生産管理という仕事の目的は何か

以前、このサイトの読者の方から質問をいただいたことがある。「生産管理とはそもそもどういう仕事でしょうか?」という主旨だった。この方は製造現場から生産管理へ異動になった際に、仕事の全体像や目的をきちんと考えたく思い、本屋やネットを探して、わたしのサイトの「生産管理とはどういう仕事か」という記事にたどりついたのだそうだ。

上記の記事で、わたしは「生産管理とはあくまでサポーターであり雑用係といえる」と書いた。だが、この答えでは今ひとつ納得しきれない気持ちがあって、メールいただいたという次第だ。この記事は2008年4月、つまり今から8年も前に書いたものだが、いまだにそれなりのアクセス数がある。ということは、こうした問題を考えあぐねている人は、世の中にけっこう多いのだろう。

ただこの記事は、「サポーター、雑用係とはあんまりな言い方」というコメントも頂戴した。わたしは、プロジェクト・マネジメントの仕事は雑用の集積だ、などと考えている人間なので、『雑用』をムダだとか下層の仕事だという風には思っていない。むしろ一種の謙譲語として使っている。そうとらえることで、かえって仕事の本質、本来の目的が見えやすくなるのではないかと考えたのだ。だが、むろん雑用という言葉に引っかかり、ムッとされた方もいるだろう。自分の大切な仕事を雑用とは何だ、と。

でも、ちょっと考えてみてほしい。かりにあなたがジャズバンドのリーダーだったとする。仲間と一緒に音楽するのが純粋に楽しい。ところで、近々ライブを計画している。会場を手配し、曲目を決め、お知らせやチラシを作成して配り、必要ならゲストを呼んで、練習のためにスタジオも借りなければならないだろう。採算の心配もしなければならない。こうした面倒な仕事のほとんどは、リーダーであるあなたが采配する。そして、こうした仕事は、あなたや他のメンバーにとって、「雑用」に思える。なぜなら、あなた方にとって“本来の目的”は、楽器を演奏して音楽を楽しむことにあるのだから。

純粋に音楽を作ることにのみ心が向かう人にとって、それ以外の手配や環境作りは、雑用である。だから、バンドが成長し有名になったら、誰か「マネージャー」を雇って、そうした事は一切任してしまいたい。でもそれまではリーダーがまとめ、メンバーと分担して雑用を続けるしかない。ところで、雇われマネージャーにとって、会場手配や広報や会計などは、「本来の仕事」である。本人はもしかすると「雑用係です」と謙遜した言い方を、外部に向かってはするかもしれないが、その人自身にとっては、ちっとも雑用ではない。バンドに必要な、大事なことだからやっているのだ。

「製造部門」の仕事が音楽作りに相当するならば、いわゆる「生産管理部門」の業務は、雇われマネージャーの仕事に相当する。では、この雇われマネージャー、いいかえると生産管理の仕事の、目的・使命とは何なのか? それが今回の主題だ。

(ところで余談だが、最近、ノートルダム清心学園理事長でベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』の著者・渡辺和子氏が講演の中で、

「この世の中に『雑用』というものはございません。わたし達が用を雑にしたとき、いい加減にしたとき、その用は『雑用』になります」

と発言されているのを知り、面白く思った。ちなみにこの方はカトリック修道会のシスターだが、この講演は鎌倉の禅宗の総本山の一つ円覚寺で行った夏期講座だったのが、また面白かった)

さて、生産マネジメントという仕事の目的は何か? この問題を考えるにあたって、まず言葉について整理しておきたい。わたしは「管理」と「マネジメント」という用語を、あえて区別して使っている。両者はイコールではない。日本語の「管理」に相当する英語は、Management、Control、Administrationの3つがあり、かなり別の領域をさしている。この英語の区別については以前も「マネジメントと管理はどこが違うか (2002/05/19)」に書いたのでここでは繰り返さない。

日本語の「管理」がまた、くせ者の言葉である。ビジネス社会で管理といえば、権限・権力・地位などを通常伴っている。ところが「生産管理」だけは、管理なのに地位・権力がない(まあ品質管理や在庫管理も同様だが)。もしも生産管理が“生産を管理すること”を意味するのならば、工場組織はピラミッドの一番下に製造部門がいて、その上に生産管理部門があり、そのトップはすなわち工場長である??ということになりそうだ。だが、そんな会社は見たことがない。

にもかかわらず、多くの会社では–ここが日本語および日本のビジネス文化の不思議なところだが–生産管理は「管理」だから“技術屋ではなく事務屋の仕事”とされ、しばしば文系の配属先となっている。そのことの是非はおくとしても、こうした事情がますます、問題を分かりにくくしている。だからここでは、あえて一番広義で、ハイレベルな(=抽象度の高い)言葉である「マネジメント」を使うことにする。一般に、問題を考える際には、より大きな視野から問題の位置づけをとらえる方が、局所的でおかしな習慣の枠にとらわれずにすむからだ。

で、そもそも生産のマネジメントの目的とは何なのか? わたしの答えは比較的シンプルである。それは、生産の『仕組み』(システム)を


1 生み出し 、

2 活かし 、

3 進化させる。 そして、

4 それによって働きがいを創出する

ことを使命としている。

使命の中に「進化させる」ことが含まれているから、この使命は永続的で終わりがないことを示している。生産の仕組み(システム)とは、生産のための機械設備や、働く人々や、そのための空間(建屋)や、情報・データをやりとりする手順全てを含んでいる。なお、「システム」という言葉を使ったが、これはコンピュータとは直接関係がない。すべて紙と帳票で動かしていたって、それが『仕組み』である以上はシステムと呼べる。

いやいや、ちょっと待ってくれよ、と読者は思われるかもしれない。生産の仕組みを生み出す、つまり製造ラインを設計したり設置したりするのは、「生産技術部門」の仕事ではないか。“活かす”の部分の主役は、「製造部門」ではないか。だって彼らが製造機械を動かしているのだ。そして“進化させる”となると、たとえば「保全部門」「品質管理部門」の仕事もからむし、まして“働きがいの創出”なんて、経営者の仕事じゃないか!

そうかもしれない。だが、繰り返すが、上に述べたのは、もっとも広義でハイレベルな、『生産のマネジメント』のめざす目的、使命である。この中には、工場長がやるべきことから、現場の一担当者がやるべき事まで、すべて含まれている。そして個別の企業の生産技術・生産管理・資材購買・加工・製造・品管・保全・物流・・といった縦割り組織が、本当にこのような目的にふさわしい分業形態と目標設定になっているかどうかは、別問題である。

また、“活かす”という言葉にも注意してほしい。製造部門が機械を動かしているからといって、それを“活かし”ているとは、必ずしも言えない。もしかりにポルシェを町内の宅配便につかったら、ポルシェを動かしてはいるが、活かしていることになるだろうか? かりにもし製造部門が高機能な連続鋳造装置をフル稼働させて、その結果、使いもしない素材の在庫の山を築いたら、それは活かすことになるのか? それを生産管理部門が止める事の方が、活かすことになるのではないか。ある仕組みを、より価値の高い使い方に仕向けることこそ、“活かす”の意味なのである。

普通の工場における、いわゆる「生産管理部門」の中心的な仕事とは、計画・スケジュールの立案、作業の手配指示、進捗確認、そして問題発生時の対応などであろう。区別のため、これを狭義の「生産管理」と呼ぶことにする。ではなぜ、このような種類の仕事が必要なのか?

すべて一人でやる職人の工房には、「生産管理」はいらない。頑固親父が一人でやっている和菓子屋を想像してほしい。 材料の手配も、製造も、来客の注文さばきも、みな一人でやって、できている。

狭義の生産管理が要るのは、生産のスケールが大きくなって、分業が発生するためなのだ。一日に千人のお客が来る大店(おおだな)の御菓子司は、一人ではさばけない。売り子と作り手の分業、仕入れと仕込みと配達の分業、などが生じてくる。つまり店という「システム」になったのだ。かくして、販売(注文)と生産のすり合わせ
、製造と資材(購買)のすり合わせ、品質検査と出荷のすり合わせ・・・こうした調整が必要になる。 いいかえると、情報の交通整理である。こうした交通整理が、いわゆる狭義の生産管理の本質なのだ。

近代的な生産の仕組みにおいては、必ず「指示」と「報告」が行き合う。生産指示に対して、生産実績の報告が上がり、資材購買指示(発注)に対しては、納品書(納入報告)が上がる。こうした指示と報告情報のハブとして、全体の管制塔となること。それによって人や機械などの生産の仕組み・システムを「活かす」こと。
つまり、最小のインプットで最大の付加価値(スループット)を得られるようにすること。ただしそのことが労働条件の過酷化を招いて、「働きがいを創出する」障害とならないようにすること。効率の最大化だけに着目して、変化に適応し「進化する」ゆとりを無くさないようにすること。こうしたことが生産管理の仕事である。

これほどまでに大事な役割であるにもかかわらず、「生産管理」が余計な間接業務、事務作業だと思われているケースをときおり見かけるのは、なぜだろうか? たぶん、組織がどこかで目的意識や価値観を見失っているのだ。まるで売り子や配達の仕事をバカにして、「俺の菓子作りの腕があるからこの店があるんだ」とうそぶく職人のように。

まあ、世の中にはどんなに丁寧に説明しても、自分の抱えた仕事だけが偉くて、他はくだらぬと信じる手合いが一定数いる。彼らは自分がシステムの一員であることを知らない。大店全体がシステムとして機能し利益を出すから、職人も安心して腕をふるえるのである。システムでは、すべての要素がちゃんと機能して、はじめて全体が価値を生み出す。だから、要素間でどれが偉いの偉くないのという議論は、無意味なのだ。たとえどこかの要素(部門)が情報のハブとなり、そこが指示を出ししていても、それは「そうした役割」をおっているだけで、上下関係ではなない。たしかに生産管理は製造作業を直接する訳ではないから間接業務だが、大切な業務である。「大事な雑用」が、世の中にはあるのだ。

ものづくりをテーマとした展示会やサイトなどでも、取り上げられるテーマの中心は、製品の設計技術や、製造機械の生産技術・検査技術などであり、生産管理を真っ正面から取り上げたものは少ない。わたしは、このことを大変残念に思っている。それは生産管理が、生産システムの情報のハブである事を、多くの企業も技術者も認識していないことを示しているからだ。要素技術ばかりに熱中し、全体のシステムを見ないビジネス文化に、わたしは危惧を抱いている。ちょうど楽器をいじることのみに熱中し、それ以外はすべて「雑用」と貶めるジャズバンドのメンバー達のように。それは、「システムズ・アプローチ」の弱さを示しているのだろう。

最初の質問を寄せられた方には、こうお答えした:

「『そもそも生産管理とは何か』という問いを立てられたところがまず、素晴らしいと思います。“そもそも論”を考えようとする人は、少数です。100人中98人は、目の前の仕事や直接の成果だけを考えているのが現実です。これでどうして改善やら改革が可能でしょうか?

わたしのサイトは、『そもそも論』を自分の頭で考える人(=システムズ・アプローチの素質がある人)に役立つサイトを目指しています。」

そして、生産システムのマネジメント理解する糸口として、共著の「“JIT生産”を卒業するための本―トヨタの真似だけでは儲からない」をおすすめした。この本の第5章は、わたしが書いている。べつに(信じてもらえないかもしれないが)自著の宣伝のためにおすすめしたのではない。こういうアプローチで生産管理を論じた本が、滅多にないからなのだ。生産管理の仕事は、カンバン方式だとかMRPだとかのツール・手法の集合ではない。生産というシステム全体を見て舵取りをする、航海士やパイロットのように高度な技術専門職であることを、一人でも多くの人に知ってもらいたいからである。

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