タイム・コンサルタントの日誌から(2008年)

クリスマス・メッセージ--夢よりも希望を語ろう (2008/12/24)

R先生との対話(2)--日本の製造業の困惑 (2008/12/08)

R先生との対話--アメリカ製造業の教訓 (2008/12/01)

超入門・在庫管理--在庫ゼロは危険な目標 (2008/11/13)

超入門・生産管理 (2008/10/07)

ピーターの法則と無能なる社会 (2008/09/29)

少しずつコントロールのレベルを上げていく (2008/08/28)

あなたの会社にトヨタ生産方式が向かない五つの理由 (2008/06/30)

なぜ工場を海外に移転するのか? (2008/06/22)

弘法は筆を選ぶ (2008/05/07)

サプライチェーン・マネジメントの実現をはばむもの (2008/03/24)

プロジェクト・マネジメントの世界は動いている その3 (2008/03/15)

ジャパン・パッシング--『日本は先進国』という自己催眠 (2008/02/02)

ベースラインとしてのNET COST (2008/01/15)

クリスマス・メッセージ 夢よりも希望を語ろう
(2008/12/24)

Merry Christmas !


夢の中で試験を受けたり、宿題に悩んだりする人は案外多いらしい。心理学者の河合隼雄の説によると、こうした夢は、無意識からの自分への警告であるという。本来はとても大事なのに、普段の生活の中では考えるのを怠っている問題を、忘れないように『無意識』が警告しているのだ。それはすなわち、自分の限りある生にはどのような意味があるのか、という根源的な問いである。十代の頃は誰もが考えたはずのこの問題も、社会に出て日常に追われる中では意識にのぼってこない。社会というのはむしろ、人間をそうした根源的問いから遠ざけておくために、わざわざ忙しくさせるための装置なのかもしれない。


隣百姓」という言葉がある。隣が田植えをしたら自分も田植えをし、隣が刈り取ったら自分も刈り取る。季節は毎年少しずつ微妙に違うので、農作業ではタイミングの判断が非常に大事である。そのタイミングもやり方も、隣を見て真似るのが「隣百姓」である。もし隣人が経験を積んだ頼りになる人なら、これはまあ、ある意味で賢いリスク・マネジメントの方策だと言える。「真似る」ことは「まねぶ」、つまり「学ぶ」ことのはじまりであるから、すなわちナレッジ・マネジメントの第一歩だと考えることもできる。「隣百姓」とは要するに、自分では何も考えないでもすむ仕掛けである。


しかし、いうまでもないが、これは隣人が自分より頼りになる人である、ということが前提になる。周りが自分と同じ程度のスキルだったら、みんなで同じ間違いに陥るかもしれず、全然リスク対策にはならない。誰かに学んだり真似たりするときの一番の前提条件は、相手が自分よりもはるかに上のレベルであること、そしてその相手が信頼できること(言いかえれば利害が共通していること)である。ここを忘れて、単に皆がお互いの真似をして、同じバスに乗りおくれまいと争うのは、バブルを生む元である。


9月の米国発金融危機以来、ひどく景気のわるい話が続いている。あちこちで操業停止、非正規雇用者の切り捨てがアナウンスされている。売上げが落ちる、だから単価を下げる、そのために人件費を削減する、おかげで雇用が減ってますます消費が冷え込む。これはまさに、逆のバブルではないだろうか。まわりがこうしている、だから自分も同じ事をする、その結果ますます状況にドライブがかかる--どうしてこういう不思議な現象が起こるかというと、現代の経済システムが、付加価値ではなく、資産価値という「夢」によりかかって出来上がっているからだ。


付加価値というのは、あなたが外部から買ったモノに何らかの加工を施し、より高い値段で売ったときに生じる。これは、いわばフローによって生じる価値である。ところが、あなたが金の延べ棒を買って、数日後に相場が上がったから売ったとしたら、どうだろうか。金の延べ棒自体には、何の変化も生じていない。これはストックの評価額によって生じるキャピタル・ゲインであるが、ではその資産評価額はなぜ上がったのか? それは、「金が上がりそうだ」と多くの人が思ったからに他ならない。


一般の消費財や生産財の価値は、買い手側の「使用価値」によって決まる。これは他のユーザーの価値判断によってはあまり左右されない(むろん多少の需給変動はあるが)。しかし、知っての通り、会社の株価はしばしば短期間に大きく変動する。会社自体の配当能力や物的資産の量は、1日や2日で急に変わるものではないにもかかわらず、株価が短期的に変動するのは、買い手の憶測が重なるからだ。金の延べ棒や土地や株式などの資産は、配当云々よりも、転売価格によって基本的に動かされる。だから、他の売買者の夢や憶測が非常に重要になり、それが同調したときは正のフィードバックがかかったように急速に変動するのである。


物づくりにしんどい思いをして付加価値を上げるより、夢を売ってキャピタル・ゲインで儲ける方がはるかに手っ取り早い。逆バブルでしぼんでも、一度いい思いをした人は、なかなかその夢を忘れられまい。だが、夢と憶測の重なりで生じる資産価値の増大は、基本的に「まぐれ」の一種であり、それは運が良かったということとほぼ同義語でしかない。もしこの社会が、運の良かった者を報い、運のわるかった者を罰するだけの存在だったとしたら、いったい誰がまじめに働こうとするだろうか。


今日の社会では、「夢」はあたかも良いものであるかのように語られる。夢を持て、夢を忘れるな、若者に夢を、というわけだ。誰もそれを疑わないらしい。しかし、はたして夢はそのように一方的に良いものなのだろうか。夢は意識や理性を少しばかり抑えたところに生まれる。夢には根拠はいらない。そして、その夢に踊らされる社会のツケは、いったい誰に回されるのか。それは、近々1000兆円を超える負債を抱えることになる、今の20代以下の世代の人たちではないだろうか。


今の若者には夢がない、などというのは嘘だ。正しくは、今の社会では若者は希望を持てないので、夢を見るしかない、というべきだ。ここで私は「希望」という言葉を、「夢」とは峻別して使っている。希望とは何か。それは、人生は運不運だけで決まるのではないはずだ、と思うことだ。より良い未来を期待し、それに対して自分が“働きかけることができる”と信じることだ。努力すれば報われる可能性がある、と信じることだ。夢は希望ではない。未来に自分で働きかける方法がないとき、人は夢を見るのだ。


夢見る「隣百姓」のまま、定年近くまで働き続けてきた大人たちが、今の社会を作った。その社会は、巨大な試験と宿題に悩まされる状態にある。それは、日々に追われ何も考えずに働いてきた大人たちにつきつける、無意識からの警告である。もしも若い子ども達の世代に希望をもって生きてほしいなら、私たち大人がまず夢から覚める必要がある。地上がひとときジングルベルと夕暮れのキャンドルの灯につつまれるこの季節、日常の雑事を遠ざけ、しばし静かに考えをめぐらせるのが今の私たちのつとめではないだろうか。






R先生との対話(2)--日本の製造業の困惑
(2008/12/08)

「さて、かんじんの日本の現状だ。日本の製造業の状況を知るには、君の会社のように、世界のあちこちからプラント資機材を調達しているところに聞くのも手だろう。君のところは、日本からの調達比率は最近どれくらいある?」


--それは、国内顧客向けか海外向けかでちがいますね。国内のお客さんは、やはり日本製品を好まれます。欧米製でも、メンテナンス体制に少しでも不安があればダメ。ましてアジア製なんて論外、という風潮がまだ少し残っています。しかし、海外のプラントの場合、以前から国内調達比率は1/3程度でした。それも、こんなに円高では、もうじき3割を切るかもしれません。私の勤務先は海外向けプロジェクトが全体売上げの80%以上ですから、もはや基本は海外調達です。欧米やアジアで機材を買って、中東や南米に運んで建てる、そういう状態です。


「そうか。いまや三角貿易が中心か。昔は(つまり君が会社に入る前の時代は、だがね、佐藤君)、日本の製造業が優秀だから、とりまとめ役に日本のエンジニアリング会社を使おうか、という感覚だったがね。」



--あまりこんなことは言いたくないんですが、最近は日本企業から物を買っても安心できないことが増えてきました。われわれエンジ会社は、多少高くても品質と納期が信頼できれば買います。でも、まず納期遅れが目立つようになりました。それだけじゃなく、日本製品の品質低下が感じられます。それはことに出荷した製品のリコールに明らかで、PLCはいきなり止まる、バルブは漏れる、ひどいのになると検査記録を偽造する。こんなのが大手企業やその子会社でもまかり通るんですから、信用して買ってこちらは、過去の納入先全部をチェックしなければならず、たまったもんじゃありません。


「どうしてそうなったんだと思う?」


--儲け主義によるモラル低下でしょうか。


「ちがうな。そうやって、なんでも心理状態のせいにしてはいかんよ。日本の製造業は長い不況の10年の間に、限界まで人減らしをした。そこに、急に降ってわいたような好況だ。とれるだけ仕事をとった。その結果、どうなる?」


--外注化の進展、でしょう。下請け工場に出して作らせることが増えました。


「うん。製造はある程度外注化がきく。製作図面さえそろえて、材料を支給すればすむからな。だが、設計段階はなかなかそうはいかない。設計部門を主とするホワイトカラーにクリティカル・パスが生じてしまった。君たちの業界でいえば、資材や機械はほとんど個別注文だ。みな設計部門の関与がいる。」


--たしかに、どこでも技術者は皆かなり残業が多いみたいです。


「なぜそうなるか。管理者や営業の側が、受注した仕事の量や負荷が分かっていないからだ。工場の能力はライン設備で大枠が見えているが、計画や設計や購買、品管などの能力が見えていない。だから好景気となったらむやみと仕事をとる。リーダーも課長も自分でラインの仕事を担当せざるをえない。だから、おのずと品質チェックがきかなくなる。図面に『設計・検討・承認』の欄があっても、メクラ判が横行する。それでもたりず、設計も外注するようになる。」


--そういえば、あるプロマネが最近、“発注先を評価するときは、その会社の設備的なキャパシティと管理可能なキャパシティを区別すべきだ”、と言っていたのを思い出しました。考えてみると、私の車はスピードメーターが240km/hまでありますが、じゃあ時速200キロでお前は自信を持って運転できるかと言われたら、ノーですね。


「まさに良いポイントだ。200キロで走るためには、アウトバーン並の良い高速を選ばなければならない。広くて、平坦で、曲がりも合流も少ない道。つまり、生産にたとえて言うならば、仕様変更の少ない大量生産の道だな。首都高や、いわんや近場の道をフルスピードで走ろうとしたら、どうなる? あっという間にトラブル続出だ。だから、そういう企業では中間管理職がトラブル対策に追われて、自分の本来やるべき仕事をやっていない。君だってどうなんだ。」


--・・・(冷や汗)。それで、今後は仕事量が減るから、品質は回復するでしょうか。


「さあな。根本問題を認識していなければ、改善はないな。ホワイトカラーの実際の仕事量を時間単位で把握できていないことが、根本にある。それが、サービス残業や年俸制で隠されてしまっている。むしろ不況になったら人減らしやコストダウン優先で、もっと設計外注や海外生産に頼るようになるかもしれない。いっておくが、設計作業時間のかなりの部分はもともとコミュニケーションに割かれていて、設計書というプロダクトの量には直接結びついていない。人月だけで計って、オフショアに設計を出せば単価が安くなるだろうなんて簡単に思ってもらってはこまる。」


--ですが、日本の製造業の大多数は受注生産です。われわれエンジ業界もそうですが。これだけ受注量が変動すると、どう対応したらいいかわかりません。


「どうって、簡単だ。仕事が減るときは、会社の業務を見直してかえるチャンスなんだ。工場だって、手すきになったら整理整頓をさせるだろ。繁忙期には変革はできない。忙しくないときは、長期的に考えるための時間がとれる。冬の間に新しいタネをまき、春になったらそれをのばす。組織も生き物だ。そういうサイクルを見なければいけない。」


--生き延びられれば、ですけど。


「さっき君が言っただろ。企業にはサステイナブルな仕事量と仕事領域いうものがあるのだ。それを確保する努力さえ忘れなければ、社会は見捨てないよ。それを忘れて、ビジネスを大口の一発勝負にかけようとするから、あたふたするんだ。」


--受注量を平準化する方策はないのですか?


「仕事量を平準化したければ、多能化するしかない。」


--つまり多角化ですか。


「いやいや。多角化と多能化はまったく別のことだ。君の言う多角化とは製品のことだろ。企業の製品メニューを増やしても、それぞれ専任の人間が増えるだけでは、仕事の波は吸収できない。だから、人自身が多能工化する必要がある。一専多能型にな。そのための勉強時間ができたと思いなさい。そうすれば、仕事の波に右往左往しなくてすむようになる。まあ、でも、これはいうほど簡単ではない。人事評価制度から変える必要があるからな。数量(売上)・効率中心から、フレキシビリティを加味したものへ、とね。

 人事制度は大量生産時代のままで、コストダウン競争だけに走っても良いことはない。さっきのドイツ人経営者達のいったことを考えるんだね。」

 

 そういってR先生は私の顔をじっと見た。


「『兵隊は勇敢だが将官は無能だ』といわれたくないのなら、みなと同じ真似をしていてはダメだ。戦略とは無駄な“戦いを略く”こと。戦わずして勝つことがマネジメントの最大の仕事なんだ。」



R先生との対話--アメリカ製造業の教訓
(2008/12/01)

久しぶりに、またR先生を訪ねた。かつては企業経営にタッチし、現在は半ば引退した経営コンサルタントだが、今でも教えられることは多い。


「元気かい。出張に行っていたみたいだが、最近の景気はどうだね?」


--厳しいですね。半月ほど欧州の地方都市に行っていたんですが、今回の米国発金融危機は、想像していたよりずっと速く影響が出てきてます。我々のエンジニアリング業界でも、世界中であちこちのビッグ・プロジェクトが中断ないし立ち往生をはじめました。向こうではしょっちゅう“今回の経済危機の影響はどうだ。日本はどう立ち向かうのか”と聞かれました。聞かれても、これといっためぼしい政策もないし、答えに困るんですが・・。


「そうだな。自動車や消費財業界はもう影響が出始めているが、生産財その他の業種はまださほど危機感がなく、“日本は金融危機の影響が小さいおかげで、円高になって困る”という程度の認識のようだ。まるドメ企業が多いからなあ。」


--なんですか、その『まるドメ』って?


「“まるっきりドメスティック”、つまり国内しか頭になく、世界のつながりが見えていない経営者や企業のことだ。元は商社の隠語らしいが。」


--これだけ輸出やら海外生産が当たり前の時代に、そんな経営者がいるのですか? 中小企業ならいざ知らず。


「とんでもない。中小企業よりむしろ、中堅・大手といわれる方が、井の中の蛙だったりする。輸出販売は商社や代理店任せ、海外調達や海外生産では日本企業が買い手の立場だから、向こうが合わせてくれる。製品は世界に通用するが、経営はそうではないな。トップもミドル・マネジメントも。日本は島国で、人口が多いぶん国内市場が大きいから仕方もないが。」


--なんだか耳が痛いですね。


「もともとここ3~4年の好況は日本の内需よりも、アメリカの消費と、中東の石油バブルと、中国のオリンピック景気が生んだものだ。どれも長続きしそうもないことは見ていれば分かる。とくにアメリカは消費が経済の中心になってしまった。これが成り立ったのは、輸出元の日本や中国が米国債を買うという形で“掛け売り”(信用供与)をしていたからだ。アメリカの製造業は、とうとうGDPの15%を切ってしまった。資産家だが働かない奴を相手に商売をしてきたわけだ。」


--たしかに、米国製造業の凋落は目を覆うものがありますね・・


「君の会社なんかは、アメリカからまだプラント資機材を買っているのかな?」


--いや、発注量は減りましたね。今やライセンスに守られた一部の分野のみです。しかも、米国に注文しても中南米の工場から出荷してきたりする。品質も感心しません。」


「アメリカの製造業の空洞化は、すでに70年代から少しずつ始まっていた。’70年代は日米繊維摩擦の時代だ。その頃はアメリカのスーパーでは日本製の衣類が並んでいたものさ。そして、『メード・イン・ジャパン』といえば安かろう悪かろうの代名詞みたいなものだった。君なんか知らないだろう?」


(私は、ロックバンドのDeep Purpleが’70年代に出した日本公演のライブ2枚組のオリジナル・タイトルが"Made
in Japan"だったことを思い出した。当時あれはかなりの皮肉だったのだ)


「そもそも、アメリカの国力の源泉は製造業にあった。今からちょうど100年前、テイラーという技師長が、ストップウォッチと動作研究を元に『科学的管理法』という論文を書いた。インダストリアル・エンジニアリング(IE)のはじまりだね。階級社会だった欧州には、マネジメントが科学だ、なんてことを言い出す人間はいなかった。しかし彼は実験的事実を元に、労働者の生産性を数倍に高める手法を見いだした。その考え方は、すぐヘンリー・フォードに取り入れられる。そして、これが近代工業の米国流大量生産の基礎になったわけだ。そして近代工業は、石油利用の発展とともに、アメリカの軍事力を押し上げたというわけだ。

 第二次大戦後も、アメリカ製造業は自分たちの優位性を疑わなかった。でもオイルショックで燃費の良い日本車が売れはじめると、米国の経営者達は焦りはじめた。彼らは、“日本は低賃金長時間労働で原価が安い。技術は猿真似だ。労組も力が弱い”--だから価格差で負けるんだ、と考えた。そこで、同じように賃金の安い、中南米や東南アジアに工場を移転しはじめたんだ。」


--なんだかそれって、今の日本の中国観ににていますね。


「まったくだな。内実は、必ずしもその通りではない。賃金差という面はたしかにあったが、競争力は人件費単価だけが生むわけではない。日本の製造現場はそれなりの努力を重ね、技術部門もかなりの工夫をこらした。トヨタがGMのポンコツ工場を買って共同運営し見事に再生したNUMMIの事例などを見て、そのことに気がつく人たちも出てきた。MITは『リーン生産システム』という概念を命名して、これが競争力を生む源泉だと理解した。

 80年代はアメリカが巻き返しをはかろうとした時期だ。彼らが考えた方針は二つ。

ハイテクで対抗しよう。MAP, CIM, MRPだ”(そしてERP,
APSと続く)。それと、

知的財産権で対抗しよう。”

 どちらも彼らは実現した。前者は技術屋の、後者は法律屋の考え方だね。だが結局、法学部出の方が幅をきかせる社会だ。ERPやe-CommerceはIT業界の商売道具になったが、製造業を救いはしなかった。」


--今は欧州の製造業の方が良いですね。クオリティが高いです。価格も高いですが、そこでしか作れない製品を作っています。特殊な産業機械なんか、ドイツの独壇場です。イタリアの製造業も良い製品を比較的安価に作ります。


「どちらの国も職人気質を受け継いでいるからな。」


--それで思い出したんですが、知り合いの生産スケジューラ・ベンダーの人から聞いた話です。なんでも、ドイツの経営者むけに、日本の工場視察見学ツアーを実施したんだそうですよ。ジャスト・イン・タイムで、カラ雑巾を絞るようなムダとりを重ねた現場を見せて歩いたわけです。でも、彼らは一応感心はするけれど、心底感激したという風はない。それで、最後に感想を聞いてみたら“あの努力には敬服する。だが、なぜライバルと同じような製品を作って価格競争に向かうのか?”というんだそうです。

 彼らの考え方によれば、経営者の仕事というのは、他社ができないような製品・サービスを作り出して優位性を守ることだ、と。ドイツでは、他社が発明してすでにやっているような領域には、手を出さないみたいですね。だから、優秀な中堅企業が、値段が高くても生き延びているんでしょう。ちょっと、考えさせられました・・。


「なるほどな。それじゃあ、かんじんの日本はどうなのか、考えてみようじゃないか。」

(この項つづく



超入門・在庫管理--在庫ゼロは危険な目標
(2008/11/13)

Kさん。丁寧なご返事、ありがとうございました。しだいに工場の生産部門になじんで、活躍を開始されているご様子、何よりです。また、生産管理とは何かという問題について、ホワイトカラーの役割は命令でなく支援である、という小生の考えに賛同いただき、うれしく思っています。


さて、前回の「超入門・生産管理」にも書きましたとおり、私は在庫量ないしリードタイムが生産システムの重要な性能指標である、と考えています。最小の在庫(ならびに最小の欠品)で、顧客の需要にミートすることは、まさしく生産管理の重要課題です。そして最小の在庫量はすなわち、着手から完成までのリードタイムを短縮する重大な手段です。しかし、この課題認識と、「在庫をゼロにすべきだ」という目標設定は、似て非なるものだというのが私の考えです。


あらたに副工場長として赴任されてこられた方が、『在庫ゼロ』を目標として掲げられたとのことですが、Kさんの感じられた“一抹の不安”、私も文面から同じ様に感じました。この方は技術畑出身で、IT関係の実績はお強いけれども、あまり製造現場のキャリアをお持ちでないとのこと。それだけで判断すべきとは思いませんが、『在庫ゼロ』目標が、ご自身で現場を見て歩かれた判断として出てきたのではなく、どこかよそのセミナーやコンサルタントから聞いて持ち込まれたスローガンだとしたら、たしかに心配です。


その副工場長さんがおっしゃるように、「旧来からの慣習の元に、何かを“必要悪”だと規定してしまうと、それ以上改善する意欲がなくなってしまう」という見解それ自体は、まことにごもっともなことと思います。日本の会社ではあまりにも多くのことが、形骸化したまま慣習として墨守されてしまいます。「だから“在庫は必要悪だ”という思い込みを捨てなさい。」という主張も、その通りかと思います。


ですが、さらに「工場は在庫ゼロを目指すべきだ」とつづく論理には、私はまったく賛成しかねます。その方とちがって、私は意図的に置く適正な最小限の在庫は「必要」であり、「善」である(必要悪という言葉と対比するならば)と考えるからです。私が排撃するのは、意図せざる在庫、いわゆる“できちゃった在庫”のみです。では、その必要善の在庫とは、どのようなものでしょうか?


そもそも在庫(棚卸資産)には、製品在庫・仕掛在庫・原材料在庫の三種類があること、これはご存じだと思います。このうち、個別受注生産品には製品在庫(作りだめ)はあり得ませんから、製品在庫があるのは見込生産品か繰返し受注生産品のいずれかだ、ということになります。(繰返し受注生産に製品在庫があるのはおかしいとお思いですか? しかし、生産に必要とするリードタイムを顧客が与えてくれない場合は、ある程度作りだめをしておかなければ急な注文に応じられません。よければ拙稿『受注生産という名前の見込生産』をご覧ください)。


それで、需要見込を元に作りだめした製品在庫は、工場の判断のみで生じるでしょうか? 多めの需要を見込んで、生産依頼を出してきた営業部門にも責任はあるのではないでしょうか。さらに、製品在庫をゼロにして、本当に営業活動が成り立つかどうかも疑問です。需要は変動するものだ、という基本認識に立てば、その変動に適正な範囲内で対応すべく、製品在庫を持つことは決して責められるべきことではない、と考えます。つまり、在庫の第一の意義とは、予期せぬ需要の変動に対応するためのバッファーなのです。


ただしこの「適正」の範囲については、いろいろ議論はあるでしょう。在庫管理理論の教科書をひもとけばわかるとおり、「需要のばらつき」(分散)をどう見るか、がここでのポイントです。また、「予期せぬ」需要の変動と書いた点にもご注意ください。需要をすべて完璧に予期できる企業なら、たしかに製品在庫は不要になります。


仕掛在庫はどうでしょうか。いうまでもなく、材料部品に対して何らかの作業に着手してから、製品として完成するまでの間のモノは、それが中間品倉庫に鎮座ましましていようが、組立場にころがっていようが、すべて仕掛在庫です。加工・製造時間がゼロでないかぎり、仕掛在庫はゼロにはなりません。ときどきこの点を誤解して、うちはコンベヤを捨てて一人屋台生産すれば仕掛ゼロになるはずだ、などという方を見かけますが、生産管理の基礎的な概念をご存じないのでは、と思ってしまいます。


つぎに、原材料在庫に目を転じてみましょう。外部から仕入れる部品類も同じです。これらはどうでしょうか。工場で使う原材料や部品は、発注手配してから納品されるまで、ものにもよりますが日数がかかります。サプライヤーがKさんの会社の系列で、かなりの量を継続して仕入れている場合ならば、今日言って明日持ってこさせる、あるいは数時間単位での納品も可能かもしれません。が、そんな材料部品ばかりではありません。いま、手元のストックが底をついたとします。そこであわてて発注する。入ってくるのは一週間後だと仮定しましょう。その一週間の間に、この部品を使う製造オーダーが一つでも飛び込んできたら、材料欠品になりますね。製品の納期遅れは必定です。


原材料は、最低でもリードタイム期間の日数分は確保しておく必要があります。その日数分を切ったら、発注する。いいかえるなら、原料在庫は、仕入れの発注リードタイム期間中のストック切れを防ぐためにあるのです。


ちなみに、在庫量をはかるときは、個数や金額も大事ですが、いつも「日数分」ではかる習慣を持つことをおすすめします。在庫数量を、毎日の平均使用量(平均需要)で割って得られる値です。これは、在庫回転数や発注点の計算が楽になるだけではなく、“継続的に平均需要をチェックしなおす”習慣にもつながるからです。


そして、在庫にはもう一つ重要な意義があります。それは、在庫によって、注文を受けてから納入するまでのリードタイムを短縮する機能を持つことです。いいかえれば、在庫とは需要の読みにもとづく「時間の缶詰め」なのです。よく、食堂で注文した品が遅いと、「おーい、材料の魚を釣りに行ったのかな」などと冗談で冷やかすことがありますね。注文のたびに、すべて元から作っていたのでは、リードタイムが長くなってかないません。だから需要を見込んで在庫するのです。


まとめましょう。在庫の意義は三つあります。

(1)在庫とは、予期せぬ需要の変動に対応するためのバッファーである

(2)在庫は、手配リードタイム期間中のストック切れを防ぐためにある

(3)在庫とは、需要の読みにもとづくリードタイム短縮を可能にする「時間の缶詰め」である


おわかりですか。在庫は必要なのです。需要に関して完全な予知ができず、かつ、市場の変化速度より生産システムの追随速度が遅い場合は、在庫なしでは済まされません。在庫とは、ある意味では保険です。だれしも保険は払いたくない。しかし、保険なしで自動車を運転することは許されません。あるいは、在庫とは潤滑油です。気まぐれな市場と御社の生産システムをつなぐギアボックスの潤滑油です。Kさん。あなたは潤滑油なしでギアボックスを回せますか? 副工場長さんが指示しているのは、そういうことではありませんか。


むろん、上に述べた3つの意義に対応する在庫は、「意図して置く」在庫です。しばしば工場においては、「意図した結果」なのか「できちゃった結果」なのか、区別せずに議論されます。どうか、適正な意図在庫を配置し、意図せざる在庫はボクメツするよう、努力されることを望んでやみません。



超入門・生産管理 (2008/10/07)

Kさん。今月から工場勤務に移られたそうですね。本社の企画部と比べて、工場の住み心地はいかがですか。たまには都会の混雑をはなれて通勤するのも、わるないでしょう。


さて、ご質問の件、生産管理の良い入門書は、というおたずねですが、なかなか答えがむずかしいですね。それなりの本はいくつかあるのですが、Kさんの要求にぴったり、とまではいきません。ご希望の条件は(1)文系でも読めて、(2)御社の工場にフィットし、かつ(3)業務改革のヒントに満ちているもの、と理解しました。せっかく工場勤務になるのだから、生産のあり方を改革したい--その心意気はなかなかご立派です。


一般に生産管理の本というと、「生産形態と生産方式」からはじまって、「工程管理」「在庫管理」「現物管理」「作業管理」「日程計画」・・・という風に4文字漢語がならんでいく章立てのものが多いのですが、私はあまりこうした本をおすすめする気になれません。生産の全体像を理解するのに、あまり適当とは思えないからです。


要素をいくら並べ立てても、全体の働きや機能は見えてこない点が、「システム」というものの特徴です。ここで私が「システム」と呼んでいるのは、単なるコンピュータを使った情報処理のからくりのことではなく、工場の人や機械やからなる生産の「仕組み」のことを指しているのはおわかりだと思います。生産管理への入門とはすなわち、この見方への“入門”でなければならないと私は信じるのです。


ところで、生産管理とは実際にはどんな仕事だと想像しておられましたか。え、生産全般を管理する仕事、ですって? すると、たとえば工場長を管理するのも生産管理課の仕事なのでしょうか? むろん、これは冗談ですが、生産管理課長の上に製造部長がおられ、さらにその上に工場長がいるのは何のためでしょう。


これは結局、マネジメントとは何のために存在するのか、という問題にかかわってきます。この点をおろそかにしてどんな生産管理の本を読んでも、ゴールとずれた方向にさまようばかりでしょう。私がこれまでにもときおり書いてきたように、「管理」と「マネジメント」は区別すべきことがらです。というのも、日本語の『管理』に対応する英語は3つないし4つあるからです。


英語にはManagementの他に、管理に相当する言葉としてControl、Administration、Supervisionがあります。Managementという語が、どちらかというと“暴れ馬を乗りこなす”ようなイメージがあるのに対して、Controlは「制御」という訳語もあるように、きちんと記録し正確に計数化して、順序や方向を指示していく事をさします。Traffic
controlを「交通管制」と呼びますが、これが語のイメージです。


これに対して、Administrationはもっと行政手続きないし作業環境整備にちかく、会社でいえば「総務」の仕事です。またSupervisionとは監督指導であり、実地訓練というニュアンスがちょっとあります。


こうしてみると生産管理というのはあまりにもアバウトな訳語で、実際にはその部門の仕事の内容に応じて、生産管制課・生産総務課・生産指導課・・という風に命名する方が実態を表すかもしれません。“ここは生産雑用課さ”と先輩が自嘲気味におっしゃったとのことですが、これはつまりAdministrationの仕事が多いからでしょう。


では、生産のManagementはどこにいったのだ、と思われるかもしれません。マネジメントはPDCAサイクルを回すことであるはず、とKさんは書かれていましたが、私は生産についてはPDCAサイクルを考えてもわからないと思います。なぜなら、Doは生産管理課とは別の人達がやるから、です。


じつは、マネジメントとは「仕事を他の人たちにやってもらうこと」を示す言葉なのです。そして、他人にやってもらうからには、まず、気持ちよくやってもらう必要があります。上手にやってもらう必要もあります。また適切にやってもらう必要もあるわけです。


気持ちよくやってもらうためには、作業環境の安全や清潔、保険や厚生などの気配りがいりますね。これがAdministration=生産総務の部分になります。また、上手にやってもらうためには、やり方・ツール・治具の整備や作業の訓練評価が大事です。Supervision=生産指導(あるいは生産技術)の課題ですね。そして、適切なタイミングに、適切なモノをつくってもらうことで、無駄な在庫や欠品を出さないよう、プロンプトを出すことがControl=生産管制のポイントになります。


一つの会社全体の生産とは大きなシステムであり、巨大な仕組みです。まるで船団を組んで海をゆくかのごときもので、それなりの秩序はあっても、船体も積荷もちがい、方向もばらばらになりがちです。舵を切ろうとしても急に全体の方向は変えられません。このような大きな集団をマネジメントしていくために大事なことは、適切な評価尺度をあてはめて測りながら具体的にリードすることです。人はモノサシによって動かされます。


仕組みのパフォーマンスをどう測るか、から学ぶのが、入門の最初の入口です。これが船団の指揮だったら、船の速力・燃費・方向が大事でしょう。生産の場合、これに相当するのは、

 船の速力 = 付加価値(スループット)

 船の燃費(効率性) = 付加価値労働生産性

 船の方向(有効性) = リードタイム、または在庫・欠品量の差違

となります。


こうしたことを理解できるかどうかは、文系/理系にかわりはありません。設計や製造の技術的な詳細を知らなくても、生産管理は十分可能です。ただし、「管理技術」=マネジメント・テクノロジーは存在します。こうした独自の技術領域があることだけはぜひ頭に入れておいてください。そうすれば、設計の固有技術を知っているだけの技術屋に、大きな顔をされなくてもすみます。


生産はシステムである、ということをつねに意識してください。システムは二つの性質を持っています。ミクロな最善を積み上げてもマクロな最善にならないこと。そして、制御・判断の仕組みがいること。制御は計算機にやらせても良いですが、判断には人間が必要です。なぜなら、マネジメントとは先読みが必須だからです。


生産システムの具体的な要素としては、マテリアルリソース・情報があり、またオーダー作業とレポートがあり、さらにスケジュール・品質・コストという制約があります。これらを支えるツールとして、在庫管理とか品質管理とかスケジューリングなどの理論などがあるのです。道具だけを学んだって、マネジメントを知ったことにはなりません。


そして何よりも、生産管理とは製造ラインで働く直接工の人たちを支える仕事だということを忘れてないでください。この人達が、明日も気持ちよく、整然と、やりがいをもって働けるかどうか。自分の子供達にも、同じ仕事を自信を持ってすすめられるかどうか。そうなってはじめて、生産管理は役目を果たしたといえるのです。


Kさん。人が他の人間を「動かす」のはむずかしいことです。お互いに相性も感情もあります。唯一の正解はなく、スキルと経験が必要です。でも、みな同じ船の上に乗っているわけです。ゴールを忘れなければ、多少の波風は超えていけると信じております。



ピーターの法則と無能なる社会
(2008/09/29)

遅ればせながら、私のところにも「ねんきん特別便」がきた。社会保険庁からだ。私の分については、中身はあっている。と思う。なにせ卒業以来、ずっと同じ一つの会社に勤めている。しかし卒業して以来、転居し結婚し何度も転職した私のつれあいの年金記録は、案の定まちがっていた。何度も社会保険事務所とやりとりをして、ようやく一本の記録にまとめることができた。膨大な手間の浪費である。


そもそも、この「ねんきん特別便」を見て、“これには一体どれくらいの金がかかっているのかなあ”と感じる。日本の人口は1億2千万人強である。年金記録対象者は子供をのぞくほとんど全員だから、1億枚近いだろう。これはつまり、A4のプリントアウト1億枚、ということだ。毎分20枚打てるプリンタがあったとしよう。それでずっと印字し続けて、10年かかる。業務用高速プリンタならさらにその数十倍の速度だろうが、それでも数ヶ月かかる計算だ。それぞれに、郵便代がかかる。そして紙代。システムの開発費と運用費。データ入力の手間は言うまでもない。


データのハンドリングという仕事は、扱うデータ量が増えると手間も指数関数的に増大する、というのがITにたずさわった者の経験則だ。10人の名簿と、100人の名簿と、1万人の名簿とでは、質的に異なる。どういうわけだか現実社会のデータというものには雑音的な「汚れ」がつきまとうからだ。こうした「汚れ」を落としてデータの整合性を保つ作業をデータ・クレンジングと呼ぶが、これはまさに例外処理との戦いである。そんなことは、年金データを紙から電子化する仕事を請け負った、プロの人々には常識だったはずではないか。それなのに、なぜ国の基盤を支える社会保険に、このような無能なる事態が生じるのだろうか。


しかし、よく考えてみると、私たちは他にもたくさんの無駄と無能と浪費にかこまれて暮らしている。建築確認申請の検査機関は、構造計算書の鉄筋の量が過小であることを見過ごした結果、あちこちに立ち腐れのビルを作ってしまった。シリコン原料の確保を忘れた電機メーカーは、太陽電池世界トップの座から転落して製造ラインを遊ばせている(正確に言うと、原料長期契約にサインする決断ができなくて、だが)。ひどく交通不便な地に開業した地方空港は、初年から赤字だ。どれもこれも、立派な大学を出て、上等な教育を受けた頭の良い人たちが企画して進めたことではないか。


私たちは、頭の良い人たちが作り上げた廃墟のような社会に住んでいる。いったいなぜ、一度は世界トップだったはずの国や企業が、かくも無能なていたらくに陥るのか。それには理由がある--必然とも言うべき理由が。そう言い出したのは、アメリカのローレンス・ピーターという社会学者だった。念のためにいうと、それは“政治がわるいから”でも“首相(アメリカの場合は大統領)が馬鹿だから”でもない。理由は、誰もが同意するであろう原則=「有能な人間は出世する」という原則のためなのだ。


ピーターの説明は、こうである。近代的な組織はみな、ピラミッド状の階層的な組織になっている。そして、有能な人間は、その階層の中を、ヒラから係長へ、係長から課長へ、そして部長、事業部長、役員へ、という具合に引き上げられ、昇進していく。


ところで、実際の人間の能力は、その個人個人で限界がある。ヒラの営業マンとして有能だった人間が、係長としてさらに実力を発揮し、課長でもっと大きな仕事をとってくることはよくある。しかし、課長で有能だった彼も、もしかすると部長になって部下をマネジメントする立場になると、急に無能になるかもしれない。じっさい、多くの会社では、有能な営業マンは多いが、有能な営業管理者は少ない。有能そうに見えても、じつはプレイング・マネージャーで、自分でもラインの仕事をしてくるから評価されるだけだったりする。


かりに部長でも有能さを発揮したとしても、事業部長になって生産も物流も統括するようになると、急に判断がおかしくなったりする。もし事業部はうまく回せたとしても、役員になると・・・有能な人間の出世は、いつかはあるレベルに達して止まる。


ピーターはこの事情をこう説明する:「組織において有能な個人は出世して、階層を一段ずつ上がっていく。そして、彼(彼女)は、自分がもはや有能でないレベルに達すると、それ以上は出世できない。」 そして、彼はこう結論するのだ。「したがって、組織の中のポストは次第に、無能な人間によってすべて埋まっていく。」だから大きな組織は、たいてい全体として無能になっていくのだ。


彼はこれを『ピーターの法則』と名付けた。これはきわめて強力な法則で、公共民間を問わず、すべての大組織に当てはまる。彼がこの法則を発見した30年前のアメリカでは、すでに無能で無用なビジネスやサービスで一杯だった。彼が共著者と書いた本「ピーターの法則」には、そうした滑稽な例がたくさん載っている。なによりも良いのは、彼は個人が無能レベルに落ち込むのを避けるための、処方箋を書いていることだ。だがそれは個人への処方箋であって、組織自体は法則から逃れようがない。


私はこの本を20年以上前に読んで、とても面白く感じたが、他人事と思っていた。中間管理職となった今、私はこの本を読んでも、単純には笑えまい。部下の目からはどうみたって、私自身『無能レベル』に達した人間と写っているに決まっている。いや、それはおろか、社会全体が、次第に無能レベルに近づいているではないか。


もっとも私は化学工学の出身だから、非平衡なシステムが平衡状態に陥るまでには、有限の時間がかかると知っている。企業の中にもまだ有能な人物が占めているポジションがある程度の割合でのこっていれば、組織は機能するはずだ。いったい企業組織が、全体として無能レベルに達するまでにかかる年数は、どれくらいなのか。


むろん、この問への答えは、その組織の中で有能な人間が出世するスピードに依存する。そして、出世スピードが速ければ速いほど、組織は全体として無能レベルに近づいていく。逆に言えば日本企業や役所では年功序列がまだ多少は生きているから、数十年単位でかかるのかもしれない。


しかし、たとえばアメリカでは、ビジネススクール出身のMBAたちが出世街道の「追い越し車線」を突っ走っていく。その結果、どうだろう。いかに大学院では優秀だった彼らも、トップに至るころには無能レベルに落ち込んでいる可能性が高い。そうでなければ、


 “業績不振の米国企業のエグゼクティブでMBA取得者の比率は90%

  業績好調の米国企業のエグゼクティブでMBA取得者の比率は55%”

 (Adaga.com 2006/3/21より--H・ミンツバーグ「MBAが会社を滅ぼす」表紙帯から引用)


などという統計事実がでてきたりするわけがないのだ。そして、そのMBAが最も早く頭角を現す業界はどこだろうか?


私たちはすでに、その答えを知っている。ウォール街の「投資銀行」「金融業界」だ。




少しずつコントロールのレベルを上げていく
(2008/08/28)

「マネジメント」という仕事を問うと、それは“PDCAのサイクルを回すこと”と答えがすぐ返ってくるくらい、近年PDCAによる継続的カイゼン活動の概念は浸透し、広まっている。PDCAはもちろん、Plan
– Do – Check – Actionの略だ。


Plan, do, checkと動詞が三つ並んで、そのあといきなりActionという名詞が来るあたり、なんだか和製英語ではないかという疑いが晴れないが、“いやこれはデミング・サイクルと言って、品質管理で有名な米国人デミング博士の提唱によるもので”などと力説する人も多く、世界共通の概念ということになっている(ちなみにWikipedia英語版のW. Edwards
Demingの項
を見ると、"also known as Plan-Do-Study-Act
or PDSA
"とも書いてあって、こちらの方が英語らしく感じる)。


しかし今日の話題は、私のあやしげな英語センスの是非ではなく、PDCA(ないしPDSA)が直接業務からどうdevelopしていくのか、についての考察である。間接業務であるところのマネジメントやコントロールが何も存在ないような、直接ライン業務ばっかしの職場があるとしよう。その地平から、PDCAの4文字が、いかなる順序で、どう立ち上がってくるのか、という問題だ。何も存在しないというのは、むろん、「何も意識されない」という段階である。


そりゃむろん、Do(実行)が最初にあるんじゃないか、というのが当然の意見だろう。だったら私の質問は、Doの次に来るのは何か、と言いかえてもいい。それはPlan(計画)だろうか? 製造業はまず計画ありき、と信じている人たちはそう思うかもしれない。しかし、もう少し具体的にイメージしながら検討してみると、違う像が見えてくる。


たとえば、あなたがパン屋の跡継ぎだったとしよう。先代の親父から店とパン焼き工房を受け継いだ。手伝いの職人と店員が数人ずつ。ところで、あなたは古くさい商品のラインアップを見直し、店のレイアウトもお洒落に少し化粧直しして、次第に売れ行きが増加していったとする。このとき、パン粉をこねたり釜から出し入れしたりする以外に、あなたが工房でやるはずのことは何だろうか?


いま、まだ何も生産のコントロールといえる機能がない状態だ。あなたは漫然と、いつも通りの商品構成で、毎日決まった数量のパンを作り続けてきた。ここであなたは、いきなり生産計画(P)に着手するだろうか? ちがう。まず最初やることは、ときどきパンの焼き上がり具合や、店の商品棚の残りの数を見ることだろう。そして、焼き上がりにムラがあれば材料や釜の温度や職人のやり方をチェックするにちがいない。店に売り切れや売れ残りがあれば、何をつくり何を止めておくべきかチェックするだろう。つまり、貴方が最初にすることは、「チェック」(C)であるはずだ。


次の段階は? あなたはチェックした結果を、ノートか何かに書き付けるだろう。つまり、記録の段階に進むわけだ。これで、後日になっても反省の材料ができる。季節が変わっても、前はどうだったか調べることができるようになる。


さて、あなたはもう少し先に進みたい。お客が喜んで買っていくものをたくさん作るのが、まずは繁盛の秘訣だ。そこであなたは、出来具合や売れ具合を、定期的に、おそらく毎日チェックするようになるだろう。ここでもあなたの仕事は、まだチェック(C)だ。さらに、あなたは定期的なチェック結果を、ノートに記録するようになるはずだ。記録レポートの出現である。


記録レポートのスタイルがだんだんと整ってくると、あなたはパンの出来具合や売れ具合を記録するだけでなく、その数字を元に、明日は何を焼き、来週は何を作るべきか考えて、それをも書き足すようになるだろう。今まで、毎日カンを頼りに、無意識に進めてきたプロセスが、ここで初めて形になって立ち現れる。ようやく計画(P)の始まりだ。


そして、あなたはこの定期的記録レポート(今や記録のみならず計画表も兼ねている)を、自分のスタッフにも見えるところに、センターファイル化するようになるはずだ。そうすれば、あなたが商用で外出している際にも(そう、あなたは今や商売繁盛で忙しい)、右腕の者に代行を任せることができるようになっている。


さらにあなたは--いや、もうよい。とりあえず、ここまでのところを整理してみよう。というのは、多くの製造業の「生産管理」は、じつはこのレベルのところをうろうろしているからだ。


0 なりゆき(何もしない)

1 随時、チェックする(Check)

2 チェック結果を記録する(Check)

3 定期的にチェックする(Check)

4 定期レポートを記録する(Check)

5 定期レポートに翌日の計画を書く(Check-Plan)

6 センターファイルを作る(Check-Plan)


ここにはCが8割と、あとPが2割程度あるきりだ。Dは? パン屋の二代目と違って、たいていの工場の生産管理屋は、自分ではモノはつくらない。それは現場の職工に任せる決まりになっている。つまり、PDCAのうち、Dはあなたの仕事ではない。ついでにいうと、上にかいたCheckという作業は、業務改善をよびおこすための反省作業とは言えない。実際にやっているのは、Monitoring(状況把握)である。だから、PDCAサイクルは、正しくはPMCAサイクルと呼ぶべきだろう。


それで、CとAは? これは、もっと先のレベルだ。なぜなら、工場というのは、Aが無くても、M→P→Mで生産のサイクルが回るのである。


まず、M。それから、少しP。これがたいていの工場の生産システムについて行われているコントロールの実態である。私はそれがわるいとか、不十分だ、とか言うつもりはない。それは、当事者が、自分の望むレベルに応じて、決めるべきことだ。誰もがトヨタのレベルに一足飛びになれるわけでもないし、そうすべきとも思えない。ただ、私は「Do」「Check」という言葉の曖昧さが、PDCAサイクルの確立、という錯覚ないし自己幻想を生んではいないかとの懸念を感じる。だから私は、Wikipediaのヒントを借りて、「PMSA」(Plan – Monitor – Study – Act)と、内心、呼ぶことにしているのである。



あなたの会社にトヨタ生産方式が向かない五つの理由
(2008/06/30)

この10年間というもの、日本の生産管理思想をリードしてきたのはトヨタだったといってもいい。長かった不況の間も、ほぼかわらずに大きな利益を上げ、東海地方をはじめ日本の多くの製造業をひっぱってきた。その地位と威光は誰も侮れない。おかげで、トヨタ生産方式も多くのメーカーの範と仰がれてきた。大手電機メーカーなどもきそって著名なJITコンサルタントを迎え入れ、「生産革新」の名の下にトヨタ生産方式を導入しようと努力してきた。


ところでごく率直に言うと、トヨタ生産方式を導入しようとして、かえって生産状況を混乱させてしまうケースを私は何度かみかけた。どうもそれは、トヨタの真似をしようとして、いくつかの前提条件を忘れてしまうために起きているらしい。そこで今回は、あえてその条件を5項目にまとめ、チェックリストの用に供しようと思う。名付けて、「あなたの会社にトヨタ生産方式が向かない五つの理由」である。では、まず第一の条件:


1 最終消費者への販売量が官庁統計から正確にわかる


自動車は消費者の手に渡ると、かならず国交省陸運局に登録し、ナンバーを発行しなければならない。むろんメーカーからディーラーに出荷しただけの段階では、ナンバープレートはいらない。官庁の側は、毎月、どの車種が何台登録されたかを、正確な統計情報としてつかんでいる。つまり、最終消費者への販売量が官庁統計としてわかるのである。これは自動車業界の特徴と言っていい。パソコンや家電や飲料食品では、こうはいかない。どうしても販売店へのヒアリングや調査会社を使っての間接調査に頼ることになる。


最終需要をいかに素早く、正確にとらえるかが、生産方式決定の起点である。なぜなら、生産システムとは需要情報を製品に変換するための仕組みだからだ。自社工場から、卸や販売会社に渡ったら、あとはさっぱり分からないようでは、かなりアバウトな、目の粗い需要情報しか手に入らない。そんな状態で、どうやって「カンバン」や「一個流し」や在庫低減を実現できるというのだろうか?


2 商品の季節性がほとんどない


これも自動車産業の特徴である。むろん正確に言うと、自動車販売自体は月別にそれなりのパターンがある。しかし、「夏仕様」と「冬仕様」で製品自体が違う、というようなことはない。旺盛な年末商戦の需要に対応するために、秋から初冬にかけて作りだめする、などということもない。まして、暑夏か冷夏かを占うために長期予報にたよる必要もない。自動車産業というのは、年間を通じて、きわめて「平準化」に向いた商品特性をしているのである。


3 販売チャネルの店頭で異なるメーカーの商品が競合しない


あなたが大型カメラ店にいけば、ソニーと東芝と松下の製品をじかに触って比較できる。値段の違いも一目瞭然だ。店員は違いや優劣について、公平に教えてくれる。公平じゃないと、むしろ客の側から疑われる。ビールや雑貨や書籍も同様である。こうした世界では、需要の決定力は、メーカーではなく、顧客に接している販売チャネルやチェーンストアの側がもっている。


ところが、自動車ディーラーの世界は、いまだにメーカーの系列で縦割りになっている。ディーラーの店頭で、トヨタとホンダと日産のコンパクトカーを直接比較して乗り比べる、などということはありえない(ま、中古車は別として)。おわかりだろうか。シェアは直接の商品力ではなく、チャネルの販売力に依存しているのだ。それゆえ、トヨタは生産・販売両者が統一した生産数量の計画で動くことができる。


それどころか、トヨタでは販売計画へのコミットメントとひきかえに、販売側に一定数量の製品引き取り義務を課すことさえしている。私の知っているトヨタのOBは、「車種も値段も納期も客のいうままに売るのなら、誰だってできる。そんな営業は仕事してないのと同じ事だ」とまで言っていた。これが安定した向こう3ヶ月の購買発注内示のベースなのだ。だから、安定した販売計画をもちえない他の自動車メーカーは、内示がひどく変動する。そんなところで無理矢理カンバンを動かしたら部品サプライヤーが疲労するばかりである。


4 トップマネジメントが生産管理を理解している


つぎは(ようやく)生産管理のことだ。


トヨタは生産管理出身者が社長になれる、いまや珍しい会社である。というのも、今日のたいていの製造業では、企画畑とか営業畑とか財務畑出身者が出世街道の主流を占めていて、生産管理出身など工場長止まりというケースが多いからだ。そういう会社では、生産管理というものは「現地・現物」から離れた、なんとなく抽象的な思想としてのみぼんやり理解されていて、真の問題解決指針がトップから降りてこない。


というのも、現代の生産管理における最重要問題は、需要(販売)と生産の両者をいかに同期化させるかにあるからだ。販売の要望に応じて生産側が一方的に同期化する、ではないことに注意してほしい。だから、ここまでの3条件は販売と商品のことばかりを書いてきたのだ。トップが生産調査部出身で、どうやってセル生産や一個流しで変動に機敏に対応するか、といった技術の悩みを理解してくれるようでなければ、どうしてうまく生産方式が回っていくだろうか(まあ、そもそも『生産調査部』なんて部署がある会社の方が少ないが)。


5 仕事のやり方を変えること自体が仕事の重要な目標である


他の会社からトヨタに2年ほど出向した経験者から異口同音にきいたことが、これだ。つまり、あの会社は仕事のやり方を変えることに抵抗が少ないのである。


「変えないことは悪いことだ」

「変革に反対するものは、せめて横で黙っていてくれ」

「トヨタの敵はトヨタだ」


これはみんな、会社が従業員に発信しているメッセージである。そして、これがトヨタ生産方式を支える最大の条件なのだ。だからこそ、「なぜなぜ5回」などという根本原因の探求に耐えられるのだろう。たいていの会社では、3回目くらいで『因習』にぶつかって、あとは口を閉ざすしか無くなるのがオチだ。ましてや、あえて問題を顕在化させるために、「アンドン」をあげて最終組立ラインをストップさせる、などというとんでもない芸当が正当化されるわけがない。むしろ生産ラインを止めたら大目玉を食らう、というのが世間の常識であろう。


仕事のやり方を変えることに心理的抵抗が多いまま、むりやり「トヨタ生産方式」を形だけ導入することほど、矛盾することはない。これこそ仏作って魂入れず、の典型である。


念のため書いておくが、(あの徹底ぶりには敬意を感じるものの)私自身は必ずしもトヨタの礼賛者ではない。むしろ、トヨタ生産方式が無条件にここまで権威を持って仰がれることに危惧を持つものだ。なぜなら、しばしばそれは錦の御旗ないし御印籠として、人を思考停止に導きかねないからだ。たぶん、あなたの会社は(そして私の会社も)トヨタではない。それだけではなく、立脚しているビジネスの前提条件も、違うのだ。違う土地には、違う樹木が育って、ことなる実を結ぶ。それがどのような形のものかは、あなたと私が自分で必死に考えなければならないのだ。


蛇足:

応用問題として、「あなたの会社にDell生産販売方式(BTO)が向かない5つの理由」も、考えてみるのをおすすめしたい。



なぜ工場を海外に移転するのか?
(2008/06/22)

また海外の工場建設現場に来ている。今週、HPの更新が遅れたのはそのせいだ。私の勤務先はエンジニアリング会社で、仕事の8割は海外の顧客向けである。ただし今回のプロジェクトはめずらしく、日本企業が客先になっている。海外に工場を建設する仕事の手伝いである。


日本企業と海外企業(とくに欧米のメジャーな企業)では、同じ業種に属していても、客先として見た場合、まったく性格が異なる。企業間のつきあい方の根本が違うのだ。この話はまた別の時に書くが、その背後には「契約」というものに対する態度の違いがあるのだろう。


さて、日本企業の海外進出には二つのパターンがある。売り手として外に出るか、作り手として外に出るかだ。売り手として外に出る、とはすなわち製品を輸出して海外に販売チャネルを構築する行き方である。高度成長期とはまさにこれが始まった時期だった。安価で、良質な商品を作る。それが海外でも注目される。まず商社経由で輸出をはじめる。それから、海外に販売代理店をみつける。さらに量が拡大したら、現地法人を設立・拡充する。そして海外向け仕様の製品を作り始める・・


こういうケースでは、海外事業に携わるのは主に営業・マーケティング部門だ。また、商品の種類としては、当然ながら量産型製品(とくに見込み生産品)が中心になる。相手先は欧米先進国からはじまる。だから海外事業部門、というとカッコいいイメージがする。輸出先は、しかし次第に中進国にも広まっていく。


営業・セールスという仕事は現地性の強い職種である。その土地、その相手に近いところにいなくては“商売にならない”。当然、その国の人間を営業マンとして必要とする。日本人は管理者として支店にいるだけで、少数だ。だからこうしたパターンの企業では、ごく一部の人々(ふつうエリートコースと目される人々)だけが海外勤務を経験する。それも、せいせい米国か西欧のみの経験である。日本側では、相変わらず日本的発想の日本人たちが大勢をしめる。世界的ブランドの『グローバル企業』であっても、真にグローバルな視点を持つ者が、本社でも工場でもごく少数なのは、このためだ。


さて、もう一つの海外進出パターンは作り手としての進出、すなわち海外工場展開である。これはさらに「引きずられ型」と自主進出型に分かれる。前者は、大手メーカーの海外工場進出に引きずられる形で、部品サプライヤーが協力工場を出す形である。実態は「しかたなしに」が多い。これに対して自主進出型は自分の意志で海外に工場を求める。では、なぜ工場を海外に移転するのか。逆に言うならば、なぜ日本に工場を持たないのだろうか?


原料の産地に近いから、というのは一つの理由に違いない。素材産業で原料に大きく依存する金属や基礎化学などは、わざわざ輸送費をかけて原料を日本に運ぶより現地で製造(粗製)する方が合理的だ。最初に書いたように、私は今いわゆる東南アジアの僻地にいるが、これは金属精錬プラントを鉱山の近くに建設するプロジェクトのためである。


これとはちょうど逆に、消費地に近いから海外工場をつくる、という理由もあろう。安価な大量消費財は日本から運んでいたら、らちがあかない。現地で作って、現地で売る。これも一つの行き方である。この場合、日本市場は日本で作ることになるはずである。


しかし、製品が基礎素材でもなく安価な画一的消費財でもない場合は、どうなのか。顧客の好みがうるさく、製品仕様がさまざまで(あるいは個別受注生産で)、それなりに製造技術を要し、品質も高い製品。つまり、日本のたいていの製造業がつくっている商品の場合は、どうなのか。上にあげた二つの例、素材や大量消費財は、いずれも低付加価値の商品であることに注意してほしい。すなわち、日本企業が得意とする高付加価値の商品は、どこで作るのがよいのか?


答えは、はっきりしている。日本で作るのがよいのだ。なぜなら、そこが顧客市場にも技術開発の場所にも近いからだ。すなわち、コア・コンピタンスの競争の地に近いからだ。金属産業に例をとろうか。日本の鉄鋼メーカーはどこで鉄を作っているのか? 新日鐵やJFEはすべての製鉄所を鉄鉱石原産国に移転してしまったか? そんなことはない。相変わらず日本で作っている。そのわけは、鉄鋼製品は受注生産だからである。仕様にも品質にも納期にもうるさい自動車産業や建設産業を相手に、mm単位の精度で量産した製品を日単位で出荷する。こんな芸当は、アジアの工場からのんびり船で運んでいてはおぼつかない。だから先ほど、「粗製」と書いたのだ。最終製品までは、とても奥地ではできない。するべきでもない。


大衆消費財だって、日本の気まぐれな消費者とわがままなチェーンストアにきめ細かく対応するには、日本で小刻みな小ロットで生産する方がいい。多品種で季節性の大きな商品を見込みで作っていたら、製品在庫をしまう倉庫はいくらあっても足りなくなってしまう。


では海外市場向けの製品だったらどうか? これだって、高付加価値であるからには、技術開発を製造にすぐ反映できる場所に工場があった方が、物流費の多少の削減よりも効果が大きいに決まっている(シャープがなぜ1兆円もかけて堺に新たに液晶TV工場を建設するのか考えてみるといい)。


個別受注生産の場合も、設計技術者と工場が近い方が有利である。設計技術者を欧米各国にばらまけるほど大量に抱えている企業ならいざしらず(そんなもったいないリソースの使い方をしている企業は欧米にだって滅多にない)、普通は一カ所に集中した方が技術蓄積の面でも有利である。だったら、日本企業の場合、その場所は日本しかあるまい。


’90年代の不況以来、日本では工場の海外移転が大はやりだった。そのほとんどの場合は“製造コストが安い(だろう)から”という、いたく単純な理由である。移転先はアジア、それも中国が多かった。念のためにいうと、製造原価は、原材料費と労務費と経費からなりたつ。このうち、労務費比率が圧倒的におおきく、かつ資本装備率の低い場合にのみ、このコストダウンの皮算用は成立するのである。原材料の値段は、今日では万国共通だ。どこかの国に行けば極端に樹脂や鋼材が安い、などということはありえない。製造機械装置の値段だって、ほとんど同じだ。だから、差が出るとしたら労務費しかないのである。それも、品質や不良在庫のリスクと引き替えの、低賃金である。


2年ほど前から、ようやくこの風潮に反省が起こり、「製造業の日本回帰」などといわれるようになった。冷静に考えれば当たり前のことが、海外移転ブームに加熱した当時は、なぜか気づかれなかった。たしかに米国の製造業は’80年代に海外移転・空洞化が始まった。日本は米国の後を追っただけ、という人もいるかもしれない。しかし米国企業は圧倒的に大量見込生産中心であることを忘れないでほしい。プル型のお好きな日本が、プッシュ型生産の権化である米国企業のまねをしてどうするのだ。


では、日本の中ならば、どこに立地すべきか。もう長くなったので、この話の続きはまた別の機会に書こう。ただ、一つだけ指摘しておきたい。一番困るのは、日本の経営学あるいは経営思想に、真の工場立地論がないことだ。工場は手段である。しかし、必須の手段だ。その最重要な手段の立つべき位置について、誰も真剣に考えていないという状況ほど嘆かわしいことがあるだろうか?





弘法は筆を選ぶ (2008/05/07)

AMR Researchの発行するAbove the Noiseという月2回のニュースレターがある。その3/26日付の記事
"You’re
not Tiger Woods
"はなかなか面白かった。


執筆者のTony Frisciaは最初に、「スポーツ用品メーカーは毎年のように最新技術を駆使した製品を出す。2年前に買ったゴルフクラブも、はや古い製品になってしまった。しかし、こうした製品を次々と買い続ける世間のゴルファーたちの平均的なハンディキャップは、たぶん1ポイントも下がっていないだろう。」と書く。そして、こう指摘する「最新技術はタイガー・ウッズのようなトッププロが手にすれば、大きな違いになる。しかし、あいにく私たちはタイガー・ウッズではないのだ。」


つぎに彼はERP導入に話題を転じる。AMR Researchの調査によると、多くの米国企業で、ERP導入は期待したような効果をあげていない。導入プロジェクトの効果測定は、ROI(Return on Investment)を用いるのが、現代アメリカ流だ。投資額(Investment)にたいして、どれだけの収入ないし経費節減が得られたか(Return)を計るのである。ERP導入は年単位で時間のかかるプロジェクトだから、ROIの計算はDCF法を使う。だが、いくらスプレッドシートをひねくりまわしても、たいがいの企業でERPコストはソロバンの置きようがないらしい。


米国および欧州の200社以上の調査によると、50%以上の企業は3年ごとにERPパッケージ・ソフトウェアをバージョンアップしている。メジャー・アップグレードの場合は(なにせERPベンダーは勝手に基本データ構造を変えてくるから)、中核機能部分から作り直さなければならない。ひどくお金も時間もかかる作業だ。ROIなど上がりようもない。


それでは、ERPパッケージが十分な効果を上げないのはなぜだろうか? 以前、よく導入コンサルタントたちは日本ユーザ企業における『カスタマイズ』愛好癖を攻撃した。カスタマイズやアドオンは導入コストを増大させるし、バージョンアップ作業においても大層な重荷になる。“欧米企業では標準機能でつかっています”、“パッケージにあわせて業務を変えるべきです”、“ERPは業務のベスト・プラクティスを提供しています”などとまことしやかに解説されたものだ。しかし、だとしたら上記の欧米での調査結果はどう説明するのだ?


AMR Researchによると、ERPが効果を上げない理由は全く別のところにある。それは、「データの信頼性」である。マスタ・データがおかしいのだ。コンピュータは、誰もが知っているとおり、ガーベジ・イン・ガーベジ・アウトである。マスタが信頼できない状態でERPを動かしたら、出てくるのは「自動化された高価なゴミ」になる。


マスタぐらい、ちゃんと直せばいいじゃないか、と考える人は、本当の意味でITの奥の深さを知らない人だと言っていい。マスタが現実とずれていたり、あるいはマスタがかけていたりするとしたら、そこには必ず業務プロセスの歪みがある。つまり、マスタデータを正しくしようとしたら、まず業務を正さなければならないのだ。


たとえば、在庫マスタの発注点数量がおかしくなっていたとしよう。発注点がおかしいということは、その工場では部品が多すぎるか、あるいは欠品だらけか、どちらかを意味する。これでは仕事は回らないはずだ。で、どうするか。たとえばマニュアルで特急手配をかける。これが常態化すると、購買リードタイムはぐちゃぐちゃになる。


もともと発注点は購買リードタイムと平均使用量(需要)できまるものだ。でも、そのベースが崩れてしまっているわけだ。崩れても、サプライヤーとの力関係が強ければ、わがままが通せる。だから、誰もマスタデータを正そうとしなくなる。問題は、つきあいきれぬサプライヤー側が自衛用に在庫を積み上げるから、結局高い部品を買うことになることだ。だが、自社仕様品を買っている限り、他と比べようがないから、それが高いことには気がつかない。


あるいは、顧客マスタをあげてもいい。CRM機能を使う部門は営業だろう。だが、忙しい営業マンは案件データなど入力するヒマがない。仕事のとれぬ営業マンは、クビになるのがこわいからせっせとデータを入力する。その結果、コンピュータの中にあるのは価値の低いデータばかりになる・・・


おわかりだろうか。これは、テクノロジーの問題ではない。洗練された、高レベルの業務プロセスを実践している会社だったら、ERPは大きな威力を発揮するだろう。しかし、そうでない会社、人間系で業務プロセスの矛盾をカバーしている(つまり平均的な)企業だったら、ITは高価な無駄にすぎぬ。ちょうど、タイガー・ウッズならぬ私たちが、最新技術のゴルフクラブを振ってもスコアの足しにはならぬように。


ちなみに、Tony Frisciaはこういう調査結果も引用している。(1) 管理プロセスの改善は企業の生産性を8%向上させる、(2)
IT利用の高度化は、企業生産性を2%しか上げない、しかし、(3) 両方を同時に行うと、20%の生産性向上が達成できる(欧米100社のサーベイ)。


名手は良い道具を活かすことができる。つまり弘法は筆を選ぶのだ。だが、もし弘法ではなかったら--高い道具に飛びつく前に、まずやるべきことが我々にはあるのだ。




サプライチェーン・マネジメントの実現をはばむもの
(2008/03/24)

久しぶりに、大先輩のR先生のもとを訪れた。もう随分年配だが、私にとってマネジメント問題の師匠である。かつて企業経営にタッチされた経験から、私の思いもよらぬ広い視点でものを見ておられる。


--先生、お久しぶりです。最近ふと気がついたのですが、私が研究会の仲間とともに、『SCM研究会』の名義で「サプライチェーン・マネジメントがわかる本」という書物を出したのが、1998年でした。それからちょうど10年間たったわけです。しかしこの間、日本のサプライチェーン・マネジメントはどれだけ理想に向けて進歩したでしょうか。はなはだ心許ない現状だと思うのですが。


「佐藤君が10年前にその本を書いていたときは、どんな理想を心に描いていたんだね?」


--そうですね。「わかる本」の中で、私は供給計画の章を書いたのですが、当時はちょうどAPS(先進的生産スケジューラ)が現れはじめたころでした。また、ECRのような米国の小売業と製造業の協調的な取り組みが紹介され、ゴールドラットのTOC理論も出てくるなど、なんだかこれから新しいわくわくするような動きが現れて、古くさい企業単位の風習を乗り超えるような期待を感じたのですが。


「はは。いかにも夢見がちな君らしい発想だな。」 Rさんはやんわりと私をいなした。「’90年代の終わり頃のアメリカには、コンピュータ・ソフトによる生産計画最適化のおかげで、もはや米国経済は好況→在庫過剰→不況のサイクルを脱して永遠の繁栄期に入ったのだ、なんて大真面目に主張した経済学者がいたものだ。君もその手合いと五十歩百歩じゃないかのかな?」


--ですが、SCM実現のマクロなメリットはあれほど明らかなのに、世の中がそれにむかって動かないのはなぜでしょう。誰にも理解されなかったのでしょうか?


「わかる人は理解したと思う。だが、企業行動というのは必ずしもメリットにむかって動くとは限らない。しばしば不合理に見えるものだ。」


--利益最大化という目的合理性のもとに会社は動くものだと思いますが?


「ちがうな。会社は人間から構成されていることを忘れちゃいけない。その人間は、それぞれの目的意識や評価尺度で動く。評価尺度に動かされると言ってもいい。たいていの企業では、この尺度が制約になって、君の夢見るようなマクロなSCM実現に動けないのだ。」


--もう少し説明してください。


「何もかもワンマン社長が全部を決める中小企業ならともかく、普通の会社は機能別組織で分権的な意志決定をしている。そうだろ? そこで部門毎に業績評価の指針となるモノサシを用意する。たとえば、営業部門なら受注額や売上高、製造部門なら製造原価、物流部門なら物流費率、といったモノサシだ。そして、大組織になればなるほど、部門間の調整に時間がかかるようになるから、しぜん意志決定は自部門だけで決めるようになる。」


--分業病ですね。


「そうだ。これを克服すべく事業部制やカンパニー制を導入するところも多い。だが、そのマネジメントには会社トップから事業部別売上高や利益率の目標値が与えられる。私も経験があるが、赤字を出したら独立採算だから会社からお金を借りなければならない。他の事業部から部品を供給してもらえば、振替コストで利益込みの値段を取られる。いきおい、『社内は高いから外部調達だ』という発想になりやすい。」


--同じ社内なのに、もうサプライチェーンが分解しはじめていますね。


「売上や利益目標は事業部ごとに積み上げで、足し算の論理で決められる。事業部間のシナジーなどお構いなしだ。これがすすむとどうなると思う?」


--在庫の押し付け合い、とかですか。


「その程度ならまだかわいい方だ。足し算の論理が突き進むと、工場はコストセンターだから分離しよう、あるいは安い海外生産に出そう、そうやって製造のコストダウンをはかろうということになる。売上を上げるのも、利益を出すのも、まずコストダウンが第一だ、というマインドセットが生じる。これを私は“コストダウン病”とよんでいる。」


--コストダウンが病気なのですか。


「企業戦略の第一優先が製造コストダウンだとしたら、そうだ。そもそも企業の競争力の源泉はどこにあるか。それは、新しい製品・新しい顧客・新しい売り方を切りひらいて、高付加価値と生産性を確保することにある。つまりイノベーションの能力だ。それは急激に伸びている会社を見ればよくわかる。

 ところがコストダウン病にかかると、販売競争に勝つにはコストダウン、利益確保もコストダウン、と一点集中型になる。販売で勝つカギが低コストだ信じているとしたら、それは『価格競争』という恐るべき土俵にいつのまにか乗ってしまっていることにならないかね? 消耗な価格競争を避けることこそ、企業戦略の第一優先ではないか。」


--たしかに、売上拡大→大量生産→生産コスト低減→さらに売上拡大、というサイクルは高度成長期のモデルですね。


「本来、企業のパフォーマンスを一番表すのは付加価値額とリードタイムなのだ。それなのに、会社が求めるのが相変わらず売上拡大と製造コストダウンでは、意識は各部門内で内向してしまう。それに追い打ちをかけたのが“成果主義”の人事評価だ。SCMは統合と協調がキーなのに、動かされて向かう先は分割と競争になってしまう。君が夢見るようなサプライチェーンなど実現するわけがない。」


--すると、そういう指標で社内を動かす経営者に問題がある訳ですか。


「いや。彼らもまた動かされているのだ、株主という人種に。株主は、つねに結果だけを求める。“増収増益”とか“原価の削減”といったニュースを喜ぶ。自分の利益だけを考える。結局この10年間に進展したのは、株価重視の経営、時価総額経営ではなかったか。サプライチェーン・マネジメントは結果が出るまで時間のかかる、リスクもある取り組みだ。このような環境で、誰がそれにチャレンジするだろうか?」

 

 R先生はグラスを置いて、こう言われた。


「サプライチェーン・マネジメントの実現をはばむものがあるとしたら、それは結局、人の心の中にあるのだよ。」






プロジェクト・マネジメントの世界は動いている その3
(2008/03/15)

今週は東京でPM関連の大きなイベントが二つあった。10・11日は「国際プロジェクト&プログラムマネジメント・シンポジウム
が江戸川タウンホールで開かれ、また14・15日にはプロジェクトマネジメント学会春季大会
が白山の東洋大学キャンパスで開催された。いずれも数百人の参加者を集め、盛況だ。PMに関する関心が世間で高まっていることは明らかなようだ。ちなみに私自身はPM学会で「Convertible
LSTK契約によるプロジェクト・リスクの緩和
」という研究発表を行った。


日本PM学会は、今年9月にアラスカのアンカレッジで開催される予定の国際大会ProMAC
2008
を応援しており、参加をさかんに呼びかけている。ProMACは2年ごとに開かれるアジア/パシフィックの大会で、私自身も、2004年の東京、2006年のシドニーと2回にわたり、研究発表を行った。今回のPM学会の懇親会にも、アラスカからゲストが見えて、日本人に海外に目を向けてほしいと呼びかけていた。


しかし国際色という意味では、「国際プロジェクト&プログラムマネジメント・シンポジウム」(IP&PMS)の方が上をいっている。この大会、講演者の半分近くが外国人、ホームページも講演プログラムも予稿集も全て英語である。むろん、何も別に英語だから偉いと言っているのではない(念のため)。参加者の顔ぶれのバラエティから、必然的にこうなったということである。主催は日本プロジェクトマネジメント協会(PMAJ)だ。


PM学会の発表は、どちらかといえば実務に根ざしたプロジェクト運営の改善研究が多い。他方、IP&PMシンポジウムはハイレベルな戦略論ないし経営論に近い視点の講演が目立つ。前者はプロジェクトの現実に悩むIT業界系参加者が中心であるのに対し、後者はエンジニアリング業界なども加わり、プロジェクト&プログラムという上位の視点をメインに据える違いが現れているようだ。私には、どちらもとても面白かった


とくに興味深かったのは、IP&PMシンポジウムの最後に行われたパネル・ディスカッションだ。壇上にはなんとPMI・IPMA・PMAJ・AIPMの代表者/元代表者が顔をそろえて議論を行ったのだ。念のため書いておくと、国際的PM団体=PMI、国際PM標準=PMBOK
Guideだけ、と信じている人が案外多いが、これは“アメリカ=世界”と思いこみがちな日本の視点の狭さを表しているに過ぎない。


ところで、「なんで世界に国際プロジェクトマネジメント団体がいくつもあるんだよ? PMの理論や技法は世界共通だろ? 資格だって、なんで国ごとに作る必要があるんだ。」と疑問に思われる方もいるだろう。当然の疑問だ。この狭い日本にも、PM学会とPM協会とPMI東京支部が3つひしめき合っている。この議論を、パネルディスカッションの司会者Hugh
Woodward(米国人・元PMI会長)があえて、"burning question"として提起したから面白い。


Adesh Jain(インド人・初めての非欧州人のIPMA理事長)は、「医師やエンジニアのように、異なる資格の間での対応付けmappingをするべきだろう」と答える。これはある意味で順当な意見だ。Lynn
Crawford(豪Bond大学教授・AIPM理事)の答えは、「競争があるのは健全だ。何事も独占はよくない」というものだった。たしかに、互いに切磋し刺激しあって良い標準を作ればいいとの見方にも一理ある。


PMAJの田中理事長は、「PMIメンバーの80%はIT業界だが、IPMAは非IT業界が80%を占めている。一口にプロジェクトといっても、その性質や文化の違いは無視し得ない」という考えだ(ちなみに、今回これだけそうそうたるメンバーを集められたのは、PMAJ田中理事長の力量だろう)。


しかし、一番共感したのは、Ralf Muller(スウェーデンUmea大学教授)のコメントで、「資格というのはそれを必要とするマーケットのニーズで動かされるものなのだ」というものだ。言いかえれば、供給者側がそれをコントロールしようと考えるのがおかしいので、一番世の中に必要とされ受け入れられる資格が、次第に生き残り発展していくだろう、という見方である。これはいかにもヨーロッパ人らしい、大人の見方だな、と思う。同時に、以前『誰のための資格?』『資格はユーザーのためにある』(「考えるヒント」2003/01/13, 21)に私が書いた意見とも共鳴するからだ。


今後複数の団体がどのようになっていくのかは、分からない。しかし、世の中のニーズが減っていくことは、もはやあり得ないと思う。プロジェクトマネジメントは初期の啓蒙期を過ぎて、すでに普及発展期に入っているのだ。それが今回、私が一番感じたことだった。単一プロジェクトだけでなく、複数プロジェクトをハーモナイズして動かしていくマネジメントも、ますます重要になりつつある。こうした国際大会に参加するたびに、ますます目の離せない分野だと痛感するのである。




ジャパン・パッシング--『日本は先進国』という自己催眠
(2008/02/02)

私が生まれた頃、日本は三流国だった。皆がそう思い、そう言いもした。道路はあちこち未舗装で穴があき、貿易収支はひどい赤字だった。『加工貿易』という言葉も学校で習った。「日本は資源がないから、外国から原料を輸入して、加工し、それを輸出することで国を成り立たせ」ようとしている、と。だがそのための生産機械は、欧米からの輸入か技術導入だった。1970年までに貿易赤字をなくしたい、と’60年代半ばに政府が発表したとき、欧米諸国はあざ笑ったものだ。あまりに野心的、と。


その同じ国が、’90年代のはじめ頃は『超先進国』を自認するようになった。「もう欧米に学ぶものはない」とも言われ、じじつ欧米から日本の製造業に調査団が来た。『電子立国・日本』の都会の地価は摩天楼のようにのび上がり、企業は“含み益経済”を謳歌した。海外で片端からいろいろなものを買収しまくった。


繁栄は短かったのに、その後の不況は長かった。多くの企業が競争力を失い、国民は公的資金の形で金融貸倒れの穴埋めをした。それでも日本の技術は一流だ、と多くの技術者は信じていた。出来がわるいのは政治と金融業だ、と。


風向きが変わりはじめたのを私が感じたのは、4、5年前に米国のカンファレンスに出席していたときのことだ。キーノート・スピーカーはIT産業の未来について語り、米国のみならず世界でもどうのこうのという話になった。「アジアでは、たとえばシンガポールではこうであり、中国ではああだ」と講演者は語る。私は、あれっ、と思った。こうした場合、真っ先に例に挙がるのは日本ではなかったか。いつのまに、話題が東京の上空を素通りするようになったのか?


こうしたことは、日本の外にいないと、なかなか肌身に感じない。最近、中東に駐在する営業部長からきたメールの中には、成長著しい中東の国際金融の現場で感じるのは今や「ジャパン・バッシング(日本叩き)ではなく、ジャパン・パッシング(Passing=素通り)」です、と書いてあった。残念ながら、そうだろうな、と私は思う。海外ジャーナリズムの発信する記事を読んでいても、同様のことを感じるからだ。


それは日本外交や経済政策がだらしないせいなのか? 科学技術では、日本はまだ最高なのか? そう信じている人たちに、見せたいものがある。きわめて不思議な、3冊の白書である。「科学技術白書」平成17年版と19年版、そして「年次経済財政報告」平成14年版である。


まず、このグラフを見ていただきたい。科学技術白書(平成17年版)の「特許」の章の引用である。国の研究開発力の水準を計るのはなかなか難しい問題だが、その一つの手がかりは特許出願数であろう。グラフから一目瞭然なのは、米国が’90年代から群を抜いて世界のトップになっていることだ。「1989
年までは日本が出願件数で世界第1 位であったが、1992 年に米国に逆転されて以来、米国を筆頭に、日本、ドイツ、英国、フランスの順位で変化していない。」と文章にも説明がある。つまり、あきらかに研究開発の知的生産性の面では、日本は米国に後れをとっているわけだ。また統合EUに対しても、あきらかに負けている。


ところが。平成19年版の科学技術白書における国別特許出願数のグラフ(P.147)は全然違った形をしている。ファイルが重くて開けにくいので、ここにスキャン画像をお見せしよう。



どうだろう。日本がダントツで一番ではないか! 説明文にも、「主要国の特許出願件数(中略)の比較では、日本の出願件数は世界第1位で推移してきており、続いて米国、韓国、中国の順となっている。」と、晴れがましく述べている。何もこの2年間に逆転したというのではないよ。10年以上も前から、ずっと世界一だったと主張しているのだ。わずか2年前の白書では、トップの米国に差をつけられるばかりだ、と嘆いていたのに!


この差はどこから来ているのか。表を子細に見ていくと、どうも19年版の白書では、どうも日・米・欧の主要国以外の「その他の国」への出願数を意図的に集計から除外したらしいことがわかる。米国はその他の国への出願数が非常に多い。これは北米・南米・アジアも含めた世界戦略にたって動いている以上、当然のことだろう。


こうした白書の制作業務は、実際には○○総合研究所といった大手シンクタンクに委託されるのがふつうだ。しかし、このような編集意図の変更は、発注者側の意向にもとづくものと想像したくなる。どういう意向か? それは、「日本の科学技術政策はうまくいっており、研究開発の知的生産性は高い」と強調したい、という意図にちがいない。


日本の技術は素晴らしい、と人々が言う場合、それはトヨタ生産方式をはじめとする生産技術のことを指すことが多い。たしかに、高い生産性を示す会社も少なくない。しかし、工場の生産性が、その国の経済成長を左右すると信じるのは、単純すぎる。ノーベル賞経済学者ロバート・ソローは「成長理論」の中で、経済成長の80%以上は技術進歩によるもので、資本と労働による付加価値増大をはるかにしのぐことを証明した。つまり、一国の経済成長率は、研究開発における知的生産性によってかなり決まってくるのだ。


それでは、日本の知的生産性のランキングは、どれほどのものなのか。創造性豊かなのか、「質より量」の低次元のものなのか。平成14年版『年次経済財政報告』のこの図3-2-16を見てほしい。OECDの調査では、“我が国の研究開発投資は生産性の上昇に有効に結びついていない”(キャプション)のは明らかではないか。OECDの中では、下から3番目だ。


私たちの経済が成長するためには、明らかに技術革新によるイノベーションが必要とされている。しかし、研究開発投資を増やしても、それに結びつかないのだ。その事実を直視せずに、特許の統計データを小手先で変えて自己満足していて、いいのだろうか。「日本の技術は一流」という、政府による自己催眠から、もう目を覚ますべき時ではないのか。事実を直視すること、それを多角的に見て検討することこそ、ジャパン・パッシングの時代を避ける、唯一の方法なのである。


ベースラインとしてのNET
COST (2008/01/15)

生産管理においてもプロジェクトマネジメントにおいても、「総量」(Gross)と「正味量」(Net)の区別はつねに重要である。たとえば、「3時間待ちの3分診療」という、大病院を皮肉ったことばがあるが、私はこれをスケジューリングの説明の時に、よく使う。「3時間待ち」は、入ってから出るまでの総リードタイムをさし、「3分診療」は正味作業時間をさす。リードタイムの総量には、かなりの待ち時間が含まれていて、これをどう取り除くかがタイム・マネジメントの要点となる。


あるいは、総所要量と正味所要量という区別もある。総所要量とは、最終的に出荷(産出)しなければならない数量である。一方、正味所要量とは、総所要量から引当可能在庫量を差し引いたものにあたる。100個の需要があっても、手元に70個の未引当在庫があれば、正味所要量は30個になる。これが生産オーダーの数量の基準になる。つまり、正味とは基準となる量を与えるのだ。


同じことはお金、すなわち価格にも当てはめることができる。基準となる正味の生産コストがあって、その上に販売価格がなりたつ。しかし、受注生産型企業では、ともすると両者がごっちゃになって議論されているケースがある。これはとくに個別受注生産や受託プロジェクトの場合に多いように感じられる。


典型的な例は、こうだ。顧客から値引き要請があった、あるいは、競合のために低価格で受注するはめになった--だから、部品や製造のコストダウンにつとめなければならない、たとえば設計や製作を外注に出そうか、という調子の議論である。あるいは、原価構成を、販売価格に対する比率で計って、この案件は材料費が多いとか人件費がかかりすぎだとかいう議論である。


この議論のおかしな点がおわかりだろうか? もともと、受注生産では客先が仕様を決める。仕様が決まれば、見積設計をして、製造方法を考え、そこから材料費や労務費、経費が見積もられる。ここまでは、外部からのインプットの情報はあくまで仕様でしかない。つまり、仕様に対して、基準となる価格が一つ決まるのだ。これは正味の価格である。


ところが、販売価格はそうではない。同一の仕様の製品でも、顧客とタイミングと競合状況によって、価格は安くも高くもなる。リスクも加味しなければならない。利益もほしい。これはさまざまな因子をふくんだ、総価格なのだ。そして、総量は基準には使えない。


では、このような概念上の混乱をさけるにはどうしたらいいか? 一番よい解決法は、用語を分けることである。たとえば、必要な材料費・人件費・諸経費はコスト(NET COST)とよび、客先に提示する販売価格の方は、プライス(OFFER PRICE)とよぶ。そして、コストの決定と、プライスの議論は、わけて考える。コストの決定は、純粋に技術的な検討である。一方、プライスの議論は、政治的駆け引きの世界である。


こういうと、反論する声も聞こえそうだ。「トヨタでは、原価+利潤=価格、ではなく、原価=価格-利潤、で原価を決めている」とか、あるいは『原価企画』活動によって、製品の原価構成を決めるべきだ、とか。


しかし、こうした活動は、基準をどう改善するかという課題意識で動く。したがって、決まった仕様の製品を繰返し生産するような「見込生産型」あるいは「量産型」企業ならば、改善サイクルにのせやすいため適切だろうが、短期勝負の個別受注案件に乗せるのはかなりむずかしい。低価格はふつう品質リスクの上になりたつものゆえに、危険な賭けにおいこまれかねないからだ。


多くの企業では、コスト(NET COST)は設計/生産など技術屋が決め、プライス(OFFER PRICE)は競合状況を見合わせながら、コストの上に利潤とリスクを積んで営業部門が決めるような仕組みになっている。むろん、客先にはコストは知らせない。客先とのネゴでプライスを下げられても、仕様がかわらない限り、社内での基準となるコストは無理に変えない。これが本来あるべき、GrossとNetの使い分けである。


このとき、NET COSTは本当に「正味」でなければならない。仕様が膨らむ場合のアロウアンスや、未知のリスクに対応するためのコンティンジェンシー・リザーブは、マネジメントが総合的に判断すべき金額として、プライスの議論に持って行くようにしなければならない。


基準点(NET COST)を決めて、営業と生産部門でお互いに合意する。これがベースである。ただし、そのCOSTを、生産の機能部門単位で分断して予算配分し、キープできたかどうかを部門評価に使うのは、あまりおすすめできない。なぜなら、機能間にまたがる領域のコストの押し付け合いがはじまるからである。そうなれば、必然的にNET
COSTは、安全側に見積もられることになり、サバ読みの集積になっていってしまう。つまり、NETがNETでなくなってしまうのだ。


NETの基準を決める目的は、それを次回以降にも反映して改善していくためである。そして見積と受注戦略の精度を高めていくためにある。社内の縄張り争いの線引きにつかってはいけない。『Chirstmas メッセージ--運命共同体として』(2007/12/22)にも書いたとおり、会社は利益共同体であり、一種のジョイント・ベンチャーである。これを分断しては元も子もないことを、肝に銘じるべきである。

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