考えない方法 (2008/12/15)

メーラーを閉じろ (2008/10/18)

究極の管理学とは何か (2008/06/11)

課題、ペイン、そしてソリューション(2) IT産業の中核問題とは(2008/02/18)

課題、ペイン、そしてソリューション (2008/02/10)

頭が良くなる、のを避ける方法 (2008/01/01)

ナレッジ・マネジメントはなぜ困難か (2007/10/31)

睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル (2007/08/11)

睡眠時間の必要 (2007/08/06)

心理的バリアーをのりこえる (2007/06/05)

赤信号をわたる国 (2007/02/25)

なぜ信号機が必要か (2007/02/04)

Christmasメッセージ --今はまだ異文化を語らず (2006/12/21)

考えない方法 (2008/12/15)

昔、unixのパイプライン記法をはじめて学んだときは、ずいぶんとスマートな解決法だ、と感心した覚えがある。その頃、大型コンピュータを使う仕事では、バッチ処理のためのJob Control Languageという大変厄介な言語(というか何というか)を勉強する必要があった。これはどうしたら人間の生産性よりも計算機の都合を優先できるか、という観点からは見事な出来映えの記法であり、とくにデータファイルを定義するDD文なるものは、その厳密さと難解さと情け容赦無さの点で芸術の域に達していた。とにかくちょっとした中間ファイルの受け渡しだけでも、酷く頭を使うのである。unixのパイプライン記法は、これをたった一文字の | だけで済ませるのだ。舌を巻く、というのはこのことだ。

パイプライン記法の美点は、何よりも「名前をつける必要のない使い捨ての領域は、無名のままで済ませられる」という点にあった。プログラムを書いているとき、何かに名前をつけ、それを覚えておき、あとでその名前で呼び出すという作業は、案外、頭の負担になるのだ。それが負担になるということは、名付けの手間が無くなってはじめて気がつく。考えずに済むときには考えないようにしたい。これは、人間の頭脳の経済において非常に重要なことらしい。

さて、同じ頃だったと思うが、法律事務所に勤めていた人から、ある女性弁護士の話を聞いた。この人は結婚していて、毎日働きながらも家で料理をしていたらしい。で、この人は夕食のメニューを決めるのに、不思議な表を使っていた。それは一種のスケールのようになっていて、上段には豚肉・鶏肉・牛肉・魚・・という風にメインの食材が並び、下段には煮る・焼く・蒸す・・といった調理方法が並んでいる。そしてこの人は、毎日その表を一段ずつずらしながら、“今日は魚の揚げ物にしよう”といった具合にメニューを決めるのだそうな。「このシステムを使えば、今夜は何を作ろうかしら、と悩む必要がないから、とっても楽よ」とおっしゃっていたらしい。

この話を聞いて、その弁護士の頭の良さに感心するよりも、あきれて笑う人の方が、まあ普通の感覚だろうと思う。料理なんて、季節や天候や体調や、その日に手に入る食材などでかわりうる、と考えるのが常識というものだ。しかし、“今夜の夕食はどうしようか”というのは主婦の恒なる悩みでもある。女性弁護士の方法は、少なくともその悩みからは縁が切れていた。

彼女の方法は、とてもシステマティックだ。だが、そのメリットは何か? それは、「考えなくても済む」という点にある。つまり、『システム』とは、考えずにすむ方法のことなのだ。体系にしたがって、手短な処理をすれば、考えずとも答えが出てくる。システムとは一時的な、一過性の課題を、頭を使わず考えずにすませるための方法である。

もうひとつ、別の例を挙げよう。「ダブルビン法」という簡易在庫管理の方法である。ご存じの方も多いと思うが、念のため紹介する。これは在庫すべき材料を、二つの容器なり棚なりに入れておく。使用するときは、片方の容器/棚から必ずとる。そして、その容器が空っぽになったら、二番目の容器から取るようにするのだが、その時その容器を満たす分だけ、発注手配をするのである。いうまでもないが、容器の容量は、発注から納品までの日数の間よりも多めにしておく。納入リードタイムが1週間なら、10日分程度の使用量が入るように容器サイズを決める(さもないと2番目の箱が空っぽになった後に補充分が来るので、欠品状態になってしまう)。

これは一種の不定期定数補充方式であり、価格が安く(=在庫費用が安く)、いつも一定の使用量があり、かつ欠品するとこまるような材料に用いる。ボルト・ナットなどのたぐいがその典型である。これを自宅のお米の在庫管理に使っている人も知っている。あるいは、デパートやホテルなどでよく見かける、トイレットペーパーの2段ロールも、その一例だ。あれなど、価格が安く、いつも一定の使用量があり、かつ欠品するとひどく困る点でダブルビン法にうってつけである。

もっとも、ときにホテルなどで、ロールが横に二つ並んでいる形式のものも見かける。あれは困る。どちらからも切って使えるからだ。だから、しばしば、両方のロールが少なくなっていたりする。ダブルビン法の要諦は、片側からのみ使用し、在庫量が半分を切ったところで補充手配をかける点にある。両方から消費していったら、発注点が分からなくなる。

どうしてこういう事になるかというと、むろんそれは管理者が、ダブルビン法の考え方を理解しないまま、やり方だけを表面で真似ているからだ。ダブルビン法は在庫管理を簡易にする、システマティックな、「考えずにすむ方法」である。しかし、その仕組みを入れる人間は、少なくとも頭を使ってその意義を理解する必要がある。なのに、「考えずにすむ方法を、考えずに真似ている」のだ。方式ばかり一人歩きするが、その効果は得られない。

ダブルビン法を少し応用すると、すぐにカンバン方式にたどり着くことは、当サイトの読者ならおわかりいただけると思う。容器をいくつか並べて置いて、手前の容器が空になったら、補充をかける。容器にカンバンをぶら下げておけば、もうカンバン方式だ。さて、カンバン方式がフィットする条件が何か、トイレットペーパーの3つの特性を思い出して、考えてみていただきたい。これらが充足されない種類の品目には、使えない。とくに、「いつも一定の使用量」というのがポイントだ。

システマティックな方法は、なにより人間の頭脳にとって経済的である。「名付け」を考えるコスト、覚えるコスト、思い出すコスト、量やタイミングを間違えずに手配するコスト・・こうしたコストを全て排除してくれる。だから、多くの人間は強力なシステムにしたがって仕事を進めようとする。

私たちの社会は、とてもよく発達していて、「考えない方法」はいくらでもころがっている。しかしシステムの基本的な条件を理解しないまま「考えない方法」にしたがってはいけない。それは結局いつのまにか“システムに使われる”立場に私たちを変えてしまう。考えないまま会社に行き、考えないまま会社から帰り、考えないまま消費生活を続ける。
考え直すなら、これまでのシステムが行き詰まりはじめた今しかない。



メーラーを閉じろ (2008/10/18)

時間管理術」のような本を書き、タイム・マネジメントに関して時おり講演などをしていると、たまに思いもよらぬ誤解にあうことがある。「佐藤さんはきっと仕事が速いんでしょう」というのは、まだかわいい方で(自慢ではないが人並みのスピードでしか仕事はできぬし、文章を書くのは遅い部類である)、「きっと早起きで夜もあまり眠らないはずだ」などというのは、どこをどう押したらそういう理解が出てくるのか不思議に思う。私にとって日常の主要な関心事は睡眠時間の十分な確保であって、寝る間も惜しむ時間管理術など、私の最も好まぬ解決法だからである(『睡眠時間の必要』「考えるヒント」2007/08/06)。

もともと、時間というのは1日24時間、誰にも平等に与えられている。それをどう、うまく使うかがタイム・マネジメントの要点なのだが、「時間が足りないのは自分が浪費しているせいだ」とはたいてい考えず、“あの人が楽そうに見えるのは、本当に楽な仕事しかしていないか、めちゃめちゃ仕事が速いか、あるいはどこかから時間をよけいに取りだしているからにちがいない”という風な憶測が生まれるらしい。

タイム・マネジメントにおいて一番重要なことは、『着手日を決めて、それを守る』ことで、これは本にも書いたとおりだ。我々は日常、さまざまなタスク=宿題を抱えてすごしている。各タスクには、締切や納期や、(もっとたちのわるい場合)ASAP、つまりAs Soon As Possible「できるだけ早く」という条件がついている。そこで、タスクを完遂するのに必要な期間を見積もって、最遅着手日(LS = Latest Start)を考え、他のタスクとの優先順位を考えながら最早着手日(ES = Earliest Start)との間で実際に着手すべき日を決める、というのが基本だ。

むろん、現実には予期せぬ割り込みや遅れがつきものだから、所要時間の見積には幅ができる。いつも最遅着手日に着手していたのでは、納期を割り込むリスクがあるわけだ。だから最小限のバッファー日数を考えて着手日を決めなくてはならない。これは、工場の生産スケジューリングだろうが、オフィスでのワーク・スケジューリングだろうが共通の原則だ。

ところで、オフィスワークにかぎって言うと、ここに一つ考慮すべき要素が入ってくる。それは『集中度』というパラメータである。知的成果物をつくる仕事には、ある程度の精神的な集中が必要になる。より良い仕事が求められれば求められるほど、「連続して集中して考える時間」が入り用になるのだ。これはどのようにスケジューリングに組み込むべきだろうか?

オフィスワークの仕事量は、ふつう人日や人月で測られる。IT産業はその典型だ(私の属するエンジニアリング産業では、人時で測るのが国際的な慣習になっている)。5人日の仕事とは、すなわち、一人でやったら正味5日かかる分量を示す。これを私は「量としての時間」とよんでいる。この人が、似たような仕事をもう一つ同時に抱えていて、両方を平行に作業していたら、終わるのは10日後になる。5人日の仕事だが、所要期間は10日の長さである。これを私は「長さとしての時間」とよんでいる。コンピュータの世界でいう、ellapsed timeである。

そして、多くの場合、同時並行のタスクを二つ持とうが三つ持とうが、個々に必要な人日は変わらない、と仮定する。ところが、ソフトウェア工学で有名なトム・デマルコは、これはたいへんな間違いだという。

彼は、“ソフトウェアの開発工数とは、集中して考えられる時間の合計で測られるべきだ”と主張している。あるモジュールの開発工数が100時間だとすると、それは、静かに集中して考えられる時間が合計100時間必要だということだし、集中できない細切れの時間が1000時間あったって、そのモジュールは完成しない、と彼はいう。つまり集中して考えることのできる2時間と、10分ずつ細切れになった合計の2時間では、まったく質が異なるというわけだ。

私もこの考え方には、いたく同調する。そもそも、オフィスワークの生産性を下げる第一の要因は、他人からの割り込みなのだ。考え事をしている最中に上司に呼ばれたり、電話が鳴ったり、誰かに話しかけられたりして、集中が途切れると、あとでまたその集中状態に戻るには、かなりよけいな手間と時間がかかる。この間の生産性の低下は、誰がどう補ってくれるというのだ。

しかし、あなたが組織で仕事をしている限り、上司や同僚を切り捨てるわけにはいかない。個室でも与えられていれば別だが、日本ではそんな贅沢はまず望めない。

それでは、どうしたら良いのか? じつは、ここには一つの解決法がある。それは、職場全体で「集中タイム」を設定することである。たとえば、朝9時から11時まで。その間は、会議も招集しない。電話もかけない。部下も呼ばない。ただ皆が、自分の席で仕事に集中するのである。これを実践している会社もある。

そんなこと、ウチの会社では不可能だって? そもそも、外から電話がかかってきたらどうするんだ? --たしかに、そうだ。しかし、昨今、電話というものはずいぶんと少なくなったのも確かである。今や、たいていの仕事の連絡は、電子メールで行われる。ひどいときには、隣の席にいるのに、メールを打ったりしている。同時発信の効用があるからだ。面と向かっては言いにくいことだからメールにしたりすることもある。おかげで、電話のベルが鳴る回数は以前に比べて、ずいぶん減った。

そこで、一つの解決法がうかぶ。つまり、メーラーを閉じて、自分で「集中タイム」を自発的に作ってしまうのである。なぜ、オフィスにいる間じゅうずっと、メーラーを開けていなければならないのか。電子メールとはそもそも、非同期的な通信手段である。相手を呼び出して、同時性を強制的につくりだす電話とは質の異なる手段だ。だから、到着したからといってすぐに読みに行く必要も義務もない。さっき送っただろ! と送信者に文句を言われたら、「え、まだ読んでなかった」と答えればすむ。だって、会議で2時間席を空けて、読めない可能性だってあるのだ。いつからメールはリアルタイムな通信手段になったのだ。

ある調査によると、55%の人が、どんなに忙しくても届いた途端にメールを読みに行っている、という。これはじつにもったいないことだ。そんな必要性はないのだ。メールは、そもそも自分の都合で読みに行けばよい。集中したいときは、メーラーは閉じておけばいい。まるで、どこに球が飛んできてもすぐにキャッチできるよう、ずっと中腰になっている内野手のように、メーラーを開け続けていることは自分の負担なのだ。

自分が集中したい時間帯は、メーラーを閉じよう。そして、自分が自分の主人になれる時間を作りだそう。

究極の管理学とは何か (2008/06/11)

最近、知り合いの東大教授から面白いことを聞いた。「東大には、なぜか管理学系の学科がないのです。」と、この先生は言う。「たとえば工学部には管理工学科とか経営工学科といった学科がありません。経済学部には一応、経営学科がありますが、実質的には経済学科とは垣根が低く、一体に近いようです。工学系大学院にMOT(Management of Technology)を意識した『技術経営戦略学』が最近設置されたのが、唯一それに近い存在でしょうか。」

つまり、日本の最高峰と世間で言われている学府は、どうも「管理」を学問や教育の対象とは考えていない、ということらしいのだ。京大についても、Wikipediaで調べてみると「経営管理大学院」はあるが、これもつい最近(2006年)に設置されたばかりである。事情は東西でよく似たようなものらしい。こういう話は、生産管理だとかプロジェクト・マネジメントだとかで飯を食っている(つもりの)私にとって、ずいぶん気になることである。

ちなみに、私は現在たまたま、日本経営工学会誌「経営システム」の編集委員をしている。その関係上、大学で経営工学を教えている先生方と接する機会も多い。そこで耳にするのは、“文部科学省が科学研究費を配分する際に、経営工学が重点研究分野に選ばれることはまず期待できない”という話だった。

では、文科省が研究分野として期待しているのは何か。それは、ナノテクノロジーだとか万能細胞だとか先端機能性材料といった分野である。いいかえると、すべて「固有技術」の研究だ。“ものづくりニッポン”などと言いながら、われらが政府の重点政策にはものづくりの「管理技術」の研究や普及活動は、決して登場しない。MOTが唯一認知されている理由は、それが研究・開発のマネージを目指しているからだ。素晴らしい製品開発さえできれば、あとはいつのまにか工場で大量効率生産できるものと、皆が考えているらしい。

この国では、マネジメントに『技術』はないし、「管理技術」なる概念は認知すらされていない--こう考えると、いろいろなことが急に明らかになってくる。たとえば、技術なら、人から人へ伝承可能だし、科学的アプローチで向上することもありうる。でも管理は技術でないから、マネジメントの上手下手はまったく属人的なものだ、という信念が生まれる。したがって、生まれつき優秀だとか(これはつまり18歳のときに大学受験が上手だったという意味だが)、人生経験が豊富だとか、あるいは良い家柄の出身だ(=人を使うすべを若いころから見て学んできた)とか、そういうことが管理上手の物差しになる、はずである。だからこの国は学歴偏重と年功序列と同族経営が大好きなのだ。なるほど、なるほど。

あるいは、マネジメントとは社長とか部長とかいった地位に付随する権能である、という信念もありえよう。人に命令することが管理だと思い込んでいるのだ。“プロジェクトが上手くいかないのは、自分に人事権をくれない会社がいけないのだ”と信じ込むプロジェクト・マネージャーと同類だろう(「役割(Role)としてのプロジェクト・マネージャー」参照のこと)。それですむのなら、クリティカル・パスだとかWBSだとかいった技法は何もいらない。なるほど、巨大企業の情報プロジェクトが、軒並み火を噴くわけである。

もっとも、あるいは日本はもっと別の信念で動いている可能性もある。それは、「管理技術とはすなわち法律のことである」という考えだ。最高学府の法学部出身者が、中央官庁や政府や主要産業の枢要な地位を占めていく。そして一般大衆の従うべき方針を決定する。これが最適な管理の姿である、という思想が有力なような気がしてきた。この「一般大衆」の中には、あなたや私のような、理工学に従事するエンジニアも含まれる。法学は諸学の王である以上、どんな専門分野にも指令を出せるのだ。いや、そうだ、そうに違いない。その証拠に、日本の経済政策を決めているのは経済学ではなく、法学部出だ(ためしに過去50年間の日銀総裁の学歴を見るといい)。

工場やプロジェクトは多くの人とモノがかかわりあう巨大なシステムであり、固有の因果律や法則性があるから、それを効率的に運転していくには理論に裏打ちされた技術が必要だ。これを管理技術とよぶ。--これは経営工学に携わるものの共通な信念だ(むろん、マネジメントの本質には「人を動かす」という面があるから、技術論だけですべてがカバーされるわけではないが)。なのに、クリティカル・パスだとか部品表だとかいった、大学の3年生で教わる技法も知らない人々が、現実の企業を動かして「管理」している。それを不思議とも思わない学術政策が、国を動かしている。

法律こそ、究極の管理手法である、というのはつまり、掟と刑罰で人を動かしていくのがもっとも効率が良い、との思想である。ここには、「管理」と「権力」の混同がある。おそらく、科挙を生み出した中国の古代思想とどこかで通低しているのだろう。そして、この思想は、理工学出身者の頭の中にも無意識に浸透していて、「管理技術」という概念が生まれるのを阻んでいるのだ。私たちがこの古代思想と早く決別しない限り、私たちの社会は混沌と低迷から抜け出すことはできないだろう。

課題、ペイン、そしてソリューション(2) IT産業の中核問題とは(2008/02/18)

知り合いの大学教員にきいた話だが、この2~3年、「情報」が名前についている学科の入学志望者数が急減しているという。これが一部の大学だけの話なのか、あるいは全般的な傾向なのかは、定かではない。しかし、いっとき学部学科名に「情報」だとか「システム」だとかつけるのが流行したものの、ここにきて曲がり角にさしかかっているらしい。

『情報』と名のつく学科への志望者が減っている理由は、おそらくIT産業ならびに情報処理技術者にたいするイメージダウンと関係がある、というのがその知人の意見だ。つまり、プログラマとかシステム・エンジニアになって就職しても、低賃金・長時間労働の業界で、すり減るまでこき使われるだけだ、というイメージがしだいに定着してきているらしい。もちろん、よほど結構な大学を出て大企業に就職できれば、システム構築業務といっても、外注先にわたす仕様書だけ書いていればいいのかもしれぬ。しかし、そうでない一般の大学出では、労働集約型産業で員数としてのみカウントされる「知的労働者」になるのは、ちっとも魅力を感じないことなのだろう。

どうして、日本のIT産業に魅力が無くなってきたのか。それは技術の問題というより、マネジメントの問題だというのが、私の意見だ。現代の日本のIT産業は、受託型のシステム開発プロジェクトに主軸がある。最新鋭の計算機を開発するというようなハード型の仕事ではなく、顧客の要望に応じた「ソリューション」を提供するソフト型のSIビジネスが、金額的に一番大きい。

ところが、このSIビジネスが、なかなか大変なのだ。なにしろ、誰がどう調べた数字かは知らないが、“IT開発プロジェクトの70%は失敗だ”と言われる世界なのである。水際に設置された大きなシーソーに乗っているようなもので、良いときは高く舞い上がれるが、ひどいときは水面下に沈められて息もできない。ダメなプロジェクトに配員されてしまったら、土曜も休日もなく連日連夜働かされ、サービス残業を強制されて(強制されるサービスって、いったい何だ?)、しまいには連休をつぶしての移行作業である。10回に7回がこの調子では、たしかに志望者も減るだろう。プロジェクトの失敗率はIT業界の「ペイン」(悩み)なのである。

こういう状態をいかにして解消するか、いろいろな議論がたたかわされている。先日、プロジェクトマネジメント学会のセミナーで講演したときも、IT業界の方の質問に答えて「エンジニアリング業界におけるプロジェクトの失敗率は30%程度だろうか」と発言したら、なぜそんなに少ないのか? いったいIT業界はどこがおかしいのか!? という議論の嵐になってしまった(30%はひどく多いと思っている我々はかえって驚かされた)。

その時の議論の大勢は、これは顧客側に原因がある、とくに曖昧な要求仕様で発注する顧客がよくない、という論調だった。しかし、きいていた私は、全く別の意見をもった。しょうもない顧客が世の中にいることは、事実として同意する。だが、IT業界に問題があるとしたら、それは顧客ではなく、「要求分析」という最も知的に価値のある部分ではなく、「システム実装」という力仕事の部分で儲けようとする、歪んだビジネスモデルにあるはずだ。

ソリューションというものの要求仕様が曖昧なのは、本質的なことであって、これは避け得ないことだというのが、私の考えである。なぜか。それは、ソリューションへの要望が、顧客の「ペイン」から発しているからである。ペインとは、意識化されていない問題、あるいは意識には上っているが解決をあきらめてしまっている問題である。意識化されていないのだから、明確なわけがない。ただ、これでは商売にならないから、ここにシステム・アナリストが登場する。アナリストは、顧客の要望を明言化し、As-isとTo-beモデルというような概念をつかって、顧客のもやもやした「問題」をビジネスの「課題」に格上げするのだ。

しかし、ここには手抜きの手段がある(これは職業上の秘密だけどね)。それは、To-beモデルという、あるべき姿が、じつは“隣の芝生”的な空想的なものになっていても、それを指摘したりはしない、という手抜きである。そこを丁寧に説明していたら、いつまでたっても要件定義は終わらない。要件定義は、顧客を「実装ビジネスという利益の源泉」に食いつかせるための撒き餌なのだ。きれいに要求仕様を紙に書いて、一定期間内に終わりにしなければならない。そして『ソリューション』を構築提供したら、あとの使いこなしはお客様の責任です、といってSI業者は帰ってしまう。こうなると、最初に顧客が抱いていたペインは、「巨大で維持費のかかるITシステムをつかってどう業務をまわすか」という、全く別のペインにすり替わってしまう。そして両者の間には、限りない不信感が残ることになる。

おわかりだろうか。矛盾の根源は、時間とお金をかけて、要求分析・要件定義をきちんと完遂していないことにある。要件定義をきちんとやる、とは、すなわち顧客が自分のペインを自覚して、その解決策について、得失両面から明確に理解することである。こうして初めて、「問題」は「課題」に昇格するのだ。自分が納得した解決策(=ソリューション)ならば、それを実行することもできる。だから、これはきわめて大きな価値のある仕事である。

そして、IT産業は本来、この最も価値のある部分で大きな利潤をかせぐべきなのだ。要件が真に明確になっていれば、実装は、お金はかかるがリスクの小さな(つまり利幅も本来は小さな)業務と位置づけられるはずだ。それなのに、設計は無償でサービスして建設工事を受注しようとするゼネコンみたいなことを、いつまでもSI業界がやっていて良いわけがない。実装で儲けようとするから、基本設計がおろそかになる。おろそかになるから、結局は実装のプロジェクトのリスクが大きくなる。

いいかげん、IT産業はこんな負のスパイラルから脱出すべきだ。そして、知恵がきちんと評価される業界に生まれかわってほしい。そうすれば、きっとまた優秀な学生の集まる有望な分野にもどるはずだと、私は信じている。

課題、ペイン、そしてソリューション (2008/02/10)

ソリューション」という言葉を最初に流行らせたのは、’90年代の米国IBMだったと言われている。はじめのころは、「単に最新型CPUを載せたPCハードです、といって売れた時代はもう終わる。これからは顧客のソリューションとなるシステムでなければ売れないだろう」といった言い方だった。それがいつの間にか今日では、「最新型アーキテクチャのソリューション!」という具合に、単なるハードやソフトの出来合い商品をさすのに使われてしまっている。IT業界における典型的な“用語インフレ”の一つだろう。いまでは他の業界でも「ソリューション」を名前に冠する会社は少なくない。

しかし、発祥の地のIT業界でも、さすがにもう企業のCIOたちは『ソリューション』という語に不信感を抱くようになってきたらしい(たとえば『CIOが抱く「ソリューション」への不信感』日経ソリューションビジネス・記者の目2006年6月)。ソリューションとは何か、と正面切って問われれば、「課題への解決策だ」と誰しも答えるに違いない。それが英語の原義なのだから。

問題なのは、その『課題』を、誰が定義しているのか、という点である。これを勝手に売り手が想定して、しかもワンサイズ衣料品的に、どの顧客にも売っていることに矛盾があるわけだ。それでは、ソリューションとは一体何だろうか?

じつは、企業のかかえる課題は、大きなレベルの戦略課題から、小さな日常レベルの課題まで、いろいろな形で存在している。会社員という人種は、誰もが自分の職務範囲に応じた課題意識を持っているものなのだ。そうした課題を、ちょうどプロジェクトをWBS(Work Breakdown Structure)に分解するように、階層的に分解することができる。すると、どの企業でも第1レベルには7種類の課題が共通して並ぶ、というのが私の経験から得た結論だ。たとえばその一つが、販売力の拡大である。受注増加や売上増加といってもいい。

ところで、ある先輩コンサルタントの語るところによれば、良い営業マンとダメな営業マンを見分ける簡単な方法があるという。自分の商品説明から話をはじめるのは、じつは愚の骨頂なのだそうだ。商品説明をはじめれば、顧客は売りつけられていると感じる。そうなると、どんな顧客も身構えてしまう。だから、良い営業マンは、ぎりぎりのタイミングまで、自分の商品説明は控える。では、何を話すのか? それは、顧客側の問題なのだ。良い営業マンは、顧客との会話の時間の8割までを、顧客側の問題について話すことに使うのだそうだ。

これは私自身にとっても、耳の痛いアドバイスだった。私は技術屋だ。だから、セールスの場面では、つい自分の技術を売り込みたくなる。しかしそれは、「自分の技術に惚れている。つまり自分に酔っているにすぎない」のだと言われてしまった。私に限らず、技術志向の会社の営業は、どうしても技術的優位性、ということに関心が向いてしまう。だから発想が「プロダクト・アウト型」のセールスになる。

その先輩によると、優秀な営業マンは、同業他社に引き抜かれても、移った先で良い成績を上げるものだという。これは当たり前に見えるけれども、実はよく考えてみると不思議なことだ。なぜなら、元の会社の製品が他よりも技術的に優れているから売れたのなら、移った先では成績がふるわなくなるはずだからだ。にもかかわらず、どこでも良いセールスを上げられるということは、じつは販売力は製品の「技術優位性」にはあまり依存しないのだ、ということを表している。では価格なのか? いや、そうではない。競争環境下では、価格は自ずとある範囲内に落ち着いてしまうし、そもそも良い営業マンは安売りセールスなどには頼らない。

だとすると、ポイントは何か。それが、課題とソリューションを結ぶ顧客の「ペイン」(痛みを伴う問題)の掘り起こしなのだ。ペインとは、顧客が無意識のうちにかかえている問題、あるいは意識には上りつつも解決をあきらめてしまっている問題、のことだ。良い営業マンは、このペインの発見に長けている。顧客のペインに対して、自社の製品を「ソリューション=解決策」として提示できる。そのペイン(痛み)の大きさに比例して、顧客にとって価値が高く感じられる。価格競争から、頭一つ抜け出せる。これが付加価値セールスの源泉なのだ。単にモノを売っているのとは全然別である。

ここまで、私が「課題」と「問題」を慎重に使い分けてきたことにお気づきだろうか。「課題」は意識して(カッコつけて)いうことがたやすい。中期経営計画にも有価証券報告書にも書くことができる。課題は企業間で共通性が高いのだ。しかし「問題」は個別性が強い。問題は人に言いたくない。販売力の強化、とは書けるが、営業統括役員が無能だ、とは口に出せない。価格競争力の向上、とは書けるが、毎回赤字覚悟でたたき合っている、とはいえない。なぜたたき合いになるのか? それは「技術的優位性が足りないからだ」と『課題』はいうだろう。しかし、じつは「顧客のペインにたいして自社の製品をソリューションとして位置づけることができていない」ことが『問題』なのだ。

それでは、具体的に顧客のペインを見つけるにはどうしたらよいか? これはむずかしい。問題はたいてい個別性の泥の中に隠されているからだ。しかし、手がかりはある。少し長くなってきたので、これについてはまた次回書こう。

頭が良くなる、のを避ける方法 (2008/01/01)

科学者・寺田寅彦の名言に、「頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい」ということばがある。つづいて、「すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。」という(元の文章『科学者とあたま』は青空文庫に掲載)。これは今から75年前の発言だが、いまだに全く古びていない。いや、それどころか現代における警鐘として、ますます重要になっているのではないか。

最近ときどき、とても頭の良い、物知りな人に会うことがある。大企業の人に多いが、こちらが何か提起したり、問いかけたりすると、すぐにその先の帰結を述べてくれる。「その線はうまくいきませんよ、市場はむしろ逆の方に動いていますから。」「あの企業が成功したのは、じつは裏に理由があるんです。それは・・・」こういう風につづく。部下が何かをたずねると、たちどころに由来や帰趨を説明してくれる。とにかく、あらゆることが説明可能な人なのである。説明可能だが、その先は現在の路線を続けるという結論にたどりつく。

これとは別種の、頭の良い人たちもいる。見事な戦略的経営プランを、ビューティフルなPowerPointに作り込む。いつも自信満々だ。彼らの説明にはROEだとかSaaSだとか新鮮な用語と数字がならんでいる。それで現実が動くんだろうか、などと端で心配してみても、「あとはExecutionの問題に過ぎませんから」などと答える。英語がたくさん混じっているのもこの種の人たちの特徴である。

ところで、話は急に飛ぶが(いつものことで)、昨年、新しいガスレンジを自宅に買った。ガスレンジなどきわめて成熟した商品だと思っていたら、新型は驚くべき機能を満載している。まず、タイマーがついている。セットしたら自動的にガスの火が消えるのだ。安全設計らしい。それどころか揚げ物の場合は鍋の温度を自動的に一定に保ってくれる。温度センサー付きなのだ。またグリルも、受け皿に水を張る必要がない(耐高温性のテフロン加工かな)。操作パネルがついていて、デジタル表示になっている。

しばらくは便利機能に感心しながらつかっていたが、正月のお餅を網で焼く段になって、困ったことに気がついた。焼き網が高温になると、勝手に火がしぼられてしまうのだ。私が文句を言うと、同居人も「そうなの。魚焼きのグリルも、焦げ目が付く前に勝手に消えちゃうのよ。私がしたいように動いてくれないし、まったくどっかの頭の良い人みたい。」という。そしてエンジニアの私に向かって、こう付け加えた。「自分では料理したことのない技術屋さんが設計したに決まっているわ。」--ここで私は冒頭の寺田寅彦の文句を連想する。なるほど、頭の良い設計者は、料理という行為には向いていないのか。

頭の良さ”と世間ではひとくくりにいうが、私は4,5種類の頭の良さがあるのではないかとかねてから疑っている。頭の良さに関連するキーワードをならべてみると、いろいろある。記憶力。判断力。分析力。洞察力。創発力。言語能力。推論能力。理解力。これらをすべてまんべんなく兼ねそろえている人は希で、どれか一つ二つに秀でている例がほとんどではないか。

そして、世間では頭が良いというのを誉め言葉で使うことが多いが、「頭の良さ」とは、「目の良さ」「力の強さ」などと同格の特性ではないかといつも思う。“あの人は頭が良いね”ということは、“あの人は走るのが速いね”というのと同列で、その人が優れた人格を持っているとか、徳があって賢いとか、そうしたこととは独立な事象なのだ。

その上で私は、寺田寅彦があえて言ったように、単に「頭が良い」ことに対して、批判的な意見を持っている。いや、むしろこう言い直そう。「自分は『頭が良い』と思っている」人になるのは、きわめて危険だと感じている、と。

自分の経験からみて、45歳をすぎた人は(とくに中間管理職の人や技術職の人は)みな「頭がいいと思っている人」になりがちだ。頭が良いと思っている人の特徴はいくつかある:
 人の意見(異見)をきかなくなる
 最後まで見通せる(リスクも含めて)と思っている
 他人の批判がうまくなる
 つねに断定形で語る(自分に疑問を差し挟まない)
などなど。あなたのまわりでも、こうした人を見かけないだろうか。こうした人々にならないためには、どうしたらいいのだろうか? なまじ高度な教育を受けた人は、頭が良くなるのを避ける方法を、知るべきだと思うのだ。

一つの解は、誰か自分より頭のいい人を見つけて、その人を目指すことだ。ただし、これは自分の身の回りに、そういうすごい人がいないとうまくいかない。それよりももっと実効性のある方法は、自分で手を出してやってみることだろう。つまり、泥臭い世界に手を出してみることだ。そして、簡単に「わかった」とは思わないこと。「知った」とも思わないこと。「自分は知らなかった」と思う。それが、自分をまともに保つ秘訣である。

自分には知らないことがある--すなわち『無知の知』を身につけることこそ、頭の良い人になるのを避ける最良の方法なのではないだろうか?

ナレッジ・マネジメントはなぜ困難か (2007/10/31)

好川哲人氏の分類によると、PMO(Project Management Office)は3種類に分かれるのだそうだ。コンサルティング型、ナレッジマネジメント型、標準化型の3つである。私も最近、ライン部門からPMO的な部門に配属がかわったので、これらの類型についてときどき考えをめぐらす。たいていの会社のPMOは、この3種類のタスクが多少なりとも入りまじった形をしているはずだ。だが、その中でも難しいのが、ナレッジマネジメントではないか。

団塊の世代が大量に引退時期をむかえる、いわゆる「2007年問題」もまた、ナレッジマネジメント導入の一つの引き金になっている。技術や知識の継承をどうするのか、といった問題を企業に突きつけているわけだ。また、企業の合併や海外展開も、社内の知識の棚卸しと再整理を要求する。

ナレッジマネジメント(KM)の根幹は、「暗黙知を形式知にかえて共有する」というプロセスにある。これはさらに、ISO9000/QMSと結びつき、仕事をふりかえって問題点を改善するためにL/Lを共有する、という風に仕組み作られている。ちなみにL/LとはLessons LearnedあるいはLessons & Learnsの略だ。10年前は欧米系の大企業でなければお目にかからなかったL/Lという語も、最近はあちこちで接する機会がふえてきた。

しかし、私の知る範囲では、どこの会社でも、KMはなかなかうまくいっていないようだ。これは何故なのか?

ツールの問題では、おそらくあるまい。10年前ならいざ知らず、現在ではどのオフィスでもグループウェアやLotus Notesや企業ポータルといった道具立てが普及している。ユーザがナレッジを登録してくれない、という段階も、多くの企業では乗り超えつつある。QMSに組み入れて義務化したり、表彰をしたり、業績評価に組み込んだり、あの手この手の策によって、ナレッジはかなりの量が蓄積されるようになってきた。むしろ、データベースが社内のあちこちに散らばって、どこに何があるのか探しにくい、という状況さえ出現してきている(Notesはその混沌状況を増すのに絶好のツールらしい)。

ツールもある、コンテンツも多い、ということになれば、受け手の側に問題があるのだろうか? だが、情報の受け手に学習意欲が足りない、と考えるのは即断にすぎると思う。おそらく、受け手の言い分としては、「忙しすぎて、とても情報を読む時間がありません」だろう。これを私流に敷衍すると、こうだ。「ナレッジを読むことは成果に結びつかぬ間接作業なので、そのプライオリティは実務の直接作業よりも低くなります。」 つまり、パソコンの画面を読んでいるくらいなら、(営業職なら)お客を訪問しろ、あるいは(技術職なら)図面をかけ、といわれる(と感じる)のだ。

それでは、受け手にも読む時間を確保してやれば、ナレッジマネジメントは成功するだろうか? いや。読んでも、記憶に残らなければ何の意味もない。そして、単なる知的情報は人間の記憶にとどまりにくい(大学受験の時に暗記した年号を覚えている人はどれだけいるだろうか)。記憶に強くとどまるものは、感情をともなう情報である。書き手、話し手の感情が分かり、顔や声の調子が伝わってはじめて、受け手・読み手の記憶にくっきりと残るのである。単なる報告文よりも、報告会の方がずっと有効なのはこのためだ。

さて、ナレッジに感情を込めることに成功したら、それでKMはゴール達成だろうか? いやいや。人間というのは、文字に書かれた知識を知ったからといって、それが分かって使える状態になりはしない。だって、逆上がりのやり方を書いた文書を読んだら、明日から鉄棒で逆上がりができるようになるのか?

逆上がりというのは、体で覚えるものだ。では、仕事上の技術やスキルは、体でなく頭で覚えるものだろうか? かつて『「わかる」ことと「知る」こと』(考えるヒント、2004/07/06)に書いたとおり、知ることと分かることとの間には、大きなギャップがある。エンジニアの端くれとして断固として書くが、それを埋められるのは、何度も練習すること(“体で覚える”こと)しかない。

「わかる」状態になっても、まだ終わりではない。わかっても、今度は実務に使わなければ「使える」にはならないからだ。そして、実務にくり返し使って、ようやく「本当によく分かる」という状態にまでたどり着く。こうなってはじめて、それはスキルと呼べるのだ。

こうしてみると、「形式知に書いて伝える」という行為から、「本当によく分かる」までは、随分と長く困難な道のりがつづいていることが分かるだろう(下図参照)。収率がきわめて低いプロセスのように。

結局、ナレッジマネジメントの問題の根本には、『ナレッジ』という概念自体の限界がある。Knowledge(知識)はknow(知る)から来ている。知識経験をナレッジとして文章化すれば、すぐに共有できるだろうとは、なんと西洋的な考えであることか! 西洋人でなくても、お受験やお勉強が上手な人は、ナレッジに価値があるはずだと思いがちである。しかし、「ナレッジ」が「知ること」にとどまっている限り、それは使えないのだ。我々はまだ、「本当によく分かる」までの長い道のりを歩いていかなければならないのだ。

睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル (2007/08/11)

人間の脳が最もエネルギーを消費しているのは、じつは眠っているときらしい。それも、夢を見ているときではなく、いわゆる夢を見ないノンレム睡眠の時である。レム睡眠とノンレム睡眠は1時間半程度の周期でくり返すが、われわれが多少とも覚えているのは夢を見ているレム睡眠の間にすぎない。これはまことに不思議なことだ。脳が一番活発に活動しているのは、自我も意識も無い時らしいのだ。

眠っている間に脳が何をしているのか、まだほとんど分かっていない。一説によると、覚醒時に習得した情報の中からパターン抽出をして(つまり情報圧縮)、海馬経由で長期記憶に保存するのだという。休憩中の脳はガーベジ・コレクションをしているのさ、というのがシステム・エンジニアうけする説明だが、脳のなかのメモリ空間がリニアアドレスであるはずもなし、たとえ話以上のものではあるまい。

ところで、ここから連想ゲームみたいに話が飛ぶのだが、休んでいる間が一番忙しい、ときいて、私は自分の顧客である石油ガス業界やガラス業界の工場を思い出す。製油所勤務の人たちが一番忙しいのは、生産していないときなのである。工場を止め、製造装置をストップして、こうした業界では定修を行なう。「定修」とは定期修理の略だ。工場にもよるが、たとえば1ヶ月弱、生産をストップして、プラントのあらゆる装置・計器・配管をメンテナンスするのである。機械はばらして消耗部品を交換し、内部を洗浄して汚れを取り、配管系統の溶接箇所を点検し、計器を更正し、必要ならば小規模改造や新装置の導入をして・・

石油プラントの場合、機器・配管の総数は数万点あるから、やることはたくさんある。工具も場所も限られているから、適当に目についたところから手をつけていたのではいつまでたっても終わらない。かなり詳細な手順計画を立てて遂行していくのである。人手もたくさんかかる。プラントでは大量の可燃物や高圧ガスを扱う。法規制の関係で、日本ではタンク類の開放点検が年1回義務づけられていた。つまり、年間の1/12は生産ストップというわけである。これが日本企業の競争力を大幅に阻害しているという指摘があがり、規制緩和で隔年になり、最近は4年に1回になった。しかし、これが思わぬ問題を呼び起こしているのである。

その問題とは何かというと、定期修理・大規模メンテナンスのスキル継承の困難である。なにせ4年に1回しかない。大卒で会社に入っても、へたをすると現場を1回か2回経験しただけで係長や課長クラスになってしまう。現場をよく知らないまま、中間管理職として計画立案や監督をすることになる。なまじ大卒で頭のいい人は、見ていただけでわかった気になってしまう。しかし、技術的スキルというものは、現場でくり返し学習しなければ、身につかないものだ。そして・・

米国ミネアポリス州で、高速道路の橋が落ちた事件は、その少し前ニューヨーク市でおこった地下埋設蒸気管の爆発事故(かなりのアスベストが飛散した)とあわせて、あらためて保守を軽視した社会のもろさを皆に知らせることになった。日本だって、対岸の火事ではない。ここ数年、どれだけ工場や鉄道で大小の事故が起きていることか。これらは保守をぎりぎりまで切りつめた「現場の不眠症」の産物といえないだろうか?

工場とは秩序をもったシステムであり、企業の生産システムの中核をなす。ところで、生物というものも、複雑な秩序をもった有機的システムだと言える。この生物という名前のシステムは、補食活動や同化作用といった活発な時期に体内にエネルギーをたくわえるが、その後かならず休息の時期が来る。このとき、実は活動期に体内に増えたエントロピーを下げて、体内組織を修復し直す。生命がサイクルをもつということは、かなり本質的な事象だと考えられる。カルノーサイクルや内燃機関の原理を見てもわかるように、最大の効率をあげたければ、サイクル的な構成が必要になるらしい。

だとしたら、企業という有機的(?)システムにも、エネルギーとエントロピーのサイクルが必要なのではないか。休みなく絶え間なく成長し続けるというモデルは、むしろどこかでエントロピーを噴出することにならないだろうか。季節性や景気循環はどの業界でもおこる(たとえば半導体サイクルや液晶サイクルなど)。大事なのは、下降期に向かったときの過ごし方なのだ。そのときこそ、生産ラインを止め、不要物を捨て、保全改良をほどこして工場のエントロピーを下げてやる必要がある。人間を休養させ、再教育を行ない、「人的資源」の再生をはからなければならない。つまり積極的に下降期をすごし、それをチャンスととらえるべきなのだ。

前回、私は、「眠っている時間、非活動的な時間は、人生にとって価値ゼロだ」という思想」に反対だと書いた。それはなにも、休養すれば生産性が上がるから、という理由ではない(そういう功利的な説明の仕方は、俗耳には受入れやすいだろうが)。私はむしろ、意識中心の考え方、すなわち“自分とは意識・自我である”というデカルト的西洋的考え方がきらいなのだ。この論理は、“だから意識がない時間は無価値である”とか、“自分の体は自分(=自我)のものである”とか、“身体を短時間睡眠に馴致させるべく改造しよう”という風につながっていく。

だが、よく考えてほしい。生物進化の歴史を見ればわかるように、意識と脳は、身体が必要に応じて創り出してきたものである。それなのに、あたかも身体を脳の道具のごとく考えるのは、まったくの転倒であろう。

この構図は、会社にも全くアナロジーとしてあてはまる。MBAか何かをとって、本社で戦略的ビジネス計画をたてる頭のいい連中は、会社組織は自分たちのものであり、好きなように動かしたり切捨てたりしてかまわないと考えているかのようだ。ちょうど、ゲーム理論の『計算する独房の理性』のように。だが、以前「誰のための生産管理?」(「タイム・コンサルタントの日誌から」2007/05/06)でも書いたように、本当はマネジメントとか本社とかいうものは、生産や販売の現場がスムーズに動くように、サポートする立場にある。つまり、マネジメントとは現場の必要から生まれたものなのだ。

眠っている間、意識や自我が消え去っても、生物としての人間の一貫性は継続するし、むしろ身体の統合性は再生される。意識は身体の下僕である。もうそろそろ、我々の頭の中にある転倒を正すべき時期なのかもしれない。

睡眠時間の必要 (2007/08/06)

なぜそんな話題になったのかは覚えていない。相手は知人の、イタリア人の精神科医だった。ローマ市街のはずれからホテルまで、彼の車で送ってもらいながら、何となく毎朝何時に起きる習慣か、きいてみたのだ。彼は6時には起きている、と答えた。勤務先の病院には8時前にはついているという(欧州は比較的早起き社会だ)。じゃ、寝るのは? ときいたら、彼はふりむいて、「12時頃なんだ。」と残念そうにいう。「10時には寝たいといつも思う。でも、それは不可能だし。」

私はシエスタ(昼寝)のことはあえてたずねなかった。自分でシャッターをおろせる開業医ならともかく、勤務医はとれないに決まっている。そうでなければ彼がうらめしそうに10時に寝たいというわけがない。中堅の勤務医は、洋の東西を問わずどこの国でも、公私ともにめっぽう忙しいのだ。私は、自分も平日は6時間程度しか眠る時間がとれない、と説明した。それが体に良いとはとても思えないとも。

人間が快適に暮らせる必要睡眠時間はかなり個人差がある。いわゆる「8時間睡眠」には学問的根拠がないと、なだ・いなだの不眠症にかんする本に書いてあった。しかし個人的経験から、私自身は7時間から7時間半ほどの睡眠をとるとすっきり目覚められる。それ以下だと、日中の知的活動が微妙に、しかし確実に効率ダウンする。

睡眠障害の専門医が組織する『快眠推進委員会』による情報サイト:「眠りの総合サイト☆快眠推進倶楽部☆」というのがある。これをみると、日本人の平均睡眠時間は減少傾向にあることがわかる。NHKの2000年の国民生活時間調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間23分で、年代別では30代が6時間57分、40代が6時間59分だ。働き盛りの年代で特に睡眠時間が短い、という。1960年には8時間08分だったのに、年々減少しているのだ。

むろん、長く眠れば良いとは一律に決められないとも書いてある。脳の睡眠であるノンレム睡眠は時間睡眠によらずあまり変わらないとの報告もあり、『睡眠は時間よりも「質」の方が重要。質のよい睡眠とは、目覚めがスッキリとしていて、ぐっすり眠ったという満足感が得られる眠りのことです。』という。ここは睡眠障害や不眠症に悩む人向けのサイトだから、短くても気にしないで、とのトーンで書かれている。

しかし、睡眠時間が短いのは果して身体的な(つまり個人的な)問題のせいだけなのか? 私は疑問に思う。そのためには、他の国民と比べてみると良い。「何が問題?世界一睡眠時間が短い日本人」(村角 千亜希)には、こうある:『ACニールセンの2004年インターネット調査によると、世界で最も睡眠時間が短いのは日本人で、約41%が6時間以内の睡眠時間』。私はその41%に入っているようだ(なお、最もよく眠っているのはオーストラリアとニュージーランドだそうな。うらやましい)。

日本人の睡眠時間が他国に比べて短いとしたら、やはり長時間通勤・長時間勤務がすぐ頭に浮かぶ。その真偽は、わからない。しかし、それとは別に、先進国のホワイトカラーでは睡眠不足が蔓延しているように、私には感じる。限られた、ごく狭い範囲での体験から推測するだけだが、よく働く人間はどの国にもいる。イタリアやフランスといえば怠け者の代表的イメージだろうが、最初のイタリア人医師に限らず、フランスでも南米でも、朝から晩までほんとにすごいな、と驚いたことは一度や二度ではない。英米人も、佳境に入ったときの徹夜をもいとわぬ馬力はたいへんなものだ。

そうした努力を、われわれの社会は尊敬し、評価する。しかし、本当にそれだけでいいのだろうか? 米○○○で頭角を現わすには、週100時間は働かなくてはならない、とまことしやかに噂される状態は、はたして正常なのか。その歪みは、離婚率が50%以上というあたりに、あらわれてやしないか? ずっと働きづめで、少しでも息を抜くと競争相手に追い抜かれてしまうという強迫的状態が、米国の心臓病の多さに出てはいまいか?

ちなみに、人間の成長ホルモンはおもに夜間分泌される。“寝る子は育つ”という昔の人のことわざは、とても正確だったのだ。成長ホルモンは子供だけでなく成人でも分泌されており、その不足症状に対して投与補給する治療が、最近日本でもはじめられている。では、夜間に分泌される成長ホルモンは何の役にたっているのか。それは、体のメンテナンス修復である(リモデリングともいう)。これが足りないと、心筋梗塞・高脂血症・脳梗塞などのリスクが高まることが確認されている。なお、成長ホルモンの分泌は、夜の10時から夜中の2時頃までがピークである(だからこの時間に寝ていないと、本当に眠ったことにならないのだ)。また、寝ている間は白血球も製造している。横になれば心臓の負担も軽くなり、心筋の休息にもなっている。

睡眠不足を常態化させ、それを奨励するような社会は、異常だ。それは確実に人間の生産性に影響を与えていく。さすがのハーバード・ビジネス・レビューでさえ、これを問題視して、専門家のレビューにもとづく記事を載せたほどだ。米国ではさらに、向精神薬剤の常用が以前から都市のエリート層の間で問題になってきている。

誤解しないでほしいのだが、私は短時間睡眠自体を攻撃しているのではない。3時間眠るだけで元気に活動できる人は、それを続ければいい。私が反対するのは、「眠っている時間、非活動的な時間は、人生にとって価値ゼロだ」という思想である。休息に積極的な価値を認めない考え方である。休みたいのは怠け者の考えだ、という決めつけである。

地球上のどんな生物にも、サイクルがある。人間にも起きて活動するときと、寝て休息するときがある。この両方が必要なのだ。24時間起きて闘い続けることが理想だ、という考え方はどこか間違っていると私は思う。

そして、この問題は、企業組織にもサイクルが必要という話につながっていくのだ。だが、長くなりすぎた。つづきは、また書こう。

心理的バリアーをのりこえる (2007/06/05)

自分のやるべき仕事を、To Doリストやタスク・リストなどの形に書いておくのは、良い習慣だ--近著『時間管理術』の最初の方でこう書いたら、「近頃の若いビジネスマンはそんな当たり前のことまで、本で勉強しないと分からないのか」とベテランのプロジェクト・マネージャーに、あきれられてしまった。昔はそんなことは自分で編み出すか、先輩から盗んで覚えるのが当たり前だった、ということらしい。

しかし、大学出がまだエリート候補だった高度成長期ならともかく、今やホワイトカラーなど、誰もがありつける、ありきたりの職業となった。徒弟制度的な技術継承もくずれつつある。だから今日では、時間管理術はキャリアアップに必須の、学ぶべき技法だと思う。

自分がいつまでに何をやらなければならないのか、それがどれほどの負荷量の仕事なのか、ホワイトカラー業務の場合はなかなか見えにくい。生産現場だと、製造オーダーや出荷指示といった紙の差立てがきちんとしているし、それが現物と(まともな工場では)対応しているはずだから、仕事量は明確だ。仕事量が可視化できれば、おのずから進捗も計りやすいし、コントロールも可能になる。見えない仕事はいつまでたっても、制御不能のままなのである。

かくいう私も、To Doリストはずいぶん以前からずっとつけている。ところで、こうしてリストをつけて、毎朝・毎夕に更新していくと、ときどき気になることが出てくる。それは、いつまでたってもリストから消えずに居座り続けるタスクの存在である。

タスクは内容の他に、かならず期日(due date)を書くのが原則だ。しかし期日が厳密に決まっていない仕事、「近いうちにやらなきゃならない事」というのも現実には存在する。そうしたタスクは期日をブランクにしたり、あるいは1週間後などの適当な目安を設定することが多い。期日が来たら、私が使っているツールでは自動的に翌日に持ち越しになる(持ち越し不可の設定も可能だが)。こうして、いつまでもTo Doリストに残って消えないタスクがときどき生じる。正直に告白すると、最長で半年以上も生き残っていたタスクがあったと思う。毎日それを見ていると、しだいにTo Doリスト自体をメンテするのがいやになる。

それくらいだったら、さっさとそのタスクを完遂すればいいじゃないか、と思われるだろう。そう。それが正論である。しかし、私自身の中には正論にしたがえぬ部分が若干、あるのかもしれぬ。そして、類似の体験をじつは皆もっているようだ。では、どんな種類のタスクがTo Doリスト残りやすいのだろうか。工数のかかる仕事か、あるいは難易度の高い仕事か。それとも専門領域外の仕事か?

そうではない。私が手をつけずにずるずると先延ばしにする仕事、それは心理的に「面倒くさい」タスクなのだ。工数にも難易度にも専門性の有無にも、直接は関係がない。工数がかかって難しい、しかも経験の少ない分野でも、よろこんで取りかかれる仕事はいくらでもある。困るのは、心理的な負荷の高い仕事の方だ。

経営学は労働を、肉体労働と知的労働に分類している。それはさらに、習熟の要否によって単純労働と熟練労働に分かれる。高度な指先の研磨加工もあるし、単純な伝票処理もあろう。そうしたタスクの工数(負荷)は、肉体か頭脳のどちらかの使用時間で計られるのが決まりだ。ところが、仕事の中には、さほど時間がかかるわけではないが、心理的な負荷の大きなものがあるのだ。

友人の社会学者・石川准氏の本の中で、私は「感情労働」という概念を知った。感情労働とは肉体労働でも知的労働でもなく、感情の消費を要求される仕事をさす。その代表例として、ナースによる看護があげられていた。看護には知的な面も肉体労働的な面もある。しかし、その負荷の大きな部分は、患者に対する感情のプロセスによって生じるという。

同じ事が、どうやらビジネスの世界にもときどき生じるらしい。難しくはないけれど面倒くさい仕事。たとえば顧客への追加交渉だとか、人事考課だとか、あるいは些末な規則のために、細心の注意を払わないと官庁や管理部門からこっぴどく怒られる仕事だとか。こうしたものは心理的なブロックとなって、着手をしにくくするのだ。

それでは、どうすべきか。自分の心理的傾向、すなわち性格をかえるのが一番だが、これはお手軽にはできそうもない。そこで別の方法を考えよう。まず、心理的なブロックの存在に気づくことが第一だ。問題の存在を認識すれば、もう3割は解決に近づいたも同然だろう。

そのために、まずTo Doリストでの繰り越し回数をチェックするといい。もし同一のタスクを、未着手のまま5回以上くりこしていたら(つまりカレンダー日でいえば1週間たっていたら)、それは「心理的バリヤーつきタスク」だと認識する。

つぎに、心理的な障害のあるタスクは、それを小さなサブ・タスクに分解してみる。「顧客に値上げ交渉をする」という仕事が、気が重くて延ばしのばしになっている場合、「交渉材料のネタを準備する」「競合製品の価格リストを作る」「顧客に面談のアポを入れる」などにブレークして、着手してしまうのだ。本にも書いたとおり、少しでも自分自身の背中を押してやるような形にするのがコツだ。

同時に、自分自身で簡単なモットーをかかげるのもおすすめだ。たとえば私は、「迷ったときは積極的な方を選ぶ」というモットーを、先輩から教わった。これは自分自身の背中をちょっと押すのに効果がある。「迷ったときには、念を押せ」というのもある。これは優秀なプロマネからきいたことばだ。コミュニケーションには念を入れろ、との教訓がこもっている。

こうした面倒くさいタスクは、かなりの場合、上司からふってくる。以前、『To Doリストなんか書いている時間がない』(「コンサルタントの日誌から」2007/03/11)にも書いたように、本当はTo Doリストは、作業を指示した人が書き込むべきものである。だがそれは、現実にはなかなか、かなわない。タスクは自分で管理せざるを得ないのだ。それでも、自分の背中を少しずつ押す術を身につければ、少しずつは前に進むことが出来るのである。

赤信号をわたる国 (2007/02/25)

知人が長い休暇を利用して、シベリア鉄道経由でヨーロッパに旅行した。シベリアを鉄道で横断して欧州に行くには、片道だけで7日間くらいかかるという。たぶんシベリア鉄道とは、それに乗ること自体が半分目的みたいなものなのだろう。列車の上でひたすら時間を無為に(有為に?)すごす点が贅沢なのだ。

帰国後の彼に感想をたずねたら、「ドイツ・フランスまで足をのばして、レンタカーで回ってきましたが、佐藤さん、フランスってのは危険な国ですね。」という。どうして?とききかえすと、「だって、あそこの国じゃみんな、赤信号でも道を渡るじゃないですか。危なくってしょうがないですよ。まったく、基本的な交通マナーも守らない。マナーが最低の国です。」というのが彼の答えだった。

そうなのだろうか。私もあそこの国に1年近く暮らしたが、幸いあまり危ない目にあった記憶がない。むしろ最近の日本の方が怖いくらいだ。しかし、彼のいいたいことはわかる。フランスでは、横断歩道の信号が赤でも、歩行者は平気でわたっていく。むろん、わたる前に、いちおう自分の目で左右は確認する。だが車が少ない、あるいは自分の足で渡りきれる、と判断したら、皆どんどん横断してしまう。自己責任でリスクテークしている、というわけだ。彼らにいわせれば、“車が一台も来ないのに赤信号で止まって待っているドイツ人はアホだ”ということになる(この両国は、お互いを馬鹿にする表現には事かかない)。

ところで、念のために統計データを調べてみると、交通事故の年間犠牲者数は日本の方がフランスより多い。ただし人口も2倍ちがうわけだから、確率でいうとフランスの方が高いのは事実だ。それでも、歩行中の事故被害にかぎって比べると、日本の方が明らかに分がわるい。赤信号をわたる国の歩行者は、轢かれる確率が日本より少ないのだった。いったい、なぜだろうか?

理由は、簡単である。あの国では、自動車の方がとまるのだ。運転する側から見ると、道路では青信号であっても、いつ人が渡ろうとしてとびだしてくるか、わからない。いきおい、歩行者のいる道では慎重になる。高速道路では気がちがったみたいに飛ばす彼らも、街なかでは安全運転せざるを得ない。だから歩行中の事故が少ないのだった。そして(ここが大事なところなのだが)、“車は止まるべきもの”と信じているから、歩行者は赤信号でも渡るのである。

逆に、日本の車は青信号では減速しない。なぜなら、歩行者は赤信号を渡らないものだという社会的な合意事項(暗黙の前提)があるからだ。日本で、赤信号を『自己責任』で毎回渡っていた日には、命がいくつあっても足りるまい。

もうおわかりだろうが、フランスと日本では、交通システムの中で、ゆずり合いのバランス点がちがうのだ。日本では歩行者が我慢し、フランスでは自動車が我慢する。これを、歩行者という一断面だけで切って、「マナーの良しあし」で比較するのはまちがっている。

ちなみに、以前紹介したイギリス風の『ラウンドアバウト』(ロータリー交差点)も、フランスには時々存在する。そしてこいつは、十分危険である。嘘だと思ったら、ためしに凱旋門の周囲をめぐるエトワールのロータリーを、あるいて渡ってみればいい。ただしその前に十分な生命保険をかけておくことをおすすめする。フランスのロータリーでは、運転者は自分の行き先の道にでることに忙しく、歩行者には注意を払っていないからだ。

交通システムは、人間と機械(自動車)と設備(道路・信号機)がつくる、典型的な多目的システムである。その中では、互いの目的を達するための相互調整(交通整理)が必要になる。調整ためには、多少のゆとり=自由度(バッファー)の存在が、システムにおいて必須となる。それが道のゆずり合いであり、あるいは車間距離である。

では、交通システムにおけるマナーとは何だろうか? それは、システムの中で自由度やバッファーを置く場所についての、無言のルールである。あるいは、暗黙の合意事項だといってもいい。そして、マナー違反とは、システムの中にリザーブされている自由度を、勝手に消費してしまうことなのだ。安定した、すぐれたシステムは、大多数の長期的な利益のために自由度を確保しておくという暗黙知を、その内部に持っている。それを個人が短期的な利益のために蕩尽しないこと、すなわち長期的利益のために短期的利益を抑制することが、「マナー」と呼ばれるものの中身である。

最近の日本の交差点では、自動車が黄信号でも赤信号でも渡りきろうとして突入してくるのをしばしば見かける。それも案外、年輩のドライバーが多い。彼らは、長年親しんだ暗黙知をどこに置き忘れたのだろうか? 社会がリザーブしている自由度を、自分の短期的利益(それもほんの数十秒の利益)のために使おうと、いつ心がわりしたのか? 

長い不況のトンネルを抜けて、日本は景気が上向きになったと言われる。しかし、その好況の中で、目前の短気利益志向がどんどん進行しているのかもしれない。私たちの社会システムは、すでに自由度を失って、きしむ音をたてはじめていないだろうか。この国の社会全体が、赤信号を渡りはじめていないだろうか? これが自分一人の杞憂であることを、私は切に願っている。

なぜ信号機が必要か (2007/02/04)

イギリスの都市近郊を車で走ったことがある人ならご存じだろうが、あの国には「ラウンドアバウト」なる交差点形式がある。「ロータリー」ともいうが、日本のロータリーはふつう駅前くらいにしかなく、そこは車が周回する場所というより、タクシーやバスが停車して乗客の乗り降りをさせる所というイメージだ。ところが英国のラウンドアバウトは通常の交差点に近い機能を持っている。四方からの道路が一点で交差して十字路をつくるかわりに、5-10m半径の円環路に接続している。そして車の流れは一方向(あの国は左側通行だから時計回り)にのみ進むことが許されている。

ラウンドアバウトに入った車は、必ずその流れにのって進み、自分がいきたい方向の道から円環の外にでるルールになっている。この交通システム(?)の特徴は二つあり、(1)車は止まらずに円環の流れにそって自分のいきたい方向にいける、(2)したがって信号機は必要ない、というしくみである。自由かつ闊達なるこの仕組みがイギリス人はたいそう自慢らしく、彼らの支配地域だった中東などでも、よく見かける。

たしかに、いったんなれてしまえば、これはなかなか良い仕組みだとわかる。円環路の流れに合流したり分岐したりするところは若干の運転スキルが必要だが、これにも優先の決まりがあり、危険なことはない。いかにも、紳士の国らしい大人のしきたりであるな、と感じたりする。なにより、誰にも命令指示されることなく、かつ自分が希望する方向を選べる点が、いかにも自律分散・民主的ではないか。

ところで数年前、中東で新聞を広げていたら、「トヨタ・ロータリーをつぶして、信号機を設置します」というニュースをみつけた。このロータリーは別にトヨタがつくったわけではなく、同社の大きな宣伝ポストが近くに立っていたからつけられた市民の愛称だったらしい。その親しまれたロータリーをつぶして、信号のある交差点に改造する工事をするという。数日間は交通が遮断されるから、記事になったのだろう。

では、なぜこのように素晴らしいシステムであるロータリーをつぶして、渋滞と喧噪の象徴である信号機を導入するのか。中東がイギリス支配に反抗する政治的象徴なのか? それとも民主主義など眼中にない首長国の陰謀なのか? --むろん、そんなことではない(と思う)。記事によれば、彼らの理由説明は、きわめて単純なものだった。それは、「交通量の増大」である。

英国郊外の美しい(場所によっては多少醜い)街並みを走っているときには気づかなかったが、ラウンドアバウトは、車の交通量があまり多くないときのみ、快適に機能するものなのだった。入ってくる交通量がある一点を超えて増大すると、円環の流れに合流することができずに左折待ちの車の列がだんだん増えてくる。待ち行列の理論をご存じの方ならわかるはずだが、到着する車の頻度がロータリーの円環路の最大流量に近づくにつれて、この列は加速度的に長くなっていく。つまり、ひどい渋滞現象をひきおこすのだ。こうなると、とても非能率な民主主義社会が出現する。

信号機つきの十字路は、これを指示命令方式で遮断する。そして、縦横の流れを交互にせき止めて、減速せずに通過できる直線的な流れをつくりだす。道の通行を半分の時間は止めてしまうのだから、信号はたしかに(ミクロな視点では)運転者の敵であり、道路の輸送能力をかなり減らすことになる。しかし、交差は地理的にどうしても生じるものだ。そして、信号機つき十字路は、自由闊達なラウンドアバウトよりも、さばける交通量の上限が大きいのだ。

それでも、交通量の増大とともに、信号機つき十字路もいつか限界に達することがあるだろう。そのときはどうするか? ご存じの方もあろうが、複数の信号を系統的に制御して、流れの遮断を同期化してやるのである。大きな国道沿いに(不幸にも)住んでいる人はこの事実を経験的に知っているはずだ。

さて、私は何を言おうとしているのだろうか? これまで読んでこられた方は、もううすうす気がついておられると思う。生産管理やサプライチェーン・マネジメントにおいて、集中管理と協調分散のいずれが良いかという議論が時々ある。しかし、こうした論点を単なる「あれかこれか」のドグマとして論じても、仕方がないということだ。私は、『質量転化の法則』、あるいは(自分の好きな用語で言えば)『スケールアップの法則』の信奉者である。量にしたがって、システムは質を変えるべきだと信じている。

設計の指示系統は混乱し、工場は材料や仕掛品であふれ、誰もが毎日の仕事に追われて改善どころの騒ぎではないような職場があったら、それはたぶん、車が増えすぎたロータリーなのだ。量の増大に質の変化が追いついていない、いや変化の必要性に気づいていない、ということを示している。そこには、信号機が必要である。信号機があるのに混乱しているのだとしたら、そこには信号管制システムが必要なのだ。

信号機は、マネジメントでなく、コントロール(管制)をするだけだ。プロジェクトとか生産とかを論じると、すぐマネジメントだの人材だのの話になるのが最近の傾向のようだが、私はその前に考えるべき事があると思う。それはコントロールなのだ。

プロジェクト・マネジメントではなく、まずプロジェクト・コントロールを。生産管理ではなく、生産コントロールを! 

Chirstmas メッセージ--今はまだ異文化を語らず (2006/12/21)

Merry Christmas!!

先月、とうとう年齢が大台に乗ってしまった。もう押しも押されもせぬオッサンである。ここまで生き延びられたことは、まさに『神に感謝』というしかない。

短い期間ながらいくつかの国に住み、若干の経験を重ねてきて思うのは、“人間てのは、なんと似ているんだろう”という感想である。アラビアの半島でも、南米の海岸でも、北国の大都会でも、そう感じた。言葉はかすかにしか通じないが、だいたいお互いに思うことは知れている。それはとくに、ビジネスの世界で顕著である。お金に動かされる経済合理性の領域だからかもしれない。寝る前にお祈りする方角は異なっても、利益を前にしてとる行動はよく似ている。

最近、会社の友人と共著でプロジェクト・マネジメントに関する論文を書いた。海外企業との共同プロジェクト遂行におけるリスク要因について考察したもので、学会誌に投稿したから運がよければ掲載されるかもしれない。論考のポイントは、プロジェクトにおける最適な「フォーメーション・デザイン」=スコープの分担計画であり、ジョイント・ベンチャーやコンソーシアムなどにおいて遭遇しがちな典型的問題点を列挙した。

この論文を書き始めたとき二人で決めたのは、「リスク問題を“異文化のせい”で説明するのは絶対やめよう」ということだった。複数企業の共同プロジェクト運営がうまく行かなくなると、相手側企業の『文化が違うから』という言い訳がすぐ出てくる。しかし、自体を冷静に分析してみると、じつは互いに持つ経済的動機の差異が原因となっているケースが殆どなのだ。各社はおのおの自分の動機で行動を決める。それは経済合理性にしたがって生じる問題であり、言語や生活習慣や宗教といった文化の違いで説明するのはかえって本質を隠してしまう--そう、われわれは考えたのだ。

海外との取引が増えるにつれ、我々は気軽に「文化の違い」を口にするようになってきた。だが、文化の違いとはどこから生まれるのか。異文化を理解し安全に共存するにはどうしたらよいのか。そうしたことはエンジニアの領域ではないし、大学で習った覚えもない。そもそも、文化とは何だろうか。

文明とは人間に利便性を与え、文化とは人間にアイデンティティを与えるものである」という説明が一番納得がいくので、私はいつもこの文脈で、文化という言葉を使うようにしている。言語・家族制度・宗教・生活習慣といった文化の要素は、いずれも人間のアイデンティティを支えるものだ。これに対して、産業・通貨・都市基盤・科学技術といったものは、人間に利便性を与えてくれる文明に属している。

いいかえれば、文明とは“抽象化・普遍化・交換可能性”を指向するものである。あらゆるものを通貨と交換可能と考える経済合理性は、文明の論理だ。他方、文化とは“個性化・多様性”を求める。愛はお金じゃ買えないわ、というのが文化の論理だ。

おかしなことに我々企業人は、そのはざまに立っている。企業は経済合理性を追求する存在であり、仕事は誰がやっても同じ成果を得られるようにすべきだ、との方向性がある。従業員は交換可能な存在たるべし、というわけだ。その一方で、仕事は自分の存在証明でもあり、自己のスキルを他者から求められ評価されることが会社員の生きがいでもある。そうした個性を持つ人間たちが、気ままな需要を形づくって市場を動かしていく。

こうした事情を、2千年前にパレスチナを行脚し遊説した賢者は、“人はパンのみに生きるにあらず”と呼んだ。この人はさらに、財貨に囲まれて経済の論理だけに生きる人間について、「彼らが天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がたやすい」と喝破した。われわれは文明の半面だけで生きることはできないのだ。自分の個性を認めたければ、まず他者を理解することからはじめなければならない。そのためには、「異文化だから」という思考停止の色眼鏡を自分から外していく必要がある。

冬至の前のこの季節、地上の少なからぬ人々が、2千年前の賢者の生誕を記念して、平和の祭を祝おうとしている。私もまたその一人でありたい。薄氷のように危うい世界に生きながら、明日への希望を持ち続けるためにも、文化と文明の和解を祈ろうではないか。