埋没コストの原理と、プロジェクト・ポートフォリオ・マネジメントのためのDIPP尺度

埋没コストの原理と、プロジェクト・ポートフォリオ・マネジメントのためのDIPP尺度
(2013/04/10)

マネジメントの原理・原則にはいろいろあるが、『埋没コストの原理』ほど、学ぶのは簡単ながら実践がむずかしいものはない。埋没コスト(Sunk
cost)とは、すでに使ってしまったお金のことである。埋没費用とか埋没原価とも言う。使ってしまったお金はもう使ったのだから、それが幾らであったにせよ、現時点での意思決定がそれに左右されてはいけない。「意思決定は、今とこれから先の事象だけで考えるべきだ」、というのが『埋没コストの原理』である。とても単純だ。だが、人は“それまでの経緯”にひきずられて思考しがちだから、実際には難しい。

たとえば、こんな例を考えてみよう。ある女性が、8千円の演奏会のチケットを買っていたとしよう。なかなか高価だ。ところが、コンサート会場についてハンドバッグの中を見てみると、肝心のチケットがない。忘れたのかもしれず、無くしたのかもしれない。ともかく窓口にきいてみると、まだ8千円の席は残っているという。一応お金は持っている。そして演奏会は今夜一度だけだ。さて、この女性はどうすべきか? 買い直して入るか、あきらめてかえるか?

もし、そのコンサートが本当に8千円分の価値があると信じるのだったら、買い直して入るべきなのである。なぜなら、無くしたか忘れたかはともかく、前に買ったチケットに払ったお金はもう戻ってこないのだから、『埋没コスト』なのだ。問題は、今現時点で、まだ席があり、支払い能力があるのなら、「演奏会の内容」と「8千円という対価」の比較になるからだ。この女性にとっては、演奏会の方が価値があるはずである(だから以前チケットを買ったのだ)。

それなのに、この問題で判断が分かれるのは、「演奏会に1万6千円分の価値はあるか?」という問題設定にしてしまう人が多いからだ。上記は行動経済学者カーネマンが出題した例だが、彼は「仮にその女性の当月の収入がたまたま8千円少なかったとして、さてその場で演奏会のチケットを買うかどうか、という問題だったら、ほとんどの人は“買う”と答えるだろう。それなのに、論理的には同じ問題を、“一度買ったチケットを無くした”という形で出題すると皆が迷うのは、失った8千円をコストの側に計上してしまうからである」と解説している(カーネマン「ファスト&スロー
(下): あなたの意思はどのように決まるか?
」下巻第34章)。

同じような問題は、もっと大規模なプロジェクトにおいても発生する。固有名詞はあえて書かないが、北関東のあるダム建設プロジェクトをめぐって、過去何年間も継続か中止かが政治的議論になっている。この議論の根幹にあるのは、官僚機構にはいったん発進した公共プロジェクトを停止するための判断基準も仕組みも存在しない点にある。しかし、議論を難しくするもう一つのポイントが、“すでにあれだけ巨額の税金を投じてしまったのだから、今それを中断することは勿体ない”という思考である。もちろん、ごく自然な発想だ。だが、経済学的な埋没コストの原理からいくと、過去どれだけの費用を投じたかは関係ないのである。判断は、「この先いくらかかるのか」と「完成したダムにどれだけ価値があるのか」の比較だけで決めるべきだからだ。

このように、プロジェクトの継続か中止かという問題は、規模の大小を問わず難しい。現実には、過去に投下した努力や費用やメンツが関わってくるからだ。

「これから先、いくらかかるのか」の指標を、マネジメントの専門用語でCost ETCと呼ぶ。ETCは、Estimate
to Completeの略である(ついでにいうと、「この先、あと何日で終わるのか」はTime ETCと呼ぶ)。プロジェクトが出発した時点での予算がいくらだったかはともかく、進行中の現時点で、終わるまでに必要な費用を言う。また、官僚時点でのプロジェクト全体のコストを、Cost
EAC (Estimate at Completion)と略称する。日本の建設業会計ならば、「完成工事原価」と呼ぶ項目だ。

さて、“プロジェクトを発進するか”“プロジェクトを中断するか継続するか”の決定は、プロジェクト・ポートフォリオ・マネジメントと呼ばれる領域に属する。普通、そこで一番大事なのは、プロジェクトの経済性評価である(学術研究等の純非営利的なものは例外だが)。この経済性評価尺度には、回収期間法とか、DCF法のNPV/IRRとか、いろいろあるが、共通する問題点が一つある。それは、どれも「全費用」対「全収益」の比較をしている点だ。これは計画時点での評価にはいいが、上で述べたように進行中のプロジェクトの評価では問題がある。それは埋没コストの原理を忘れている点だ。

この欠点を解決する指標として提案されたのが、DIPPという尺度である。DIPPはDevaux’s
Index of Project Performanceの略で、前々回紹介したDRAGや、前回のDrag Costと同様、Stephen
Devaux氏の考案による。

DIPPの定義はきわめて単純である:
DIPP = EMV / Cost ETC

ここで、EMVはExpected Monetary Value、すなわち「プロジェクトが稼ぐ期待収益」だ。それを「これから先、かかる費用」で割っただけ。たとえば、今、4つのプロジェクトがあり、それぞれ進行中だったり計画段階だったりするとして、以下の表のようになる。

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Project EMV  完成予定日 Cost ETC DIPP 遅延コスト(週あたり)
A    1,000   8/01   200   5.0   5%
B    2,000   10/01  1,000   2.0  10%
C    5,000   11/25  2,000   2.5  20%
D    10,000   12/30  3,000   3.3  10%
全体  18,000       6,200   2.9
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とても単純だ。さて、今、ここに新たなプロジェクトの案件が舞い込んできたとする。それをProject Eとしよう。

Project EMV  完成予定日 Cost ETC DIPP 遅延コスト(週あたり)
E    12,000   02/10  3,000   4.0  20%

この案件が、他に何の影響も与えないのなら、収益性も高いし、ぜひポートフォリオに組み込みたいところだ。ところが、社内の人員には限りがある。既存の4つのプロジェクトの納期に多少影響を与えるだろう(その影響度は、まともなスケジューリング・ソフトウェアを使っていれば、すぐに計算できる)。そこでシミュレーションを行ってみたところ、以下のようになることが分かった。

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Project EMV  完成予定日 Cost ETC DIPP 遅延コスト(週あたり)
A     800   8/29   200   4.0   5%
B    1,200   10/29  1,000   1.2  10%
C    2,000   12/16  2,000   1.0  20%
D    4,000   03/13  3,000   1.3  10%
E    12,000   02/10  3,000   4.0  20%
全体  20,000       9,200   2.2
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ここで、納期遅延に応じて、各プロジェクトの期待収益EMVが下がっていることに注意してほしい。つい欲張って、プロジェクトEを優先的に組み入れたがために、ポートフォリオ全体でのDIPPは2.9から2.2に下がってしまった。これでは、何をやっているのだか分からない。

・・というのは無論、机上の計算である。現実には、これに根性論だとかメンツとか行きがかりとか顧客のつきあいとかが混入してくるのは、周知の通りだ。しかし、くどいようだが、こうした計算を知った上で決断するのと、知らずにカンで決めるのとでは、長い間には大きな差がつくと思った方がいい。そして、このような評価は、埋没コストを考慮しない通常のDCF法などでは計算できない点に、あらためて注意してほしい。

DIPPという指標は、プロジェクトの進行とともに増大する性質がある。これはゴールが近づくとともに、定義式の分母がだんだん減っていくのだから当然である。そして、異なる進捗状況のプロジェクト間で、費用や人員配分など何かの優先順位を決めたいときには、DIPPの大きな方、いいかえれば「完成間近な方」を選ぶことが合理的となる。

これまで3回にわたってS. Devaux氏の提案した手法について解説した。いずれも、’90年代に米国で提案され、防衛産業などでそれなりに普及している手法である。わたしがこれを知ったのは、2003年にボストンで行われたProject
World in Boston大会においてだった。この大会では、これ以外にも種々の手法や技術の提案があり、アメリカでは優秀な人材がどんどんプロジェクト・マネジメントの世界に集まって来ているのだな、と肌で感じた。

爾来10年。DRAG, DIPPをはじめ、日本ではそうした最新のアイデアがほとんど紹介されず、いまだに「PMBOK Guideという教科書」の枠内での知識や、自社内でのトライ&エラーの工夫報告が主流なのは残念である。Devaux氏の著書”Total
Project Control: A Manager’s Guide to Integrated Project Planning,
Measuring, and Tracking
“(John Wiley & Sons, 1999)も、わたしは社内教育に一部を使っているが、日本ではまだ翻訳がされていない。彼は近々また著書を出す予定らしいが、わたし達ももう少しアンテナを敏感にしてもいいのではないかと思うのである。

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