本を読む事、本を最後まで読むこと(+ 書評:「ペスト」 A・カミュ著)

  • わたしにとって読書とは

昨年(2025年)、ちょうど20冊本を読んだ。わたしが「本を読んだ」というときは、本を最初から最後まで、全ページ読んだ、という意味で使っている。一部の頁を読んだだけの時は、「見た」ということにしている。見た本はもちろん、もっと多い。だが、読み通すつもりのものが、ほとんどだ。辞書や一部の規格書・法律書など例外はあるが、基本的に読み通すつもりで、本は買う。

月2冊程度だから、わたしは決して読書家ではない。学生の頃は年に100冊程度読んでいたが、働いて、家庭生活も持つと、読書時間は削らざるを得ない。わたしの主な読書タイムは電車の中である。しかし最寄り駅から勤務先まで3駅・10分足らずだし、外出や出張時には寝落ちしていることが多くて(汗)、ちっともはかどらない。

わたしにとって読書は、仕事ではなく勉強でもなく、趣味である。自分ではビジネス書を書いているくせに、ビジネス書はほとんど読まない。仕事から離れたら、仕事以外のことを考えたいからだ。小説もあまり、読まない。自分はあまり、物語を好むタイプでは、ないらしい。物語が好きな人は、小説だけでなく、経営書にも物語を読み取り、スポーツにもドラマを感じるのだろう。感情的価値を、欲しているのだ。わたしはむしろ、知る喜びの方が、面白い。

  • なぜ読み通すことが大切か

本を読み通すのには、時間がかかる。近頃は有名書ならネットでサマリーを見ることができるし、あまり大部でなければ生成AIに要約してもらうことだって可能だ。しかし、わたしはそうしない。自分の本、たとえば「BOM/部品表入門」でも「時間管理術」でもいいが、そういう風に読まれるのを好まないからだ。

書いている立場から言わせてもらえるなら、あれだけの長さと厚みになるのは、相応のロジックの流れと対話(=多面的な検討)の積み重ねが必要だからだ。それをすっ飛ばしたら、肝心のメッセージがよく理解できなくなる。よく理解できなければ、結局、自分の身について使えなくなる。読書前と読書後で、自分が何も変わらないなら、読書は知的消費ではあっても、知的投資(学び)ではないことになる。知的消費にしたって、小説がそれなりの長さなのは、そうしないと表現できないことがあるからだ。

どれほど短い時間で、知識と情報を得られるか、そのタイパを追求するのが今の流れらしい。知識は資産である。また、人より先に「知ってる」と、自己承認欲求も満足できる。しかし、「知ること」と「理解すること」の間には、大きな距離がある。

人は知識と記憶力だけでは、賢くならない。複雑な社会で物事を判断するためには、構造を洞察し予測する力が、とても大切だ。またリーダーシップを発揮して人を動かしたかったら、他人の見方考え方を知る必要がある。こうした能力を得るためには、知的時間がいるのだ。それも、それなりの長さと深さで。読書はそのための、大事な階(きざはし)だ。


  • 長い文脈を理解する能力を得よう

また知的消費(別に消費はわるいことではない)の面を考えても、深い感情的体験には没入の時間、文脈の共有が必要である。長い文脈を、感情とともに体験し保持できる力。それは今のところ、普通の人間でも生成AIに決して負けずに持つ、知的能力の一つなのだ。

せっかくそうした能力があるのに、切れ切れな知識情報ばかりを相手取って過ごしたら、どうなるか。いつの間にか、流れてくる情報に踊らされ、巻き込まれて搾取される側になる事だって、ありうるだろう。

何年か前、ある著者の方が、有名な書評ブロガーに会った際の話を読んだ。そのブロガーさんは、進呈された本をパラパラと15分ほど目を通した後、さっそくブログに書評をアップしたのだそうだ。そういう芸風なのだろう。だが、そのまねは自分にはできない。わたしは基本的に、書評は全頁を読んだ本しか、書かないことにしている。本は最後まで読むこと。それが、零細ながら著者でもあり読者でもある、自分の信条なのだ。

ということで、今回は近年読んだ小説の中でも最良の一作、カミュの「ペスト」の書評をかかげることにしよう。


書評:「ペスト」 アルベール・カミュ著

ペスト」(新潮文庫版 Amazon.com)

本書を最初に読んだのは20年以上も前のことだったと思う。その時は、「重厚なSFだな」という感想をメモに残しているが、それ以上のことはなぜか、記憶に残らなかった。

この小説を「SF」と分類する人はまず、いない。ノーベル文学賞作家アルベール・カミュによる純文学だ、と位置づけれらているからだろう。でも、思索上は可能だが、現実にはありそうもないと誰もが思うシチュエーションを、想像力をもとに科学的知識も加えてストーリー化し、その中で人間性の本質を描き出すのがSFだ。だとしたら、まさに直球ど真ん中の小説ではないか。

物語は、北アフリカ・アルジェリアの地方都市オランで起きる。まだフランスの植民地だった時代だ。その街で、死んだ鼠が次々と見つかるようになる。そして、それを追うように、高熱で苦しむ患者が少しずつ増えていく。主人公の医師リウーが、最初の患者の死を看取るまで、わずか20頁あまり。押さえた筆致ながらぐいぐいと読者を引き込んでいく。

街の医師達は、蔓延しつつある疫病がペストである、ということをなかなか認めようとはしない。だが政府(総督府)は電光石火、街を封鎖する。疫病と都市封鎖。これが西欧では歴史的にワンセットだという事が分かる。そして外部との交通も通信も事実上遮断され、その日を境に、家族や友人や恋人も突然分断されて、人びとのドラマはにわかに深刻化する。

この小説には重要な登場人物として、バヌルー神父という宗教者が登場する。彼は最初、この疫病は神が人間の目を覚まさせようと与えた劫罰なのだ、と教壇から信徒達に説教する。しかしその後、疫病の最前線で患者達を、彼なりに助けて回ろうとすようになる。

著者のカミュは神を信じない人間だ。それはフランス的社会の中では、キリスト教会とその権威に反対する、という意味である。だから、この登場人物のフェアな扱い方とその悲劇を通して、最も重要な問いを提出する。主人公の友人がこう言うのだ。「人は神によらずして聖者になりうるか——これが、僕の知っている唯一の具体的な問題だ」(P.307)

政府の助けも、神の助けも、そして緊急輸入した血清医学の助けも十分に得られぬまま、それでも街の人びとは保険隊を結成し、医師リウーを中心に団結して、可能な限り疫病と闘い続ける。

この小説は第二次世界大戦の終結直後、1947年に発刊され、瞬く間にベストセラーになった。「人間を絶滅させる悪との闘争を描く」と背表紙の解説にあるが、人びとは何年間も世界を覆い尽くし分断した戦争の災厄と、ペストとを重ね合わせて読んだだろう。

わたし達はあの世界的規模のパンデミック禍、恐ろしくも奇妙な「新型コロナウイルスに閉ざされた数年間」を経験した。今や人びとは、まるで何事もなかったかのような顔をしている。だが、いかに忘れたふりをしようとも、決して忘れられぬ、息の詰まる時間だった。それをわたし達は、団結して乗りこえたと言えるのだろうか。次にまた災厄が襲ってきたとき、連帯して互いに助け合えるような賢さと勇気を、わたし達は本当に発揮することができるのだろうか? ちょうどこの小説の中で、港町オランの人びとが示したように。




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