ランスへの旅 Raims

フランス地方都市 点描(1)



ランスの聖堂

「そうだ、ランスへ行こう。」

誰が言いだしたのかは忘れた。が、長く込み入ったフランス企業との交渉の連続で、皆が疲れ果てていた時分だった。明日は一日、休みだから、どこか郊外に逃げ出そう、人混みの多いパリはもう沢山だ--そんな気分だったにちがいない。日本企業から出張に来た我々4人は衆議一致して、ランスなる地方都市に出かけることにした。

ランスという街がどこにあるのか、その時まで知らなかった。そもそも、Raimsという綴りがランスという発音と頭のなかで結びついていない。それでも地図を見ると、シャンパーニュ地方の中心都市だという。フランスの現在の領土はおおよそ六角形をしており、彼らはなぜかそれをひどく自慢にしている。その東側の角であるアルザス・ロレーヌ地方ほどはドイツに近くないが、それでもパリからはかなり東にある。はたして日帰りで行ける所なのか?

「でもまあ、シャンパーニュ地方だし。」と、乗り気の一人が言う。「シャンパンを浴びるほど飲めるかも知れぬ。」あの高名なる発泡性ワインは、そんなところで造っていたのか。浴びるほど飲めるほど財力があるかどうかはともかく、醸造所の見学は面白そうだ。時刻表によると、パリからは超特急TGVに乗って2時間半。なんとか日帰りできない距離ではない。ただし、途中のエペルネで乗り換える必要があった。

日曜日は、よく晴れていた。5月初旬の陽光がふりそそぐ中を、列車は東へと進む。パリの東駅を離れると、すぐに郊外の景色になり、そして農村の風景がずっと続く。フランスは六角形の巨大な農園なのだ。大いなる田舎の国である。

車窓からの風景

ランスという地名は、ロッシーニ作曲の歌劇「ランスへの旅」で知っていた。ロッシーニの音楽はどれも、純粋に音楽の楽しみのためだけに作曲されている。その記憶と重なる旅先の地名、ランス。しかし、ランスという町は不思議な地位を与えられている。フランスの国王は、伝統的に、ここランスの聖堂で戴冠式をすることになっているのだ。首都パリに結構なるノートルダム・ド・パリ教会を構えているのに、である。英仏戦争を戦った例のジャンヌ・ダルクも、国王のランスでの戴冠にこだわりつづけた。

鉄道の駅を下りて20分ほど歩くと、その大聖堂が見えてくる。ゴシック様式の、きわめて背の高い教会である。

  

入口の列柱には天使と聖人の姿が彫られ、ゴシック彫刻の傑作と呼ばれている。とくに、下の写真で一番左側にいる、女性の天使の優美な微笑は名高く、ランスの象徴のようになっているようだ。

私はフランスやドイツ、スペインなどで名高いゴシック聖堂をいくつか見たが、このランスの聖堂がもっとも美しく、好ましく感じられた。なぜかはわからない。ただ、重々しさがないのだ。会堂は3列の細長い配置で、空間が縦方向にすっと伸びていくようなイメージをもつ。そのリズム感も軽やかで美しい。ステンドグラスの薔薇窓は大きいが繊細な印象を与える。

 

奥の小礼拝室には、藤田継爾のステンドグラスがはめ込まれている。藤田画伯は、あるいはフランスに帰化したのだったかも知れないが、しかし国宝級の建物に外国生まれの芸術家の作品をはめ込むというのは、大したものだと率直に感心した。

ゴシック教会から外へ出ると、陽の光がまぶしかった。建築も良いが、飲料工場の見学も重要であると主張するエンジニアリング会社の熱心な社員の意見にしたがい、我々はMUMM社のシャンパン醸造所を訪れた(ランスには多くの醸造所があるが、すべてが日曜日に開いているわけではない)。

シャンパンはかなり特殊な作り方を要する発泡性ワインで、その発酵と熟成は気温の変化をいやがるために、地下で行なわれる。ワイナリーの建物は小さいのだが、案内されると地下にエレベータで下りていく。地下には想像以上に広大な空間が掘られており、その中でシャンパンが寝かされているのだ。

シャンパーニュ地方は水はけのよい白亜質の地層からなる台地がつづく。ここで栽培された葡萄を元に、地下にうがった醸造所で熟成されるものだけが、シャンパンの名前を許される。ここらへんの品質管理というか、ブランド名維持管理には、フランス人はことのほか気を使う。フランスという六角形の巨大な農園の中で、一人あたりの所得が一番高い地方は、(パリのあるイル・ド・フランス地方ではなく)なんとシャンパーニュである。シャンパンの高級イメージ戦略による価格維持が、その収入の大半を支えているのだ。

見学コースが終わると、お約束の試飲会である。シャンパングラス1杯に限り、浴びるように飲むことができる。むろん、お土産のボトルも売っているが、私はお酒ではなく、赤のきれいなネクタイを一本買い込んだ。

帰りの車窓からも、また美しい葡萄畑の続く風景を楽しんだ。ランスは、とても良い街だ。いつかまた来よう。そう、心に決める。

しかし、この美しき農村に暮らす人々は、くる年もくる年も、気候に一喜一憂しながら生きているのだろうな、と、ふと思った。