「責任」には三つの意味がある

「責任」には三つの意味がある (2011/06/06)

震災の後の4月に、知人たちと話していた時のこと。話題はおのずから福島原発の事故処理のことになった。原因は何か、どうクールダウン処理すべきか、また地域への被害をどうするか。そのうち、一人がこう発言した。「東京電力は法規則どおり原発を建てて運転し、地震後も政府の指示どおり対応したんだから、全責任を負えというのは無理がある。」

しかし当然ながら反論・異論も相次いで、議論はホットになっていった。政府(省庁)の過去の責任はどうか。あるいは政治(閣僚)の責任の軽重はどうあるべきか、いや、そもそも電力会社の過失はどこにあったのか、等々。ただ、話しているうちに、当の発言者の論点は、地域への賠償問題だということがはっきりしてきた。国も共同責任で補償すべきか、プラントのメーカーは責任がないのか、ということだ。すると、この分野に詳しい同僚が一言、「原子力賠償制度は無過失責任ですよ。」と発言した。

無過失責任とは何か。それは過失であることが証明されなくても、賠償の責任を負うということだ、と彼は説明した。より正確には無過失賠償責任とも呼ぶ。原子力賠償の制度は世界的に、「無過失責任、電力事業者への責任集中」という原則で成り立っている。日本は国際条約には加盟していないが、国内法制度は同じ原理でできている。だから、今回の事故に限っては、被害者側が電力会社の過失を立証しなくても(実際問題としてそんなことは機密の壁に守られてほぼ不可能だ)、とにかく一社で全部を賠償しなくてはならないのである。

結局、この説明で議論はあっさり終わりになってしまった。むろん、電力会社の資金はどう調達するのかとか、それだけの支払能力が無かった場合はどうするのか、という法的技術的問題は残る。だが法律上の責任範囲は明確なのだった。

わたしたちの議論が紛糾したのは、『責任』という言葉が何を指すかが、人により文脈によりバラバラだったこためである。ちょうどこのころ、当の電力会社のトップが、「原発事故を沈静化するまで職務を全うするのが私の責任」というような発言をしていて、責任論議はさらに錯綜したのだった。だが、そもそも責任とはいったい何なのか。責任をとるとは、いったいどのような行為のことを指すべきなのか? ちょうど『リスク』という用語にまつわる多義性と同様に、責任という概念も、法学・経営学・哲学・倫理学などが入りみだれて、分かりにくい。そこで、少しばかり整理してみよう。

責任という語には、じつは三通りの意味がある。それは、責任の理由や、責任の大小ではなく、その「果たし方」についての区別である。

そもそも責任とは、ふつう何か困った問題が発生した時に問われるものである。「責任ある地位」という風に、ポジティブな文脈で使われることも、もちろんある。しかし、“彼は責任を問われて昇進した”といった用法はあり得ない。ポジティブな事象においては、普通、責任の代わりに貢献とか功績という語を用いる。貢献と責任は対になる概念だ。

もう一つ。責任とは、ふつう意志ともセットで使われる。当事者に、それなりの裁量範囲や自由意志があった際にのみ、責任を問われるのである。ただ言われたことをやっただけの人には、たいして責任はないはずだ。

もっとも、じゃあ意図せざる過失には責任がないのか、というと、そうではない。過失には「注意義務を怠った」という一種の意志があったと考えられるからだ。そもそも人間は完全ではなく、間違いをする存在である。だから、二重チェックやフェイルセーフといった仕組みを仕事に組み込んでおく必要がある。ある一担当者の単純な過失が、重大な事故を引き起こしたとしたら、それはそのような不完全な仕組みを設計して放置したことに対して、責任が問われるのである。

そして責任とは、問題が生じた際に、その問題を解決するために払うべき代償について、行為の当事者に対し義務づける概念である。その代償の払い方が、三種類ある。まず、失敗した行為を正しくやり直すこと(影響を与えた状況を復旧する作業も含む)。次に、その問題を招いたことに関して、処分・批判を甘受し、場合によっては地位や体面を失うこと。最後に、損害賠償など法的な義務を果たすことである。

これらの三種類の責任概念は、英語ではそれぞれ別の言葉で表される。それが、Responsibility, Accountability,
Liabilityである。どの語も、-ability, すなわち『能力』であることを示す語であるのは注目すべきだろう。

Responsibilityとは、仕事の遂行に対する責任概念で、つまり仕事が途中で問題を起こして、思ったようにうまくはいかなくても、最後まで我慢してやり遂げる(その余分な労力と精神的苦痛は自分が引き受ける)こと、ならびにその能力を意味している。

Accountabilityは、「説明責任」とも訳される。この語が日本で知られるようになったのはそれほど古いことではない。この10年程度であろうか。Accountableとは、対外的な義務を引き受けるという語感がある。誰が訳したかは知らないが、「説明責任」とは苦心の訳語であろう。とはいえ、“国会であれだけ弁明したのだから、某々大臣は説明責任を果たした”などといった使われ方をみると、なんだか「説明という仕事の義務」みたいに誤解されている面もあるようだ。そうではなく、Accountabilityは、地位や体面という代償を払うべきことを意味している。だからむしろ「面目責任」と訳してはどうだろうか?

Responsibilityが、どちらかというと業務担当者レベルでの「責任の果たし方」であるのに対して、Accountabilityは監督義務を怠った、あるいは間違った判断・命令を下してしまった、という事実への、管理職レベルでの「責任の果たし方」を指している。そして、Liabilityは法的な賠償等の「責任の果たし方」である。(ただしWikipedia英語版などを見ても分かるように、英語圏においても上記3単語は明確に区別せずに使われることがある。責任という概念は、それだけ奥が深くてややこしい)

ともあれ、以上をまとめると、次のように言えるだろう。

遂行責任 Responsibility :仕事を最後までやり遂げる(労力と苦痛を引き受ける)こと

面目責任 Accountability :問題の原因を作ったことを認め、立場・面目の低下を甘受すること

賠償責任 Liability :他者にかけた迷惑を金銭等で償うこと

こうして整理してみると、大きな事故を起こした企業が、まちがった操作をした作業者だけを処分し、トップは“問題を収集するのが自分の責任”と公言したら、どこがどう間違っているか明確だろう。作業者には復旧作業の遂行責任があり、経営者には事態への面目責任があるのだ。そして、かりにそのトップが会社を辞めたとしても、企業は賠償責任を逃れない。--といった具合に、これら責任概念の区別を飲み込んだ上で議論できれば、もう少しかみ合った実りある議論も可能になるのではないだろうか。

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