仕事を変革する<計画とマネジメント>の技術ノート

気まぐれ批評集 書評(2002~2004年)

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2004年



 ★★ 滝 イアン・ランキン
2004/12/11
リーバス警部のシリーズを初めて読んだ。とても面白く読めた。その面白さの質は、波乱万丈のストーリー性や、奇怪な連続殺人のスリラー性ではなく、登場人物達の会話を通じた微妙な感情のドラマにある。そこがミステリー小説としては新しいのだろう。この小説もかなり大部の長編だが、すらすらと読めてしまった。しかし大長編を読んだという重厚な満腹感は残らない。会話の続きを読みたくてページをめくっていると、いつのまにか本の終わりに来てしまった、という感じだ。

そういう点で、この人の作品は村上春樹に似ているかもしれない。ページ数のわりに、軽い。音楽や料理など、同世代ならばわかる小道具も多い(主人公のリーバス警部は女性との初デートに、ルー・リードのロックコンサートに誘うのだ)。

しかし、村上春樹とは違って、ここにはスコットランド人の陰鬱さと率直さとウィットの入り混じった、独特の気質がある。そこが、イングランド人の屈折とも違う味を与える。面白い小説である。



★★★ 人の値段 考え方と計算 西村肇
2004/11/21
著者の西村肇氏から、私の勤務先に突然電話がかかってきたのは2月の終わりごろだった。「青色発光ダイオード特許の貢献度を、数値的に評価することは可能か?」という問題について、佐藤君はどう考えるか、という問いだった。西村さんは私の大学院時代の恩師だが、この人は弟子に対して問題を投げかけておきながら、自分も同じ問題を考え続けて、しばしば弟子よりも先に解いてしまう。ちょっと困った先生なのだ。

日亜化学が青色発光ダイオードの特許をめぐって発明者の元従業員・中村修二氏(現在米国UCSB教授)と裁判で争い、200億円もの巨額な支払いを命じられたニュースは衝撃的だった。産業界からはすぐに反感と批判が相次いだ。しかし、私自身の感じ方は少し違っていた。『あの特許が200億円で独占的に買えるものなら安いものではないか』と思ったのだ。それは中村氏の人格などとは無関係の、値段づけの問題だ。

ただし、判決が、「発明者の貢献度は50%を下回らない」としたことには不満だった。これは理性的というよりも政治的な判断ではないか。この問題は、もう少し抽象化すると、サプライチェーンや企業内のバリューチェーンにおける貢献価値、中間品の価格、リソースの振替単価などと、すべて同根の問題なのだと思う。電話口で私はそう答えた。そして2週間で何か答えることを約束した。

複数の、異なる機能を担った人間達が集まって、一つの結果を達成したとき、各人の貢献はどのように評価するべきか。論理的で計算可能な手法はあるのか。それが、この本で扱っている問題である。誰一人欠けても成果はでない訳だから、達成のプロセスは一種の掛け算である。しかし、それを貢献という足し算に分解するにはどうしたらよいか?

この本では、プロ野球の貢献問題から始まって、指揮者の価値、学術論文の貢献度と進んで、後半は青色ダイオード訴訟の問題を徹底的に分析する。一見ばらばらなトピックを選んでいるようだが、その配列は巧妙である。最初のプロ野球は、結果が勝敗の数字で現れ、また各選手の成績も打率や防御率など数字で測られる世界である。著者は巧みな分析手法を用いて、投手の貢献度は打者に比してずっと大きいことを示す。ついで、成績が数字で測れない監督の貢献度を求めていく。ここらへんはOR的な醍醐味である。

それから、成果自体が定量評価しにくい学術論文の問題になる。ここで、新制大学の博士課程設置にともなう大学教授評価の社会的(文部省的?)要請から、引用度指数による業績評価と、その副作用の話になる。

この本の論理的なエッセンスは、第6章「貢献度評価の原理と実際問題」に書かれている。その方法は、
(1)成果達成までの仕事をサブタスクに分解する、
(2)各サブタスクの重みを決める(その際に8-4-2方式という方法論によって複数専門家の衆知を集めて利用する)、
(3)各人のサブタスクへの貢献度を推定して、積和をとって配分する
という手順である。

後半の青色発光ダイオード裁判への理論適用は圧巻である。分析はツーフロー特許の位置づけから、会計監査事務所による鑑定結果の批判、特許裁判の法的意義、非公開企業である日亜化学の投資額推算にまでおよぶ。こうした広範囲からの専門的分析能力は、毎日出版文化賞を受賞した『水俣病の科学』と同様、西村さんの独壇場であろう。最後に、中村修二氏の貢献度は約40%であり、’93-2001年までの確定利益額から、正当な対価は約70億円であると結論づける。

なお、中村訴訟への批判は数多いが、判決文要旨はおろか、特許法第35条(職務発明の対価)さえ読まずに行なわれる感情的批評がほとんどである。従業員は職務発明の正当な対価を得ることができ、それは不公平な雇用契約や社内規定を置き換える強制力を持つ。この裁判は、その譲渡対価の計算に関わる争いなのである。

ちなみに、本書の分析の中で、経営者による研究開発投資の危険負担コストという概念と計算式が出てくる(p.220の式2)。じつはこの式は、私が西村さんから電話で問題を出されてから、2週間後に答えた式と全く同一のものであった。使った変数の文字すら同じだったので、師弟でお互いに全く独立に問題を解いて、同じ論点に到達していたのである。しかし、そのあとの論理の展開、ないし問題意識のあり方は、少しずつずれていく。

4月に、西村さんと私は都内でこの問題に関する小さなワークショップを開いた。出席者は他に『ミッション』の著者・今北純一氏と、講談社の編集者堀越俊一氏の計4人だった。西村さんは青色ダイオード訴訟の貢献額の計算表を、すでに作っていた。しかし、その席上で議論になったのは、登場人物は誰と誰なのか、という問題であった。今北氏は、生産部門や営業部門の貢献を抜きにして、経営者対発明者だけで配分を考えていいのか、と強く反論した。

西村さんの論法は、貢献者の機能の中には、代替可能(replaceable)なものと、そうでないものがあり、生産や販売など代替可能な人達の貢献価値は、市場の相場で決まる対価(つまり賃金)を払えば、それで済むのだ、という主張だ。今北氏と私は、その論法にはどこか欠落がある、われわれ企業人の感覚とは、どこかそぐわないと反対した。

しかし、西村さんはその後、中村氏の元上司だった小山稔氏とのインタビューを経て、発明の実現には「発明者」「事業化リーダー(=プロジェクト・マネージャ)」「経営者」の3つの役割が不可欠・代替不可能である、というドクトリンに到達する。ここに至って、理論は企業人の実感と一致したと言って良い。

本書の最大の功績は、この小山氏という人物、ならびに事業化リーダーという役割に、正しくスポットライトを当てたことである、と私は思う。こういう、ある意味では職人堅気な管理者が存在することで、はじめて画期的発明は現実の商品に結実するのである。

一方、私の方は、プロジェクトにおけるサブタスクの貢献価値を計算するにあたり、西村さんの8-4-2方式とは異なる、リスク確率とキャッシュフローを元にしたグラフ理論的方法を考えるに至った。その結果は、"Risk-Based Value Analysis"の題で、10月の国際PM学会(ProMAC 2004)に発表した。ただしまだ理屈だけの話であり、現実への適用によって磨きをかけるつもりでいる。

最初に電話をもらってから8ヶ月後に、本書「人の値段 考え方と計算」は上梓された。西村さんは、「人の値段 その物理」というタイトルを考えていたらしい。『物理』とは物(モノ)の理(ことわり)、の意である。営業的なアピール力はともかく、これはまことに西村さんらしい題名だな、と思う。生命科学を論じようと法律を論じようと、彼はつねに物理学の人なのである。

本書は非常に論争的で面白い書物であり、この種の問題に関心を持つすべての人におすすめする。



★★★ 漆の実のみのる国(上・下) 藤沢周平
2004/11/18

上杉鷹山といえば江戸時代後期を代表する名君である。J・F・ケネディがかつて「尊敬する日本人」として唯一名前を挙げた人物で、海外でもその存在を知られている。鷹山公は財政破綻寸前の米沢藩・上杉家を養子として継いで、それを立て直したことで尊敬を集めている。

しかし、その改革は一筋縄でいく類の事業ではなかった。この上下2巻にわたる小説は、上杉鷹山が養子として登場する前の、米沢藩の内情から物語をはじめる。それは、戦国武将以来の名門としての大きすぎるプライドと、小さすぎる農業経済とのアンバランスに苦しむ小藩の物語である。そして、心ある家臣達が、藩の政治を私物化した重役を取り除いてからも、風流趣味の君主の無理解、うちつづく武家階級の困窮などで、藩内は疲弊の極みにあった。

それにしても、保守的な社会を改革することの、いかに困難であることか。上杉鷹山が家督を継いで5年たち、10年たっても、あいかわらず米沢藩は困窮と貧困と干ばつと飢饉の中をのたうち回り続けるのだ。この小説は藤沢周平の絶筆となるのだが、かれはその時間の流れを決して早回しに描写したりしない。平成のバブル時代を経て、長い不況のトンネルの中を旅しているわれわれ日本人に対して、“改革は一日にして成らず、その敵は自らの心中にある保守性なり”と厳しく戒める物語となっている。

小説の最後の数行、すでに引退し仏門に入った鷹山が、漆の実のみのる国を夢見て農業改革に大号令をかけた若い頃を回想するシーンは、ほとんど悲痛である。これこそ、武家的なモラリスト作家・藤沢周平の最後の境地の独白なのであろう。



★★★ すべての女は痩せすぎである 姫野カオルコ
2004/11/06

姫野カオルコという人のエッセイがこんなにも面白いものだとは、知らなかった。ペンネームから受ける印象とはうらはらに、この人には知的で辛辣なウィットと、その裏側にあるモラリストの感覚がはっきりしていて、小気味よい。

美人というもののイメージをめぐって、最初の方は論議が進むのだが、これほど女性と男性とでパーセプションが異なっている事項は、実は珍しい。しかも、そのことに、両性とも気がついていないのだ。著者がいとも正しく指摘するように、じつは「男性は女性の肌のことをちっとも気にしないし、見つめてもいない」。これは、男の側からすると「女は痩せている方がきれいだとは必ずしも男は考えていない」という命題と同じくらい、正確な指摘である。肌のきめに女性は勝手にこだわっているだけ、ダイエットに勝手にこだわっているだけ、という風に、じつは男性は見ているのである。

ではなぜ、このような誤解が定着し固定化するのか。それは、「公正な判定ができないもの、すなわち、本来は自由であるべき各人の嗜好や認識に、価値のラベルをイメージ糊で貼り付けるのが第三次産業である。」からだという、透徹した現実認識がこの人にはある。だからこそ、このエッセイは見事に面白いのである。



★★★ 目に見えないコレクション シュテファン・ツヴァイク
2004/10/21

伝記小説の名手として知られるツヴァイクは、オーストリア生まれのユダヤ系の作家だ。残念ながら、現代ではほとんど忘れ去られようとしている。しかし、私は初めてこの人の本を読んだが、とても面白かった。

本書は短編集で、お得意の伝記物はない。しかし、どの話も、なんとなく主人公の伝記のような、あるいは回想のような形式をとっているのは興味深い。そういう手法が好きなのだろう。

どの短編も興味深く面白いが、とくに、タイトルになっている「目に見えないコレクション」「レマン湖畔の悲劇」「書痴メンデル」「レポレラ」「チェスの話」など、平凡な中・下層階級の人間を描いた短編が印象深く、素晴らしい。そして、社会がしだいに人間を押しつぶしていく第一次大戦後のドイツ世界の、重苦しく不気味な様子が、奇妙で愚かでユーモラスな主人公達の人生を通して、陰画のように語られていく。

それにしても、相馬久康をはじめとする翻訳者達5人の解説はいったい何だろうか。この東大の独文の教授達は、おどろいたことにツヴァイクの小説の価値をさっぱり認めないのだ。中編「感情の混乱」など、今日の読者の目から見れば分かり易すぎるほど単純なプロットの小説だが、これをフロイト精神分析学の小説への転用という「テーマ小説」だと断じた上で、語るに落ちたようなむなしさが残る、と批評する。要するに、トーマス・マンのような大芸術小説ではない、といって非難するのだが、それはシューベルトの音楽に対して、ベートーヴェンの論理的構築性が無いと文句を言うの類ではないか。

むしろ、この作家が織りなす、20世紀にしてはやや古風な小説を、今の我々はむしろ新鮮に楽しむことができる。古風なるがゆえに、かえっていつまでも古びないで残る職人的な文学の味わい。それは、職人芸の奥にある、人間性への深く細やかな愛情に支えられているのだ。文学好きの読者に、ひろく推薦する。



 ★★ ココロの止まり木 河合隼雄
2004/09/19

文化庁長官であり中教審の委員長にもなった河合隼雄の新刊。なにせ現場から離れて偉くなりすぎた人だし、それに週刊誌に連載された短いコラムの集成だから期待せずに読み始めたが、意外に面白かった。3ページに満たない断章のエッセイが並ぶのだが、きらりと光る意見があって、多彩だ。

たとえば、ファンタジーの意義は「真実を伝える最良の方法である」というコメントは、家庭内で虐待されている子どもの箱庭療法の話に出てくるのだが、先のH・G・ウェルズの仕事の意義を考えると含蓄が深い。現実について言語化できない子供たちが、神話的なドラマを通じて語ることで、少しずつ自分の傷を癒していく。そのプロセスのなかで果すファンタジーの役割について、「なんといっても伝えたい『真実』があり、それを伝える最良の方法はファンタジーしかないのだ、ということで、そこにファンタジーが自ら展開してくる」という。

河合隼雄は現場主義の人である。臨床の現場にずっと生きてきて、学問的な美しい理論構築の上手な学者ではないが、エピソードの選び方やたとえ話がうまくて、平明な結論を納得させるのにたけている。もともと学者になるために心理学を選んだ訳ではなくて、数学科を卒業して高校教師になり、教育のために心理を学ぶ過程から、しだいに留学して専門家になった人だ。理系でも文系でもない職人的なバランス感覚が優れているのだろう。だから、こうした事例の多い語り口が似合うのだと思う。



★★★ ウェルズ傑作短編集1 H・G・ウェルズ 安倍知二・訳
2004/09/17

傑作である。この古典に対して、それ以上、何を言う必要があるか。

ヴェルヌの創始したSFという小説の新形態を、H・G・ウェルズが真に豊穣なジャンルに育てたのは、何よりもその天衣無縫なアイデアと、社会に対する優れた洞察のためだ。透明人間、宇宙人襲来、タイム・マシンなど、現在のSFの主要なアイデアはH・G・ウェルズがもたらした。そこにはそれなりの「科学的説明」が施されてはいるが、科学は本質と言うよりも装飾であって、あくまで想像の翼を羽ばたかせるための踏み台でしかない。

むしろH・G・ウェルズにとって科学は、来るべき未来や人類社会の進化を見通すための道具であった。つまりヴェルヌが自然科学と技術から生まれる明るい啓蒙的ロマンティシズムを描いたのに対して、ウェルズは社会科学にもとづいたファンタジーを書いたといっていい。そして、彼のファンタジーは決して明るくはない。この短編集に収められている名作「タイム・マシン」は、その典型の一つである。

思うに、彼の奇想の根底には、イギリス風の妖精幻想誕があるように思う。それは、どこかしらもの悲しい短調の旋律を響かせている。「塀についたドア」は、本書の中でも最良の短編だと思うが、これなどは科学とはほとんど無縁な、心理学的幻想小説である。主人公がいつのまにか政治家になり大臣に出世していくのを見ると、著者が属していた英国の上流社会の不思議さを感じる。が、現実からファンタジーへの扉である「塀についたドア」を切望しながら現実世界に流されていく姿こそ、絶頂期を極めた大英帝国の心象風景を表わして見事である。



 ★★ 上司は思いつきでものを言う 橋本治
2004/08/21

自分のような中間管理職にとって、なかなか身につまされるタイトルの本である。上の方のエラい人達は、なんだか現実とずれた思いつきで戦略やら指示やらを下してくる。しかし、省みて自分はというと、たぶん部下を持つ前から、ずいぶん思いつきばかりを口にしていたような気もする。

なぜ、会社の上司という人種は思いつきでものをいうのか。そこには構造的な理由がある、と橋本治は主張する。組織の管理階層を上にあがると、それだけ「現場」から距離が遠くなってゆく。しかも、遠ざかった自分は、現場から吹く変化の風(それは部下の提案や疑義として現れて来る)をかわして、管理者としての立場を守らなければならない。それも、リアリティを失った状態認識のままに。これが、「思いつき」でものを言う原因である、と。

この本の主張は単純で明快だが、ページ数のわりに内容が少ない。だから短い言葉で要約できてしまう。橋本治の最近の本の共通する傾向だ。彼一流の饒舌体も、例示できる材料が少ないので(古典文学や美術史と違って)空回りしがちだ。

経済社会の進展とともに、お金が金を生む状態がますます顕著になる。そこで、現場が痩せ細っても会社は残っているという、不思議な現象が日本に起きている。そこに加えて儒教道徳の上下関係だけは、無意識の規範として受け継がれる。こうしたことを正しく指摘しているのだが、では具体的な処方箋はといえば、「あきれてみせる」だけだ、という結論はちとさびしい。もう少しこの著者には、頑張ってあばれて欲しいものなのだが。



 ★★ 楽老抄 田辺聖子
2004/8/07
上手に歳をとることは、随分むずかしい。肉体的な加齢はいやおうなしにやって来る。しかし、精神的に老成してゆくプロセスは、自然に任せていけば進むというものではない。むしろその反対だ。なぜなら、人間は、心の部分ではほとんど歳を取らないからだ。青年時代の幼さと愚かさを残したまま、たいていの人は自分の老いと直面しなければならない。

昭和ひとけた生まれの田辺聖子、芥川賞作家だが直木賞的な市場の中で小説を書きつづけて来た田辺聖子も、老いを語る年代となってきた。どこかで自分は「絶対者に生かされている」と感じている彼女の死生観は、彼女の性愛観のように、肯定的であかるい。そこには、有限な存在としての人間に対する、ウィットに満ちた洞察がある。人間は熟成してはじめて大人になるのだ、という謙虚な賛美がある。

田辺聖子は理知的な作家だ。そう書くと驚く人もいるかもしれない。しかし、彼女は知的な作家だ。さらに、彼女は倫理的なモラリスト作家でもある。それは、偏狭な定規で人間を測る愚かさを風刺しつづけた、彼女のユーモアエッセイによく現れている。この本は、そうしたエッセンスをさらに蒸留して集めたお酒のように、透明で楽しい。



 ★★ ボクの音楽武者修行 小澤征爾
2004/07/21
昭和30年代の終わりに、小澤征爾はバイク1台とギター1本を持って南洋航路の貨物船に乗りこみ、単身欧州を目指す。ギターは別に弾く訳ではなく、音楽家としてのサインとして背負っただけだ。でも武者修行の旅としては、何か背負う方が気合が入ったのかもしれない。そしてマルセイユで上陸してパリに向かう。

パリを本拠地としつつ、ブザンソンの指揮者コンクールでみごと優勝を果たし、本格的デビューのチャンスをねらう。その間に、シャルル・ミュンシュの指導を受け、渡米してレナード・バーンスタインの副指揮者としての地位を得て、ニューヨーク・フィルを振るにいたる。本書は、ここまでを自伝の形で書いたものだ。とはいえ、まだ30代の前半だから、まさに武者修行体験記ではある。

小澤征爾がまれにみる才能を持った音楽家であることは言うまでもない。が、この本を読んで感心したことが二つある。第一は、彼は自分を決して安売りしない、と誓って、みごと本願を果たしたことだ。これはよほどの自信・自負心がなければ、できるものではない。

もう一点は、欧米の文化・音楽に対する距離感の取り方が正確な点だ。クラシック音楽はヨーロッパ市民社会の産み出した果実である。つまり、地理的にも歴史的にも社会的にも限定された存在でしかない。小澤征爾はそこを良く理解していて、西洋文化に自分を同化させるような勘違いをせずにいる。それは、バーンスタインと一緒に来日したときの、「セイジ、お前はこんな美しい国に生まれて幸福だ。それなのに、なぜわざわざアメリカに来たのか。」というセリフの紹介に現れている。

彼の本を読んでいると、指揮者という仕事がじつに肉体的なスキルに支えられていることがわかる。こうした客観性とフィジカルな能力があいまって、彼の、あの解像度の高い音楽演奏が生まれるのだろう。指揮者という仕事に興味を持つ人は必ず読むべき本である。



 ★★ ぼっこ 富安陽子・作 瓜南直子・絵
2004/07/19

「ぼっこ」とはつまり、座敷わらしである。この子ども向けの小説の中で、現代の小学6年生である主人公が、京阪神の急速に開かれつつある近郊地帯の、古い祖父母の家の中で座敷わらしに出会う。彼が、自分のことをそう呼ぶのだ。

ここには、祖先から古く住み着いた土地における、古く住み着いた神々や妖怪などが見え隠れする、現代のお伽噺がある。それは、すなわち主人公の魂が育っていくための、糧としての物語になる。物語とは、魂を育てる糧だからだ。そして物語とは、神々からの贈り物でもある。

次第に少年としての自分を形成していく主人公に、最後に(子ども以外にはその姿が見えなくなる座敷わらしとして)ぼっこが、自らの系譜・物語を語る。それは、綿々としてつながる人々の暮らしの、歴史の糸で織りあわされている。現代の宅地開発は、しかしそれを力づくで踏みつぶしていき、牧歌的な農村のクラスメート達は、ちりぢりの運命をたどることになる。美しい中に、苦い後味があるこの小説は、だから確かにすぐれた現代小説なのだろう。



 ★★ 生産管理・原価管理システムのためのデータモデリング 渡辺幸三
2004/07/05

「佐藤さん、世の中のシステムエンジニアって、大きく二種類いると思いませんか。システム設計をするときに、まずデータフロー・ダイアグラムから手をつけるSEと、先にE-R図から書き始めるSEと。」

久しぶりに会った先輩の生産情報コンサルタントは、こんな意見を言いだした。中小企業診断士の研修講座での、休み時間でのことだ。話は雑談から、いつのまにか情報技術者論議になっていた。

さあ。正直言って、そんな風に思ってみたことはありません--私がそう答えると、その先輩はさらにたたみかけるように、こう質問してきた。
「それでね。この二種類の人たちのうち、どちらが優秀だと思います?」

「うーん、わかりません。どちらでしょうね。そんな事で決められるものでしょうか。」
「私の経験ではね、E-R図から書き始める人間の方が、出来がいいんですよ、平均しますとね。データフローから手をつけるひとより、まともな設計のプロダクトを出してくることが多い。なぜだか分からないんですがね。だが、データ構造をまず理解する技術者の方が、業務の表面的な要件に流されずに、木よりも森を見てることが多い。単なる経験ですけれどね。」

不思議なことだ、と思いつつも、実は内心すこしだけほっとした。なぜなら、私自身も、先にデータ構造を考えるタイプの人間だからだ。エンティティは何と何で、どう独立し、あるいはいかに関係しているか、真っ先に整理したくなる。そうしないと、なぜか落ち着かないのだ。なんだか、地盤も基礎もふにゃふにゃの地面の上に、建物をたてているような気がしてくる。

そうしたアプローチをする人にとって、本書はまさに最適の生産管理入門書だろう。なぜなら、生産管理という業務のフローを説明するよりもまず、生産に関わるデータ構造から説明してくれるからだ。

品目とは何か、部品表とは、工程表とは何か。現在庫と有効在庫、ロットと保管場所、受発注と入出荷、製造指図、月次計画、原価配賦・・本書はこうした順番で、「○○とは何か」をデータ構造から定義しながら説明する。著者の渡辺氏は、それなりに広い範囲の業種と業務をシステムにまとめた経験をもっておられるようだ。目配りの公平さや用語の選び方のセンスなどに、それがうかがえる。だから、生産業務を知りたい情報技術者にとっては、格好の書となっている。

この中で著者が紹介している、「在庫推移監視方式」も面白い考え方だ。品目ごとに(それが製品であれ中間部品であれ)、将来在庫の推移を監視しておき、供給責任者が需給ギャップを調整するように手配する、という方式だ。このやり方が運用に乗るためにはいくつか条件があるし、著者もすべてのメーカーで適用できると信じてはいないだろう。

しかし、全ての品目の需給推移を、「見える化」しておく工夫は、とても良い。APSの導入云々といっても、その効果は、計画立案作業の軽減などより、品目ごとの需給情報を共有できるようになることにある、と私は思っている。これを可視化する提案は、非常に有効であろう。

データ構造は、私にとって、ちょうど建物の基礎やフロア・レイアウトに相当する。だから、先にデータフローの話をされると、地型やレイアウトも決まらないうちに、エレベーターや廊下をどうつけようかと議論されているような気分になる。無論、それでうまく設計していける人も大勢いるのだろう。しかし、データの機能(フロー)は移ろいやすく、データの構造は比較的安定している。「SEは、年々変わってしまう川筋を追うのはやめて、上流(設計)をめざすべきだ」と主張する著者は、あきらかに不変のものごとに視点を据えているようである。




 ★★ ダンス・ダンス・ダンス(上・下) 村上春樹
2004/05/18

村上春樹の中期の長編。「ノルウェイの森」の次くらいに書かれた作品であるはずだ。

「いるかホテルの夢を、よく見る」という書き出しから、これが初期三部作、とくに「羊をめぐる冒険」の続編であることが分かる。展開はまあ、ある意味でいつもの村上節だが、リズムがわりと軽快で読みやすく、気持ちがいい。上下二巻になるほど中身の詰まった小説という読後感はないけれども、嫌味もなくて、ちょうどいい。全体にバランスのとれた作品といえるだろう。

例によって人間の悪をめぐる不気味な、謎めいたエピソードもでてきて、とくにハワイのホノルル・ダウンタウンの夜の雰囲気がじつにリアリティをもって描かれている。しかし、読んだ後に、不思議と透明で明るい後味を残してくれる。ローティーンの副主人公の女の子が、最後に素直に育っていきそうな雰囲気を残すからだろう。ヘビー級ではないが、村上春樹の中では良い小説だと思う。



  ★ テスト氏 ポール・ヴァレリー
2004/04/24
まあ、なんと言ったらいいのか、何とも不可思議な小説である。ちょうど100年前ほどのパリを舞台とする、テスト氏という思考型のやや偏屈な人物の物語だ。が、これほど物語性の薄い小説というものは珍しい。本来的な意味の小説(ロマン)を、ヴァレリーはまったく目指していないからだろう。しかしこれが上梓され、高く評価されるフランス文学界というのも、凡人にはまったく想像のできぬ場所ではある。

粟津則雄の翻訳は、決して読みやすくない。別に翻訳が不正確なわけでは全然ないのだが、原文の、ごく単純な言葉を並べた中から、きわめて明瞭な視覚的イメージをもたらす文体の魔法が、翻訳を通すと、すっかり魅力のかすれた、脂の乗らない日本語になってしまう。そもそも、翻訳で読むべき小説ではないのだ、という言い方もあるだろう。しかし、それでも美しい日本語で読みたいと思う読者もいるのだが。



  ★ ブッダの夢 河合隼雄・中沢新一
2004/04/18

主に仏教をめぐる、河合隼雄と中沢新一の対話、ということになっているのだが、あまり仏教臭は感じない。宮沢賢治からレヴィ=ストロースまで、かなり雑多な(よく言えば非常に広範囲な)話題が出るのだが、まあ中沢新一らしいトピックの取り方だな、という以外の感想はない。この人は宗教学者でチベット仏教の修行までしてきた人だが、どうも仏教を語るには理に勝ちすぎるのだろう。西欧風の語彙が多すぎるのだ。

この本の中で唯一最大に面白いのは、河合隼雄のカウンセリングした箱庭療法の症例である。その写真の一部は「トポスの知-箱庭療法の世界」にも出ていたが、抑鬱症の婦人が造った、帽子を中心とした箱庭の物語が素晴らしい。なによりも、ここには本当の意味での物語がある。魂のストーリー(ヒストリー)である。本書の最大の価値はこの写真の中にある。



 ★★ カミとヒトの解剖学 養老孟司
2004/04/16

養老孟司は解剖学者だが、脳の解剖学にどれだけ研究実績を持っているのか、読んでいてちょっと分からない。しかし、これは『宗教現象』を脳の観点から分析した、やや学術風味の、じつはかなり独断的な論考だ。

宗教を脳の持つ機能の病理的な周辺現象として説明するのは簡単だ。なにせ、あらゆることは脳の認知を媒介にして説明できてしまう(あるいは説明の意義を失う)のだから。とはいえ、それは「お宅にまさかケヤキの大木はありませんか、なに無い、それはよかった」という易者の説明に似ていなくもない。

だから著者は慎重に回り道をして、脳と身体、脳の統御性、言語中枢の位置、機能と構造の二元論、などから「脳化社会」というキーワードを引きだす。その上で、脳が死や生のリアリティの体験によって脳化社会の制限を超えてしまったときに現れる、宗教現象について分析してみせる。

著者は、宗教を「ありもしないことを現実であるかのように言う」しろものである、と考える“科学的”(=じつは唯物論的)見解からはスタートしない。これはまことに正しい態度である。宗教とは最終的には、この世の意味論であるから、科学を横目でにらみながら解釈学で攻めていくという研究の方法が唯一わかりやすい方法なのかもしれないのである。



 ★★ SEのためのMRP 隅田和行監修・鳥羽登著
2004/04/15

システム・エンジニア向けにMRPの実際を解説した本書は、1995年に日刊工業新聞社から初版が出て以来、2001年には第5刷にまで版を重ねている。このような地味なテーマの専門書としては、かなり息が長いロングセラーだといえるだろう。その理由は、MRP(Material Requirement Planning=資材所要量計画)を、本当に実務に適用した技術者が書いた、具体的なディテールに満ちた解説書だからである。

「『最小の在庫で、顧客の納期を守ること』
このことは、生産管理の最も重要な課題である」
という文章で、本書は始まる。この著者の問題意識は、非常に明確だ。それは、いかにして適切かつ実際的な生産管理の仕組みを作るかにある。そのための手法として、MRPを選んだ。そして、MRPの持つ潜在的な限界まで含めて、いかにシステム化するかを丁寧に解説している。著者の鳥羽登氏は、日立金属の情報システム部門の人だ。

この本が現れるまでは、日本におけるMRPの解説書といえば、大学の先生が米国の翻訳文献をベースに概念論を述べたものか、あるいはコンピュータ・メーカー側の技術資料が中心だった。そして、1980年代中盤からの「生産管理の『失われた10年』」。それは、ジャパン・アズ・ナンバーワンの輝きと傲りに隠れて、日本がもはや米国に学ぶもの無し、と思い過ごした10年間だった。

バブルが崩壊して、日本人が太平の夢から覚めた90年代半ばには、すでにこの国の製造業の国際競争力は大幅に沈下しはじめていた。その理由の一つは、明らかに計画系機能の軽視であった。市場は不況で供給過剰のマーケット・イン状態にありながら、生産側はあいかわらず大量生産・右肩上がり時代のプロダクト・アウト論理で動いている。もう一度、生産管理の仕組みを根本から立て直さなくてはいけない。そういう危機感が、本書を貫いている。

だからこそ、著者はこの本を、もっとも基礎的な「在庫管理」の章から解き起こす。そして、スケジューリング、部品展開とすすんで、最終章の「生産管理のシステム化」では、現品管理中心のSFC(Shop Floor Control)にまで筆を進めている。これは要するに、POPないしMESの領域である。

本書は、読めばうっすらとわかるとおり、MRPをスクラッチから設計し実装する人のためのガイドブックという性格が強い。今日では、しかしMRPはパッケージで外から買ってくる場合がほとんどだろう。たいていのERPパッケージの生産管理モジュールはMRPの機能を中心に出来上がっている。

それでは、本書は不要なのかというと、全く逆である。BOMの形式の分類、逆展開、タイムフェーズ、レベル・バイ・レベル、所要量ファイル、ネットチェンジ、ペギング、勧告・・などなど、MRPを真に実務に使いこなすために必要なテクニックが、詳細に記述されている。こうした事項は、決してERPの解説だけ読んでもわからない。やはり自分で仕組みを考え、自分で使ってみないと、本当には理解しがたいのである。それを先達が丁寧に解説してくれる本書が、ロングセラーになるのも当然と言うべきであろう。



 ★★ とり・みきの大雑貨事典 とり・みき
2004/03/27

スナック菓子のように気軽に読める短いエッセイ集が好きだ。電車の中や、人を待つ間の時間つぶし、それから眠る前のちょっとした娯楽として、いつでもすきなページから開けて、さっと読めて、そして少しニヤリとできるエッセイ。害が無くて、でもちょっとだけ機知がひらめいていればなお良い。そんなエッセイ集は、ありそうでいてなかなか無いものだ。

この、とり・みきの本は、そんな条件を満たしている。まついなつきが解説で「理数系ギャグ」と書いているが、対象との距離感から生まれるドライな諧謔の感覚が、たしかにそんな印象を与える。読んだから勉強になるとか、読まないと損するとか、そんな実利的読書から離れて、ちょっとニヤリとしたければ、この本を読むといい。



 ★★ 「運をつかむ人」16の習慣 マーク・マイヤーズ
2004/03/26
いわゆるセレンディピティーとか運などの研究は、たいへん難しい。それ自体が眉唾物と扱われることを、かなり覚悟してかからなければならない。著者マーク・マイヤーズはそのことを承知の上で、「チャンスと運は違う」という観点からこの本を書いた。

「チャンス」は偶然の産物であり、それ自体をコントロールすることは基本的にできない。しかし、著者によれば、「幸運な人」とは、いかにして他人が自分を助けて機会を与えてくれるかについて、努力して方策をつかんだ人だという。

彼がその具体的な方法として、この本で説明している16個のルールは、したがって、ある意味では対人関係の心構えのノウハウ集である。それはその通りなのだろう。自分の上にこぼれ落ちてくるチャンスという種を、いかに芽を出させ大事に育てて大きく実らせるか、それがポイントだとしたら、自分一人で達成できることはひどく限られている。したがって、運とは人間関係のスキルによる、というテーゼは、十分納得のいくものなのである。



 ★★ ミッション 今北純一
2004/03/06
普通の人は当然のように思っているらしいけれども、私にはかねがね疑問に思えることが一つある。それは、会社というのは、なぜこれほどまでに多様なのか、ということだ。

人間自身は生物的に多様で、髪の毛の色も背の高さも性別も、さまざまに異なっていて、考え方や感じ方ももちろん異なっている。もともと人間は合理的な目的のもとにつくられているものではないから、ある意味では当然のことだろう。

しかし企業というものは違う。企業の最終的な目的はどこも共通で、それは要するに『お金を儲ける』ことにつきる。何よりも、経済的合理性によって動くべき存在として生まれている。もちろん、『社会に貢献する』ことを目的だと言ってみたりもするが、それは懐具合が暖かい時だけのことだと、みな知っている。

だとすると、なぜ企業というのは、すべて同じ業態、もっとも経済的に効率の良い業態に集約されていかないのだろうか。Aという産業よりもBという産業の方が平均して収益性が高いのならば、なぜAはほどほどにして、B業界にみな転身しないのだろうか。なぜ(たとえば)エンジニアリング会社というのは、好きこのんで地の果ての何もない砂漠のまっただ中に乗り込んでいって、海の彼方の国から買い集めた資機材を組み立てて工場を造るといった、利幅が薄く苦労とリスクばかり大きな仕事をしたがるのか。なぜ独占的な機械をつくって保守契約でしこたま儲ける楽な業種に転業しないのか。あるいは、なぜ投資銀行や保険会社のような、利幅の大きな仕事をメインにしようとしないのか。

この問いに対しては、いろいろな答えが可能だろう。歴史的経緯、法規制、人的・知的資源の制約、etc…。しかし、本書の著者・今北純一氏ならばたぶん、こう答えるだろう。「会社とは、他と異なるユニークなミッションを明確に持ったときに、はじめて生き生きと活動できるのだ」と。そのミッションが、具体的な仕事領域におけるビジョンと、従業員が働き続けるパッションを生むのである。

今北氏によれば、企業には、ミッション(挑戦すべき夢や目標)とビジョン(ミッションに至る具体的な道筋)、そしてパッション(情熱)が必要なのだ。これが本書のテーゼである。そして、不思議なことに、他と異なるユニークなミッションこそ、企業の生命力の源泉であるらしい。私がこれを不思議と感じるのは、経済的合理性が「あらゆるものが交換可能である」ことを前提としているからである。どんなものもお金で買える。それが経済の論理だ。従業員は交換可能であるべし、特定の誰かのスキルに頼る仕組みはいけない、そう経営学も教えるではないか。

にもかかわらず、「パンのみに生きるにあらず」にも書いたとおり、人間は仕事に意味を求めてしまう存在らしい。なんのミッションももたぬ企業、「顧客第一主義」「誠心誠意」といったスローガンしか持たぬ会社、「選択と集中」「経費の削減」「成果主義人事制度」「抜本的改革」などなど、どことも区別できぬ似通った言葉ばかりがならぶ財務広報資料・・・こうした無個性な企業が日本にはあまりにも多い。だが、存続と自己保全だけが目的となった組織は、働く人間に意味を与えることができない。結局は立ち腐れていくばかりなのだ。

人間に哲学が必要なように、企業にも哲学が必要だ。そんな主張をする今北氏は、数年前にフランス資本の多国籍企業の上級役員職を自ら捨てて、コーポレート・ヴァリュー・アソシエイツというコンサルティングの仕事に飛び込んだ。今北氏はたまたま私の出身大学の研究室の先輩に当たり、そのご縁で何度かお目にかかったことがあるが、永年ヨーロッパの社会に暮らし働いてきた氏の話は、たしかに非常に面白い。

とはいえ、この本自体は、あいにく今北氏が直接話される話ほどには面白くない。立場上クライアントの話は出せないのだろうが、有名企業の一般的な話題が多いからだ。しかし、そう言う意味ではやや程度を落として書いたこの本が、これだけ売れているのは皮肉なことである。せっかくだから、もう少し辛辣でも良いから具体事例の多い続編を書いてほしいと期待する次第である。



 ★★ 東と西-二つの日本 谷川健一・網野善彦・徳川宗賢・市川健夫
2004/02/22
古来、日本は単一言語を話す単一民族だった、とふつうは理解されている。国内の先住民族であるアイヌ民族をのぞけば、という限定をつければ、賛同する人はさらに多いだろう。いや、反対者はほとんどいないかもしれない。

しかし、この本の著者達4人は、そうした定説にあえて疑問を投げかける。連続講演会の体裁で集まった著者らは、古代史・中世史・言語学(方言研究)・畜産文化論の視点から、東日本と西日本はかくも異なっている、と論じる。とくに、谷川健一は「蝦夷」や「日の本」の国号の由来や、東北の白鳥伝説などから、「かつては日本列島に、倭国と、日本国と、毛人の支配する国と、三つがあった」という極めて大胆な推論をうち立てる。

谷川健一にしても、網野善彦にしても、戦前のいわゆる皇国史観=国民国家観が、姿形を変えて、今でも日本人の歴史的思考を制約している、と考えている。大和王朝を中心として(後には京都を中心として)文化が地方に同心円状に伝播していったという議論があるが、これに対抗しうる様々な論点をあげている。知的な刺激に満ちた面白い本である。



★★★ 吶喊 魯迅
2004/02/12
魯迅はすばらしい。
私はこの短編集の最後の部分を、出張先の上海のカフェーで夜、読んだ。現地で読んだから、余計に感興高まる、という類の風景小説でない。が、魯迅は辛亥革命直後の中国の混沌の中を生きる、下級市民たちの生活を簡潔に描いて、人間性の普遍にぐいぐいと近づいている。その混沌は、また今日の私たちの混沌にも通底している。

読みながら、私は昨年初めて読んだチェホフを思いだした。いずれもまだ明けぬ闇の中で、いずれ来るはずの新しい時代のかすかな予兆を探し求めている。単純だが愚かな人々が、腐敗し自らの重さで沈みつつある体制の下に右往左往する姿。その背景に、人間や時代を超えた自然が、静かな尊厳にみちて時折描かれる。

有名な「阿Q正伝」も、中国近代小説の出発点となった「狂人日記」もすばらしいが、何より名作「故郷」の結びの言葉に感動した。それは、袋小路の中で行く先を見失っている今の私たちの社会を照らす光のように、輝いている:

“思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ”

竹内好の訳も文句なく素晴らしい。



 ★★ カモメがおそう島 ロベルト・ピウミーニ著・高畠恵美子訳
2004/01/07
子ども向けの小説だが、内容はなかなか良い。イースター島をモデルにした南洋の架空の島を舞台にしたファンタジーである。物語はいささか苦い味があり、最後には救いがあるが、現代的な小説となっている。もとの文章が美しいのだろう、翻訳もそれをうまくうつしだしている。



2003年



★★★ シャーロック・ホームズの冒険 アーサー・コナン・ドイル
2003/12/25
小学生の時に、ホームズ物の児童向け翻訳書を読んだことがある人は多いと思う。私もその一人だ。そこを入門して以来、たくさんの探偵小説やミステリーを読んできた。しかし、その後ホームズの原典をあらためて読むことは忘れたままだった。

いま、そのときから30数年経って、あらためて本来の大人向きの翻訳を読んでみると、こんなに面白い小説だったのか、と感銘を新たにする。今さら言うまでもないのだが、この第一短編集は、本当に粒よりの傑作ばかりなのだ。『赤毛連盟』の奇抜、『まだらの紐』の恐怖、『唇のねじれた男』の意外性・・どれも素晴らしい。「ストランド」誌に連載されるやいなや大人気になったのも当然だろう。

しかし、読んでみてそれ以上に楽しいのは、シャーロック・ホームズという飛び抜けて風変わりな主人公の性格描写である。『ボヘミアの醜聞』などはその極致だろう。依頼人の姿・身なりをちらりと見て職業や出身、悩み事などをずばりと当てる、ホームズお得意の推理といい、ワトスン博士に対する教訓的な物言いといい(「ワトスン君、君は見てはいるけれども観察していないのだよ・・」)、あるいは妙に芸術気取りの衒学趣味といい、実にホームズそのものである。この楽しさが、ホームズ・ファンの源泉なのだろう。

結末を知っている話ばかりだが、どれを読んでも楽しめた。子どものころに読んだきりになっている人は、もう一度ぜひ手にとってみる価値があろう。



★★★ 出る杭は打たれる--フランス人労働司祭の日本人論 アンドレ・レノレ
2003/12/09

これは本当に驚きの本だ。著者のレノレ神父は1935年生まれで、1970年から1991年までの21年間、宣教師として日本に滞在する。その長い年月の間、川崎市浅田教会に赴任するかたわら、「労働司祭」として、いくつかの労働現場で働きつづけた。会社に就職し、フルタイムの労働につくのだ。それも、建設や鉄工の下請けの零細企業ばかりである。その生活と労働を通じて、日本の労働者階級の肖像を断章的に書き連ねたものが本書である。

それにしても、ここに記された人々の姿は、経済大国日本の二重構造において、底辺に生きる人々の生活と意見を、なまなましく表している。繰返される大企業の押しつけと横暴、労災の握りつぶし、そして建前だけの労働者の権利。それは、まがりなりにも建設業界に身をおく私の、現実に対する無知を恥じ入らずにはいられぬものだ。

しかし、その中でもレノレ神父は労働者階級の連帯を信じ、長時間労働に自らの体力と健康の限界までいどみながら、友愛を通じて神の国の福音に共感をもってもらうことを希求し続ける。それがどれほど成功したかを、簡単に言うのは難しいだろう。TVや雑誌に出て、にこやかに評論をする外人大学教授などに比べて、レノレ神父が直接ふれあうことのできた人々の数は限られている。しかし、ここにあるのはまことに誠実な行いの記録だ。生半可なフランス人論・日本人論を超えて、読者の魂にまっすぐ迫ってくる力がある。われわれの社会の真実を知るためにも、この本は広く読まれるべきだと思う。



 ★★ 気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ リズ・ダベンポート
2003/12/05

うーむ、これは俺のための本だ。書店でタイトルを見かけたとき、すぐにそう思った。だからすぐに買ってしまった。そして、実行しはじめたが、うううむ、なかなか想像以上に険しい道ではある。しかし、「平均的なビジネスマンは、捜し物のために年間170時間を浪費している」と言われると、こりゃいよいよ俺のことだ、と実感せざるをえない。

著者はもともとIT業界にいて、プロジェクト・マネジメントのコンサルをしてい女性である。しかし、PMの最も重要な仕事は、毎日入ってくる大量の情報を仕分けて、ただしくTo Doの優先順位を決め、そして必要な情報だけをファイリングしていくことにつきる。それは、まさに机を見ればレベルの分かることなのだ。

「ただ一つの管制塔を持つ。」この原則だけでも実行できると、かなり仕事の見通しが良くなることはたしかである。それがうまくできていないすべての人は、やはりこの本を勉強すべきであろう。



★★★ まともな人 養老孟司
2003/11/21

この人の本を初めて読んだ。そして、とても面白いと思った。少なくとも、この人自身はとても「まともな人」だ。この人が、“まとも”例としてあげている人々、たとえば橋本治や河合隼雄などの名前を見れば、何がまともであるかを見抜く目があることがよく分かる。

私の分類では、人間には三種類ある。まともな人と、普通の人と、普通でもまともでもない人である。どうやら養老孟司氏も、同じような分類基準を持っているのだろう。そして、大事なことは、「まとも」になることである。それに比べれば、有名であるとか権力があるとかはとるに足らぬ事柄だ。

ただし、この著者は、ときどき表現の仕方に飛躍ないし省略が多すぎて、誤解を招いているのではないかとも思う。「唯脳論」という著書のタイトルなどその典型かもしれない。私も読まずに敬遠していたが、じつは、現代社会の唯脳論的な行動思想を批判するための書物だったのだ。

この本の中で一番面白かったのは、「わかってます」という文章だった。薬学科の学生たちに、出産の記録映画を見せて感想を書かせる。すると、女子学生の多くは自分の身に引きつけて切実な感想を書いたのに、男子生徒のほとんどは、「そんなの知ってます」だった。このことから、知ることと分かることの距離がいかに遠いか、知ることから分かることに近づくには、いかに外部的な経験と反復が必要であるか、例をあげながら説明していく。このテーマは、のちにベストセラー「バカの壁」(未読だが)に発展していくことになる。しかし、その結びは、感動的ですらある。そのほかにも、学ぶところ考えさせられる所が多い書物だ。強くおすすめする。



 ★★ 夷斎座談(上) 石川淳対談集
2003/10/30
「夷斎」は石川淳の雅号で、本書は昭和40年代前半のころの対談集。相手は武田泰淳、花田清輝、安倍公房、吉川幸次郎、三島由紀夫、貝塚茂樹、金谷治、川端康成・・となかなか多彩で、面白い。しかし物故した人ばかりだな。時代からいって当然だが。

石川淳は一貫して、文学は政治とは独立した価値を持つこと、しかし文学は所詮は芸の一種であって何か高等なものと勘違いすべきではないこと、を主張する。ある意味でアナーキストである。だが、同時に和漢の古典に通暁しており、その該博な教養のバックグラウンドから強靱な思考が生まれてくる。

この対談集の中でも面白いのは、仏教について武田泰淳と議論し、中国思想について吉川幸次郎と語り合うところだ。それに比べると、三島由紀夫や川端康成はいかにも思考の奥が浅い(彼らの文学者としての才能は別としても)。思考から文学が鍛えられるタイプの人と、言葉と感性だけで文芸を磨こうとするタイプと、二種類あるということなのかもしれない。しかし、対談集を読むなら、やはり断然、前者の方がいい。



  ★ トップレフト 黒木亮
2003/10/16
ロンドンを舞台とした、国際金融市場におけるプロジェクト・ファイナンスのプロたちの姿を描いた経済小説。作者自身が現役の金融マンであり、ロンドンで長いキャリアを経験しているために、それなりに道具立てや細部はリアルだ。

邦銀の愚劣さに愛想を尽かして飛び出し、米国系投資銀行に転じた男と、同じ邦銀の海外支店で上役の馬鹿さ加減に呻吟しながら苦闘する元同僚が、イランにおける自動車プラント建設の案件をめぐって激突する、というプロットは、なかなかわかりやすい。ただし小説としては、ディテールやエピソードの取り方をふくめて、なんだか『ゴルゴ13』程度、という評価ではある。

筋立てのスピード感はそれなりだが、著者の経歴を冷静に読めば、結末はだいたい想像がつく。それに、今の日本の総合商社って、こんなにカッコいいかな? プラント業界からかいま見た実像とは差を感じるのだが、まあ「日本には商社があったために投資銀行という業態が育たなかった」との指摘は当たっているかもしれない。



 ★★ 母性社会日本の病理 河合隼雄
2003/10/14
この著者の比較的初期(70年代半ばまで)の論考を集めたもの。中央公論などの総合雑誌に掲載された文章が中心で、エッセイよりはもう少し本格的な内容を議論している。ただし本全体に一貫したテーマが流れているというよりも、ユング心理学をめぐるさまざまな話題が触れられている形だ。

ただ、著者がユング研究所の教育から卒業して、自分なりの日本人のための分析心理学を形づくっていた時期に当たっており、そうした意味では面白い。たとえば、日本人と「場の倫理」(これは西欧近代の自我による個の責任倫理と対比される)、中年の危機、日本の昔話の分析などは、この後も繰り返し語られ、研究されるテーマになる。また、最後の、マザー・グースの分析、ないし鑑賞は、実に面白い。



★★★ 米に生きる人々 桜井由躬雄・文、大村次郷・写真
2003/10/05

東南アジア史が専門の歴史家・桜井氏が、そのはばひろいフィールドワークの中から「米」と人間の暮らしにまつわる話題をまとめた本。写真家大村氏の素晴らしい写真をえて、いっそう内容が引き立ち、読んで楽しく見て美しい本に仕上がっている。

この本を読むと、「稲作」「米食」というものに関してわれわれ日本人がもっている固定観念が、いかに狭く閉じられたものか、よくわかる。水田・田植え・根刈り・炊飯・白米・・。それらは、日本列島中央部の気候・環境・生態系において発達した、一つの形態にすぎない。しかし、日本人はしばしばそれを勝手に普遍化して、「米」に共通な真理や約束事であるかのように考える。そして、はなはだしいときには、それを他国の人々に対して「協力・援助」の形で押しつけたりしているのではないか。そんなことを考えさせられる。

この本の文と写真で学ぶことができる米の世界は、もっと多様で豊穣だ。その多様さは、また南アジアから東南アジアを経て東アジアに至る広い地域の、歴史的な多様さと相似形だ。環境が農業を規定し、耕作方法が社会形態や文化・宗教のあり方を決めていく。そして、文化はまた農業技術を経て生態系の固定や改変につながり、ループが戻っていく。そうした人間と自然を含むシステムのあり方を学ぶのに、最適な一冊である。



 ★★ サン・フィアクル殺人事件 ジョルジュ・シムノン
2003/09/28

1930年代に書かれた、メグレ警部もの。舞台はパリを離れて、警部の出身地であるサン・フィアクルという田舎町に移される。職人シムノンの作品らしく、風俗や人物描写も巧みで、しっかりした水準の小説に仕上がっている。



★★★ 母親のための人生論 松田道雄
2003/09/18
この本が2003年に読んだ中では一番感銘を受けた本だった。昭和39年(1964年)に出版された岩波新書で、横浜の古本屋の片隅で見つけた。通常の書店で入手可能かは知らない。

松田道雄は「自由」について生涯をかけて考え続けた人だ。小児科医として、保険医にならずに自由診療をずっとつづけた。そのかたわら、ロシア革命の研究家としても本を出している。しかし、小児科医の常として、母親たちにやさしく分かりやすく語りかけることを大事にしてきた。名著「私は赤ちゃん」や「自由を子どもに」などのように。この本は、その仕事の流れで生んだ本だ。

それにしても、この本の中に書かれたことは、表面的な風俗の点では一部古くさく感じられるトピックが扱われているが、その人間性への洞察は今でも核心をついている。それだけ私たち日本人が本質的には変わっていない(進歩もしていない)ということの証なのだろう。いや、民主主義や社会の公正さを求める気持ちについては、むしろ退歩してさえいる。「私たちの先祖はもっとぜいたくな夢をもっていました。極楽に必ずいけるという夢は月に五万円の年金の夢よりも生き生きとしたものです。」などという言葉は、現代ではいよいよ切実に聞こえる。

しかし、この本の中で一番感心したのは、次の言葉だ。「人間というのは、あとに何か残した人がえらいというんでなくって、現在をせい一ぱい生きる人のほうがりっぱだと思うんです。人生というのは音楽のようなもので、すんでしまえば何も残りません。何か残そうというのは、廃墟の形ばかり考えて建物をたてるようなものです。」人生は音楽のようなもの。この言葉を読んだだけでも、この本を手に入れた価値があったように思うのだ。



★★★ やっぱり変だよ日本の営業 宋文洲
2003/08/22

宋文洲氏は中国山東省出身の中国人である。国費留学生として日本に留学し、北海道大学の土木学科で工学博士の学位を取った。その後、彼は日本で仕事につき、いまではソフトブレーン(株)という東証マザーズ上場企業のオーナー経営者となり、かつ、不思議なことに営業支援ソフトのパッケージを開発・販売している。

その彼が書いた本が、この「やっぱり変だよ日本の営業」だ。日本の営業のどこが“やっぱり変”なのか。彼のキャリアの方が、よっぽど変ではないか--そう思う人も多いだろう。しかし、彼の「営業支援ソフト」を売ってきた経験がつまっている本書を読むと、彼のような人を、日本の我々の社会は、実は非常に必要としていることがわかる。

宋さんがこの本の中で一番攻撃しているのは、日本の営業の根底にひそむ『精神主義』である。経済が好調で、販売が右肩上がりの時期には、どんな営業スタイルでも一応成功する。しかし、経済がつまづいて販売が目に見えて落ちてくると、かくれていた問題点が露出してくる。ちょうど潮が引いて岩が海面に現れてくるように。

目標に対して、「意欲・態度」以外に具体的な手段を提示しない態度を精神主義と呼ぶ。精神主義はどこの国にも大なり小なり存在するし、一応の意義もある。が、今の日本では、それは事実を客観的に直視し分析することの妨げにしかなっていない。その良い例が「営業日報」である。一日の外回りが終わってから会社に戻って、ナラティブな(文章でつづるやり方の)日報をつけることに、どんな意味があるのか。日報を受け取って読む管理者側にとって、そこから何らかの情報や判断が引き出せなかったら、その報告は営業部員をムダに拘束しているだけだ。営業日報は販売目標の達成に、何の役にも立っていないことになる。

では、その替わりに、彼は何を提案するのか。売ることが専門である営業部門に対して、ソフトを売る、という至難のワザをやり抜いてきた彼のポイントは、いったい何か。

それは、客観的なデータに裏付けられた『プロセス管理』である。彼はパン工場を例にたとえて、プロセス管理のステップを説明する。イーストを予製し、小麦粉やバターなどと調合し、生地をこねて、オーブンに入れて焼く。「パンを作る」というプロセスは、こうしたステップからなっている。そして、できたパンの品質や量の目標を達成するには、これら各ステップをきちんと遂行しなければならない。そして、各ステップの遂行は、イーストの予製温度、材料の調合比率、生地をこねる回数、オーブンの温度などの、具体的で客観的な因子によって決まっているはずだし、それによって管理されなければならない。

同じように、営業という行為も、販売による利益確保という目標のためには、アポ取り・訪問から始まって、プレゼン・見積提出・ネゴ・・等のステップ(これは会社や業態によって様々に異なる)を、訪問回数や説明時間・相手の職位など、客観的な因子によって計って管理していかなければならない。これが彼の言う「営業のプロセス管理」である。そして、彼の作っている営業支援パッケージは、文章でつづる日報のようなナンセンスなものは作らせない。そのかわりに、携帯からでもアクセス可能な、数字と選択肢だけで構成された随時のレポートをベースにしていく。

私はかつて「ITって、何?」で、IT理解の中心は、非定型な情報と定型的・客観的なデータを区別することだ、と書いた。宋さんのアプローチは、私のこの考え方に非常に近く、その点でも納得しやすい。

モノが売れれば、製品が良いからだ、と多くの会社は錯覚する。「ところが、モノが売れないときは、逆に営業の責任だと考えるのです。」と彼は書く。まちがっているのは、営業管理のやりかたや仕組みの方なのに。かわいそうなのは現場の営業マンである。毎日ムダに靴をすり減らしている営業マン達が、手応えのある仕事をできるような企業が増えるために、この本がより広く読まれることを望む。



 ★★ ゆとりの法則 トム・デマルコ
2003/07/24

この本は原題を"Slack"という。ソフトウェア工学の大御所デマルコによる本書のテーマは、このSlackの重要性を力説することにある。ちなみに、Slack=スラックとは、「ゆるみ」「たるみ」のことだと英語の辞書には出ている。つまり寸法に比べた余裕である。これを複数形にすると「スラックス」という、洋服の一種を指すことばになる。

ところで、スケジューリングを学んだことのある人にとって、「スラック」は、別の意味でなじみのある言葉にちがいない。スラックとは納期余裕、すなわち納期から作業時間を差し引いた時間のことを意味する。この値がゼロだと、今すぐその仕事をやり始めないと納期に間に合わないことになる。スラックが大きいほど、仕事の着手までの余裕がある。

たとえば、『最小スラック順』はディスパッチング・ルールの代表的なルールである。ある機械にかけなければならない製造オーダーが複数ある場合(言いかえれば、その機械の前に加工待ちで複数の材料が並んでいる場合)に、その中から優先順位をつけて着手していくよう、ルールを定める。これをディスパッチング・ルールというのだが、スラックの値が小さい順に着手すると、たいていの場合は良好な結果を得ることが知られている。

また、プロジェクト・スケジューリングの世界では、スラックは「フロート」とも呼ばれる(ただし厳密にいうと、タイム・バケットを持つMRPの世界のスラックと、プロジェクト・スケジューリングのフロートとは少々異なる →拙著「革新的生産的スケジューリング入門」日本能率協会マネジメントセンター刊・第3章参照のこと)。

ともあれ、スラックとは作業時間のゆとりのことであり、着手のタイミングを選ぶにあたっての自由度に等しい。つまり、デマルコのこの本は、自由度の重要性を説いている本だとも言えよう。ただし、彼はプロジェクト・スケジューリングよりも、もっと意外な分野において、自由度の意義を指摘する。それは、組織における変革管理での「スラック」である。驚いたことに彼は、企業組織を効率だけで最適化することに、明確に反対しているのだ。

その説明のために、本の冒頭でとても印象的な喩えをあげる。それは、誰もが子供の時に遊んだことのある、「15パズル」である。4×4=16個の升目の中に、15個のコマが入っていて、それを順番通りに並べる、あのパズルである。そして、言うのだ。“このパズルにおいて、効率を最大化するために空いているスペースにもう一つコマを入れてしまったら、このパズルはもう解けなくなる”。空いているスペース、すなわち「スラック」が、単位組織の順序や組合せを変えるために、必要なゆとりだったのである。

このデマルコの主張は、ゴールドラットのTOC理論の主張とも、意外なことによく一致する。TOC理論では、工場が正常に機能するためには、生産量よりも大きな生産能力を持たなければならないと考える。さもなければ、工場は仕掛り在庫の山になってしまうだろう。これは直感的には分かりにくいが、待ち行列理論を少しかじったことのある人には分かるはずだ(拙著「図解サプライチェーン・マネジメント入門」日本実業出版社刊・第4章も参照されたい)

このように、デマルコの本はかなり広い文脈でスラックの意義を説明している。その中には、最近の米国流経営学で敵視されてきた「中間管理職」が果たす役割や、スピード重視の経営が知識労働者に与える間違った管理方法(「人間は急がされても早く考えることはできない!」)など、きわめて機知に富んでいる。トピックの展開がいささか散漫に感じられる部分もあるが、読みやすさの点ではよく書けているようだ。

ただし、日本語の副題が『誰も書かなかったプロジェクト管理の誤解』とあるのは、ちょっと出版社の意図的な作為を感じさせる。これではまるで、ソフトウェア開発プロジェクトにおける管理論のようではないか。それは彼の論点のごく一部にしか過ぎない。最近のプロジェクト本の流行に乗って、読者にテーマを誤解させて売ろうとしている点には、私はいささか賛同できない。



 ★★ 20世紀言語学入門 加賀野井秀一
2003/06/19

講談社現代新書らしい手頃な入門的解説書で、20世紀の欧米における言語学の大まかな流れが、お勉強の上手な大学の先生らしく、手際よくまとめられている。なお、この本を読む限り、20世紀には日本にせよアジアにせよ、欧米以外には見るべき言語学の進歩は全くなかったらしい。

この本は(当然のごとく)ソシュールの一般言語学の構想から始まる。そして構造言語学の流れに続いて、“構造主義という知の炸裂”という長い章で、言語学とは縁の遠いフランス構造主義にしばらく寄り道をした後、記号学の展開を説明し、少しだけアメリカの生成文法に触れつつ、またフランスの言語学にもどるという具合である。まあ、パリに留学して、現在大学でフランス語を教えている仏文の先生としては、こういうフォーカスになるのかもしれないが、すこし遠近法が歪んでやしませんか。

レヴィ=ストロースの有名な交叉いとこ婚の理論の説明などを読んでいると、この人は、実は数学的な思考が苦手なのではないかという気がしてくる。交叉いとこ婚を、氏族間の女性の交換のシステムで説明する肝心の部分が、妙に曖昧なのである。まして、コンピュータによる言語処理理論やチョムスキー文法の解説など、どうにも食い足りない気分にさせられる。

そうした点を割り引くならば、現代欧米言語学の概観としては便利な本である。



 ★★ 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上・下) 村上春樹
03/06/13

二つの独立したストーリーが、ねじった飴の棒のように交替しながら一つの小説を形づくっていく。近作「海辺のカフカ」で村上春樹が使った手法は、この長いタイトルの小説で発明したものだ。そして、出来は、こちらの方が良い。

この小説は、静と動の対比が見事だ。動の「ハードボイルド・ワンダーランド」の方は、相変わらずの波瀾万丈・荒唐無稽な村上ストーリーだが、静の「世界の終わり」の方は、全体が、雪の降り終えた街の景色のように、しんとした静寂感に満ちている。その静かな景色の中で、ゆっくりと着実に筋立てが進展していく。そして、両者の対比が創り出すリズムが、心地よい。

ただ、結末はこれでいいのだろうか。少しばかり意外な感じだった。

それにしても、まだ30代で書いたはずのこの小説の方が、文章がみずみずしくデリケートなのはなぜだろうか。中年以降の村上春樹は、日本語自体がいささか衰退しているように感じられる。そして、諧謔的な味も。そこがいかにも残念だ。

この小説は、形式的には「海辺のカフカ」に先行しているが、内容的にはむしろ、どこか衝撃的なルポルタージュの「アンダーグラウンド」につながっているような気がする。そこが不気味だ。だが、不気味な読後感を残す点も、またこの作者独特の持ち味なのかもしれない。



  ★ 竜馬がゆく(2) 司馬遼太郎
2003/06/10

このペースで読み続けていくと、読み終わるまでに10年以上かかりそうだな、などと思いつつ、第2巻。

この巻で、竜馬は土佐を脱藩する。倒幕論にたぎる土佐の志士たちが、家老暗殺のクーデターによって藩の転換を図ったことにたいして、藩という旧い体制の中では本当の維新はかなわぬ、と考えた結果という筋立てだ。が、これほどの重大事にたいして、竜馬の心中がどう動いたか、そこが少しだけ小説としてもどかしい。ちょっと決断があっけなさ過ぎるように感じられる。

歴史的解説とエピソードを連ねても、小説としてはまだこくが足りない。そこが歴史小説の難しさなのだろうが。



 ★★ SQLがわかる本 芝野耕司
2003/05/28

外国語を覚えるには、大きく分けて二種類のやり方がある。まず文法から入り、いくつか基本的な動詞の活用や名詞の格などを理解した後、"This is a pen."といった単純な文章をたどりながら少しずつ語彙・語法を学んでいく、文法中心のやり方がひとつ。もう一つは、いきなり会話から入り、日常生活に必要な受け答えを身につけることを重視し、語彙や語法はその中で学んでいくやり方だ。

前者は理論中心、後者は実践中心だと言いかえてもいいだろう。どちらをとるかは、その教師のメソッドにもよるが、むしろ学ぶ側のニーズや性格、そしてその人の置かれている状況によって決まる。ちなみに、明治以降の日本の学校における英語教育は、一貫して前者で進めてきたが、その結果ははっきり言ってかなりの失敗だと多くの人が考えている。

プログラミング言語は、むろん人間の言語とは根本的に異なる。両者を同じ「言語」という呼び方で括ってしまったことは、いろいろと変てこな誤解を生むことになった。とはいえ、その習得のしかたには一種の類似性がある。理論中心か、実践中心かだ。そして、日本のソフトウェア業界では、圧倒的に後者が多いのではないかと想像する。言語の習得は(技術進歩の速さのせいで)学校卒業後に会社で覚えることがほとんどだし、かつ日本の会社はいつもOJT一本やりときているわけだから。

「何千ステップ書けば入門完了、何万ステップ組めば一人前。」こういう言い方を、一概に否定するつもりはない。そこには一定の真実がある。プログラミング言語とは、しょせん実用のための道具であり、多少は破格でも、役に立てばいいのだ、という真実だ--SQLを除いては。

SQLはc++やVBといった実用一本やりの言語と違って、設計自体に思想を要求する。ある意味で理屈っぽく窮屈な、非手続型言語だ。いや、そもそもSQLそれ自体では、計算完備な言語とさえいえない。『何万ステップ書けば一人前』、といった入門のしかたが無理なのだ。

したがって、SQLについては、実践からときどき理論に戻って、理解を整理しながら進む方がいい。そして、この本は、そういう目的のためにはぴったりだ。本書はいかにも「わかる本」という体裁で簡易な入門書をよそおってはいる。が、正直にいって、この本を読んでSQL入門するには、例が簡略すぎて、向かない。しかし、一度入門した人が、理論を学び直すにはいい本だ。

著者の芝野耕司氏は、たしかIBMを振り出しに、データベースの研究者として、東京国際大学などを経て大学の先生になったキャリアの人だ。私も一度お目にかかったことがあるが、非常に利知的でバランスのとれた、しかし自分自身のスタンスをはっきりもつ人である。SQL制定に関わるISO関係の仕事にながらく関わってきたが、日本は企業も大学もこうした活動に対してひどく消極的であることに憤慨しておられた。ま、それに耐えうる能力を持った人も少ないことも事実だが、氏は例外であろう。氏は文字コード論の分野でも有名だが、それもSQLによる情報交換という思想に基づく軸の中に位置づけられる仕事だ。

SQLは、そもそもが対象世界をどうモデル化すべきか、というシステム分析理論ないし認識論から出発して生まれた言語だ。現在のSQLを理解するためには、どういう思想のもとで進化してきたかを知る必要がある。c++やVBが、はっきりいえば本来の開発思想とは離れて、実用のために便宜的に進化して現在の姿となっているのと、対象的だ。歴史を知ることが、SQLをよりよく理解する道なのである。

私は、SEやプログラマの職種の人よりも、システム・アナリストこそSQLを学ぶべきだと思う。その意味でも、これはアナリストをめざす人に絶好の本である。



★★★ 演劇入門 平田オリザ
2003/05/12

平田オリザという劇作家は、ものごとを分析的に理知的にアプローチする人らしい。情念と感性だけで対象に迫っていくアーティストの多い演劇界にあって、彼が教育家的な、あるいは社会へのプロモーター的な役割をはたしていけるのは、そのためだろう。

彼のアプローチが典型的に出ているのは、第3章でかなり詳しく解説されている、彼独自の作劇術、とくにプロットとエピソードの設計の仕方である。それはまさに、『設計』と呼んでいい。戯曲には、舞台に立っている者の会話で成り立つのだから、舞台上の人物たちがすべてのシチュエーションや情報を共有していたら、会話など成り立つはずがない。劇が成立していくためには、舞台上の人物たちの間のダイナミクスとリズムが無ければならない。この原則を、ここまではっきりと理論立てて説明しているのは彼だけだろう。

この本はまた、演劇において「リアル」なセリフとは何か、なぜ説明的なセリフはリアルに聞こえないか、という問題について、考えている。そして、それを『コンテキスト』の共有とイメージの連鎖という視点から説明する。こうした分析も見事な切れ味である。

しかし、この本で一番衝撃を受けたのは、「演劇を書き始めるときには、書きたいこと=テーマを先に設定してはならない」というテーゼだった。なるほど、たしかにそれはちょうど、人間は自分の人生のテーマを先にもってから、生まれてきているのではないのと、同じことだ。誰もが自分の人生のテーマを探しながら生きているのだ。だからこそ、現代演劇は、「作者をさがす6人の登場人物」というピランデルロの芝居から始まったのだろう。テーマを探す人々を、いかに表現するかが演劇の中心だ、という主張には、たしかに合意せざるを得ないようだ。



★★★ かわいい女・犬を連れた奥さん アントン・チェーホフ
2003/05/02

チェーホフの小説を初めて読んだ。そして、とても良いと思った。この人の小説の中には、どこか夜明け前の深く暗い空に、仄かな薄明の予感のような青みがさしはじめたような、かすかな希望がある。それは、ぼくらの社会が、今、持てずにいるものだ。

帝政ロシアの末期、それは、誰もが明らかに「末期」と思っている時代だったらしい。そして、今のこの堕落と停滞と貧苦の時代はもうすぐ終わって、もっと新しい、人間誰もが尊厳を持ちながら自由に生きることのできる時が来るはずだ、来なければいけない、ぜったいに来てほしい--チェーホフの小説の登場人物たちは、大なり小なりそう感じている。それは別段、共産革命だレーニン主義だ、といったイデオロギー的具体性をもったものではなく、もっと根元からの希望のようなものだ。

そして、その希望は、しばしば若い女性のかたちで象徴される。遺作となった小説「いいなづけ」の主人公のように。

無論、彼の小説の中には、滑稽な人物たちもたくさん登場する。今も変わらぬ、こうした俗物たちのユーモラスなスケッチは、ひどく巧い。そして、「かわいい女」や「犬を連れた奥さん」のように、それは人間性の中で見事に昇華され、ときに明るい和声として響くのだ。

今のこの世はどこかおかしい。どこか煮詰まり切って、人間を駄目にしている。そう感じたら、チェーホフを読むといいかもしれない。救いや解決があるとは限らぬ。だが、そこには慰めがある。



 ★★ 八人との対話 司馬遼太郎対談集
2003/04/27

1993年に出された対談集。相手は、山本七平、大江健三郎、安岡章太郎、丸谷才一、永井路子、立花隆、西沢潤一、アルフォンス・デーケン。

この中で面白かったのは、永井路子だ。この人は、「鎌倉武士と一所懸命」というテーマで話しているのだが、物事のとらえ方が客観的かつ総合的で、歴史を考える際に生態学的・民族学的なアプローチも自然な形で取り入れていて、その賢さには非常に感心した。女流作家で歴史物が得意というので、人物と情念だけで物語っていく感覚を想像したが、まったく違っている。

丸谷才一は帝の恋歌という、また立花隆は宇宙飛行士と神秘体験という、お得意の話を刷るわけで、二人とも博学のためそれなりに面白いが、新鮮さに驚くほどではない。むしろ山本七平の方が、明治以降の日本政治のリアリズムを論じていて、面白い。司馬遼太郎も山本七平も、一兵卒として太平洋戦争に従軍し、日本軍部に対してきわめて激しい被害者意識と批判を持っているわけで、そこがうまくかみ合っているわけだ。

知的だが、あまり重くない、気晴らしのための本としておすすめできる。



  ★ 「運」の法則を読む さいふうめい
2003/04/11

同じ著者による、「運をつかむ人・のがす人」の姉妹編というべき本。

運・不運というものがあると考えている人は、どれくらいいるのだろう? 勝負事や賭事が好きな人は、少しはツキの流れについて感じているはずだ。だが、この著者のように(あるいは彼が私淑する阿佐田哲也のように)、人生の万事の局面において、運不運が働いていると真面目に信じている人は少ないと思う。

しかし、この本を読むと、そうした考え方にも一理あるかな、と感じるようになる。彼は人間が持って生まれた運不運の量は大差がなく、それを大事にするか無駄遣いするかで、大きな違いが出るのだという思想だ。まあ、そんなこともあるかもしれない。運が実体的なものか、それとも完全に心理的なファクターの結果なのか、はたまたユングのように中間的にとらえるのか、それはどれでもいい。いずれにせよ、運をそこなわないように守るべきルールがいくつかある、と著者は考えていて、それをこの本の中で説明している。

サラリーマンを相手にした調査では、会社員にとって一番大事なのは、能力でも誠実さでも頭の冴えでもなく、運だ、と考えている人が多いという結果が出た。いかにも、らしい話だ。そうしたことが気になる人は、この本を読むと何らかのヒントをえられるかもしれない。




 ★★ ニューロマンサー ウィリアム・ギブスン 黒丸尚訳
2003/04/07

“今さらサイバーパンク?”といわれそうで恥ずかしいが、ニューロマンサーを初めて読んだ。読んで、とても面白かった。鮮烈な印象を与えるこの作品が、SFの世界にいかに衝撃となったか、今さら語る必要はないだろう。新しいジャンルを創り出す想像力は、並大抵のものではないのだ。

この本はすでに出版されてから20年近くたつのに、いまだに新鮮で、楽しんで読める。「マトリックス」などの原形がどこにあったのかも、今さら言うまでもないが、この電脳世界の描写はやはり独創的である。

ただし、ルーツ・レゲエ的な脇役が出てくる点(それ自体は楽しい)と、東西対立がバックのエピソードが出てくる点(これも強い印象を与えるのだが)が、若干時代を感じさせる。現実の21世紀の日本も、この本の中ほどかっこよくはない。無論、この著者のせいではないわけだが。



★★★ 「甘え」の周辺 土居健郎
2003/03/28
1987年に出版された講演集(対談を含む)で、内容的には70年代のものを含む。社会風俗的なトピックについては、30年前のことなので古びた感じを受けるが、「甘え」を中心とした精神分析的アプローチは今読んでも新鮮である。日本人がそれだけ古くから保持している心的態度だからだろう。

この本の中には、日本を米国や西欧に比べて論じる議論が多く出てくる。これは著者の長い海外生活の経歴からも当然に思われるが、それでも古い世代に多い単純な比較論や是非論になっていないので、安心して読むことができる。著者は普遍的な問題意識という高みから常にものを考えているからだろう。

心の病と「不幸」の関係を論じる箇所がときどき出てくるが、そう言う点でも興味深い。普通、医師は(精神科医といえども)不幸のことなどあまり言わないからだ。「人間は不幸を直視できるときには病気にならない。不幸だが、病気ではない。ところが不幸を直視できず、何とか幸福になろうとあせると心の病気になる」(p.131)などは慧眼であろう。だから、人間にあまりお手軽に幸福を約束するような種類の宗教は気をつけた方がいい、という。

しかし、本書の中で一番面白いのは、東大で行なった最終講義の「人間理解の方法」だろう。著者はここで、『わかっている』を中心に、『わかってほしい』『わかられたくない』『わかられている』『わかりっこない』の4つの円を描いた模式図を用いて、診断の助けにすることを提案している。これは人間の類型論としても面白い。淡々とした口調で語られる本だが、知的な刺激にたいへん満ちている。



★★★ 恭しい娼婦 ジャン=ポール・サルトル
2003/03/22

サルトルの戯曲を初めて読んだ。いや、サルトルの本自体、もう20年ぶりくらいかもしれない。その間に、彼はすっかり忘れられた作家も同然になってしまった。『実存主義』などということを言う人も、今や誰もいない。実にこの国の知性流通市場は、流行を追いかけてめまぐるしいのだ(“あの国”も、それほど大きな差はないのだが)。

ところで、実存主義が忘れられたことは、案外サルトルの戯曲にとっては良いことなのかもしれない。余計なフィルターをかけられずに、直接その作品に向かい合う人が増えるだろうから。そして、そうした直接の目で見ると、彼の戯曲は面白い。非常に面白い。

たとえば、有名な「出口なし」だ。原題は「扉を閉めて」Huis Closだが、これは本来は、外からは内部の様子をうかがいしれぬ秘密会議の意味で使われる言葉である。そして、わずか男性2人、女性2人だけで成り立つこの劇の内容をうまく象徴している。登場人物の会話だけで、いかにうまく状況設定を説明できるか(それも妙に説明的なセリフは使わずに)--劇作家の手腕はこうした点から計ることができる。で、読めば分かるが、サルトルの作劇術は見事だ。こいつ、うますぎる、と言いたくなるほどに。

「出口なし」は、有名な“地獄とは他人の眼差しのことだ”というテーゼで展開するが、ギリシャ悲劇に題材をとった「蠅」は、神々と人間の自由の相克というテーマを軸に展開する。この二つの作品は、ナチス・ドイツ占領下のパリで初演されている。したがって、こうした相互監視や自由の問題は、当時のフランス知識人の政治意識の状況を象徴している--そんな風に思われていたようだ。

しかし、はっきり言って、それは読みが浅いと思う。サルトルは、ナチスとのレジスタンス目的よりも、もっと根本からこれらの問題に向かっている。それだけ彼の資質は政治家よりも思想家に近いし、思想家よりもさらに劇作家に近いのだ。だからこそ、これだけ面白い劇がかけるのである。

戦後書かれた「恭しい娼婦」は、アメリカ社会の偽善的体質をえぐり出している。その内容は、昨今の米国の国際社会における振る舞い方にぴたりと一致しており、つくづく本質は変わらぬ国だと思わせる。

ただ、サルトルの劇は、こうした「テーマ」による読取りが可能な、“寓話”的性質を持っている。これが特色でもあり、また弱点でもあるといえるだろう。寓話的テーマと、うますぎるほどの技巧。これを、独特の、ちょっとロマンティックで、切れの良い文体が飾っているのがサルトルの劇だ。好きか嫌いかは分かれるだろうが、忘れ去られる前に、読んでおく価値のある本だろう。



 ★★ 長門守の陰謀 深沢周平
2003/03/21

時代小説の短編集。深沢周平の小説は初めて読んだが、わるくない。昭和2年生まれ、とあるが、感覚が古臭くないのがいい(と、時代小説家を誉めるのもへんな話だが)。むろん、妙にブッ飛んで現代小説的でもない。節度を保って、落ち着いた娯楽として楽しめる文学になっているところが素晴らしい。職人芸的な良さがある。

5つの短編が収録されているが、中では初期の短編「夢を見し」が一番いい。女性の眼から見た武家ものという風で、大衆文芸としての落としどころも冴えており、佳篇だ。主題作は歴史小説だが、ちょっと短すぎてこくが足りない。

しかし、いずれにせよ、安心して読める小説を書いてくれる人だ。それがなにより、ありがたい。




 ★★ 深夜特急6 沢木耕太郎
2003/03/04

沢木耕太郎の代表作でもある旅行記の最終巻。香港をふりだしに、インド・イラン・トルコと続いた旅は、南欧に入り、この5巻ではイタリアからフランス経由でポルトガルに至る。そして、ポルトガルの南端で大西洋を見て、ようやく一つの終わりを得る。

このシリーズはどこが面白いのか。それは、この人が見事に、かつ巧妙に紡ぎ合わせた『偶然の出会い』の数々のおかげだろう。そうした偶然は、じつはこの著者の持つ、瞬時のうちに人を見分ける独特の直感が、生み出してくる。そして、人間を見分ける力とは、相手が抱えている物語を読みとる力なのだ。それこそ、ノンフィクション作家にとって、最も大切な能力だ。だからこそ、この人は、市井の人を主人公にした超一流のルポルタージュを書けるのだろう。

ユーラシア大陸は広い。そこを歩くときに、何が必要で何が余計なものかを教えてくれる本だ。旅行者には必読の本の一つだ、といえると思う。

ついでながら、井上陽水との巻末の対談もとても面白かった。



★★★ 中世の風景(上・下) 阿部謹也・網野善彦・石井進・樺山紘一
2003/02/26

過去50年間の間で、もっとも激しい変貌をとげた学問は、生物学と歴史学ではなかったかと、ときどき思う。とくに中世史学の変化は著しい。アリエスに代表されるアナール派の『メンタリティの歴史学』が中世像に与えたインパクトは、それまでの政治・経済史中心のパラダイムを根底からくつがえすほどの力を持っていた。

この本で取り上げられているトピック「職人」「馬」「音と時」「自由」「異端」などは、そのよい例だろう。音や時という視点から歴史学を構想できるとは、半世紀前の学者たちには、思いもよらなかったにちがいない。

また、「売買・所有と法・裁判」で論じられる、『徳政令』の意味の再検討も非常に面白かった。本来、古代における売買にともなう所有権の移転は、つねに現状復帰可能なものとしてとらえられてきて、徳政令はその中世的な現れ方であるとの認識は、とても新鮮に感じられた。

この本の良いところは、日本中世史の学者2人と西洋(ヨーロッパ)中世史学者2人による、対等で自由な議論の記録という形式だろう。この議論が行なわれたのは79年から80年にかけてのことで、すでに20年以上も前のことになる。が、ある意味でこの4人の著者らがもっとも気鋭の学者として脂の乗っていた(頭もやわらかかった)時点で行なわれたわけだ。

そういう意味で、この本は、とても良いタイミングに世に出されたといえるだろう。知的刺激に満ちた良書である。人間と歴史に少しでも興味のある人すべてにおすすめできる。



★★★ 恋の花詞集 橋本治
2003/02/18

これは日本精神史にかんする本である。明治以降の日本人の精神のあり方を、昭和30年代頃まで時代をたどりながら、感情のひだの一つ一つ奥深くまで分析する。それも、きわめて精緻な分析である。

橋本治は、歌謡曲の歌詞の鑑賞という形でこの本を書いた。歌謡曲の歌詞は、近代日本の文化を考える上で、巨大な影響力をもつ、文学の一形態である。しかし、これまで国文学者による研究はほとんどなかったし、そもそも歌詞を文学に属する芸術ジャンルと考えることすら、真面目な学者たちの間では無かったにちがいない。

しかし、歌詞は(あたりまえだが)重要な詩歌の一形式である。古代では詩歌と歌詞の区別はなかったろう。そして、この豊穣なジャンルを、現代随一の国文学解釈家である橋本治が鑑賞するのだ。これが面白くないはずはない。

「鑑賞」もまた、ちょっと不思議な文学の形式だ。鑑賞はたんなる分析や注釈だけではなく、それ自体がオリジナルの文学の空間に共鳴して、あらたな文学となっている必要がある。そういう鑑賞を書かせたら、いま橋本治の右に出る人はいない。

そして、時代というものに対する厳しい眼。彼が『国境の町』や『蘇州夜曲』、『東京のバスガール』、『雪の降る街を』などで見せる、見事なまでの歴史認識や社会経済的分析には、感心するほかない。そして、一番大事な、対象である音楽や歌手たちに対するに対する愛情。どれをとっても一級品である。見事な本である。



★★★ プロジェクト迷走す ヘルガ・ドラモンド
2003/02/16

1993年3月、ロンドン証券取引所は株式決済システム<トーラス>開発プロジェクトの中止を決定する。それはビッグバン以来7年ちかい歳月をかけ、シティ全体で5億ポンドの費用を投じたプロジェクトが、完全に崩壊した瞬間だった。証券取引所のP・ローリンズ理事長は責任をとって辞任する。この本は、巨大プロジェクトがいかなる経緯をとって迷走し頓挫したかを女性経営学者が分析した、アカデミック・ドキュメンタリーだ。

著者の中心的な関心は、このようなリスクの大きなプロジェクトから、証券取引所がなぜもっと早い段階に撤退できなかったのか、という問いにある。プロジェクトを取りまく状況は、早い時期から危険がいっぱいだった。技術的リスク、政府の規制方針、利用者の保証、関連業界の権益に与えるインパクト、どれをとっても小さなものではなかった。にもかかわらず、プロジェクトは予定した納期も予算範囲もどんどん逸脱しながら、なおも続行されて行った。

結果から見ればいかにも非合理的な、このプロジェクトの継続を、どうして途中で止められなかったのか。従来の経営学の研究では、二通りの説明がされてきた。意思決定者がそれまでにつぎこんだ損失に目が眩んで、合理的な決定ができなかったのだ、という社会心理学的な解釈。そして、情報の不確実さゆえに、正しいリスクの判断ができなかったのだ、という決定ジレンマ理論。

しかし著者はトーラス・プロジェクトの経緯を詳しく調べて、そのどちらも当たっていないという。そして、「意思決定エスカレーション」という第3の理論を提案する。それは、合理的な意思決定の積み重ねが、全体としては非合理な意思決定を導く、という理論である。ひとつひとつは当然にみえるミクロな意思決定の集積が、マクロにはまったくの不合理を導くのである。

著者は、このような現象が成立するための条件をいくつかあげている。まず、プロジェクトの意思決定が、誰か単一の人間で行なわれず、複数の人間の意志がからむこと。起業家はパートナーがいるときの方が、たった一人で経営するときよりも泥沼に入り込みやすい傾向があることが、実験的研究で証明されている。利害関係者が多ければ多いほど、意志決定のエスカレーションが起こりやすいのだ。

また、プロジェクトの目的が、参加者各人の冷静な評価を離れて、「神話」として制度化されたときこそ、危険である。メンバーは内心みな首をかしげながらも、その動きについていくようになるからだ。著者は、「意志決定エスカレーションは、世論の定着をもって開始される。」とさえ言っている。

そして、何よりも、意志決定の腐敗を招きやすい状況とは、意志決定者がプロジェクトを左右する巨大な力を持ちながら、その結果に責任のない場合である。<トーラス>の撤退が決断されたのは、よそ者だった理事長のP・ローリンズが、証券取引所の内部を掌握できるだけの影響力基盤を確保し終えて、かつ、彼が(本来彼の責任とは言えない本プロジェクトの失敗をうけて)辞任することを自分で決めたときなのである。

ここには、多くの教訓がある。まず、権力と責任の所在が一致してないところでは、大きな失敗の危険性がある。某国の高速道路建設事業を引合いに出すまでもなく、無責任な決断ほどコストのかかるものはない。また、プロジェクトでは意志決定者を集中化しなければならないこと。あいまいな集団的合議制では、間違いに対するブレーキが利きにくい。そして最後に、現状肯定的な目的神話に気をつけることである。

プロジェクトの失敗は人々の過失や無能のせいではなく、むしろ有能な人々の合理的行為が累積して生じる現象である--そう著者は結論づける。私自身、プロジェクトの失敗によって苦い目にあった過去の経験があるため、この結論は身にしみる。

この本は、『失敗の研究』が大好きな英国人らしい、自己の間違った過去に学ぶための本である。若干アカデミックなスタイルが読みにくい部分もあるが、翻訳はそれなりにこなれているし、詳細な文献リストや索引・注釈類も充実している。プロジェクト・マネジメントに感心のあるすべての人にお薦めしたい一冊である。



 ★★ 海辺のカフカ 村上春樹
2003/01/03

何という奇妙な物語なのだろう。たしかに村上文学十八番の喪失と暴力のテーマが、新しい趣向のもとに語られる。それは上下巻を通して読める程度には面白い話だったが、最後まで読んでも、未解決のまま何の説明も与えられずに放置されるエピソードがいくつも残る。

そのために、一般的に彼の小説は、解釈と謎ときと意味付けの対象になりやすい。それは作者自身がもっとも嫌う、文学の読み方なのだが。

むろん、合理的な説明のないエピソードや、奇妙な筋の展開は、現代文学や小劇場の演劇、それから映画の一部にも(フェリーニなんかそうだ)、しばしばみられる。ただ、それが読後に未消化の問題のように感じられるのは、物語のもつ迫力やリアリティが弱いときなのだ。

非現実的な小説におけるリアリティとは何か。それは人格や文体、エピソード細部のリアリティだ。この話の登場人物の中で言えば、ナカタさんとか星野くんとか、カーネル・サンダースなどは生彩を放っており、彼らの登場するストーリーはぐんぐんと先に進む力がある。しかし、メインのストーリーの主人公カフカ君や、佐伯さんや大島さんの方は、奇妙に実体感が薄い(みな「影が薄い」)。

この小説は、2本の飴の棒をねじり合せたような構成をとっている。カフカ君の話がメインで、ナカタさんはサブだ。親が子にかけた呪いからの逃走と克服がメインで、そこにギリシャ悲劇のオイディプスや、ベートーヴェンの曲のような、運命との闘いのモチーフが使われる。この世と異界をつなぐナカタさんたちによる、救済ないし援助はオブリガート(伴奏)である。なのに伴奏旋律の方が魅力的にきこえるのは、少々残念だ。

メインのストーリーが、「ねじまき鳥」のような求心力を持っていたら、この小説はもっともっと傑作になっていただろう。これは十分に熟成されぬうちに、蔵から出された若い酒のような作品だった。水っぽくて、こくが足りない。具体的で露骨なセックス描写はやや閉口したし、小説全体が、日本語の文章としても、すぐれて美しい、とは言いがたい。村上ファンにはそれなりに面白いが、多くの人におすすめする、とは素直に言いにくい作品だと私は思う。



2002年



 ★★ 無限論の教室 野矢茂樹
2002/11/17

この本は哲学者の書いた無限論の本だ。「哲学者」というところがミソで、だから存在論が議論の重要な柱になる。

存在論の視点から見ると、無限は「実無限」と「可能無限」の二種類の考え方に分けられる。これはちょうど、哲学の実在論と唯名論の争いによく似ていて、主義主張の争いだ。このような論争があることを、私はこの本で初めて知った。たとえば、「円周率πの数字の列の中には、7が10回続いて現れる」という命題の、真偽を決定できる、と考えるのが実無限論である。可能無限論では、その命題は排中律の対象にならない、と主張する。

こんな議論のどこに価値があるか? じつは、著者のような可能無限論に従うと、実数の集合というものを実体的に考えることもできなくなるし、さらに整数と実数の濃度の違いを証明することもできなくなる。数学にとって、非常に大きなコストを支払わなければならないことになる。だからこそヒルベルトは形式主義を主張したのだが、これをゲーデルの定理がうち破ってしまったので、論争の決着はまだついていない。

カントールの対角線論法を、自己言及性(メタ論理)にうまく対比させて説明する著者の手際は見事なものである。対話編としても、軽く、リズムがあって、面白い。論理学と無限に興味ある人には、お薦めの本である。



 ★★ 入門バクロ経済学 金子勝+テリー伊藤
02/11/08

経済学とは驚くべき学問だ。そこには公理と演繹の体系はあるが、仮説と検証の方法論がない。経済学において実験は不可能だ、というふうに皆が信じているようだが、仮説検証のための合意された枠組がなければ、学問的議論は事実上、ありえなくなる。T・クーン風に言うと、反証可能な理論を提示するのが科学だとしたら、経済学は明らかに科学ではない。

たとえば、日本の金融業界は1997年に大きな危機を迎え、山一証券や拓銀などが行き詰まった。その原因がどこにあるのか、私は大勢の学者のいろいろな説明を読んだが、互いに合い矛盾するものばかりだった。何が正しく、どうしたら間違いと立証できるか、客観的な方法論がないからそうなるのだ。それは神学者の論争、あるいは文学の解釈論のようなもので、知的ゲームではあっても、まともな学問のあり方ではない。

つねに一回限りの現象である経済・社会において、仮説検証が可能なのか? じつは可能なのだ。嘘だと思ったら、板倉聖宣氏が「日本史再発見」で歴史研究においてやってみせた手腕を見るといい。問題は研究態度のあり方なのだ。

“異端の経済学者”を任ずる金子氏は、この本の中で、主流派の経済学教科書の「十大原理」を引用し、批判してみせる。たしかに第二原則「あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である」だけをとってみても、非常に問題が多い。彼の主流派経済学への矛先は鋭く、とくに竹中平蔵氏への執拗な批判は、何か個人的恨みでもあるんじゃないかと思うほどである。

しかし、その金子氏でさえ、最初にあげた経済学者の思考のパラダイムから抜け出ていないのだ。それに比べると、常識人でまともな知性の持ち主であるテリー伊藤氏の方が、ずっとオープンな経済に関する疑問を、金子氏にぶつけている。そしてそれに対しては、必ずしも十全な回答が得られていない。そこがこの本の弱点である。

経済学とは、経済行動にかかわる人・集団の意志決定と戦略に関する探求であるべきだ。そしてそれは検証可能性の枠組みの中で行なわれなければならない。その認識が欠けているため、この本はかなり面白いにもかかわらず、読後の満足感が少ないのである。



★★★ ダムはムダ フレッド・ピアス
02/11/07

今から15年前、私はホノルル市にある米国連邦政府設立の研究機関「イースト・ウェスト・センター」に働いていた。会社からの研修派遣で、客員研究者としての滞在だった。そこでは"Watershed Management"というプロジェクトに所属し、アジア太平洋地域の途上国における大規模流域開発が生態系に与える影響を、技術的・経済的に評価する仕事に従事した。

そこで驚きとともに知ったのは、すでに80年代半ばにして、「過去に世銀が融資して建設してきた多目的ダムの1/3近くは、21世紀の到来を待たずに寿命がつきてしまうだろう」という予測が出ていたことだった。ダムの寿命とは何か。それは端的に言って、ダムが流入する泥土に埋まって貯水能力の大部分を失い、流量調整や発電といった本来の目的を果たせなくなってしまうことだ。何十万トンものコンクリートでできた巨大な擁壁が残っていても、その中に土くれしかなければ、もうダムとは呼べない。

なぜ、設計時には100年持つと言われたダムが、あっというまに土砂に埋まってしまうのか。それは土木技術者の、水理計算に問題があるのではないか。エンジニアの私が抱いた単純な疑いは、調べてみると、じつはそう簡単でないことが分かった。

巨大ダムの建設は、往々にして居住地を水没させ、下流の漁業を破壊する。雀の涙ほどの補償金と引き替えに生活基盤を失い、追われた人々は、しばしば賃金労働者として上流の山林に入り、そこを伐採して焼き畑を作り、換金作物を作る仕事に就く。すると山野は降雨時の湛水能力を失い、雨のたびに鉄砲水と表土の流出を起こす。その水と土流は川を勢いよく下ってダムになだれ込む・・・。そこには人間活動と生態系の間に生まれる、予想もよらないダウン・スパイラルがあったのだ。

それでは、21世紀に入った今日、巨大ダムの技術者はもっと慎重になったか? そうでないことは、この本を読めばわかる。ダム建設は政治と権力と巨額のお金が渦巻く一大イベントだ。エンジニアはダム造りの技術にばく進するが、ダムの外側にどのような問題が発生するかは無頓着でいる。それは彼らのプロジェクトの"Out of Scope"なのだ。

フレッド・ピアスは英国の科学技術ジャーナリストのつねとして、綿密な文献調査と広範囲の実地踏査により、ダムと利水を取り巻く問題点を、きわめて多角的・客観的に分析していく。この本は決して政治的なプロパガンダの本ではない。誠実なジャーナリズムというものがどのような仕事か、それが我が国でジャーナリズムと呼ばれているものと、どれほどかけ離れたものであるのかを教えてくれる。

私はこの本を通じて、古代人の伝統的利水の長所と問題点、灌漑と農地の塩性化、河川流路の直線化と氾濫の関係、熱帯地方のダムにおける蒸発問題、アラル海やチャド湖の消失と土地利用計画の関係、アルミ産業の破壊的影響力、綿や高収穫米の栽培の問題などなど、さまざまなことを勉強することができた。

この本の原題は、The DAMMED – Rivers, Dams, and the Coming World Water Crisisである。これを『ダムはムダ』とうまく訳したセンスには敬服する。訳文もまあまあこなれている方だ。そして、何よりも、副題に込められた“来るべき世界的規模の水危機”が恐ろしい。非常に興味深い本だ。水と技術と生態系に関心を持つすべての人に、強く推薦する。



 ★★ 表徴の帝国 ロラン・バルト
2002/10/27

記号学の確立者バルトによる、日本論。もっとも彼は学者というよりも批評家ないしは文学者であり、この本もなんだかエッセイ集のように見える(著者は「登場人物のいないロマンだ」といっている)。ごく短いエッセイが、美しい図や写真(彼は眼がいい)を多数はさんで、一見ランダムに続いて行く。が、じつは細心の注意を払って順に並べられていることが、読んで行くと分かる。

バルトの関心の中心は、意味と言葉と論理が直結していない、日本語および日本文化の特異なありようである。むしろ、その特異性をもって、彼の属するフランス文化の根底に横たわる問題点や呪縛を逆照射することなのだ。だから彼は「この本は日本論ではなく、この中に登場するのは架空の想像上の国だ」という。当然だろう。そもそも彼の仕事が、構造言語学のパラダイムを用いて記号と表象を研究し、文化が無意識に前提する意味構造を分解・再検討することにあったのだから。

この本のもとになったのは、招かれてしばらく滞在した日本旅行の体験だ。文字があっても意味をなさず、音声がきこえても意思が伝わらないまったくの異国で、彼はさまざまな自己の常識が対象化されるのを観察する。たとえば、他動詞が主語も補語もはぶかれたまま平気で存在しうる日本語のありよう、ひどく短く寡黙な詩、工場労働のように勤勉で孤独なパチンコという名前の娯楽、等々。

ただし、たぶんこの本を理解するためには、彼の出自であるフランス文化というものが、どんな特性をもつのか、とくに言語と論理に対する態度にどういうこだわりをもっているのか、少し分からないと難しいように思う。私自身、フランス文化をよく知っているなどというつもりは全くないが、それがわれわれ日本人の言語に対する考え方(じつは二重底になってる)とどれだけ離れているか、ピンとこないと著者の意図が分かりにくいだろう。

そういう意味では、短い本文にやたら長い訳注と解説を付けた訳者(宗左近)は、延々と構造主義の説明をしてくれるよりも、われわれと西欧との距離感を具体的な実例を通じて述べてもらった方がずっと親切だったろうに、と思う。



 ★★ 母性社会日本の病理 河合隼雄
2002/10/13

著者の比較的初期の論考を集めた、エッセイよりもやや堅めの論文集。

日本人の心的世界は西欧とは異なるので、西欧の分析手法をそのまま直輸入してはまちがうことがある、というのが彼のかねてからの主張である。とくに、母性のもつ包容力と平等指向の両面性をのべてから、西欧の父性にたいし日本は母性が支配的だ、と指摘しているのが(昭和40年代には)めずらしかったはずだ。また、「永遠の少年」という元型が日本に多く見られる、というのも興味深い。

しかし、何よりも彼のオリジナルな発想だと思うのは、日本では「場の論理」が支配している、との指摘だ。集団の論理、ではなく、場の論理、である。

集団は普通、目的と規律と永続性をもつ。したがって集団の論理というのは、個の論理(西欧風にいう自律した意思をもつ個人)とある程度のアナロジーがなりたつ。一方、「場」は随時成立し、ふつう規律も目的もない。日本人は、場ができると、意見的対立でそれをこわすような事がないよう、場への帰属・保持を規律としてふるまう。最終的には自己の生命を投げ出してまで、場の保持に献身したものが賞賛される。

これが日本だけの現象か、東アジアの他の社会にも見られる事なのかは、本書にはかかれていない。しかし日本人の行動特性を説明するモデルとしては分かりやすく、優れている。

日本は分かりにくい。いや、分かるけれど言葉では説明しにくいのだ。河合隼雄は個々人の臨床心理探求をめざしているだけで、別に日本人論が本来の仕事の目的ではないだろうが、われわれの心のもつ歪みや危うさを知るのに役立つ本である。



 ★★ メグレと殺人者たち G・シムノン
2002/09/26
とても面白く読めた本。その理由の半分くらいは、この長編に出てくる場所やシチュエーションが、たまたま非常に身近に感じられる境遇を自分が経験したから、という個人的なことなのだが。しかし、Vosges広場、Bercy河岸、Marais地区、Concorde広場などの場所柄が、読んでいてピンとくると、この小説は10倍楽しめる。とくに、メグレ警視がぼくのいたアパートからほんの歩いて10分か15分ほどのRichard-Renoir通りに住んでいる、というシチュエーションがまた、たまらなく身近に感じられる。

そうした個人的な感慨は置いておくとしても、この小説はいかにも職人的な確かな技量で書き上げられており、面白い。メグレ警部の執務室に、名前を名乗らぬ男から助けを求める電話がかかってくる。数人の危険な敵に命をねらわれている、という彼は、十分な助けを求める時間もないまま、市内の人通りの多い場所を転々としながら、断続的にメグレに電話をかけ続けるが、ある時間を境にぷっつりと連絡を絶つ。そしてその日の深夜に、人気のないConcorde広場で発見された死体を見て、メグレはその男の命を助けられなかった事を悟る・・

緊迫したサスペンスに始まり、手際のよいリズム感で展開していくこの小説は、部下や密告人や証人などさまざまな人間像をおりまぜながら、良く煮込んだ料理のような深い味わいを与えてくれる。最後の、男の妻の語る物語は、このシリーズが優れた人情ものとしても楽しめる推理小説であることを、見事に証明している。



  ★ こども囲碁ワザ入門 横内猛
2002/09/20

子供用に買った本を、勉強のために親が読む、という気恥ずかしいシチュエーションではあるけれど、まあ確かに勉強にはなった。シチョウやゲタなどを解説した、ごくごく初歩の本。



 ★★ Bills of Material – Structured for Excelence 5th Editon
by Dave Garwood, Dogwood Publishing Company, 2000
2002/09/04

Bill of Material(略してBOMないしB/Mとも呼ばれる)の世界は、意外に奥が深い。
生産管理の教科書にはたいていMRPとならんで説明されている。が、単なる部品表のことじゃないか、と思って軽く見ていると、実務ではすぐに壁にぶちあたることになる。

たとえば、最近の製品は、多様化したユーザーの要望にできる限りマッチさせるべく、基本モデルにさまざまなオプションを追加・選択できるようにした商品が多い。そういう商品の場合、オプションの組合せは掛け算になるから、あっという間に数百、いや数千通りの最終製品(end item)が生まれる。このような場合、数千もの製品についてすべてBOMを定義しなければならないとしたら、膨大な人と時間を要するだろう。まして、その需要を予測するとなると(MRPでは最終製品ごとの独立需要を想定するため)、ほとんど実務上不可能になってしまう。

また、製造過程の都合で、一時的に部品・資材の代替品を使うケースがしばしば起こる。こうした場合、BOMはどう定義すべきなのだろうか? そもそも、部品の品質向上や仕入先の都合などで、部品をあるときから別の部品に変更していかなければならない場合、BOMのデータはいつ更新すべきなのか? 在庫がある限り工場はそれを使うだろうから、何月何日をもって切り替え、とはいかないはずだ。まして複数部品を組み上げる際には、ある部品を換えたら、組み合わせる相手も同時にかえる必要がある。そういうときの対処はどうすべきなのか? この問題は結局、いわゆる“E-BOM”(設計部品表)と“M-BOM”(製造部品表)の並立と相互矛盾という、やっかいな事象に発展していく。製造業の手本とされる自動車会社でさえ、複数のBOMの一元化に手こずっているのが、実は現状なのだ。

本書は、こうした問いに著者なりの答えを提供してくれる。著者のD. GarwoodはBOMの専門コンサルタントとして、永年のあいだ研修とコンサルティングに従事してきた人だ。本書を故オリバー・ワイトに捧げているところをみると、彼はMRP IIの忠実な推進者の一人だと思われる。

最近のERPブームのおかげで、生産管理システムもERPのモジュールを導入する例が増えている。SAP R/3やBaaNなどは、いずれもMRP IIをかなり忠実にインプリメントしているので、日本企業の間には、いつのまにか静かにMRPが浸透しつつあるわけだ。

しかし、その導入を担当するSEには、生産の実務や現場をほとんど知らない、本だけで勉強したプログラマ上がりのにわか生産コンサルタントが少なくないように思われる。また、MRPを嫌ってAPSにチャレンジを試みるアナリストにしても、APSはそのデータモデルの根本を、かなりの程度MRPから継承していることには無頓着のようだ。

こうしたERPの生産管理モジュールや、APSの導入を考えている企業の実務担当者すべてに、本書を読んで勉強することをおすすめする。英語の本だが、やさしく書いてあり、読むのは困難ではない。また、内容も決して難解ではない(数式などただの一度もでてこない)。同じような事例や説明が繰り返しでてくるのが、やや難点だが、むしろ復習をかねて読み進めていくのに適していると思えばよい。これよりも高度な専門書もあるし、著者の解決策だけが唯一最上のものでもないが、批判的に読みこなせば、必ず読者の血肉になる本だと信じている。



★★★ 朝鮮語のすすめ 渡辺吉鎔・鈴木孝夫
2002/07/20

「もう梅の花が咲いていますね」
「ええ、紅梅です。おととし近所の方からいただきましてね・・・」
「色がとてもきれいですね」
「もう一本裏にもありますがね」

庭先に咲いた紅梅を前にした、この風流な会話は、ほとんど逐語訳で(主語の省略や語尾の濁し方等も含めて)韓国語に翻訳することができる。にもかかわらず、韓国人にとって、この会話はひどくなじみにくいという。なぜなら、論理的な筋道がまったく通っておらず、二人の会話が少しもかみ合っていないからだ--。

本書のこの指摘は、私にとってきわめて衝撃的だった。

日本語を考え、日本語を論じるものは、必ず韓国語を学び考えてから、意見を発表すべきだと思う。日本語を西欧の言語とだけ対比させて、浅薄な議論を展開する論者があまりにも多い。省略の多用、数や冠詞の不在、主格代名詞が無数にあること、単語の概念、曖昧な語尾の濁し方、などなど、印欧語の概念を物差しにとって、そこにない性質を、全て日本人の心理的性質に直接性急に結びつける議論には、いいかげんあきあきする。

だから、この本の著者がいうように、ほぼ同じ文法的構造を持っている韓国語との相似と相違を吟味した上で、日本語の特性を考えるべきだ、という主張に賛成だ。いや、韓国語に限らず、琉球語やアイヌ語でもいいのかもしれないが、やはり文化的距離のある韓国と対比するのが一番いいだろう。そして、上記の風流な日本語の会話が、どの点でどうおかしいと感じられるのか、もう一度検討すべきだと考える。



 ★★ ニッポン清貧旅行 東海林さだお
2002/06/29

出張先のひまつぶしに、なにか軽く読めて頭にもたれない、楽しいスナック菓子のようなエッセイがほしいな、と思って買った本。その目的にはほぼぴたりと当たった。

だれも大声では言わないが、東海林さだおは名文家である。嘘だと思ったら、彼の形容や修飾のしかた、文章の区切り方などを見ればいい。簡単に読めるものは簡単に書けるはずだ、と思うのは素人の浅はかさだ。

しかし、ところどころにはさまる皮肉やサタイヤの苦さに、ふと“この人も年寄りになってきたのかな”と感じることがある。この本では韓国グルメ旅行記がなかなか面白かった。



 ★★ 阿佐田哲也勝負語録 さい・ふうめい
2002/06/01

稀代の勝負小説家・阿佐田哲也の文章の中から、勝負論にかんする断片を切り取って集めながら、彼が抱いていた勝負と運に関する理論を解説した本。さいわい、阿佐田哲也という人はきわめて明晰な理論家であり、その考え方の筋道をたどるのはむずかしくないが、このような形で集成されていなかったため、ストーリーテラーとしての面だけが記憶されているようだ。その点を明らかにしたのが、本書の功績だろう。

内容的には、さい・ふうめい氏の「運をつかむ人・のがす人」とほぼ同じ主張が多く、繰り返し的だが、阿佐田哲也の文章の持つ力を借りている文だけ、こちらの本の方が読みやすく印象に残りやすいと言えるだろう。




★★★ 音楽のために ドビュッシー評論集
2002/05/19

作曲家C・ドビュッシーが書き残した音楽評論集。ほとんどは時評の形で、隔週刊の雑誌「ラ・ルヴュ・ブランシュ」や日刊紙「ジル・ブラス」に発表されたものだ。これに、短いインタビュー記事がつけ加えられた集成になっている。時期は1901年から1917年までで、いわば脂の乗りきった年代に書かれている。

しかし、音楽が好きな人にとっては、これほど面白い評論集はない。読者がドビュッシーの音楽自体を好きであれ嫌いであれ、ここに書かれた文章のレベルの高さ、観察の鋭さ、表現の豊穣さには感心するにちがいない。ドビュッシーが作曲家として天才であることなど、今さら誰が言わなくても明らかだが、彼が文筆家としても類い希な才能を持っていることに驚く。その才能は、当然ながら彼の感受性と、音楽に対する深い愛情によって裏打ちされているのだが。

ここでは数々の演奏家や作曲家の才能のひらめきが、きわめて見事に、その特徴とともに活写される。また、頑迷や因習や鈍感や尊大さなど、ドビュッシーが忌み嫌うもの(それは同時にフランスの音楽アカデミズムの支配的トーンでもあった)には、辛辣で容赦ない断罪が下される。しかし、そのすみずみにまで、ユーモアとウィットが漂っている点が素晴らしく、この人の品性の高さを示している。

杉本秀太郎氏の翻訳は素晴らしい。かくも多くの固有名詞(その大部分は忘れられかけている名前だ)の飛び交う批評文を、実に繊細な日本語に置換えている。名訳だ。



  ★ コンセント 田口ランディ
2002/03/07
前半は面白かったが、後半1/3は腰砕けでちょっとがっかりさせられた。なぜこの小説がこれほどまでにヒットしたのだろうか?

著者自身の体験がかなり色濃く反映された小説だが、結局最初に提出された謎が、中途半端で消化不良なままでしか解決されない。主人公自身が「コンセント」になるラストシーンの力の弱さに、それが端的に現れている。謎はまだ謎のままなのだ。だったら小説としては別の割きりが必要だったように思うのだが。



 ★★ 竜馬がゆく(1) 司馬遼太郎
2002/03/22

作品としては比較的早い時期に書かれた代表作の一つ。歴史小説の枠組の中に、「剣豪」坂本竜馬をめぐる時代小説的な味付けがさし込まれているが、そこが読みやすさのポイントになっているのだろう。

それにしても、明治維新をなぜ下級武士がリードしていけたのか、この小説を読んではじめて分かった。黒船という外敵が現れて、武力の真の「国際競争」が問われるに至って、それまで江戸時代の身分制度を通して永年守られてきた階層の虚偽性があらわになり、本当の実力だけが問われるようになったのだ。武器の手当ができなくて「親藩ももうおしまいだな」言われるような状況だからこそ、外様の下級武士にも出番が回ってきたわけだ。
まさに今の日本にちょうどぴったりと重なる構図ではないか。露呈すべきものは、はやく露呈されるべきなのだ。それが社会の活力の源になるはずなのだから。



 ★★ 墨攻 酒見賢一
2002/03/18
読みやすく、面白い小説だ。中国古代に実在した謎の墨子教団を題材にとり、単純だがわかりやすいストーリーを組み立てている。結末に向かって一直線に進む構成と、中編と呼ぶべき長さとが、うまくバランスしているようだ。また、処女作「後宮小説」にあった、語り手のこうるさい後付けの説明がなくなり、眩学趣味だが出過ぎない地の文章になった。
なによりも(不つりあいに長い著者あとがきに書かれている)「職人」を描きたいという意図が過不足なく伝わっており、講談調の話に適度な奥行きを与えている。読む価値のある小説である。



  ★ パリの裏通り 高橋克典
2002/03/11
フランスで心ならずも生活することとなった自分にとって、通勤の地下鉄の中で軽く読める読み物として面白かった。

フランスについて書かれた本のほとんど全部が、フランスを好きでフランスに憧れを持ってこの国にやってきた人たちによるものだ。この本も、もちろん例外ではない。しかし、対象に対する自分の距離感がちょっとだけ醒めていて、そこがまあ許せる。

この奇妙で自尊心が強くて奇矯な国について、いろいろな角度からバランスをもって、かつ適度なユーモアを交えて書いている。その点だけでも、読んでいて腹が立たぬのでありがたい(ほとんどのフランス論は読んでいて腹が立つ)。

ただし、最後にでてくる国家主義的な著者の考え方には個人的には全く賛成できない。外国に出て住んでいる人にはしばしば反動的な愛国心を見かける。これは日本国内における不可思議な国家論に対するタブーから逆に生み出されたものではないか。

この著者が、パリでなく、たとえばブリュッセルとかストラスブールとかに住んでいたならば、あるいはもう少し国家というものに対して複雑な見方をするようになるのではないかと思う。ま、しょせん、パリのヌイイ市じゃあね・・・。



    村上ラヂヲ 村上春樹
2002/03/05
残念ながら、この人の「軽い」エッセイは、年齢を重ねるごとにつまらなくなっていく。装幀はおっ洒落ーで、けっこうな部数が売れるのだろう。それが悪いとは言わない。しかし内容のひねりが利かなくなってきていることは、あちこちで空回りしがちのウィットをみてもわかる。どうせ小説以外の文章を書くのなら、もう少し批評的な方向に向かった方がこの人の特質をよく出せると思うのだが。



★★★ 日曜歴史家 フィリップ・アリエス
2002/02/23
この本は本当に面白い。読んでいて、知的な興奮を覚える。得難い本だ。

20世紀の歴史学をまったく根底から変えてしまったフランスの歴史家アリエスがインタビュー形式で語った自叙伝。その彼は晩年まで一切、いかなる大学にもアカデミズムにも属さず、一人で(正確には奥さんと二人で)歴史研究を続けてきた。熱帯農業の研究所勤務という本業のかたわら、「日曜日に」つづけてきた研究によって、それまでの政治史中心の歴史学を完全にひっくり返してしまったのだ。

彼の築いてきた「心性の歴史」、すなわち諸住民の生活、子どもと家族生活、死に対する態度などの歴史学がどのようにして芽生え、生まれ育ってきたかの過程は本当に面白い。

この本の中には、戦前から戦後に書けてのある時代を生き抜いてきたフランスの知識階級に属する一市民の生活史が、ありありと浮き彫りにされている。これもとても興味深い。「昔はパリにも安くてうまいものを食べさせる店があったものだ。」などと書いてあるのを読むと、うーむ、きっとそうだろうなあ、などと思ってしまう。

もう一つ、この本で初めて知ったのだが、アリエスは本職の領域では、研究目的でコンピュータとデータベースを国立の研究機関に導入したほとんど最初の人なのだ。80年代に書かれたこのインタビューの中で、いずれ近いうちには全ての人が自宅から遠くのコンピュータに接続してデータを調べることができるようになるだろう、などと書いてあるのを読むと、その予言の現実性に驚いてしまう。こういう部分が、この人の実証的な性格を良くあらわしていると思う。そして、だからこそあれだけの巨大な仕事ができたのだ。

アリエスのとった、「日曜歴史家」という生き方を、心底うらやましく思う。



 ★★ 敗れざる者たち 沢木耕太郎
2002/02/22
沢木耕太郎とくいの、スポーツと勝敗の世界をとらえたルポルタージュ。この人の文章が醸し出す、独特な美学にはどこか読者を酔わせる力がある。面白い。



  ★ When We Were Orphans / Kazuo Ishiguro
2002/02/17
現代英文学海を代表する作家、カズオ・イシグロの近作。
しかし、なんと重い小説だろう。よくできた話だとは思うが、それにしてもこういう話にしなければならなかったのだろうか。

戦前の上海を舞台に、失踪した両親を捜す英国人の子どもの物語。そのプロットは面白いのだが、前半はややペースがのろく感じられる。主人公を私立探偵としているのだが、そのわりにミステリーの読者にとってピンとくるような展開がない。

もちろん、これは推理小説でないのだといえばそれまでだが、しかしこの話自体は、腕のいいプロのミステリー作家ならばもっと渋く鋭くまとめることもできたのでは? という気もする。文体はそれなりに凝っているが、読んでいて美しさにはっとする、というほどではない。

しかし、設定や部分部分に、日本生まれで英国育ちの作者の感覚(そこには東洋に対するかなりの違和感がある)が漏れていて、そこのところは面白い。



 ★★ この世とあの世の風通し 加藤清(聞き手:上野圭一)
2002/02/10
もうずいぶんと高齢だが、かなり異色の精神科医である加藤清が、鍼灸師で「精神世界」「癒し系」マターに強い上野圭一を相手に、自己の半生を語る本。なかなか面白く読めた。

とくに興味深かったのは、自分でメスカリンを合成して、「サイケデリックス療法」を実験するくだりだ。これは本当に臨床医学的に効果があり、面白い。要するにLSD等の向精神医薬の力を借りて、患者の深層心理の中のイメージを覚醒下で取り出そうという試みである。それによって意識レベルが高いまま、かつ治療者がそばにいて支えになりながら、なおかつビビッドに“かなり深い”レベルの心的体験をすることになる。

また、ターミナル・ケアを論じて、本当に大事なのは「治療者が落ち着いていること」であるという指摘も非常に面白い。とにかく(奇妙な人の自伝ではあるが)読んでいてまことに面白い本だ。



 ★★ フランス文法 大木健
2002/02/01
外国語の文法書など通して読んだのは何年ぶりだろう。いや、初めてのことにちがいない。きわめてまっとうな文法書であり、著者の工夫もあり、とても良い本だと思う。

しかしどんなに良い本でも、40代も半ばすぎて外国語を一から勉強するのはつらい。記憶力の限界を考えると、ほぼ不可能事に近いような気さえする。しかし、少しでもその気にさせる程度には、良くできた教科書だろう。


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