「リスク」という言葉に伴う不確実性 (2010/09/30)

ビジネスにおけるリスクを語る際、非常に厄介な事実が一つある。それは、「リスク」という語の定義がうまく定まっていないことだ。Aという人の語るリスクと、Bという人の受け取るリスクが同じ物事を指しているとは限らない。いや、違うことを言っている可能性の方がずっと高い。各人の理解にブレがある。リスクについて語ることは、それ自体がすでにリスキーな事なのだ。

たとえば、人に「最近遭遇したリスク事象の例を挙げてください」と質問したとしよう。たいていの場合、返ってくる答えは「発注先が納期を一月半も遅らせてきたんです」とか「先月自転車で事故りまして」といったものだ。これらは実際に起きてしまったトラブル事象、すなわち『issue』(問題)である。リスクという語は、本来は起きる前の可能性を指す概念のはずである。だから、「発注先の手際がまずくて納期に遅れそうになり、気を揉みました」とか「自転車のブレーキ不調でヒヤリとしました」という事象が本来の答えであるべきだろう。どこかに概念のいき違いがありそうだ。

こういうときに、近頃の人が頼りにしたがるのがWikipediaである。しかし、この稿を書いている2010年9月現在で、日本語版Wikipediaの「リスク」を見ても、各方面からの寄せ集め的な解説しか載っておらず、(書いた人には申し訳ないが)正直なんだかよく分からなくなる。英語版Wikipediaの"RISK"の方はもう少し立派にまとまっており、定義definitionのセクションには積分の数式まで登場してなかなか楽しめる(知的余裕のある人には)。でも、よく読むと「リスクという語にはいろいろな定義があり得る」と書いてあり、100%決定打とはなっていない。

じゃあ、学問的定義は? ところがリスクに関連する学会も、日本リスク研究学会(安全・環境系の人が多い?)・日本リスクマネジメント学会(経済学系でなぜか関西中心?)・リスクマネジメント協会(保険・法務の人脈が強い?)と複数存在している。そして、それぞれが資格制度や検定試験も行っているようだ。海外に目を向けると、米国に本部を持つThe Society of Risk Analysis (SRA)、Risk and Insurance Management Society (RIMS)などの国際的組織がある。とにかく「リスク業界」は百花繚乱なのである。リスクというテーマが、ビジネスの分野でもアカデミックの世界でも、めしのタネとして大勢の人を養っている事実に驚嘆すべきであろう。

電力中研の田邉朋行氏は、東大工学部での「社会技術としての化学技術」という講義シリーズの中で、種々のリスク定義におけるブレと共通点を解説しておられる(じつはわたしも同じシリーズでプロジェクト・マネジメントの講師を務めている)。これが実にうまくまとめられているので紹介すると、保険と金融という、隣接した業界においても「リスク」の概念は全く違っているのだという。

たとえば、保険実務においては、「ハザード」hazard、「ペリル」peril、そして「リスク」riskという言葉を使い分けている。たとえば“道にバナナの皮が落ちている”という事象発生の原因状況をハザードと呼び、“すべって転ぶ”という損害をもたらす事象をペリル、そして“けがをして入院”という結果としての損失をリスクと呼ぶ。あるいは、電線の絶縁不良はハザード、漏電がペリル、そして火災がリスク、という訳である。人はしばしば漏電も火災もごったまぜにしてリスクと呼ぶが、保険業界においては、事象の内部構造を三段階に分けて認識するわけである。

(念のためにいうと、火災が起きてしまったという事象はリスクではなく、結果である。火災が起きるかもしれない、という可能性をリスクと呼ぶわけだ)

ところが、金融業界における「リスク」の使い方は、まったく違っている。飛んでいる飛行機からパラシュート無しで飛び降りた場合、ほぼ確実に死亡する。だから、普通だったらリスクは非常に大きいと思うだろう。ところが金融工学では、リスクはほぼゼロと考える。ただ、リターンがマイナス無限大だ、と解釈するのである。金融理論では、リスクとは結果に対する不確実性を意味するからだ。

田邉氏の「技術リスク意思決定と法システム」によると、医療・環境学系でもリスクの定義はまちまちらしい。たとえばダイオキシンを論じる場合、物質としての毒性の強さと、その人の健康への影響度(これは濃度や摂取量によって決まる)をきちんと区別して論じないケースがある、という。

ただ、こうしていろいろな定義を並べて考えてみると、どうやらリスク概念には大きく分けると二種類あることがわかる。それは、保険業界・環境学などのように、望ましくないマイナス事象の可能性をリスクと呼ぶ分野と、金融理論に見られるように、マイナスの結果(脅威)だけでなくプラスの結果(好機)も含めてリスクと呼ぶ分野、との二種類だ。わたしは前者を「非対称型」、後者を「対称型」リスク概念と名付けて区別している。

では、一般的なビジネスの現場ではどうか? 生産管理や品質管理では、リスクはふつう非対称型の概念である。納期遅れや、在庫切れや、品質劣化をリスクと考える。ところが、プロジェクト・マネジメントの分野では、PMBOK Guideは明確に対称型のリスク概念で書かれている。これはやや不思議に感じられるが、あるいは標準制定の途上で、金融学系の人々の影響が強かったのかもしれない。

それにしても、なぜ対称型と非対称型の二つの見方が出てくるのか? それは、それぞれの分野におけるリスクの反対概念を考えてみると理解できる。医療・環境学では、「リスクの無い状態」とは、『安全』である。保険や法務や情報セキュリティなどの分野でも、理想は『安全』である。ところが、金融分野では、「リスクの無い状態」は『確実』を意味するのだ。かくして、無意識の内に、安全を考えるのか、確実を求めるのかで、リスクに対する態度は分かれる。その結果、両者の間でコミュニケーションは確実に混乱するのだろう(笑)。

それでは、ビジネスの現場におけるリスクは、どう定義するのが良いのか。ここでわたしの考え方を述べたいところだが、いつものくせで、寄り道がまた長くなりすぎたようだ。続きは、また書こう(→生産計画とスケジューリングの用語集『リスク』の項参照)。