不足で故障しやすくなる。だから、工場では口やかましく、5Sの徹底ということがいわれるのだ。


同じ事は、本当はオフィスワークでもなされていなければならない。あなたは書類がどこにあるか探し回ったことはないだろうか? そもそも設計書や提案書に、すべてファイリングNo.は発番されているだろうか? サーバの中を電子ファイルを探し回ったことは? あるいは床に変なモノが置いてあるおかげで、つまずいたことはないだろうか。飲み物をこぼしてPCや書類をダメにしたことはないだろうか? なぜ知的なるオフィスでは、そういう習慣は不要だと信じられているのか。


もう一つだけ、例を挙げる。わたしの勤務先では、顧客や発注先や誰とであれ、打合せを行ったら必ず議事録(MOM
= Munites of Meeting)を書く。議事録には、打合せ内容、出席者、決定事項、アクション事項と期限、などが簡潔に記載されている。それをプリントアウトして、出席した客先や業者に、「たしかにこの通りの内容で間違いない」と確認のサインをもらう。後になって、言った・言わないのくだらない水掛け論を防止するためだ。


とくに客先との打合せMOMは表現に神経を使うので、1時間の打合せの議事録作成に1時間以上かかるのはザラだ。非常に面倒くさい。しかし、少なくともわたしの勤務先では、面倒だからといって省略する者はまずいない。むしろ、議事録がないと落ち着かない気分になるだろう。それが言葉を大切にする『記録重視』のOSとして、習慣化されているからだ。会社に入って、最初にしつけられる作業の一つでもある。


(以前書いたかも知れないが、何年か前、わたしは専務によばれて30分ほど製品開発プロジェクトについて相談した。わたしが席に戻るか戻らないかのうちに、当のその専務からメールが入ってきた。開けてみると、「さっきの打合せの結論はこれこれだったよな。」という、3行ほどの念押しの内容だった。腕利きのプロマネ上がりの専務は、忘れっぽい佐藤に頼らず、自分でMOMを書いてよこしたのだ^^;)


OSとは何か。それは、自分が行う行動を、毎回個別の、単独の行為として終わらせずに、繰り返し可能なシステマティックな行動習慣とする仕組みだ。トラブルが起きたら、「問題解決」の思考ルーチンを立ち上げること。打合せを持ったら、「記録」の行動ルーチンを回すこと。モノを生み出したら、「整理」のルーチンに入れること。


それは思考や行動の抽象化とも言えるだろう。標準化といってもいい(ただし「標準化」というと、全然別の杓子定規なものを連想する人もいるから、わたしはあまりOSの説明にはつかわない)。ともあれ、いったん身につけたら、いつでも、ほぼ同じレベルで繰り返せるようにすること、それによってムラなく効率よく実行できるようにすること。これがOSの力だ。


そういう意味では、「5S」の最後の用語は「しつけ」とするよりも、「習慣化」の方が適当だ。「しつけ」ではなんだか、働いている大人をまるで子ども扱いしているかのように感じる人もいるだろうし。


ただし。世の中の物事には、つねに両面がある。すぐれたOSを持つことは良いことだし、組織がOSを確立する事は、とても大切だ。だが、いったんOSが確立してしまい、パターンやルーチンができあがると、人はしばしば、なぜそのシステムが生まれたのかを深く考えなくなる。とにかく習慣だから、そうするんだ、と考える(深いレベルでは思考停止する)可能性が高くなる。おまけに、組織のOSをバージョンアップしようとなると、途方もなく大変な労力がかかる。みんな、習慣化しているからだ。


それでも、OSレベルの仕組みは非常に大事である。このサイトのテーマは「計画とマネジメントの技術ノート」で、ずっとEVMSだのAPSだのといったアプリケーション・レベルの話題をくわしく紹介してきた。しかし、最近わたしは、おおくの職場で抱えている問題はもっと深層の、OSレベルの問題ではないかと感じることが多くなってきた。それはとくに、いったん自分たちの得意な土俵の外に出たとき、顕著になる。


わたしは現在、海外プロジェクトのマネジメントをテーマとした新著を準備中だ。その本の中でも、知識や技法レベルだけではなく、OSレベルの思考・行動習慣について、あらためて光を当ててみたいと思っている。




ハイ・パフォーマンス・チームへの道のり
(2015/06/02)

チーム(組織)のパフォーマンスは何で決まるか、という問題を、このところずっと考えている。


組織の業績はリーダーで決まる、というのが現在、世に広く受け入れられている言説である。言説というより、最も分かりやすい直感というべきかもしれない。ひいきのスポーツ・チームがリーグでこのところ連勝している。監督がかわったばかりだ。だから新しい監督が良いのだ。あるいは、隣国の巨大メーカーは、オーナー経営者が超優秀な人材を本社に集めて、近頃なかなか業績がいいらしい。かたや、昔から製品を買ってきた国内の巨大電機メーカーが、何年間もひどい不振にあえいでいる。ならば、これは経営者がわるいにちがいない・・


どんなに長期的な業績であれ短期的な戦績であれ、あるいは数十人のチームから十数万人の組織まで、すべてリーダーの性格や良し悪しだけで、決定的に決まる。これが世間に流布する受け取り方だ。この方法にはいくつかの利点がある。まず、単純明快で受け入れやすい。また、リーダーだけを見ればいいので、分析方法として手軽である。リーダーの顔写真さえあれば、直観的に判断できる。他人の顔を見て好き嫌いを直観的に判断する能力は、誰でも幼児の頃からもっていて、万人が使え、とくに必要な予備知識もいらない。顔写真に加え、出身校や略歴に関するもあれば、完璧だ。これでほぼすべての属性は説明できてしまう。


もっともこの方法、多少の限界もある。一つ目は、業績結果はうまく説明できるが、業績予測にはあまり使えないことだ。また同じリーダーの元で、業績のアップダウンがあったりV字回復したりする現象は、説明がつかなくなる(まあ、そういう場合は「女房役」の人材の良し悪しで補足説明する方法もあるが)。


さらにもう一つ。多少なりとも組織の長やリーダーになって、かつ、思わしい業績を上げられなかった経験のある人間たちは、この方法の適用に慎重になる。自分が課長に昇進したとき、あるいはチームのキャプテンになったとき、すべての戦績が自分のせいとされるのは、いささか不本意である。この程度の手勢でどうしろというのだ? あの市場環境では、むしろ善戦した方ではないか。


むろん、中間管理職なら、自分の上司や経営者のせいにもできる(だからリーダーによる説明法はすたれない)。しかし世に中間管理職は数多いので、中には、業績はリーダーだけでなく、組織をとりまく環境や、組織が持っている要員、設備や技術などもけっこう重要ではないか、と考える人も出てくる。


まず、組織の要員のコンピテンシーについて見てみよう。リーダーの性格や能力だけでなく、チーム員の能力が高くなければ、良いパフォーマンスは発揮できまい。監督がいかに有能でも、選手陣があまりにオンボロでは、勝ちようがない。まあたしかに、前期最下位のおんぼろチームを新任の監督が率いて、見事に優勝する例もまれにある。めざましい例だから、皆の注意を引き、記憶に残る。しかし、そうでない例の方が現実にはずっと多いのだ。むろん、人を育てるのも監督の大事な役目ではあろうが、さすがに人は1日2日では育たない。


ついでながら、コンピテンシーというのは、そのポジションが要求する機能を果たす能力を意味する。すなわち、同じ人間でも、与えられた役目によってコンピテンシーはかわるのだ。優秀なピッチャーに、捕手をやらせたらどうなるか、考えてみれば分かる。ポジションを離れた、抽象的な『能力』レベルを議論してもナンセンスなのだ。よく、「優秀な人は何をやらせても優秀」という言い方をする人もいるが、じゃあ日本代表チームのポジションをばらばらにシャッフルしたら、チームの戦績がどうなるか想像してもらえばいい。つまり各人固有の能力と、適材適所な配員のかけ算が、コンピテンシーを生み出すのである。「リーダーの能力」というのも、その意味ではコンピテンシーの一部である。


個人個人のコンピテンシーと並ぶ、もう一つの大事な要素は、組織が利用可能な資源(資産)だ。具体的には、設備や道具などのハードウェア、そして技術や知識といったソフトウェアなど。設備や道具は個人の能力を増幅してくれるし、技術力や知的財産で優位に立つ、という業績の出し方もある。


さらにチームや組織をめぐる外部環境も、リーダーにとって大事である。ビジネスならば、市場環境全体が成長しているのか低迷しているのか、競合状態は厳しいのか、法制度や政策はどうなのか、といったことが、業績に影響を及ぼす。これらは自分たちだけではどうにもならない。無風状態と台風の中では、誰も同じようには走れないのだ。


人間の能力、組織の資源、そして外部環境。組織のパフォーマンスを決める因子は、もう他にはないだろうか? 


まだある。それは、システムとしての『組織のデザイン』である。ここでいっているデザインとは、単なる組織図のようなスタティックな絵を作ることではない。チームを、どんな機能をもつポジションから構成するか。各ポジションに対し、どんな仕組みで指示し統制するか。そして、各ポジションにどんな権限を与え、その働きをどう評価し改良していくか。これが「システムズ・アプローチによる組織デザイン」だ。このサイトで繰り返し書いてきたように、目に見えにくいシステムを、どう理解し設計するかが、管理技術=マネジメント・テクノロジーの肝である。工場ならば、人の働きとモノの動きからなる生産システムのデザインであり、知的成果物をうむプロジェクトならば、人と知識情報の動きからなるプロジェクト・フォーメーション・デザインがそれにあたる。むろん、こうしたデザインは、設備・道具・技術など有形無形の資産と密接な関係にあるし、成員のコンピテンシーにも大きく影響されよう。


それでも、「いや、やはりリーダーの役割は大きい」という声があるかもしれない。だって、組織のデザインも、リーダーのすべき仕事なんだから。まあ、それには一理ある。しかし組織の構造は、ルールや慣習によって決まっている部分も大きい。野球チームの9つのポジションを、監督は自由にかえられるだろうか? そうはいくまい。会社組織だって、法律上要求される部分はかなり多いのだ。もう一つ。リーダーの無能ゆえに、組織のパフォーマンスが急速に落ちるケースは、たしかにときどき見かける。こういうときは、たしかに「組織はリーダー次第だな」と感じることもある。ただし、お城でもどんなものでも、作り上げるには大勢の努力と長い時間がかかるが、壊すときにはあっという間だ。リーダーは、組織がダメになるときにはその「功績」が目立つが、徐々に組織が成長していくときには、リーダー個人の影響は必ずしも見えにくいことが多いのだ。


話を戻すと、組織デザインの一番プリミティブな形は、単なる個人の寄り集まりである。小学生が校庭でやる休み時間のサッカーのように、みながワッと団子のようにボールに群がる。役割分担も何もない。この「団子状態」から一段上がると、一応、ポジションと役割分担のあるチームになる。監督さんの指示と号令の元、皆が一応の機能的な動きを志す。ただし、監督がいなくなると、バラバラで集団機能が果たせなくなる。運転手のいない車のようなものだ。こうした「機械的な仕組み」からさらに一段上がると、組織の成員一人一人が、自分で考えながら、他者と連携し、パスを回してゴールを目指していく「有機的なシステム」になる。リーダーもいるが、全員が成果に対する当事者意識(オーナーシップ)を持っている。この有機的なあり方こそ、高いパフォーマンスを生む組織の姿なのである。


そして、このような有機的な組織を維持する上で大切なのは、働いている人々の気持ちのあり方=マインドセットである。それは仕事へのモチベーション(当事者意識)であり、また、集団としての思考と行動習慣(わたしが組織のOSと呼ぶもの)でもある。たとえば、命じられたからやっているのか、自分から自発的にやっているのか。それが最終的に楽しいからやっているのか、それをしないと後が怖いからやっているのか。こうしたことは、個人個人のコンピテンシーにダイレクトに影響する。また、以前『なぜなぜ分析は、危険だ』などでも紹介したように、組織が「ミスは個人の責任だ」「ミスは罰しなければ直らない」といった、性悪説的価値観を持っていたりすれば、当然ながら猜疑と情報隠蔽がはびこるようになる。


ところが、最もやっかいなことは、このマインドセットは、チーム(組織)のパフォーマンスの結果に影響を受けるのである。業績が良ければ、人々のモチベーションも上がる。モチベーションが上がれば、効率もさらに上向く。逆に業績が落下していくと、みなが「それは俺のせいじゃない」と考えはじめる。すると、人間関係はギクシャクして、さらにダウン・スパイラルにはまっていく。ここには、正のフィードバックが働くのだ。正のフィードバックが働く系は、ご存じの通り、安定化が難しい。


以上の関係を図示すると、次のようになる。組織のパフォーマンスを決める因子は大きく4つ。下から順に、(1)外部環境、(2)組織の持つ資源(技術等)、(3)組織のデザイン、(4)人のコンピテンシーだ。人のコンピテンシーは、マインドセットに影響される。ところがこのマインドセットのある部分は、組織のパフォーマンス結果から正のフィードバックを受ける。まあ、もっと要素を細かくすることも可能だし、厳密に考えればマインドセットの影響力は、組織デザインの中の評価基準のあり方に左右されたりもするが、ここでは複雑になりすぎるので略した。この図は、一種のモデルである。モデルは、多少の細部に目をつぶっても、本質的な要素をとらえることが重要だ。それが、モデルに対するリテラシーである。



そして、わたし達の社会の産業成長の軌跡を考えると、面白いことが見えてくる。第二次大戦後の10-15年ほど、産業の復興を後押ししたのは、復興政策や朝鮮特需という「外部環境」であった。この時代は、とにかく働けば結果は出た。次の高度成長の15年間は、設備投資や技術導入の時代であった。重化学工業の発展は、「組織の持つ資源」が後押ししたのだ。だが、1970頃になると、曲がり角に達した。


その後、ごく一部の企業だけは、「組織デザイン」にボトルネックがあることに気がつき、トヨタ生産システムなどの『仕組み』の工夫をはじめた。しかし、大多数は新しい外部環境を求めて輸出に走るか、あるいは電子・情報など新しい技術に賭けることで業容を広げようとした。それなりの努力もあり、また幸運な追い風もあって成功を収めたが、95年頃のバブル崩壊以降になると、打つ手を見失っていった。


その時に、システムズ・アプローチによる組織のデザインに向かえば、まだ間に合ったろう。だが、自分なりの生産システムを考える代わりに、「カンバン方式」という道具を真似る勘違いが横行した。さもなければ、システムは飛び越して、管理職に対して「リーダーなんだからリーダーシップを発揮して、何とか問題解決しろ」と号令する向きもあった。管理技術のテクニカルなソリューションを飛び越して、精神論にいきついた感じである。あるいは個人の能力を求めて、『グローバル人材』なる偶像を追いかける、といった次第だ。


高いパフォーマンスという山の頂上へは、二つの道程がある。一つは、

 技術・設備 → 組織デザイン → 人の能力、

という尾根伝いのルートだ。最後の登坂には、マインドセットの助けを得る。もう一つは、

 技術・設備 → (精神論) → 人の能力、

という垂直ルートだ。どちらも高みには上れるだろう。後者の方がルートは分かりやすい。だが、高いリスクをもつ。


もちろん前者だって、決して楽な道のりではない。とくに、マインドセットという見えざるものが、やっかいだ。技術は左脳の論理で制覇できるが、モチベーションは右脳の感情との協調作業だからだ。ただ、これを掌中にしなければ、たぶん頂上は極められないはずなのだ。


顧客ロイヤルティの向上 ~ 次もまた選びたくなる企業となるために
(2015/04/20)

「どちらにお住まいですか?」そう聞かれたら、横浜です、と答える。だが「最寄り駅はどちらですか?」とたずねられると、どう答えるか、わたしはときどき迷う。住まいからは、JRの駅、そして2本の私鉄の駅の、いずれにも出られるからだ。どこに行くかによって、使う駅を毎回決めている。便利な場所だと聞こえるかもしれないが、どこからも中途半端に遠い、とも言える。


ただ、複数の選択肢が可能なときは、3つの路線の中で、京浜急行の駅を選ぶことが多い。じつはこの駅が一番遠いのだが、何となくそうしてしまう。京急はまず、列車のスピードが速い。これは今月の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」における八巻直一先生の講演で知ったのだが、京急は関東の私鉄の中では例外的に広軌、つまり線路のレール幅が広いのだそうだ。だからスピードを出しやすいということらしい。それに経験的に、停止するトラブルが少ないし、トラブルからの復旧が他社よりも早いと感じる。落とし物をしたときの対応なども、普段利用する他の鉄道会社より、おおむね良い。距離と価格の比で言うと、他の私鉄の方が相対的に安いのだが、鉄道選びは価格だけではない。


当たり前だが、価格だけで買い物を決める消費者はいない。性能、デザイン、品質、納期、支払い条件などを総合的に勘案して決める。競争とは、これらすべての項目を通じた競い合いである。とくに、消費者に具体的な商品を届ける消費財の場合、性能・デザインなど目に見える項目は、大きな競争力の要因となる。この事情は、サービスでも同じだ。鉄道やホテル、病院などでは、規模・機能のほかに、立地などの項目も重要だろう。


では、具体的な目に見える商品を持たぬ受注ビジネスにおいて、購買側の意思決定を決める要因は何だろうか?


これはすなわち、受注ビジネスの企業が目指すべき競争力とは何か、という質問でもある。いうまでもなく、コスト競争力が競争力のすべてではない。価格は競争の重要な一因子だが、非価格競争力もあるだろう。それは具体的には何か、との問いである。むろん、答えは業種業態によって違うはずだが、そこに共通するものはないのか。


ここで、『顧客満足度』(CS = Customer
Satisfaction)というキーワードがひとつ、浮かび上がってくる。顧客満足度調査は、消費財の分野では昔からよく行われてきた。商品を買った消費者に、いろいろな角度から、その満足度を聞くのである。そして総合評点をつける(以下の記述は、圓川隆夫・著「我が国文化と品質
(JSQC選書)
」に依っている)。CSの測定は、詳しく言うと、特定の製品・サービスを対象とした「モナディク尺度」と、過去の製品・サービスの使用経験に基づく「累積尺度」がある。いわば単発的な満足度と、累積的な満足度である。後者は、再購買行動との関連がより強いと言われている。


では、顧客満足度を左右する因子は何なのか。マーケティング研究においては、顧客満足度は『期待不確認モデル』(expectancy
disconfirmation model)で説明されることが多いらしい(同書p.94)。このモデルでは、


CS = [使用時の知覚品質] – [事前期待]


で表現される。製品・サービスを実際に使用したときに感じる知覚品質と、事前期待に代表される各個人の比較標準との、差が顧客満足に現れる。事前期待が高いほどCSは低くなり、事前期待が低ければCSは高くなる。アップルのような企業は、つねにファン的なユーザによる高い[事前期待]と闘っているわけだ。


ところで、前述書の著者である圓川教授の最近の研究によると、消費財の分野では、「企業イメージ」がCSと「再購買行動」をかなり決めることが分かってきた。世界8カ国10の製品・サービスのデータによると、企業イメージはCSの約7割を決定しているらしい。ただし国別に見ると、米国や中国では企業イメージの影響が比較的大きいが、日本とドイツではそれほどでもない、という。


なお日経BP社のブランドジャパン調査では、ブランドイメージの総合力を、「フレンドリー(親しみ)」「コンビニエント(便利)」「アウトスタンディング(卓越)」「イノベーティブ(革新)」の4つの因子に分けている。この中では、とくに「卓越性」のイメージと、CSや企業イメージとの相関が強いことも分かってきた。「他にはない魅力がある」「際だった個性がある」事などが、消費財のブランドイメージや企業イメージを向上させるのである(圓川隆夫「日本企業のリスクマネジメントの二面性」2014年12月講演資料より)。


だが、ひるがえって、受注ビジネスにおける企業イメージとは何だろうか? とくに、あまり広告宣伝を打つわけでもないB2Bビジネスにおいて、企業イメージはどのように形成されるのだろうか?


当たり前だが、答えはユーザ企業による個別の経験を通じて、ということになる。受注ビジネスでは、引き合いから発注をとおして納品まで、顧客と売り手が接する期間が長い。その間に、個別要求のすりあわせや個別設計が入ったりすることも多い。売り手と買い手のインタフェースが、対面的である。だから口コミが大きな割合を示す。商品と広告宣伝だけがインタフェースとなる消費財の世界と違うのだ。


もう一つは、業界内部での横の評判である。たとえばすぐれた結果や卓越した実績を残すこと。もちろん、これも口コミベースになりやすい。B2Cとちがい、ネットに批評が流れるケースはほぼないからだ。ただしネットや広告宣伝の空白を埋める存在として、業界コンサルタントが専門的に比較調査することはありうるが。


B2Bの受注ビジネスにおいては元々、売り手と買い手との間に、継続的な緊張関係が存在する。買い手側は、要求仕様を自分が規定し、提供させる製品やサービスを鋳型にはめることで、価格競争に持ち込もうとする。逆に売り手側は、製品やサービスのユニークな機能・特性など(供給性状)を提案し、他社との差別化によって、価格競争から逃れようとする。買い手側は、要求仕様を盾に自分の都合のいい方向に引っ張り(Pull)、売り手側は供給性状を武器に自分が有利な方向に押し出そうと(Push)する。この綱引きのような技術的・心理的せめぎあいが、受注ビジネスにおける取引の本質なのだ。


そこで、買い手側の意識した要求仕様を上回る内容を、売り手側が提案・設計できるかどうかが、勝負の分かれ目となる。あるいは、設計面ではなく、パフォーマンスの面で、買い手側の無意識の期待を、売り手側が超えられれば、それでもOKだ。ここでいうパフォーマンスとは、売り手側の生産性や品質やスピード(納期)のみならず、売り手が自らの業務プロセスやチームの状況を的確に把握していること、問題を事前に防止したり迅速に解決できること、協力的なマインドであること、などを指している。つまり、相手を信頼でき、一緒に働いていて気持ちいいか、という心理的な評価となる。この感情面での評価が、じつは受注ビジネスにおける『企業イメージ』の実態であり、それが意思決定において大きな役割を持っているのだ。


顧客が、「再びこの発注先と仕事をしてみたい」「またここから買ってみたい」と感じる気持ちを、『顧客ロイヤルティ』(customer
loyalty)と呼ぶ。英語には”loyalty”と”royalty”という、(日本人にとっては)よく似た二つの単語があるが、前者は忠誠心の意味である。後者は単語の中に”Roy”(王様)が入っているように、王族とか、国王の認可権・特許料などを意味する。このサイトでは、区別するために、前者をロイヤルティ、後者をロイヤリティと表記することにする。顧客ロイヤルティは、顧客が商品や売り手に感じる「忠誠心」(愛着)である。そして、顧客ロイヤルティの確保は、受注ビジネスが目指すべき最大のポイントである。顧客ロイヤルティが高ければ、価格競争に持ち込まれずに済む。また、繰り返し同じ相手と仕事をしていれば、さまざまな教訓(Lessons
& Learns)が得られるから、さらにパフォーマンスも高くなる。


逆に言えば、毎回買い物を入札で決めようとする買い手は、基本的にどの売り手に対しても顧客ロイヤルティがゼロだということになる。公共系の仕事などは、毎回、相見積もりや競争入札が義務づけられる。これは内部監査や透明性の確保の観点から要請されていのるが、実際には、ユニークな提案を受け入れにくく、また繰り返しによる生産性の向上などを犠牲にしているわけだ。


言うまでもないが、顧客ロイヤルティの向上のためには、「顧客の期待に合致する」だけではダメである。「顧客の期待以上」が何度も続く必要がある。それは、先ほども説明したように、提供する製品・サービスの技術的な面と、遂行パフォーマンスの面がある(冒頭にあげた京浜急行の例が、よきパフォーマンスの例である)。


また、顧客ロイヤルティは、お客さんに対してイエスマンだけで居続けては達成できない。わたしの知る優秀な企業の例を見ても、顧客に「それはできません」ないし「それをやるとこういう困難がある」とはっきり言うことで、逆に信頼を得てきた。顧客の(とくに権限の小さな担当者による)無体な要求に対しては、最終的にそれが顧客全体のためにはならないことを説明する。その際の論拠も、顧客当人の満足よりも、「顧客の顧客」の満足を見通す能力である。松下幸之助の商売戦術三十箇条(1936)の中に、

「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ」

という条項があるそうだが、この機微を語っているのだろうと思う。


無論、このようなことは、言葉にすると簡単に聞こえるが、非常に高い対人スキルや交渉能力を要する。だから、そうした対人感度の高い人材をフロントにおく必要があるだろう。以前にも書いたとおり、「気が利く」能力を生み出す要素は4つある。これを組織として認知して、サポートする仕組みがないと、顧客ロイヤルティの向上は図れまい。「次もまた選びたくなるパートナー」こそ、受注ビジネスに身を置く企業が目指すべき姿なのだと思う。


<関連エントリ>

 →「書評: 「我が国文化と品質」 圓川隆夫・著」(2014-12-17)

 →「勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて」(2015-03-11)


マネジメントのテクニックと技術論について
(2015/04/12)

このサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』である。計画に技術なんてあるのか? そして、マネジメントに技術なんてあるのか? --もちろんある、とわたしは考えている。大学で講義したり、人前で話したりする機会があるときは、ほぼ必ず、「皆さん、計画とマネジメントには技術があるんですよ」と訴えるスライドを1枚いれることにしている。


それでもまあ、反応ははかばかしくない。たいていの人はピンとこない顔をしている。マネジメントという言葉を、『管理』だとか『経営』だとかいう旧来の日本語の枠内でしか捉えないためだろうか。そして人を使う技術だろ、あるいは金儲けの技術かよ、みたいに思うらしい。そんなのに技術があったら苦労しないよな、と。


わたしは2000年に、「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」という、単著としては初めての本を出版した。その本は幸い、比較的好評を持って実務家に迎えられた。ネットにもいくつか書評や感想が出たが、わたしが一番驚いたのは、「計画やスケジューリングに理論があるなんて、本書を読むまで知りませんでした」という感想だった。ソフトやコンテンツ制作系の業種の方だったと思う。この方はそれまで、クリティカル・パスも、フロートも、最小スラック順もバックワード・スケジューリングも、何一つ知らずに仕事を回してこられたのだ。


小規模な仕事ばかりなら、それでも済むだろう。だから知らなかったことを批判しようとは思わない。だが、規模や金額の大きな仕事も、同じような感覚で回そうとしている技術者が多いんじゃないかと、あらためて考えさせられた。これではまずいな。そこで、本のフォローアップと正誤表掲載の目的で、ホームページをはじめたのである(・・もう15年も経つんだなあ)。会社員であるにもかかわらず、ずっと実名でサイトを運営してきたのはそのためだ。


まあ、スケジューリングの分野はORの研究者が好むため、妙にアカデミックな用語が多い。だからもっとアカデミアから遠い、あんまり理論とか関係なさそうな仕事を例にとって、考えてみよう。


今、目の前に、紙幣やら硬貨やらがごちゃまぜにあったとしよう。大金とまでは言えないが、ちょっとした金額だ。実際に見たことはないが、正月なんか近くの神社の賽銭箱を開けたら、こんな風じゃないだろうか。--さて、これが正確にいくらあるか、数えなければいけない、としよう。では、どうしたら早く、正確に金額を数えられるか? もちろん、手元には紙幣カウンターとか硬貨仕分け機とかいった、文明の利器はないとする。目端の利く人なら、「金融機関に持ち込んで、おたくの口座に預けるから数えてよ、と頼めばやってくれるだろう」くらいは思いつくかもしれぬ。だが、それも禁じ手としておこう。休日だから、自分で数えるのだ。さて、どうするか? 


愚直に端から一つひとつ、足し算していくのはどうだろうか。電卓を片手に、10円玉なら10を足し、千円札なら1,000を足す。もちろんそれで、一応目的は達せられる。だが、とても効率の低い仕事のやり方であることは、直感的に分かる。おまけに難点がひとつある。途中で、うっかり足し算を間違えたら、どうするか。最初からやり直すしか方法がないではないか。


まずは、紙幣を取り分けよう--その程度のことは、誰でも見た瞬間に思いつくはずだ。紙幣を取り分ける。さらに、千円札と5千円と万札に種別し、それぞれ枚数を数える、と。そこは着手しやすい。では、残った貨幣はどう集計するべきか。


とにかく、種類別に仕分けしなければ話になるまい。その上で、それぞれ枚数を数え、金額に集計するのだ。では、どうしたら手作業で、硬貨を早く仕分けられるか? 硬貨には、500円玉、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉、の6種類がある。6種類の空き箱を用意して、端から順に一つつまんでは、該当する箱に投げ入れるのではどうだろう。


それもまあ、一つの方法だ。最初の、端から順に足し算するよりは効率的にちがいない。だが、もう少しだけスマートな方法があるのだ。


ゴチャゴチャに混ざり合った硬貨を手作業で仕分ける際のポイントは、二つありそうだ。まず、目立ちやすい違いに注目する。たとえば、100円玉と1円玉は、両方とも白っぽい硬貨で、やや見分けにくい。それに比べて500円玉は同じく銀貨系だが、かなり大きいので見分けやすい。さらにもっと目立つ違いがある。5円玉と50円玉は、穴が開いているのだ。机の上に硬貨を広げたら、その二種類は他よりも区別しやすい。


もう一つの仕分けポイントは、たくさんの硬貨と少数の硬貨が混じり合っている場合、たくさんの物をすべて拾い上げるより、少数の物を拾い上げる方が、手数が少ない分、早く済むということだろう。たとえば100円玉が100枚、5円玉が10枚、まざっていたとしよう。この中から100円玉を拾い出す作業は、かりに1秒に1枚拾えたとしても、1分40秒かかる。ところが、5円玉を選り分けて拾えば、10秒で済む。残りはすべて100円玉ということになる。結果としては、同じ2種類の硬貨に分ける作業が、どちらを選ぶかで10倍も効率が異なる。


では、この中の硬貨で一番多そうなのは何か? ぱっと見て、どうやら100円玉のような気がする。硬貨の流通量から見ても、5円や50円玉は少なそうだ。ならば、そちらから拾い上げる方が良さそうだ。


以上を考えると、次のような手順が思い浮かぶ。


(1) 紙幣を先により分ける

(2) 貨幣の中から、500円玉を拾い出す(目立つから)

(3) つぎに50円玉を拾い出す(目立つから)

(4) ついで5円玉を拾い出す(目立つから)

 →この時点で、残っているのは100円・10円・1円玉となる

(5) ついで1円玉を拾い出す(少数だから)

(6) そして10円玉を拾い出す(少数だし100円玉とは色が違って目立つから)

(7) 最後に残ったのが100円玉


むろん、実際の硬貨の混ざり具合を観察して、最初の想定と違ったら、手順は多少前後させてもいい。大事なのは、なるべく効率よく、早く仕分けることである。


さて、こうして仕分けられた各硬貨の枚数をどう数えるか? これも、1枚2枚と手で数えるのは愚策だろう。おすすめの方法は、机の上に、5枚ずつ円柱型に重ねて積んでいくやり方だ。(10枚ずつ重ねてもいいのだが、5枚くらいの方が安定して崩れにくい)


(8) 最初に5枚、積んでおく

(9) それから、となりに、同じ高さになるように重ねていく

(10) そうして、できた円柱の本数を5倍し、残った端数を足し算する。


これなら、後からも検算が一目でやりやすい。


・・話は分かったよ。でも全体として、この話に何の意味があるんだ。神社の賽銭箱の勘定なんて、俺の仕事には関係ないぜ。そんな感想が聞こえてきそうだ。


たしかに、上に述べた手順だけなら、単なる「紙幣貨幣の手作業による勘定のテクニック」を知ったに過ぎない。だが、くどいようだが、ここには二つ、大事な発見がある。なにか混合物を分けるときには

・視認性の高い(=違いを検出しやすい)異物を、優先して除外する

・多数よりも少数を、優先して除外する

が作業効率上、大事な定石なのだ。もしお好みなら、定石と言わずに『戦略』と言ってもいい。


そして、これが定石(戦略)だと気がついたら、他のいろいろな作業にも展開可能なのである。あるテクニックが、そこに留まるだけならば、それはテクニックに過ぎない。しかし、それを抽象化し、より広い別の分野に応用可能にできたら、それは「テクノロジー」(=技術)に近づくのだ。そして技術がさらに発展すれば、それを基礎づける理論も生まれてくるだろう。単なるお金の勘定が、もしかすると大規模物流センターの設計の基礎になる、かもしれない。


人的作業の集合をいかに効率化するかは、わたしのいうマネジメント・テクノロジーの典型的な問題である。しかし注意してほしいのは、この種のマネジメント問題は、「経営学」や「会計学」などとは一線を画していることだ。どちらも経営管理を専門的に扱う学問・職業である。だが、硬貨の山の前に、経営学者や公認会計士を連れてきても、上に述べたような効率化の発想ができるだろうか? わたしは疑問に思う。着眼点が違うからだ。彼らの見ているのは組織図や株価や財務諸表であり、彼らが関心を持つのは起きた事象の正確な把握や分析だ。だが、硬貨の仕分けのような少額でミクロな問題、それをどういう手順でやると早く終わるかといったスケジューリング問題には、無関心だろう。そもそもそれが10分で終わろうが、1時間かかろうが、たいした違いではない。時給800円払うとしても、せいぜい700円違うかどうかだ。彼らの関心を引くには、金額の後ろに0があと4つくらいつかないといけない。


それでも、こうした作業の一つひとつの積み重ねが、企業全体では大きな違いを生んでいるはずである。だから、マネジメント・テクノロジーの問題意識や発想を持つ会社と、そうでない会社は、結局700万円どころではない業績の差が現れる。多くの会社がなかなかトヨタに追いつけないのは、(トヨタという会社への好き嫌いは別として)こうした発想の違いが現場にあるからではないか。


マネジメント・テクノロジーへの無関心の点では、メディアなども同様かもしれない。記者やレポーター、評論家達は、目に見える「画期的な新製品」などのニュースは大好きだ。ITの花形、パッケージ商品なども、カッコいい名前がついているし、なんとなく目に見えそうな気がする。だが、多数の物を拾い出して仕分けする作業のプロセス・効率・スケジュールなどは、目に見えにくい。抽象的で、見えにくいものは、ニュースにもなりにくい。だから、わたし達の社会で、気にとめる人が少ないのだろう。


もっとも、こうした問題には、全然別の視点もあり得る。もしあなたが、紙幣貨幣の勘定という仕事を、成果に対してではなく、かかった時間に比例して時間給をもらう立場だったら、どうするだろうか。もちろん、早く終わらせようなどというモチベーションは一切働くまい。ただ淡々と、端から順に足し算していけばいい。それじゃお金のムダだろうって? じつは、お役所的な仕事では、お金は使えば使うほど良いとされている。役人の一番の手柄はたくさん予算を取ってくることだ。そして予算を取ったら、1円残さずに使い切らなければならない。もし予算が許すなら、たくさん時給を払った方がいい。もらう側だって、たくさんもらう方がいい。だから公共的な仕事では効率が低いほど、全員がハッピーになる。


最近ある人から聞いたのだが、カリブ海に浮かぶキューバという国では、社会主義のおかげで、普通の国民は全員が平等に月給約1000円だそうである。どんなに働いても、働かなくても、だ。それだったら日中は適当に働いて、定時になったらさっさと職場を出て、夕風に吹かれながらラム酒を片手に、楽器でもつま弾く方が楽しいに決まっている。あの国にメチャメチャ音楽性の高い人々が大勢いるのも、当然の結果なのかもしれない。キューバは近々米国と和解する見込みのようだが、あの国に効率重視のマネジメントの発想が流れ込んだら、どうなるのだろうか。


そして、もっとずっと東の海に浮かぶ島国の人達のことも、ずいぶんと心配ではある。きくところによると、米国と協調して、内容が非公開の通商条約を結ぼうとしているらしい。これまで、「お上」による、(ほとんど社会主義的なまでに)保護政策で守られてきた産業が、突然、無国籍競争の寒風に吹きさらしになるのである。ま、キューバ人ほど楽観性も音楽センスも高くはないが、それなりに器用で真面目な人たちばかりだから、なんとか切り抜けるつもりではあるだろう。だが、せっかくなら、もっと計画やマネジメントの技術について、自覚的になったらどうかと思うのである。


JUAS『ソフトウェアメトリックス調査2014』を読み解く
(2015/03/28)

まず、ちょっとこのグラフを見てほしい。



「何だこのグラフ。点がバラバラに散らばってるだけじゃないか。」

--そんな反応が多いだろうと思う。一応斜めに直線を引いているけれど、点はその線上から、ほとんど倍半分のいきおいでずれている。無理やり引いているだけで、法則性があるとはとても言えないな。誰だよこんなグラフ作ったの・・。


だが、このグラフ、わたしはとても面白いと思う。これは、「一般社団法人 日本情報システム・ユーザー協会」、通称『JUAS』が独自に行った調査の結果をグラフにしたものだ(JUAS発行「ソフトウェアメトリックス調査2014」p.66よりスキャンして引用)。グラフの横軸は情報開発プロジェクトの全体工数。単位は人月だ。そして縦軸は、プロジェクトの全体工期(=期間の長さ)で、単位は月数である。図上に散らばった多数の点一つ一つは、個々のプロジェクトを表す。


なお、よく見ると横軸は一定間隔ではない。10の隣が100、一つおいて500、1000(人月)という具合に、ちょっと奇妙な間隔に見える。実はこれは工数の立方根を横軸としたグラフになっているのだ。そして、図中に引いてある回帰直線は、

 y = 2.50 x^(1/3)

という非線形な関係を表している。すなわち、

 (全体工期)=2.50 * (全体工数の1/3乗)

になっている、事を意味する。


つまりプロジェクトの全期間の長さは、それにかける必要工数の1/3乗におよそ比例する。この式によれば、たとえば00人月の工数がかかるプロジェクトでは、

 2.50 * (100^0.33) = 11.6ヶ月

かかるだろう、という予測が成り立つ。200人月なら、14.6ヶ月だ。


JUASの2014年度調査は、会員企業からのアンケート調査で集められた累計1,076件のプロジェクト実績データを分析している。ちなみにこのグラフにプロットされたデータ数は407点。条件は、ウォーターフォール法で進められた再開発・改修プロジェクトで、FP(ファンクション・ポイント)値が3000以下またはソースコード量が330,000行以下のものだけを抽出したグラフである。なお図中に
R2=0.86 と書かれているが、このR2は統計学で「決定係数」と呼ばれ、回帰式で説明できる分散(バラツキ)の割合を示す。プロジェクト全体期間の長さは、バラバラであるが、その86%が「全体工数の1/3乗」との関係で決まる、ということをおよそ意味している。


たしかにグラフの見た目は、ひどく点が散らばっている。しかし、これは社会調査的な結果であることを考慮するべきだろう。そして、この「1/3乗則」の関係は、再開発・改修のプロジェクトだけでなく、新規開発プロジェクトだけのデータでも成り立つし、全プロジェクトに対してもほぼ成り立つことが、JUASの同じレポートで示されている。式の比例定数は2.67だったり2.56だったりするが、大きくは違わない。決定係数も、0.85前後だ。つまり、「一般に情報開発プロジェクトの全体期間は、それにかかる工数の1/3乗に比例して決まる部分がかなり大きく、それは新規開発でも、既存システムの再開発・改修でも、あまり変わらない」という、非常に示唆に富んだ統計的事実が分かるのである。


これが、データの力である。正確には、データを蓄積し、それを読み解くことによって得られる力だ。最近はビッグデータというバズワードが大流行だが、データ件数が1,000程度ではスモールデータだろう。しかし、このグラフの点一つひとつが、どれほど多くの人の労力と汗と涙の結果で得られたか、その重みを考えてみてほしい。そして、こうしたデータ調査を毎年、ITユーザ企業に対して行い、結果を解析する仕事をJUASは10年近くにわたって継続している。この努力と姿勢に、わたしは率直に敬服する。


わたしがJUAS(日本情報システム・ユーザー協会)という組織のことを知ったのは、つい近年である。同じ『ソフトウェアメトリックス調査』2013年版を見てからだ。中身を見て、驚嘆した。膨大なデータを会員企業からアンケートで集め、戦略を持って分析している。その文章にも明確な主張があって、面白い。すなわち、ソフトウェア工学という重要な、しかしいまだ薄弱な工学を進歩させて実務に役立たせるためには、現実のデータに基づくベンチマークが絶対に必要だ、との主張である。いわゆる業界団体だとか役所の外郭団体が定期的に出すA4サイズ簡易製本のレポート類は、めったに面白いものがないという印象が強かったのだが、これだけは違った。


たとえば、システム開発に使用する言語については、こんな結果になっている(p.45):

- COBOL 17.2%

- C 13.8%

- VB 13.1%

- PL/SQL 16.8%

- Java 46.9%

- HTML 8.0%

現在、半分近くのシステム開発はJavaで行われており、その比率はまだ伸びている。だがCOBOLもいまだ17%、PL/SQLも17%と、微減ながら現役である。CやVBよりもまだ多い。これは調査対象企業が製造業・流通業など一般企業で、その大半が業務系システムであることも大きく影響しているだろう。


なお、パッケージソフトを利用した開発は全体の10.4%にすぎない(p.43)。9割近くのシステム開発が、スクラッチから書いているのだ! 2013年調査では17.5%、2012年度は18.3%だった。つまりパッケージソフトの利用は、むしろ減少しているのである。かつて2000年頃のITバブル期、ERPブームの時代には、パッケージを使わない奴は馬鹿みたいなことを、世間では喧伝していた。いま、その風潮はひっそりと、だが明確に反省期に入っている。


システム開発のプラットフォームでは、こうなる(p.44):

メインフレーム=22.6%、オフコン=1.2%、Unix=33.2%、Linux=21.4%、Windows=52.8%。

これはマルチアンサーだから合計は100%以上になるが、オフコンを含む汎用機がまだ十分現役であることにも、少し驚いていい。システムのアーキテクチャでは、

汎用機:21.2%、C/S:26.6%、Web:68.2%。

この比率は2013年度からほとんど変わっていない(p.44)。クラサバもまだ根強いなあ、との印象である。上の結果とあわせると、現在でも業務系システムはその多くが、JavaでWebベースで、かつスクラッチから書かれている。某社の某基幹システムを思い出して、ううむ確かに、などと思ってしまう。


しかし、ここら辺はまだ序の口だ。JUASはできあがったシステムの品質についてもたずねる。彼らの品質(欠陥率)の定義は、

 欠陥率=(顧客側総合テスト~フォローのフェーズで発見された不具合数)/(プロジェクト全体工数)

である(p.76)。UAT以降のバグ数を、人月あたりで割り算したものだ。この指標の立て方には異論もあると思う。だが、ユーザ企業から見ると、とても実質的で分かりやすい。このモノサシをたてて、彼らは経年変化を調べている。その変化は、緩やかだ。つまり一定の統計的傾向があるのだ。その中央値は0.20、平均値は0.58である。そして過去8年間に、平均値は1.00から0.20へ、また中央値は0.35から0.18へと、おおむね減少してきた。



ソフトウェア開発の品質は、次第に、だがかなり決定的に、向上しているのだ(バグをABCランクで重要度の重み付けをした数値については、報告書を参照してほしい)。それだけではない、「品質については、要件定義・設計・実装の各フェーズがすべて請負・請負・請負の契約のものの品質が明らかに悪い」(p.191)と大胆にも分析している。『業者にお任せ』型の開発は、よい品質を生まないのだ。


ソフトウェア開発の生産性はどうか。パッケージ開発以外で、かつIFPUG法で計測した127プロジェクト(うち新規開発と改修・再開発はほぼ半々)について、人月あたり全体の平均は約11
FPだった。ファンクション・ポイントではなく、単純に画面数と帳票数から全体工数を推算する式も出している(p.148)が、補正決定係数は0.34なので、あまり精度はよくない)。


JUASの調査は開発だけでなく、運用保守まで対象に入れている。自社開発システムの稼働後の開発費用・保守費用の比率では、稼働までの開発費用を100とした場合、初年度には平均して追加開発費が19.4%、保守費が8.5%かかっているという(p.196)。年間IT総予算の中の運用費用の割合も、大企業の場合は55%に上る(p.245)。なお、情報子会社の保有状況を見ると、子会社ありが19.7%、なしが80.3%である(大企業に限ると、保有比率はもっと高くなる)。


また今年度から、「マスターデータ管理」ならびに「アジャイル法と超高速開発法」についての質問も追加されたらしい。マスターデータ管理では、「導入済み」企業が8.7%であるのに対し、「未検討」はまだ70.6%だ。開発方法論では、2014単年度の回答集計ではウォーターフォール法が101件であるのに対し、アジャイル法7件、超高速開発法が47件だ(p.47)。500万円以上のプロジェクトを対象としているわりに、思ったより新しい手法が多いと、わたしは感じた。ただ、調査開始以来の累計データでは、まだ9割以上がウォーターフォールである。データ件数がまだ少ない上に、今回は品質データがとれていないため、一番興味ある「新しい開発手法の品質満足度はどうか」が分析されていないが、これは次年度以降の課題だろう。



このほかにも、まだまだ紹介しきれないほどたくさんのデータと知見が詰まった本である。この調査は経産省からJUASが受託して行われたものだが、世界的に見てもこのレベルの調査をオープンにしているところはあまりなく、欧州からうらやましがられているとも書かれている。これはひとつには、日本の経済規模が大きいため、それなりに多数のユーザー企業が存在することによるものだろう。ソフトウェアのメトリクス(計量指標)に興味ある人々にとって、必携の参考資料だと言えると思う。とくに、繰り返しになるが、JUASのこの調査報告書には明確な『主張・思想』のある点が、読んでいて小気味よい。こうした報告書では希有の体験である。


ところで、最初にあげたグラフから、工数の立方根と全体プロジェクト期間の関係を導くような分析アプローチに対しては、当然、疑問や批判もあるだろうと思う。上記の式はマクロな関係を示しているだけだから、もし誰かが、“全体工数は100人月だから期間は11.6ヶ月でスケジュールを作成しました”、などといって計画書を持ってきたら、わたしは「まずきちんとWBSから具体的スケジュールを組んで持ってこい。」とつっかえすだろう。その上で、推算式はバックチェックにつかうはずだ。森を見るマクロな視点は、木の枝を見るミクロな作業の積み上げにおいて、何かクレイジーな勘違いをしていないかをチェックするためのものだ。あるいはせいぜい、ごく初期の段階での超概算見積などに使う程度だ。使い方を間違えてはいけない。


しかし、もっと根本から疑問を呈する人もいるかもしれない。「法則性と言うにはあまりにもバラツキが多く、精度が悪い。それに、プロジェクトというのは元々、ユニークで個別な存在だ。だから、過去データから見てこうなるはず的な議論はナンセンスだ。」 


この反論は、よく見ると二つの別々の意見から成り立っている。まず、「法則と言うにはバラツキが大きすぎる」という意見。これはいいかえると、精度が高ければ法則として使う、という立場を表している。ところが後半は違う。「プロジェクトはすべて個別でユニークな存在だから、過去を参考にするよりも、自分の意思が大事だ」と言っている。この立場から見れば、そもそも法則性などというものは認めないことになる。だからこの二つは、実は並び立たない両極端の意見を表している。


前者の立場を、ここでは「科学法則主義」と呼ぶことにしよう。これは、電気におけるオームの法則のように、厳密な関係性を求めている。たしかに冒頭のグラフは点のバラツキが大きい(だからワザとこれを引用したのだ)。おそらくプロジェクトの全体工期を決める要因としては、工数以外にまだ大事な変数があって、その要因が層別し切れていないために、このようなバラツキを生んでいるのではないか、とも考えられる。他方、後者の立場を「個別主義」とここでは呼んでおく。プロジェクトはすべてユニークだと考える立場だ。この立場ではリーダーの気合いやパッションを重んじる人が多い。


いずれの立場も、主義主張であるから、それ自体が正しいとか正しくないとかは簡単に議論しがたい。しかし、この両者は両極端であるにもかかわらず、不思議な共通点がある。それは、JUASが苦心惨憺して集めた過去のデータは価値がない、と見る点だ。JUASのこの報告書の著者は、科学法則主義でも個別主義でもなく、その中間の立場にいる。そして、過去のデータはそれなりに参考になるし、価値があると考える。過去のデータの価値をどれだけ認めるかを模式的なグラフにしてみると、両端がゼロ(無価値)で、真ん中が盛り上がる形になっているにちがいない。



そして、わたしもJUASの著者と同じ立場である。過去を知り、過去のデータに学ぶことには、とても大きな価値があるのだ。科学法則主義と個別主義は、たとえているならば二人の登山家であろう。山の中で道に迷って、日もとっぷり暮れてしまった。正しい道を探しているのだが、科学法則主義者は「磁石が不正確で正しい方位を指さない」といって途方に暮れ、個別主義者は「そもそも方位なんてものは当てにならないのだ」と文句を言っている。それだったら、他人の足跡を探せばいいじゃないか、とわたしは思う。足跡の集積が、道になるのだ。他人の経験に学ぶことこそ、わたし達が賢くなる一番の早道ではないだろうか?


勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて
(2015/03/11)

横浜・妙蓮寺の中華点心舗「混江龍」は、わたしのひいきにしている店である。すべてテーブル席で、7、8人で満員になってしまうような、小ぢんまりした店を、店主が一人できりもりしている。しかし食べ物はどれも驚くほど美味しい。自然な材料を、余計な人工調味料など使わずに、一つ一つ丁寧に調理して出してくれる。この店は中華なのに、珍しくメニューに麺類がない(夏など、店主が気が向くと手打ちの冷やしそばを出してくれることはある)。客は普通、昼定食とか夕定食とかをたのむ。主菜に副菜、スープと漬け物、ごはんのセットで、料理の内容はその日の季節や素材を活かしたものだ。料理の質と価格の比から見て、横浜広しといえども、(超高級料理店でとんでもないお金を払うなら別だが)勤め人が気軽にいけるクラスでは一番お値打ちの店の一つだと、わたしは思う。


ところで今、勤め人という言葉を使ったが、これで思い出すことが一つある。わたしの息子が大学に入りたてで、アルバイトを探している頃のことだった。わたしは連れ合いと二人でこの店に食べに来ていて、ふと思いついて冗談交じりに店主に提案した。せっかくこれだけの腕を持っているのだから、この店をもうちょっとだけ拡張して、せめて10人以上のお客が入れるようにしたらいかがか。その折には、給仕応対係としてウチの息子をバイトで雇っていただいて・・


すると店主は、いつものように温和な笑顔で、こう答えた。「そうですねえ、ちょっと無理じゃないでしょうか。勤め人のお子さんに、客商売は向かないんですよ。」


勤め人の子弟に客商売は向かない、といわれて、わたしはちょっと考え込んだ。わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。工場を設計して作るのが仕事だが、ある意味ではもちろん、客商売である。そしてわたし自身、勤め人の子弟なのだ。てことは、わたしは向かない仕事を長年してきたことになる。


そしたら、隣にいた連れ合いが、ぽつりと別のことを口にした。「そういえば、チェーン店とかファーストフードとかでも、都内の古い街にある店よりも、郊外のベッドタウンの店の方が、応対が良くないのよね。店員が気が利かないの。」 それは要するに、ベッドタウンで働いているアルバイトや店員のほとんどが、勤め人の子弟だからだ。そう、彼女は思ったらしい(ちなみに、連れ合いは町なかの商売の店に生まれて、小さい頃は家に住み込みの職人が大勢いたという)。


サラリーマンの子弟は客商売に向かない、というのは店主の長年の経験によるのだろう。店主ご自身も飲食経営の家に生まれ、大きな店で修行してこられた方ときく(一時は勤め人もされたらしいが)。むろん、勤め人の子弟で立派に客商売をしている人だって大勢いよう。これはまあ比較の問題であって、強いて言えば女性より男性の方が、概して背が高い、という程度の違いなのだろう。だが、わたしにとって、妙に納得感のある話だった。勤め人の子弟は、客商売において大事なところが欠けているらしい。


それにしても、なぜ、そうなのか? 気が利かないからだ、というのが彼女の説明である。では、『気が利く』とは、どういうことなのか。


ここでわたしは、アメリカの空港で見たファーストフードの店を思った。早朝、空港に着き、飛行機を待つ間に朝食をとろうと、あいている数少ない店に客が行列する。早番のレジ係はてきぱきと端から応対し、オーダーをとっては奥に伝え、伝票を客に渡して待たせる。客は伝票番号を呼ばれたらカウンターに来て、伝票とつきあわせた上で品物を受け取る。まるで工場の流れ作業だ。そしてあちこちに、オーダーが間違わないよう、順番や品物が混乱しないよう、工夫が凝らされている。実に見事だった。アメリカの企業は、どこもこうしたシステムやマニュアルを作らせたら、とてもうまい。


アメリカは多民族国家である。どこの誰が雇われても一定の、70点のレベルで仕事ができるよう、仕組みとシステムを組み立てるのがビジネス文化である。きっと、顧客満足度調査だって、定期的に組み込まれているに違いない。だが、かりに味のことは置いておくにせよ、これは気が利いている状態なのか? そうとは言えまい。


都会のファーストフードで店員の気が利かないのは、安い賃金や、劣悪な労働環境のためだ、という説明もあるだろう。しかし、それでは、ファーストフードのアルバイトの賃金が今の倍になったら、どうだろうか。今の倍も払ったらビジネスが成り立たない、という反論がすかさず来そうだが、世の中には(どこかの国の農政を見れば分かるとおり)補助金なる仕組みも立派に存在している。経費の半分をお上が負担してくれる、というのは良くある仕組みだから、バイトの給料が倍になったら、という思考実験を妨げるものではない。そして労働環境も、労働基準監督署も満足するくらい改善したら。そうしたら、どこのチェーン店も気が利くようになるのか。「スマイル0円」以上に、顧客にうれしい店になるのか。70点が90点に上がるだろうか?


あれこれ想像してみたが、そうはなるまい、とわたしは思った。なぜなら、働いている人たちは、チェーン店の良くできた「システム」から逃れられないからだ。顧客がその店を選ぶのも、立地や価格がメインであって、満足度のためではあるまい。だから手頃な競合店が現れたらすぐ客を奪われるだろう。顧客のロイヤルティを上げたければ、店員の別の面を、つまり「気が利く」といったような面を上げる必要があるのだ。だが、どうやって?


もう一つ、思い出した事例があった。かつてあるコンサルタント会社の人と、北陸に出張したことがある。この方は一種の顧客満足度調査をいろいろやられている方で、面白いことを言った。航空会社のJ社さんの、全国の空港地上職員の応対を調べたとき、これから向かう北陸の空港だけが、図抜けて成績が良かった、という。ところで、その空港のチーム員は、社員ではなく全員が派遣会社のスタッフなのだそうだ。「じゃあ、その派遣会社が良いんですか?」「ところが違うんです。実はライバルのA社さんも、同じ派遣会社から地上職員をやとっているんのです。ですが、J社さんの方がずっと評判がいいのです。」


じっさい、わたし達二人がカウンターに近づくと、まだ数mも離れているうちから、カウンターの向こうに座った5名の女性職員全員がにっこりと立ち上がり、お辞儀をする。いやみがなく上品で、とても感じが良かった。もちろん応対も丁寧でしっかりしている。客が来たら椅子から立ち上がって、礼をする。ただ当たり前のことだが、それが自然にできると、こんなにも違うのか。わたしは同僚が自分の席に何か依頼に来るとき、いつも立って話を聞いているだろうか? 同僚は客ではないとしても、自分が横柄な人間に思えてきた。


「でも、どうして同じ会社なのに、こんなに違うんでしょうか?」わたしはたずねた。「そうですね。よく分からないのですが、一番右に立っていたチーフの個人的な資質の違いが、影響しているんじゃないかと思っています。チーム員を、よく引っ張っているんです」と、その方は答えたのだった。そういえば近くには古都・金沢がある。チーフはそこの商家の出身だろうか、などと根拠もないことを想像してみた。


気が利くという事柄の中身を、少しブレークダウンして考えてみよう。それはおそらく、四つくらいの要素から成り立っているらしい。

(1) 顧客が何を望んでいるのか、言われなくてもすぐ気づくこと

(2) どういう対応を取ったら、どうなるか先読みができること

(3) 瞬時の判断ができ、機転を利かせられること

(4) 自分に許された裁量の範囲内で、リスクを取って行動できること

これらが満たせれば、“うん、たしかに気が利いているな”と顧客にも認められるはずだ。


わたし自身のことに引きつけて考えてみると、どうも(1)と(3)に問題があるらしい。わたしは他人が何を望んでおり、どういう感情を持っているかに対して、どうも気づきが鈍感だし、おまけにクルクルと瞬時に頭が回るたちではない。だから、「優しいんだけど、思いやりがないのよね」というのが、わたしに対する批評である(たぶん、わたしの部下だったらもっと厳しい批評を言うだろうが)。


テクノロジー、技術というものは、移転可能である点に特徴がある。技術とは、ある、うまいやり方を移転可能にしたものだ。うまいやり方が個人に属していて、誰にもすぐ伝えることができない場合は、スキル(技能)と呼ばれる。ところが、電気回路の設計であれ、機械の設計であれ、誰が計算しても基本的に同じ数字が得られるというのが、科学法則に基づく技術の本質だ。


そういう意味で、仕事をきちんと部品に細分化して、それぞれを動かすための技術を整備し、全体をとりまとめるためのシステムを組み上げていく事は、仕事から属人性をなくして、一定レベルの品質を保つ上ではきわめて有効だ。だが、そのような仕組みの中で働いている人間は、どう感じるか。最終的には、自分であっても、他の誰であっても、同じ結果になるわけだから、自分がまるで交換可能な部品であるような感じがするだろう。働いている人を、部品かモノのように疎外していく状態が、今の技術やシステム化の行き着く姿なのだ。


このような職場では、基本は指示と報告で人を動かす。指示に従えば、規定通りの給料を払う。従わなければ、クビにするぞと脅すことになる(だって交換可能なのだから)。こうした人の使い方を、”Management
by Fear
”=「恐怖によるマネジメント」と呼ぶのだと、最近聞いた。当然ながら、働く側のモチベーションは、「言われたとおりのことをやっていればいいんだろ」という、最低の状態に留まることになる。言われたことはする。言われないことはしない。こうした勤め人であるわたし達の態度は、無意識のうちに子弟に伝わっていく。彼らにとって、上記の(1)から(4)までを発達させるインセンティブは、何もない。


もっとも、日本の企業の場合、もちろんマニュアル化もしているし、システムも作り込んでいる。だが、ある程度の部分は品質を個人個人の、属人性で担保するところが、残っている。だから、働いている人間(とくにホワイトカラー)は、そうしたシステムの隙間を自分で埋めることによって、自分が代替不可能であることの担保にしようとする。かつて、「必要な人はいつもたった一人しかいない」に書いたとおりだ。だが技術的ソリューションの進歩は、そのスキマを少しずつ確実に埋めようとしていく。


でも、職人や個人商店とその子弟は、なぜ、少しは気が利くようになるのか。そうしないと、店がつぶれるからか? だとしたら、結局それは「恐怖によるマネジメント」と同じ事ではないか。何か別の要因があるはずだ。


そう考えていたら、隣のテーブルのお客さんが、席を立った。「ごちそうさま。ああ、美味しかった!」といって、勘定を払っていく。店主もまた温和な笑顔になって、おつりを渡しつつ、何か声をかけている。なんとなく、ここには勘定のやりとりだけでなく、感情の交換があるな、と、シャレのようなことを考えた。美味しい食べ物を出す。食べた人はそれで、ハッピーになる。出した人もそれを感じて、ハッピーのお釣りをもらう。


そして、そこにこそ「気が利く」の本質があるのではないかと、思い至った。取引はビジネスだが、その上に感情のやりとりがある。相手が幸せになり、自分を認めてくれれば、自分もうれしい。だから、先読みやリスクテークをしてでも、相手に満足してもらえるようになりたいと思う。そうしたことが、ほとんど無意識の習慣として、身につく。それが、気が利くということではないか。それを、「倍の給料」や「恐怖のマネジメント」で人に強いることができると思うのは、愚かである。


それにしても、顧客が幸せになる姿を、直接見られる仕事は、なんてうらやましいんだろうと思った。わたしの仕事は、一つのプロジェクトが3年も4年もかかる。今、自分が設計したことが、結果になって現れるのはかなり先であり、それを使う人たちだって、今目の前にいる担当者とは別のことが多い。だから、相手の満足度がよく見えないのだ。誰かに幸せになってもらった、という実感が、とても得にくい。食べ物屋さんは、目の前の人をその場で幸せにできる。なんてすごい仕事だろうか。

(むろん、これは勤め人のセンチメントであり「隣の芝生」であることは分かっている。自営業者から見れば、休暇を取っても給料の出る勤め人が、とても楽に見えるに違いない)


企業というのは、仕事の質が70点あればビジネスとして成り立ちうるし、75点もあれば、大企業に成長できるかもしれない。だが、顧客ロイヤルティの高い、イノベーティブな企業になるのは、75点では無理だ。おそらく85点か90点くらいのパフォーマンスが、コンスタントに出なければいけないのだ。ところが、マニュアルだとか、システムだとか、そういった技術的なソリューション、テクニカルな方策だけでは、どうしても破れない壁がありそうだ。その壁は、働いている人間の感情面、もう少し言えば、自尊感情と同僚や顧客へのリスペクトから来ているのではないだろうか。そして働く人間の自尊感情は、基本的に「他者による認知」=ありがとうという感情、から来るのだ。そして大組織で直接顧客と接しない立場でも、自分の下流側部門、あるいは自分が支援する対象部門が、自分たちにとっての「顧客」である。


わたし達の仕事をさらにもっと良くしたければ、もう少し感情のやりとりに、注意を向ける必要があるのだ。対人的に鈍感な自分にとって、それこそが必要なトレーニングなのだろう。いや、まず手始めは家族に対してかもしれない。・・お皿に残った美味しい点心風デザートを平らげながら、わたしはこっそり、そう思った。


<関連エントリ>



 →「アメリカン航空に乗るおじさんの日記 - サービス業の本質とリスクについて」(2014-03-30)

 →「R先生との対話 ― 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か」 (2015-02-01)



わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか?
(2015/02/23)

小学校4年生の時のこと。ある日、食卓の上に、大きくて重たい箱形の見慣れぬモノがあり、それを前にした父が、「これからはこれで英会話を勉強するように」と、おごそかにわたしに告げた。器械は特殊なマルチトラックのテープレコーダーで、幅広の、今にして思えば1インチ幅の茶色いテープをかけて使うようになっていた。東京エデュケーショナルセンター(TEC)、別名「ラボ」の英会話自習用の装置だった。勤め人にとって決して安い買い物ではない。父は最初のレッスンの冒頭10分くらいをかけ、わたしが使えて、ついて行けるのを確かめた。そして、1レッスン約15分、毎日きくように命じた。


わたしは当時まだ素直な子どもだったし、父もこわかったので、一応命じられたとおりほぼ毎日その器械に向かった。ナレーターが、簡単なストーリーや説明をした上で、短い文章を発音し、聞き手がその後について自分でも声に出してみる。そういう作りだった。後半になると他の声優も登場して、多少会話風になる。耳で聞いて、自分で発音する。それを録音することができて、自分で聞き比べることができる。徹頭徹尾、音声的なトレーニングだった。テキストもついていたが、ほとんどが絵で、あまり英語の文章は書いてなかったような気がする。英語はまず第一に『音声言語』である。そういう原則の下に作られているのだった。


テキストの巻末の小さい文字の所を見ると、制作者の名前のクレジットが並んでおり、その中に「テディ片岡(片岡義男)」という名前があったのを記憶している。日系移民の子で、文化的にはアメリカ人だが、日本で生活することを選んだ彼は、若い頃こういう仕事を手伝っていたのだ。


数ヶ月経って、ある親戚の集まりに呼ばれて父と一緒に参加した。皆が談笑する中で、どういう文脈だったのか父がわたしを呼び寄せ、“ガールって言ってみな”と命じた。わたしはGirlを発音した。すると近くにいた親戚の男性達が驚いた表情になった。父は、自分がブロークンな英語しかしゃべれず、仕事でいかに苦労しているかを機嫌良く話した。そして「これからは英語とコンピュータを若いうちに身につけることが大事だ」と力説した。


英語とコンピュータ。たしかに、今のわたしは、そのどちらにも深く関係する仕事をしている。まことに慧眼だったのだろう。だが、そのどちらも、決して自分がプロだとはいまだ思えない。なぜだろう。


ちなみにその少し後、たしか6年生の頃だったと思うが、父はわたしにFORTRANの本を与え、読んで勉強するようにといった。目の前に端末もPCも何もないのに、言語を学ぶのは今考えてみれば至難の業だ。だが、そういう時代だったのだ(当時、父の会社が導入した最新鋭の電子計算機がそなえていた主記憶は、32kバイトだった)。


なぜ、わたし(達)は英語がヘタなのか? そういう話を書こうとしている。自分の英語はネイティブ並みである??そう思う読者は、読み飛ばしていただいてかまわない。だが、そうでない人が、わたしを含めて圧倒的多数だろうと思う。


ヘタと言っても、あえてここでは発音とリスニングの話題は飛ばすことにする。それは巷に数多くいるネイティブの英語教師達に任せよう。これは一種の身体訓練である。反射神経レベルの、スポーツ訓練に似ている。たしかに、子どもの頃から訓練すれば、多少は身につきやすい(だからといって、わたしは幼児に英語を教えるのは反対である。この話は後で書く)。大人になっても、繰り返しトレーニングすることで、確実に上達する。


しかし、たとえRやLの発音が滑らかでも、それだけでは英語として致命的に失格となる会話を、いくらでもしゃべれてしまうのだ。それはたとえば、複数と単数の区別である。


単数と複数の区別は、いつも悩ましい。ある事物を主語や目的語として思い浮かべる際に、それが単数なのか複数なのかを、会話では瞬時に、無意識に、自動的に決めなくてはならない。それがずれていると、英語として、なんだかおかしい。"There
are many problems." というべきときに、"There is some problem."とか、つい言いたくなってしまう。言ってから、(しまった)と思う。"I
have laptop PC."とか、言いそうになる。だが、"I have a laptop PC.”か、"I
have laptop PC’s."か、どちらかなのだ。


ある事物が数えられるモノなのか、数えられないモノかのか、の区別も、とても難しい。プラントの業界では機器 equipment
という語を多用する。ところで、このequipmentというい名詞は、おかしなことにuncountable、すなわち数を数えられない名詞なのだ。だから、"many
equipments"などと言ったら間違いである。言いたければ、"many pieces of equipment"と言わなければいけない。もちろん、"many
equipments”でも、相手のネイティブは意味を分かってくれる。だが、それと同時に、“こいつはまともな英語も知らない、学のない奴なんだな”という印象もインプットされてしまう。


いや、equipmentが不可算名詞なのが「おかしい」とうっかり書いたが、それは日本人の感覚である。Equipmentは元々、equip(装備する)という動詞の名詞形なのだ。Embellishment(装飾)などの仲間である。だから一々、数えられないというのが、本来の英語感覚なのである。


単数複数の例をもう一つあげよう。Dataという語である。英語では、countableな名詞にはmanyを、uncountableなものにはmuchをつけるのがルールだ。ではデータが多数あるとき、それはmany
dataというのが正しいのか、much dataが正しいのか? 答えは、おかしなことに、「場合による」である。そもそも、”data”という語は、それ自体が複数形だ。単数形は”datum"というのだが、今日では一部の分野を除き、この単数形を用いるケースは少ない。


しかし、ここまでひねくれた例でなくても、"a pen"なのか”pens"なのか、"a
boy"なのか”boys”なのか、その峻別が要求されるのが英語(のみならず印欧語系)の特徴である。これに対して、われらが日本語は、無理に語尾に「たち」などとつけない限り、単複を区別しないのが基本である。


この理由について、かつて岩谷宏は「ぼくらに英語が分からない本当の理由」の中で、


「英語の名詞はを指示する。日本語の名詞は、事(コト)の指示詞である」


と喝破した。だから英語では”I am a boy.”と言わなければならないのに、日本語では「ぼくは少年です」で立派に通用する。日本語では、ぼくは「少年であるという事態・事象」を表しているのであり、それ自体は数えてみる意味がないからだ。岩谷宏という人には賛同できない主張も多いが、これはとても優れた洞察だったと思う。


もう一つ、よくやる間違いを書こう。それは現在と過去と未来の区別(をしないこと)である。わたしが以前、海外プロジェクトで部下の書く英文をチェックしていたとき、最も多かったのが、この問題の修正であった。過去形や完了形で書くべき事態を、現在形で書いてしまう。未来形で意思を示すべきことを、現在形で書いてしまう。同胞の英語を聞いていても、しばしばこの種の問題につきあたる。相手は、よくきいていれば文脈で理解できるだろう。だがひどく不思議に違いない。


これは、日本語に時制tenseがないからである。といえば、「柿を食った」と「柿を食う」と「柿を食うだろう」の違いがあるじゃないかと、反論されるだろう。しかし、わたしに言わせると、この違いは時制を表すのではなく、「その事態がどれほど確定してしまったか」の違いを表すだけなのである。「食った」は確定した事態を表す。「食う」は事態への意思の表明を、「食うだろう」は不確実な事態の推定を表すだけで、時間的要素は必ずしも付随していない。未来形が「だろう」(推測)でしか表現できない点に、注意して欲しい。ちなみに確定度合いがより深刻で、もうとりかえしのつかない事態を示すときには、「食ってしまった」と表現する。これも過去完了とは、何の関係もない。


頭の中ではこういう世界のモデリング構造をしていて、それを時制にマッピングしようとするから、混乱が生じるのだ。嘘だと思うなら、英語の未来完了形”will
have done"をどう訳するか、考えてみてほしい。ついでにいうと、ある初等英語教科書には、"I am
studying English everyday."という例文があったようだが、これなど無理にtenseをつけた日本人英語の典型だろう(ふつうの英語感覚なら"I
study English everyday.”)


助動詞haveのかわりにbe動詞を使ってしまう、というのも会話の中ではよく耳にする間違いだ。ついうっかり、"We
are changed to -“などとやってしまい、あ、これじゃ受動態になってしまう、”We have changed”と言い直したりする。もう少し耳障りなものだと、会話の中で主語に”is"をしょっちゅうつける人々がいる。考えながら話すのだが、まず”This
machine is, ah,“と、宙に放り投げてから、”change the temperature.”と着地する。Isは余計なのだが、本人は意識していない。


なぜ、こういうしゃべり方が生まれるのか? わたしの想像だが、「~は」という主格を表す格助詞の代わりに、be動詞がでてきてしまうらしい。「この機械は、えー」とはじめる。その時、無意識に”is"が出てくる。「温度を変えるんです」で後半がまとまる。日本語は、指示対象を次々にスタックに置いておき、最後に操作詞で全体をまとめる「逆ポーランド型」の表現形式になっているから、最初に何かを言っておくのは、ごく自然なことである。英語がS+V+O構造なのは、皆ももちろん知っている。だが、”This machine..”のままで宙に放り投げておくことは、日本語話者にはなんだか不安定に思えるのだろう。


ほかにも、事実と意見の区別とか、正確さと曖昧さの使い分けの問題とか、最初に大事なことから話す態度とか、英語らしい表現の方法についてはいろいろ論点があるが、長くなってきたので、ここでは詳しく述べないで、一例を挙げるにとどめよう。


たとえば、これはあるセミナーの英語による案内文の一部である:

It is no wonder that the business operations of corporations
are global nowadays; therefore, the number of global programs
and global projects keeps increasing. Given this backdrop, the
need for leaders who can well manage global programs and global
projects is a critical consideration because such highly performing
leaders have been scarce until now.

文法も語法も、きちんとして正しい。だが全体として、ちっとも英語らしくない。きっと元は日本語の文章で、それを翻訳したものだと想像される。


「企業の事業活動が昨今グローバル化しているのは当然の成り行きであり、したがって、グローバルなプログラムやプロジェクトも増えています。このような背景から・・」 日本語ならば、案内文をこうした一種の枕詞ではじめるのは普通なことだ。だが、英語ではまず大事な本論に入り、背景はあとで説明するのが、キビキビしたビジネス表現である。文章は短く、同じ名詞は繰り返さずに言い替える。多いとか増えているとか言うときには極力、数字を例示する。だから、単に日本語を英訳しただけでは十分ではないのだ。(誤解しないで欲しいのだが、これを作成した人を批判しようという意図はない。わたし自身も陥りがちな英文の例として、引用したまでである)


つまり、わたし(たち)日本語を母語とする話者にとって英語の最大の難関は、世界のモデリング構造と表現手順自体の違いにあるのだということを、いいたいのである。すなわち、異文化の理解である。では、どうしたらいいのか。


以前も書いたことだが、何らかのスキルを身につけるには、(1)良い先生か手本を見つける (2)原理原則を学ぶ (3)繰り返し、繰り返し練習する、の3つが必須である。ネイティブの先生は、幸い世にあふれている。繰り返し練習は、自分の側の問題だ。だからカギになるのは、「英語の世界観という異文化のシステム」に関する原則を解明し、身につけることなのだ。このためには、一種の文化人類学的なセンスが必要になる。なんだか大げさな話をしているみたいだが、日英両側の文化を深く知った人の書いた言語論を読むのが一番だと、わたしは思う。それはたとえば、上にあげた片岡義男の日本語論(「日本語の外へ
(角川文庫)
」)だとか、あるいは以前書評に取り上げた中津燎子の英語論と言った書籍である。


また逆に言うと、本当は使用言語の違いは表層でしかない。OSIの7層モデルではないが、最大の違いは深層にある。だから訓練のためには、日本語でまず英語的な思考表現を訓練するのでも、十分役に立つだろう。


そして発音について言えば、べつにカタカナ英語でいい、というのがわたしの意見である。妙に巻き舌のRが強調されたりするのは、かえって聞きづらい。日本語の「ラリルレロ」でいい。


それよりも、一番の課題は、「自分と他人の区別」=相手の立場になって、メッセージを選び伝える態度を身につける、ということだろう(日本文化ではこの発想がそもそも薄い)。そのためには、きちんとした思考能力と、その前提となる自分自身の言語の定立がいる。父がわたしの目の前に英語教育の器械を置いたのは、10歳の時だった。その頃までには、母語は確立する。だから、ベスト・タイミングだったのだと思う。その点については、亡き父に感謝している。もっと前の幼児期だと、まだ言語感覚自体ができあがっていなかったはずだ。


体ができていない幼児にスポーツの本格的トレーニングはさせられないように、英語(日本語とは非常に異なる言語)を無理に覚えさせるのは、あまり有益には思えない。まして一緒に暮らす親の側に、英語の世界観が定立されていなければ、いっそう困難である。それは、コンピュータもなしに、コンピュータ言語を覚えさせるようなものだからだ。だからわたしは、ちっともプログラミングができないまま、プロジェクト・マネジメントばかり考える道へと旋回していったのである。





R先生との対話 ― 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か
(2015/02/01)

――B2Bの受注ビジネスにとって、顧客満足とはいったい何を意味しているのでしょう?


わたしは、久しぶりにお会いしたR先生にたずねた。R先生は半ば引退した経営コンサルタントで、人生の大先輩である。R先生が不思議そうな顔をされたので、わたしは続けた。


――ご存知の通り、わたしの勤務先はエンジニアリング会社で、製造業向けに工場やプラントを建てるプロジェクトが主な商売です。仕事を受注してから、工場が最初の製品を作れるような状態になるまで何年もかかります。大勢の人間がかかわり、お客様だってずいぶんいろいろな部門の方が関わります。工務、設計、製造、保全、製品開発、購買、法務、セールス・・。このうちメインの担当部門は工務部門と購買部門ですが、工務部門はさらに機械・建築・土木・化工・電気・制御・ITという風に専門分化しています。とくかく、一口に『顧客』といっても、関係者が非常に多いんですね。


「結構じゃないか。顧客の期待をいろんな角度から知ることができるだろう?」


――それはそうですが、でも、お客様のおっしゃることが一つではないんです。しばしばバラバラのことを要求されます。端的なのは、技術部門と購買部門です。発注権限をお持ちなのはふつう購買部門で、低価格・短納期がご要望です。ところが技術部門の方は契約後もいろんな技術的注文を持ってこられます。最初の契約条件からは予見できないような要望もしばしばです。そうなれば当然、費用も時間も余計にかかります。でも、追加費用や納期延長の交渉相手は購買部門です。あちらを立てればこちらが立たず。いったい、どの人を満足させれば顧客満足といえるんでしょうか。


「顧客が求めているのは、低価格・短納期、かつ高品質ということだろう? 当然のことじゃないか。それを満たすように工夫するのが技術屋の腕だ。別に君の業界や受注ビジネスだけに限ったことじゃあるまい。どんなモノを売っている業界にも共通する話だし、みんなそれで競争しているんだ。」


――お言葉を返すようですが、現代の品質管理論では、品質とは顧客の要望に合致する程度である、と定義されています。すなわち顧客満足こそ品質の尺度だ、ということです。ところでB2Cすなわち消費財の世界では、買うのも満足するのも同じ一人の人ですよね。ですからある意味、満足度は測りやすいし分かりやすい訳です。でも、B2Bの世界では、ユーザーと発注部門はたいてい別です。ユーザーもたいていは複数います。そして要望の間にはトレードオフがしばしば生じます。たとえば運転部門は軽快で俊敏にしてくれといい、一方、保全部門は冗長で頑丈にしてくれという、なんてザラです。いったいどちらの方を向いて満足をはかればいいのか、いつも悩みの種です。それで結局、“声の大きい方”の要望を聞いたり・・。


「情けない話だな。設計のスタンスがぶれているから、そうなる。“良いものはこうだ”という設計思想をまず、顧客と確立しなさい。そこが甘いから、ブレるんだよ。」


――おっしゃるのは分かるつもりですが、設計思想という抽象論から、目の前の具体論に落とし込む際に、皆さん自分の好みや願望みたいなものが入って、ブレはじめるんです。わたしの業界ばかりじゃないと思います。これは最近、IT業界の人から聞いたことですが、受託開発のSIと呼ばれる仕事も、よく似た状況があるみたいです。システム開発において、ユーザのレベルに応じて、「要求」のレベルが異なってくる、というのです。ここでいうユーザのレベルとは、経営者、中間管理職、実務者、
事務補助クラークなどの立場のことです。

 要件分析をしていても、ユーザが実務レベルや事務補助レベルの場合、自分の日々の作業で感じている不満やペインなどの、細かな改善要望が中心になる傾向があるようです。また、業務遂行上のいろんな例外事象にも、柔軟に対応できるようにしてほしいと考えます。いきおい、できあがってくるシステムの構想は、現状業務からは遠く離れず、不便を改善した程度のもの、それも例外処理の多いものになる、と。

 ところが経営レベルに近づくほど、むしろ業務全体のあり方を見直し、効率化したいという要請が強まるようです。ただしこれが『要請』であって、具体的案とは限らない点が悩ましいみたいですが。また経営者ですから、開発コストを抑えるために、例外処理は減らしたいと考える。例外はやめろ、あるいは人間系で何とかしろ、という訳です。


こういうふうに、顧客の間の意見が合わない場合は、どうしたらいいのか。正解はないのかもしれませんが、先生のお考えを聞かせてください。


「お考えを言う前に、君の考えを聞きたいな。君にとって、真の顧客とは誰なんだ? あるいは、そのSI会社の人にとって、誰が真の顧客だと思うんだね。」


――真の顧客。・・目の前にいるお客さんは、ニセの顧客だという意味ですか。なんだか怒られそうな話だなあ。


「じゃあ、こう聞こうか。目の前の客先担当者と、闘わなくちゃいけないときがあるだろ? 追加変更をめぐって。費用をくださいとか時間がかかりますだとか。」


――そりゃ、よくあります。受注ビジネスって、そういうものじゃないですか。


「つまり、顧客は敵だ、という訳だ(笑)。」


――いや、そんなことは思ってもいませんよ。誤解されるような表現はやめてください、先生。ただ、交渉相手であることは確かですね。


「そうだ。交渉相手だ。そして、以前教えてあげただろう。良い交渉とは、どんな結果を目指すものか。」


――相手が“勝った”と感じるような結果を目指せ、と言われましたよね。実をとっても、相手に不信感や敗北感を与えるのはまずいやり方だ、と。自分は実をとる。相手も多少の実と、感情面での花を得る。つまりお互い得るものがあって、かつ相手に信頼感や満足感が残るような結果が、最善の交渉だと。・・あれ? 相手に満足感が・・。


「分かったかね。」


――顧客との上手な交渉は、顧客に満足感を残す。つまり追加費用の問題が発生しても、それがすぐゼロサム・ゲームみたいに、顧客の満足度を下げるとは限らない訳か。


「そこでだ。何のために売り手は、顧客満足を追求しなければならないのだと思う?」


――それは、顧客満足がすなわち品質の尺度であり、技術力の尺度だからじゃないですか。


「全然違うな! 君は技術のために働いているのか、それとも顧客のために働いているのか? 君に給料を払ってくれるのは誰だ。まさか社長だとは思っていないだろうな。」


――えーと、そりゃあまあ、わたしの給料は結局、お客様が払ってくれている訳です。お客が一人もいなくなったら、社長も給料は出せませんから。


「そうだろ? 君の真の顧客とは、次も君に仕事を出してくれる人なんだ。その真の顧客の満足をはからなきゃ、受注ビジネスは飯の食い上げだ。じゃ、次の仕事を誰に出すか決めるのは、誰だと思う。目の前の担当者や、購買部長ではない。仕事が大きくなればなるほど、最終的決定権は上にいく。

 君の間違いは、顧客が要望において一枚板であるべきだと思っている点だよ。

 言っておくが、ふつうの消費財だって、顧客満足はそんなに単純じゃない。かっこいいデザインだと思って買った。でも使ってみるうちに使いにくいことが分かった。最新技術だと思って買った。でもすぐ壊れてしまった。こんな例はいくらでもある。その場での短期的満足と、あとあとで感じる長期的満足があって、いつでも両立するとは限らない。だが買うものが高価で、重要なものほど、長期的満足感の方が大切になる。それが、次の購買行動を決めるのだ。」


――でも、わたしが顧客の社長に直接会えるわけでもありません。目の前に対峙するのは、やはり担当者か、せいぜいマネージャー・レベルです。そしてやはり、目先の要求について議論しなければなりません。


「目先の上に、重層的な要求があることをつねに忘れずにいなさい。その要求の全体像の中で、相手の言うことを位置づけるのだよ。その上で、防備のために、なるべく自分の仕事は相手にもプロセスが見えるように透明性を高めておき、また都度、相手の要望もこちらの返答も記録しておくんだ。長期的満足感が大事だからといって、短期的にけんかしちゃいかん。顧客と喧嘩して得るものは、何もない。」


――たとえ相手が愚かしいとしか思えない要求をしてきても、ですか。


「ほら、それが傲慢だというんだ。相手の目には、君が愚かしい人間だと映っていることを忘れちゃいかん。

 さっき交渉のことを言ったがね、良い交渉を成立させるために一番大切なことは、お互いのリスペクトだ。君も相手も、人間だ。互いへのリスペクトという感情の交換があって、はじめて「顧客満足」が成立する。だから、君が誠実で、まじめで、かつ一応は有能であると、お客が感じるように働きなさい。技術屋同士だったら、その点は分かるし、ごまかしようもない。

 取引ではね、商品と対価の交換という、目に見える面だけではなく、顧客満足が成立して、はじめて取引の継続性が生まれるんだ。感情面の補給がないまま、取引だけが継続されると、次第にその取引は死んで行ってしまう。“誰から買って同じだな”と顧客は思うようになる。つまり、交換可能性が高まっていく。こうして、買い手から見たリスクは下がっていき、その分、君たち売り手の側のリスクばかりが上がっていくだろう。」


――リスペクトという感情の交換、ですか・・考えたこともありませんでした。


「プロジェクト・マネージャーの仕事は『感情労働』である、というのはたしか君が昔、言っていたことじゃないか。まったく忘れっぽい奴だな」R先生はグラスをわたしに向けて、言われた。「感情面の配慮なしで、『すべての取引はWin-Winであるべきだ』などと考えるのは、仕事を知らぬ者の空論だよ。」


<関連エントリ>


 →「サービス、『感情労働』、そしてプロジェクト・マネジメント」 (2011-08-18)




習慣化の力
(2015/01/05)

一陽来復」――昔の知人からきた年賀状に書いてあった。良い言葉である。いかにも冬の一番の底、陽の射す時間の最も短い時に、また温かい時節がめぐりくることを期待する気持ちがこもっている。賀頌とか謹賀新年とか月並みな言葉でないところが、この人の賀状のセンスなのだろう。


現在の西暦では1年の始まりを今の1月1日に置いているが、なぜこのタイミングを年の初めにしたのか。少し調べてみたことがあるが、よくわからなかった。太陽暦だったら、例えば冬至だとか、あるいは春分の日だとか、そこら辺のタイミングの方がなんとなく適切ではないか。もちろん、ちょうど深夜に一日の始まりを置くように、これから新しい時が生まれ変わる最も暗い季節に、新しい年の始まりを置く気持ちは、北半球の人間として、理解できる。またカトリックをはじめキリスト教の一部では、クリスマスの8日後(つまり今の1月1日)は教会歴の祝日にあたる。だが、それがゆえにわざわざ冬至からずらしたのか? 今ひとつ、不思議である。


しかし面白いことに、ほとんどの人はそういうことには疑問を感じないで、その日になれば「年が改まり」、「新年おめでとう」と挨拶しあう。今までそうしてきたから、そして皆がそうしているから、である。それが習慣の力だ。そして、本当に、大晦日の夜から元日の朝になると、本当に何か空気まで新たに、清浄になったような気さえする。面白いものだ。


新年を迎えて、「今年こそは・・」と何か抱負をいだくというのも、また習慣の力の一つだろう。年末、サイトのアクセス統計を見ていたら、ちょうど1年前に書いた「今年の抱負はこう作ろう」が、また急に多くの人に読まれているのに気づいた。面白いものだ。抱負なんて、いつ思い立ってもいいはずなのに、それでもやっぱり、新年に立てるのだ。わたし達の気持ちはそれだけ、何らかのリズムを求めているのだろう。リズムがある、というのが生きている印なのかもしれない。


抱負というのは、それまでの自分から「変化したい」「成長したい」と思うから立てる。「昨年のままでずっといいです」という抱負を述べる人は、まずいない。まあ、仮に「今のトップの座を今年も維持します」との抱負があったとしても、それは維持が難しいことだからこそのチャレンジなのである。


人や組織が変化し、自分の望むあり方に近づいていくためには、どんなことが必要で、どんなプロセスをたどるのか。諸先生・先輩達からうかがったことや、わたし自身が見聞きし体験したことなどをあわせると、それはどうやら、小さなことの積み重ねによるらしい。端から見ると、急に生まれ変わったように、あるいは突然大舞台のチャンスがやってきたように見える場合も、内実はそれまでに地味な努力や、勇気のいる小さなチャレンジの繰り返しによって、次第に内的な成長を積み重ねている。それによって、自分がself-confidenceをもってやれる範囲(=自由度の範囲)が増えていき、その結果、あるときから変化の閾値を超えるのだ。決して、ただ何もせずに待っていれば白馬の騎士がやってきて、救ってくれるわけではない。組織の場合でも、小さな成功体験を内部で積み重ねることによって、次第に同調者が増えていき、ある時点で臨界質量を超えて急に広がっていく。そんなプロセスをたどるらしい。


小さなチャレンジを繰り返していくことによって、人はできることを増やし、成長していく。そのために、具体的な目標や抱負が必要なわけだ。


ところで、新年の抱負を考える際、まずやらなければいけないことがある。それは、昨年の抱負の達成度をふりかえることだ。当然のことである。ところで、去年の抱負って、何だっけ? え、紙に書いて壁に貼り、毎日それを眺めて気持ちを奮い立たせていた? 大変すばらしい。しかし、多くの人は(過去のわたしも含めて)たいてい忘れちゃうのである。


そこで、ふりかえりのツールとして、日誌が登場する。わたしはかれこれ20年以上、日誌をつけている。日記ではなく、『日誌』だ。最初はMacのHyperCardで簡単なアプリ(スタック)をつくって記録していた。その後、いくつか変遷を経て、ツールも変わった。HP200LX上のIP.COMを8年間つかっていたこともある。メディアはどうであれ、シンプルなテキストのデータベースであること、検索が可能であることが条件だ。だって、ふりかえりのツールなのだから。


わたしは機会があるごとに、多くの人に日誌をつけるよう、すすめてきた。『時間管理術
(日経文庫)でもそう書いたし、このサイトでも、「日誌をつけよう」(2004/01/04)のシリーズを書いた。大学の授業などでも言ってきた。「お金を上手に管理したいと思う人は、家計簿をつける。それと同じように、時間管理を上手になりたい人は、自分の時間の使い方を日誌に記録しなさい」と。


でも、日記をつけていますか、とたずねて、Yesに手を上げる人はとても少ない。なにせ、「日記」ときくと、反射的に「三日坊主」という言葉がでてくるほどだ。思い立つ人は多いが、続けられる人は少ない。


なぜなら、日誌をつける作業は、直接には何も生み出さないからだ。日誌をつければお金が儲かるとか、成績や勤務査定が上がるとか、異性にモテるようになるとか、そういう直接の御利益がまったく見当たらない。だからモチベーションがつづかないのである。


直接の利益がなくても、日誌という名の記録がそれなりにたまると、過去のふりかえりが可能になり、いろいろと価値が出てくる。去年の抱負だって、すぐに見つけられる。いつ、どんなイベントがあったか。誰に会ったか(年を追うごとにわたしは人の名前の記憶力が低下してきているので、これで大いに助かっている)。何かを買ったり修理したのはいつか。すぐに見つけられる。それが記録をつける=Documentationという習慣の価値である。


船の船長は、航海日誌をつけている。Ship Log Bookという。わたしは、航海日誌もちゃんとつけられないような、だらしない船長の船には、乗りたくない。同じように、わたしはプロジェクト日誌をつけないプロマネの仕事は、あまり手伝いたくない。プロジェクトは航海と同じで、最初に航路を決めても、とりまく周辺環境は変わりやすいし、人の出入りはあるし、思いもよらぬ出来事や故障もある。なぜ、あのとき、そういう決断をしたのか。何が理由で、航路に遅れたのか。すべてにさかのぼってトレーサビリティを確保しておくのは、とても大切なことだ。


もちろん、大切なことは皆、わかっているのである。でも、モチベーションが続かないのだ。なぜなら、しばらく続けないと、日誌は価値が出てこないからだ。経験的に言うと、最低でも、100日くらいだろうか。ここに、いわばポテンシャルの壁がある。そこを超えないと、続かない。そこを超えると、もう日誌をつけることが習慣化する。習慣として身につくと、もはや苦ではなくなる。たとえば旅行や風邪で2-3日、日誌をつけられない場合には、逆になんだか気持ちが落ち着かなくなってくる。


ToDoリストも同じである。わたしはこれも、時間管理術の一環として、ことあるごとに人にお勧めしている。だが、これも習慣化が必要である。習慣になると、これがないと落ち着かない。たまたま出先で何かやるべき事を思いついて、手元に適当な道具がないときは、携帯メールで自分宛にTo
Doを送ったりする。あとでリストに転記するためである。それさえなければ、手に文字で書く(ま、それくらいわたしは忘れやすいということでもある^^;)。


名刺も同じだ。もらったら、数日以内にExcelのデータベースに名前、所属、住所、電話番号、メルアドを入力する。すでに1,000件以上のリストになっている。たった一度会ったきりで、二度と会うかどうか分からない人も、区別せずに入力する。それと・・いや、もうよそう。わたしの個人的な習慣をここにだらだら述べたって、しかたない。それに、こういう「チマチマした習慣」には興味を持てない人だって、大勢いる。でも、そういう豪快な行動派の人たちだって、定期的にやりたいと思っている、何かを抱えているのだ。


では、何かを習慣化したかったら、どうすべきか。一番いいのは、「仲間を作る」ことなのだ。同志を見つけて、おたがいに、習慣化することを誓い合う。ときどき顔を合わせては、「おい、お前、あれどうなった?」とかたずね合う。一応誰だって見栄があるから、やらなくちゃな、と思う。そうして続けている内に、ほんとうに、なしではいられないものと化していく。


MBAが会社を滅ぼす』や『マネジャーの実像』などの著作でも知られる、現代経営学を代表する学者の一人であるH・ミンツバーグは、「コミュニティシップ」Communityshipという聞き慣れない英語(一種の造語)を提唱している。英雄的なリーダーシップでも、従属的なフォロワーシップでもない、仲間による統合的な力だ。彼はあるとき、企業人である義理の息子から、窮地に立たされたIT会社をなんとか立て直すにはどうしたらいいかとたずねられた。ミンツバーグのアドバイスはあっけないほどシンプルだった:週に1回、職場のランチタイムに、ミドル・マネジャーたちが集まって、自分のふりかえりをお互いに披露して話し合え、と。これは思いの外、成功して、しまいには彼の義理の息子は「Coaching
Ourselves」というプログラムをビジネスとして始めたほどだ。ここで現れる力が、仲間による習慣化の力なのである。


そういうわけで、わたし達が何かを新しくはじめて、それを習慣化したいと思ったら、仲間を見つけて、折々にお互いに表明しあい、お互いを助け合うことが必要なのだ。習慣は、集団の中でこそ強まり、維持しやすい。そして、そのためには『場』も必要だろう。


そうした習慣化された思考・行動こそ、いわば新しい能力なのだ。わたしは、組織において体系化された態度・行動習慣の集合を、(いわゆる知識コンテンツやアプリケーション・ツールよりもベーシックなため)組織の『OS』レベルの能力と呼ぶことにしている。組織のOSレベルの能力を、どうインストールしアップグレードしていくか。これこそ、マネジメントにおける最大のチャレンジであろう。


というわけで、まあ、そこまで大げさな立場にない若手やミドルにも役立つような、海外型プロジェクトの進め方に関する新著も、準備中だ。その中でも、「チャレンジのOS」と、そのコンポーネントである8つの行動習慣について、詳しく説明するつもりである。さらに、わたしが主査を務める「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」も、個人的に新しい取り組みを志望する人たちに役立つような『場』を提供できるようにしたいと考えている。


何か心に決めても、自分一人だと、三日くらいしか続かない。それくらい、年頭の抱負を続けるのは日常に流されてむずかしい。そこから脱出して、自分が成長していくためには、わたし達は他者と共同した「習慣化の力」が必要なのだ。

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