リスク・マネジメントは本当に可能か (2010/08/11)

たまに人前で、プロジェクトのリスク・マネジメントについてお話しする機会がある(事業リスク・マネジメント、というテーマ名のこともあるが)。そういうとき、私が真っ先に聴衆の方にたずねる質問が二つある。最初の質問は、

「あなたは、リスク・マネジメントが本当に可能だと思いますか?」

という問いかけだ。そして、こう補足する。「マネジメントとは、自分がある程度知っている対象を、自分の目的のために動かして利用することを言いますね。ところで『リスク』とは、自分がよく知らない、予見しがたい事象を指す言葉です。では、自分が知らないものをちゃんとマネジメントできると、皆さんは信じますか? リスク・マネジメントという言葉は、言語矛盾だと思いませんか。ならば、リスク・マネジメントとは、一体何をマネジメントすればいいのでしょう?」

ちょっと虚を突かれた感じの聴衆の方に対して、次に放つ質問は、こうだ。

「では、皆さんは、運不運が存在すると思いますか?」

反応はいろいろだが、おおむね、“人生には運・不運はあると思う”との回答が返ってくる。“いや、運・不運なんて信じない”と答えた方は、これまでたった二人しかおられなかった。そのお二人とも、まだ20代そこそこの若さであったことを考えると、たいていの人は、ある程度の年齢になると、運不運はあるかもしれないな、と感じるということなのだろう。

それにしても、『運・不運』とは、いったい何のことを指しているのだろうか。

サイコロをころがしたら、出た目は偶数だった。ところが次にころがしたら、今度は奇数の目が出た--こんなことは、別段だれも運不運だなどと思わない。単に、ごくありふれた偶然性がそこにあるだけだ。サイコロの博打で、最初は丁の目にかけて勝ち、次は半で敗れた。これだって、別に騒ぐほどのことではあるまい。そういう状態を指して、“人生には運不運があるよな”、などと誰も感慨にふけったりはしない。では、どのような事態を指して、人は運不運がある、と感じるのか。

たとえば、自転車に乗っていたと想像してほしい。ちょっと横風が吹いてくる。あるいは、前方で年配のご婦人が不注意にふらふら歩いている。こうした事象はありがちで、とくに驚くほどのことではない。風向きに応じてバランスを取ったり、歩行者をよけて走ったりするだけだ。十分、対処できる事象である。自動制御理論風にいえば、自転車という「システム」を運転するために、足ペダルの「動力」や、ハンドルの向きなどの「制御要素」をインプットする。システムの入力に多少の「外乱」(風や前方障害物)があっても、安定化制御をつづける能力を私たちは持っているのである。

ところで、この外乱が通常よりもずっと強いものだったら、どうだろう。あるいは、ずっと継続して続いたら。たとえば、急に風速30mの横風を受けたら、倒れずに走るのは上級者だけだ。ご婦人でなく小学生が、さっと物陰から飛び出したら、よけるのはかなり困難だろう。入ってきた外乱が、安定制御可能な上限を超えているのである。

私たちは、普段の生活においては、仕事上でもプライベートでも、それなりに繰り返し性のある安定した営為を続けている。天候や健康や渋滞や反目など、多少の外乱はあっても、対抗したり回避したり受け流したりして、生活を続けていける。しかし、自分の制御可能な限界を超えた、大きな事象がふりかかって、期待した状態から大きく外れてしまうことがある。勤務先が倒産したり、恋人にふられたり、受かるはずの試験に落ちたり、といった状況に陥ると、「これは不運だ」と人は思うのである。逆に他人が、思わぬ昇進を上司から勝ち取ったり、偶然うまい仕事のチャンスに恵まれるのを見ると、「あいつは運が良い」と思ったりする。

かくして、職を失うと同時に恋人にも去られる人間がいるかたわら、丁度うまく回ってきた仕事で楽に成功して昇進する者も居る。こうして、「幸運」や「不運」が片寄って連続して現れるとき、運不運はあるな、という感慨が生まれてくるのである。

おかしなことに、サイコロをふってみても、同じ目が何度も続けて出ることがある。純粋なランダムさではなく、中心からずれたかたよりが連続して生じることを、不思議と私たちは観測するのだ。これを称して、運不運と私たちは呼ぶ。

でも、ちょっと考えてみてほしい。私たちの住むこの世界が、ホワイトノイズ的な完全なランダム性の支配する場所だったら、私たちは耐えられるだろうか? 放映終了後のテレビスクリーンの画像のように、一切何のとりとめも脈絡もない、そんな予測不能な事態に私たちは耐えることが出来ない。

また逆に、一切が全て厳密な因果律の法則性にしたがう世界はどうだろう。それは、すべてが運命のように決まった、完全に予測可能な世界だ。そんな宿命論の下で、私たちは正気を保てるとは思えない。

つまり、私たちは、連続性がありながら、ちょっとランダム、という状態が一番居心地がよいのだ。ある程度の予測可能性がある。でもサプライズもある。つまりリスクもある。それが私たちの望む状態なのだ。

さてそれで。リスク・マネジメントという言葉は、それ自体が言語矛盾だ、と最初に書いた。では、何をマネジメントすべきなのか?

リスク・マネジメントに対する大きな誤解に、ときどき出会う。「リスク・マネジメントをすればリスクが減る、無くなる」という誤解だ。賭けたって良いが、そんな事ありはしない。私たちはどんなに手を尽くしたって、明日台風が日本に進路を向けることを防げはしないのだ。リスク・マネジメントとは失敗しない方法ではない。

また、リスク・マネジメント=危ないことに手を出さないこと、という誤解も多い。それは嘘だ。たしかに、何もしなければ、失敗もしない。しかし、ゴーイング・コンサーンである企業において「何もしない」はあり得ない。それは昨日と同じことを今日もやる、という意味である。それは消極的ながら一つの決断であって、とうぜんリスクをともなう。もし「環境変化に対して何もしない」のだとしたら、その方針自体がもはや、最大のリスクである。

リスクとは何か。その定義はさまざまだが、リスクの大きさを数式的に表現するならば、次のようになるだろう:

       可能性×影響度
リスク = ---------
        対応能力

おわかりだろうか。リスクの大きさは、その可能性(生起確率)と、影響度の積に比例する。リスク事象の生起確率は、低減できる場合もあるが、コントロールできない場合の方が多い。台風の進路のように。

ということは、私たちのなすべき方策は、「影響度」を小さくするか、ないしは「対応能力」を大きくするしかないのである。これがリスク・マネジメントの本質なのだ。

私たちは未知なるリスクそれ自体をマネジメントすることは、できない。私たちができるのは、リスクへのふるまい方をマネジメントすることなのである。それをどう学ぶべきかについて、これから数回に分けてノートを書いていきたいと思う。