ムリ・ムラ・ムダ

ムリ・ムラ・ムダ



「受験勉強で大切なのは、計画性とペースです。ムリ・ムラ・ムダは一番いけません。」中学校3年生の時、担任だったO部先生がわたし達に、そう説いた。『ムリ・ムラ・ムダ』というセットの言葉をはじめてきいたのはその時だった。当時すでに生意気な中学生だったわたしは、“平凡な語呂合わせだな”と、心の中で思った。そしてもちろん、たいして計画性もなく、むら気を持って受験競争を渡ろうとしたので、志望校2校を立て続けに落ち、最後に公立高校しか残っていない状況になってさすがに青ざめた。



長じた後、わたしは何の因果か、計画系のエンジニアになり、あまつさえ他人に「計画的に時間を使いましょう」だとか、「プロジェクト・スケジューリングはこうです」などと伝えて歩く仕事をする立場になった。まったく我ながらいい度胸である。もっとも生まれつき計画性が高く、プランニングのセンスにたけていたら、かえって「計画にはどういう技術が必要か」などと考えることもなかったに違いない。自分が自然にできてしまうことに、理屈をもって深掘りする必要はないからだ。



さて、担任のO部先生は、ムリとムラとムダがそれぞれ、どういう意味でどう違うかについては、説明してくれなかった。自明だから常識で考えろ、ということだったのかもしれない。だが、この三つは、そんなに自明なのだろうか。仕事においても、ムリ・ムラ・ムダがいけないのは周知の事実である。しかし、ちょっと考えてみてほしい。たとえば次のシチュエーションは「ムダ」に相当するのだろうか?



状況1:

 「上流側の設計条件がかわってしまったため、途中まで進めていた作業がやり直しを余儀なくされた」



状況2:

 「組立て作業の途中段階で部品が足りないことに気づき、資材倉庫まで探しに行って取ってきた」



『ムダ』という言葉を、“必要のない事をすること”という風に、常識的に考えている限り、上記はどちらもムダではないことになる。なぜなら、再設計であれ部品探しであれ、必要な作業であって、それなしには仕事は完遂しないからだ。もし上記の作業に従事する人が、作業日報をつけたならば、どちらも「直接業務時間」だとするだろう。明らかに、研修だとか清掃だとか部会だとかいった「間接業務」ではないからだ。



コストダウン活動などの号令がかかり、「時間のムダ取り」による改善アクションが叫ばれるとき、まず真っ先にやり玉になるのは、上記のような間接業務の時間だったりする。こうした間接業務は、顧客に対して直接、何らかの価値を提供するのに貢献しない。逆に、設計をしたり組立作業をしたりすることは、必須の直接業務である。これが通常の感覚であろう。



しかし間接業務の全てをムダと言えるかというと、少し問題がある。たとえば会計業務は典型的な間接業務だが、じゃあ経理はムダだからやめてしまえ、という議論にはなるまい。まあ経理は法的な義務だから、ムダかどうかの議論にはなじまないとしても、人事だとか広報だとか経営企画だとかいった仕事は、顧客に何かの価値を提供しているのか? もしこれらの仕事が、全体としてムダだと思われていないのだとしたら、「間接業務=ムダ」という図式は当てはまらないことになる。



また、直接業務の中にもムダは潜んでいる。たとえば、



状況3:

 「週次のプロジェクト・ミーティングでプロマネが担当者一人ひとりに進捗報告をさせている間、他のメンバーはあくびをかみ殺しながら、スマホでこっそりメールを見たりしている」



というのは、何かムダを感じる人が多いだろう。じゃあ、進捗報告は不要か? と問い詰められると、ノーとは言いにくい。たしかに必要だろう。だが、なんだか生産性が低い(もっとも中には、進捗報告を聞きながら同時にメールを見ているのだから、むしろ生産性は高い、と答える人もいるかもしれないが)。生産性が低いと感じる理由は、<担当者1→プロマネ>の進捗報告を、他の担当者が聞いても、価値のある情報が少ないことがしばしばあるためだ。



仕事における『ムダ』の概念を、直接業務であるかどうかで定義したり、必要性だけで判断するのは、なんだかそぐわない点があることは分かった。では、ムダの判別は何がキーなのか?



最初の状況1の例に戻ってみよう。もし仮に、上流工程がきちんと設計を完成させて、顧客とも十分確認してから下流側に条件を流してくれていれば、このようなやり直し作業は発生しなかったはずだ。たしかにこのやり直し作業自体は、現時点では必要である。だがもう少しさかのぼって、もっと仕事全体の段取りをうまくやっていれば、不要だったはずだ。



状況2の例も、もしも(たとえば)組立作業でちょうど必要になるタイミングで、その部品が上流工程やサプライヤーから組立場所に供給されていたら、わざわざ資材倉庫に取りに行く必要はなかった。たまたま、何らかの理由で、消費するタイミングよりも前に供給されてしまったので、やむなく倉庫に一時的に保管するしかなかったのである。あるいは見方を変えて、かりに倉庫保管はやむを得なかった(たとえばロットサイズの理由などで)としても、組立作業の着手前に、物流係が必要とする部品全てをセット組みして配膳するような作業フローだったら、こうした部品探しの手間は不要だったろう。



つまり、『無駄』とは、仕事の段取りややり方がもっとスムーズだったら、やらずにすむ作業のことを言うのである。このように定義すれば、設計や製造だけでなく、経理や広報などの間接業務にも、いろいろなムダが潜んでいる可能性があることがわかるし、だからといって間接業務は全てやめてしまえ、などという乱暴な話にはならないのである。



ちなみに企業組織における間接業務というのは、自分達の仕組みの維持や能力向上、環境改善のために行う仕事である。人事がなければ給与も払われないし、研修がなければスキルアップも望めない。広報がなければ顧客の認知度にも有能な新人の採用にも差し支えるであろう。マクロな意味では、必要な仕事である。ただ、やり方や段取りがヘタだと、ミクロにはいろいろとムダが生じてしまう。



では、仕事における『無理』とは何か? 従業員を月に100時間も残業させることか? 大型トラックの運転手に、夜間の高速道路を時速110
kmで走らせることか?



YES、と即答したい気持ちはある。だが、ちょっと待ってほしい。人づてに聞いた話だが、かつてSUN Microsystemsの創始者だったビル・ジョイが、Unixワークステーションという新カテゴリーのコンピュータを世に出したときは、仲間3人とで半年間、不眠不休で働いた結果だったと聞いたことがある。定時勤務の観念があったかどうか知らないが、残業換算で100時間はかるく働いていただろう。だが、それを人は非難しただろうか。しなかったとしたら、それは結果が大成功だったためだけではない。そもそも、SUNの創始者達が、自らの意思でやったハードワークだったからだ。



物流業界の大型トラックが、夜間の走行を行うのは、道が一番すいていて、効率がよいからだ。スムーズに流れれば、それだけ運転のストレスも少ないだろう。だから物流トラックが終夜運行をしているのは、海外でもよく見られる光景だ。むろん、夜間労働が人間にとってハードであることは、異論の余地はない。そして遵法速度で運転すべきなのは、もちろんである。



そういう意味で、ムリと「不可能」とは別のことである。可能であり、ギリギリできてしまうが、長続きできない。これがムリである。



わたしの考えでは、『無理』とは、人の能力・性質・意思に反した働かせ方をしたり、道具の設計目的・使用限界を無視した使い方を繰り返すことである。過重労働の意思がない従業員を強いて働かせたり、設計上の最高速度ギリギリで車を走らせる(あるいはローギアで高速に走らせる)のは、ムリである。ムリはもちろん、しない方が良い。かりに当人の意思による無理であっても、それは一過性のことにすべきで、繰り返すのはよくない。ムリを続けると、きっとシステムが歪んでくる。機械ならば予期せぬ故障、人ならば病気、組織ならば能力と士気の低下をもたらすだろう。



では、仕事におけるムラとな何なのか。先月100個だった製品を、今月120個作るのは、ムラといえるのだろうか?



これもわたしの考えを先にいってしまうと、ムラとは「見通し得ず準備もできないようなペース・種類・場所での対応を要求したり、ルールなく気分次第で決断を下すこと」だと理解している。もし商品が季節品で、クリスマスに向けて需要が高まるものなら、10月に100個だったものが11月に120個でも、予期できるだろう。そして準備もできたに違いない。しかし、そもそも製造機械の上限があって、増産に週単位の準備がいるときに、急に「今月は120個よろしく」というのだとしたら、それはムラである。単に比率の問題ではないのだ。また、ルールなく突然、「あの外注先は気に入らないから今度の仕事は内製でいけよ」などと決めるのが、むら気というものだ。



さて。ムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。では、この三つのうち、どれが一番よくないのか? いささか長くなってきたので、この問題は次回に考えよう。

Follow me!