タイム・コンサルタントの日誌から(2009年)

クリスマス・メッセージ --「学び」と「気づき」と「見通し」のある社会を
(2009/12/24)

R先生との対話 -- 競争力はどこにあるのか (2009/12/18)

TBM(Tool Box Meeting)のすすめ (2009/10/29)

Googleのプロジェクト・マネジメント手法を考える (2009/10/13)

経営工学には何ができるか (2009/09/20)

エントロピーを下げる (2009/09/03)

世界の経済地図を見直すとき (2009/08/19)

「良いデザイン」の工数は見積ることができるか (2009/07/10)

NUMMIは終わった (2009/07/01)

人時は金なり (2009/06/24)

超入門・工程管理(3) スケジュールを実行可能にするための『7つの処方箋』
(2009/04/28)

超入門・工程管理(2) オフィスワークの工程管理はなぜ難しいか (2009/04/22)

超入門・工程管理 (2009/04/14)

マネジメント、はじめの一歩 (2009/04/06)

パーキンソンの法則、またはマンパワーはなぜ見積を超過するのか (2009/03/30)

お見積りは無料です (2009/02/22)

採算をとる、とはどういうことか (2009/01/22)

超入門・調達管理 (2009/01/15)

一年の計は? (2009/01/08)

クリスマス・メッセージ --「学び」と「気づき」と「見通し」のある社会を
(2009/12/25)

Merry Christmas !


Lessons Learned”という言葉をはじめて聞いたのは10年ちょっと前のことだったろうか。米国系メジャーオイルのためにプロジェクトをしていたころだ。ちょうど私が責任者として担当していたMES関連のサブ・プロジェクトが完了した時に、相手側の責任者が、「じゃあ、君が帰国する前に、Lessons
Learnedをまとめておこうじゃないか」と言ってミーティングに呼ばれたのである。


ミーティングの場では、客先側と、私たちエンジニアリング会社側とで、それぞれ良かったと思う点、失敗だったと思う点などを、ざっくばらんに挙げることになった。まずかった点は、次の機会にはどうするべきかについても、一緒に考えた。客と受注側では立場も見解も異なるわけだが、まあプロジェクトが終わる頃は一応リラックスして話もできる。そこから、次回への教訓を汲み上げて、リストにまとめて文書化しておこう、というのが彼らの言うLessons
Learnedであった(Lessons & Learnsという場合もあり、略してLLとも呼ぶ)。


米国の大企業には腹の立つ点も少なくないが、感心するところもいくつかある。知識や情報を文書化するのを面倒くさがらない点は、その一つだ。おかげで文書が山のようにできあがるが、それをインデックスをつけて体系的にファイリングしていく。情報処理の基本的スキルが、しっかりしているのである。だからこそ、業務もITに乗せやすいわけで、その点は自分たちとはずいぶん違うと感じる。


私の知っている日本企業はどこも真面目で製品もきっちりしているが、情報の蓄積・ファイリングとなると自前で体系を持っているところはあまり知らない。設計書・指図書とか発注書といった指示帳票は、さすがに小まめに作るが、仕事の最中に得られた様々な「ふりかえり型」の知識や教訓は、不定型なメールか会議での発言の形で発せられるだけで、それは風のように消えていってしまう。情報のフローはあるが、ストックにならないのである。「気づき」が“ぼやき”にしかならない。過去は過去として水に流して、未来だけを指向している--よく言えば、そういう態度であろう。だがそれは、経験に学ばない態度と言うこともできる。


学び」とはいったい何だろうか。こんな問いを考えるのは、最近大学でも学生達に教えるようになったからかもしれない。かりに、授業は熱心に聞くがぜんぜんノートをとらない(あるいはノートを持っていない)学生がいたら、学ぶ姿勢に問題があるといえるだろう。過去を決して振り返らず、前だけ見て進む人は、本当は学びには向かない。学びとは、新しい知識を得ることだけでは成り立たないからだ。少なくとも、時に立ち止まって手を休め、自分が得たはずの知識を、くりかえし反芻し消化して、はじめて自分のものになるのである。それは、鉄棒の逆上がりの方法を一度聞いただけで、鉄棒ができるようになる訳ではないのと同じだ。


年の瀬になると、私たちは「忘年会」という行事に精を出す。“今年一年の労苦は忘れて、また来年フレッシュな気持ちでやりましょう”との趣旨だ。それにしても、「忘れること」に私たちは随分のエネルギーをつぎこむ社会だな、と感じてしまう。同じ行事は英語ではYear-end
partyだろうが、そこには「忘れる」という意味は全くない。中国や韓国ではどうか知らないが、欧米では“何かを記念する(memorial)ためのパーティ”はあっても“忘れるためのパーティ”というのは非常に考えにくい。彼らのエネルギーは、もっぱら過去の教訓を(それが良い体験であれ辛い体験であれ)覚え続けておくことにつぎ込まれる。


人間の脳は、いやな体験の記憶をなるべく底に隠すように働く。だから、過去のことを覚え続けておくことは、辛いことでもある。しかし、それを乗りこえて初めて、「大人」になれるのだという認識がそこにはあるのだろう。過去の「気づき」を学ぶことで、ようやく未来に対する「見通し」が自分のものになるのだ。


世界の多くの場所で、ひととき皆が手を休めて、来し方行く末を想う季節に入った。私たちも、今年一年気づいたことをゆっくりと思い起こして学びなおし、来るべき新しい季節を見通せるようになりたい。そのために、地上が平和でありますように。


R先生との対話 -- 競争力はどこにあるのか
(2009/12/18)

また、R先生のお宅にお邪魔している。先生はなかば引退された経営コンサルタントで、人生の大先輩でもある。


--今年の初めに、先生が『今回の不況は100年に一度などと言われているが、半年で終わる』と予想されるのを聞いた時は、正直驚きでした。こういっては何ですが、たしかに日本以外、とくにアジアでは、半年でほぼ抜け出しました。でも、日本だけは依然としてひどい状況です。何が原因だと思われますか。


「君は私の言葉を正しく聞いていないね。私は、『適切に対応できれば半年で抜けられる』と言ったんだ。“終わる”と“抜ける”では全くちがう。終わる、じゃ台風か何かの自然現象が通り抜けるのを待つみたいで、主体性が無いだろう? 適切に対応できれば、抜ける。好況不況は一種の企業の同調現象だ。あなた任せで横並びでは抜け出せないんだ。」


--じゃあ、日本企業にとって適切な対応とはどんなものだったのでしょうか。


「ほら。すぐにそうやって“正解”を聞きたがる。自分の頭で考えなさい。企業のシチュエーションは個別にみな違うのに、他人が与えた同じ“正解”に群がっていたら、同調現象のダウンスパイラルが強まるばっかりだろう? 『汝自身を知れ』--これが最大の処方箋だ。自分の強みを知る。それを伸ばす努力をする。そして、自分の身の丈にあったサステイナブルなビジネスをするべきだ。」


--でも、何かヒントはいただけませんか。


「じゃあ逆にたずねるが、君の勤務先の強みは何か、説明してみたまえ。一応利益は出しているんだろう? その競争力の源泉は何だ。」


--それが実は、自分でもよく分からないのです。少なくとも、価格競争力じゃありません。最近は韓国企業の追い上げが厳しく、円高ウォン安もあって平場の闘いでは負けてしまいます。技術力の差も詰められてきています。」


R先生は大げさにため息をついた。

「君みたいな中間管理職を抱える経営者には同情するよ。自分達の強みが分からなかったら、強みを伸ばす方法だって分かるわけが無いじゃないか。自分達がなぜ、顧客に選ばれているか。この点をじつは、たいていの日本企業はちゃんと理解していない。自分達の製品が良いからだとか、技術力が高いからだとか。こういうのは技術屋のプロダクト・アウト型の錯覚だ。あるいは逆に、価格が高い点が自社の弱点だ、などとすぐ言いたがる。これは、安けりゃ売れるはずだ、というダメな営業マンの言い訳にすぎない。同じ製品をどれだけ高く売るかが、営業の才覚だろう? 客の言い値で売るだけだったら、営業なんか別に不要だ。」


--じゃあ、何が強みなのでしょうか。


フレキシビリティ製品の安定性だよ、一般には。君のところが具体的にどうかは知らないけど、日本企業は一般にフレキシビリティに優れていて、客のわがままについてきてくれる。納期だとか、仕様だとか、ロット数だとか。そして製品の質が安定している。アメリカや中国の企業からモノを買ってみたまえ。技術が高かったり、価格が安かったりするが、そのかわり自分達の都合は一切曲げない。彼らはいわばプッシュ型なんだ。それにひきかえ、日本の企業はプル型というか、顧客とのすり合わせ能力で生きている。」


--なるほど、たしかに。でも、その『すり合わせ』が故に、設計も工場も変更だらけで、生産性が上がりません。検査も全品やれば手間がかかります。どうしても高コスト体質になってしまいます。


「だからその分、高く売るべきなんだよ。私の知っている限り、収益をきちんと上げている日本企業はみな、商売もしたたかだ。フレキシブルに、良い品を安定して供給するが、がっちりお客からお金ももらって、取りはぐれたりしない。だから成り立っている。フレキシビリティが商品であり、価値の源泉であることを知っているからだ。もちろん、安値のところとムダな競争はしない。」


--安いものがほしい、という顧客は、出来合いの商品を買ってくれ、という訳ですね。


ムダな闘いを避けることこそ、マネジメントの最大の仕事なんだ。戦略とは戦いを略すことだからね。失注のコストほど、見えにくいが大きなコストはない。」


--うーん。でも、なぜ日本の製造業はフレキシビリティと品質の安定性に優れているのですか?


「それを知るためには、日本の産業史を理解しなけりゃならん。日本の産業革命は19世紀半ば、明治維新以降のことだ。すでに欧米列強は植民地をアジアのすぐ近くまで広げてきた。歴史の教科書でならっただろ。」


--はあ。


「そこで政府は急速な富国強兵政策をとった。すなわち、製鉄所をつくり、軍艦を建造し、港湾を整備し、鉱石や石炭を運ぶために鉄道を引いた。工場を電化し、電話線も全国にひいた。こういう仕事は官需で、ほとんどみな民間企業が請け負った。つまり、現在名前をよく知られている日本の大企業、○○重工、××建設、△△造船といった企業は、自前の才覚と経営努力だけで成長したのではなく、富国強兵と官需で育ったのだよ。官需なるが故に、支払は良いが、わがままで、品質にうるさい。そこで、彼らもそれにつきあうだけの能力を持つ必要があったし、同じ事を下請けにも要求したんだ。」


--じゃあ、官需がずっと続いている限り、問題ないはずですね。


「そうはいかん。道路だって空港だって電線だって、もうすでに飽和状態に近い。鉄鋼も石油も、もう供給過剰気味だが、それは成長の結果なのだから、当たり前だ。それなのに財政出動だ景気対策だといって、誰も通らない道路を造り続けるから、借金が増えるばかりで経済が上向かないんだ。もう立派な能力を持っているんだから、従来とは別の道を切り開くべきだ。つまらぬ安値競争だの派遣切りだのにうつつを抜かすかわりにね。」


--ムダな闘いをしない、というお話は分かりますが、そうすると、たとえば不利な新規分野や海外分野などから手を引くことも含めるんですね。


「ダメだと分かった事業をやめることは失敗ではない。ダメな事業を見栄張って続けることこそ、失敗なのだ。やめることの方が、勇気も努力もいる。それをやることこそ、マネジメントの仕事ではないか。」


--選択と集中、ということですか。


「やめる対象には、既存の本業も入っていることを忘れないでくれ。『選択と集中』という言葉はしばしば、かつての本業の成功体験にしがみついて、新たなチャレンジから手を引くことの言い訳に使われる。決断をしないことの言い訳だな。」


--手厳しいですね。


「もう、残されている時間は少ない。このままずるずると土俵を割っていったら、遠からぬうちに三流国に転落するよ。日本企業のマネジメントの最大の問題は、決断が遅すぎることだ。決めないリスクより、決めるリスクをとれ。それこそがただ一つ、生き残る道なのだ。」


TBM(Tool Box
Meeting)のすすめ (2009/10/29)

コミュニケーションの大切さは、ちかごろ強調されることが多い。それだけ、人と人とのコミュニケーションが難しくなったということだろう。「マネジメントの仕事とは、コミュニケーションにつきる」という風に言う人もいる。これはいささか単純化されすぎた表現だが、少なくとも“人を動かして目的を達成する”のがマネジメントの根幹である以上、この言い方にもたしかに一理はある。


とはいえ、「きちんとしろ」「大切にしろ」と言われても、具体的にどうしたらいいのか、なかなか分からないのが、コミュニケーションという代物である。出来の良いコミュニケーションとは、受け取った側が、理解できて、それに応じて行動をとれるようなもののはずである。だとしたら、そもそも「コミュニケーションを大事にしろ」という言い方自体、コミュニケーションとしてはあまり上出来ではない、ということになってしまう。


会社の課題やタスクを、大きな課題から小さなものへと階層的に分解する「課題展開法」という手法がある。ちょうど、製品を部品・材料に展開するBOMとか、プロジェクトをアクティビティやサブタスクに階層的に分解するWork
Breakdown Structure(WBS)の手法に似ている。この課題展開法では、BOMWBSと同様に、上から順に「レベル1」「レベル2」・・という風にレベルを数えていく。レベル1と言えば「売上の増大」「開発力の向上」といった大テーマが並び、レベル2ではそれが(売上増大だったら)「新規顧客の獲得」「既存顧客のリピート率増大」といった課題に展開され、さらにレベル3では新規顧客が「広告宣伝による知名度アップ」「展示会への出展」といった風に具体化されていく。こうしてだいたい、レベル4か5位におりてくると、手のつけようのある具体的タスクになるのである。


ところが、コミュニケーションについては、「コミュニケーション計画の立案」みたいな、レベル1の大課題か、さもなくばいきなり「メールのタイトルの付け方」みたいな、レベル5か6以下の“小技テクニック”みたいなものになりがちだ。中間段階が飛んでしまうのである。中間がないと言うことは、すなわち具体性を持った系統的指針がない、ということだ。まことに困ったことである。


なぜこうなるかというと、結局、「コミュニケーション」という言葉で、3種類の別の機能を区別せずに使っているからである。このことは以前にも書いた(『プロジェクト・コミュニケーションに必要な3つの能力』)が、コミュニケーションには実際には「インスピレーション」「インフォメーション」「コーディネーション」の機能がある。そして、それぞれにふさわしい媒体ややり方があるのである。


インフォメーションとは、いうまでもなく、関係者間の知識や理解のギャップを埋めて、なんらかのアクションを促すような機能である。インフォメーションは情報量と正確性と、あとから再確認できるためのトレーサビリティが大事だ。だから、画像を使った電子メールとかFAXといった、(記録可能な)メディアが望ましい。一方向的でもいいから、放送メディアも手段の一つになりうる。


一方、コーディネーションとは、関係者間の価値認識や『仮説』のギャップを埋める機能である。たとえば客先への出張の日程を調整する、といった単純なことでも、資料用意に必要な準備日数や、資料の質や量、互いの空き時間、そして客先へのアプローチの態度などなど、さまざまな「作業仮説」が各人の頭の中にある。それらをすり合わせるのがコーディネーションだ。だから、電話など同時型媒体でのリアルタイムのやりとりが一番効率がいい。それがだめなら、Webのような非同期共有型のメディアを使うことになる。


そして、インスピレーション。これは意図しない閃きを生み出すためのものだから、フェース・トゥ・フェース以外に良い方法はない。


これらすべてを、一つのメディアでカバーしようとなると、どうしてもミーティング(+議事録)という方法になってしまう。これが、組織で会議が多くなる理由なのだろう。自分が働いている時間の何%を会議の時間が占めているか、皆一度は調べてみるといいと思う。ホワイトカラーの場合、25%程度あっても、驚きはない。


さて。そうなると、これらをどううまく混ぜて「コミュニケーションの生産性」を上げるか、が課題となる。そこで最近実践しているのが、表記のTBM=Tool Box Meetingである。


Tool Box Meetingというのは元々、工場などで、同じ作業区や職種の仲間が、朝一番に工具箱の前に集まって、今日の作業内容を確認したり、その日の職制伝達事項を連絡したりするために行う、5分か10分程度の小さなミーティングである。ある意味「朝礼」とも似ているが、道具箱の前で、数人程度が実際的な話し合いをするという点では、そんなに儀礼的ではない。


これを、プロジェクト・マネジメント・チームでも毎朝行っているのである。朝、始業時間から15分後にはじめて、5分間か最大でも10分間で終わる。その日の各人のミーティングとTo
Doリストを簡単に確認し、ちょっとした連絡事項や、発見などを話す。ごくカジュアルなスタイルで、べつに議事録などもとらないし、負担になることもない。また、外注さんも一緒に働く職場では、その人達の作業内容や進捗確認にもなる。つまり、インフォメーションとコーディネーションと、多少のインスピレーションを、一緒に手短にやってしまうわけだ。


なんだかひどく原始的で前時代的に見えるが、これが案外効率がいい。とくに、できたばかりで方向性ややり方の定まらない組織では、皆のベクトルをそろえるのに効果がある。段取りの確認にもなる。何より毎朝だから、昨日言い忘れたことも今日また言えばいい。朝礼じゃないんだから、別に「スピーチ」もいらない。


唯一の弱点は、フレックスタイム制でコアタイムのない組織には向かない点である。まあ昨今、そういう優雅な(?)企業は減ってきているようだが。


念のため書いておくと、私は中間管理職だが、TBMは「カンリ」のためにやっているのではない。私自身、管理することもされることも嫌いである。人から管理されたくなければ、自分自身が自分のことをきちんと決めなくてはならない。TBMは自立した職人達の習慣だ。だから、皆、自分で自律的に動いていることを確かめるために、Tool
Box Meetingをおすすめしているのである。



Googleのプロジェクト・マネジメント手法を考える
(2009/10/13)

もう夜の10時27分だ。私はこのごろ、夜11時をすぎたらパソコンの画面はなるべく見ないように心がけている。率直に告白するが、中年になると、体力(とくに視力)が一日持たないのだ。ちゃんと夜眠らないと、翌朝になっても回復しない。


でも、そう言いながら、昨晩は会社で11時半近くまで仲間と仕事をしていた。残業は嫌いなのに、三連休までつぶして働くのは、まことにクレイジーである。どうしてクレイジーかというと、私が現在プロジェクト・スケジューリングの仕事をしているからだ、という理由に行き着く。大きな海外プロジェクトがはじまった。もうすぐ顧客も来日して我々のオフィスに駐在をはじめる。あと一月以内にプロジェクト・マスター・スケジュールを確定させる約束だ。その時までの間は、当面、フロントエンド・スケジュールで皆を動かさなければならない。で、そのフロントエンド・スケジュールを期日までに仕上げるために、夜遅くまで残業していたという訳である。スケジュール作成の仕事が、期日を守れないのでは、シャレにもならないではないか。


そう言いながらも、ふと考える。なぜ、プロジェクトには期日があるのだろう。無論、それは契約条項でそう決まっている(決めさせられた)からだ。顧客は、今からきっかり3年半後に、新工場で量産を開始したい、と内外に宣言している。それは株主や政府への約束でもあり、また融資の条件でもあるのだろう。だから、我々のプロジェクトの完成が1日遅れるごとに、巨額のペナルティを課すという条件がついている。


タスクやアクティビティに期日など設けるべきではない。そう主張する人々もいる。その代表格は、TOC理論(制約条件の理論)で有名な、ゴールドラット博士だ。彼は、『クリティカル・チェーン』という、プロジェクト・マネジメントの新しい手法を提唱した。その中で、彼はアクティビティに期日を設定することの有害性を指摘して、“学生シンドローム”という用語を作った。これは、提出期限の直前にならないと宿題をはじめない、学生の習性を皮肉った言葉だ。ちょうど夏休みの宿題を8月の最後になってからやりはじめる小学生のように、人々は仕事に着手しようと思えばできるのに、締切が近づかないとはじめない。これがプロジェクトの納期短縮を阻害する。そう彼は主張する。


そのかわりに、彼が推奨するのは、「できるだけ早く」という督促の方法なのだ。が、なんだかこれではフライパンから火の中へ飛び込んだみたいだ。そもそも、クリティカル・チェーンが劇的な納期短縮を売り物にしているのだから、当然かもしれないが、だまされたような気がしないだろうか。(このクリティカル・チェーン・プロジェクト・マネジメント=CCPMについては、近いうちにきちんと書きたいと思っている)


では、CCPM以外に、誰か期日設定について批判的なことを言っていないだろうか、とネットを探していたら、Steve Yeggeという人が書いたGoogleでのプロジェクト・マネジメント手法に関するBlog記事にたどり着いた(これは「Fine Software Writing」の中でも、青木靖氏による素晴らしい翻訳で読める)。これが、じつに興味深い。


Yeggeによると、Google社内でのプロジェクトの進め方は、こうだ。だれか(誰でもいい)素晴らしいアイデアを思いついた人間が、プロジェクトを立ち上げる。そうしたら、優先度のついた作業のキューを管理できるサーバを用意する。プロジェクトが進むにつれて、いろいろな人が、自分の思いついたアイデアを実現するためのタスクを、このキューに投げ込む。Yeggeはこれを「アイデアやバグを投げ込むゴミ捨て場のような場所」と呼んでいる。そして、このプロジェクトに興味を持った人間は、誰でも、そのキューから自分のやりたいタスクを拾い出すことができる。そして、何か作業する。その結果、見事に終わるかもしれないし、あるいは何か別のタスクを生み出すかもしれない。そうしたら、その新しいタスクをキューに返す。


Googleでは、この作業キューが空になった時、「プロジェクトの完了」という定義になっている。キューはプロジェクトの進行につれて、最初はどんどんふくれていくだろう。だが、多くの人がかかわってくるにつれて、しだいに増え方の速度は減っていく。ついには新規追加より拾い出しの方が多くなり、最後には空に近づく。ちなみに、Yeggeによると、開発者は、いつでも好きなときに、プロジェクトを変えることができる。誰も何も理由を聞いたりしない。そこにあるのは、自発性の法則だけ、ということらしい。


したがって、Googleでは、ガントチャートも日程表も、作業の期日も何もない。目に見えるようなプロジェクト管理の仕組みは一切ない。後ろから技術者のお尻をひっぱたくような『管理』はしないということだ。そして、開発者はつねに自分の就業時間の20%を、自分のメインのプロジェクト以外で、やりたいことに使うよう強く促されている。


どう? 素晴らしいだろうか。ここで働いてみたい? この記事を読んで、そう思う人が大勢いても、不思議ではない。すでに3年前の記事だから、事情は変わっているかもしれないが、あるいはこうした組織の本質は変わらないようにも、思える。


ただし。Googleについて、一つだけ理解しておいた方がいいことがある。この会社は不思議な会社で、情報システムを確かに開発しているくせに、それを売ってはいないのだ。製品は、基本的にタダで提供する。そして、彼らは、その製品に集まってくる人々の数を担保に、広告収入で食べているのである。


彼らの素晴らしい製品の数々は、タダである。だから、基本的にユーザは、いついつまでに持ってこいとか、こんな機能は好きじゃない、とか文句を言うことができない--むろん社会的に有害な機能があれば別だが。そのおかげで、Googleは“いつ次の新製品を出荷するか”を、一切コミットしないで済んでいるのである。これは、極めて類例の少ないビジネスモデルであって、自社用であれ請負であれ通常の情報システム開発プロジェクトとは異なっているのである。


それで? --答えは、円環を描いて元のところに戻ってくる。プロジェクトを動かすものは、ステークホルダの期待なのである。ステークホルダとは、通常は、プロジェクト・チーム員を除く、プロジェクトの利害関係者をさす。一番はユーザであり、あるいは発注者(予算承認者)であり、そして上級管理者達だ。彼らから無縁で、自分の作りたい面白い物だけを開発していたい、そう思う技術者は多いだろう。だが、エンジニアの給料はふつう、(上司の手を通じて)顧客が払ってくれているのである。そして、顧客がGoogleの広告スポンサーほどは寛大でない時、あなたには(そして私にも)やはりプロジェクトの工程表が必要になるのである。




経営工学には何ができるか
(2009/09/20)

3ヶ月ほど前のことだが、元・東大総長で、現在は三菱総合研究所理事長の小宮山宏先生にお会いした。私が編集委員としてかかわってきた経営工学会の一般誌「経営システム」のインタビューが目的である。テーマは「日本のR&Dを考える」で、文字通り日本の研究開発の現状と、あるべき姿について、1時間ほどお話しをうかがった(「経営システム」2009年8月号に掲載したので、興味のある方はご覧ください)。


ところで、インタビューの席に着くなり、まず小宮山先生の方から「経営工学ってのは、研究開発のマネジメントなんかより、まず日本のマネジメントをどうすべきかを考えた方がいいんじゃないの?」といきなり言われた。年金記録の改ざんの泥沼や、酩酊状態で記者会見の席に現れた大臣やらのあれこれで、皆がうんざりしていたのは事実だろう。このまんまじゃマズイな、そう思う人が増えるのも無理はない。


経営工学とは何をする学問か、そこで私は手短に説明した。経営工学とはIE(Industrial Engineering)を母体とした、工場づくりの工学で、そこからさらにORや経営問題も対象とするようになっています。・・もっとも、化学工学科を卒業した私が、そんなことを語るのは僭越なのだろう。が、小宮山先生も化学工学の専門家だから話が通じやすい。化学工学もまた、じつは化学工場づくりの学問なのだ(現在は機能的素材づくりの学問にかなりシフトしているが)。


でも、後で考えたら、もう少し別の説明法もあったなと気がついた。それは、「経営工学とはマネジメントのテクノロジーに関する学問です」という説明だ。マネジメントにはテクノロジーが存在する。それに対して理工学にアプローチする--それが経営工学の役割なのだと私は思う。


さて、目の前に、ある英語の論文がある。タイトルは"MARKOV MAINTENANCE MODELS WITH
CONTROL OF QUEUE"、出展はJournal of the Operations Research
Society of Japan, 20(3) pp.164-181 1977、である。日本オペレーションズ・リサーチ学会の論文誌らしく、添え字のついた数式が一杯並んでいる。設備取替え問題といわれる分野の研究で、ランダムに故障の発生する機械設備群を相手に、確率過程と待ち行列の組合せによって、意志決定者が最適な答えを得られる条件を定めている。まあ、経営工学の典型的な分野の一つである。


著者は、DR. YUKIO HATOYAMA。東工大の経営工学科の教員・鳩山由紀夫博士、とある。ちなみにこの論文は、国立情報学研究所の論文検索サイトCiNiiで全文を入手できるので、こちらも興味があったら読むことができる。


日本で初めて理工系出身で首相になった人が、経営工学の博士号を持つ学者だった(ことがある)というのは、きわめて不思議だが興味深い事実だと思う。というのは、どうみたってマネジメントの不全ないし不在が、今日われらが社会の最大の問題だからである。


もっとも、多くの「支持政党無し」の人々と同じく、私も首相一人が変わったからといって、この建前だらけで制度疲労した世の中の仕組みが、明日からガラリと良くなる、などという期待は持っていない。それに、経営工学の学者だからといって、マネジメントが上手であるという保証は何もない。それは、眼科医が必ずしも良い視力の持ち主とは限らないのと、同じ事である。


ただし、眼科医は、他人の視力の問題については、指摘できるだろう。視力の回復や矯正についても、手伝えるかもしれない。同様に、経営工学の専門家は、マネジメントの問題解決については、役に立ちうる力を持っている。持っていないと困る。そうであって欲しい--それが、本来の学問への期待というものだ(誤解しないでほしいのだが、私は新首相や政治のことを書いているのではなく、現在約2,000人を擁する経営工学会の諸先生・先輩のことを言っているのである)。


そういう観点からいうと、『経営工学』という訳語の付け方は、長短両面あったかもしれない。経営工学科の卒業生を採用する企業の側は、別段、その学生に最初から「経営」を面倒見てもらおうという気持ちはないだろう。大学の先生にさえ、「経営」の問題について相談に乗ってもらおう、という意識にはなるまい。経営という語が、英語のmanagementという概念(これは中間管理職的な仕事を十分含む)よりもずっと上位の、まさに社長レベルの仕事をさすからだ。


これを避ける意図があってかどうかは知らないが、大学のなかには経営工学科という名前を使わずに、管理工学と呼んだり(慶応)、工業経営という名前を使ったりした(早稲田)ところもある。でもまあ、このサイトでも繰り返し書いているように、管理という語も多義語すぎて誤解を招きやすいし、工業経営では工場長の仕事みたいに聞こえないこともない。あまり適当な呼び名がないのだ。


なお、東大には経営工学科はないから、小宮山先生がご存じなかったのも無理はない。学問の百貨店みたいなマンモス大学なのに無い理由は不明だが、旧・文部省的世界観にしたがえば、そもそも東大はエリート官僚養成校であり、そこに入学する人はみんな優秀だから(笑)、卒業生には自動的にマネジメントにふさわしい人格が具わっている(大笑)。ゆえに、あえてマネジメントなどを研究したり教えたりする学科は不要である! 証明終わり。・・という事情かと私は邪推している。


もともと、大学の学科や科目の名前に「~学」をつけることにこだわったのは、文部省の方針であった。でも欧米の大学を見ても分かるように、科目名は必ずしも"..ology"や"..ics"ばかりで終わるとは限らない。EngineeringもTechnologyも立派な科目名である。だとしたら、「マネジメント・テクノロジー科」という学科があってもいいと私は思う。


さて、この話はこれでおしまいだが、一つだけ余談がある。今回の総選挙では、「BOM/部品表入門
」の共著者である山崎誠氏が、なんと民主党から出馬して見事に当選したのである。氏は2年半ほど前に企業から政界に転じ、横浜市議として活動してきて、今回の追い風に応援を受けて国政に踏み出したわけだ。まあ、生産管理の本を書いた現役の国会議員というのも、初めてだろう。国内企業のSCM構築や、海外企業向けのERP導入のコンサルティングなども経験している人だ。一年生議員として、今後どのような活動を展開されるかはまだ未知数だが、ぜひマネジメント・テクノロジーを身につけた人として、意義ある仕事をしていただけるよう、期待したい。




エントロピーを下げる (2009/09/03)

大学の頃、熱力学で『カルノー・サイクル』を習った人は多いだろう。ついでにエントロピーだのTS線図だので頭が痛くなった人もたくさんいるに違いない。物の本によると、カルノーという人はフランス革命時代の砲兵士官で、砲身の中ぐり加工がかなり熱を発生するのを見て、熱素説について考察した、という話を聞いたことがある。


当時、イギリスでの蒸気機関の発明をきっかけに、熱機関の改良や工夫が進みつつあった。その熱機関サイクルの本質について、カルノーは画期的な論文を書く。彼はその中で、熱機関の理論的最大効率が、高熱源と低熱源の温度差のみで決まることを論証した。これは、まだ熱がエネルギーであることさえ確定していなかった時代において、まことに見事な洞察であった。熱力学の第2法則は(別に彼がそう命名したわけではないが)、彼の論文から発している。まさに、熱力学の創始者と呼んでもいい。


また、カルノー・サイクルの考察から、移動した熱量を温度で割ったエントロピーという概念が出てくる。『エントロピー』の語は、後の時代のクラウジウスの創案によるが、基本的なアイデアはカルノーに依っている。クラウジウスは熱力学的サイクルを論じて、「非可逆的なサイクルでは必ずエントロピーが増大する」という法則に定式化する。これが現在の第2法則の成り立ちである。


その熱力学の第2法則の告げるところによれば、我々がエネルギーの変換によって力学的仕事を得る際には、必ずエネルギーの質の低下が伴う。たとえば、電気でモーターを回したとき、必ず一部が摩擦熱に転じる。電気エネルギーは質の高いエネルギーだが、熱エネルギーは質が低いのである。また熱エネルギーの質は、ごく簡単に言うとその温度で決まる(沸騰水はぬるま湯にまさる)。「エントロピー」とは、その「質の低さ」を示すモノサシである。


このエントロピーは、秩序の乱雑さを表す指標としても知られている。そして、『情報』というのは、秩序を表現する手段である。ここで、熱力学的概念だったエントロピーは、情報理論における尺度に変身するのである。


さて。いきなり話は飛ぶが、先週末、私は机の上に乱雑に積み上がっていた書類をかなり整理した。つまり机上のエントロピーを下げたわけだ。しばらく忙しさにかまけてゴチャゴチャな状態になっていた机がきれいになって、気分もすっきりしたし、なにより書類探しのための不毛な時間がなくなって、生産性がずいぶん上がったと感じる。米国のデイヴンポートという人によれば、平均的なビジネスマンは、捜し物のために、年間170時間も使う、という。もしそうだとすれば、机周りのエントロピーを下げることによって、仕事の生産性は1割近くも上がることになる。


私の机が乱雑なのは、基本的に私がずぼらな性格だからだが、仕事で忙しいときほど乱雑になりがちだ、という説明も一応用意している。書類を整理している時間もなくて、という訳だ。しかし、昔、ある上司から一喝されたことがある。お前はわずかな時間を惜しむつもりで、かえって多大な時間を浪費しているだろ、と。


その部長は定期的に号令をかけて、部員に不要な書類を捨てさせる時間を取った。たいていは金曜日の夕方だったが、「今日はもうこれからは仕事は不要、あとは書類を整理しろ」というのである。この、定期的というのが、今思うと大事なポイントだったように思う。ある一定サイクルで、強制的に仕事の手を止めさせる。そしてエントロピーを下げさせる。


考えてみると、われわれ生き物も、エントロピーのサイクルを持っている。昼は起きて活動し、その分、体の秩序が乱雑になる。そこで、夜、眠る前に熱を外に捨てて体温を下げ、寝ている間に体組織の修復や成長を行ってエントロピーを下げているのだ。人の成長ホルモンは、夜眠る前に最も分泌される。だから、「寝る子は育つ」というのだと、前にも書いたように思う。そしてじつは脳も、眠っている間が一番エネルギーを消費している。たぶん、記憶情報を整理してエントロピーを下げているのだろう。


生物は、少なくともある程度高等な生物は、活動と休息のサイクルをもって暮らしている。私はこれは、秩序ある自律的なシステムにとって、かなり本質的なことではないかと考えている。カルノー・サイクルではないが、そのほうが有効にエネルギーを活用できるのだ。ノンストップで働き続けると、エントロピーが上昇して、次第に乱雑さとムダが増えてくる。だから、これを強制的に下げるためのサイクルが必要なのだ。ちょうど24時間操業のプラントも、ときどき全面的に運転を止めてシャットダウン・メンテナンスを実施するように。


24時間働き続け、成長し続ける企業モデルというのは、どこかおかしい。ときには休息し、ときにはエントロピーを下げるための時間が必要だ。生きた組織には、サイクルがあるべきだ。


昨年秋の金融危機以来、私たちの産業社会はかなりの低稼働率、開店休業状態に苦しんでいる。しかし、こういう時期こそ、ほんとうは組織やシステムの修復やリモデルをすべき時だったのではないか。低需要期にも、積極的な意義を見いだすべきではなかったのか。少なくとも中東や南アジアなどでは、“あの危機のおかげで過熱状態だった経済が少しクールダウンし、かえってまともな成長に戻った”と感じている人もいるようだ。それなのに、あわてて現場労働者を大量に切り捨てて、かえって不況の谷を深くした我々の社会は、何か大切なことを見失っているように思えるのである。


世界の経済地図を見直すとき
(2009/08/19)

プラント資機材の値段が上がりはじめている。いや、正確には、上がる気配を見せ始めている。とくに金属や基礎材料。たとえば銅の値段やニッケルの値段はすでに底を打ち、London
Metal Exchangeの指標なども上昇に転じている。例えば銅は電力ケーブルの、ニッケルはステンレス鋼の主要な材料である。こうした品目がまず値上がりしていくことは間違いない。原油も上がっているため基礎化学品も追いかけるだろう。


化学プラントというのは、ごく簡単に言うと、巨大な金属のドンガラと、それらをつなぐ無数の配管、配管の中のガスや液体を送る大小の圧縮機やポンプ、熱交換器、制御弁・遮断弁、そして電力ケーブルや制御ケーブルがしこたま、という構成になっている。それから、それらを支える鉄骨やコンクリート構造物がある。たいてい24時間操業だから、夜も無数のライトがついて明るい。『工場萌え』の人たちが好んで撮る、夜のプラントの姿である。


エンジニアリング会社とは、こうしたプラントを設計して、資機材を調達し、建設する仕事であるから、資機材の値段には敏感になる。そして産業用機械・材料のサプライヤー/メーカーは恒に世界的な競争にさらされているから、ある国だけで突拍子もなく安かったり高かったりすることは、あまりない(特殊な規制品は別として)。ということは、世界的に需給がタイトになってきている訳で、すなわち設備投資が活発化していることを意味する。


こういったニュースは、リーマン・ショックに発する金融危機以来の不況下の日本だけを見ていると、何だかピンとこない。ようやく機械製造業は底を打った様子もあるが、まだ設備増強にはほど遠いし、個人消費も冷え切ったままだ。しかし、いったん目を世界に転じると、ずいぶん状況は変わっている。産業用資機材では、どうやら発電関係がとくに活発なようである。ボイラー、タービンやその補機・回転機、変圧器そしてケーブルなどのメーカーが忙しいらしい。だが、どこで使われるのか? 答えは主に「アジア」である。アジアと言っても広い。西は中東から、インドなどの南アジア、東南アジア、中国などがその場所らしい。たしかにどこも経済発展に電力供給が追いついていない--日本は例外だが。


ちなみに、今週号の「The Economist」誌の特集記事は、“アジアの驚くべき回復”だ。むろん、リーマン・ショックからの回復である。中国、インドネシア、韓国、シンガポールは第2四半期には年率換算10%以上のGDP成長率をみせた。輸出依存性の高さからみて、とても急回復は無理だと言われていた国々だ。台湾、インドの工業生産量も上昇中である(インドは元々影響は比較的小さかった)。


それから、中東である。原油価格が昨年急落したとき、建設中の高層ビルの建ち並ぶドバイは、そのまま廃墟になるかと思った人が多い。しかし産油国は、国家収支のバランス点を示す最低原油価格によって、その経済的頑健性を測ることができるという。湾岸諸国の多くは30ドル/バーレル台である。そして原油価格は最高値の140ドルからはかなり下げたが、40ドルを切ることはほとんど無かった。欧米の金融システムが数ヶ月間麻痺したおかげで立ち往生したプロジェクトも、再開に向かったものが多い(なお、ロシアとベネズエラはこの最低価格が高いため、苦境の期間が長い)。


アジアの驚くべき回復の中心にあるのは、個人消費の伸びと、それをささえる社会資本の投下である(だから発電所なのだ)。それはすでに欧米の消費の落ち込みを打ち消して余るほどのレベルになった。明らかに今や、世界の経済構造にシフトが起きている。


ところで、問題は我らが日本だ。同誌には、国内消費を伸ばすような経済的改革こそアジアがみな取り組んでいる課題なのに、日本だけは一度も成功しなかった、と書いている。成功するわけがない。そもそも、公共消費を切り詰めるのがこの何年間もの政策だったのだから。たぶん、日本では、投資や生産だけが善で、消費は悪徳なのだろう。もう大量生産時代はとっくに過ぎたのに、いまだに、「ものづくり企業」が社会の牽引車ということになっている。


いま私はこの文章を、北フランスLilleの大学の構内で書いている。プロジェクト・マネジメントの国際セミナーに招かれて来ているのだ。こうした機会はとてもありがたいが、夜、みなで会食をしているとき、「ところで日本の経済はなぜ足踏み状態なのだ」などと質問されるのが一番困る。なぜって、答えられるような政策が無いからだ。たしか『骨太の政策』というのが実施されているはずだが、芯を通すようなグランド・プランが、私のような一介の市民には、よく見えてこない。ただし、一つだけはっきりしていることがある。それは“グランド・プランの模範を欧米に求めても、もうそれは得られない”ということだ。


このサイトで、私は「日本の製造業の抱える問題は、大量見込み生産時代の管理思想を社内に残したまま、受注生産に移行しようとしていることだ」と一度ならず書いた。同じことが、経済政策全体に対して言えるのかもしれない。経済評論家でもないのに大げさな発言を許してもらえるなら、「日本経済のシステム全体が抱える問題は、もはや欧米市場だけが日本製品を飲み込んで消費してくれる時代はすぎたのに、まだ欧米輸出に依存した思考構造を続けていること」と言えるかもしれない。もうG7のみが世界を牽引する時代は終わった。これからは、G20から、G7を除いた国々が相手になるのだ。あなたは、G20の国名を言えるだろうか。あなたの上司はどうだろう。


そうした国々の市場は、個別性が強い。つまらぬ自負や偏見は捨てて、すべての国の顧客に対して頭を下げる姿勢が必要になる。つぎの総選挙の後で、どのような政権がどういう政策を立てるのかは知らないが、ぼくらはもう、欧米中心の経済パラダイムから卒業する時が来ている。



「良いデザイン」の工数は見積ることができるか
(2009/07/10)

目の前に広げられたのは、30数枚に及ぶスケッチの紙だった。我々の顧客が打合せを終えて帰った後で、そのグラフィック・デザイナーの人が見せてくれたのだ。CI(コーポレート・アイデンティティ)の世界では、かなり名前を知られた人である。彼が顧客に見せたのは、3つのデザイン案だけだったはずだ。ダイナミックでポップなもの、端正で清潔なもの、柔らかで明るいものの3つで、ずいぶん違う印象の候補案を用意してくれていたのに感心したばかりだった。でも、その裏側には10倍以上の半製品があったのだ。


その人は、候補の3案に至るまでの案出しとデザイン展開の結果を何枚もめくって見せながら、どのような発想から出発して、どうバリエーションをつくり、それからどう最終成果物に結びつけたのか、素人の私にたいして簡単に説明してくれた。私は完璧に驚いてしまった。ひらめきから生まれるものとばかり思っていたグラフィック・デザインが、じつはとてもシステマティックな、かつ時間をつぎ込んだ作業の結果、生まれてくるのを知ったからである。


CIデザインの中心には、いわゆるロゴ・マークの設計がある。私は視覚デザインについては全くの素人だが、それでもいろいろな企業のロゴ・マークには出来不出来があるのに気づく。もう少しマイルドな言い方をすれば、個性的な美を感じさせるものから、限りなく無難な印象のものまで幅がある。ただ、ロゴ・マークのデザインが難しいのは、そこに大きな自由度があるからだ。たとえば配電盤の中の結線図を作成するのだって、デザインといえば同じくデザインだが、こちらは答えの自由度が小さい。定石や手順が決まっていて、それに従えば出来上がる定型的な作業だ。しかし、グラフィック・デザインは明らかに非定型的な、創造的な仕事に思える。


その日まで私は、こうした創造的なデザインというものは、デザイナーが宙をにらみながら、ある瞬間にふと閃いたアイデアにもとづいて制作するものだ、と単純に思い込んでいた。言いかえると、良いデザインが生まれるかどうかは、その場の運だと考えていたわけだ。今日にも閃くかもしれず、半年後も思いつかないかもしれない。つまり、「いつまでにできますか」などという質問には答えられないことになる。


ところが、この人のプロセスを見ると、集中した思考に費やす時間が、明らかにデザインの質を決めているのが分かる。むろん、不連続な閃きだってあるだろう。持ち前のセンスの良否もある。だが、デザインという、いかにも不定形に見える仕事の成果が、実は費やした時間の長さにほぼ比例するのだという発見に、ひどく衝撃を受けたのだ。


不定型な仕事とは何だろうか。それは、答えの見えない、解き方の分からない、個別的で自由度の高い仕事だといっていい。そして大学教育を受けたホワイトカラーに専ら任せられる仕事でもある。新製品の企画を立てるとか、展示会に出展するとか、原価改善に取り組むとか、こうしたことはすべて非定型的な仕事、事務作業や力仕事とはちがう特別な知的作業だと考えられている。こうした創造的な仕事とは、効率だけが求められる職種とは違った世界があるはずだ、と。


このような思考はまた、フレックス勤務とか、裁量労働制とか、年俸制とかいった、勤務時間にしばられない給与報酬制度とむすびつく。自分はタイムカードで働くのではない、成果で評価されるのだ、と。


ところで、そのデザイナーに仕事のプロセスを見せてもらった時以来、私は考え方が変わってしまった。「不定型な仕事だから、どれだけ時間がかかるかは分からない」という言い方をしないようになった。そればかりか、他人のそういう発言も、単純には鵜呑みにしないようになった。そして設計や計画やデザインの質が低いのは、時間を費やせなかったせいではないかと疑うようになった。


デザイナー以外にも、不定型な仕事をしている人には何人も出会った。音楽家、映画監督、映像展示プロデューサー、建築家といった、事務作業や力仕事とはほど遠い業務に従事する人たちだ。こうした職種の人たちの多くは、成果物で報酬を得ている。しかし、よく聞いてみると、この人たちもたいてい、仕事に費やす時間や工数をかなり正確に見積もっているのだ。それどころか、報酬額が自分に必要な工数の分に足りないときは、どこを押さえてどこで手を抜けばいいかさえ、ちゃんと計算している。自分の評判を下げない程度に、質をキープする知恵である。いかにもプロフェッショナルである。


課長に「秋に開かれる展示会でアピール力の高い内容を考えろ」と命じられたとき、「でも閃きは半年後に来るかもしれないので期限は確約できません」とは答えられないのが勤め人である。なるほど非定型的な仕事ではある。だが、かかる時間は見積もれる。見積もることのできる能力が要求される。これを、『スケジュール・マインド』とよぶ。コスト・マインドと並んで、プロとしての能力の要件の一つである。


自分の仕事は創造的だ、特別だ、という思い込みは、ある意味で「特別な我が社」という思い込みに通じている。ベタな工数見積や効率化活動の対象外だ、ほおっといてくれ--そんな感覚が、そこにはないだろうか。だが、そんなことはないのである。「非定型的な仕事」の多くは、特定の成果物や結果を生み出すための、一度限りの営為だ。これはまさしく、PMBOK
Guideにいうプロジェクトの定義="a temporary endeavor undertaken to
create a unique product, service, or result
" に、ぴったり当てはまるではないか。


つまり、非定型と思われている仕事の大半は、じつはプロジェクトなのだ。定常業務の仕組みや職制を残しながら、個別で部門横断的なプロジェクトに(そうとは意識せぬまま)取り組んでいることが、今日のホワイトカラーの生産性の低さを生んでいる。「特別」意識を持つ製造業の問題に、いかに似ていることか。


そして、プロジェクト的な仕事には、明確にマネジメント・テクノロジーが存在するのである。たとえば、工数見積に必要となるのが、パフォーマンス基準時間の概念である。長くなったので、これについては、稿をあらためてまた書こう。



NUMMIは終わった
(2009/07/01)

新聞によれば、米ゼネラル・モーターズは6月29日、New Unitec Motor Manufacturing Inc.=略称NUMMIから手を引くと公表した。倒産したGMは資産を「新生GM」社に引き継ぐ予定だが、NUMMIの工場はその中には計上されない、という。現在NUMMIの工場で生産されているPontiac
Vibeは、8月をもって製造を停止する。運営上のパートナーであるトヨタは先月、事業継続を期待すると言っていた。しかし、今や"General
Motors"ならぬ"Govenment Motors"となったGMにとって、もはやNUMMIは資産ではなく負債である、ということなのだろう。


NUMMI(ヌンミないしヌーミ)は、1984年にGMとトヨタが最初の提携事業として、50対50ではじめたJoint
Ventureである。カリフォルニアのFremontに工場を持つ自動車製造会社、というより、元GMのFremont工場を、新しい提携事業の実験場所にした、という表現の方が正しいのかもしれない。’80年代は、日米貿易摩擦が自動車市場で火花を散らしていた時代であった。


アメリカの製造業が絶頂を極めたのは1950年代だったのかもしれない。「GMの利益はアメリカの利益」という有名な言葉がそれを一種、象徴している。GMはアルフレッド・スローンが経営者となった30年代から成長した。事業部制・複数ブランド・オートローン(金融つき販売)などはみな、スローンが発明したものだ。MITのビジネス・スクールは、彼の名前をつけてスローン・スクールと呼ばれている。


そのアメリカの製造業が空洞化をはじめたのは、1970年代のことだろう。最初は、衣料品・繊維産業だった。日米繊維協定で日本側が「自主的」に対米輸出を規制することを約束。当時、米国の繊維製品輸入の7割を日本製が占めていた。だがそのころの『メード・イン・ジャパン』のイメージは、まだ“安かろう悪かろう”の印象を引きずっていた。しかし、つづけてオイルショックが起きる。ガソリンの値段も高騰し、大型車の維持費に辟易したアメリカの消費者たちは、デザインは平凡だが燃費が安く品質も安定している日本車に目を向けるようになった。そう、このころ、ようやく「日本製の品質」のブランド価値が上がって競争力が出てきたのである。


だが、米国の財界人・経営者たちが当時、日本の製造業の競争力をどう見ていたかというと、「ひどく安い給料で長時間労働をいとわない労働者たちを使って、モノマネ製品を作っているのだから、アンフェアなくらい安いのは当然だ」といった見方が支配的だった。奴らの製品に競争力があるのは、ひどく安い賃金のおかげ--まるで、現代の某国の経営者たちが、隣の中国製造業を見下していうセリフにそっくりではないか。はたして、その競争力の源泉は低賃金だけなのか。大連市の地元の中堅企業はもうNCとCADを主軸に使いこなしているのに、日系企業は相変わらず労働集約的な生産方式だったことを視察で見て以来、そんな単純な批評は信じないようになった。が、NUMMIの話に戻ろう。


トヨタがGMから買い取ったときのFremontの工場は、全米でもっともローテクで、かつ生産性も全米最低の工場だった。安価な海外製品に対抗するには、高付加価値な製品の開発と、工場設備のハイテク化だ--そう米国の経営者たちは信じていた。だから、こんな古くさい工場はまっさきに切り捨て・売却の対象にあげられた。そして、日米自動車摩擦の緩和をめざすトヨタが、共同事業の「実験の場」として選ぶことになった。


事業を始めるにあたっての最初の課題は、全米自動車労組UAWとの協定だった(実際にはGM側がやったとも言われている)。UAWは最近では、労働者の高賃金の元凶として、ビッグ3の破綻の原因のように言われているが、上に述べたように私は「低賃金=競争力」説には疑問を持っている。まあ、それはともかく、日本企業はどんな工場を造るのだろうかと興味津々だった(はずの)GMの目の前で、トヨタはかんばん方式をはじめとする、あっと驚く合理化の実践を次々見せていった。


まず、トヨタは訓練された小さなチームで自立的運営するような工場体制を作っていった。「連続した流れ」を実現するような工場レイアウトとし、また問題が起きたとき作業者の判断によるラインストップを可能にした。といっても、(この先はトヨタ自動車社友・黒沼惠氏の講演からの聞き書きになるのだが)「ラインを実際に止めるようになるまで半年かかった」という。とにかく自動車工場の主軸である最終組立ラインを、現場作業者が勝手に止めるなどと言うことは、米国流トップダウン経営の下では常識外のことだったのである。


そもそも、トラブル発生時にラインを止めるのは、上流側で起きた問題を下流側が検知して即座に解決・改善するためである。しかし、(UAWの労組組織を見ても分かるとおり)米国の職場は専門分業化が徹底している。分業化社会では、上流の改善作業は自分のscopeではないのである。他方、トヨタ流の思想の中心には、問題点の顕在化と改善こそが仕事である(「問題ないのは最大の問題」)との考え方が強い。180度逆なのである。


また、ホワイトカラーの役割は、「指示」ではなく「支援」だ、というのも180度反対であろう。そもそも米国の製造現場には、どこかにうっすらと奴隷制農園経営のセンスが残っている。労働者の黒人と、ホワイトカラーの白人という図式は少しずつ崩れてはきたが、それでも大学出の技術者は計画と指示をし、高卒の労働者は一生言われたとおり働くだけで、どんなに頑張っても職長止まり、という階級社会が当然のこととされている。ここで、主人公は労働者側で、大卒はヘルパーにすぎない、などというイデオロギーが入ってきたのである。


しかし、その結果は明瞭だった。全米一のローテク工場NUMMIが生産性最大となった、生産性と品質は過去の2倍に上がった。何より、ドラッグ、アルコール中毒がなくなり、無断欠勤がなくなる効果があった。つまり、労働者は人間扱いされれば、人間らしく意欲をもてるのである。おそらくこれが一番良かったことなのではないか。少なくとも、当時のトヨタは、工場運営にあたって、「生産性」の短期的追求だけではなく、生産システムの長期的「安定性」(継続性)を同時に実現しようという意気込みがあったのである。


NUMMIの実験を見た米国財界人の中には、日本製造業の強さは低賃金だけではないのかもしれない、と気づく人が出てきた。そうした見方をスローガンとしてまとめたのが、MITの"Lean Production"論である。これが80年代終わりのことである。


それから20年近く経った。「金融業のネタとして製造業をやっていた」GMはついに倒産し、70年以上続いた世界一の座をトヨタに譲ることになった。
NUMMIからも手を引く、という。NUMMIは終わり、日米自動車摩擦の一つの時代も終わった。それでは、トヨタはNUMMIでカローラを作り続けるのだろうか。最近の同社のコメントを読むと、どうも撤退戦略の可能性も探っているようだ。なぜなら、すでに北米には生産拠点が明らかに過剰だからだ。


それにしても、トヨタは果たして、世界一の座について、本当にうれしいのだろうか? 私がこんなことを書くのは、べつにトヨタが今、苦境にあるからではない。たとえ1年前だって、同じことを書いたと思う。私の無謀な推論によれば、トヨタはフロントランナーの背中を見て走り続けたかったのではないかという気がするのだ。フロントに出て、真正面から風を受けながら、走るべき方向を自分で決めて走り続けるのは、苦手なのではないか--そういう気がする。いや、トヨタだけでない。勤勉な東洋の企業は、大なり小なり、目標があってはじめて走れるのだ。優秀なる韓国のサムスン電子が、やはり世界トップ企業にはなり得ないように。


トヨタの今の苦境は、北米市場に投資しすぎたことが原因と言われている。あの会社がなぜ、米国にピックアップ・トラックの工場などを持たなければならないのか、たしかに疑問も感じる。あれだけ現場カイゼンでは力を見せたのに、過剰投資には無力だった。そう。戦略レベルの失敗は、戦術の成功だけでは取り戻せないのである。



人時は金なり (2009/06/24)

今でもよく覚えているが、新入社員のとき集合研修に参加していたら、ある講師がこう語った。「われわれエンジニアリング会社は、時間で勝負している。一人1時間働くと、7,500円という単価がかかる(注:金額は当時)。だから、君たち100人を相手に1時間半こうして話をするということは、会社は100万円以上のお金を使っている訳だ。だから、この講義の時間はそれだけの価値あるものにしなくちゃならない。」


あとで知ることになったのだが、1時間7,500円というのは平均の売値(Price)であって、人件費原価(Cost)ではない。もちろん、自分達がそんな高い時給をもらえるわけでもなかった。なのにその先輩が「100万円以上のお金を使っている」と説明したのは、つまり顧客に売ればそれだけの収入の可能性があるのに、あえて教育研修に振り向けている機会損失コストのことを言っていたわけだ。


機会損失というのは、分からない人にはちょっと分かりにくい。これは“釣り逃した大魚の代金”みたいなものだからだ。財務諸表のどこを探しても出てこない。でも、たとえば今、宝くじの一等の当たり券を持っているとしよう。購入代金は300円だった。つまり原価は300円である。でも、当たりくじは3億円に換金できる。さて、もしこの当たりくじをゴミ箱に、ぽいと捨ててしまったら、自分はいくら損をしたことになるだろう? 300円か、それとも3億円か?


手取りで時給1,000円にもみたぬ当時の新入社員であっても、たとえば設計マニュアル通りに熱交換器のデータシートを記入したり計算ソフトを回したりすれば、そのプロダクトについて石油メジャーは1時間7,500円相当の金額を支払ってくれた(時間数が適正で結果が正確である限り)。それがある意味で欧米流の人時の考え方なのだった。プロフェッショナル・サービスに対しては、時間コストが付随する。そして、それは売り手側にとっては機会損失で測られる。かんじんの講義の内容は忘れたが、今でもそのことだけは身にしみて忘れない。


さて、1時間7,500円ということは、1日8時間働くと6万円である。もしあなたが、自分の作成した役員会用の資料の図表のデザインや文言のあれこれについて、小心な上司からあれこれ注文をつけられて、修正作業に1日半かかったら、10万円がすっ飛ぶ勘定である。またこれを1分あたりに換算すると、毎分125円である。ケータイの通話料なんかより、ずっと高い。貴方が誰かに自分の携帯を貸してあげて、相手が使った後もずっと回線をつなぎっぱなしだったら、かなり腹が立つだろう。だとしたら、自分が意味のない会議やら挨拶やらにずっとつきあわされたら、(たとえそれが自分の上司でも)抗議するべきなのだ。


いや、もっというと、秒単位に換算すると、1秒2円以上だ。ということは、お辞儀したらすぐ5円、あくびしてもすぐ5円が失われる。もし1円玉を床に落としても、かがんでそれを拾ったりしたら、もう10円がとこは使ってしまう。ということは、1円玉を落としても、拾ってはいけないということだ。


そんなのはエンジニアリング会社の特殊な事情さ、と貴方はおっしゃるだろうか? じつは、そうでもないのだ。人日や人月でプロジェクトを受注しているIT業界の人はよく知っているはずだが、人時7,500円はそれほど高い金額ではない。月160時間労働だとしても、人月120万円だ。この程度の単価をSEにたいして請求する企業はざらにある。


しかしその一方で、まったく逆の感覚をもつ組織も少なくない。それは、ホワイトカラーのマンパワー(マンナワー)に対して、何のコスト意識もない会社だ。つい最近、頼まれてある製造業で、プロジェクト・マネジメントに関する簡単なレクチャーをした。そこで例によって目的・ゴール・目標の定義や、プロジェクトCHARTER(憲章)の作成などを説明したのだが、いざプロジェクトの概略予算を書いてもらうと、その中に一切自社内の人時コストが含まれていないのだ。技術部門や企画部門の人間は、いくら使おうと、タダであるという感覚が身に染みついているらしい。


その会社は繰返し受注生産が中心の会社なので、技術部や企画部の人件費は「販売管理費」の中に入っている。だから、いくら使ってもタダだ(文句を言われない)という感覚になるらしい。まあ、個別受注生産でない限り、タイムシートで記録した作業時間を案件別に振り分けることなど困難だから、この会社のような感覚が蔓延するのも分からぬではない。


しかし、だとすると、なぜ製造現場では時間分析を執拗に実施して、労働者が半歩でも余計に歩く動作まで切り詰めたがるのかが、分からない。それも、今や現場の大半は派遣労働者で、たいして高い単価ではない。1秒切り詰めたって、1円にもなるまい。そのかたわら、大卒の技術者が本社で、上司に説明するパワーポイントの字体の大きさをめぐって1時間も2時間も残業しているのか。現場と比べてアンバランスではないか。


マンパワー(マンナワー)はお金である。だから、オフィスワークについても、出来高と、生産性を明確に定義して、測定できるようにする必要がある。いや、少なくとも、人時を浪費したら、それはお金の浪費であるという感覚を持つ必要がある。不況だ不況だといって仕入れ先や外注先をたたく前に、もっとやるべきことがあるはずなのである。



超入門・工程管理(3) スケジュールを実行可能にするための『7つの処方箋』
(2009/04/27)

それでは、オフィスワークを主体とする工程管理を「実行可能性」の尺度にのせるための、7つの処方箋について説明しましょう。


まず、(1)計数管理に乗せにくい、という問題に対処する2つの方法です。


処方箋A マイルストーンで追いかける


 数量ベースで進捗を測れないときは、マイルストーンで追いかける。これが工程管理の定石です。マイルストーンとは、スケジュール上の節目となるタイミングで、ふつうは最重要な経路(クリティカル・パス)上に置きます。受注設計生産の例でいえば、[設計レビューの通過]
[承認図の提出] [長納期部品の購買手配] [全部品の納入]といった時点が典型的なマイルストーンです。そして、これらマイルストーンの予定日と、実績日を対比して進捗を見ていくのです。

 

処方箋B 実績データを台帳化する


 ここでいう「実績データ」とは、もちろん工程(スケジュール)に関する実績です。中でも重要なのは納期実績ですね。実績データがあれば、少なくとも顧客要求納期が実行可能かどうかについて、考える手がかりができます。


 どこの企業でも、コストに関してはかなり細かな案件別実績データをとっています。しかし納期実績となると、急にあやしくなります。ひどい納期遅れの事例くらいは、関係者の記憶には残っているかもしれません。が、製品群別の納期遵守率や、季節別の納期遵守率となると、具体的にどうだったかさえ、集計されていないケースがほとんどです。


 さらにいえば、最終納品のタイミングのみならず、上記の各「マイルストーン」ごとに実績の着手日と完了日を記録し、どれくらいの作業期間が現実的だったのかをつねに参照できるようにすればベターでしょう。


次の二つの処方箋は、(2)外部に依存するプロセスが多い、という問題への対処法です。


処方箋C バックワード計画でスケジュール責任日(Required Date)を明確にする

 

 「バックワード計画」とは、納期から必要日数を逆算し、マイルストーンの予定日を決めていく計画手法です。引き算で考える、これがバックワード・スケジューリングです(なお、フォワード・スケジューリングはこの逆で、開始時点から必要日数を足し算して納期を決める方法です)。


 バックワードでスケジュールを決めた場合、各マイルストーンの予定日は、ぎりぎりの期限、すなわち、それが守れないと最終納期も遅れてしまう日を意味します。これを、後工程へのスケジュール責任日(Required Date)とよんでいます。後工程が前工程に対して必要(Require)する日だからです。これを最初の日程計画で明確にし、各部門で認識することが大事です。


 なお、この責任日を決める際に、しばしばやりがちなミスがあります。それは、所要期間を(“安全のために”)長めにとって、前倒しに決めてしまうことです。責任感の強い、真面目な組織ほどこうしてしまいがちです。しかし、このようなサバ読みがあちこちで挟まると、「結局少し遅れても大丈夫じゃないか」という風に皆が思い始めて、スケジュールの実行可能性が絵に描いた餅になってしまいます。本当に必要な正味(Net)の期間で、責任日を決める。決めたら、それを是非守る。これが大事です。


処方箋D プロアクティブな催促(Expediting)をする


 Expeditingという英語には、適切な日本語訳がありません(スケジューリングの分野では珍しくないことですが)。ここでは催促といっておきます。プロアクティブ(proactive)は“能動的に”ですが、こちらはカタカナ言葉として通用しはじめたね。受け身ではなく、自分から行動すること、問題が起きる前に事前に動くことです。受け身でない催促とは、着手日が近づいたら、事前に当事者に予告すること、また期日が近づいたら、リマインダーを出すことです。期日を過ぎてから、あわてて督促することは「プロアクティブな催促」とは言えません。

 

 とくに事前の予告は、製造部門や外注先・購買先に対して、準備のアクションをとってもらう点でとても有効です。ただし、この予告は正確でなければなりません。いいかげんな予告を次々出しては、後からすぐ変更したり取り消したりするようでは、だれも予告など信頼しなくなります。結果として、相手はリアクティブな「待ちの姿勢」になってしまうでしょう。実行可能な予告をして、それを守る。プロアクティブな行動は、他者をも能動的にするし、逆にリアクティブな行動は、他者を受動的な姿勢にしてしまう点に注意してください。


次の2つの処方箋は、(3)リワークのリスクがあることへの対処法です。


処方箋E フロート日数を活用する


 バックワード計画では、物流→出荷→検査→製造→部品調達→詳細設計→基本設計、と工程を逆にたどり、本当に必要な正味(Net)の期間で納期から逆算してスケジュール責任日を決めます。そのとき、基本設計開始日と正式受注日との間に少し余裕日数がある場合、これを「フロート日数」と呼びます(スケジューリング理論では、厳密にはクリティカル・パスとの関係で3種類のフロートが定義されているのですが、ここでは分かりやすいように簡単に定義しておきます)。

 

 でも、もし受注日と基本設計開始の間の余裕がゼロだったり、逆にマイナスだったら? --こういう質問をよく返されます。もし、フロート日数がマイナスなら、それは「受注したときから既に納期遅れが確定している」ということを意味しています。御社で、フロート日数がマイナスの案件がたくさんあり、しかも、そのほとんどをなんとか納期に間に合わせているとしたら、そのときはたぶん「必要な正味(Net)の期間」が正しくないのです。安全をとって、長めの日数が入っているはずです。

 

 設計の手戻りや、最終検査での修正作業などの可能性があると、その分の日数を「安全のため」「経験的に」とりこんで、多めの日数設定にしがちです。リワーク(手戻り)がないと仮定した正味の期間と、リワークを前提にした長めの期間との差を、「アロウアンスAllowance」といいます。各部門で日程にアロウアンスを抱え込みはじめると、結局、スケジュール全体の精度が落ちてきます。それだけでなく、個別部門のアロウアンス日数を合計すると、Netで計算したフロート日数より、ほぼ確実に長くなるのです。

 

 これを防ぐため、NetとAllowanceの区別を皆が意識することが大切です。さらに、正味スケジュールで得たフロート日数を、工程上のボトルネックとなる箇所に、固めて配置するのが秘訣です。Kさんの会社の場合がどこかは分かりませんが、客先承認図や最終検査などに、よくフロートが置かれます。


処方箋F Forecast Dateを共有する

 

 Forecast Date(見込日)とは、Plan(計画日)とActual(実績日)をつなぐ役割をもち、スケジューリングにおける中級テクニックの一つです。

 

 最初に実行可能な計画をたてたつもりでも、現実はいろいろな理由から、計画と乖離しがちです。計画からの乖離がおきると、下流工程部門は自分の仕事が実際にいつはじまるのか分からず、困ってしまいます。かといって、そのとき、あわてて計画を修正してしまうのは下手なやり方です。計画を現実に合わせ続けると、いつもふり返ってみたら現実とぴったりあった計画しか残りません。そうしたら、上記の処方箋Bは成り立ちませんね? 計画は計画としてできるだけ残し、事実と対比できるようにしておかないと、計画立案自体の改善につながりません。


 現実が計画から乖離しはじめた場合には、Forecast Date(見込日)が役に立ちます。現状から推定すると、着手/完了の日はいついつになるだろう、という予測値をForecast
Date(見込日)と呼びます。これを部門間で共有することで、下流部門も自分達なりの予定が立てられるようになるのです。


さて、最後の(4)複数の部門がかかわっている、という問題こそ、製造業では一番根の深い問題です。これに対する回答が、7番目の処方箋です。


処方箋G 設計部門がスケジュール・コントロールの責任を負う


 上述の処方箋A~Fに共通していることは、スケジュールのコントロールを担当する者が必要だ、ということです。それぞれの個別案件について、誰かがまとめて、受注から納品まで面倒を見る体制が望ましいのです。しかし、日本企業の縦割り組織が、しばしばその実現をはばむのも、ご承知の通りです。

 

 私は、受注設計生産の業態においてその任に一番ふさわしいのは設計部門ではないかと考えています。率直に言って、下流工程に位置する製造部門が、上流のプロセスを遠隔コントロールするのはけっこう難しいものです。かといって、営業や購買部門にそれを求めるのは無理でしょう。進捗管理という仕事は、ある程度、技術的なことがらについて理解や判断が求められるからです。

 

 そういうわけで私は、設計部門が、もう少し製造業におけるエンジニアリング・マネジメントの職能を確立し、その中で工程のスケジュール管理を進めることが望ましいと思っています。無論、これには権限の問題や、要員の向き不向き、組織論などさまざまな論点が絡みますので、どこにでも当てはまる解決ではないことは承知しています。しかし、適任の部署がいないということは、そういう機能や責任が不要である、ということを意味しません。むしろ、不況下で競争が厳しくなる今日において、より大きな意義が出てくると考えます。


Kさん。長々と書いてしまいましたが、もう一度くりかえします。工程管理で一番大切なことは、実行可能な計画を作って、それを守ること。守るとは、keepであり、protectであり、またcontrolでもあります。この7つの処方箋のうち、どれか一つか二つだけでも、与えられた2ヶ月という期間内に実行に移すのは、それなりの努力と全員の理解がいると思います。しかし、リードタイムのほとんどは待ち時間やムダ時間である、という事実を思い出してください。御社が、今後は納期を武器に、ぜひ受注を広げらていかれることを期待してやみません。



超入門・工程管理(2) オフィスワークの工程管理はなぜ難しいか
(2009/04/21)

Kさん。“工程管理で一番大切なことは、実行可能な計画を作って、それを守ることです”--こうご説明しても、そんな言葉は当たり前すぎて、何の役に立つんだ、と疑問を感じられたかと思います。


しかし私の見聞きしているかぎり、少なからぬ業界で、近年、これとは逆のことがしばしば起きてきたのです。つまり、実行不可能な納期を請け合ってしまって、守れなくなる。あるいは、たぶん最初は可能だったはずの納期が、他のオーダーの割り込み等で、どんどんずれていく。ひどいときには、そもそも出荷がいつになるか答えられない。昨年夏までの原材料インフレの時期は、こうしたことが頻発しました。秋以降、一転して不況になると、納期の見積はさすがに正常化してきましたが、今度は安値競争になって、設計も製造も外注に出す、という。こうなると、どうやって工程を守るのか、逆に心配になってきます。


「守る」とは、自分自身が努力して個別作業のスケジュールを守る(keep)ことだけではありません。外乱や飛び込みからスケジュール表を守る(protect)ことも含まれています。守らなければ、納期を確約できません。納期を確約できないと、心配性の営業や上役や顧客から、さらに外乱や飛び込みの依頼を招くことになるのです。


くりかえしますが、私がここで問題にしているのは、製造業におけるオフィスワークを主体とした工程の管理です。製造業では伝統的に、工程のボトルネックは製造現場にあると信じられてきました。これは見込生産や、一部の繰返し受注生産の企業では、いまだに正しいでしょう。製品の設計(仕様)がすでに決まっていて、同じ材料を買って繰り返し作る場合、工程管理の仕事はほぼ製造現場だけのスケジュールを見ていればすみます。


ですが、多くの受注生産企業では、自社工場の現場以外の部分でリードタイムの大部分を使ってしまっています。その理由は、顧客からの注文の個別性が高まったこと(これは「製品にいろいろなオプションをつけて差別化し、高付加価値にしたい」という方針)の生んだ結果です。また、御社で行われている海外子会社からの部品輸入や、製造委託や、詳細設計作業の外注など、受注から製造までのプロセスが社内外で細分化されてきた結果でもあります。つまり、設計・調達(個別調達)作業が入るかどうかで、工程管理の事情は大きく分かれるのです。


そして、こうしたオフィスワーク主体の工程では、たとえスケジュール計画を立てても、その実行可能性を簡単に保証できない、という問題が生じます。計画上の納期は3ヶ月後です、といっても、技術も営業も(そして顧客も)疑心暗鬼でいるのです。そこで、どうしても確認・連絡・調整のやりとりが多くなる。そうするとコミュニケーションに手間をとられて、なおさら遅れていく。悪循環ですね。


このように、計画の実行可能性を検証することが困難になる理由は、大きく4つあると私は考えています。まず第1に、オフィスワークのスケジュールは計数管理に乗せにくい、という問題があります。次に、受注設計生産では、外部のプロセスの比率が高い、という事情があります。第3の理由は、オフィスワークでは手戻りによるやり直し(リワーク)のリスクが無視できない、という点です。そして、第4は、そもそも工程が複数の部門をまたいで遂行されるため、全体像や責任の所在がわかりにくいことです。以下、これらについて検討してみましょう。


(1)スケジュールを計数管理に乗せにくい


製造現場ではスケジュールについて計数管理ができます。部品の数量や機械の加工速度などから、「時間を読む」ことがたやすいのです。しかし、オフィスワークの工程は計数化が簡単ではありません。やろうと思えばできなくはないのですが、きちんと計数化するためには、設計業務や調達業務にたいする案件別タイムシートの記録からはじまって、乗り越えねばならない条件がいろいろあります。なまじ中途半端に計数化しようとして、設計図面枚数や部品数などを数えても、あまり役に立ちません。というのは、スケジュール上重要なものとそうでないものの区別が厳然とあり、その進捗状況は、予算消化と違って、単純な足し算で比率を決められないからです。


(2)スケジュールを外部に依存するプロセスが多い


詳細設計や部品調達、製造の一部などを外注することは、製造業でかなり広く行われています。そして、いったん工程を外に出すとなると、その段階のスケジュールは固定されてしまって、自社内で吸収できる自由度が減ってしまいます。とくに、一番困るのが顧客承認のプロセスでしょう。個別受注生産では、製造に入る前に、設計図や仕様書を「顧客承認図」として提出し、OKをもらってから先に進むのが世界的な慣習です。でも、承認図を提出したからといって、即座にOKがでるケースはめったになくて、翌日か、5日後、あるいは10日後にようやくGOサインがでます。この「待ち」の期間が読めなくて困るわけです。


(3)手戻りによるやり直し(リワーク)のリスクがある


さて、承認図を提出してからOKが出るまでの間、ぼおっと腕を組んで待っている訳にもいきません。それだけの納期は与えられないのがふつうです。そこで、しかたなく承認されるという前提で、部品調達や製作図作成の作業に移ります。ところが10日後、急に客先からコメントがついてやり直しになり、それまでの作業がムダになる--こんな可能性がつねにあります。あるいは、正式受注前に、主要な長納期部品を先行手配することも、まま行われると思います。これらの行為は、納期を守ることを意図して行われるリスクテークですが、そのスケジュール上のリスクが無視し得ないのです。


(4)複数の部門がかかわっているためスケジュールの責任が不明確


そして、スケジュールの実行可能性を判定しにくい最大の原因が、これです。営業部門・設計部門・調達部門・製造部門・品管部門・物流部門・・・いくつもの部門をまたいで、受注生産は遂行されます。おそらく部門の所在地も本社と工場とでばらばらでしょう。月1、2回の工程調整会議のようなものは、Kさんの会社でも行われていると思いますが、とてもこれでは間に合いますまい。まして、納期が遅れそうになった場合に、どの案件を先に処理して、どれを遅らせるのか。その調整は誰がいつやるのか。日本企業では、ここが不明確になったまま進んでいきがちです。


Kさん。製造現場の生産性は、着手時に全てのモノと情報がそろえば、必ず上がります。しかし、これらが十分そろわないまま、製造フェーズになだれ込まざるを得ない状況が起こりがちです。そして、その責任は、なぜか最下流部門である製造に帰せられる。これこそ先日、本社に呼ばれて役員の方に文句を言われたとき感じられた「理不尽」の正体ではありませんか。


では、どうしたらいいのか。私はオフィスワークを主体とする工程管理を、「実行可能性」の尺度にのせるために、7つの処方箋を提案したいと思います。


(この項、再度続く


超入門・工程管理 (2009/04/14)

Kさん、ご返事が遅くなり申し訳ありません。それにしても、生産管理についてのお尋ねからはじまって、在庫管理、調達管理、そして今回の工程管理と、まるではかったかのごとく生産マネジメントの入門編解説が並ぶことになるとは、私も思いませんでした。最初のメールで「4文字漢語がならぶ章立ての入門書は、あまりおすすめする気になれません」と書いたにもかかわらず、自分がそうなってしまったのはお恥ずかしいかぎりです。


それにしても、面倒なご事情、拝察します。担当営業部長が工場に怒鳴り込んできただけではすまず、Kさんと上司までが本社に呼び出され、常務さんにたっぷり油を絞られて、“2ヶ月以内に工程管理の改善を確約”させられるという事態になったとのこと、まことにお気の毒です。それも、文面から拝見するかぎり、工場でいろいろなオーダーの納期が遅れ出荷が混乱したことの元々の原因は、アジアの海外子会社からまちがった仕様の部品が遅れて届いたことにありそうです。おまけに、その仕様を連絡したのは本社設計部で、資材部が先発手配をかけた理由は営業からの緊急依頼のため、となると、けっして製造現場だけが責めを負うべき立場にもないように思われます。


とはいえ、Kさんが自省しておっしゃるように、現場側が、どの加工部品はどの顧客向けオーダー用で、どこまで進んでいて、遅れると何に影響が出るのかを、もっとタイムリーに判断できていれば、トラブルは多少は緩和されたのでしょう。そういう意味で、今回の事件をきっかけとして、改善の糧としたいというお気持ちは立派だと思います。


さて。その問題の『工程管理』ですが、具体的には何を指していわれているのでしょうか? といいますのも、「工程管理」に対応する英語は、おおざっぱに言って次の2種類があるのです。


(1) Process Control/Shop Floor Control

(2) Scheduling & Progress Control


前者は主に、現場での運転や作業コントロールをリアルタイムに行うことで、プロセス生産や自働機械・装置もの主体の現場における話です。「工程」という言葉で製造ライン設備というモノをイメージしていただければわかりやすいでしょうか。ツールとしてはMES(製造実行システム)の守備範囲になります。


一方後者は、タイム・マネジメントを切り口にした製造作業の流れのコントロールです。「工程」という言葉は『工程表=ガントチャート』に表されるように、時間的な順序をさします。常務さんが即刻改善せよ、と命じられたのはどちらの方を指しておられるのか。文面だけでは判然としないのです。


なお、ある種のジョブショップでは、両者がほぼ同一の意味になることもあります。このように「工程」という日本語は多義語であり、曖昧さを避けるため私はなるべく使わないようにしています。ちなみに、前者も後者も英語ではControlである点にご注意ください。前に書きましたとおり、私は「管理」という曖昧な日本語もできるだけ使わないようにしています。ということで、自分からはめったに工程管理とはいわないのですが、テーマとして与えられた以上、いたしかたありません。ここでは、問題発生時の事情をくみ取り、後者のScheduling
& Progress Control
についてかくことにいたします。


では、まずはいつものように『そもそも論』から。工程管理の機能とは、理工学的に気どっていうと「生産システムの動的な適応制御」です。変化する市場環境に追随し、自己の状況と資源等の制約条件の中で、求められる生産のアウトプットを機敏にもたらすよう、生産システムを動かすことです。もうすこし分かりやすくかみくだいて表現すると、工程管理には三つの目的があります。第一は、納期を守る(あるいは短いリードタイムを実現する)こと、第二は、在庫(“できちゃった在庫”)や欠品を無くすことです。そして第三は、副次的な目的ですが、生産性を向上することです。


第三の目的については、すこし補足説明が必要かもしれません。生産性とは、投入した労働力あたりに産み出される付加価値のことです。が、どうしてこれが工程管理のおかげで上がるかというと、生産性を阻害する最大の要因が、手待ち・手戻り・余計な段取り、といったムダ時間にあるからです。「手待ち」は材料や図面がタイムリーに来ないこと、「手戻り」は作業に先行着手してしまった後からインプット情報がやってくること、「余計な段取り」は、Aという仕事をやりかけたらBをやれと指示されて生じる段取り替えで、すべて工程管理の失敗がもたらすムダです。こうしたムダは製造現場では目に見えて顕著ですが、じつは設計や調達においても、生産性を下げる大きな要因になっています。


目的が見えたら、目標も決めなければなりません。目的は理由や意図をあらわす言葉で、目標は達成の成否を測るモノサシですね。工程管理の目的が上記の三つである以上、目標は納期遵守率やリードタイム長さ、製造着手時の欠品率などで測るべきということになります。


では、工程管理のインプットとは何でしょうか。これは需要側情報(計画情報)と、供給側情報(進捗情報)の二種類が主なものです。前者は具体的には、進行中の基準生産計画(MPS)と、直近の需要(受注)変更情報です。MPSとは具体的にいうと、「どの製品を、いくつ、いつまでに作れ」という生産オーダーの集合で、ふつうは日別ないし旬別に生産数量(所要量)が並ぶ表になっています。月次生産会議などで決定されます。変更情報は、例のごとく、「明後日、急に100個持ってきてくれといわれた」とか「50個の注文がキャンセルになった」といった営業からのアトランダムな連絡です。


一方、進捗情報というのは、製造現場で今、何がどれだけ作られつつあるかのデータです。ふつう現場は製造オーダー(製造指図)で動いていますから、各作業区毎に、どの製造オーダーNo.は着手したとか完了したとか、指示量100個に対して97個しか良品ができなかった、といった報告が上がる仕組みになっているはずです。倉庫への入庫実績もその一部です。これらがきちんと正確に、しかも短時間内に上がってこないと、工程管理はレーダーも高度計もない飛行機を操縦しているようなもので、十分に機能しません。


では、工程管理のアウトプットは何か考えてみましょう。コントロールやマネジメントは自分ではモノを作り出しません。アウトプットは必ず「情報」になります。アウトプットその1は、生産計画よりも詳細な「生産スケジュール」ですね。作業区別・時系列での作業を示したものです。よくガントチャート形式で表現され、現場にはり出されたりします。それから、「製造オーダー」(製造指図)を現場に対して発行します。部品在庫の「出庫オーダー」も必要ですね。それから、調達部門への「購買オーダー」、外注作業区に対する「サービスオーダー」などがアウトプットです。すべてオーダー(指示情報)であることに注意してください。


工程管理のインプットやアウトプットの補助ツールとして、バーコードリーダやRFID、「かんばん」、そして紙の帳票などがあります。また、計画情報をもとに指示情報に展開するためのツールとして、MRPAPSなどのソフトウェアが利用できます。こうした製造作業のスケジュール立案については、「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法 」を読んでみてください。部品表(BOM)とか工順とかバックワードといった、知っておくべき事柄の解説がのっています。スケジューラ・ベンダーさんが新人の教育に使っているという話もききますので、くわしくお知りになりたい場合は役に立つと思います。


しかし。ここまでのお話は、製造現場に限った「工程管理」の話題でした。が、Kさんの会社のケースはむしろ、製造段階に入る前のオフィス部門をも含んだ、もっとスパンの長いタイム・マネジメントが求められているように思います。そして、この種の問題こそ、御社のみならず今日の日本の製造業に共通する悩みでしょう。なぜなら、自社の設計作業や、その設計結果にしたがった個別仕様品の調達がからむ場合は、製造部門だけではコントロールできなくなるからです。


その場合、オフィス部門をも含む工程管理で一番大切なことは、何でしょうか。それは、“実行可能な計画を作って、それを守ること”という一言なのです。(この項つづく



マネジメント、はじめの一歩
(2009/04/06)

半年ぶりに、また大先輩のR先生とお会いした。ある会合で一緒になった後、マネジメント論などを話しながらしばらく帰り道を同行させていただいた。


--R先生。結局、マネジメントって何なんでしょう。


「いきなりずいぶん短兵急な質問だな。どうした、会社でも首になりそうなのか。」


--いや、その点は今のところ、たぶんまだ大丈夫だと思いますが・・。この間、会社で若手に『生産管理入門』の講義をやったんです。その時に出た質問がずっと頭に引っかかっていまして。


「マネジメントとは何か、とでも聞かれたのかい。それでうろたえるとは君らしくないな。ぜんぜん講義になってないじゃないか。」


--そうじゃないんです。マネジメントとはPlan-Do-Seeのサイクルを回すことで、生産管理という仕事は、生産システムについてそれを行うことだ、と説明しました。あ、『生産システム』というのは、工場の人や機械やからなる生産の「仕組み」のことです。


「ふむ。多少異論はあるが、まあ、いい。それで?」


--“付加価値を生み出す直接作業を、サポートするための間接作業すべてが、生産管理である”という持論を、在庫コントロールや生産計画などの実例を挙げて説明したんです。そして、生産管理の価値とは、生産システムの効率性(付加価値生産性)や有効性(需要と供給の動的一致、端的には短リードタイム)といった性能向上に貢献することだ、とまとめました。つまり生産管理スタッフは製造現場をサポートするのが仕事で、命令する役割ではない、と。


「たしかに、そのとおりだ。」


--そうしたら、後輩から、こう質問されたんです。“現場の労働が付加価値生産性で測れることは分かりました。では、マネジメントの生産性は、どう測るんですか?”


「いい質問だ! それで、どう答えたね、講師の先生。」


--そこなんです。問題は。“マネジメントの機能は効率性向上や動的適応であって、直接のプロダクトはないのだから生産性は測れない”と答えたんですが、自分でも納得しきれないんです。


「私も納得できんな、そんな回答じゃ。だとしたら、マネジメントに上手も下手も無いってことになる。『測れないものは改善できない』という金言を教えたろ? 君は、マネジメント自体は改善できないものだ、と言っているに等しい。君の仕事はPMOじゃなかったのか。」


--そうなんです。だとしたら、プロジェクト・マネジメントの向上という、自分自身の仕事は意味がないことになってしまいます。


「何ともお粗末なPMOだな。首になる心配をするのも無理はないか(笑い)」


--冗談じゃないですよ。でも、それ以来、この問題が頭を離れません。生産性とはアウトプットを投入量(マンパワー)で割ったものです。マネジメントの価値が分かれば、その生産性も評価できます。では、マネジメントの価値とはいったい何か。


「君が中間管理職になるとき、何も教わらなかったのかね。マネジメントの、はじめの一歩を。」


--研修は、ありました。でも問題解決学やリーダーシップ論みたいな研修で、面白かった記憶はありますが、マネジメントの根本説明は、なかったように思います。Plan-Do-Seeのマネジメント・サイクルというのは、後になって中小企業診断士として勉強した言葉です。


「君はたしか設計部門育ちだったと思うが、すると設計の問題解決は学んだが、マネジメントとは何かを知らずに、管理職になったわけだ。じゃあ一つたずねるが、チーフ・デザイナーとマネージャーは、何がちがうと思うかね。」


--私の業界じゃ『リード・エンジニア』という言い方をするんですが、とにかくまあ、デザイナーは設計プロダクトを作ります。固有技術のチャンピオンですね。一方、プロマネは管理技術のプロです。


「そんな言いかえは答えになっとらん。じゃあ、野球チームのキャプテンと監督の違いは? リーダーシップが要るのはどちらだ。」


--ははあ・・キャプテンは自分でプレイをしています。監督はマネジメントしているだけですね。リーダーシップは、・・キャプテンの側かな?


「いいかね、マネジメントとは自分で球を投げたり打ったりすることじゃない。監督はピッチャーより速い球を投げられるか? ちがう。マネジメントとは、“人にやってもらうよう仕向けること”なのだ。だから、チーフ・デザイナーは、自分でエスキースを描いている間は、全然マネジメントなんかしてないことになる。なのに、ちょっと経験年数がたったからといって何の訓練も与えずにデザイナーを課長に任命して、それでマネジメントができると思っている。人を動かすすべを何か学んだのか? プレイイング・マネージャーしか知らない企業が日本には多すぎるのだよ。だからみな変化に弱いのだ。」


--うーん。でも、マネジメントって、管理職になって人を動かすことなのですか?


「馬鹿言いなさい。管理職という地位は、手段に過ぎん。人を動かすという目的を達成するための、手段にな。手段を目的と取り違えてはいかん。君の会社はマトリクス型組織だから、プロマネはチーム・メンバーの上司ではないだろう?」


--上司では、ありませんね。


「上司は部下を動かす際に『強制力』をもっている。人事考課の権限があるからな。しかし上司でない場合、マネジメントにおいては『影響力』を使うしかない。これを別名、リーダーシップという。リーダーシップというのは、基本的に同格の人間たちの中で、誰かが他者を率いるときに使う言葉だ。民主的なコミュニティの世界での用語だ。上司と部下は同格か? 監督と選手は同格かな? だからキャプテンにふさわしい言葉なんだ。」


--うーん、そうなんですかねえ・・。少し前、アメリカでエンジン故障に見舞われた航空機がハドソン川に不時着水した事件がありましたが、あのとき機長はリーダーシップを賞賛されました。あれはどうですか?


「乗客は機長の部下かね? 対等だろう、欧米の感覚じゃ。そして、急な環境変化において見事にそれを乗り切った。通常の飛行では、機長のリーダーシップなんて必要にならない。マネジメントが価値を生むのは、急に対処すべき事態が起こったときなのだ。」


--つまり、マネジメントというのは、平常時には価値はない、ということですか?


「正しくは、マネジメントはリスク回避とチャンスをとらえる局面において最大の価値を発揮する、というべきだろう。だから、マネジメントの価値は、ある意味、『マネジメントが無かった場合どうなっていたか』という比較でしか測れない。ためしに、無能なマネジメントとはどんなものだか挙げてみなさい。」


--気づかない、決めない、見通せない、伝えない、学ばない・・・ですか。みんな否定形で、何かの不在ですね。たしかに。


「そうだろう? マネジメントというのは、何の変化もない時期には、むしろ余計なお荷物なのだ。ただ、変わりやすい環境ではとても大事になる。ちょうど哺乳動物にとってののようなものだ。そして図体に比べて脳が小さすぎる恐竜は、気候変動で滅びた。」


R先生は、まだ花見には寒すぎる夜の都会の風景にむけて手を広げ、こういわれた。


「この激変の時代に、我々の社会を幸せにするのも不幸にするのも、マネジメントのあり方しだいなのだよ。」


パーキンソンの法則、またはマンパワーはなぜ見積を超過するのか
(2009/03/30)

アメリカのハイテク企業を風刺した連載マンガ"Dilbert"に数ヶ月前、こんな話があった。主人公をはじめとするエンジニアが1,000人、広いオフィスにかり出される。全員、同じプロジェクトに配属されるのだが、彼らに与えられた最初のインストラクションは何と、本日5時に業務が完了したらどこにPCを返却するかについての指示だった。プロジェクトの開発工数が1,000人日かかると聞いた無能な上司が、「それなら1,000人でかかれば1日で完了するはずだ」と皆をかり出した結果である・・。


我々はよく、人日とか人月といった単位を使う。これは原価管理や顧客への請求には有用だが、仕事においては「4人×1ヶ月=1人×4ヶ月」でないことは誰でも知っている。こういう計算が成り立つのは、力仕事の場合だけ(たとえば煉瓦を積むとか配管を溶接するとか)であって、こうした力仕事では以前紹介したBOQの概念を用いて、

 作業期間=BOQ÷(投入人数×生産性)

で算定できる。こうした計算が成り立つのは、力仕事というものが、基本的に非常に並列性が高いからである。


ところが、オフィスで行われる知的な仕事のほとんどは、こうはいかない。たとえば自分一人ではアップアップの仕事があったとして、それを誰か後輩に手伝ってもらう場合でも、まずその後輩に仕事のインストラクションをしなければならないし、材料やツールもまとめて手渡さなければならないし、質問に答えたり整合性をとったり進捗をたずねたりした上に、出来上がったものを自分でも再チェックしなければならない。こうして、自分が楽になるのはせいぜい3割程度であって、1人月分の仕事を二人でやると合計1.5人月はゆうにかかる、という状態になる。


たいていのプロジェクトでは、力仕事は後半にかたまっており、前半は設計などの知的作業が中心になる。そして期間推定や工数見積で相対的なブレが大きいのは、前半の知的作業の方だ。ここでマンパワーが見積をオーバーし進捗が遅れた場合、挽回するのは容易なワザではない。追加人員を投入しても、水を吸い込む砂地のようになぜか吸収してしまうからだ。皆が忙しい。でも、仕事はちっとも前に進まない--どうしてそういう状態が生じがちなのか。ラーニング・カーブやコミュニケーションにかかる時間のせいだ、というのは一つの説明ではある。しかし、もう一つ有力な説がある。それが「パーキンソンの法則」である。


「パーキンソンの法則」は、イギリスの政治史学者C・N・パーキンソンが1957年にロンドン・エコノミスト誌に発表した短い論文で提起された法則で、“公務員はなぜ増えるのか”という問題に対する答えであった。周知の通り20世紀前半とは、大英帝国が次々と植民地を失っていく時代だった。にもかかわらず、植民地省の人員は、なぜか1935年から54年までの20年間に、3倍以上にふくれあがった。同様に、列強の軍縮交渉で戦力を減少させざるを得なかった海軍省は、役人の数だけはかえって増えていく。


パーキンソンはこの事実を分析して、「なされなければならない仕事の量と、それに割り当てられるべき人員数との間には、ほとんど関係がない」と結論し、「役人の数というのは、仕事の量とは関係無しに、一定の割合(年率5-7%)で増え続けていく」という『パーキンソンの法則』をうち立てる。その理由として彼があげるのは、(1)役人は部下を増やすことを好む、(2)役人はお互いのために仕事をつくり合う、という性質である。


パーキンソンの法則における「役人」は、一般企業では「ホワイトカラー」と読み替えることも可能である。そして事実、たいていの企業では本社機構はどんどん肥大化していく。知的作業の時間の多くがコミュニケーションにあてられているのは事実であるが、それはつまり、「気づき」や「お知らせ」や「折り合い」といった、お互いのためにつくり合っている時間であって、結果としては美しいPowerPointの画像だとか、慇懃無礼すれすれの挨拶メールだとかが生まれるだけである。


受託開発のようなITプロジェクトにおいても、顧客側はたいてい複数のユーザ部門と情報部門が関与するマルチ・ファンクショナルな体制になっていて、その間は見合いの状態になっていることが多い。誰もが何かをいいたくて、でも誰もが責任をとりたくなくて、おかげで受託企業の側が客先の社内調整をやるハメになったりする。会社に戻れば心配性の上司やPMOからレポートを要求される。これではマンパワーがいくらあっても足りるわけがない。


「命ぜられた仕事をしあげる場合、時間はいくらあっても余るということはない」と、パーキンソンは指摘する。それはコミュニケーションに完璧ということがないためであり、またオフィスワークにおけるコミュニケーションが実際には一種の感情的パワーバランスに費やされているためでもある。製造現場のワークフォースを切っている暇があったら、本社で互いに「情報」をつくり合うだけの人たちの数をなんとかしたらいいと思うのだが、いかがだろうか?


お見積りは無料です (2009/02/22)

最近、電車に乗っていると、ときどき壁面上部の広告欄に空きスペースを見かけるようになった。さすがに、つり革広告はまだフルに使われているようだが、少しずつ車内広告の量が減少しているらしい。テレビ局や雑誌社も広告収入の減少で青息吐息の状態だ。


情報というものが無料で手に入る、と広く信じられるようになったのは、20世紀後半のことかもしれない。それまでは、本だろうが新聞だろうが、一応の対価を払って手に入れていた。それが、ラジオが普及し、さらにテレビが後を追って、受信料を取るNHKをのぞく民放はすべて無料で番組を提供する時代になった。これは広告という新しい産業のおかげである。私は子供の頃、テレビが家にきたのをかろうじて覚えている世代に属するが、おそらく40代以下の人たちは、生まれたときから家にTVがあって、無償でさまざまな情報が送られてくるのを、空気を呼吸するのと同じ感覚で受け止めているにちがいない。


この状況はさらにインターネットの普及で加速し、いまやYahoo!やらYouTubeやらで無料で手に入れられない情報はないかのごとく、信じている人も多い。通信にはお金がかかるが情報はほとんどタダだ、そう思って暮らしているようである。


ところで、この無料の情報は基本的に、送り手側が自分で発信したいと思っている情報だ。生産マネジメントの世界の用語でいえば、「プロダクト・アウト」の種類に属する。いわば「見込生産」によって供給されている代物である。いや、この事情は、有料の情報としての、書籍や学校教育などにおいても同じだ。


では、「プロダクト・アウト」の反対に位置づけられる「マーケット・イン」の情報とは何か? 受け手側が主体的に求める「受注生産」的な情報とは何だろうか。検索サイトにアクセスして検索窓にキーワードを打ち込む行為は「マーケット・イン」を思わせるかもしれないが、検索結果として出てくるのは、「見込生産」された情報だけである。それは見込生産品のカタログを開いてページをめくっているのと何も変わりはない。


受け手側がきっかけをつくってリクエストし、その受け手にとって必要なテイラーメードな情報を作ってくれる、受注生産的な情報サービスとは何か。じつは、皆が仕事の上でよく知っている行為が、その代表格の一つである。それは『見積』と呼ばれる行為だ。


あなたが仕事上で何かを注文しようとしたら、たぶん販売店の営業マンを呼びつけ、見積書を作らせるだろう。営業マンの方は、あなたが何を欲しいのかを聞き出し、自分の供給可能な商品の構成を考えて、機能や仕様や数量をきめ、価格をつけて提出してくる。買いたいものが複雑で金額がかさばるほど、提出される見積書もページ数が増え、カタログや説明書や図面が添付されて、微に入り細をうがった情報が出てくるはずである。いや、たとえそれがペラ1枚の見積書であっても、そこにぴったりの品目名が書かれていれば、それがあなたの求めていた情報なのである。


そして、つねに「お見積もりは無料」である。見積作業が営業行為の一環である以上、それは当然のことだと、みな思うのだろう。


ところで、話はちょっとずれるが、日本の販売管理費比率が高いことについて、私はかねがね疑問に思っていた。例えば総合小売業のイオンの売上高販売管理費比率は33.2%で、売上高の実に3分の1を販売管理費が占めている。イトーヨーカ堂も同様に35.0%と高く、ファーストリテイリングも29.2%である(いずれも2005年の数値)。しかし世界最大の小売業・米国ウォルマート・ストアーズの場合は17.9%と、日本企業に比べてずっと低コスト体質である。


製造業を見ても、「日米欧アジア機械産業の国際競争力の現状」(日本機械輸出組合)
2007年版は、我が国の機械関係企業群の国際競争力低下の問題を分析して、「企業の売上高に占める販売管理費比率が高いこと」をその大きな要因としてあげている。どうやら、販売管理費は日本の多くの産業で高いらしい。そのことは、同業者相手の比較や、国内水準での比較では気づかないが、国際比較をすると見えてくる事象のようだ。


見積作業とは何か。このことは以前、『モノを買うのか、機能を買うのか』(「考えるヒント」 2005/07/21)にも書いたことだが、買い手の欲する機能と、売り手の供給できるモノとのマッピング作業である。ニーズが単純なら、売り手は自分の商品カタログから選べばよい。しかし、もし買い手の必要とするものがシステム的な複雑さをもつものだったら、そこには当然、要求分析と基本設計という作業が必要になる。つまり、見積という名前の無償基本設計が要求されるのだ。そして、この基本設計こそ、実は買い手にとって最も価値のある部分ではないのか。


無償で行った基本設計の費用は、誰が負担するのだろうか。それは、一応、販売管理費として、売り手側が持つ。しかし、結局それは、見積の原価構成におけるオーバーヘッドとして、一定の比率で売値にかかってくる。つまり、最終的には買い手がそれを払っているのである。この事情は、以前『高い買い物をする方法』(「タイム・コンサルタントの日誌から」
2007/10/23)にも書いたとおりだ。


見積費用は販売代金の形で回収できる。しかし、無料で提出した基本設計上のアイデアは、誰のものだろうか。それはどのようにして本来もつ価値を回収できるのだろうか。私たちの産業では、あまりに「お見積もりは無償」の原則によりかかって、無料のサービス仕事が多すぎる。知的所有権の議論の一つに、「コモンズ」という概念があるが、これは共同入会地のようなもので、誰もが自由に無償に利用できる知的財産のことを指す。しかし今日の状況はコモンズなんてすでに通りこしていて、草刈り場で搾取したい放題なのではないだろうか。それは結局、アイデアと言う豊穣な場所を枯らしてしまうのではないか。


見積が無償なのは、むろん日本だけのことではない。しかし、私は海外で、ある欧米系石油メジャーに対する見積業務に従事していたときの経験を覚えている。案件は競争入札だった。大型プラントの見積作業は、それ自体が億の単位の費用を要する。ところで、その顧客は、応札者に対して、「入札要求仕様書(基本設計書)のベリフィケーション費用」という名目で、かなりの金額を支払う約束をした。


それだけではない。経済状況の乱変動に伴って、見積期間中に顧客の要求事項もあれこれと変化して、ついていくのがひどく大変な状況になった。すると、入札締切の直前に、顧客はベリフィケーション費用を50%増額する、と宣言し、そのとおり実行したのだ。この時以来、見積はいつでも無料であるべしという感覚が、自分の中から抜け落ちてしまった。


さて、それではどうしたら良いのか。まさか明日から見積に対価を支払う、というわけにもいくまい。そんな予算は会社がつけてくれないにきまっている。そして、無料で見積もりを要求する。売り手はそれにつき合って無償の設計作業をするから、販売管理費比率が高くなる。費用がどこも高くなるから、ますます合い見積が増える・・という悪循環だ。私たちは、無償作業によりかかった、高コスト体質のまま生き続けるしかないのだろうか。


答えははっきりしている。買い手が、自分自身をレベルアップするしかないのだ。まず、見積を依頼する前に、自問すべきだろう。物品を買うのか、機能を買うのか。もし機能を買いたいのなら、実現方法のアイデアは誰のものなのか自覚すべきだ。


そして、機能を買うのなら、買うモノはブラックボックスで良いはずだ。提案されたシステムの内部構成について、詳細な情報を要求するのはまちがっている。もし内部構造も明らかにされたホワイトボックスを買いたければ、自分で構造と仕様を指定できなければならない。それはつまり、自分自身で自分の要求分析をできる力を持て、ということなのでである。


採算をとる、とはどういうことか
(2009/01/22)

画期的な発明をした。自動車に取り付けると周囲の車の距離と速度を測定し、安全な方向と速度を割り出して自動運転してくれる制御装置だ。カーナビと組み合わせれば、運転中に熟睡していても目的地に到達できるだろう。ドライブと睡眠不足解消を同時に楽しめる。ぜひ商品化して製造したい。ヒットすれば億万長者も夢ではあるまい。


かんじんの製品価格だが、1台20万円というところでどうだろうか。必要な原材料・部品代は、ちょっと見積もってみたら10万円程度で済みそうだ。ただし、この製品を作る製造装置だが、どう考えても100万円くらいかかる。まあ貯金をはたけば無理して買えない金額でもないと思う。置き場所はとりあえず車庫にしよう。文字通りガレージ・カンパニーの誕生である。


さて、意気込んで事業をはじめたが、世界初の商品というものは、なかなか売るのが簡単ではない。知り合いの売込み先3人に断られ、4人目のトラック会社社長にコンタクトしようというときになって、これはやはり設定価格が高すぎたかな、と思いはじめた。でも、いくらが適当なのだろうか。それを決めるためには、少なくともこの製品の原価を考えなくてはならない。


製造機械は大枚はたいて買ったものだが、寿命は2年くらいか。月あたりに直すとほぼ4万円だ。それに人件費。いくら社長兼開発製造部長だといっても、霞を食って生きてはいけない。光熱費を含めて月20万は必要だ。とすると、月に24万円はかかることになる。月産4台のペースなら、1台あたり6万円である。材料費との合計は10+6=16万円だ。2割以上値引きしたら、赤字になる。そう計算して商談にのぞんだ。


交渉は厳しかったが、何とか成約にこぎつけた。価格は17万円。15%の出精値引である。ようやく1台売れると、はずみがついたのか、2・3台目も売れた。同じ価格での販売だ。これで新会社の最初のひと月が終わった。わずか3万円だが黒字の筈である。


ところが、よく考えて見るとたいへんな思い違いをしていたことに気がついた。今月の販売台数は3台。売上高は51万円。ここから部品代30万、製造機械の原価消却費4万円、自分の人件費20万を差し引いたら3万円の赤字ではないか! 1台あたり1万円の赤字である。ということは、1台18万円で売らねばならなかったのだ。どうしてこんな違いが生じたのか?


むろん、頭の良い方はおわかりだろう。私は月産4台で製造機械や人件費の原価を計算していた。それが3台しか売れなかった。ということは、24÷3=8万円の原価が賃率として各製品にチャージされてしまう。これが実際原価である。一方、私は4台作れるベースで標準原価を計算していた。この、標準原価と実際原価の差異を、原価差額という。別のいい方をすると、月4台分生産の見込みが3台だった。その1台分の「不稼動損」が6万円、という見方にもなる。


さて、次の商談にはいくらで臨むべきか。18万円が現実の製造単価なのだ。ということは、1割引が譲れぬ線になる。その心がまえで進めたら、破談になってしまった。相手は15万ならいくつか買っても良いという。15万! これでは、作るだけ赤字が増えてしまう。とてもやっていけない。翌月は売上ゼロだった。


しかし、3ヶ月目、頭を冷やしてゆっくり考えて見たら、別の知恵が出てきた。不稼動損が出たということは、稼動率を上げれば逆に原価が下がることを意味しているではないか。たとえば、頑張って今の2倍、月産6台作れば、1台あたりの原価は10+24÷6=14万円に下がる。とはいえ、販売をやりながら月6台生産するのは無理だ。セールスマンをもう一人雇うしかない。ただし、かれの取り分は成功報酬で売上の2割とする。20万円の定価販売なら4万円だ。それでも製造原価14万なら、2万円は利益が出る。


セールスマンはそれなりに頑張ったが、翌月売れたのは18万円で4台・計72万円だった。原価16万円に販売費用3.6万をたしたら、まだ1台あたり1.6万の赤字である。もっと売上を上げないと利益が出ない。そういってセールスマンにはっぱをかけたら、彼は意外な動きをはじめた。中国から模造品(あきれたことに、もう出現した)を輸入して売りはじめたのだ。仕入価格8万円。それでも「社長のガレージ工場で作るよりずっと安いじゃないですか」と指摘されると、反論できない。彼はそれを15万で売りさばいた。2割のコミッションを引いて、社長である自分にも15-3-8=4万円残る。月6台うれたので24万円の見入りだ。やっと赤字から脱出しトントンまできたので私はほっとした。顧客から、次々「すぐ壊れた」と品質クレームをつきつけられるまでは・・・


この話、どこがおかしいのかおわかりだろうか? いまや私の会社は月間売上90万円だが、手元には24万円入るだけだ。もし私が2ヶ月目に、“15万なら買おう”といった客に自社製品を売っていたら、どうか。3台売ったら45-30=15万、4台売れたら60-40=20万、手元に残ったはずだ。それどころか、もし5台売れた場合、75-50=25万が入って、今より良いではないか。なのに、現実は赤字を恐れて値を下げなかったため、一銭も入らなかった。


もともと最初に投資した製造機械はもう支払ってしまったお金、「埋没コスト」である。また、私の生活費は、仕事があろうと無かろうと、減らせない固定費なのである。だから、実入りがゼロ円より、実入り15万円や20万円の方が良いに決まっているではないか。つまり、固定費を、「売上-原材料費」の分で少しずつでも回収していくしかない。それなのに、固定費を1台あたりの標準単価に割り振って、変動費のように扱うから話がおかしくなる。「赤字だから受注しない」などという逆立ちした判断が出てくるのだ。そんなのは、仕事が有り余って選択受注できる贅沢なときの判断だ。


この例は単純だから、おかしいことは皆すぐ分かる。しかし、現実の話になると急に惑わされる人が増えてしまう。「わが社の人月単価は150万円だから、それ以下の仕事は受注すると赤字になる」だとか、「あの材料は円安時代に50万円で海外から仕入れた物だから、50万以下で売ったら損になる」などなど。おかしいことはおわかりだろう。仕事が全く無いよりも、人月100万円でも収入がある方が良い。材料を在庫したまま腐らせておくより、40万円であっても買ってくれる客をみつけて、少しでも回収した方が良い。


「売上-原材料費」のことを、製造業の「付加価値」と呼ぶ。付加価値の計算には、人件費も減価償却費も入っていないことに注意してほしい。そして、製造業において採算をとるとは、すなわち付加価値合計が固定費を上回る状態に持っていくことを指す。私の会社の例では、たとえ同じ15万円の販売価格でも、内製すれば付加価値は5万円だったものが、中国調達したら付加価値は4万円になってしまう。優劣は明白だろう。


それなのに判断を間違えるのは、「付加価値額」ではなく「売上」だとか「単価」だとか「稼働率」などの代替指標を用いるからである。受注戦略を立てるときは、「付加価値額」対「固定費」で見ていく方が単純で、間違えない。今のような不況の時代では、なおさらなのである。



超入門・調達管理 (2009/01/14)

Kさん。そろそろまたメールをいただくころではないかと思っていたところ、やっぱりでしたね(笑)。最初が生産管理,次が在庫問題で、今度は資材ときましたか。工場に赴任された後、景気の雲行きがあやしくなって在庫に目がいき、さらに不況だから資材コストダウンと、まさに定石通り取り組まれているようですね。おかげで私の側も「超入門」シリーズがホームページに自動的に展開できそうで、まことにおそれいります。


さて冗談はさておき、ご質問は「資材業務の改善」というテーマなのに、私が勝手に「調達管理」という風に言葉を置き換えたのには、理由があります。およそどんな問題でも、まず正しい言葉と概念規定から出発しないと、伝わっていくうちにどんどん混乱していくからです。


Kさんが「資材」という用語で指しておられる業務は、文面を拝見するかぎり、購買の仕事のように思われます。どう違うの?とお感じかもしれませんが、英語にすれば前者はRaw
Material
で、後者はPurchasing、全然違います。おそらく御社では『資材課』という部署が購買の仕事をしているから,最初のご質問だったのでしょう。ですが、資材にまつわる仕事には、購買手配からはじまって、受入れ・検品・入庫・現品管理・出庫供給などの広がりがあります。たまたま御社は購買機能のみが資材課の仕事で、あとは他部門の分担という事情のようですが、その範囲は会社によってずいぶん違います。


用語の話を、もう少しだけ続けさせてください。購買と調達はちがう、という話です。何が違うのかって? 調達(Produrement)は購買より広い概念なのです。購買は、簡単に言うと、発注書(購買オーダーPurchase Order)を切るまでの仕事です。調達とは、購買オーダーが完遂されるまで(納品検収まで)をずっと追いかける仕事です。注文してから先にまだ仕事なんかあるのか、と疑問にお思いでしょうか。ですが、ときにはこちらの方が重要な場合があるのです。


私は何年か前、米国大手のERPベンダーの開発責任者と、向こうの本社で激論した経験があるのですが、どうも多くのエンジニアやIT専門家は、調達という業務を、まるでAmazon.comで本か何かをクリックするだけのように無邪気に思っているようですね。そして価格競争は逆オークションでやればいい、あとは寝て待てば宅配便で品物が届くと信じている。とんでもない話です。なぜなら、上手な調達のためには、調達先の業務プロセスをよく知る必要があるからです。


もっと具体的におたずねしましょう。一般に、工場の生産形態が4種類あることは、ご存じですね。それでは、Kさんのところで問題となっている購買品について、調達先はその品目を「見込生産」「受注組立生産」「繰返し受注生産」「個別受注生産」のどの形態でつくっているのか、ご存じですか? 


Amazon.comに代表されるカタログ品は、見込生産でつくられるものがほとんどです。本やCDなどはその典型ですね。逆に言うと、カタログ・ショッピングが可能なものは、見込生産品だということになります。見込生産品とは、作り手側が商品を設計します。Kさんの工場の用途に合うかどうかは、御社の方で判断しなければなりません。


そのかわり、見込生産品は、売り手による値段の比較が容易です。だから逆オークションや、価格ドットコムのような情報サイトが成立しうるのです。


受注組立生産品とは、Dell Computerに代表されるような、オプション仕様の組合せで買い手が自由に作っていくタイプの商品です。自動車なども、ベースモデルは決まっていますが、多種多様なオプションを選べるようになっている点で、このカテゴリーに近いですね。なお、ここで、見込生産品よりも購買の「自由度」がちょっぴり上がったことにご注意ください。そのかわり、値段の比較はやや単純ではなくなります。


繰返し受注生産の品目とは、機械部品や電子部品などに多く見られる種類のもので、基本的には買い手側の設計仕様で、注文に応じて繰り返し作られるものです。Kさんの工場で必要とする特定部品ですから、仕様の面では思い切りわがままがききます。ただし、売り手との関係は固定的で限られています。値段を比較したかったら、いくつかのサプライヤーに対して、御社の仕様を公開し、競争させる必要があります。また、発注リードタイムはカタログ品などより当然長くなりますので、納期確認を発注後もつづけるのが望ましいでしょう。さらに、納品されたものの品質が要望に添っているか、ご自身で検査する必要があります。


4番目が個別受注生産の品目です。これは、サプライヤーに新規設計からさせるような品目で、産業機械や建築設備機器などがあたります。私の勤務先のようなエンジニアリング会社は、ほとんどの購買品目がこれです。情報システムの発注などもこの部類ですね。相手側に設計をさせるわけですから、発注までも発注後もエンジニアが購買担当者と二人三脚で仕事を進める必要があります。相手先の工程管理も品質検査も輸送手段もケアしていかないと、思い通りの品物が希望する納期に入らなくなるかもしれません。


おわかりでしょうか。仕様面での自由度が上がれば上がるほど、納期も延びるし、調達の手間もかかり、価格のネゴもむずかしくなっていきます。無理に値切れば、品質・納期が犠牲になりかねません。ここを改善するためには、相手の業務プロセスを理解し、事前にさまざまな情報を開示しながら、相手が動きやすいように誘導してやる必要があります。


いいかえるならば、調達の目的は、自社の生産の要求仕様にかなったマテリアルやサービスを、予算の範囲内で、円滑に滞りなく供給できるよう、サプライヤーをしむけることにあります。品質も、価格も、納期も、調達先の生産システムの働きによって決まります。すなわち調達とは、サプライヤーが適切に生産管理できるよう、サポートする仕事なのです。調達が奥の深い業務である、というのはこのためです。


Kさん。ご質問の中には、調達組織の件がありましたね。集中購買がいいのか、工場ごとに分散購買がいいのか。多くの人は、「集中購買がいいはずだ、たくさん買えば安くなるはずだから」と安易に考えがちです。しかし、私が単純にその意見に同意しがたいのは、上記のような検討の視点が欠けているからです。


最後に、あえて聞きにくいご質問をさせていただきます。御社では、調達の担当者は何で評価されるのでしょうか。まさか、コストダウンだけではないですよね。上に書いたように、コストと品質と納期にはトレードオフがあるのです。


それと、そもそも調達という仕事は積極的に評価されているのでしょうか。つまり、出世して、役員になったりする可能性はありますか、というご質問なのですが。もし、調達の部門が会社の中であまり高い位置づけでないとすると、人のモチベーションも上がらない可能性がありませんか。そこを変えずに、「改革・改善」だけを押しつけて組織いじりをしても、あまり効果は期待できないかもしれません。御社が、そのような通り一遍のご判断をなさる会社でないことを、祈念しております。



一年の計は? (2009/01/08)

2009年の仕事のサイクルが今週からまた、はじまった。それにしても1年前と何というビジネス・シーンの違いだろう。年初にあいさつしたベテランのプロマネは、ある自動車会社トップの昨年初と昨年末の発言の比較映像をTVで見て、同じ人とは思えない、と驚いていた。似たようなことは、エコノミスト達の発言にも感じられる。予測が当たらなくてもとくに給料に影響がないのがエコノミストという職業らしいが、たまには1年後の株や為替の予想について採点帳でもつくったらいいと思う。何が起こるか分からないのが実社会なのに、この人達はいつも自信を持って未来を予測したがる。


一年の計は元旦にあり、という諺は誰でも知っている。しかし、この『』が計画の計をさしていることは、案外忘れられているようだ。今年一年間の計画を年初に立てよ。希望を持って計画的に生きろ。--そう、この諺は言っている。ところで、そのかんじんの計画とは、どういうものだろうか? 前にも書いたが、私は計画立案という行為を、次の式で表している:


計画=予測+意志決定


計画とは、現時点から見てこの先どうなるか、という予測をまず行い、その上でいくつかの可能性や選択肢を評価して決断を下す仕事である。計画立案には、必然的に予測という行為がつきまとう。見積とか推定と言ってもいい。来月この製品の需要が増えそうだ、とか、あの分量の検査をこなすにはこれだけの人数と期間が必要だろう、といった予測があって、だから素材は来週手配しておこう、あるいはテストツールはこれだけ用意しよう、といった決定が定量的に行われる。「定量的に」というところがミソで、そこが抜けてしまうと願望もしくはスローガンになってしまう(“できるだけ頑張ろう”)。これが計画という作業の本質である。


そして、達成すべきことが決まったら、(1)必要なタスクを洗い出し、(2)タイムテーブルを作成し、(3)リソースを割り当てる、というスケジューリングの定石ルーチンに持ち込めばよい。ここまでは、従来からある生産管理とかプロジェクト・コントロールの世界の話である。


ところが、昨今は計画の背後にある目標設定自体が揺らいできている。先が見えない状況の中で、皆が自信喪失状態になり、少なくとも去年までの延長線上では無効だと感じているからだ。このような時代では、与えられた目標達成について"How"のみを考える「傭兵隊長」型のリーダーシップだけではダメで、自ら"What"の目標設定を行える「プログラム・マネージャー」型の行動が必要になってくる。


そもそも、私たちの一年の仕事の目標・ゴールとは何だろうか。ゴール、目的、目標・・・こうした言葉を、私たちはあまり区別無く使っているが、本来これらは別のものである。そして、これらを正しく識別することから私たちは再スタートしなければならない。


ゴールとは、いうまでもなく、それを達成すると仕事が完了となる条件である。それは何らかの製品であったり、あるいは設計図という成果物であったり、あるいは結果を伴うサービスであったりする。これに対して、目的とは、その仕事を行う本来の意図を指している。たとえば、展示会への出展を考えよう。開催期間の3日間ブースを借り、パネルを作ってパンフレットを配る、というのがゴールである。しかし、展示会の目的は、新製品のプロモーションであり、販売機会の拡大にある。目的はたいていゴールよりも大きく、ハイレベルのことがらである。


では目標とは何か。これは、達成の度合いを客観的に検証できるような形に表現したものだ。たとえば、パンフ2千枚を配布し、名刺200枚を収集する、あるいは製品認知度を5%向上する、といったものが目標である。目的と似ていて混同しがちだが、目標はつねに基準や尺度とワンセットになっている。「この製品の販売目標は・・」とはいうが、「販売目的は」とはいわない。これが違いである。


したがって、重要なのはこの「目的」のとらえ方にある。一年の計を考えるときには、数量だけの目的や、Be動詞であらわされる目的はかかげない方がよい。つまり、「売上10億円達成」だとか「業界シェアのトップになる」といった目的はやめておこう、ということだ。数字だけなら目標にすぎない。“~になる”というのはゴールでしかない。私たちはまず、はっきりとした意図にもとづく、ブレの無い目的を持つ必要がある。


とはいえ、組織の中のサラリーマンは、根源に立ち戻っての「そもそも論」が苦手である。会社組織といえども「パンのみに生きるにあらず」と私はつねに言ってきたが(「コンサルタントの日誌から」2002/2/08)、実際には“存続だけが自己目的化した組織”があちらにもこちらにも存在しているからだ。


目的を明確にし、ゴールを決めて計画を立てたら、目標を公言するべきだろう。予測という行為の下にある仮説を意識し、共有するのである(つまり、皆で“賭ける”わけだ)。先のことは分からない。分からないから、仮説を立て、計画する。皆が同じ仮説を持って仕事をすれば、個別の出来事にはブレずに、目標に向かって進めるようになるからだ。


多くの人は(例のエコノミスト達も含めて)この点を誤解している。先のことは分からないから、計画がいるのだ。見通せるから計画する、あるいは、見通せないから計画しない--たいていの場合は、この二分法に惑わされている。計画するから、主体的な意図を持って進めるのだ。見通せないから、自由度を確保して適応能力をあげる必要があるのだ。


×見通せるから、計画する = 計画のみの戦略(すなわち現実の変化に弱い)

×見通せないから、計画しない = 適応のみの戦略(自分の意志で変革できない)


それでも予想外のことが起こったら、どうするか。コンティンジェンシー・リザーブの範囲を超えたらどうするか? 


そのときは、「覚悟はできている」と口にしてみるのが良いかもしれない。これは養老孟司の口真似だが、空疎な『予測可能性』に立脚するリスク・マネジメントにしがみつくよりは、ずっと精神の健康には良さそうだ。先のことなど分からない、と思っていれば、予期せぬ思いがけない出会い、セレンディピティーとめぐり会う可能性もうまれてくる。先のことは予測できる、と信じている人は、この可能性を最初から閉ざしているのだ。


この正月、久しぶりに家族皆で過ごせた人も多かったと思う。現代の家庭は、普段はなかなか一緒に夕食もとれない。パパは残業で、ママもパートで忙しく、子どもは夜も塾に通っている。幼稚園からの競争社会だ。そしてよい学校に入り、よい学歴を得て、よい企業に就職し、さらに競争に打ち勝てば、順風満帆の人生が待っている・・そんな風に信じている親も多いらしい。だが、本当にそうですか? そんなに先のことがなんで分かるの? 自信を持って未来を予測する人ばかりそろったアメリカ金融界から、危機は始まったのではなかったか。


さて、私個人の、プライベートな今年の抱負をかいておこう。ここ数年間つづけてきた、また折にふれて発表してきた「リスク確率にもとづくプロジェクト・マネジメントの研究」をまとめて、世に問うことである。どんなプロジェクトのアクティビティにも、未知のリスクが付随している。そのことを前提として認めたら、プロジェクト評価の方法はどのように変わるか。従来のDCF法やコスト基準に基づくマネジメントの方法とどこが違うか。そして最適なプロジェクト予算は存在するのか。そうしたことを、できれば明らかにしていきたいと考えている。むろん、本業がそれを許せば、であるけれども。

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