考えるヒント(01)

リスクにつける薬 (2003/03/19)


資格はユーザーのためにある (2003/01/21)


誰のための資格? (2003/01/13)


海の向こうで戦争がはじまる (2002/12/05)


「英語」の向こう側 (2002/09/22)


ベネズエラの「痛みを伴う」改革 (2002/5/06)


「不況」の根源的問題(2002/3/18)


ぼくらに英語はわからない(2002/1/28)


カウンターベイリング・パワー (2001/10/13)


ANAに乗るおじさんの日記 (2001/7/23)


特別な我が社(2001/2/03)


e爺なる人々(2001/1/10)

リスクにつける薬 (2003/03/19)

暮色の深まるヒューストンのショッピング・センター。夕食を取ろうと立ち寄った、その駐車場で、私は反対車線から来る車に気づかずに左折し、接触事故を起こしてしまった。1997年の秋のことだ。私のレンタカーと相手の車の後部ドアが破損したが、幸い相手は怪我もなく無事だった(その証拠に、すぐさま車を降りて私に罵りかかってきた)。原因は明らかに私の前方不注意だ。事故検証に来た警官も、私にそういった。


ところで、あなたはレンタカー契約書の裏面に書き込まれた、虫眼鏡サイズの細かい文字の文章を必死に読んだ経験があるだろうか? その夜の私はそうだった。レンタカー会社に事故を報告すると、彼らは、私との契約には賠償責任保険はついていなかった、と説明したのだ。“Full
coverage”といって借りたじゃないか! と抗議しても、申し訳ないが契約書を読め、という態度だ。


そして、私はそこで、リスク管理の最初の原則を学んだのだ。


教訓1:外国で取り引きするときは、契約書を必ず読め


私は知らなかったのだが、じつはその当時、保険会社とテキサス州政府は係争状態にあった。料率が高すぎると言う批判に対して保険会社たちが耳を貸さないため、州政府は半年間、レンタカーの自賠責保険の引き受けを停止させたのだ。そんなこととは露知らぬ外国人の私は、その保険の空白状態に、ものの見事に落ち込んでしまったわけだった。


私のコーポレート・カードの旅行者保険も、自動車賠償責任だけは除外されていた。アメリカの賠償責任は天井知らずだから、そんなものを組み入れるほど保険会社は甘くない。そもそも損害保険は見え透いた危険に対してのみ可能なのであって、大地震とか、戦争とか、異常気象とか、本当に大きなリスクに対しては引き受けてくれないのだ。


教訓2:保険会社が、あなたの必要とするときに、あなたを守ってくれるとは限らない


このときは、私の勤務先の米国子会社がかけていた保険で、からくも救われた。物損で約20万円の示談額が提示されたという報告を受けて、私は安心してその事件を忘れることができた。


ところが、この事件にはまだ続きがある。ちょうどその2年後、横浜の自宅に、テキサスの裁判所から分厚い封書が郵便で届いた。開けてみると、YOU
HAVE BEEN SUEDと書かれている。書状は、私に対して、事故の後遺症による心身両面の損害と収入低下を保証せよという、1億円の賠償請求の訴状であった。事故の相手方は、保険会社の提示額を不満とし、時効になる2年間が切れる直前に、私と勤務先米国子会社を相手取って、訴訟を起こしてきたのだ。


それからの数ヶ月間は、まさに悪夢だった。米国側で弁護士を捜さねばならない。裁判所からは召喚状が来ている。出頭するかわりに、英文で宣誓供述書を作成し、日本の公証人にサインをもらう。驚いたことに、外国の裁判で有効な供述書とするためには、霞ヶ関の法務省まで判子をもらいに行かなければならないのだ。そもそも、夕食に立ち寄ったときの事故は、業務上の行為として、会社は連帯で責任を負ってくれるのだろうか・・


残念ながら、米国は訴訟天国である。たしかに、事故を起こしたすぐ後に、相手方の名前を子会社の人に告げると、“それに似た名前のうるさい弁護士を聞いたことがあるけれど、まさか親戚じゃないだろうねえ、もしそうなら、かなり面倒なことになる”と言っていたのだ。しかも、彼らは金のとれそうなところを狙い撃ちにすることを心得ている。


この訴訟にしても、私の勤務先と連名にしたのは、実はその方が賠償額をたくさん払う能力があるからなのだ。本当に責任があるかどうかは問題ではなく、事象のほんの一端でも関わっていれば、連名で訴えるに限る。これを、米国では、Deep
Pocket Theoryという。




教訓3:大きな組織に“よらば大樹の陰”で寄り添っているせいで、逆に狙われることがある


この裁判は、結局1年半かかって終結した。相手側は決して和解に応じようとはしなかった。しかし、事故が不調の原因であるという医学的証拠も、相手は提出できなかった。判決は100数十万円の賠償である。この金額は、弁護士費用ともども、子会社の保険がカバーした。


米国には、他人を恐喝することが金持ちになる早道だ、と考えている人々が一定数いる。全部の米国人がそうだ、などと言うつもりはむろんない。私だって、信頼すべき、立派な米国の友人が、十指に余るほどいる(私の一番の親友は、退役海軍大佐だ)。


しかし、この事件を境に、私の米国観は変わってしまった。いや、たぶん、それ以前から少しずつ変わりはじめていたのだろう。私はかつてほど単純に、アメリカのオープンで実利的で率直なところが好きになれなくなってきた。そのかわり、強欲で、理不尽で、傲慢で、相手が弱いと見れば徹底的にエゴを通そうとする姿ばかりが目に付くようになった。そして、世の中は、ラフで、殺伐とした、リスクの多い場所として自分の前に広がっているのだった。


この話は、ここで終わりにしてもいい。リスクに対処することが下手な1コンサルタントの、繰り言めいた教訓話である。しかし、教訓1に関して言えば、あなたは、たとえばこの条約を読んだことがおありだろうか。あなたの住んでいる社会の保険であるはずの、この短い契約には、当事者Aを当事者Bが必ず守るなどとは一言も約束していないことにお気づきだろうか。だとしたら、われわれは教訓2にも当てはまる状況にならないだろうか。


そして、昨日の3月18日、国連安保理の交渉が決裂して、世界が戦争に近づいたとき、米国をはじめ諸国の株式市場が上がったことは、もう一つだけ教訓として覚えておくよう、蛇足ながらつけ加えたい。資本市場に投資する彼らは、不確実な状況にいるよりも、リスク・ポジションが明確になる異常事態の方が、より有難いと考えたのだ。だから、リスク・マネジメントに対する最大の教訓は、こうなる:


教訓4:資本家は不確実性よりも戦争のリスクを好む。


資格はユーザーのためにある
(2003/01/21)

資格認定制度というのは、サービス業の品質保証のために存在しているはずだ、と前回書いた。そして、品質保証であるからには、何らかの研修・更新制度が組み込まれていなければならない、と。


今の情報処理技術者制度には、これが欠けている。たいへん困った事だ。私は、「プロジェクトマネージャ合格完全対策」などの受験参考書を編集・執筆している身だ。こうした資格を広めたい立場にいる者として、非常に残念に思っている。それでも毎年、多くの受験者があるが、それはあいにく、この資格が社会で通用しているからではない。企業のITエンジニア教育の一種の代替物として機能しているからだ。


しかし、試験で得られる情報処理の資格というのは、勉強の結果を示すに過ぎない。まあ、言ってみれば「漢字検定」と同類だ。まして、技術革新の激しいITの世界で、研修・更新制度がなければ、それは品質保証の役にも立たない。お勉強が上手でした、ということの証明でしかないわけで、ほとんど大学の学歴のようなものだ。だとしたら、こんな資格を得ても、それが仕事を確保する助けになると期待する方がおかしいといえるだろう。


ところで、仕事の確保という点からみると、資格制度には2種類あることが分かる。資格を持っていなければ、業務に従事できないと法律で定められたもの(例:運転免許・医師・弁護士・会計士など)と、そうした強制力がないものの2種類である。情報処理技術者や中小企業診断士は後者の例である。


アドバイザリーおよび代行業の性格を持っている仕事は、もともと、法的な強制になじまない。当事者本人が自己責任で行える範囲であれば、第三者に頼る必要がないからだ。これは、医師などの仕事とは本質的にちがう。診断・処置・手術・投薬といった医療行為は、患者の代行ではない。本人ができないことをやっている。だからとうぜん資格は必須だろう。


つまり、一般に「コンサルタント資格」は、ユーザ(需要者)側の支持がなければ成立しないのである。資格とは誰のためのものか? それは、そのサービスを利用するユーザーのためのものなのだ。


税理士や不動産鑑定士などは、この需要者の支持があるから成立している。こうした固有技術や特殊知識を必要とする仕事は、法的規制がゆるくても、需要と供給の関係がバランスしている限り、資格認定の意義がある。


そのことは、アメリカでの資格のことを考えてみればよくわかる。国土が広く、人の流動性が高い移民の国アメリカでは、ビジネスで接触する相手は基本的に「どこの馬の骨」かわからないことが前提だ。だから各種の専門資格が、個人の信頼性の裏書きになるのである(企業の名刺で仕事ができる、どこかの社会とは大違いだ)。


こうしたアメリカのような社会では、資格が実質を保証しているかどうかを、ユーザー側が常に厳しくチェックしている。資格制度はサービスの品質保証だと書いたが、逆に、資格を持つ人たちの仕事の質によって、資格自体の意義が計られることを忘れてはならない。資格を持っている人間がまともな仕事をしなければ、その個人のみならず、資格自体の信頼性に疑問符がつくのだ。資格制度を支えるのは、決して『お上が与えた権威』などではなく、ユーザーの評価である。


日本の資格制度をめぐる議論では、しばしばこの点が忘れられているように思う。多くの人が、医師や弁護士などのような、ギルドにもとづく資格制度のイメージから、のがれ切れていない。そして、需要者側ではなく、供給者側の都合でものを考えたがる。行政も、あいかわらずサプライサイドに立った古い発想で、供給者の後押し政策ばかりを進める傾向がある。しかし、需要の無いところに、官が資格制度の権威付けをして供給をつくろう(儲けよう)とするのは愚かだ。資格周辺の教育市場で儲けようと鵜の目鷹の目でねらっている連中に格好の機会を提供するだけになってしまうだろう。


最近創設された「ITコーディネータ」は、いちおう研修・更新制度はそなえている。しかし、それが実需に根ざして成立した資格であるのか、それとも需要を創造しようとして作り出されたものなのか、議論は分かれるだろう。むろん、良質の供給が需要を作り出すという場合だってある。しかし、そのためには、その資格を得た人間が、ひとしく品質の良い仕事をする必要がある。それが問われるのは、これからだ。


何もかも不足しているこの日本で、資格制度だけは有り余っている。もう、思想やパラダイムのない資格はいらない。


誰のための資格? (2003/01/13)

私は中小企業診断士だ。会社員としての名刺にも、そう書いている。中小企業診断士は今のところ一応、経営コンサルティングにかんする、唯一の国家認定資格である。


むろん、だからといって、中小企業診断士でなければ経営コンサルタントを名乗れない、とか、診断士以外がコンサルティングをやるのはおかしい、などという人はいない。資格は資格、仕事は仕事。みなそう考えている。


ついでにいうと、私は「情報処理プロジェクトマネージャ」という資格も持っている。しかし、こちらの方は名刺には刷っていない。この資格を書くことは、ちょっとだけ心理的抵抗が、私にはある。ちなみに、この資格はかつての「特種情報処理技術者」の後継資格だ。「特種」を名刺の肩書きに使っていた人はたくさんいたし、同等の資格であるシステム・アナリストやアプリケーション・エンジニアを名刺に書く人も少なくないだろう。なのに、なぜプロマネだけは使いにくいのか。


とりあえずの理由としては、『プロマネは組織内の役割名称であるから』と答えることになる。現実組織ではプロマネでない人間が、名刺に資格とはいえプロマネと書いたら、もらった方は混乱する。もしも、この資格の名称が「プロジェクト・エンジニア」だったら、私はもっと抵抗感なく名刺に使えただろう。


“プロジェクト・エンジニアって、いったい何のことだ?”という疑問については、いずれ別の機会に説明することとして、いまは飛ばしておく。いま問題にしたいのは、資格が仕事内容を保証しないのだとしたら、専門家の資格認定制度は誰のためにあるのだろうか? という問題だ。いや、もっと露骨に言うならば、最近のIT
Cordinator
P2M(Project & Program Management)といった資格は本当に役にたつのか? という疑問だ。


そもそも、資格認定制度というのは、サービス業の品質保証のために存在していると考えられる。とくに、サービス業の中でも、生命や物損の危険のある作業は、品質要求がきびしい。これは運転免許制度を考えるとよくわかるだろう。車の運転は安全性を要求される。したがって訓練と認定が必要とされる。資格がなければ、その行為はできない。


ところで、品質を維持する目的ならば、そこにはかならず研修と更新制度があるはずである(運転免許制度のように)。そうでなければ、サービス品質の証明にはならないからだ。


こう考えてみると、世の中には奇妙な資格、しかも社会的には非常に重要な資格があることがわかるだろう。それは医師と弁護士だ。どちらも人の生命と財産にかかわる、重要な資格である。厳格で難しい試験をパスしなければならない。資格がなければ、これら業務にたずさわることは法的に許されない。そして資格はほとんどの場合、高収入に直結する。


しかし、この両者とも、更新制度が存在しない。一度資格を取ってしまうと、半永久的に維持していくことができる。これでどうやってサービスの品質を保証するのか?


じつをいうと、この二つの資格は、典型的にギルドとしての資格なのである。上記の品質保証の建前とはうらはらに、実は日本の資格制度は、ギルドを特許し保護するために成立しているものが多い。


ギルドとは何か。ギルドとは一種の組合であって、そこに参加しない者はその仕事に就くことを許されない。医師会や弁護士会はそうした、職業の共通利益を目的とする団体としての意味を持っている。弁護士会をはずれると、資格があっても活動できない。いいかえると、ギルドは供給を制限することで、単価を維持(品質を、ではなく)しているわけである。もっとも、ふつうギルドは徒弟制度をしいているため、研修に対してもある程度の役割は担っている。ただ、研修は法制度上で規定されておらず、そのギルド団体にまかされてしまっているのだ。


(この項つづく




海の向こうで戦争がはじまる
(2002/12/05)

ロジスティクスという言葉で、ひとが連想するものはさまざまだろう。大規模物流センター、倉庫に積み上がった物資の山、工場の入荷ライン、生産計画のガントチャート、行き交う大型トラック、等々。


しかし、私の場合、その言葉を聞くとすぐに、一枚の船の設計図が目の前に浮かび上がってくる。大きくて精緻な船の中の、機能配置図だ。それはカリフォルニアの医療コンサルタント・オフィスの壁に、ピンで止めてあった。別件でそこを訪れた私の質問に対し、相手の一人は、「それは病院船の基本設計図だ」と答えた。ペルシャ湾に派遣される米国海軍の一部だ、と。1991年、湾岸戦争の起こった年のことだ。


病院船。うかつにも私は、それまでそういうものが存在することも、それが海軍の艦隊の一部をなしていることも知らなかった。無論、ちょっと考えてみれば分かることだ。兵隊を前線に送るとき、医薬品や医療器具も当然、武器弾薬などの補給物資と一緒に送られなければならないことを。それが『兵站』の、ロジスティクスの必須の一部である、ということを(「ロジスティクスと兵站の間」参照)。


とうぜん、そのような『病院船』の基本設計から発注、竣工までどれほどの時間がかかるのかも容易に想像がついた。海の向こうで戦争を始めるには、病院船がいる。その調達は、兵站のスケジューリングの重要な対象だ。そして、そのとき初めて、彼らがどれほど周到に時間をかけてあの戦争を用意していたかを知ったのだ。


米国を旅したことのある者は、その広大さに強く印象づけられる。端から端まで、昼に夜を次いでどんなに急いで車を飛ばしても、4日はかかる。開拓時代の馬車では言うに及ばず、だ。私は今この文章を出張先であるパリのホテルで書いているが、ヨーロッパ半島は広いとはいえ、つくづく凋密な場所だ。米国の空漠さは、こことは比べものにならない。だから補給はつねに米国人の主要な関心事だった。彼らの軍隊組織や行動規範はイギリスやオランダの海軍から学んで受け継いだ要素が多いが、兵站の計画性に関しては米国がもっとも徹底している。


その彼らが、周到に準備した湾岸戦争で、ねらったのは何だったか。私はつい最近、あるスリランカ人のIT技術者と話したが、彼は昔イラクで働いた経験があった。あそこは美しい国だ、と彼は言う。そのイラクで彼が従事した、当時世界最大規模を誇った肥料プラントは、“化学兵器工場の疑いがある”という理由で、米軍により爆撃で完全に破壊された。そのTV映像を国外で見ながら、彼は自分の仕事の成果が灰燼に帰する様を悲痛な思いで眺めたという。


無論、米国の言い分は正しかったのかもしれない。だが、似たような経験をしたのは彼ばかりではない。破壊されたクウェートの製油所は、われわれ日本人が設計し建設したプラントだった(あえて言うが、日揮が、だ)。それが戦争でこわされたあと、大規模補修工事を受注したのは全てアメリカの会社だった。どこをどう直せばいいのか、一番よく知っているのは我々日本企業だった。しかし復興需要をエンジョイしたのも、そのあとの石油利権を独占したのも、軍隊を派遣した米英なのだ。しかし、その金は誰のふところから出たものだったか?


「日本の失われた10年」、という言葉がある。その10年の始まりはいつか。皆、それは地価が下り坂になりはじめた90年頃だと思っているらしい。私の見方は、違う。それは、日本政府が米国の言うなりに巨額の金を払って、当事者としての政策も見識もないことが世界中に暴露された湾岸戦争の時からなのだ。


湾岸戦争とは何だったのか。それを皆、まじめに考えたことがあるだろうか。湾岸戦争が何だったのか、それが日本の知的状況の中でいかに総括されているか、知りたかったらYahoo!やAmazon.comにいって調べてみるといい。恐ろしいほど貧寒な状況が分かる。見つかるのは、9割がた、軍事オタクのための情報だ。はっきり言うが、クズばかりだ。


海の向こうで再び戦争が始まるかもしれない。戦争をしたがっている連中が、両側にいるからだ。ここヨーロッパでは皆すでにかなり緊張している。しかし、有事のとき、20兆円を超える戦費の支出が予想されているときに、日本にいくらのツケが回されてくるのか、日本人はなぜ考えないのだろうか? 日本が曲がりなりにもよって立っている製造業は、ほとんどが平和の配当で食っている業種ばかりだ。それがどれだけの打撃を受けるのか、だとしたらどう防ぐべきなのか、他の誰が考えてくれるのだろう? 形ばかりの戦艦派遣の論議を、うれしがってやっている時だろうか?


ストラテジーだとか、リスク・マネジメントだとか、空疎なカタカナ文字を並べる暇があったら、本当にこの先について真剣に考えた方がいい。この国の戦略を、では無論ない。私は政治家ではないし、あなたも(たぶん)政治家ではないだろう。考えるべきは、自分の自由度と責任の範囲で選べること、つまり自分の仕事のことだ。もし戦争が起こったら、この先どうなるのか。その範囲と期間によって、どう影響が広がるのか。自社の製品にとって市場の需要はどうなるか。原料資材が入手困難になったり、燃料費が高騰したらどうするのか。


考えるべき課題はたくさんある。不確定要素も山ほどだ。無論、何も起こらないかもしれないし、何も起こらぬ事を私は強く望んでいる。ただ、ひとつだけ確かなのは、どれほど困っても、我々の政府はほとんど何の助けもしてくれないだろう、という事だ。自分たちで考えなければ、誰もかわりに考えてなどくれないのだ。




「英語」の向こう側 (2002/09/22)

先日、あるメーカーの方から、「エンジニアリング会社では英語能力の問題にどう取り組んでいるのか」という質問を頂戴した。指示と情報のやりとりだけで品質を管理しなければならないエンジニアリング業界においては、品質問題は技術者の教育と切り離すことができない、という話題に関連してでてきた質問だった。


日本のメーカーは、製造を海外に委託したり、工場を別会社化したりして、しだいにファブレス化の道を歩んでいる。必然的に海外とのやりとりが多くなって、外国語のコミュニケーションの問題に直面しているのだろう。以前、「ぼくらに英語はわからない」にも書いたとおり、便宜上の道具として英語が幅をきかせていることは否定できない事実だ。


私の勤務先自体では、TOEICの試験制度を利用して、研修の奨励や人事評価に結びつけている。TOEICがある点数以上になるまでは毎年の受験が義務づけられるし、また中間管理職のある等級に昇格するための条件にもTOEICの点数が用いられる。実際のところ国内の仕事しかしていない人にまで、この条件を押しつけるのは酷ではないかと個人的には思うのだが、会社の人事ルールというのは例外をあまりつくりたがらない。


しかし、外国人とのコミュニケーションで本当に大事なことは、TOEICの試験ではかれる能力よりも、一つ先の次元に横たわっている、と私は思う。それは、異文化への理解という能力だ--そんな風に、その方には答えた。


これだけでは少しわかりにくいと思うので、例をあげよう。数年前のことだが、米国のオイル・メジャーとのプロジェクトが始まったばかりのことだった。ある基本設計に関する技術的議論の中で、我々の側のだれかが、"Yes,
but it is difficult."と答えた。すると、客先の米国人の一人が、こう言うのだ:「ぼくは前のプロジェクトでも日本企業と仕事をしたから判るんだが、日本人が"it
is difficult"というときは、『それは出来ません』という意味なんだよな。」


打合はおかげで暗礁に乗り上げることなく、先に進むことが出来た。客先の米国人の一人が、異文化を理解する能力を、少しばかり持ち合わせていてくれたからだ。しかし、逆にいうならば、そういうシチュエーションでは、わが同僚は

"No. It is impossible."

と言うべきだったのだ。


NOと言えない日本、じゃないけれど、日本人は"Yes but people"だ。つねに"Yes,
but…"と言ってしまう。日本のコミュニケーションのルールでは、何かを頼まれて「いえ、そんなことは出来ません」というと角が立ってしまう。「はあ、でもそれはちょっと難しいですね・・」と言って、相手の察しを待つ。しかし、英米人の世界は理がまさっている。Yesはyes、noはnoで、先に進んでいく。対話で感情的になってはいけないのだし、それで気を悪くするからうんぬんで、論理の道筋を曲げてはいけない、と彼らは考えている。


残念ながら、こうした事柄に対する理解は、かならずしもTOEICだけではうまく計れない。それに、外人相手はいつも同じとは限らないのだ。たとえば、フランス人と議論するときには、これではうまくない。"No,
but you can work around this way.."と説明する方がよい。フランス人は、"no
but people"だからだ。彼らは、『相手にも感情がある』ということを常に前提して会話をしている。おまけにラテン系の文化では、お互いのプライドを尊重し、相手のメンツをつぶさぬよう気をつけるからだ。


英語は英会話学校で学ぶことができる。英語は道具としてトレーニングで身につけることができるはずだ、と多くの人が信じている。それに反対はしない。しかし、他者の文化を理解し尊重することの方が、もっと重要なのだ。その相手が欧米であろうとアジアであろうと同じことだ。あいにく、エンジニアの教育の中には、そうした『異文化理解』の訓練が全く欠けている。したがって、自分の中に、そうした欠落があることを意識することが、まず外国人とのコミュニケーション能力を向上させる、最も重要な第一歩なのだ。


ベネズエラの「痛みを伴う」改革
(2002/5/06)

空港からカラカスの市街に入る道路は、山の稜線の切れ目づたいに続く、きびしい坂道だ。この国の首都は標高1千メートルの高地に位置するため、ほぼ赤道直下にもかかわらず、夏でもしのぎやすい気候に恵まれている。市街の中心部には、南米には珍しい近代的な高層ビルが美しく並ぶ。


しかし、カラカスを訪れた者がひとたび市の外周、盆地をとりかこむ山並みに目をやると、急勾配の斜面にへばりつくような危うい角度で、粗末な家がびっしりと続いていることに、いやでも気づく。中央部の平坦でリッチな近代性と、周縁部の危険な貧困が、これほど見事な対照をなしている都市は、他にはない。整然と混沌、富裕と貧困、この二極分化がベネズエラという国のメイン・テーマだ。


3週間ほど前にベネズエラを震撼させた政変劇は、このテーマに耳障りな短調の響きをつけ加えた。大統領官邸をとりまく十万人強のデモ隊と守備隊との間に起こった銃撃戦の流血のあとで、ウゴ・チャベス大統領は一部の軍人たちに追放される形で官邸を脱出した。間髪を入れずに、ベネズエラ最大の企業グループを率いるペドロ・カルモーナが臨時大統領に就任する。彼はこの国の基幹である石油産業をマヒさせた国営石油会社のストライキ中止を宣言し、経済秩序は回復に向かうかのごとく見えた。米国はこの事態を歓迎した・・


しかしカルモーナの暫定政権は、多くの軍隊トップの離反により、わずか2日間で頓挫する。3日目にはチャベスが不死鳥のようによみがえり、再び大統領復帰を宣言して首都カラカスに舞い戻る。ただし、彼は報復よりも、反対派との対話を強める路線を打ち出し、以前よりも軟化した態度を見せ始めた。


・・・こうしたニュースをみて、「やれやれ、また南米お得意の軍事クーデター劇か」と思った日本人も多かっただろう。「地球のちょうど裏側の小国で、どんなどたばたが起ころうと、この大国日本のきびしい現実には露ほどの影響もないだろうよ・・」と。


とんでもない誤解だ。このニュースを見てそう考えた諸賢は、いや、ニュースに関心も持たなかった諸兄は、みな自分の国際感覚を大いに再検討した方がいい。影響は大ありなのである。だから米国は即座に反応したのだ。


中南米というと、すぐ軍事独裁政権と連想するのは正しくない。ベネズエラは過去何十年もの間、2大政党による民主制を維持してきた--表面的には。しかし、2大政党制は(世界中どこでもそうだが)寡頭談合政治と利権・腐敗の温床になりがちだ。そして、この国では事実そう機能してきた。ベネズエラは実質的には、石油の利権と深く結びついた経済界の大ボスたちと、強欲な手配師である労働組合のボスたちが手を組んで支配し、それを保守的なマス・メディアと教会指導者たちがバックアップするという形で、富裕と貧困の二極分化を固定しつづけてきたのだ。


そもそもベネズエラは世界第4位の産油国だ。その富のほとんどを石油に頼っている(輸出代金の8割と国家歳入の半分が石油から来る)。最大のお得意さまは米国である。そしてまた、ベネズエラはOPECの協定破りの常習犯としても知られている。OPECがいかに減産協定を結んでも、ベネズエラはどこ吹く風と、大量生産をつづけては米国に供給してきた。米国のエネルギー安全保障政策上、きわめてありがたい存在である。


その国で3年前に大統領選挙があり、かつてクーデターを企んで失敗した軍人上がりのチャベスが、貧しい層の圧倒的な支持を得て就任した。8割以上の国民支持率、既存の政党にとらわれぬドラスティックな改革の公約--どこかで聞いたことのあるドラマではないか。


1998年夏のロシアの経済危機は、秋にはブラジルの通貨危機を誘発し、その余波が中南米全土をおそい、さらに東南アジアの経済危機へと飛び火した。ベネズエラにかなりの投資資産を抱えている米国は、経済危機と政治の不安定が、この国の資産価値を暴落させるのではないかと固唾を飲んで見守っていたはずである。


その世界規模の経済連鎖の危うい結節点に、チャベス大統領が立ったわけだ。かれは憲法の改正、土地改革(政府の遊休地の民間払い下げ)、独立王国だった国営石油会社の経営への影響力行使、と矢継ぎ早に改革政策を繰り出した。


2年前には原油価格が高騰したが、その理由としては、チャベスがOPECの協定をはっきりと順守したことが第一にあげられる。これによって彼は、もはやベネズエラが米国の都合通りには動かないことを宣言したのである。


かれの大統領就任式には数多くの国から外交官達が出席したが、アメリカはなんとエネルギー省の長官を派遣した。このことからも、合衆国がベネズエラのことをどう思っているか(つまり裏庭の石油の井戸元としか見ていないという事が)よくわかるだろう。


そして、米国の傀儡となることを拒否したチャベスを、力によって追放する動きを米国は支持した。彼らが他国の民主主義と自国の利益のどちらを優先するのか、いまや誰の目にも明らかだ。私自身は、チャベスの改革政策がすべて正しいものかどうか、はっきりとはわからない。しかしいずれにせよ、それはベネズエラの国民が判断して決めるべきことだ。


チャベスのめざした改革は、石油の利権に守られた経営者や、特権的な労働者たちとその組合に「痛みを強いる」ものであった。今回のストライキが、この層によって計画され実行されたことを見逃してはならない。ベネズエラ社会の中産階級はいろいろな形で利権の網の目につながれている。彼らをチャベスから切り離して改革政策の抵抗勢力にすることが、ストの最大のねらいであった。


そう、それはたしかに痛みを強いるものだったろう。しかし、その痛みとは、国民の8割を占める貧困層が長年身代わりになって耐えてきたものかもしれない。


「改革は痛みを伴うものだ」という言葉が、一人歩きしている。なるほど、たしかに小さな企業組織においてさえ、本当の改革はかなりの抵抗と危険を伴う。たんなる「改善」が達成感と自己満足をもたらすのに比べて、なんという違いだろう。


しかし、改革の「痛み」を語るときは、その痛みの質について問わなければ嘘だ。誰が、どういうゴールのために、どれだけの期間に、どのような種類の痛みを担わなければならないのか。それは骨折や肉離れの痛みなのか、それとも使わなかった筋肉に血が初めて通う痛みなのか。身を切られる痛みなのか、手術のメスの痛みなのか。


公正で合目的性のある、一時的な痛みには、人間はなんとか取り組む気になる。しかし、右を向いても左を見ても、働くこと一切合切に利権の網の目がからみついているような社会では、その痛みがどんな種類の痛みなのか、よく注意してみていかなければならないのである。




「不況」の根源的問題
(2002/3/18)

ヨーロッパに暮らしているおかげで、ときどき日本に関する質問を受ける。好奇心まじりの質問もあるが、文化や日常生活に関することならば、たいがいはなんとか答えられる。


しかし、一番答えに窮する質問、かつヨーロッパ人が今もっとも関心を寄せている質問が一つある。それは、『日本はなぜこんなにひどい不況に落ち込んだままでいるのか?』という問いだ。何が原因でこんなひどいことになったのか、と。


これは答えるのがむずかしい。この問いをめぐって多くの経済学者が論争している。あるものは不良債権が問題だと言い、あるいは財政政策の緊縮が失敗だったと主張し、あるいは通貨供給に不備があった、いや株価対策が大事だ、そもそも土地の値段が下がりすぎたのが原因だ、等々と百家争鳴も甚だしい。


このような中で、経済学の素人が言える答えはたった一つだ。それは、「決して単一の原因からこの状況が生まれたわけではないだろう」ということだ。なぜか?


それは、一つの社会の経済、一国の経済は、本来複数の要因が相互に連関しあった複雑なシステムの一部を構成しているはずだと考えるからだ。政治・社会・文化・教育・インフラ・・全てのことがお互いにからみ合い、原因であると同時に結果でもある連鎖をなしていると信じるからだ。これだけの巨大なシステムが、10年がかりである一つの状態に向かっているとしたら、それは単一の原因であるはずはない。


換金可能かつ交換可能な資産(株や土地はその典型だ)には、「市場」が形成される。市場では、そのもの自体が持つ使用価値とは離れた、期待ないし思惑による「相場」が生まれる。相場は結局、投資者の主観によって動かされる。あらゆる相場が全体として下降の方向にある状態を不況と呼ぶのである。


では、好況時に資産の相場の裏書きをしていたのは何だろうか。それは、企業・農家・商店等を含む産業全体が、収益を生み出しつづけることが可能である、という「信用」であった。国際競争力の高さから生まれる収益力への信用。その信用が失われている状態が「不況」である。


逆にいいかえるならば、不況の中心的問題とは、日本の企業が全体として競争力を失っていることにある


しかし、まちがえないでほしい。これは問題の中核を解りやすく言い替えただけであって、けっして原因を示しているのではない。

 「先生、昨日から頭が痛いんです。」

 「どれどれ。ははあ、これは頭痛ですね・・・」

こんな言いかえは診断ではないし、処方箋も書けない。日本の企業が全体として競争力を失った原因、それは決して単一の原因から導き出されるものではないし、そういう単純化した議論には落とし穴があるはずだ。


それでも、もし何か一つをやり玉に挙げなければならないとしたら、私は「考える能力」の欠如をあげるしかない。真の思考能力とは、事実をおそれずに客観的に直視する能力、そして事実による検証の刃によって、自らの論理の枠組みを多角的に問い直す能力である。その欠如はたとえば、失礼ながら上に述べたエコノミスト諸子百家の論争に、典型的にあらわれている。彼らは「不況をどう解決するか」という同じ問いの枠組みから出発するばかりで、客観的な仮説検証のプロセスが欠けている。いや、それだけでなく、根元的な「不況論」が欠けている。


そもそも、「不況」とはそんなに悪いことなのだろうか。え? お前も職を失ってみれば分かるだろうって? なるほど。自分を取りまくミクロ経済的には悪いと実感をもって言えるだろう。しかし、そもそも、不況とは何なのか。どういう状況をさして不況と呼ぶのか。好況時とはマクロ経済のプロセスが、どこで違うのか? インフレの不都合と不況の困惑はどちらがひどいのか。そもそも経済循環の存在は悪と言えるのか--?


今のわれわれ日本人に最も欠けているのは、「そもそも論」なのではないか。「そもそも」から出発して、根本を考えつづける作業こそ、その日暮らしとその場凌ぎの連続の日常から抜け出す唯一の道なのだ。


ミクロな状況判断をつみ重ねても、決してマクロな方向性を定めることはできない。戦略の不在を戦術の工夫で切りぬけることなど、そもそも不可能なのだから。




ぼくらに英語はわからない
(2002/1/28)

新通貨ユーロが導入されてちょうど4週間たった。ここパリで見ている限り、すでに買い物や取引は95%以上がユーロで行われている。今や各人が、手元に残ったフラン紙幣やサンチーム硬貨をどうやって使い切ってしまうべきか、と考えなければならない段階に来た。4週間でここまで来るとは予想外の速さだ。この国の人たちの効率から考えるならば、じつに上出来の首尾といえるだろう。


ユーロの紙幣は各国共通だが、硬貨は各国でそれぞれ裏側の刻印が違う。ためしに財布の中のコインを調べてみると、すでに違う国の硬貨がたまに混ざっていることがある。この流通の速度も驚くべき速さだ。むろん、パリが多数の旅行者や観光客の行き交う大都市であることを考えれば、当然かもしれないが。


ところで、私がこの街に住んでかれこれ8ヶ月になる。しかし、いまだにちっともフランス語がうまくならない。


理由はもちろん分かり切っている。この歳になってから、新たな外国語を覚えようというのがどだい無理なのだ。朝、覚えたはずのことが、夜になると頭からきれいさっぱり消え去っている。朝に真理を学べば、夕べに死すとも可成り、という孔子の教訓の逆である。


しかし、もう一つ、自分用の言い訳が、ないでもない。それは、仕事は全部英語でやっているから、というものだ。


私が関わっている電子商取引サイトの開発プロジェクトは、日揮とフランス企業のジョイント・ベンチャーである。しかしフランス企業といっても、すでに欧州規模で多国籍企業化しているから、チームのメンバーにはドイツ人もイギリス人もイタリア人も米国人もいる。共通言語は(どうしても)英語になる。メールも会議も文書もすべて英語である。


我々が英語を使っているのは、しかし、望んでのことではない。妥協の産物である。英語以外しゃべれない米国人をのぞけば、英語で仕事ができて嬉しい、などと考えている人間は一人だっていやしない。


外国語というのは、つねに使い手にとってもどかしいものだ。外国語は、勉強すればするほど、ネイティブとの気の遠くなるような落差を認識せざるを得ないように、できているものらしい。なぜなら、言語はつねにその背後に、文化の総体を抱えているからだ。Projectという英語は、仏語のProjet、伊語のProjetto、スペイン語のProyecto、そして日本語の企画ないしプロジェクトとは、一致しない。それぞれの言語の中にある「計画・企画・投企」の概念が、少しずつだがみな異なっているからである。


通貨は経済の道具であり、経済は人間の利便に供するもの、つまり文明の領域に属している。ところが、言語は文明の運転だけにつかうものではない。人にアイデンティティを与えるよりどころ、すなわち文化の領域に本来属している。

そして、文明にとっては共通化と規模の拡大は価値をもたらすが、不思議なことに文化は多様性によって豊かになっていくのである。


欧州は通貨を統合したことで、かえって文化の多様性をどう確保して行くべきなのかという難しい問題をあらわにしたと言っていい。僕らにしょせん英語はわからないのだ。いずれ世界中の人間が英語を話せるようになれば、平和で豊かな社会がやってくるはずだ、と夢見るおめでたい人間は、米国や(なぜか)日本にはときどきいる。しかし、私の知るヨーロッパ人の中には、ただの一人もいないのだ。




カウンターベイリング・パワー

市場をめぐる動力学の世界では、ある企業なり商品の力が強くなりすぎて市場をほとんど席巻し支配してしまうような状況が近づくと、それに対抗する勢力が急にあらわれてバランスを平衡にもどそうとするような動きが働くことがしばしばある。これをマーケティング用語で「カウンターベイリング・パワー」という。


カウンターベイリング・パワーとは対抗勢力を助けるために働く自発的な力である。例を取ると分かりやすいかもしれない。現在PCサーバのOSの世界ではMicrosoftのWindows
NT/2000がかなりの市場を占めている。かつては一世を風靡したNetWareはまったく元気がなくなってしまった。このままいくとMicrosoftによる寡占は時間の問題と思えた。しかし、ここで彗星のごとく登場したのがフリーのunix系OS、linuxである。


いまやIBMをはじめとして多くの有力メーカーがlinuxを自社の製品ラインにフィットさせようと努力している。linuxがみずからの力だけでWindows
NTに対決しているのではないことに注意してほしい(現実問題としてlinuxは1社のみの商品ではないのでそのようなことは不可能である)。そうではなく、Microsoftに対抗しようとする勢力がこぞってlinuxをかついでいるのが実態である。そもそもフリーのunix自体は決して新しいものではない。これがWindows対抗馬として有力になれたのは、支持者が多数付きはじめたからである。


つまり、カウンターベイリング・パワーというのは、強大で独占的な勢力の存在に不満を感じ、なんとかして対抗したいと考える人々の存在に依存している。巨人ゴリアテに単身向かったダビデのような英雄的行為のように一見みえたとしても、実は巨人の包囲網をつくる友軍の存在がなくてはならないのである。


少なくともITの世界では、商品にはつねに寡占化を加速する傾向がある。これはロック・イン現象やネットワーク外部性などの性質から考えても非常に明らかなことだ(「ITって、何?」第17回参照のこと)。それでは、なぜカウンターベイリング・パワーというものがあえて発生するのだろうか?


それはすなわち、市場がみずからのバランスと自律性を取り戻すための、一種の自己回復作用なのである。これを、一部の人間だけが金持ちになることに対するそねみや嫉妬から出た感情だ、などと単純に考えてはいけない。


ある商品や組織が強大になりすぎて、その世界をすべて力で支配し、「俺に恭順でないものはすべて俺の敵と見なす」などと言い出すような状況では、市場を構成している人間たちの自主性や価値観さえ破壊されかねない。これは実質的な市場の死を意味している。それをさけるための力が働くのだ。すなわち、カウンターベイリング・パワーというのは巨大すぎる存在がみずから生み出した影のようなもなののだ。


カウンターベイリング・パワーが働いているのは、その市場が健全な証拠である。これを強者が力ずくでおさえようとするならば、もはや健全な競争の枠組みを逸脱した対抗手段しかあり得ない、と考える者たちが出てくるだろう。その結果、全体としてはかえって手ひどい破壊的な状況を生み出すかもしれない。


知恵ある者はここから教訓を得られんことを、切に望む。


ANAに乗るおじさんの日記

14日間世界一周というのをやった。やりたくてやったわけじゃない。仕事なのだ。パリを発って、フランクフルトに行き、そこで乗り換えてベネズエラの首都カラカスに行った。さらに国内便でバルセロナ市へ。ここでしばらく仕事をした後、日本に戻り、横浜本社に出社した後、最後にパリに戻る。これでちょうど2週間。


いくら飛び歩くのが仕事だとはいえ、ベネズエラで一週間の建設現場での仕事を終わり、メキシコ湾をわたってアトランタからシカゴに到着するころには、さすがに飛行機にも機内食にもうんざりしていた。


最後はシカゴ発の全日空便だった。


夏の熱気の残るシカゴでは夜の街をぶらぶら散歩し、10時すぎてから夜の歩道の席でタイ料理を食べた。胃の疲れが少し和らぐ気分だった。


シカゴのオヘア空港は美しい。さすが建築の街の空港だ。しかし、日本行きの、日本の航空会社の機内に乗り込むと、そこはまことに日本そのもの。このギャップにはいつもながら面食らう。


今回のANAの便は、まったく同じ顔をした6人の客室乗務員がサービスについていた。全日空ではスチュワーデスの採用基準に、丸顔で長い髪を頭の後ろに団子状に巻き付けていることを明文化しているにちがいない。それにしてもここまでくると殆ど赤塚不二男の世界である。だから日本の世界なのだが。


「お飲物は何がよろしいですか。」と、ビジネスクラスには聞きに来てくれる。ぼくは、シャンパンをオレンジジュースで割ったものを頼む。すると、どういうわけか、彼女は営業用微笑をたたえた顔で、シャンパンとオレンジジュースの入ったコップを、別々に二つ持ってきてくれるのだった。


面食らったぼくの顔を見て、何か間違いが起こったことに気がついたらしい。しかし、いいですよ、もう持ってきちゃったんだし、とぼくは答えて受け取る。そしてオレンジジュースのコップに少しずつシャンパンを注ぎ足して飲み始めた。


しばらくすると彼女がふたたびやって来て(もしかすると別の彼女だったかもしれない、なにしろ全員同じ顔なのだ)、お代わりはいかがですか、とたずねる。何のお代わり? 


あのね、これは余計なことだけれど教えてあげる。

ミモザという、黄色くて小さな花をたくさん付ける樹があるでしょう? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物は「ミモザ」といって、フランスのカクテルなんです。ぼくはわりとこれが好きなんだけれど、初夏のパリでまだ日射しが残っている時分に飲むととても美味い。

そして本当はね、これはあなたのような若い女性が飲むものなんだ。今度こっそり作って味見してごらん。きっと好きになるから。


しかし、もちろんぼくはこんな気障なセリフを口に出して言ったりはしない。彼女だってこんなわけわかなことを、知ったかぶりのオジサンから習いたいとは思わないだろう。そして日記に書くにちがいない。今日もへんてこなオジサンの客に疲れたと。


だからぼくだって、こうして日記に書いているわけです。

特別な我が社(2001/2/03)

ITコンサルタントの仕事をしていると、つくづく面白いと思うことがある。仕事柄、さまざまな企業を訪問して話を聞くわけだが、訪れる会社はどこも、「自分のところの業務はひどく特殊だ、ウチは特別な会社だ」とおっしゃるのである。どの会社もどの会社も、“これこれの理由でウチはよその会社とちがう”と主張される。


いわく、「ウチの業種の製品は鮮度管理が非常にきびしいから」「ウチの製品はお客様の生命に直接かかわるものだから供給の責任があって」「ウチの業種は可燃物を大量に取り扱うので消防法のこうるさい設備検査が必要で」「ウチの業界はものすごい多品種少量で、かつ製品のライフサイクルがめちゃくちゃ短いから」「徹底したカンバン方式で工場を回しているから」「完全受注生産でリードタイムが長いから」「小さく高価で壊れやすいから」「場所ふさぎなのにひどく安価だから」etc…


“というわけで、外部の方には我々の問題の難しさはご理解いただけにくいでしょうねえ・・”と続く。


そして結論はというと、

「だから平均的な製造業向けにつくられたパッケージ・ソフトではウチの仕事はうまく取り扱えない」

という風に誘導されるのだ。特殊性を強調されたあげく、ほとんど判で押したかのように、同じ結論にたどり着くところが面白い。


そんなことはないのである。


この仕事をやってみるとわかるのだが、日本の製造業が抱えている問題点というのは驚くほど共通性が高いのだ。それは、非常に圧縮した形で表現するならば、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということになる。だから調達から販売までのサプライチェーンのあちこちで、プルとプッシュが混在しているのである。


したがって、解決の手法も一つの事例できちんと確立してしまえば、あとはかなり応用が利く。若いコンサルタントでも、見習いで3社の事例をやってみたら、4社目からは中核の問題を自分で見つけることができるようになる(むろん、応用問題を解くにはその業種の個別知識と、人を動かし説得できるだけの知恵がいるから、経験もなしにすぐに独り立ちできるわけではないが)。


「パーキンソンの法則」で有名な経営学者C・N・パーキンソンは、「コンサルタントの仕事はミツバチに似ている」と言っている。花から花へ、花粉を運ぶ蜜蜂のように、コンサルタントはある会社で見つけた知恵を別の会社に運んでそこに植え付ける訳である。自分自身では花粉を作り出したりしない(知恵を生み出したりしない)点が面白い。こう書くと怒り出す人もいるだろうが、かなりの程度、真実に近い。


個別性・特殊性の強調は、なんとなく日本の文化に根ざしているのかな、とも思う。丸山真男が『日本の思想』で分析して見せたように、日本では「理論信仰」と「実感信仰」が表うらの関係で支え合っている。外国から直輸入した公式的理論によって現実をばっさりと切ってしまうような風潮と、逆にその防御として、個別の事象・実感をならべたてて共通論理をいっさい否定してしまう態度。まるで「パッケージに業務を合わせろ」「いや業務に合わせてすべてカスタマイズしろ」という水掛け論を聞いているかのようではないか。


面白いことに、私のつきあった範囲では、欧米の会社からはあまりこういう「ウチは特殊だから」論は出てこない。それも当然だろう。彼らはそもそも、みずからの独自性を前提として生きている。一人一人に個性がある、というところから思考は出発する。その上で、個別の事物を包含するイデアが存在する、というのが西欧の哲学だからだ。


哲学抜きで特殊論にしがみつく国には、ただ“諸行無常”の風が吹くだけかもしれない。


e爺なる人々(2001/1/10)

「IT革命」なる語が2000年度流行語大賞になるほど、昨年はおじサマたちがIT、ITで浮かれ騒いだ年だった。正月には、例の頼りない首相までがTVコマーシャルでマウスをクリックして“イン博”の宣伝をしていたくらいだ。


騒いだわりに実体が不明瞭なまま、というのがこの国の特徴らしい。手口ときたらいつも同じで、



  1. アメリカ発の概念論を高級コンサルがまずセミナーで紹介し、
  2. ついで、いつも流行ネタを追うしか能のない雑誌ジャーナリズムが半端な事例をかき集めて特集し、
  3. 大手コンピュータメーカが旧製品に化粧直しを施してメニューに付け加えたあと、
  4. 最後に三流の経営学者が理論化して終わる、

というのがパターンだ。BPRもそうだったし、グループウェアもSISも、もっとさかのぼってEISだのFAなんかも皆そうだ。どれ一つとして私は概念の中核を明確に理解できなかった。中核なんか無いからだ。単なるファッション、風向きに名前を付けていたにすぎない。SCMやMESがかなり繊維質の概念規定から出発したのに比べて、これら流行語は表層にあらわれる効果から命名されていく。


最近のこの手のヒット商品は「e-Business」という用語だろう。これは私は何をいっているのかさっぱり理解できない。「e-Commrece」だったら十分わかる。商取引という、従来紙と電話と面談で行われていたプラクティスをネットワーク上で通信で行おうというものだ。しかしe-Businessとは何なのだ。「ネットビジネス」という語も曖昧模糊として原因不明なることe-Businessと良い勝負だが。


これまでのオールド・エコノミーの商売が低空飛行気味なので、『これからはe-Businessだ』という謎のかけ声があちらこちらの役員室や会議室や居酒屋で飛び交っているようである。電子マーケットの案も似たようなプランがいくつも出回っている。まるでバブル時代のリゾートかゴルフ場計画のようだ。


10年前におかした過ちを、もう一度別のかたちで繰り返したら、今度は悲劇ではなく喜劇というものだ。日本のおじさんというのはまったく懲りない人たちらしい。電子化された爺さんたちの行くさまは、まさに「e-爺ゴーイング」と称すべきものらしい。

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