書評2冊:「ダライ・ラマ般若心経を語る」ダライ・ラマ(取材・構成 大谷幸三)、「ごまかさない仏教」佐々木閑・宮崎哲弥著

「ダライ・ラマ般若心経を語る」 ダライ・ラマ(取材・構成 大谷幸三)


色即是空、空即是色」という言葉は、たいていの日本人が聞いたことがあるに違いない。しかし、その意味をちゃんと言えるかというと、あやしいと感じる人が8割以上ではないか。わたしもそのひとりだ。『色』という言葉が、色気とか色事とは別の概念だ、ということくらいは、何となく知っている。でも、それでは『色』とは何なのか。それが『空』であるとは、どういう事なのか?


「色即是空」は、般若心経に出てくる言葉である。仏教のお経が全部でどれだけあるかは知らないが、般若心経はその中でもピカイチに有名で、実際に触れたり唱えたりする人はかなり多いと思う。それは日本だけの現象ではないらしく、だからこそ、こういう本が出るのだろう。般若心経は比較的短いし、簡潔明快ズバリと本質を説いている(・・のじゃないか、と想像される)。


しかし。わたし自身も機会があって、数回は唱えてみたりしたことがあるのだが、これがさっぱり理解できないのだ。まあ当然かもしれぬ。なにせ、わたし達が朗唱しているのは、玄奘三蔵が今から1400年も前に、原典のサンスクリット語から、唐代の中国語に翻訳したテキストである。それをまた、南方経由の呉音(ごおん)で読んでいる。我々がきいてもサッパリ分からないが、現代中国人だって、分からぬに違いない。


それでも、たとえ意味は分からなくても、一心に信じて唱えれば、仏の功徳があるのではないか。在家の多くの人は、こう考えて読経したり、あるいは写経しているのだろう。


ところが、この点に関して、ダライ・ラマの見解ははっきりしている。「経典に書かれた意味内容にまるで無知なまま、単に般若心経を唱えるだけでは、功徳があったりはしない。(中略)無論、教えに対する畏敬の念を持って般若心経を 唱えることには、それなりの価値はある。だが、そのような捉え方でことたれりとするのは間違いである。(中略)そこからより深く学ぶことを試みなければならない。」(p.21-22)


さて、なぜ般若心経を、チベット仏教のダライ・ラマに学ぶべきなのか。実は般若心経とは、深い瞑想に入った仏陀のそばで、観世音菩薩が、知恵ある弟子として知られるシャリプトラ(舎利子)に対し、真理と真言を教える、という構成になっている。そしてダライ・ラマは、観音菩薩の生まれ変わり、なのである。だから、この人以上にふさわしい語り手は、いないことになる。

ところで本書は、まるでダライ・ラマの著書みたいな装幀だが、実際にはインタビューした大谷幸三氏の構成・編集・著作でである(きっと出版社の販売戦略でこうなっているのだろう)。ただ大谷氏はノンフィクション作家だが、サンスクリットから現代インドのヒンディまで、非常に良く調べていて、感心する。むろん学者ではないから不正確な箇所もあるのかもしれないが、その代わり一般人の気持ちとニーズと疑問を共有している。だから入門書を書くにはふさわしい人だろう。


研究者によれば、般若心経の成立は起源300〜500年の間で、釈尊の時代から900年近くたった後の著作である。また、本書を読んで初めて知ったのだが、般若心経には長短2つのバージョンがあって、我々が漢語訳で読んでいるのは短縮版だという事だ。著者によるロングバージョンの日本語訳もついていて、そちらは舞台設定も登場人物達も、よりカラフルで具体的である。

さて、問題の「色」だが、サンスクリットの原語はルパで、物質一般、目に見える現象をさす。「カラーという意味も辞書にはあるが、実際に使われることはない」ようだ(p.83)。なおサンスクリット語は古代からある文語だが、別に死語ではなく、インドでは現代でもまだ、日刊新聞が4紙も発行されているという。


そして「空」とは何か。ダライ・ラマによると、「独立して存在するものは無い」という意味であって、「何もないというのではない」(p.109)。だから色即是空とは、「一切の現象には、独立して存在するものはない」・・ということになる。ちなみに巻末にE・コンゼによる英語訳がついているが、そこでは”Form is emptiness, emptiness indeed is form”となっている。Formは西洋哲学で言う「形相」のことである。


ただし、ここから先が大事なのだが、こうした「言語と概念による真理の知的理解」だけでは十分ではない、と仏教では考える。悟りには、言語を超えた直観的な把握、真理との一体化が必要であって、そのために修行があり、また瞑想・悟りによってはじめて解脱に至る、とする。


修行とは、心身両面での研鑽によって、悟りの高みに至る方法論である。こうした「修行論」がある点が、インド宗教の共通した特徴らしい。キリスト教にも修行的なものは多少あるが、信者の必須の行ではない。身体面の鍛錬抜きでは救済に至れない、という事もない。そこが中東より西側と、南インド・東アジアの宗教観を分かつところなのだろう。


ともあれ、いろいろな事を考えさせられ、様々な学びのある本だ。おすすめである。




「ごまかさない仏教」 佐々木閑・宮崎哲弥

「ごまかさない仏教:仏・法・僧から問い直す (新潮選書)」 佐々木閑・宮崎哲弥 (Amazon)


なかなか、論争的な本である。佐々木閑氏は1956年生まれ、仏教学者で花園大学教授(京大の工業化学を卒業後、文転したという点が面白い)。宮崎哲弥氏は1962年生まれ、評論家で仏教関係の著述も多い。ふつう、この種の本は、碩学に対して若手が質問し答える、という風に展開するのだが、本書はインタビューアー格の宮崎氏が、かなり自説を先回りして展開する(そして知識も相当なものだ)。

ところで、どこが論争的なのか。それはタイトルに現れている。「ごまかさない仏教」というのだから、「ごまかしている仏教」が世に存在していることになる。何を、どう、ごまかしているというのか?

序章で佐々木氏はこう述べる:「『仏・法・僧』、 この三つの要素がそろった宗教活動のことを仏教と呼びます。この定義は日本だけではなく、あらゆる仏教界に共通して通用する唯一の定義です」(p.18)。 そして、本書は、全体として仏・法・僧の3つの部から構成され、それぞれを論じていく。仏は仏陀(ブッダ)のこと、法はダルマ(ダンマ)で、その教えのことである。

ところが問題になるのは、僧なのだ。佐々木氏は僧(サンガ)について、こう述べる。「 これは一人ひとりのお坊さんのことを指すのではなく、4人以上の比丘あるいは比丘尼が集まって作る修行の組織のことを意味します」(p.19)。このサンガ組織は、「律」と呼ばれる規則に従い、運営される。律は釈尊が最初に制定し、受け継がれてきた、非常に古い体系である。そして佐々木氏は元々、この「律」の研究者だった。

釈尊は「四門出遊」のエピソードで知られる。王子だった彼は自分の城の四つの門で、それぞれ貧者・老人・病人・死者を見て、この世では老病死の苦を避けられぬ事を知り、身分も家族も捨てて出家する。ところで彼の出家とは単に世を捨てて森の中に入ったのではなく、そこにいる修行者の集団に入った事を意味する、という。つまりサンガ的組織はもっと古くから、バラモン教の伝統と共にインドに存在してきた訳だ。

釈尊は7年間の苦行を経た後に苦行を捨て、瞑想によって悟りを得る。そして梵天勧請を経て布教を志し、いわゆる初転法輪をはじめる。彼の元に集まった修行者の集団のために仏教のサンガ組織を作るのである。そして律の重要な部分は、悟りを目指す修行組織の規律であり、かつ、独身主義である。

だから佐々木氏はこう述べる。「浄土宗系の教団には、修行のための組織であるサンガなどというものはありえないのに、そのサンガに帰依するとは 一体どういうことを意味するのでしょう?」(p24)。浄土宗だけではない。日本仏教にはどの宗派も、それに類する出家者組織がない。だから、「サンガを持たない日本の仏教は、極めて特殊な、変形した仏教なのです」(p.242)となる。

仏教には、大きく分けて、初期に起源を保つ上座部(小乗)仏教、釈尊死後500年後くらいから出現する大乗仏教、そして千年後くらいに現れる密教、の流れがある。P.27に仏教伝播の地図が載っており、これは非常に有用である。インドで興った仏教は、西域で大乗化する。中国には、最初から両方が一緒に渡るが、大乗が優勢として受け入れられる。そして日本にもチベットにも、それが7世紀頃伝わる。ところがスリランカやミャンマー・タイには、上座部仏教のみが伝わった。これが世界仏教の構図である。

佐々木氏は学者であり、文献批判が仕事である。したがって「聖典は疑わない」では仕事にならない。そして源流を追いかけるので、当然初期仏教の姿に関心が強い。初期仏教は、あきらかに自力本願の修行の宗教であった。宮崎氏は龍樹(ナーガルジュナ)に傾倒する人で、その意味では大乗系の信徒であるが、仏教哲学に関心が強い。

かくて、この本の圧巻は「法」をめぐる第2部の解説にある。ただし何せ哲学の世界だから、ふつうの読者にとっては、なんだか些末な抽象的論争にも感じられるだろう(哲学とはそういうものだ)。

では日本仏教に、なぜサンガ組織が定着しなかったのか(奈良時代には中国から律の専門家の鑑真まで招聘したのに、である)。これについて明確な解説はない。といっても、著者の二人が日本仏教を否定しているのでは、もちろんない。価値を認めるからこそ、お二人とも仏教徒なのだろう。だが、日本仏教は「特殊」なのだ。その強い認識が、本書を貫いている。

そして本書を読んで感じるのは、ちょうど聖書研究が20世紀に西欧でかなり進歩したように、仏教研究もかなりのスピードで進歩中らしい、ということだ。それは、とても良いことに思える。わたし達は日本社会とその文化の中で育った以上、仏教の伝統を離れて暮らすことは無理である。だとしたら、その実相について、より理解を深めることが必要だ。だからこそ、仏教の真の姿について「ごまかさない」探求を語り合う本書に価値があるのである。




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