契約なんかこわくない(3) 契約の論理の根底にあるもの

契約はプロジェクト・マネージャーが設計するものであり、その設計においては三つの重要な原則がある、と前回説明した。それは、「当事者は対等であること」、「自由度が責任範囲を決めること」、「強制力があること」の三原則だ。

「当事者は対等であること」とは、発注者と受注者は本来対等な存在であって、権利義務関係は一方的なものにならないよう、主張することができるということだ。第二原則の「自由度が責任範囲を決めること」とは、当事者に許された自由度の範囲を超えて、無限に責任をとらされないようにすべきだ、という原則である。無限責任というものは、近代法の世界では存在すべきではない、と考える。いずれも、弱い立場に立たされがちな受注者を勇気づける原則である。

では、第三の「強制力があること」は具体的に何を意味しているのか? これは、「契約は約束なんだから、自分の言ったことは責任を持って守りましょう」という、ある意味で当たり前のことの宣言だ。発注者に、言ったことを守らせる。もちろん、受注者も守る(第一原則にある通り、両者は対等なのだから)。とはいえ、これはもう少し説明が必要だろう。

以前、「受注生産という名前の見込生産」(『生産計画ワンポイント講義』2008/07/09)で、発注書無しで材料を購入する業界がある、と書いた。内示はあっても正式な発注書はなく、金額は当月納入(使用)した量に応じて単価精算する。内示と現実がちがってサプライヤーに在庫が残っても、購入側は責任をとらない(その顧客向けの商品だから転売もきかないのだが)。よく考えてみると、J-SOX法と内部監査の専門家が目をむきそうな業界慣習である。だから今後もこのような慣習が生き残るかどうかは、わからない。

しかし、サプライヤーに一方的に不利に見えるこの慣習も、じつは裏面があるという。知り合いの営業マンは、その業界に入った頃のことを思い出して、こういう。「大量の資材を、口頭の指示だけで納める習慣にはたしかにビックリしました。でも逆に、『10万本もってきてくれ』という客先の注文に対して、『すんません、9万5千本しか製造が間に合いませんでした』といえば、『そうか、まあいいよ』でお客さんの方も済んだんです。」 つまり、不良で歩留が上がらなくても、泣きつけば許してもらえた、ということである。

何を、いつまでに、いくつ、いくらで納めてほしい←→はい納めます、という約束が発注書(&受注請書)と呼ばれる書類の正体だ。つまり、発注書とは約束と合意からなる契約文書にほかならない。発注書のない業界とは、発注側と受注側に契約が存在しない世界である。そこでは、受注者が無限責任を負う代わりに、発注者は多少の甘えも許してやる。さながら親子関係のように、自他の区別のない世界なのだ。

でも、そもそもなぜ契約などというものがあるのだろうか? 八百屋で大根1本を買うのに、誰か発注書を書くだろうか? だったら容器100万本を買うのにも、なぜ契約書など必要なのか?

その答えが、『強制力』なのである。合意(Agreement)と、契約(Contract)の違いとは、後者には強制力(Enforcement)があることだ。何に対する強制かって? それはむろん、約束を守れない事態におちいることを避けるための力だ。あるいは、約束が守れない事態に陥ったとき、できるかぎり修復できるように当事者が努力するための力だ。昔から多くの社会では、約束を人前で誓い、立ち会った人々に証人になってもらうことで、社会による強制力を保証してきた。約束を守れなければ、信用を失う。結婚式が人前での誓いの形式をとるのも、たぶんこの延長線上にある。結婚は両性の合意で成立するが、それを簡単にこわせないように、「固めの儀式」でenforceするのだ。

近代社会では、人前での誓いの代わりに、紙に記してそれを証拠立てる方式が広まった。西洋では、両者が紙に自分の印章で封蝋をつかってスタンプすることで、強制力が保証されるようになった。後には、透かし入りの上質紙(これをBondと呼ぶ)にサインすることにかわった。現在では、電子的記録でも正式な契約である。

むろん、口頭での合意でも、大根1本は買える。純粋に合法だ。しかし、容器100万本を口頭依頼で納めた後、代金が支払われなかったら、どうするのか? 「ほしかったのは90万本だった」と注文主が言い出したら、どこに強制力があるのか?

契約のない世界--すなわち、従来の日本の少なからぬ業界では、「世間的信用」がそれを保証してきた。いや、保証するはずだった、と言い直すべきだろうか。「逃げも隠れもしない大店(おおだな)の暖簾」が、裏書きだったはずだ。納入業者を泣かせるようなことはしない。商売は相身互い。以心伝心、一心同体やないか。

おわかりだろうか。契約というのは、「あなたと私は別人です」という、自他を区別する“水くさい”関係認識の上に成り立っている。別人だから、互いに思いもよらぬ事態になりうる。そうなって困らないように、約束の内容を文書で記録にして、「強制力がある」ものにする。これが契約の第三原則なのである。

だから契約書では、たいてい最後の方に、「仲裁条項」を書く。これは、本契約に関して当事者間に紛争が生じた際に、誰に仲裁を頼むかを決める項目だ。普通は裁判所か公的調停機関である。少なくとも私の知る限り、海外の契約書では、どの国の法律を適用し、どこそこの裁判所に仲裁をゆだねる、という仲裁条項がある。強制力のためである。

ところが、私の経験では、日本の契約書には不思議なことにこの仲裁条項が無い。かわりに、「両者は誠意をもって解決に努力する」という『誠意条項』が書かれているのだ。誠意! まことに日本的で、結構なことだ。他人同士みたいな「水くさい関係」は、なるべく避けたいという“大人の知恵”なのだろう。そして、他人ではないから、発注者側は好き放題のことを言って、甘えてくる。自分の側で責任を持って行うべき義務は、都合良く忘れてしまう。そして、受注者に無限責任を求めてくる。--やはり、日本における発注者と受注者の伝統的関係は、母子関係のようなものらしい。お互い他人でもないし、逃げることもできない。

とはいえ、長い伝統社会の、決まり切った仲間内での取引では収まりきれなくなった現代では、契約は避けて通ることのできぬ手続きなのだ。もしあなたがプロジェクト・マネージャーなら、そしてあなたの顧客が「あなたと一心同体と思える相手」でなかったら、契約をどうすべきか考えるべきなのだ。客先と打合せをしたら、合意事項を議事録に書いて(議事録は契約を補完するものと位置づけられる)、あとで「あのとき貴方はこうおっしゃいました」とやんわり詰めよるべきなのだ。

「自他は別の存在であること」が契約の根底である。自分と相手は他人であって、一心同体でも以心伝心でもない。そこで、権利義務関係はできるかぎり明確化・文書化しましょう、という考えが生まれてくる。また、他人であるということは、責任範囲には限界がある、ということで、第二原則にも通じている。もちろん、別人であるからには、両者は対等だ。これが第一原則である。ところが、日本の企業社会には、この自他分別の論理が抜けている。抜けたまま、形の上だけ契約風な紙切れを交わし、また「契約だから」といって勝手に関係を切るのにも利用している。

生産システムの-その目的と機能は何か」で私は、「日本の製造業が抱えている問題点を、非常に圧縮した形で表現するならば、『大量・見込生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということになる。」と書いた。私はもう一つ、あえて書きたいことがある。それは、「日本の企業は契約の論理の根底にある、自他分別の認識を抜かしたまま、形の上だけ欧米企業のやることを真似ようとしている。それが、今日の社会のさまざまな矛盾を生んでいる」ということだ。偽装請負も、成果主義年俸制も、自社工場の分社化も、事後精算付き発注も、みな同じ根っこから発している。

今の日本の現実では、無限責任をとれるような永久的共存共栄関係はもはや存在しないのだ。それならば、自分の身を守るために、あなたも今日から契約書に強くなるべきである。