稀な危機 vs ありふれた失敗-リスク対策の優先順位を考える (2013/10/20)

ジェッダから紅海に沿って北に向かう道を、わたし達は走っていた。空港で入国審査に手こずり、思った以上に時間がかかって遅れている。ドバイからジェッダに飛行するよりも長い時間を、パスポートコントロール窓口の行列に費やしてしまったのである。現場事務所に着いたら、「自分のスケジュール・リスクはマネージできないようですね」と皮肉を言われかねない。わたし達は、プロジェクトのリスク・アセスメントのセッションを開催するために、現地に向かっていたからである。おまけに、プロジェクトにおけるわたしの主な守備範囲は、スケジューリングとリスク・アナリシスであった。それが打合せに半日も遅れたんじゃ、面目丸つぶれである。

もっとも、同行している某国営石油会社のエンジニアにしてみれば、これは十分予見できたことらしい。彼の会社では、移動日には会議を入れるな、という内規があるという。飛行機の移動にはおもわぬ出来事がつきものだし、おまけにお役人の非効率は今に始まったことではないから、誠にごもっともである。クロアチアでのIPMA(国際PM協会)の世界大会(「プロジェクト・マネージャーが魔神に願うこと ―― 国際PM大会2013に参加して」参照)に出席した後、わたしは勤務先のプロマネ、ならびに顧客のエンジニアと合流し、中東を出張で回った。それが、7日間に乗り継ぎを入れて合計7回飛行機に乗る、というハードスケジュールだったため、「日本人はクレイジーだ」とあきれられた訳である。それでも我慢してつき合ってくれた彼には、大いに感謝した。

わたしだって、何も飛行機が好きでそんな日程を立てたわけではない。ただ、フライトや場所や費用の都合で、どうしてもそうなってしまったのである。彼が飛行機嫌いでなくてラッキーだった。世の中には飛行機が大嫌いな人もたくさんいる。前回ご紹介した自称"Lazy project manager"ことPeter Taylor氏もその一人であった。大西洋を橋で渡りたい、というくらいなのだ。

飛行機が嫌いな人は、落ちたらまずお陀仏だから、という直感があるのかもしれない。それはその通りである。いくら事故統計では飛行機より自動車移動の方がずっと事故の確率が高い、と言ってみても、人の心理は数字上の理屈を超えている。空気よりも重いものが空を飛んでいるのだから、どうしたって直感的には無理がある。おまけに飛行機事故は派手だ。新聞で大きな記事になりやすい。自動車事故は大小あれど、遺憾ながらありふれている。だからどうしても派手な方に注意が向く。

稀な危機と、ありふれた失敗。リスク・マネジメントではどちらを注視すべきか--そういう問いを、わたしはときどきセッションで参加者に問いかける。ご承知だと思うが、標準的なリスク・マネジメントの進め方では、リスクの大小を、

 (与えるインパクトの大きさ)×(発生する頻度)

のかけ算で整理する。この目的のために、横軸に「インパクトの大きさ」(影響度)、縦軸に「発生頻度」をとった2次元のマトリクスをしばしば用いて説明する。

当たり前だが、右上の象限(A)にあたる部分は、「インパクトが大きく・かつ・頻度も高い」リスクのカテゴリーを表す。だから、リスク対策ではここが最優先になる。

逆に、左下の部分(D)は、「インパクトが小さく・かつ・頻度も低い」リスクである。こうした類は対策の優先度が一番低くなり、まあ無視しておくか、起きてから考えればいいじゃないか、という風になるあろう。それはそれで、経済合理性のある態度である。

問題は、左上の「インパクトは小さいが、頻度が高い」リスク(C)と、右下の「滅多に起こらないが、インパクトが大きい」リスク(B)との比較である。「ありふれたトラブル事象」と「希な危機的事象」の比較と言いかえても良い。たとえば、ありふれたトラブルの例は、設計ミス、資材価格上昇、などだ。他方、大地震、戦争、テロ等が、稀な危機のケースである。

わたし達がリスク対策にかけられる費用や時間は、有限である。両方ともに対策をたてられれば万全だが、どちらかを優先せざるを得ない場合も多い。その時、どちらを選ぶべきなのか。稀な危機か、ありふれた失敗か?

答えは簡単である。“どちらが過去から学びやすいか”を考えればよいのだ。ありふれた失敗は、過去にも似たようなことをたくさん経験しているはずである。一方、稀な危機事象は、稀なるが故に、滅多に遭遇しない。大地震や津波がそうしょっちゅう起きてもらってはこまる。

そうなると、過去の失敗に学びやすいのは、ありふれたトラブル(C)の方だと分かるだろう。こちらの方が、稀な危機(B)に比べて過去に学ぶ作業のコスト・パフォーマンスが高いのである。飛行機で移動するとき、注意すべきなのは墜落事故ではなく、ありふれた遅延なのである。そのことを、わたしはこの日、あらためて思い知らされたわけだ。

それなのに、いざリスク・アセスメントのセッションを開くとなると、しばしばテロや大地震といった派手な危機をあげたがる人が出てくるのはどうしてだろう? --それは、前にも書いたように、そうした出来事がメディアに取り上げられ、記憶に残りやすいからである。設計ミスなどのありふれた失敗は、自分がそれでよほど手痛い目にでもあわない限り、記憶に残りにくい。いや、むしろ忘れやすい。できれば自分が不完全だったことなど忘れたい。そう、誰しも思う。

だとしたら、リスク・アセスメント・セッションの進行役など、ずいぶんありがたくない仕事である。人が思い出したくない過去の失敗を思い出させよう,というわけだ。しかし、それもやむを得ぬ。ありふれたトラブルというのは、たいていの場合、組織の内部環境に起因する『内部リスク』と呼ばれるものである。それに対し、稀な危機は外部から突発的にやってくる『外部リスク』がほとんどだ。外部リスクは目立つし、発生すればすぐ誰もが認識する。しかし、内部リスクというのは、じわじわと発生し、問題を悪化させて、気づいたときにはすでに手遅れになることが少なくないのだ。外部リスクを飛行機事故にたとえれば、内部リスクは生活習慣病のようなものである。

そう考えると、リスク・アナリシスの担当者は、人間ドックの医師みたいなものだ。リスク低減の処方くらいは書けるが、主体となってリスクを低減できる訳ではない。それができるのは、つねに仕事の「生活習慣」を作り出している自分達の方なのである。

(追記)
上に書いたのは、自分達が主体的にすすめるプロジェクトなどの事業におけるリスクの話である。つまり、便益を得るのも自分なら、リスクをテークするのも自分、というときの論理だ。自分の便益のために、他人や環境にリスクを晒すような、はた迷惑な場合とは理屈が違うので、誤解無きよう。