10月2日はインドの祝日だった。独立の父・ガンディーの生誕記念日である。我々は学校で、彼の名前をマハトマ・ガンジーと習う。だが、これは元々の名ではない。マハーは「大いなる」、アートマー(アートマン)は「魂」で、マハートマーとは「偉大な魂」「聖者」というほどの意味だ。これは、国民会議等から賜った名である。
彼自身は、しかし、この呼び名をありがた迷惑なものと考えていたらしい。本名はモーハンダス・カラムチャンド・ガンディーで、幼い頃は「モニヤ」、少年時代は「モーハン」、青年時代は「モーハンダス」と呼ばれた。エリクソンは彼のライフ・ヒストリーを、この名前で象徴的に記述している。
ここにあげた2種類の本は、彼の思想を扱っている。もっとも、インド文化では、思想と実践と修行は地続きなので、いずれの本も、彼の具体的な行動に分け入って、分析を含めている。
そして、2冊はとてもよく似たタイトルになっている。なぜなら、ここで真実とか真理とか呼ばれているものは、ガンディー自身が『サッティーヤグラハ』と名付けた思想=実践=修行を指しており、その意味は「真理の把持」(間永次郞氏はあえて「真実にしがみつくこと」と訳している)だからである。この言葉自体、サンスクリット語の「サッティヤ(真実)」と「アーグラハ(把握する)」からガンディーが作った造語だ。
そしてこの『サッティーヤグラハ』が、英語ではnon-violenceと呼ばれ、日本語では非暴力と訳される。Non-violenceという英単語はとても新しく、自覚的にこの語を使い始めたのは、英国人でも米国人でもなく、じつはガンディー自身だったと間氏は指摘している。それまで、非暴力という概念は、西洋世界には存在しなかったのだ。
ところでわたしは1年ちょっと前、「RRR」 という映画を見た。時代は今から100年前、英国支配下のインド。そしてインド映画らしく、まるで頭からしっぽまであんこの詰まったタイ焼きのように、とても面白い娯楽映画だった。
しかし、映画の描写がとてもバイオレントなことに、驚いた。無論、英国人のインド支配が、極めて苛烈なものだったのは事実だ。この事は決して、軽く見るべきではない。だが、その英国人に反抗し、観客に快哉を叫ばせる主人公らの活躍も、相当にバイオレントである。描かれた時代は、ちょうどガンディーが独立運動に駆けずり回っていた時だが、映画にはその姿など微塵もない。
一体、名高いインドの非暴力・無抵抗主義はどこに行ったのか? ガンディーから百年たって、彼の思想も運動も、インドの主流思潮からは消え去ってしまったのか? そもそも彼の思想とは何だったのか。
「ガンディーの真理 〜 戦闘的非暴力の起源」(上)E・H・エリクソン著、星野美賀子訳
「ガンディーの真理 〜 戦闘的非暴力の起源」(下)E・H・エリクソン著、星野美賀子訳
E・H・エリクソンは、『アイデンティティ』の概念を確立した、名高い心理学者である。彼は1960年代の初めに、セミナーのためにインドのグジャラート州アーメダバード市を訪れ、地元の名望家であるサーラーバーイ家の知遇を得る。アーメダバードは、古代から織物産業の街として知られ、サーラーバーイの当主アンバラールは、大手工場主であった。
このアーメダバードで1918年に、大規模な労働争議が起きた。その背景は複雑だが、当時インドの「余剰生産物」はすべて、英国が排他的契約によって持ち去ることができた。英領インドの判事は全員、英国人だった。そして英国人は、伝統的にインドに無かった概念、すなわち「地主制度」と「地代(生産物の一部を上納させる)」を、法律的に彼らに強制させたのだ。
その支配概念は農業だけでなく、すべての産業に及ぶ。長らくインドの重要な伝統産業だった織物は、ほぼ一方的に東インド会社だけが、言い値で生産物を引き取れる制度にされた。かくて独立した自営業だった織物職人達は、自活の方法を奪われ、さらに機械化の進んだ英国からの逆輸入にさらされて失職し、住処のないプロレタリアートに没落し餓死していった。
さて、アーメダバードで織物工の労働争議が激しくなったのは、1917年頃からだった(これはちょうど第一次世界大戦末期で、英国は植民地から少し注意が離れたのだろう)。その中心に居たのがサーラーバーイ家で、当主の姉のアナスーヤは労働者の福祉のために尽力していた。そしてこの争議に割って入って、両者を和解させようとしたのがガンディーだった。
ガンディーは小国の宰相の子として生まれ(カーストとしては商人階級だった)、英国に留学して法廷弁護士資格を取っていた。彼は、ある事件のために南アフリカに渡って、現地で苛烈な人種差別を目の当たりに体験し、自分の使命に覚醒する。そこで人びとをリードする指導原理として、サッティーヤグラハ(非暴力・非協力運動)を確立する。そして22年もの間、南アに居て、帰国した彼が拠点として選んだ地が、アーメダバードだったのだ。
エリクソンは60年代にこの市を訪問したとき、まだ生き残って1918年の事件を記憶している当事者達に会い、さらに国外では得がたい様々な記録を調べる。そうして、このガンディーという、偉大だが、ある面では理解しがたい非凡な人物の精神を、精神分析家の眼と歴史家の手法で、記述・分析していくのである。
争議において労働者側は、インフレ下で40%の賃上げを要求していた。これに対し工場主側は、どのような手を打ったか。これは今日でも共通して学べる点だから書いておくと、工場を強制的にロックアウトしてから、25%の賃上げに同意した労働者だけを、工場の職場に入れるよう許可する、と告げた。つまり労働者の切り崩しである。労働者側には資金も生産手段も何もないから、ストライキを打っても、収入ゼロの日が続けば生きていけなくなる。
ガンディーは市内に道場(アシュラム)を持っていて、南アの時と同様、非暴力・非協力を労働者に説いていた。しかし工場主達の一方的なやり方に、激怒する労働者も少なくなかった。そうなれば暴力的な行為に出る者もいるだろう。ガンディーが親しくしていたサーラーバーイ家も、当主と姉が、経営者側と労働者側にそれぞれ分かれて、争う状態になった。
窮地に陥ったガンディーが、最後の調停手段として持ち出したのが、『断食』であった。彼は後に生涯で17回も断食を行い、48年に暗殺されたときも、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の内戦状態を止めるために、断食に入っていた。だが、彼がこのやり方を初めてとったのが、アーメダバードの事件だったのだ。『ガンジー自伝』 ではほとんど触れられていない本事件を、エリクソンが彼の生涯の重要な転換点としたのも、この点が大きい。
「ガンディーの真実 〜 非暴力思想とは何か」 間永次郞・著
ガンディーの『サッティーヤグラハ』は普通、非暴力・不服従運動として「民衆運動」と捉えられている。しかし上に述べたとおり、これは一種の思想であり、かつ修行でもあった。彼自身は自伝の中で、これを『実験』だと述べている。つまり、自分の生き方を通して、試行錯誤しながら確かめている、仮説検証だと。では、彼の仮説とは何だったのか。
「ガンディーの真実」の著者・間永次郞氏によると、彼の長い生涯の中で、ドラマティックな大衆抗議行動に直接関わっていた時期は、合計で4年しかなかった。それ以外の時期は、サッティーヤグラハの思想を深めるべく、日常の生活の中で実験を続けていたことになる。
その実験とは、食事・衣服・性・宗教など多岐にわたる。たとえば食事について言うと、彼は独自の菜食主義をとっていた。菜食主義自体は、インドでは珍しくない。非殺生(アヒンサー)のための菜食の伝統は、古代からある。ヴィシュヌ派に属する彼のカーストも、生まれついての菜食(ただし乳製品は許す)だった。
だがガンディーは、「暴力とは、他者を自らの欲望を満たす手段とすること」のすべてだ、と定義する。そして彼は、食品を得るサプライチェーンの中の暴力的要素を、どんどん排除していく。チョコレートの中にさえ、植民地の黒人の奴隷労働を見る。かくて香辛料も減らした、かなり厳しい食のあり方を、道場(アシュラム)で皆と実践した。
衣服についても同様だ。若い頃は、パリッとした一流のスーツ姿に身を固めた、英国弁護士だった。しかし、そんな装いの彼が、初めて訪れた南アフリカの鉄道で、一等の客席の切符を所持しているのに、「褐色の肌の色」だけの理由で警官によって客車から放り出され、凍える駅で一夜を明かすことになった。
後に「あなたの人生で最も創造的な経験は?」と問われ、この駅で明かした一夜をあげる。それは、この社会の巨大な病、人種差別と戦うことを決意した夜だったからだ。それも、差別者個人だけでなく、システマティックに人びとを差別していく、白人至上主義の社会や文明そのものを「巨大な病」ととらえた。
だから彼が後に、有名な「塩の行進」でインド洋の海水から自ら塩を作って、英国の製塩専売法と戦い、また手紡ぎの綿糸による白い布(カーディー)を身にまとって人前に現れるようになったのは、当然の帰結だった。菜食もカーディーも、彼にとっては「真実にしがみつく」実験の一部だったのだ。
彼は性においても、非常に独自な取組をする。ガンディー夫妻には4人の息子がいたが、1906年(36歳)のとき、「ブラフマチャリア」(禁欲)の誓いを行い、生涯にわたって妻との性交渉を絶ち、すべての時間を公益のために捧げると宣言し、実行した。
ガンディーの性については、南ア時代のドイツ人男性カレンバッハとの奇妙な同居生活や、晩年のマヌという若い女性との同衾の実験などが、批判的に取り沙汰されることもある。著者の間氏は、性欲に対する彼の否定的な見方に、タントラ学派などの影響を見る。ちなみにエリクソンはフロイト派の分析家らしく、ガンディーの少年時代(彼は13歳で結婚した)のトラウマ的経験を指摘する。彼のような禁欲実践に、誰もがついていける訳ではない、と。
その、ついて行けなくなった人間の代表格が、彼の家族、とくに長男ハリラールだったのだろう。20歳の頃はマハトマの跡継ぎとして発言し活動したハリラールは、父が社会的尊敬を集めるのに反比例するように、転落していく。最後にはイスラム教に改宗したあげく、アル中になって、極貧のうちに世を去る。ガンディー暗殺からわずか数ヶ月後のことだった。
そして妻のカストゥールバーは、つねに長男ハリラールの味方だった。そんな妻子に対して、ガンディーは決して包容力のある優しい夫とばかりは言えなかった、と間氏は書いている。ハリラールと反目していた最晩年、ガンディーは禁欲実践を通した自己浄化によって、外界も変化するという思想に強く傾斜していった。まさにこれが、彼の実験していた仮説だった、という訳だ。
ガンディーは、目の前のヒンドゥー対イスラムの殺戮も、長男ハリラールの離反も、自分が禁欲と自己浄化で解脱すれば、変わりうるのだと信じていたのではないか。だとすればそれは、究極の自己中心性ではないか。そう間氏は断じる。
「ガンディーの真実」著者の間永次郞氏は、1984年イタリア生まれ、滋賀県立大学講師・兼マックス・プランク研究所シニア・フェローの、新進気鋭の社会学者である。この人はグジャラート語を含むインドの諸言語にも精通しているらしく、最近の現地語の出版物まで丹念に目を通して、学者らしく優れた仕事をしている。そして礼賛一辺倒か、逆に冷笑的批判だけになりがちなガンディー研究を、冷静な複眼的視野で行っている。
それにしても、非暴力思想とはいったい何なのか。ガンディーは言う。