考えるヒント(08)

問題症状を治してはいけない (2013/12/11)


システムとはいったい何を指すのか (2013/08/02)


デュルケーム『自殺論』に学ぶ、人間集団に必要な二条件 (2013/06/23)


それは知識ですか、スキルですか、資質ですか? (2013/06/02)


品質工学から見た日本の教育の問題点 (2013/02/16)


Tomorrow will be a better day — 未来志向のマネジメントのために
(2013/01/05)


決める力、決めない力 (2012/11/20)


休むのも仕事のうち (2012/08/08)


Structured Approachができる人、できない人
(2012/07/08)


心の中でヘリコプターに乗れ (2012/04/02)


設計思想(Design Philosophy)とは何か
(2012/03/26)


耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い (2012/02/07)

問題症状を治してはいけない
(2013/12/11)

学生の頃、友人の家に泊まった。深夜まで音楽談義にふけった翌朝、寝不足と二日酔い気味のまま起きだして、その家の洗面台の前に立つ。顔を洗おうとしたら、壁に小さな新聞記事の切り抜きが貼られているのに気がついた。なにかコラム記事のようだ。タイトルは「風邪を引かない方法」。筆者の名前は、医学博士 ○○○○とある。


文章の主旨はこうだった。「風邪を引いた患者の容態を調べると、ほぼ共通して、初期は鼻が通常より乾いた状態であることがわかった。本来、健康人の鼻の穴は適度に濡れている。鼻が乾いてしまうことが、風邪をひく原因だ。だから、風邪を予防したければ、朝夕、顔を洗うときに、指先を水道の水にひたし、それで鼻の穴を濡らすようにすると良い。自分はこの方法で、もう10年以上も、風邪ひとつ引いたことがない。」


たぶん、友人の母上はこの記事が気に入って、自分の健康のために洗面台に貼ることにしたのだろう。母上が実際に風邪ひとつ引かぬ体質になったかどうかは、知らない。しかし、この文章があまりにも奇妙だったため、わたしは今でも忘れられずにいる。


風邪はウィルス性の感染症で、主に空気感染によってうつる--こんな常識は、もちろん医学博士某先生も重々ご承知であったはずである。では、鼻の穴が乾くとなぜ風邪を引くのか? そこの理路はよく分からなかった。鼻腔壁が濡れていれば、外気と一緒に呼吸で吸い込んだウィルスなどもよく吸着でき、体内に入るのを防ぐことができる、ということだったのかもしれない。実際、わたし自身も、鼻が乾きやすいのは風邪の初期症状だと自覚し、気づいた時はなるべく大事をとるようにしている。そう思うようになったのは、この記事を読んで以降のことだったろうか。ただ、朝晩、水道水で鼻の穴を濡らすことはしていない。


というのは、わたしは別の見方をしたからだ。鼻が乾くことが、風邪の原因ではない。風邪を引いて、鼻腔が熱っぽくなるから、鼻が乾きやすくなるのだと考えたのである。なぜ熱っぽくなるのか? ここからは素人の想像だが、文字通り、身体の正常な反応のひとつであり、熱を出して温度を上げることによって、菌の生存率を下げようとしているのだ。発熱というのは基本的に、身体が外部から侵入したバイキンを弱らせる防御反応である(微生物には生存に適した温度範囲があり、感染菌はたいてい人間の通常体温に適応している)。


つまり、鼻が乾くことは、風邪の原因ではなく結果であり、初期症状なのである。それは、身体の正常な反応の一部だ。結果を除去したからといって、原因が治るわけではない。鼻の乾きにかぎらず、痛みや熱といった症状は、体のアラーム信号だ。アラーム信号それ自体を除去して、異変が治るだろうか。もちろん素人のわたしが、医学の専門家の意見を批評するのはおこがましいかもしれぬ。ただ、俗に“風邪を治す薬を発明できたらノーベル賞ものだ”と言われるが、この医学博士の先生が受賞したという話は聞かないし、学会での常識になったという風でもない。


話は、いきなり飛ぶ(いつもながらすみません)。10年ほど前だが、あるERPベンダーを、別の国のコングロマリットが買収した。ERP市場の中では、Second
tierというか二番手集団だったが、あいにく赤字に陥って、買収の憂き目にあったわけだ。買い手の企業の方は、次々と買収劇を繰り返して急成長中であった。彼らは買収時のコメントとして、「これからは厳格なコスト管理を行って、経営を再建する」と発表した。Stringent
cost control
という語を使っていた。これを読んだわたしは、“あ、これはダメだ”とがっかり感じたのを覚えている。


なぜダメか。ソリューション・ベンダーが赤字に陥る状態は、コスト管理の失敗から来ることは、じつは少ないからだ。豪華すぎる設備を買ったとか、外注先に払う人月単価が高すぎたといった理由で、赤字になるのなら、たしかにコスト屋の領分だろう。だが、多くの場合は、ちがう。新バージョンのリリースが遅れてシェアを競合他社に奪われたとか、追加交渉に失敗して売上が伸びなかったということが原因なのだ。さらに、どうしてそういう事態が生じるかというと、仕様が複雑化して開発工数が増大したとか、出来上がった製品の品質が悪くて顧客交渉に強く臨めない、といった事象が考えられる。そしてもっと原因をたどると、自社要員の人数・能力不足や、開発外注先の選定の失敗が浮かび上がる。それらの根本原因として、コミュニケーション不全や、リスク管理の不在など、マネジメント・スキル自体の問題が横たわっているはずだ。こうした問題を、数字に強いだけの財務屋さん達が解決できるだろうか?


赤字というのは、企業というシステムの表面に現れる症状である。その症状を、コストという「症状の次元」の中で解決できると思うのは、あさはかだ。原因は、もっと深いところにあるのに、買収で成長する企業では、往々にして頭脳優秀な財務マンたちが経営企画の中核にいて、自信満々にすべてを数字で割り切れると信じている。彼らが得意とするのは、厳格なコスト管理であり、不採算部門の売却であり、人のレイオフである。新技術が必要なら、自分でゆっくり開発するより外から買収してくるのが、一番てっとり早いと考える。


だが、ソリューション・ビジネスというのは複雑なシステムである。誤解しないでほしいが、ERPが複雑な情報システムだという話をしているのではない。ソリューションはベンダーと顧客とパートナーとハードメーカーと開発外注先の群からなる複雑なエコシステムの上に成り立つ商売であり、どこかの要素にインパクトを与えた場合、リアクションは思いもよらぬ別の場所に、後になってゆっくり現れたりする。それはちょうど、生物のからだ、あるいはヒトの身体のようなものだ。


あの医学博士が誤解した理由ははっきりしている。人間の身体というシステムで、鼻の乾きと風邪の発熱という二つの現象が、相前後してほぼ同時に現れる。だから前者が後者の原因だと考えてしまった。それは、複雑なシステムというものの見方ができない人の、早合点した論理だった。赤字を、コスト問題の次元でとらえるのも、同じように短絡した論理だ。納期遅れをスケジュールの次元だけで考え、在庫問題を物流だけの次元で対策しようというのも同様だ。結局、その企業は、数年後にERPベンダー部門を売却することになった。その間の本当の事情は、わたしには分からない。ただ、しだいに寡占化が進みつつあったERP市場で、その製品がトップ集団に踊り出ることもなかった。いいところもあったのに、残念なことだ。


症状を、症状の次元で治そうとする行為を「対症療法」と呼ぶ。対症療法では、病は根治できない。根治したければ、深い原因を探さなければならない。


そして、そのためには、システムというものに対する深い洞察が必要なのである。


システムとはいったい何を指すのか
(2013/08/02)

まだ駆け出しだった頃、上司との定期面接の席上で、お前は将来どういう職種を目指すのか、とたずねられた。わたしは即座に、『システム・モデラー』になりたいです、と答えた。複雑な対象系を観察・分析して、シンプルな要素に分解し、その間の定量的な関係をつかんで予測や制御や改善を行う。そんな仕事をしたいと考えたのだった。しかし、上司の返答は、「システム・アナリストとかシステム・エンジニアという職種ならあるが、システム・モデラーなどというものはこの会社にはない」というものだった。いや、自分の会社だけではなく、どこを調べてもそんな職種はなさそうだった。


わたしが当時やっていたのは、石油製油所の複雑な装置群の組み合わせを、線形計画法をつかって最適化する仕事だった。化学プラントの設計理論は「プロセス工学」といい、それを設計する職種は「プロセス・エンジニア」と呼ばれる。これは世界共通である。ところでプラントというのは、巨大なシステムであると、わたしは思った。したがってこのような仕事は一種のシステム・エンジニアである、はずだ。だが、世間ではSEという言葉を、もっとずっと狭い意味、つまりコンピュータに直接関わる設計技術者の呼称で使っていた。わたしはそこでシステム・モデラーという用語を思いついたのだった。


もともと会社に入る前、修士論文の研究テーマは、湖沼生態系のシミュレーションだった。わたしの専攻は化学工学だが、当時は環境研究が盛んで、わたしも諏訪湖という、富栄養化現象で非常に問題になったフィールドを選び、その解決法を探ってみた。富栄養化現象とは、過剰に流入する栄養分のおかげで生態系自体のバランスが狂い、植物プランクトンの一種だけが異常繁殖して汚染を起こす現象だ(→「システムが崩壊するとき」参照)。生物学者達は、湖の水質や生物相について几帳面に測定し、膨大なデータを取って蓄積していたが、それをうまく解析できずにいた。わたしは湖自体を、一種の反応装置としてモデル化し、化学工学的手法を応用して、その挙動を予測するシミュレーションを行った。生態系は英語でEcosystemだ。だから、システム・モデラーという発想は、元々わたし自身にとって自然なものだった。


その後、わたしは一時プラント系の分野を離れて、医療だとか都市開発だとか工場の基本計画だとか生産スケジューリングだとかいう仕事に何年間かかかわった。だが、どの分野に行っても、わたしの発想は同じだ。よく分からない、複雑な対象系がある。だれも、全体像をうまく説明できない。それを、いくつかの要素に分解し、それらの間のシンプルな定量的関係式を割り出して、その挙動を予測する。つまりモデリングである。そしてわたしの目からは、いろいろなものが『システム』に見えるのだ。しかし、どうもシステムという用語について、世間とは大きなギャップがあるらしい。では、その違いはどこにあるのか? そもそも世間では、どのようなものをシステムと呼んでいるのか?


わたしが考えるに、「システム」には4つのカテゴリーがある。


最初に、あまりSE職種の人たちには縁のないカテゴリーからはじめよう。たとえば、「明朗会計システム」。どちらかというと、職場よりも歓楽街で見かけそうなシステムだ。これはサービスの対価を計算する方式、手順のことを言っている。それから、在庫管理でよく用いる「ダブルビン・システム」。箱や容器を2個用意しておき、片方を使い切ったら、補充発注する方式だ。安価だが在庫を切らしたくない品目に用いる。デパートなどで見かける、トイレット・ペーパーが上下二段になっているタイプなど、この応用だ。もっと言うと、かんばん方式もこの類縁である。そして、「品質マネジメントシステム」。これらは、とくに物理的実体はない。方式、手順をシステムと呼んでいる。


方式に近い用語として、体系などもシステムと呼ばれる。たとえば、品目コードや装置コードなどの管理番号の付番体系。これは英語でNumbering systemという。さらに、英語にはSystematicsという名の学問もある。何かと思えば、じつは生物の系統分類学だった。


ついでにいうと、実験などの結果を分析する際、なんだか誤差が一方向ばかりに偏っているなあ、と感じるとき、「系統的誤差」Systematic errorがある、という。これら、「方式、手順」「体系、系統分類」「(誤差の)傾向」などは、いずれも物理的な実体を持たない。いわば、人間の認知の中にのみ存在する『システム』である。ここに共通するのは、“ばらばらでない、恣意的でない、ランダムでない組合せ”であって、人間の情報処理の負担を助けてくれることだ。こうしたシステムは、頭の負荷を軽くして、凡人でもそれなりに見通しが立つようにしてくれる。


第2のカテゴリーは、「自然界に生じた、あるいは産まれたもの」である。たとえば、英語でSolar systemとは、太陽系のことである(別に太陽電池のことではない)。さきほどあげた生態系Ecosystemなどもその類で、自然に生じた集合体である。さらに、生物個体も、よく考えてみるとシステムと呼べるだろう。広く用いられるシステムの定義に、「複数の要素が有機的に関係して働きを生みだす」というのがあるが、動物はまさに内臓や筋骨や神経系などが有機的に組み合わさってできている。単細胞生物だって、細胞内小器官という内部要素をもっている。英語では、自分自身の身体のことをMy
systemと呼んだりすることがあるから、そうとっぴではあるまい。


第3のカテゴリーは、「人間が意図して作り出したもの」である。もしそれが、複数の要素がうまく組み合わさって機能を生みだしているなら、システムと呼んでもおかしくあるまい。


ただ、たとえば「椅子はシステムだ、なぜなら4本の脚と座面と背もたれという要素が組み合わさって、座る道具としての機能を生んでいるから」といわれても、納得できる人は少ない。どうも、静的な道具はあまりシステムとして認識されにくいようだ。では、動的な機構を持つ道具はどうか。たとえば、100年近く前の旧型自動車。たしかにエンジン・タイヤそのほかの部品を組み合わせて、移動という機能を生みだしている。わたしは「システム」と呼んでもいいように思うのだが、世間ではそう見ないようだ。


それでは、米国の国勢調査の集計のために、100年前にHollerith→Wikipedia)が考案したパンチカード・マシンはどうか。彼の発明がのちにIBMを生み、また計算機の端末の横幅は80文字、という伝統を生みだした。電気と機械工学の粋で、立派な仕組みである。少なくとも彼自身は「システム」と呼んでいる。


わたしの考えでは、人間が生みだした道具の内、自動制御機構か情報処理機構を持つものを、世間では「システム」と呼ぶ傾向が強いようだ。Hollerithのマシンはその境界線上にある。上に述べたように、化学プラントは制御の機構を持っており、システムと呼ばれてもおかしくない(Process
systemという用語はある)。あるいは、ジェームズ・ワットの蒸気機関。産業革命のきっかけとなった彼の機械は、それ以前のニューコメンの蒸気機関などと異なり、巧妙な出力安定化の機構が組み込まれていた。システムの先駆けであろう。それから、かつての電話網。機械式交換器による回線接続の制御が確立した時点で、ネットワーク・システムになったと考えていいと思う。


しかし、現在のところ「システム」の名をほぼ独占しているのは、情報処理機構を中心とした道具である。それが計算機 Computer systemであり、情報システムInformation
systemというわけだ。


さらに計算機が自動制御用途に応用されるに及んで、「制御と情報処理の機構を持つ道具」がどんどん増えてきた。都市交通(電車等)、上水道、給配電などはいずれもその両方をもつ、巨大なシステムである。いま,わたし達の政府が「成長戦略」と呼んで、やっきになって旗を振っている「インフラ・システム輸出」は、このカテゴリーを主に想定している。もちろん、現代的なプラントや工場などの生産システムも、ここに属する。


では、第4のカテゴリーとは? それは、「人間集団から生じた物事」である。たとえば、企業。あるいは、市場。それから、医療などもそうだ。これらは、複数の要素が複雑に関係し合って、ある目的に奉仕する仕組みである。だから、『システム』として認識してしかるべきだと、わたしは思う。これらが第3カテゴリーの道具類と違うのは、必ずしも誰か特定少数者が「意図して作り出した」ものとは限らない点だ。第4カテゴリーのやっかいな点、と同時に面白い点は、多数の人間がかかわっていて、設計や意思決定が単独で行われないことにある。


このカテゴリーの中には、さらに抽象的なシステム群がある。それは、「ルールはあるが自明な目的が存在しないもの」で、その例は、家族、言語、文化などである。こうしたものをシステムと認知しているのは一部の学者のみで、世間の大多数はそういう目では見ないだろう。ただ、たとえば社会学者パーソンズ(→Wikipedia)のSocial
Systems論などのように、システムの視点ではじめて見えてくるものが、たしかにあるのだ。


上述のカテゴリーを図の形に示しておく(作図にはFreeMindというソフトを使用した)。これも体系分類の一種だから、「Systemsのシステム図」ということになるだろうか。世間であまり「システム」と呼ばれないものは、グレーアウトして表示している。


System of systems


最初の話に戻ると、システム・モデラーという職名はやむなく一時断念することにした。世間にちっとも通じないからだ。その後しばらくは、「システム・アナリスト」を名乗ったりもした。だが、あいにく情報処理技術者のSAの資格を持っている訳ではないし、そもそもシステム分析家という呼び方にすこしだけひっかかりがあった。システム・アナリストの分析する対象は何なのだ。情報システムか?
すでにできあがった情報システムを分析して何が面白いのか? そうではあるまい。この名称は、たぶん「情報システムにのせる」ために業務を「分析する」人のことだ。だとしたら名前が、少しずれている。わたしがなりたかったのは、あくまでモデラーなのだ。


今は、わたしは「プロジェクト・アナリスト」だと名乗っている。もっとも、この職名も、勤務先には存在しない。だから著書やホームページで勝手にそう名乗るだけで、名刺には書いていない。ただPMO部門にいたから、こう書くのはそれほど矛盾していないとは思う。世間の考える(狭義の)「システム」と、自分の理解する(広義の)「システム」のギャップが埋まるまでは、あこがれであった「システム・モデラー」の職名は、ずっと棚上げのままである。


デュルケーム『自殺論』に学ぶ、人間集団に必要な二条件
(2013/06/23)

PMOみたいな仕事をしていると、ときどき現場の実務者から頑強な抵抗に遭うことがある。PMOとはProject
Management Office
の略で、組織の中にプロジェクト・マネジメントの仕組みや方法論、そして体制などを導入整備する仕事をする部署だ。いってみれば、プロジェクト遂行に関するカイゼンの専門家集団である。


PMOのメンバーは普通、自分自身ではプロジェクト遂行にタッチしない。あくまでプロマネ達に対して、助言や支援を行うだけだ。いわば社内コンサルタントのようなものである。遂行に直接タッチしないのはなぜかというと、いったん実務作業を分担し始めると、結果に対する責任問題が生じるからである。プロジェクトの成果は、プロジェクト・マネージャーが全責任を負うのが原則だ。それなのに、第三者であるPMOが手を出してしまうと、責任の境界が曖昧になってしまうからだ。


ところがこのPMOという仕事、なかなか難しい。カナダのM. Aubryという研究者の調査によれば、「PMO組織の平均寿命は2年程度」だという(くわしくは「PMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)の命運 ~ESC
Lille PM Seminarより(2)
」参照のこと)。この調査は5年前のものだから、最近は少しは傾向が変化しているかもしれないが、難しい仕事であることにかわりはないと思う。


なぜPMOの仕事が難しいかというと、プロマネさん達が『個別性』の世界に生きているからだ。プロジェクトとは、その定義からいって「個別」uniqueな営為である。どのプロジェクトをとっても、全く同じものは一つとして無い。多少類似したものは、あるだろう。ほとんどコピーみたいなものを作る仕事は、ときにある(とくにプラント業界などでは)。しかし、たとえ設計はコピーでも、市場環境や遂行体制や法規制などは変化しているものであり、完全に同じプロジェクトにはならない。


だから、プロマネが直面する問題は、つねに個別の問題である。ところがPMOの提供するアドバイスなりLessons Learned(教訓事例)なり管理ツールなりは、いずれも先行するプロジェクトの経験から抽出した、一般則であり一般論である。“それが俺の(あたしの)プロジェクトに適用できるなんて、どこに保証があるんだ?(あるってのよ!)”と、彼/彼女らは思う。プロマネ達は一国一城の主であり、プライドを持って自らを律する人種である。PMOが、先にはこれこれのリスクがありそうですよ、と声をかけても、「自分はそんなドジは踏まない」と信じている。つまり現場から見れば、PMOなんて『余計なお世話』のカタマリなのである。これではPMOの価値がスムーズに認められるわけがない。


もちろん、プロジェクト・マネージャーが意志の強い人間であることは重要だ。PMOの一言半句に右往左往するような意志の弱いプロマネでは、顧客や業者の圧力に抗してチームを最後まで引っ張っていくことはできないだろう。ただ、その意志の強さ、自分の感覚への自信の強さは、一般性や理論・法則の軽視と、表裏の関係になっている。それも、プロマネの個性ですべてをリードできる小さなプロジェクトならばまあいい。ある程度の規模のプロジェクトを任され、マネジメント・システムの仕組みで大きな組織を回すべき場面でも、いつまでも自分の「感覚論」だけで動くのは危険だ。


だが、その危険性を、わたし達はどうやったら理解できるのか。


ここでわたしは、大学時代にとった「社会学」の講義の内容を、ふと思い出すのである。一般教養課程の講義だった。テーマはデュルケームの『自殺論』。デュルケームは19世紀後半から20世紀初頭を生きたフランスの学者で、ある意味では社会学の太祖とも言える。19世紀の後半、欧州の自殺率が急増する。彼は個人的な理由もあり、この問題に理論的な分析のメスをあてようと試みる。


自殺という現象で、最も不思議なことは何か。それは自殺がきわめて個人的な、個別的な事情のもとに行われる行為であるにもかかわらず、社会全体で見ると、ある一定の比率で発生することだ。自殺率は普通、人口10万人あたりの発生件数で比較する。そして、ある国や社会の自殺発生率は、短期的にはほぼ一定なのである。たとえば現代日本では、人口10万年あたり年間約24人であり、過去10年間あまり変わっていない。これは不思議ではないか? 自殺者は皆、一人ひとり個別の事情で、しかも自分の意思で自決を選ぶのに、その比率はマクロには変わらないのだ。


「それを大数の法則というのだ」と説明する人もいるが、じつは説明になっていない。大数の法則というのは、個別の事象が確率的な因果律に左右されているときに、統計量が一定値に収束していくとの法則だ。だが、くどいようだが自殺は確率的事象だろうか。毎日、それなりに適当に暮らしているわたしが、明日、ふと世をはかなむ確率なんていうのが推定可能だとは、とても思えない。伝染病や遺伝疾患の発生率ではないのだ。


それだけではない。自殺率の統計を調べていくと、いろいろと奇妙な『傾向』が見えてくる。たとえば、自殺は男性の方が女性よりもずっと多い。日本では2.3倍であり、ほとんどの国では3倍程度、国によっては5倍以上のところもある。居住地の違いもある。デュルケームは当時の統計を調べて、農村よりも都会の方がずっと多いことを見いだした。そして、宗教・宗派による違い。ユダヤ教徒よりもキリスト教徒の方が多く、同じクリスチャンでもカトリックよりプロテスタントの方が多いのだった。


もっと不思議なことがある。人は、人生が過酷で、生きていくのが困難だから自殺を選ぶ、とわたし達は思っている。だとしたら、世の中が厳しい時ほど自殺率は上がりそうだ。しかし、戦争の時には、自殺率はむしろ下がるのである。「社会実情データ図録」
にある主要国の自殺率長期推移のグラフを見れば分かるように、日本の自殺率が過去最低になったのは、1939年~46年、すなわち太平洋戦争のまっただ中だったのである。この傾向は、19世紀後半の欧州でも同様だった。


では、人を自殺に追い込む要因とは何なのか。デュルケームは、自殺の個別的な事情や原因をいくら取り調べても、答えには到達しないと考えた。彼の答えは意外なものだ。社会と個人の結びつき(凝集力)、ならびに社会的なベクトル(社会規範)の強さが、マクロ的な自殺率を決定する、という。彼の議論を整理すると、次のようになる。


(1) 社会的な凝集力が高く、価値観のベクトルが一方向にそろっているとき、自殺率は下がる。

(2) 社会と個人の結びつきが弱くなったとき(=人間集団の帰属感・連帯感がなくなるとき)、孤独な困窮者による自殺が増える。

(3) 社会の価値観が多様化し、個人の欲望を抑制できなくなるとき、別種の自殺が増える。デュルケームはこれを「アノミー的自殺」と呼ぶ。

 

日本社会で説明すると、不幸ではあったが、戦争中は(1)の時期だ。だから自殺率は低かった。ところが敗戦後、農村共同体が崩れ、都市に労働力が集中していく時期、すなわち昭和20年代後半~30年前半は(2)の時期だった。このとき自殺率はいったん急増する。ただ、高度成長期は社会のベクトルが一致していたので自殺率は低かった。しかしバブルの狂乱時代を過ぎ、90年代後半に入ると、アノミー(社会規律の緩んだ状態)に陥り、再び自殺率は高くなっていく。


周知の通り、日本は現在、世界でも最も自殺の多い国の一つだ。とくに若年層の死因のトップが自殺である国は、日本だけだと言われている。政府も少しずつではあるが対策を考えている。フィンランドのように、対策を講じて、自殺率を下げた国も一応存在する。しかし、こうした対策は、簡単ではない。自殺率を決定する因子は、社会の凝集性や、社会規範のベクトルのような、非常にマクロなものだからだ。しかも、自殺に直面する人々は、皆がそれを自分個人の、個別な問題だと信じている。ミクロには自由な意思決定に見える問題が、じつはマクロな状況に左右される。そうした見方を、わたし達はもっとよく知る必要がある。


現代社会に生きるわたし達は、ある意味で皆、「個人主義」の信者だ。わたし達自身の行動は、自分の個人的な価値観と自由意思で決めている、と信じている。個別のミクロな局面で見ると、すべての事象や行動は個性的であり、そこには法則性などないように見える。だが、もっとマクロな視点では、わたし達は、見えない社会的な関係性にかなり影響され、あるいはしばられている事が分かる。


デュルケームの「自殺論」の教訓は二つある。まず、個別に見える事象にも、マクロな状況がかなりの程度、影響を与えているということだ。もう一つは、人間集団においては「凝集力」や「ベクトルの一致」が大切だということである。


自分の仕事というミクロな視野の中だけで生きている人は、ともすると『実感』への自信ばかりが強まって、理屈や統計を軽視するようになる。だが、マクロに見ると、個別性のカタマリだったはずのプロジェクトに、一定の統計的な傾向が見いだされるはずである。


そして仕事というのは、結果さえ出ればそれでいい、というものではない。そこにはチーム・スピリット(凝集性)と、価値観のベクトルの一致が必要なのだ。PMOと呼ばれる部門は、微力ながらも、その形成に寄与しなくてはならない。さもないと、組織は全体のベクトルを見失って、アノミー状態に陥っていく可能性があるからである。




(追記)まったくの余談だが、上記のグラフやWikiperiaの「国の自殺率順リスト」などを見ると、近年の韓国における自殺率の急増は異常なほどである。どのような要因が働いているのかは、韓国事情に疎いので分からないが、極東の日韓二ヶ国の社会には、ともに何か重篤な問題が発生しているとしか思えない。




それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?
(2013/06/02)

東大で大学院生にプロジェクト・マネジメントを教えていたら、「自分は計画を立てるのが元々あまり上手ではないが、どうしたらいいでしょうか」という質問を受けた。プロジェクト計画の立案、とくにその中心になるWBSの作り方について説明し、二人一組でちょっとした演習をした後のことだ。WBSを作るだけなら誰にでもできるが、良いWBSを作るのは、案外難しい--そういう話をしたら、出てきた質問だった。


秀才タイプの人は、自分の弱点を人前にさらすのをきらう。だから逆に、この率直な質問には好感がもてた。わたしは学生にこう聞いてみた。

--失礼だけど、あなたは英語の会話は得意ですか?

相手はちょっと質問の論点から外れたことに戸惑ったようだが、答えた。

「えっと・・、いや、苦手です。」


--じゃあ、得意になるためにはどうしたらいいと思いますか。

「うーんと。やっぱりたくさん練習するしかない、ですか?」

--そう。それはたしかに答えの一部だけれど、全部じゃない。自分が何かを得意になるためには、どうしたらいいか? 大事なことは三つあるんです。

「三つですか。」

--うん。まず、良い先生を見つけること。ね? いい師匠がいないとつらいよね。

「はい。」


--でも、師匠がすぐには見つからない時もある。その時は、誰か手本になる人を見つけましょう。先輩とか、ライバルでもいいから。とにかく、その人みたいに上手になりたいと感じる人を見つけて、真似たり盗んだりすること。『ベンチマーキング』とも言います。これが第一点。

 二番目は、きちんと原理や方法論について学ぶこと。これは座学でもいいし、本を読んでもいい。これをしないと、とっても効率がわるい。

 そして三番目が、あなたの言ったように、繰り返し練習することだ。能力を身につけて、上手になるためには、この三つがどれも必要なんです。まあ、この中の一つか二つだけで、上手になれる人もたまにはいるけれど、その人は生まれつきセンスが良かったということです。あなたがもし「計画が苦手」と感じているんなら、センスだけでは切り抜けられないんでしょう。


まとめると、こういうことになります:

(1) 良い先生か、手本になる先輩(ベンチマーク)をみつける

(2) 原理と方法について学ぶ

(3) 繰り返し練習する

これはどんな能力を身につける時でも共通だから、覚えておいてください。そしてこの授業は、まずは原理や方法を皆さんに伝えるためにやっているわけなんです・・・。




よく世間で、「あの人は出来る、能力がある」というとき、それが知識のことを言っているのか、スキルを指しているのか、それとも資質なのか、わたしはいつも考えてみる。たいていのことはこの三つのコンビネーションであるが、その比率がどれくらいなのか。たとえば『リーダーシップ』という能力がある。これは知識なのかスキルなのか資質なのか。


ある能力が、知識・スキル・資質の三種類のどこに重心があるかを知りたいときは、その能力をどんな方法で身につけ、またどうやって評価し測るべきかを、考えてみるとわかる。



  • 知識ならば座学で学べ、ペーパーテストで測れる。
  • スキルならば師匠について繰り返し練習することで身につき(上で述べたように座学で促進できる部分はある)、ポイントをしぼった実技テストで測れる。
  • 資質だと持って生まれるしかなく、パフォーマンス全体の結果から想像するしかない。

たとえば先日、書評で紹介した「採用基準」の著者・伊賀康代氏によれば、リーダーシップは訓練によって向上することができる、という。だとすれば伊賀さんはリーダーシップが単なる資質や知識だけでなく、スキルの面が強いと主張しているわけだ。これに同意しない人も、もちろんいるだろう。リーダーとは生まれつくもの、という信念の人や、リーダーシップに関するもろもろの教科書の著者などだ。


米PMIが主催するProject
Management Professional (PMP)
の資格はどうか。わたしも持っているが、これはパソコンの画面からひたすら四択問題を選んでいく試験であった。受験のためには実務経験を示す経歴書が求められるが、PMIは実際には知識を問うているわけだ。とすると、(まさかとは思うけれど)マネジメント能力の主要な部分は知識である、と米国人は考えている、のだろうか?


司法試験はどうか。あれはペーパーテストである。実技試験はない(と思う)。無論そのあとで司法研修所に通う仕組みだが、ここの実技テストで落とされて法律家になれなかった、という例を聞いた覚えがない。上級国家公務員は? あれもペーパーテストだ。とするとこの国では、少なくとも法学部を出て要職に就くような人の能力は、知識で代表されると信じているわけだ。いや、そもそも大学入学自体が、かなりの程度ペーパーテストで決まる。


それで思い出したが、イタリアから来た留学生の話だと、ヨーロッパの国々では、大学における学科試験(卒業試験を含む)は教官たちによる口頭試問が主体なのだそうだ。いわば面接形式による実技テストである。つまり、彼らは(どこまで普遍的に言えるのかは知らないが)大学教育で身につける能力はスキルである、と伝統的に考えているらしい。そう言われてみると、たしかに博士の学位取得審査は、日本でも米国でも口頭試問である。研究者として一人前の能力とは、さすがに身についたスキルであるべし、と思われているのだろう。学位審査は英語ではDefense(防御)といい、審査員がいろいろな角度から攻め込んでくる質問をはっしと受け止めて、切り結ばなければならない。


ただし、口頭試問や実技テストには、手間がかかって非効率だという制約がある。このためマスプロ(大量生産)方式には向かない。大勢の能力を一斉に測るには、ペーパーテストが一番経済的なのである。だから大企業の採用などでも、最初にペーパーでふるいにかけてから、面接を行うところが多い。それも、コンサルティング会社の「ケース面接」のような実技テスト的な面接ではなく、単純なQ&Aが主体である。


わたし自身は、多くの能力は先天的な資質よりも、後天的に身につくスキルのウェイトが大きい、と信じる傾向が強い。そしてスキルは、最初に述べたように
(1)良い手本と (2)座学と (3) 繰り返し練習によって身につくものだと考えている。ちなみに、同じスキルの中でも知識のウェイトが大きいものを「ハードスキル」、修練と反射神経化が大事なものを「ソフトスキル」と呼ぶ(→「プロマネのハードスキルとソフトスキル」参照)。しかし、世の中には、能力の主要な部分は資質である、と考える人も非常に多い。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という風に。


たしかに、たとえば芸術家だとかトップ・アスリートとかいった人たちの能力については、資質が何よりも必須な要件だろう。これら職種のコーチやスカウトに携わる人がそう主張するのは、よく分かる。しかし、それは同時代に数人しかいない、高き山の頂点に輝く人の話だろう。わたしが考えるのはむしろ、何万人もいるような職種、山の中腹に位置するクラスの能力だ。同時代の社会の働きを実際に支えているのは、このクラスの仕事ぶりなのである。99点か100点かを争う天才たちではなく、70点台前半のレベルをなんとか後半に近づけないかと努力しているのが、わたし(たち)自身の実像ではないか。


もちろん、人間には生まれついた資質の方向性、ないし適性というものがある。ただ、幸いなことに、能力の種類も、社会のニーズにしたがって非常に豊富に存在するのだ。そしてこの適性というやつは、“試しにちょっと体験してみないと、自分ではなかなか気がつかない”ものなのだ。試さないと、気がつきにくい。だが気がつけば、伸ばすことも可能になる。この、ちょこっとした『お試し』は、若くて自由なときでないと、社会が与えにくいものだ。だからわたしは、全員がプロマネになる訳でもないことを知りつつ、プロジェクト・マネジメントの講義を大学生相手にしているのである。



「革新的生産スケジューリング入門」にもどる

品質工学から見た日本の教育の問題点
(2013/02/16)

「うちの工場はきちんと品質を確保している。だから出荷しているのはすべて良品ばかりだ。」と製造業の人が胸を張って話す姿を見て、不思議に思う人は少ない。当然のことだからだ。もし、「うちの工場はきちんと品質を管理している。だから、出荷品の品質はまちまちで、グラフを描くと不良も含めて正規分布になる」と答えたら、逆にそんなおかしな工場の製品は買いたくないと、誰しも思うだろう。


良品のみを出荷する。製造するからには、すべて良品となるように目指す。これが製造業のふつうの考え方だ。製造工程にやむをえない変動要因があり、そのために出来上がりにばらつきができるとしても、それをいかに小さくするかを工夫するのが技術である。


テストには費用がかかる。どんな些細な検査であっても、そのために測定器や電力や、人件費が必要になる。「テストはコスト」なのである。だから、全品検査よりも抜き取り検査の方が、(結果の品質を同じように確保できるなら)安価ですむ。さらに、検査項目も、むやみに全項目やるよりも、重要でクリティカルな項目をうまく選んで集中する方がいい。


もちろん、どの項目がクリティカルであるかは、製造に携わる者が一番よく知っているはずである。この部分の厚みがたりなければ、全体の強度が保てない。しかもこの面からの切削が結構微妙で難しい。だから、この角度の厚みを計測し確認しておけば、強度テストは省ける--これが、製造を自分でやる立場の強みである。そういうプロセスを知らない第三者は、あらゆる検査項目を実施しないと安心できないだろう。


テストの結果、不良品がみつかったらどうするか? そんな製品は捨てて、新たな材料から作り直せばいい、と考える工場長はまれであろう。できるなら修正/修理を施して、良品に治したいと皆、思う。すでに買った材料に、手間をかけて製造を加えてきたのだから、不良品といえども、すでに投入されたコストのかたまりなのだ。これをただ捨ててしまうのはもったいなさすぎる。


一体この話のどこが教育に関係するかって? まあ、我慢してもう少しおつきあい願いたい。


さて、最終出荷段階で製品を検査し不良が見つかると、修正するにはバラしたり組立なおしたりして大仕事になる。修正できない可能性だって高い。だから出荷直前に大がかりな検査をするより、各工程ごとに、重要項目だけを検査して、その場で修正する方がずっと効率がいいし、安くすむ。まあ工場の中には、ガラス工業や製鉄所のように、不良品を直接原料にリサイクルできる種類の工場もあるにはあるが、わざわざ加工したものを原料に戻したいとはだれも思うまい。皆、いかに不良率を下げるか、あるいは直行率(=補修せずに後工程に送れる比率)をあげるか、に苦心するのである。


つまり、テストというのは、製造行為と一体であり、ワンセットに統合されるべきものなのだ。テストをする理由は、良品のみを出荷するためであり、不良品をはやく見つけて修正するためである。さらにいえば、製造工程自身を改良するための、最良のフィードバックでもある。そして、良品の基準というものは当然ながら、毎回ブレてはいけない。「これはちょっと問題だけれど、まあ同じロットのほかの製品に比べればましだから」といって出荷したら、おかしいのはおわかりだろう。良品かどうかは、他の製品とは関係なく、その製品自体のできばえだけで決められるべきである。


以上、品質とテストについて、製造業の知恵をまとめよう。

(1) テストは、製造者自らが、行うべきである。それは不良品を良品に修正し、また製造工程自身を改善するためである

(2) 良品のみを出荷する。良品の基準は、絶対値できちんと決めて動かさない

(3) テストは、最後に大規模なものを一回実施するより、工程ごとに小刻みに行う方が効率的である


さて。ここからが教育の話である。現在わたしは、大学で週一回、プロジェクト・マネジメントの講義を教えている。半期が終わったら、学生の成績をつけなければいけない。ところで、大学からは、「S(優秀)からA(優)、B(良)、C(可)、D(不可)まで、一定の割合で成績をつけて欲しい」という要請が来る。非常勤講師は派遣社員かパートみたいなものなので、雇用主の要請には逆らえない。


ついでにいうと、大学3年生の後期に授業を教えるというのは、じつに切ない作業である。授業の出席者は、12月、1月となると目立って減ってくる。出席しても、気もそぞろだ。就活があるからである。スーツにネクタイ姿で授業に出る学生もかなりいる。彼らの気持ちを考えると、レポートの宿題やグループ課題を出すのも、ちょっと気が引ける(とはいっても出すけれど)。テーマがプロジェクト・マネジメントだから、ペーパー・テストで成績をつけるのはそぐわないと思い、出席点と最終課題(グループワーク)で採点します、と最初に宣言している。毎回の授業では、ちょっとしたクイズや演習を取り入れて、なるべく考える時間をとるようにしている。考える力がなければ、マネジメントなんてできないからだ(もっといえば、教科書に書いてあることをそのまま鵜呑みにする秀才型の人は、プロマネにはあまり向かない)。


半年間の授業は、わたし自身にとって、一つのプロジェクトだ。ゴールがあり、共同作業(授業を受けている学生との)であり、かつ失敗のリスクがある。プロジェクトが満たすべき条件を全部満たしている。であるから、はじめるとき、必ず自分の目標を決める。その目標とは? もちろん決まっている。出席した学生全員に、プロジェクト・マネジメントの基礎の基礎を理解してもらうこと。そして、「プロジェクト・マネジメントって面白い」と感じる学生を、できるだけ多くつくることだ。具体的な数値目標まではここでは触れないが、当然自分なりにレベルを設定する。


伝えるべき基礎を、出席者全員に、きちんと全部理解してほしい。つまり、できれば全員に「A」をとってほしい。そういう気持ちで、仕事に取り組む。それは、作るなら全部良品を製造したい、という製造マンの気持ちと同じだ。実際には、学生の出来はバラバラで、とうていAはあげられない人も出てくる。しかし、それは教える側の力量が足りないからだ。学生が集中して聴かないのは、こちらが興味を持てるような話し方ができないからである。やってみてつくづく分かるが、授業とは真剣勝負のようなもので、話し手がちょっとでもダレると、すぐ学生達は注意が散漫になる。寝てしまうのはいい方で、大きな声であちこちおしゃべりをはじめる。これは最近の学生の特徴らしい(「ゆとり教育世代だから集中力がないのだ」と説明する人もいるが、ちゃんとかみ合えば、じつは彼らはかなりの集中を示す)。


学期のちょうど折り返し点あたりで、ミニテストを実施することもある。これも、教える自分のためである。これまで教えてきたことが、どれだけ学生の意識の中に定着しているかを測る。結果がわるいと、ガックリくる。自分の教え方に問題があったのかな、と反省することになり、後半は少しペースややり方を変えようか、と考えたりする。


ところが、テストをすると、学生の側の態度がかなり変わる。ナーバスになるのである。自分が何点取れたかを気にする。そんなこと、君たちが心配すべきことじゃない。悩むべきなのは講師のわたしの方なんだ--そう説明しても、納得してくれない。彼らは生まれてから20年かそこら、ともかく他者から測られ続けて来た。それで選別されてきたのだ。その感覚が染みついている。


通常のテストの目的が選別であることは、それが「同学年の中での相対評価」でずっとなされるのを見れば分かる。教育制度からの要請は、「授業の評価は、A~Eの人数比率が正規分布に従うべき」という形で教師に降りてくる。したがって、テストは相対的基準で評価することになる。だが、なぜ相対評価なのか? それに、教育上、どんな意味があるのか? 「全員にAをつける講師は、真面目に仕事をしていない」と信じる根拠はどこにあるのか?


先の品質工学の原則を思い出してほしい。製造業での品質テストは、絶対的基準で評価する。なぜならテストの目的は、「良品以外を出荷しない(すなわち出荷品はすべて優良品である)ことを保証する」ためにあるからだ。現在の教育とは、まったく思想が異なっていることがおわかりだろう。


もちろん、テストも上手に使えば、教育的な効果が多少あることは認めよう。人間は機械部品ではない。機械部品は、いったん旋盤で加工すれば、その形状はいつまでも変わらない。しかし人間の脳は、いったんインプットした記憶も使わなければすぐに取り出せなくなってしまう。その記憶を確認・強化するための道具という意味なら、認めてもいい。しかし、だとしたら、テストの目的は採点や選別ではないはずである。


もう一つ指摘しておこう。現在の日本の教育制度では、高校の教育成果(=学力)は大学が入試で評価することになっている。同様に、中学の成果は高校が、小学校の成果は中学が、入試で評価する。つまり、日本の教育の特徴は、教育者が自分で評価しない(できない)ことにある。「そんなバカな。高校だって、ちゃんと期末試験をして成績をつけている」と反論されるだろうか? では、一流大学に入試に合格した生徒を、授業の出席や態度がわるいからと、落第させる勇気のある高校教師がどこにいるのか? 「この程度の知識もない奴は、高卒を自称する資格はない」と、怒れる父母を前に断言できる教師は何人いるのか。


テストや入試というのは、教育ではない。それは品質検査が、製造作業ではないのと同じだ。むろん、大学や高校には定員があるから、何らかの篩いが必要だというのは分かる。入学させてから、大量の宿題を課して篩いにかける欧米方式の代わりに、入学時点で厳しく査定するのが東アジア方式らしい。この発想はきっと、中国発の『科挙』の伝統までさかのぼるのだろう。科挙に通れば上流階級が保証された。「秀才」とは元々、科挙に通った人のことを指した。そういう「能力主義」のおかげで、歴代の封建中国がどれだけ素晴らしい社会だったか、たまには歴史に学んだらどうか。


もう一度繰り返そう。テストというのは、教師のためにあるのである。教える側が、自分の方法を向上させるために行う。結果は、全員が合格となるのが理想である。卒業した者には、自信を持ってその品質(資質)を保証する。上位の学校が、勝手に途中で入試と称して引ったくってはいけない。学校教師たちは、教育を自分の手に取り戻すべきである。そして今、寒い中を毎日入学試験に明け暮れている受験生達には、勉強の目標はテストに合格するためではなく、少しでも賢い自分に近づくためであることを、心に留めておいてほしいのである。


Tomorrow will
be a better day — 未来志向のマネジメントのために (2013/01/05)

居間に入ったらTVがついていた。新春の経済番組がちょうど終わるところだったらしい。アナウンサーがおごそかな声で、コメンテイター達を前に「今年は厳しい選択を迫られる年になるでしょう」と言ってしめくくった。いやはや。そんなこたあ、言われんでも知っているつもりだよ。でもTVスタジオから、上から目線で言われたくない。


世の中には、厳(おごそ)かなるメッセージを好む人たちが一定数いる。それはまあ趣味の問題だから、口ははさむまい。世の中にはライトなメッセージを好む軽薄な人たちも大勢いて、それぞれの世界を形作っている。重厚と軽薄と、別にどちらが上でどちらが下というものではない。両者がうまく感情のバランスをとってくれればいいのだが、水と油のようにお互い不干渉になっている。そして世の動きにつれて、それぞれ一喜一憂する。わたし達の時代には、共通の感情や言語が乏しいのだろう。


今の中高年はみんな忘れたふりをしているが、わたしが子ども時代だった頃、日本の舗装道路は穴ぼこだらけで(アスファルト舗装なのに深い穴があく訳をいまだに理解できずにいる)、道は狭く、世の中は単純だった。品物は安くてすぐこわれ、やっぱりメード・イン・ジャパンだねと皆で自嘲した。製品のデザインも、それを作る技術も、海外からの輸入か物真似だった。その海外という場所はハワイでさえ夢のように遠く、白黒だったTV番組「奥様は魔女」が、米国の中産階級サラリーマンの、ゴージャスなウェイ・オブ・ライフを垣間見せてくれた。


そういう時代、人々の感情も共通して単純だった。頑張って働けば、明日は今日よりも生活が良くなる。これを「希望」と呼びたければそう呼んでもいいが、当時は誰もそんな呼び名では考えなかった。常識以前の、あたりまえだったからだ。だから学校でも、頑張って勉強して上の学校に行くのが望ましいことだった。「進歩」が皆の共通言語だった。確かに公害もイジメ問題も存在したが、そうした社会の影は、世の中が進めば解決すると、多くの人が信じた。景気循環の谷間も、台風か自然現象のように首をすくめつつ、在庫を取り崩して過ごせばすんだ。


単純だった時代の卒業生が、長らく世の中の舵取りを続けてきた。それはそれで結構なことだが、一つだけ問題がある。「未来を考える能力」の問題だ。逆説的なことだが、経済成長期には、あまり長期的に考える必要がない。目の前の問題だけを次々に考えて片付けていれば、豊かさという報酬を得られたからだ。短期的なアップダウンはあっても、長期的には右肩上がりが保証されるから、競うのは目前の波乗りの腕前だけ、ということになる。


長期的な視野を持って「未来を考える能力」を持つ人が生まれるのは、むしろ先の読めない、波乱の時期だ。たとえば戦乱の時代を生きた孔子を思えばよい(時節柄、中国人がおいやならギリシャのソクラテスでもいい)。彼らは実務家としての手腕にも長けていたが、より遠い視点から、人間社会におけるあるべき姿という、正解のない問題を考え続けた。いや、そうした知性をもつ人は、どの時代にも同じように生まれるが、世が注目するかどうかが違うのかもしれない。


禍福は糾(あざな)える縄の如し、という言葉がある。これは長いスパンで世を見られる人の述懐だろう。短期的な起伏に、一喜一憂してはいけない。それはちょうど、波の上下を見て、海面の高さを決めてはいけないのに似ている。ある精神科医が患者を諭したように、個別の波は見ず、大きな岩がすっかり沈んだのを見とどけて、はじめて潮が満ちたのを悟ることができるのだ。


そう言いながら、短慮な自分はなかなか日々の焦りを乗りこえられない。たとえば、今でも思い出すのは南米のプラント建設現場での一日だ。その日、ようやく仮設電源で空調が動いたコンピュータ・ルームに、届いたばかりのサーバ類やネットワーク機器を設置すべく悪戦苦闘していた。現地の電気工事業者には任せられない微妙な調整作業のために、アメリカのSIerからエンジニアを呼んで作業にあたらせたのだが、例によって次から次へと思わぬ落とし穴にはまり込み、お終いにはドアのキーを室内に置き忘れたまま、オートロックを閉めてしまうというオマケまでついていた。


事務所に戻ったわたしが、よほど堪えた顔をしていたのだろう。先に上がっていたアメリカ人エンジニアが、わたしの顔を見て、笑いながら、"Sato-san,
tomorrow will be a better day!
"と声をかけて帰って行った。わたしも思わず、力なくではあったが笑い返して、手を振った。と同時に、明日、打開のために試すべき案を一つ思いついた。


このとき、わたしは大事なことを学んだのだった。失敗したら、笑えばいい。自分自身を、自分で笑えばいい。笑えば、脳がリラックスする。リラックスできれば、ほかの視点を見つけることができる。怒ったり恐れたりしているときは、注意は対象に固定されて他の面が見えなくなる。怒りは人を多少高揚させるという良い面もあるが、怒りばかりを謳っているとあまりろくな事になりそうもない。


それにしても、"Tomorrow will be a better day."(明日は良い日になるだろう)とは、なんと良い言葉だろうか。どん底に思える時でも、それより次は良くなるのだ。こういうセリフを冗談めかして言えるところが、アメリカ人の美点かもしれない。彼らの組織の感情的な弾性を、なんとなくこういう一言に感じた。


似たような英語の諺に、"Every cloud has a silver lining."がある。太陽を隠すどんな暗雲も、その向こう側には陽光に照らされて銀色の内張りがある。良くないことでも、その向こう側には美しい、良い面があるのだと、この諺は伝えている。これもあるアメリカ人から、自分の好きな諺として教わったものだ。


そういえば昨年、中東で会ったベテランのプロジェクト・マネージャーは、様々な苦労話を語った末に、「しかしまあ、この歳になると、良いことの裏には悪いことがあり、悪いことの裏には良いことがある、という風に思えるようになってきたよ。」と述懐していた。まさに、あざなえる縄ではないか。その縄目のずっと先をどう読むかに、マネジメントの手腕はかかっているのだろう。


目先の読みにくいときだからこそ、遠い先を考える必要がある。未来志向というと、外交用語か何かのように薄っぺらに聞こえるかもしれない。しかし、わたし達が何ほどかを成し遂げるためには、長期的な視点に裏打ちされた「未来を考える能力」と、あまり揺るがずに安定した「感情」が必要なのだ。そして、それを仲間の『共通言語』にまで昇華できたとき、おそらく本当に意味のあるチーム・スピリットが生まれるはずなのである。


決める力、決めない力
(2012/11/20)

混迷の度を深めるシリア情勢。国軍が自国民を爆撃し、反乱側の自由軍が守旧派の殲滅を叫ぶ中、度重なる和解調停の試みも失敗し、内戦は長期化の様相を見せている。この状況に関して、貴方はどのような意見をお持ちだろうか。政権側を支援すべきか、反乱側に肩入れするか、あるいは和平交渉のために第三の道をとるべきか。また、もし貴方のビジネスがシリアに何らかの関わりがある場合、それを続けるべきか、手を引くべきか。どう考えるだろうか?


そんな難しいこと分からないよ、ビジネスでだって中東とは付き合いがないし、仮定の質問には答えられないーーこれが大方の回答だろう。政治に詳しい人だったら、親米、あるいは親イランという軸でどちらかを選ぶかもしれない。でもビジネスの質問には苦慮するだろう。同じ質問を大学生にマイクを向けて聞いたら?
おそらく、ちょっと困ったようにヘラヘラ笑って、「わかんないっす」と(正直に)答えるだろう。


では同じ質問を米国のビジネススクールの学生にたずねたら、どうなるか。想像するに、きっぱりした意見を、短い時間のうちに答えるはずだ。自分は十分な知識を持つ訳ではないが、手に入る情報から考察するに、かくかく判断される。したがって、しかじかの策をとるべきである。こういう筋で語るだろう。大学生、いや高校生に聞いたって、同様に自分の意見は言うだろう。意見の適否はおくとしても、決めろ、と言われたら短時間のうちに決める者が多いだろう。あちらはそういう教育システムなのだと言ってもいい。


ひるがえって、わたしのこのささやかなサイトで、特に多くの読者を集めた記事が「決めない人々」であった。それは、わたし達の社会において、『決める人』の少なさを皆が感じているからかもしれない。


ビジネスでは、タイムリーに決める能力がつねに求められる。「良い上司とは、決めてくれる上司である」という言葉もある。「良い顧客とは、タイムリーに決めてくれる顧客だ」という事実は、受注ビジネスを経験したことのある人なら、たいてい同意してくれるだろう。ではなぜ、人は決められないのか?
どうすれば、決める人になれるのか。決められないのは組織の問題だ、と以前書いたが、ここでは個人の資質まで踏み込んで考えてみよう。


「決める」とは、複数の選択肢から、何かを選ぶことである。AかBか、右か左か正面か、やるか止めるか。そして選んだら、その事と結果に責任をもつ。これが決める事の意味だ。


選ぶ基準は、いろいろだ。好き嫌い、は一番プリミティブな基準である。今日の昼飯は何にするか、とか、AKB48の総選挙で誰に投票するか、などは好き嫌いで決めるだろう。もう少し高度な判断基準としては、文化的な美感がある。デザインなどで重要なのはその判断だ。


道徳的な善悪も、勿論あろう。舌切り雀の話で、お爺さんとお婆さんの選ぶ「大きいつづらと小さなつづら」は、強欲か謙虚かの決断基準だ。さらに知的な信憑性も、大事である。論理が通って一貫性のある主張と、そうでない主張を比較したら、普通は前者が勝る。この、美醜、善悪、真偽の三つの基準は「真善美」として、ギリシャ文明以来、西洋の思考法の柱となってきた。これを学ぶのが、教育の基本である。


しかし基準は、これだけに留まらない。政治的な敵味方、がある。好き嫌いや真善美を超えて、味方側を選ぶやり方だ。そして最後に、かつしばしば最も重要な基準として、金銭的な価値が挙げられる。


これら6種の判断基準は、すべて互いにからみあっている。相反することも時には(しばしば)ある。デザインとしてはAの方が美しい、でもBの方が安い。これが、わたし達の直面しがちな決断のジレンマだ。


ビジネスでは、他の条件が全く同等なら、金銭的な価値の大きい選択肢(販売なら高額、調達なら安価)を選ぶ。調達でRFPをきちんと用意する目的は、技術的要件そのほかをすべて均等にして、価格だけで比較できるようにするためだ。ただ、この手法がきくのは、ある程度汎用的な物を決めるときに限られる。例えばERPなどの個性の強い商品を、純粋に価格だけで決めたという例はほとんど聞かない(最後の決め手が価格だったという例ならあるが、それはつまり他の基準もあった事を意味する)。


したがって、わたし達が個人として決断力を高めたいのなら、まずこうした諸判断基準を区別し、優先順位を意識するのが第一歩である。表にして基準ごとにoやxを書いてみるのも、単純だがパワフルな手法である。


ところで、決断を難しくする要因は他にもある。それは、複雑性不確定性である。リスクといってもいい。冒頭のシリア情勢を思い出してほしい。この問題が難しいのは、情勢が込み入っていて、事実として何が起きているのか判然としない点にある。現在の姿がよく分からないのだ。さらに、ある方策をとったとしても、それがどのような結果を及ぼすか、予測しにくい。(現状)→<決断>→(将来)
というモデルの不確定性が高いのだ。


現実の事象には、つねに複雑性と不確実性があるから、決断が難しい。現状の把握と、因果関係の分析、そして今後の予測が、いつも議論が分かれるところになる。社内でたたかわされる論議は、ほぼこれだ。


したがって、決断力を持つためには、どんな複雑な状況でも、短時間のうちに理解・分析し、自らの意見を主張・説得しうる能力という事になる。だから、米国生まれのビジネススクールでは、もっぱらこれを教育する訳だ。有名なケースメソッドなどは、まさにこの能力開発のために作られたと言っていい。


どんな社会問題でも、自らの意見を主張できることが、欧米では知性のあかしである。意見を問われて、ヘラヘラ笑っているだけの大学生は、知性ゼロと判断される。たとえ真剣な表情でも、何も発言しない人間は、何の意見もないのだと見なされる。互いに見解を出し合い、問題に多角的にアプローチし、理非曲直を短期間に論じて、最後にリーダーが(あるいは投票で)決断する。それをきちんとできる人間に、知性を認める。これがあちらの社会で、上に立つべき人の評価基準だ。


というのが、普通に語られる話だ。これだけなら、世によくあるMBA礼賛風の記事になる。でも、それだけで終わりにしないのが、本サイトの複眼的な(へそ曲がりな)ところである。


何かを理知的に、短時間で決めるためには、必要となる資質が、もう一つある。それは、「割り切り」である。物事をドライに割り切れる資質がないとダメなのだ。目の前にあるのは複雑で多面的な事象である。情緒や感覚面でのインプットがどうあろうと、合理性で判断していく。それはちょうど、地面に生えている草花を、シャベルで掘り出すようなものだ。細かな根は引きちぎられるだろう。でも、大体のモノが取り出せればいい。これが割り切りの感覚だ。


「決めない人」は、この割り切りに抵抗する。それはほとんど感覚的な抵抗だ。理は情にまさる、という西洋文化的な価値観にも反感を持つ。だがそれを論理的には主張できない(当たり前だ)。言えないで、ぐずぐずする。感覚で分かってよ、という訳だ。


このような態度・資質にも、一定の意味はあるのではないか。


あるとき、人材関係のコンサルタントから、こんな話を聞いたことがある。「よく、客先に行くと、『貴方は人材のプロだから、人を瞬時に見分ける目があるはずだ。どうか面接に同席して、これから引き合わせる部下の良し悪しを意見してほしい』といわれる事があります。そうした方にはこう答えます。『人の評価をする立場の者に大切な事が一つあります。それは、結果を待つ能力、忍耐力です。短時間に簡単に人を分類評価したいのをぐっとこらえて、長い目で部下を見る。これが大事なのじゃないでしょうか』」


スパッと対象を見切って判断する。これはdetachmentの資質である。自分と、対象とを引き離す。そして離れた、客観的な視点から理知的に決断する。他方、決めずに待つ態度は、commitmentの資質である。愛着といっても良い。自分に関わりの強い、愛着のある問題は簡単には決められない。決めるにも、感覚論が強くなる。


だが、それもまた「決める」事の一面なのである。あなたは、結婚相手を決めるとき、論理とoxだけで決めるだろうか。就職や、大学選びでもいい。自分自身を大きくコミットする決断は、実は言葉だけではうまく表現できない。それは誰だって(西洋人でも)同じだ。ただ彼らは、情緒的な決断を合理的な言葉で正当化するのが上手いだけだ。そうしないとバカだと思われる文化と教育で育ったからである。わたし達の文化には、そうした要求が薄い。「いやあ、何となく」の説明で通ってしまう。


人の評価をすぐに決めない力は、大切である。それは他者にコミットすることの証しだからだ。決める事の重要性は、強調されるべきだと思う。しかし、「割り切り」だけですべての人間を動かせると思ったら、それは愚かなのである。


休むのも仕事のうち (2012/08/08)

仕事柄、ときどき時差のあるところに出張にでかける。そんなに頻繁なわけではないが、ともかく行って帰ってくると、何日かはしんどい。時差ボケのせいで熟睡できていないからだ。歳をとると、体の生理的なリズムが少し弱まるため、若い頃よりは適応が楽になるといわれているが、そのかわり疲れの回復に時間がかかるようになる。トータルには、ちっとも楽にならない。


一般に時差ボケは、西よりも東に旅行したときに強く出る。日本からだと、中東や欧州に行くより、北米や南米に行くときの方がしんどい。ハワイまでの時差は7時間程度で、ロンドンより少し短いはずだが、体感ではむしろ逆だ。西に行くときは、遅く起きて遅く寝ることを強いられるわけだが、これはちょっと頑張ればなんとかなる。そもそも人間の体内時計は1日26時間だから、遅くなるのは適応しやすい。問題は、早寝早起きが必要な東に行くときだ。意図したって、無理に早く眠れるものではない。よく、“時差がある国に行ったら、着いた日の夜は頑張って遅くまで起きていろ、ぐっすり寝れば翌日から楽になる”という人がいるが、あれは東にはあまり当てはまらないと思う。無理して夜中まで起きているつもりでも、体内時計はまだ夕方でしかないからだ。


もちろん、行きと帰りは逆方向だから、欧州から日本への帰りは東向きで大変だし、米国の帰りは西向きで楽になる。だから足し引きゼロになるはず--と思いたいが、そうはいかないもので、もとの自分の住み処に戻ってリラックスする方が、やはり早く適応できるのだ。結局、全体としては西に行く方がどうしても楽になる。


こうした順逆の理屈を理解した上で、時差ボケを軽くするためにわたし自身がとる三つの方策を、ご紹介しよう。まず、現地では、夜遅くまで無理に起きようとはせず、宵の口でも眠くなったら、差し障りがない限りさっさと寝てしまう。その方が、結局は続けて眠れる時間が長くなる。次に、昼間は機会があればなるべく、日光に当たるようにする。そうすると脳内で睡眠誘導物質のメラトニンが夜、生成されやすくなるらしい。


そして第三に、これはある意味で裏技だが、そのメラトニンの錠剤を買って服用するのである。メラトニン自体は医薬品としては認可されていないが、アメリカその他の国では、サプリメントとして売っているし、たいして高くない。睡眠薬ではないけれども、それに近い効果を感じる。もちろん、人により作用に差があるし、副作用も未知である(元々脳内物質だから副作用はないとの主張もあるが、わたしの場合、あきらかに夢が強くなる)。だから、At
your own riskで、という言い方にはなるのだが。


それにしても、眠りというのは不思議な行為(Activity)である。万人にとって必須の重要な行為であるにもかかわらず、誰も意図して行うことはできない。あなたは強い意志を持って眠りに入ることができるだろうか? 意思を強く持てば持つほど、眠気は遠ざかる。そして眠っている間は、人は一切の主体的な行為を放棄する。自分自身に指示を下す「本社機能」としての自我は、機能停止するわけだ。さらに、夢という奇妙なヴィジョンを見る。これがまた、とりとめもない代物で、行ったこともない場所に平然といたり、居るはずのない親子兄弟が出てきても納得したりする。独自の論理とエモーションが支配している世界だ。


でも、一番不思議なのは、起きたときに、寝る前と同一の自分の自我が戻っていることだろう。この自我の連続性は、当たり前のように見えるが、奇跡のように巧妙な仕掛けだ。もし、目覚めるたびに新しい自分になっていたら、どんな奇妙なものか想像してみると良い。記憶は連続しているが、自分の連続性がないとしたら、毎月社長が交代している会社のように訳が分からないにちがいない。まあ、たまに、よほど疲れて寝惚けているときなど、一瞬めざめてから、“あれ、ここはどこだっけ? 今はいつ?”と感じたりはするが。“わたしは誰?”という感覚にかなり近寄っている。


若い頃、先輩に「休むのも仕事のうち」という言葉を習った。文字通り、ときどきはちゃんと休むことが必要だ、との意味である。ある時、徹夜に近い状態が何日も何日も続いたあげく、頭に血が上って霞がかかったようになり、ごく単純なトラブルの原因を見つけられず時間を浪費して、納期に遅れてしまった。当然ひどく叱られたが、その時にいわれたのがこの言葉だ。休みは通常、働くことの反対概念である。だが、人間はときどききちんと休まないと、かえって生産性が下がる。これは今からちょうど100年前に、アメリカのテイラーが工場の肉体労働者の生産性をストップウォッチで計測して見いだした法則にも共通している。


その後、自分が小さなプロジェクトのプロマネになり、チームごと泥沼状態に陥ったときがあった。その時、この金言を思い出したのである。そこで「ノー残業」を宣言をして、協力会社の社員を含めて全員を早く帰すことにした。自分も無論、早く帰ってちゃんと寝るようにした。ところが二日後、協力会社のあるキーパーソンが、自分の会社に戻って、相変わらず夜中の2時まで残業を続けていたことを知り、つい呼びつけて怒鳴ってしまった。彼が帰らなかったら、部下たちだってやはり遠慮して残業を続けてしまう。だから、上の人間が、まず率先して「休むのも仕事のうち」を見せなければいけないのだ。とにかく、それが功を奏したとはいわないが、その後プロジェクトは多少、元の軌道にもどることができた。


念のためにいうが、「仕事のために休め」というのは、次善というか、逆立ちしたセリフなのである。人は本来、「休むために休む」べきなのであって、「もっと仕事ができるように休め」は本末転倒である。ただ、こういわないと、普通の休みさえ取らない「真面目な」技術者が多いから言うのだ。


以前、「睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル」でも書いたことだが、物理的実体を持つシステムは、エネルギーを使って働き続けていると、内部のエントロピーが次第に高くなっていく。エントロピーとは、乱雑さの指標である。ときどき下げないと、システムはちゃんと機能しなくなっていく(熱中症というのは、実はその典型なのだ)。


エントロピーを下げるためには、活動レベルを低下させ、整理整頓をするための時間が必要だ。だから高等な生物は皆、眠りの時間を持っているのである。人間の場合、夜になると脳内にメラトニンが分泌され、さらに下垂体から成長ホルモンが分泌される。メラトニンは睡眠をうながすとともに、免疫系を高める。また成長ホルモンは、成人でも身体の修復や肌の再生のために役に立つ。だから美容や健康が欲しい人は、成長ホルモンの分泌がピークになる夜10時から2時までの間は眠っている必要があるのだ。


かつてバブル時代には、「24時間、戦えますよ」みたいなスタミナドリンクの宣伝がはやり、“24時間情報発信基地”なるものがもてはやされた。だが、『眠らない人間』は、自我の病(やまい)にさらされるのではないか。眠らない都市は、乱雑さと熱汚染の中におぼれる危険があるのではないか。そして、眠らない会社、休まない職場は、じりじりと生産性の低減し、クリアな決断ができなくなる、組織的な熱中症にかかる可能性があるのではないか。


ときどき、手を休めることが必要だ。ここでは何度も書いたことだが、でも、もう一度書こう。時間管理術の目的とは、「何もしない時間」「一見、非生産的な時間」を生みだすことにある。毎日の雑務で時間に追われていると、何もゆっくりと考える時間がとれないままになっていく。頭の中の乱雑が、整理されぬままですぎていく。これを打破するためには、ときに、主体的な行為を放棄し、「本社=自我の指示」から離れて、夢という名のヴィジョンを見ることが必要だ。そうすれば、エントロピーの低い、クリアな秩序を再び手に入れられる。まともに考え、まともに決断するためには、ちゃんと休むのも仕事のうちなのである。


Structured
Approachができる人、できない人 (2012/07/08)


あなたは、同期30人の集まるパーティの幹事になりました。

 あなたが最初にすべきことは何ですか?


--これは、わたしがプロジェクト・マネジメントを学生や社会人に教えるときに、最初に出すクイズの一つである。出てくる答えはたいていの場合、まちまちだ。「店を探して予約する」「日取りを決める」「参加者を確定する」、等々。いや、パーティといってもいろいろだから、どれを先にするべきかはシチュエーションによる、との答えもありうるだろう。


だが、この問題には、どんな状況にも当てはまる、唯一の普遍的な正解がある、とわたしは続けて説明する。ためしに、ちょっと読者の方も考えてみていただきたい。少なくとも、わたしの勤務先のプロジェクト・エンジニア(=プロマネ候補生)たちにたずねたら、若い人でもきっと正解を答えてくれるだろう(と思う)。


その答えとは、『計画を立てる』である。どんなイベントでも、(1)計画を立てる、(2)事前の準備をする、(3)本番を実行する、(4)終結作業をする、の4種類の作業が必要だ。だから、最初にすべきことは「計画立案」だと分かる。そして、言うまでもなく、ちゃんとしたパーティをやるためには、必ずまともな計画が必要なのだ。


なーんだ、当たり前じゃないか。そう思われたかもしれない。そのとおりである。この「当たり前」が、頭の中にきちんと構造化されて、いつでも取り出せるように入っているかを、わたしはたずねているのだ。答えを聞いてから、そんなこと知ってるよ、と感じるのと、自分で言語化して他者に伝えられるのとは、じつはかなりの距離がある。それは、「知る」ことと「わかる」ことの距離である。憂鬱という漢字を読めるのと、その書き方を電話で他人に指示できるのとの違いを考えれば、すこしは想像がつくだろうか。


そして、何らかの仕事を始めるときに、まず作業の全体像を考え、計画に着手するという作業が習慣として身についているかどうかが、ここではポイントである。いきなり店を探したり、参加者を確認してみたりからはじめても、もちろん30人程度のパーティなら、なんとかなるだろう。しかし300人規模のパーティとなったら、もう、そうはいかない。その規模の仕事では、きちんとした計画を立て、やるべき作業をリストアップし、サブの幹事も頼んで共同で進めていかなければならないだろう。つまり、仕事の組立てを考えた、系統的・構造的な進め方(Structured Approach)が必要なのである。


ちなみにStructured approachの反対概念は、トライ&エラー、別名『出たとこ勝負』である。まず、何かをやってみる。その結果や反応を見て、次のアクションを考える。それを、求める結果に行き着くまで繰り返す。「計画」など信じず、自分たちの勘や実行力や「現場力」に頼る。これはこれで、一つの行き方ではある。地図のない森の中での獲物探し、に類した仕事には適しているといえよう。


以前も書いたと思うが、両者の違いは、イヌと猫の行動のちがいにも似ている。ネコジャラシを猫の目の前でふってみせると、猫はそれが欲しくて、じっとその穂先に集中してとびつき、いつまでも追っかけ続ける。一点集中型である。ところが(ムツゴロウ先生こと畑正憲氏のビデオで見たのだが)、同じネコジャラシをイヌに見せるとどうなるか。イヌは最初、穂先に飛びつくのだが、少しすると身を引いてちょっと考え、今度は穂先ではなく手に持っている茎の方を口にくわえて、さっと抜き取っていく。もしそれでもダメな場合は、飼い主に甘えて、“ちょうだい”と態度で示して得ようとする、という。「犬は総合的な判断にたけているのです」とムツゴロウ先生は解説する。穂先-草全体-草を持つ主人、という『全体構造』を見て、それぞれの部位にどうアプローチすべきかを考える能力があるのである。


もう少し別の例を引こう。企業経営について、Structured Approachをとる人々だったら、どう考えるだろうか。まず、その会社のミッション(使命)を定義するだろう。ついで、そのミッションを実現するための戦略を、列挙する。それぞれの戦略については、その達成度を測るKPI(Key
Performance Index)を明らかにする。そして機能別組織を動かして、オペレーションを進めつつ、KPIを見ながら軌道や速度を調整していくだろう。これは、とにかく何か新製品を出し、あるいは新地域に出店してみて、後はその結果をにらみつつ、「各人がその持ち場で最善を尽くせば何とかなる」と考える行き方とは、随分違うのがわかるだろう。


Structured Approachとは、課題解決の方法論である。とくに、対象・ゴールの全体像をつかむことに力点をおく。具体的に言うと、以下のような手順をとる:


(1) とりくむべき対象・ゴールの全体を、構成する部分部分に分解する

(2) 各部分と部分の関係(依存関係やレイヤー的関係)を理解する

(3) それぞれの部分の特性にあった道具・道筋を用意する

(4) (必要ならば)組織内で分担・分業して仕事を進める

(5) 作業全体の管制塔(コントロールセンター)をおく


たとえば、取り組む対象がはじめてのプロジェクトだったとしよう。その全体像は、なんだか大きくてつかみにくく、どこから攻めたらいいかわかりにくい。そこで、達成すべき仕事の全体範囲を、もっとハンドリングしやすい小さな部分に、構造的に分割していくのである。これをWBS(Work Breakdown Structure)という。WBSが、その後のプロジェクト・マネジメント計画の基礎となる。WBSという概念が、いかにStructured
Approachの考え方を象徴しているか分かるだろう。


対象・ゴールの全体構造を分解し、要素を列挙するときに注意すべきキーワードは、『MECE』である。MECEとはMutually
Exclusive and Completely Exhaustiveの略で、ロジカル・シンキングの分野で有名になった略語だ。日本語で言えば、「互いに重複が無く、かつ全体を網羅する」である。日本全国は、地図で都道府県に分割されるが、その間には重複する地域も、空白の地域もない。対象の構造を分解するときは、そういう風にすべく、注意して行う。


対象が単純で内部構造を考える必要がないときには、攻め方の方角について、列挙してみる。山に登るとき、南から斜面を上るか、北側の尾根伝いに行くか、考えられるアプローチを洩れなくすべて挙げていく。そして、その中で優先順位をつけ、あるいはそれぞれに適した方策や道具を用意して進めるのである。


昔、誰かが言ったセリフだと思うが、ゴルフというスポーツは、あんな小さなボールを芝生の穴に沈めるために、用途別に特化した十数本もの棒を背負って歩く、ひどく西洋的な遊技である。日本で生まれていたらきっと、たった一種類のクラブを最初から最後まで使うルールになっていただろう、と。だが、あれこそは英米の典型的なStructured
Approachを表している。日本風なやり方も面白いと思うが、たぶん、際だった名人芸を持つほんの一握りの人しか、18ホール目には到達できないであろう。


ゴルフや、あるいは野球やアメフットなどの専門分化したチームスポーツからも分かるとおり、Structured Approachは、英語的思考や文化の中心にあって、彼らはとくに意識もせずに、つねにこのやり方に従う。教育自体が、そう出来ているのだろう。


Structured Approachは、「頭が良く」見えるのが、一つの特徴である。だから、これを縦横に駆使できると、とくに我々の文化の中ではうまく目立つことになるだろう。また、落ちや漏れや重複が少ないため、誰がやっても一通りの結果が得られる(個人の天分・資質にあまり依存しない)点も、長所である。こうしたやり方は、トップダウン的だとも言えよう。だから、トップダウン型の組織で運用するのに適している。


ただし、Structured Approachは、あまりにも自分達と世界観がかけ離れていて、構造がうまく理解できない物事には、使えない。あなたが惑星ソラリスに行って、その星の不可解な海と七転八倒しているときに、「なんでStructured
Approachをとらないんだ」とは、小説の中の西洋人でさえ誰も言わない。人間にとって、構造的な理解のためには、自分の頭の中にテンプレートが必要だからである。SF的世界とまで行かないにせよ、たとえば日本の弓術を極めるのに、このアプローチが出来るかといえば、まあ、まず無理である。


逆に、森の中の宝探しにおいては、いきあたりばったり、出たとこ勝負的アプローチの方が、運が良ければコストも時間もかからないかもしれない。Structured
Approachは、どうしても最初のセットアップに手間がかかる。「自分探し」中の若者が、既存の社会の枠組みを嫌って、ふらふらしているように見えるのも、自分の運が強いと信じているからなのかもしれない。あるいは単に、(もっと上の世代の人たちと同じく)Structured
Approachを知らないだけなのかもしれない。


Structured Approachは、ちょっと訓練すれば、誰でも使える方法である。とくに頭が良い必要などない。むしろ、個人の天分に依存せず、かつあまり運に依存したくない課題向けの方法である。そして、限界もある。全ての課題に適用可能な万能な方法、銀の弾丸は存在しないのだ。大事なのは、それを「いつ使うべきか」知ることなのである。


心の中でヘリコプターに乗れ
(2012/04/02)

社会に出てからそれなりの時間が経つが、若い頃に思っていたことで、実は幻想だったなと感じることが一つある。それは、“能力が上がれば、あるいは出世すれば、悩みは減るはずだ”、という考え方である。これは言いかえれば、自分は若いから(あるいは地位が下だから)悩みが多いんだ、との理屈になる。仕事が難しいのは、まだ駆け出しで能力が足らないからだ、だからベテランになれば楽に仕事ができる。やりたいことができぬストレスに悩むのは、自分に許された権限範囲が小さすぎるからだ--そんな風に、以前は考えていた。


しかし、押しも押されもせぬ立派なチューネンになってみて分かったのは、むしろ年を経るほど悩み事は多く、責任に比例して肩の荷も増え、毎日つく溜息の回数も多くなるという事情だった。就職は人生の一大事だったが、仕事を学ぶのはもっと大変で、中間管理職になると軋轢はより面倒で、仕事はちっとも減らないのに体力だけは確実に落ちていく。もちろん、単にわたしが愚かで心配性なだけだ、という可能性もある。他の人は、毎日もっと陽気に生き、充実感をもって仕事をし、問題などどこ吹く風、と過ごしているのかもしれない。でも、だとしたら、酒の場では誰も仕事の愚痴などこぼさず、書店には問題解決の本など並ばず、新聞の身の上相談はあがったりで、GDPはロケットのように成長していかなければヘンだ。


「『問題』とは、自分達が(意識的であれ無意識にであれ)期待していた状況と、現実との間に生じるギャップのことを指す」--前にもこう書いた。期待と現実にギャップがあるときは、なんとかして埋めたいと誰もが思う。机の横の立ち話や会議室や酒場で議論になるのは、そういった問題解決の方法についてである。解決法が明白なら、誰も悩みはしない。実行すればいいだけだ。でも、明白でないから、議論になる。そして、なかなか決まらない。あるいは決まっても、納得して従いづらい。これが『悩みのある』状況である。


仕事上の問題解決について、議論が別れてなかなか決まらない理由は、いくつかある。まず、そもそも、何が問題か分からないときだ。なんだかどこかおかしいと感じるのだが、何がどうおかしいのか、問題自体が同定できていない場合。あるいは、問題が複雑すぎて(大きすぎて)手に負えない、と感じられるときも同じだろう。以前、問題解決プロセスを5段階に分けて説明したことがあったが(「問題解決のための二つのキーワード: 抽象化と類推」)、その用語で言うなら、これらは原因分析段階での論争だ。アーリー・ステージでの議論だと言ってもいい。


しかし実際には、問題は同定されたものの、解決策を決める段階で論争になる方が、はるかに多い。たとえば、情報が不足して現状が正確につかめない。ないし、現状は分かるが未来が不確実で予測しがたい場合。また、制約条件がきつすぎて実行可能解がない場合。さらにやっかいなのは、解決の結果について評価軸が複数あって、トレードオフのために優先がつけられない場合だろうか。


仕事上でこうした困難に直面したとき、かつて先輩から教えてもらった教訓がある。それは「心の中で、ヘリコプターに乗れ」というものだった。プロマネに必要なのは、ヘリに乗る能力=Helicopter
Capabilityだ、との言葉も聞いた。どうやら元は、ある米国企業のトップ・マネジメントが教えてくれた言葉らしい。


ヘリコプターに乗るとは、どういう意味か。それは、問題を起こしている戦場(Battle field)と同じ地平、同じ目線で考えないで、もっとはるか上空から考えろ、という意味だった。ヘリに乗って、ずっと上から問題を眺める。そのとき、問題の局地戦だけではなく、仕事の全体像、当面の目的地、地形や敵味方の戦力の配置、そして遙か向こうにかすんでいるビジネスの成功地点(=ゴール)、などが見えてくるはずだ。その大きなパースペクティブの中で、あらためて目の前の問題の位置づけを考え直す。そうすると、局地戦で打破するのか、いったん引き下がって精力を増員してから正面突破するのか、それとも迂回するのか、そもそも目の前にいるのは本当の敵なのか、といったことが見えてくる。


心の中でヘリコプターに乗ると、先に挙げたような論争の状況はどう見えてくるだろうか? たとえば、何が問題か分からない、問題が大きすぎて(複雑すぎて)手に負えない、というとき。それは、問題に対する視点が近すぎる(近視眼的すぎる)ときに生じる。だから、後ろに大きく引いて見ると、問題の構図が見えてくるかもしれない。


情報が不足して現状がつかめない、あるいは現状は分かるが未来が不確実で予測しがたい、というときはどうだろうか? 問題を遠くから見るというのは、細部を忘れて『抽象化』して考える事である。抽象化できれば、地表で似たような図柄を別に見つけることも可能なはずである。つまり、抽象化と類推の手法を効かせることができるようになる。そもそも、技術者という人種は、“細部に近寄って見る”ことが好きだ。事象を細かく観測し分析したがる。そして技術論の局面でものごとを解決しようとする。そのためにデータを取りたがる。それも、より正確なデータを、より大量に取る。そのうち、事象は数字の藪の中に隠れてしまって訳が分からなくなる。技術論で解決するより、味方の人数を倍に増やしたり、思い切って高価な道具を使ったりする方が効果的だったりする事もあるのに。


制約条件がきつすぎて実行可能解がない、というのはどうだろう? これなどまさに、大局観をもち、制約条件を取り払って考えることが有効だ。というのも、『制約条件』は自分が心の中で暗黙のうちに設定しているものが殆どだからだ。期限どおりに終わらない、と悩んでプロマネに相談したら、なあに隣のタスクも遅れているから、お前の仕事は後1週間は遅れても大差はないんだ、と言われたりする。企業組織は縦割りの壁があるから、その壁を「ハードな制約条件」だと感じがちだ。しかし、もっと上の立場から見ると、分担はとりあえずのもので、最終的に仕事がまとまればよい、だから部署間のインタフェースは「ソフトな制約条件」だという事が、実際よくある。


そして、解決策に対する評価尺度が複数あってトレードオフが生じるときは、どうだろう。安全性を優先すべきかコストを優先すべきか。納期を優先すべきかリスクを重く見るべきか。デザインはクールでハードなものか、それとも暖かく柔らかなものか。こうした論争はえてして一番やっかいだ。というのは、“信念”あるいは“好み”のために、妥協ができない人が案外多いからだ。


まあ、事柄が政治や宗教などの領域ならば、簡単に価値観を譲れないのもわかる。しかしビジネス上の判断で、あまり自分の価値観に固執するのは、ちょっと大人げないと言えるだろう。しかし、「あんたは子どもだ」などと言ったら文字通り喧嘩になる。そういうときに、視点をずっと上にあげて、遠くの目標を(再)確認することは役に立つ。というのは、価値観の相違を、共通の大目的のために吸収する効能があるからである。それにビジネスでは、「当座の手段」だったはずのものが、いつのまにか「目的」にすり替わっていることがよくある。これは遠くの目標を再確認することで、解消できるからだ。


この『ヘリコプター技法』を使うときは、できれば目をつむって、本当に心の中でヘリコプターに乗って上空に舞い上がるイメージを持った方がいいように感じる。人間の心は微妙なもので、イメージすることで、それなりに感じ方が変わってくるからだ。


先日上梓した「“JIT生産”を卒業するための本 ~ トヨタの真似だけでは儲からない」で、わたしは『上司の上司の立場になって考えてみよう』と書いた。それもまた一種のヘリコプター体験である。自分の上司の立場になってみる、では、二階に上がった程度で、あまり視野は広がらない。でも、自分の「上司の上司」の立場になったと想像すると、ずいぶん視野が広がるはずなのである。


このようにヘリコプター能力はとても役立つものなのだが、一つだけ必要な条件がある。それは、目をつぶって心の中で瞑想できるだけの、時間と場所である。あなたは、自分の机の前に座って、目を閉じてじっと考える勇気はおありだろうか? 勇気があっても、それをする時間はお持ちだろうか。問題解決に一番必要なもの--それは「考え事ができる時間」なのだから。


設計思想(Design
Philosophy)とは何か (2012/03/26)

Kさん、久しぶりにメールありがとうございました。お元気とのこと、何よりです。ご活躍中の様子が、行間からあふれていました。生産管理の現業をかかえた上に、新規システム導入プロジェクトのメンバーの一員としてアサインされたとは、たしかに大変だろうとお察ししますが、それだけKさんが周囲から期待され一目置かれていることの証左だと思います。


ところで、Kさんからメールをいただくたびに、難しい宿題を投げられたように感じるのですが、今回は格別です。『設計思想に関して』のご質問とは! なるほど、たしかに新しい基幹業務システムを考える出発点として、“その設計思想はどうあるべきか”を問うのは、とてもオーソドックスかつ当然の発想と思います。自分達が製品を設計開発するときも、成功した製品には明確な設計思想があった。だから、プロジェクトを成功させたければ、当然システムにも設計思想がなくてはならないはずではないか。--設計部門出身のKさんはそう考えられた。ですが、その「当然」がちっとも当然たりえないところに、わたし達の社会の根本問題がある訳です。


メールの文章を拝読したところ、ご質問は二点あるようです。わたしの業界の場合には、設計思想を話題にすることがあるのかどうか。そして、そもそも設計思想とは何を規定すべきものなのか、と。


まず最初の質問からお答えしますと、はい、たしかにわたしの本業=プラント・エンジニアリングの世界でも「設計思想」はあります。設計思想のことを英語でDesign Philosophyといいますが、プラントの世界では文字通り"Design
Philosophy"というタイトルの文書を、基本設計の最初の段階で作ります。そして、(基本設計が固まった後に)入札が行われる場合も、それは仕様書の一部として位置づけられ、以後の詳細設計や調達など全ての作業に適用されます。ただこれは、ほぼ海外の顧客向けのプロジェクトの場合のみです。少なくとも自分の経験では、純粋に国内のお客さま相手の仕事で、設計思想が議論になったケースはありません。


では、その"Design Philosophy"とは何を規定したものなのか。じつはプラントの場合、Design
Philosophyは何種類も作ります。Start-up Philosophyだとか、Maintenance Philosophyだとか、Shut-down
Philosophyだとか。なんだか“思想だらけ”に見えるしょうが、事実です。こうしたPhilosophy文書は、別段格調高い文章ばかりという訳ではないのですが、プラントのライフサイクルを通して生き続けます。そしてプロジェクトの途上で設計上の論争が発生したとき、必要ならばDesign
Philosophyに立ち返って、「ここにこう規定してあるじゃないですか。貴方の要求は、これに沿っていません。だから、どうしても変更せよと言うのなら、追加を払ってください」といった決着の基準になるのです。


では、どのような時に論争が起きるのか。たとえば、多重化の要求です。運転上の安全性のために、ここの機器やケーブルを多重化して冗長構成にしろ、との要望はよくあります。ですが当然、投資額は余計にかかります。運用保守の手間も増える。一括請負契約だったら利益に直接関わる問題です。このようなとき、その程度までクリティカルな部分を冗長化すべきか、Design
Philosophyが規定していれば、無駄な論争で時間を失う事が避けられます。『クリティカルの度合い』を誰がどう決めるかも書いてあれば万全です。


あるいは、運転に対する反応の俊敏性と、運転の長期安定性のどちらをとるか、といった問題もよく起こります。車の設計で言えば軽量性と高速安定性みたいなものです。あるいは保守のしやすさと、コンパクト性の相反。さらに緊急シャットダウンの時に、何からどう優先して落としていくのか。危険物質や高温高圧を扱うプラントでは、この優先順位によって設計がずいぶん変わってしまいます。


つまり、設計思想(Design Philosophy)の文書とは、第一義的には、設計を決めるときに相反条件があって、あちらを立てればこちらが立たず、というトレードオフが生じる際の、判断の優先順位を決めたものである、とわたしは考えています。


もともと設計とは、目的とする『機能』をはたすべき『構造』を決める行為です。ところが、どんな製品・システム・サービスにおいても、求められる機能要件ならびに評価項目は、複数あるのが普通です。しかもそれらは、しばしば互いにトレードオフの関係にあるのです。また、空間的な形状・構造を考える際には、いろいろな選択の余地(自由度)があります。こうした、多数の自由度を持つ設計において、その方向付けをするガイドラインとなる方針、あるいはコンフリクトが発生したときに、優先順位を強く明確に決めたポリシーが、設計思想です。


いいかえるなら、設計思想とは価値観の表明に他なりません。とくに、トレードオフが生じる前に、「何を捨てるか」を決めるものなのです。価値観は自然科学や法則からは生まれません。だから思想の形で提起される必要があるのでしょう。これがKさんの第二の質問へのお答えだと思います。


トレードオフ問題は、特定の状況に付随して生じがちです。そのため、設計思想はしばしば「シナリオ」の形になります。プラントの場合だったら、Start-upとかShut-downとか、状況別に作成される訳です。では、情報システムの場合はどうか。もちろん、Start-up/Shut-down/Back-up/Archiving/Maintenanceなど運用的状況の他に、拡張やリリースアップなどもシナリオの対象でしょう。アクセス性とセキュリティの相反なども考えておく必要がありそうです。


この設計思想にまつわる誤解で、よくあるのが『設計条件』との違いです。設計条件とは、設計の境界条件あるいは環境条件を与えるものです。設置場所はどこで広さはどれくらいか、気温・湿度はどれくらいか、建物の床加重は、外部電源容量は、利用者数は、等々。これらは測定ないし想定の結果として、数字の列挙で示されるもので、「思想」ではありません。想定はある意味、思想の表現結果ですから、「想定外でした」という言葉は、“それは無いという設計思想でした”(あるいは“設計思想が無い状態でした”)を示している訳です。


ところで設計思想は、言葉で文書にしなければならないのでしょうか? わたしは必ずしもそうとは思いません。ただし、西洋人の感覚では、明確に文章に表現されて他者に伝わるものでなければ、思想とは認めないでしょうね。言葉にはならないが、リーダーやキーパーソンの間でなんとなく無言のうちに共有され、以心伝心で皆に広まっていく・・などというものを、彼らは「思想」とはよびますまい(強いて言えば、「文化」とか「習慣」と呼ぶでしょうが、これが製品毎に変わるとしたらちょっとヘンです)。まして、詳細設計段階で数十人から数百人が関わるプロジェクトの場合、以心伝心は、はなはだ頼りない伝達手段ではあります。


ある製品や仕組みやサービスに設計思想があるかどうか、外から分かるでしょうか? たぶん、ある程度は感じ取られると思います。それは、設計の「いさぎよさ」であり、あるいは「首尾一貫性」に表れるはずです。むろん、視覚的には直接見えない場合もあるでしょう(情報システムなどはその良い例です)。しかし、一貫した設計思想の元でつくられたシステムは、ユーザーから見て、構造や機能やインタフェースにGuess(推測)がききやすいはずです。


何年か前にKさんにお会いしたとき、わたしがまだHP-200LXという旧型のPDAを使い続けていたことを覚えておられるでしょうか? あの製品は、明確な設計思想で作られた代表的製品だったと思います。携帯可能で、キーボードをそなえ、市販の単三乾電池で1ヶ月動く。そのかわり液晶はモノクロでバックライト無し、無線通信機能も無し。GUIも無し。それでも、わたしはあれを2台購入し、両方が壊れるまで10年以上も使い続けました。ですが、GUIをのせた後継機種は買いませんでした。設計思想に不透明さを感じたからです。


思想を持った製品は、ユーザの「好き嫌い」が強く出ることが、たぶんもう一つの特徴なのでしょう。逆に言えば、あらゆることに優等生的で八方美人な製品には、思想を感じられないのです。だから、設計思想とは、ある意味で『戦略』にも似ています。戦略とは賭けである、無駄な戦いを略すことである、と前にも書きましたが、それはつまり「何を捨てるか決める」ことだからです。


思想がなくても人は生きていけます。でも、混迷を打破して人をリードする力強さは、生まれ得ません。どうかKさんには、皆が納得のいくシステムの設計思想を作り上げていただきたいと願う次第です。


耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い
(2012/02/07)

先日、PM学会の報告を読んでいたら、秋季研究発表大会でなんと「論語」に関するキーノート・スピーチがあり、その場で参加者全員による論語の素読を行った、と書いてあった。たしかに「人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり」とか「徳は孤ならず、必ず隣あり」とか、論語はなかなか良いことが書いてある(と、いまさらわたしが指摘するのもおかしいが)。その報告には、最後に質問として、「論語の意味が分からなくても、素読をすると心に響くのはなぜか」との問いが発せられた、とある。これは、なかなか意味深長なことだと思われる。


私たちは言語の意味が正確にわからないにもかかわらず、なぜか心の内に何かを感じる経験をすることがある。好ましいと思ったり、感心したりする。論語以外でも、般若心経など仏教のお経もそうだろう。日本仏教では不思議なことにお経を直接日本語訳にせず、中国語に翻訳したものを、古い日本風の奇妙な発音で音読することになっている。聞いてるだけでは誰も意味がわからない。それでも皆納得して聞いているのである。さらに別の例を挙げるなら、カトリック教会は20世紀の半ばまで、ミサで唱える通常のお祈りの文句はすべてラテン語で唱えるしきたりだった。それでも信者たちは敬虔な気持ちで頭を垂れていたはずだ。


なあに、それは宗教だから、聞く前からありがたいと思っているのさ、と反論されるかもしれない。それでは、自分がよく聴き取れない外国語の歌を聞いて、好きになったことはないだろうか。意味のわからぬ音を、口真似して歌ったことはないだろうか。言葉の機能は意味を伝えることにある。にもかかわらず、わたしたちは言葉の意味だけに反応する訳ではない。なぜ、わたしたちは意味がぼんやりとしか分からない音の並びに、感情を動かされるのだろうか。


それは、そこに声とリズムがあるからであろう。わたしたちは、声とリズムに身体の内側が反応するように、できている。声とリズムとは、即ち、呼吸する息だ。私たち人類は集団生活をする動物として、他者の息を感じとり同調する本能を持っているのかもしれない。


このことは、逆に自分に対するインパクトを強める方法として使うことができる。つまり、何かを心に刻みたかったらそれを声に出して言ってみるのである。言葉や文章をよく記憶したければ、自分の声に出して言ってみる。


私は大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるとき、プロジェクトの三大制約要因として、スコープ、コスト、スケジュールのいわゆる「鉄の三角形」を説明してみるのだが、当然ながらこんな抽象概念は学生の頭の中をするすると右から左に抜けていってしまう。そこであえて皆に大きな声で「スコープ、コスト、スケジュール」と三回くらい大声で復唱させてみる。彼らは(僕らは中学生じゃないよ)という顔つきをするのだが、ミニテストで調べてみると、明らかに頭に残るのである。いずれ卒業して仕事につき、何年かしたのちに、ふと「そうか。この三つはつながっていやがる!」と体得する日がくるかもしれない。


音が先にあってそれが言葉になり、言葉がやがて体感になる。順序が逆のようだが、私たちは本当はこうして学んでいくのである。何か身につけるためには、それをからだの動きと感情的な体験として、繰り返し繰り返しやらなければならない。よく使うたとえだが、逆上がりの方法を本でよんだからといって、それで逆上がりが出来るようになるだろうか。目で読んで覚えただけでは、ひととき頭の中にとどまるだけだ。


もう一つ別の例を出そう。「指差し確認」というのをご存知だろうか。工場の製造現場や物流現場などで、目の前にあるものを手で指差し、声に出して呼んで確認する。電車の車掌さんが駅で声を出しながら確認しているの見た人もいるだろう。信号よし、ドアよし、と言った具合だ。ある西洋人が製造現場でこれを見て、人間をロボットのように扱っていると批評したことがあった。だがそれは間違っていると思う。本当にロボットならば指差し確認などいらない。人間だからこそ、手を振り声に出す必要があるのだ。


私はこれを日常生活でも使っている。みなさんは家を出た後で、さてドアをちゃんと閉めたか、鍵は閉めたか、ガスの火は消したか、不安になったことはないだろうか。私は家をでる時に、「正面の窓よし、左の窓良し、電気よし、ガスよし」、と指差し確認をして出かけることにしている。これは余計な不安を減らすためにとても有効な方法だと思う。耳は眼よりも聡く、からだは頭よりも賢いのだ。


私たち日本人は、西洋近代文明に準じた教育を受け、西洋近代文明を真似してビジネスを回している。もちろん、西洋文明には優れた特質や美点がたくさんあるからそうしている訳だ。ただ西洋近代文明にはひとつだけ困った点がある。それは、頭でっかち、という事である。言葉を重んじて、からだを軽く見る事である。身体は精神に従い、精神とは言葉であると、彼らはなぜか強く信じている。


確かにある局面ではそうだろう。私は自分の意志でからだを動かし、自分の言葉で考えを述べる。しかし意思によらず行なってる事だって沢山あるのだ。例えば誰か、自分の意思で心臓の鼓動をいったん止めてみたり、あるいは胃腸の動きを早くしたりする事ができるだろうか。あるいは誰か、意識的に眠ろうとすることができるだろうか。そもそも眠っている間は、自分の意識などないわけである。人は自分自身のからだでさえ、自分の意識や合理性だけで動かす事はできない。


身体というのはある意味正直である。眠くなれば眠り、眠りが足りれば目覚める。腹が減れば何か食べるが、満ち足りたらその先は食べたくなくなる。身体的な欲求というものには自ずから限度があるのである。


困った事に精神的な欲求には限度がない。かつて養老孟司は、金銭欲とは欲望に関する欲望であると喝破した。何かを所有したいという物的欲求は、それを手に入れれば一応収まる。しかし金銭はあらゆるものを手に入れるための手段だから、金銭欲には際限がなくなるのである。すべての人が己れの欲望に従って行動すれば、市場の見えざる手を通じて、世界はより効率的になるはずだ、という今日のグローバリズムの思想に比べれば、身体はなんと慎ましく、かしこいことか。


わたしは、「頭が良い」と言われるよりも、「賢い人だ」と言われたいと思う。賢さとは、単に頭脳だけの事ではない。身体と精神がちゃんとバランスをとって、統一されている状態を指している。そうなって初めて、人は欲望の奴隷の状態から脱出できるのだろう。もちろん、わたし自身にとって、賢さへの道はまだまだ遠い(頭はだんだんわるくなりつつあるが)。ただ、そのためには、わたしはからだの声にもっと耳を澄ます必要がある、と感じるのである。

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