ディジョンと陽光 Dijon

フランス地方都市 点描(3)



行く前は何も知らなかった。ほんとに何も知らなかったのだ。ディジョンが単なる地方都市ではないこと、マスタードだけが名産の田舎町ではないこと、豊かなブルゴーニュ地方の中心地であること、いや、一時はフランスを二分する巨大な公国の首都であったこと・・・

ディジョンの街に車で入ると、西のはずれにある鉄道駅から旧市街地に向けて、ゆるやかなカーブの通りがいくつも交叉しているのが分かる。大きすぎず小さすぎず、ほどよい街の大きさというものがある。ディジョンは、まさにそのサイズだ。

旧ブルゴーニュ公宮殿、東が市庁舎、西が美術館

ディジョンを訪れたら、まず旧ブルゴーニュ公宮殿を見るべきだ。ブルゴーニュ公国の最盛期だった14-15世紀に建造された。宮殿の右翼、東側は美術館が占める建物で、反対側は現在でも市庁舎に使われている。

ディジョンの美術館はすごい。それも、並大抵のすごさではない。中世・ルネッサンスから19世紀を経て近現代まで、密度の高いコレクションがこれでもかというくらい建物に詰め込まれている。ルーベンス、ブリューゲルなどがあるのは、さすがフランドル地方までを統合した巨大なブルゴーニュ公国の実力だろう。かつ、ヴェロネーゼもあればマネもあり、モローもあればシスレーもある、という具合だ。恐れ入ってしまう。いわゆる大国の首都にはパリにもマドリードにもワシントンDCにも巨大な美術館があるが、地方都市でこれだけの密度に匹敵するのは、ベネチアの美術館くらいなものだろうか。

中世美術や装飾も素晴らしい。きわめつけは、ブルゴーニュの最盛期を作り上げたフィリップ豪胆公とジャン無畏公の墓が納められた「衛兵の間」だろう。台座の彫刻がじつに見事だ。

 

ブルゴーニュ公国は14-15世紀に、イル・ド・フランスのフランス王国のライバルとして、現在のいわゆる『フランス』の領地を二分して勢力を争っていた。この時代は英国との百年戦争も続いており、要するに戦国時代だったと思えばよい。ブルゴーニュは英国側と結び、さらにフランドルと姻戚関係を結んで現在のベルギー領・南オランダ周辺までを支配下において、フランス王と争った。

当時のフランドルはヨーロッパにおける毛織物産業の中心地として大いに栄えていた。音楽においてはジョスカン・デ・プレをはじめとするフランドル楽派がポリフォニー(多声部)音楽の絶頂を極め、絵画ではファン・アイク兄弟を初めとするフランドル絵画が、いわゆる「北方ルネッサンス」をリードしていた時代だ。そうした文化の偉業が陸続としてここディジョンの宮廷に入ってくる。

我々が学校で習った世界史では、いわゆる「フランス」なる国が、最初からずっとフランスという名前のもと、現在の六角形の領地を有していて、単にその領有者が変転していったかのように教わる。じつはそうではないのだ。パリを中心としたイル・ド・フランス地方を治めるフランス王家が、次第にその領地を広げて、最後に現在の姿にたどり着いた結果を見ているだけなのだ。もしもブルゴーニュ公国の最後のシャルル突進公がナンシーの戦いに敗れていなければ、そして男子系統が途絶えていなければ、現在の西ヨーロッパの領土地図は、大きく異なったものとなっていただろう。

ところで、美術館の近現代のフロアをうろうろしていたら、「日本の方ですか?」と、えらくたどたどしい英語で声をかけられた。ふりむくと、メガネの奥に気弱そうだがいかにも善良な微笑をたたえた若いフランス人男性が立っている。この美術館の学芸員か職員らしい。はい、日本から来ました、と答えると、なんだか嬉しそうに話を始める。自分はここディジョンで合気道を習っている。ときどき日本から学習用ビデオを送ってもらったりするのだが、画像方式が違うので困っている、などなど。(余談だが日本はNTSCでフランスはSECAMだからビデオには互換性がない)

え、合気道? このフランスの田舎(失礼、だが国際都市なんかではないのは明らかである)で、日本でもややマイナーな武道の教室がある? 葡萄の教室の間違いかなんかじゃないの?

それがまあ、不思議なことに、フランスでは合気道は結構盛んであるらしい。あとになって、パリでもあちこちに合気道のクラスを見つけて驚いてしまった。当然ながら、先生達もフランス人なのであろう。人の良さそうな美術館員が習ったりするスポーツ(?)かどうか、多少理解に苦しむが、当地ではそう言うものらしい。相手も(珍しく)日本人と話すことができて、楽しそうだった。不思議なものだ。

さて、ブルゴーニュ地方の名産物は、いうまでもなく葡萄酒である。なで肩のボトルに入った、ややマイルドな渋みをもったブルゴーニュの赤は、なかなか美味しい。いや、ワインの味を云々できるほど飲めるわけでもないのだが、ここCote
d’Or地方はワイン好きな人間が巡礼に来る聖地というべきものらしい。他に、カシス・ド・クレームというリキュールがディジョンの特産品だ。

しかし下戸で朴念仁の当方は、ワインバーに入り浸る時間があれば、美術や遺跡を見て回りたい。時間の制約から、どれか一つだけ教会を、ということでサン・ベニーニュ大聖堂を選んだ。もとは11世紀はじめにベネディクト派修道院として建立された。その後の改築で14世紀のゴシック様式となっている。なかなか明るく清らかな内部空間で、気持ちがいい。

地下にはクリプトと呼ばれる聖堂があり、こちらはロマネスク時代の雰囲気をいまだに残している。とくに柱頭のレリーフ彫りが独特で、いかにも中世的である。

 

見学を終えて外に出ると、5月の陽光が降り注いでいた。早くも半袖になって素肌を見せながらそぞろ歩く女性たち。そして、独特の幾何学模様をほどこしたブルゴーニュ様式の古い建物と街並み。

ディジョンのお土産に(お酒は重いので)、ワインを開けるソムリエ・ナイフを買い求めることにした。微妙なカーブと、手に持った重さがとてもしっくり来る。

しっくりと手になじむ伝統の味。それがディジョンの街なのだ。

つづく