考える技法――思考の3つのモードを使い分ける

  • なぜ考えるのか

考え事をするのが、趣味である。あなたの趣味はなんですかと、もし聞かれたら、読書とか音楽とか、当たり障りのない答えをするかもしれない。でも、本当の趣味は何かと自問したら、きっと「考える」ことなのだろう。暇さえあれば、考え事をしている。趣味とは自由な時間ができたとき、真っ先にすることだとしたら、「思考」がわたしの趣味なのだ。

何を考えるのかって? いろいろなことをだ。仕事に関わることを考えることもあるが、職場を離れたら、それ以外のことを考えることの方が多い。それも具体的な問題より、抽象的な問題を考えることを好む。じつは最近、ずっと休眠していたTwitterのアカウント(tomoichi_sato )を復活させ、毎日思いついた思考のエレメントというか、フラグメントを少しずつ流している。ご興味があったら参照されたい。

ちなみに、このところしばらくは、SCMに関わる「システム=仕組み」というものの性質や、評価について考えることが多い。現在、世の中にいうシステム工学なるものは、残念ながらはっきり言って、非力であまり役に立たない。というか、バラバラな手法論の寄せ集めで、理論的な枠組みも、具体的な仕組みの設計に役立つ内容も、あまりない。

そもそもシステム工学の基礎たるべきシステムの科学も、頼りになるものがない。いまだに「創発的性質」などを論じている有様だ。なので、システムの分類や階層化、性質や評価等について、ゼロから考え直す必要があると思っている。わたしは、自分の天職をシステム・モデラーだと信じているので、基礎をきちんと打ち立てなければと考えている次第だ。でもこの話題には、今回は深入りしない。

そもそも、わたし達が何かを考えるのは、問題解決と意思決定のためである。問題がなければ、ふつう人は、わざわざ考えたりしない。昼食に何を食べようか考えるのは、食べないと午後をちゃんと過ごせないからだ。満腹のときに、何を食べようか考える人はいない。問題があるから、考える。そして何をするか、決めることになる。決めたら、行動に移す(話すとか書くことも含まれる)。

ところでわたしの場合、考えることが趣味だから、四六時中、考え事をしている。「あまり何も考えず、ボーっとしていることなんか滅多にないでしょう?」と言われたこともある。確かにそうかもしれない。ということは、年中問題を抱えている、困った人格なのかもしれぬ。もちろん、食事をしたり、音楽を聴いたり、家族とおしゃべりしたりしているときには、深い考え事はしないし、できないが。

  • 思考には三つのモードがある

じつは「考える」と言う行為には、3つのモードがある。(1)読み書きしたり話したりしながらリアルタイムに考える、(2)集中して深く考える、そして(3)何か他のことをしながらぼんやり考える、である。そして、その得意不得意と、場面に応じた使い分けを講じるのが、大事なのだ。

思考のモード1:リアルタイムに考えるというのは、個人的には、それほど得意ではない。頭の回転がそれほど早くないのである。営業職やプロジェクト・マネジメント職に就いている人には、これが得意な人が結構いる。情報のインプットとアウトプットをさばきながら、頭の中で考える。リアルタイムに考えながら、言葉をつないでいく。うらやましい限りである。会話好きな女性にも、結構多いのかもしれない。

ここでいうリアルタイムとは、まあ数秒とか数分、といった時間の長さを指している。しいていれば、上司との面談で、上司の部屋を出るまでの20分、といったところか。その時間内に、何らかの答えを出すのが、リアルタイムの思考だ。それによって、次の局面が開ける。
思考とは情報処理そのものだから、情報のインプットやアウトプットをしながら、なおかつ、脳内のワーキングエリアを駆使して要素をつなぎ合わせ分析したり、組み立てたりする。これは、なかなかの技である。

ただし、リアルタイムでコンカレントな処理をしていると、どうしても、同時に扱える情報の広さや深さには、限りが出てくる。何か重要で、大きな問題に取り組むためには、「深く考える」=思考のモード2が必要になる。面談や交渉などで、「すみません、持ち帰って考えさせてください」というのは、こういうシチュエーションだ。

  • 深く考えるために

さて、持ち帰った問題を深く考えるには、そのための時間と場所を確保する必要がある。余計な外部からのかく乱や、情報のインプットが入らないようにすること。具体的には、静かであること。人にもよるだろうが、わたしはBGMがかかっていたりすると、集中してものを考えることができない。受験生時代に、数学の問題を解きながら気づいた。もちろん式の計算ぐらいはできる。しかし厄介な文章題などは、解けないのだった。

という訳で、職場で深く考えようとすると、どこか静かな場所を探さなければならない。自分の席にいると、話しかけられたり、メールが飛び込んだりしてきて、集中が中断されるからだ。周りの話し声も気になる。最近は幸いにも、テレワークのためのブースがいくつか設置されたので、そこに逃げ込んだりしている。

それもかなわない時は、仕方なく、自分の席で、ウンウンうなって考えることになる。この時はまず、メーラーは閉じる。気が散るからだ。モデリングは、図形を使ってビジュアルに考えるのに適しているから、机に白い紙を1枚広げて、ペンを握ったりしている。

でも、図を書き始めるのは、思考のトンネルの向こうに光が見えて、出口に近づいている時なのだ。思考の一番大事な、構築・組立ての部分は、真っ暗なトンネルの中にある。だから、白い紙を前に腕を組んだり、ペンを握りながら、頭を抱え目をつぶって、何もしていないように見える。わたしが一番働いているのは、端から見ると何も働いていないように見える時なのだ。

しかし、こういう時間があまりに多いと、ボーナスの査定にも影響する(笑)ので、自分の机では、なるべく情報のインプットやアウトプットなどの作業をするようにしている。考えるのは、主に、佐藤がふらりと席を立って、社内のどこか静かな場所に逃げ込んだ時だ。あるいは出勤との行き帰りを歩いている時だったりする。自宅から職場まで、歩いて40分ちょっとだ。この時間はしばしば、貴重な考えるための時間帯になる。

ちなみに、わたしは、深く考えるときに、歩きたくなる癖がある。人間には、いろいろな体癖(体の動かし方の癖)がある。首を伸ばして、天井をじっと見ながら考えるのを好む人もいる。自分にとって、考えるのに適した姿勢や動きを、見つけるのが良い。

  • バックグラウンドで考える

ところで、「考える」とは、意識的な行為だろうか? ――妙なことを言うな、当たり前じゃないか、とのコメントが聞こえるような気もする。だが、本当にそう言い切れるのか。

わたし達の身体の動きには、意識的(随意的)なもの、無意識的(不随意的)なもの、その両方にまたがるもの、の3種類がある。ドアを開けたり、字を書いたりする動きは、筋肉的動作で、意識的に行う。一方、心臓が脈打ったり、胃腸が蠕動するのは、自分の意識ではコントロールしないし、できない不随意的な動きだ。そして、息をするという動作は、両方にまたがっている。意識して吸い込むこともできるが、ふだんは意識せずに呼吸を続けている。

こうした動作の類別は、神経系のハードウェアで決まっているようにも見えるが、必ずしもそうとはいえない。歩くという行動を、わたし達は結構、無意識的にやっている。キーボードで文字を入力するのに、わたしはローマ字入力を使っているが、どのキーを押すかまでは毎回意識してはいない。車の運転もそうだ。ハンドルやブレーキは、話したり音楽を聞いたりしながら、ほぼ反射的に操作している。楽器の演奏などもそうだろう。

つまり、人間というのは、ある種の動作パターンを繰り返し習熟すると、意識のアテンションをそこに当てずとも、無意識的に行えるようになるのだ。コンピュータに例えると、同じソフトウェアのルーチンを繰り返し使っていると、勝手にコンパイルされていく感じか。それだけ、意識のアテンションというのは、脳にとってコストが高いのだろう。

そして思考という動作も、似たようなところがあるのでは、というのが、わたしの仮説だ。思考とは、いろいろなネットワークの探索とバックトラックを繰り返す面がある。そして脳では、さまざまな複数のモジュールが、同時に走っていることも分かっている。だから思考のプロセスも、バックグラウンドで走らせることが可能なのだろう。

思考のモード3=「何か他のことをしながら考える」とは、そういう行為なのだと思う。思考とは、息をしたり歩いたりするように、半分意識的、半分は無意識的な行為なのだ。だから無意識に考え続けることが可能なのである。持ち帰った問題を、しばらく時間を取って深く考えてみたのだが、まだ答えが出ない。そこで別の動作に移るのだが、思考のプロセスは、バックグラウンドに移って、走り続ける。

  • 思考のモードを使い分ける

ただし、そうなるためには、いったんは深く考えなければならない。少なくとも、バックグラウンドで走らせるトリガーを、自分で見つけなければならない。

昔から、「馬上、枕上、厠上」という言葉がある。考えるのに適した三つの場所をいい、まとめて「三上」と称することもある。馬上とは、馬に乗っている時だ(現代なら車上か)。枕上は床の中で寝ようとしているとき、そして厠上はトイレの中だ。どれも、一人でいて、周りから話しかけられることもあまりなく、しかもなんだかぼんやりしている時である。こういうところで、良いアイデアをしばしば思いつく。

以前紹介した、ジェームズ・W・ヤングの名著『アイデアのつくり方』の、5段階のステップでも、(3)「いったん、問題を心の外に上手に放り出してしまう」という手順がある。ここで突然、(4)「真に価値のあるアイデアが生まれる」となっている。これがまさに、バックグラウンドに移して三上でぼんやりすることに相当する。

もちろん、別の何かをしながら、ということもあろう。個人的な体験で一番良く覚えているのは、浜松駅のホームで新幹線に乗り込もうと足をかけた時だった。2004年のことである。その時、後に自分の学位論文の中核となる「失敗のリスク確率」という概念に思い当たったのだ。さらに後に、子供のアイスホッケーを観戦しながら、それを加法性のある形で計算できることに気がついた。

リスク確率なんて概念の、どこが新しいんだ、と思われるだろう。そのとおりだ。アイディアとは、思いついてしまえば、まるで世界の初めから、そこにあったかのように、自明なものである。ただ、自分が無明の中にいたから、気がつかなかっただけなのだ。

他にも、夕食後に茶碗を洗いながらとか、帰り道を歩いていて電柱をよけながらとか、だいたい思いもよらぬときに、答えはやってくる。天から降ってくるようなものだ。だがそれは、自分の無意識下に動いているプロセスが答えを生み出してくれたのである。

そしてそれは、仕込まなければ、生まれない。投資しなければ、リターンはないのだ。投資とは、ある程度材料をインプットして、深く考える時間を費やすことだ。すなわち思考のモード1とモード2を経て、はじめてモード3が活きてくる

問題解決のためには、考えなくてはならない。そして、より良く考えたかったら、自分の思考のモードを意識する方がいい。どれが得意で、どれがやりやすいか。現代人はみな、忙しい。世の中とは、わたし達から考える時間を奪いつづけていく、『時間泥棒』に思える。その中で賢く生き延びるためには、三つのモードを使いわけ、自分の思考のフォームを作るべきだと思うのだ。

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