生産計画の前にすべきこと
“需要は誰も予測できない”とは、よく聞く言葉だ。もちろん、ある意味では真実であろう。市場においては何が起こるか分からない。ライバル企業が思いもよらぬ新製品を出してきたり、円安で輸入品が安くなったり、法規制が変わったり、消費傾向が別の分野に移ったり、暖冬で思惑がはずれたり、何が起こるか分からない。神様ならぬ身で、需要を予測できると考えるのは思い上がりであろう。たしかにその通りだ。
ここから話の矛先はしばしば、生産計画への疑念や攻撃にうつることが多い。需要などしょせん予測できやしないのだから、計画など立ててどうするのか。それよりも、受注生産を基本とするべきではないか。そして、売れた分だけ補充生産すればよい--こんな風に、三段論法は続いていく。これが名高い『計画はずし』の論理である。ジャスト・イン・タイム系のコンサルタントが、よくこうした指導をしたがる。
この論法を採用すると、困るのは材料手配である。引取りカンバンで材料をサプライヤーから持ってくるとしても、月次総量の内示は誰が決めるのか。内示無しで「使った分だけ精算」が通用するのは、一部の業種だけであろう。もし原材料費を抑えたければ、あらかじめ購買計画を立てて、きちんと仕入先の平準化を考える必要がある。さもなければ工場倉庫は原料在庫の山であふれてしまう。労務費だって、事前手配ができなければ結局高くつく。
そういう訳で、工場はやはり生産計画を必要とする。この計画は誰が立てるのか? 当然、工場側の誰かだろう。なぜなら、本社営業部門は“需要は誰も予測できない”というテーゼで動いているからだ。もっとも、「需要予測不可能論」のときでも、営業部門は販売目標を立てるかもしれない。たいていの会社では、営業マンは販売ノルマで駆り立てているはずだ。
だとしたら、営業の販売目標を参考にして、工場が生産計画を立てれば良いではないか--そう考える人もいるだろう。しかし、もしこれが経営管理の試験問題ならば、私はあいにく落第点しかつけられない。なぜか。目標は計画ではないからだ。
目標というものの性質は、大学受験を見れば分かる。第一志望校は目標だろう。しかし、それは達成できるとは限らない。達成できればラッキーなのだ。自分の実力よりも少し上を目指す、これが「目標」の意味なのだ。営業目標も同じで、実力よりも上をねらって設定する。これをストレッチ目標と呼ぶ。
したがって、営業目標どおりに生産計画を立てたら、作りすぎで製品在庫過剰になる。これを知っているから、たいていの工場では、営業目標を自分なりに割り引いて、生産計画を立てる。
そして、これこそ、製造業における諸問題の根元なのだ。なぜなら、同じ会社なのに、営業と生産が違う数字で動いているからだ。片や、今月は140個売ろうと考えている。片や、今月は100個作ればいいと考えている。生産計画は販売目標と違って、ふつうそのとおり実現する。そのとき、実際には120個の注文がとれたら、どうなるのか。20個分の不足と納期遅れは、誰が責任をとるのか。むろん、どちらも責任はとれまい。では140個作ればよかったのか。そのとき、無駄にできた20個の在庫は、誰が責任を持つのか?
どうみても、営業側・生産側いずれかのみの責任ではではない。課題と責任を自覚することは改善の出発点である。責任がないということは、改善もできないということだ。こうして混沌は野放し状態になっていく。
生産側が営業側と数字を共有していなかったら、生産計画など絵に描いた餅だ。今月のこの週は、この数字で行こう。両者でそう合意することが、生産計画の前提なのである。その前提をすっ飛ばしている会社は、あまりにも多い。いやいや、我が社は月次生販会議で確認しています。そう答える会社もあるかもしれぬ。だが、1ヶ月間の計画を変更せずに進められる会社には、まだお目にかかったことがない。追加変更はほぼ毎日、確認は月1回。そんなものを合意と呼べるのか。
製造業のサプライチェーン・マネジメントの最大の問題は、生産と販売がかみ合っていないことだ。その問題は、営業情報を生産側が共有できていないことに発している。生産計画の前にすべきことは、営業情報の共有なのである。では、営業情報の共有とは何か。販売結果の共有ではない。刻一刻と変わりつつある、販売途上の状況の共有だ。では、いかにしてそれが可能となるか。長くなってきたので、この問題は項を改めてまた書こう。