(7) ポワシーの丘の上 Poissy

フランス地方都市 点描(7)

パリから郊外電車RERのA線に乗って西にしばらく行くと、ポワシーという小都市に行き当たる。座席の背に揺られて、このあたりの平地を蛇行するセーヌ川を何度か渡ると、首都の引力が次第に遠ざかっていくのがわかる。通勤圏の外縁近く、ベッドタウンとしての色と、イル・ド・フランスの独立した街としての顔とが均衡する距離に、ポワシーの街はある。

街の名前が暗示するように、ここは魚(ポワソン)に縁がある。大西洋からとれた魚は船積みされてセーヌ川をさかのぼり、ここポワシーで陸揚げされて消費地パリに送られた。だから今でもこの街には、人口に不釣り合いなほど立派な市場がある。前広場には、少年が魚を抱いている銅像がたっている。

ノートルダム・ド・ポワシー教会

そればかりか、この街には立派なノートルダム・ド・ポワシー教会のゴシック聖堂があり、国王の臨席する祝典が開かれたほどの由緒を誇っている。

街の広場はこざっぱりと気持ちがよく、カフェに座ってお茶を飲むと(そういえばここにはちゃんとした紅茶を出す店があるのだ)、とてもリラックスして気分がいい。また、教会から少し足をのばせば、セーヌ川に面した船着き場が、古いがのどかな風情を漂わせている。

しかし、この街を観光に訪れる人たちが目指すのは、たぶん、川ではない。その反対側、ゆるやかな丘を登っていった先にある、一ヶ所の邸宅である。

それは、建築家ル・コルビュジェが建てた家だ。注文主の名前をとって、サヴォア邸と呼ばれている。銀行家のサヴォア夫妻が、郊外の週末をすごすために、まだ無名の新人建築家に設計を頼んだのは、1920年代のおしまい頃だった。そして、その建築家は(すでに40歳になっていたはずだが)、若さを発揮して、あっと驚くような先進的な家を建てたのだった。


ル・コルビュジェは革命家だった。彼は従来のフランス伝統建築の一切のメチエ(つまり彼にとっては因習)をうちやぶって、まったく新しい家の概念を発明した。彼の革新的な建築思想と、それがもたらした影響、ないし困惑については、別のところに書いたので、いまはくり返さない(「ル・コルビュジェのサヴォア邸と自由度の難問」参照)。


彼の作ったサヴォア邸は、どちら側が正面だか分からないし、二階は屋上のようだし、屋根の上に「空中庭園」があるし、中と外の空間は連続的につながっているし、あちこちの屋根と壁のすきまから光は降り注ぐし、とにかく、それまでは「固い殻のような箱」だったマンスール様式のフランス住宅からは、隔絶した建物だった。


それはある意味で、いたって北国的ではない建物である。事実、大型の前面ガラスでおおわれたリビングは、冬はかなり光熱費がかかって寒そうだ。

しかし、ル・コルビュジェという人は、少なくとも光の取り入れ方に関しては、天才的な空間構成感覚を持っていた。しばらくは、彼の作り上げた空間を鑑賞していただこう。


私は前後2回、このサヴォア邸を見に行っている。私は決して建築愛好家ではない。芸術ディレッタントでもない。しかし、この光の溢れる空間だけは、なぜか引き寄せられるのだ。

丘の上からは、遠くにセーヌ川が見下ろせる。それは、しじゅう大都市の集合住宅に住んでいる人たちにとって(パリにはほとんど個人宅がない)、ほっとできる息抜きの場所であったろう。そして、だからポワシーの街は、いつでも光の降り注ぐ印象とともにある。そして、大都市の引力圏から離れた、静けさを感じるのだ。