『プロジェクト・アナリスト』はなぜ必要か (2014/12/10) わたしが「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」を立ち上げたのは、3年半ほど前のことだ。2011年の5月、まだ東日本大震災と原発事故の余波がさめやらぬ頃で、毎日、小さな余震におびえ、計画停電という名の不便を皆が強いられていたときだった。スケジューリング学会会長(当時)の八巻・静岡大教授と、慶応大学の松川教授のご支援をいただいて、隔月に慶応三田キャンパスで勉強会を開く、今のようなスタイルに落ち着いたのはその年の秋頃だったと記憶する。第1回目は、発起人として、「リスク確率にもとづくプロジェクト評価と合理的意志決定の基準」という基調講演をした。内容は、その前年に出した自分の学位論文が中心で、数式だらけのOR的研究だが、なぜこんな研究部会が必要なのか、どうして長ったらしくて聞き慣れない会の名称をつけたのか、についても触れている。 それは、『プロジェクト・アナリスト』という職種の確立が必要で、そのためにはプロジェクト価値分析手法の研究が喫緊の課題だと信じたからだ。 設立趣意書には研究部会の目的として、次の三つの項目を挙げた:
  • プロジェクトと、その上位概念であるプログラムの、価値・スケジュール・リスクなどの客観的分析と評価手法を工学的に確立する
  • これにより、組織におけるプロジェクト/プログラムの意思決定に資するとともに、「プロジェクト・アナリスト」の専門職域を新たに構想する
  • 現実のプロジェクト/プログラムの事例検討を行う。それを可能にするクローズドな場をつくる
3年たった今、研究部会の活動を通して、これら目的の実現に少しでも近づいたかというと心許ないが、目指しているものは間違っていないと、今でも思う。プロジェクトには、第三者としての専門家であるアナリストが必要である。プロジェクトの上位概念であるプログラムにも、しかり。アナリストの仕事は、プロジェクトやプログラムの計画や遂行状況を客観的に分析し、その価値とリスクを評価し、進めるなり止めるなり(あるいは強化するなり)の提案をマネージャーおよび経営者層に対して、行うことだ。 なぜ、第三者が必要なのか? 経営者と、プロジェクト実行の当事者であるプロマネがいれば、意思決定には十分ではないか。プロマネ以上に、そのプロジェクトの全体像について詳しく理解しているものがいるだろうか。経営者以上に、その組織における判断に適任な者がいるだろうか。だとしたら、なぜ、知識においてはプロマネに劣り、判断において経営者を超えられぬ第三者をつれてこなければならないのか。そう、思う人も多いだろう。 その理由は、「プロジェクトは賭けである」からだ。大きな労力と、費用と、時間とを投資した賭け。それをやりぬくには、夢とパッションが必要だ。だから良きプロマネは、例外なしに情熱の人である。かりに見かけはクールで冷静でも、内なる確信と熱意を秘めている。そういう人でないと、大きなプロジェクトは、やり通せない。つまり、プロマネとは職業的楽天家であるということだ。 そして『賭け』である以上、失敗するリスクもある。誰もが絶対成功するなら、それは賭けとは言わぬ。先の見えている、ただの日常業務に過ぎない。十分に見通せないから、リスクがある。 リスクのある使命に、楽天家であることを職業的に義務づけられている人が任命されたら、どうなるか。答えは簡単である。「何とかやり抜きます」という発言だけが、かえってくる。「この仕事はやる意味がありません。止めさせてください」とは、口が裂けても、いえない。それはギブアップ宣言だからだ。つまりプロジェクト・マネージャーとは、自分で決して仕事を止められない職業なのだ。 止める・止めないといった大げさな話でなくても、同じだ。プロジェクトがある段階まで進んだとしよう。いつ、その仕事は完成するのか。完成したときにコストは予定内に納まるのか。そう、経営者が問いかけたら、情熱を持ち自信家のプロマネほど、楽天的な答えを返す。大丈夫です、今はちょっと遅れているけれど、かならず予定通りに終わらせます。予算だって、きっとプラスにして見せます--。もし同僚が、前の類似プロジェクトではこれこれのトラブルがあったから、同種のリスクに気をつけた方がいい、と進言したとしても、プロマネはこう言い切るだろう:「自分だったら、そんなドジは踏まない。」 これが、有能で責任感の強いプロマネ達の危険性なのだ。彼らの元では、プロジェクトの問題は最後の段階にならないと表に出ない。能力の低いプロマネが、プロジェクトをひどい状況に陥れている場合、危険は誰の目にも見えて明らかだ。一日も早く交代させて、プロジェクトを立て直すか、いっそ中止させるべきだと、皆が思う。だが優秀なプロマネが多いほど、組織は大きなリスクという爆弾を抱え込むことになる。リスクの一部は押さえ込んでくれるかもしれぬ。だが全部は無理だろう。 うまくいっていないプロマネを交代させ、意義の薄いプロジェクトをキャンセルするのは、本来、プロジェクトの上位に位置するプログラム・マネージャーの仕事だ。もし、そういう人が組織にいるならば、だが。しかしまあ、わたしの知る限り、ほとんどの日本企業には、そんな役職者はいない。民間企業のみならず、政府官庁にも地方公共団体に外郭団体にも、まず、いない。 その結果、何が起こるのか。わたし達はもうそれを十分知っている。誰も使わぬ空港、誰も通らぬ高速道路が、それだ。民間企業の中にも、作ったが使われぬ情報システム、開発したが売れない新製品などがごろごろしている。それに投資したお金も労力も、まったくリターンを生まない。お金の使い方には、「生きた使い方」と「死んだ使い方」があるが、こうした失敗プロジェクトは明らかに後者である。後には借金が残るだけだ。 だから、第三者による冷静なプロジェクト評価が必要なのである。そのための専門家を、企業も、官庁も、社会も、必要としているのではないか。 わたしの働くエンジニアリング業界では、プロジェクト・マネージャー(PM)以外に、チームの中にプロジェクト・コントロール・マネージャー(PCM)という職種を置く。PCMはプロマネを補佐する立場で、プロジェクトの三大要素:コストとスケジュールとスコープについて、ベースライン計画を作成し、進捗と出費を集計し、予実管理を行う職種だ。通常、経営者に対する報告は、全体の責任者であるプロマネが行う。 ところで欧米企業の中には、このPCMが直接、プロマネとは別に、経営者に報告をあげるシステムをとっているところがある。つまり、プロマネとPCMから、二重に報告を受ける訳だ。なぜこんな仕組みを作るのか。それは、計量管理の専門家であるPCMに、プロマネの情熱や主観のバイアスをはずした、客観的な状況報告をしてもらうためだ。こうして経営者は複眼でプロジェクトを見るのである。 複数の視点から立体的に物事を見る。これは”Structured Approach”と呼ばれる態度の一例であり、欧米人はこのアプローチにたけている。とくにイギリス人は、客観的な第三者をつかってチェックするのが好きだ。一種の三角測量であろう(人によっては、いや、あれは英国文化の根強い人間不信が生み出した悪弊である、と主張するかもしれないが)。 ただし、プラント業界におけるPCMには、欠けている面がある。それは、プロジェクトのコストは集計するが、ベネフィットは評価しない、という点である。今作っているプラントが、完成後、誰にとってどのようなベネフィットを生み出すのかは、PCMの職務範囲の外だ。だが、コスト(費用)を見てベネフィット(便益・効果)を見ないのでは、結局、経営判断において半面が抜けてしまうではないか。プロジェクトは賭けであり、投資である。だったら、投下費用に対するリターンがあって、はじめてその価値が測れるはずだ。 念のために書いておくが、ベネフィットとは、プロフィット(利益)ではない。長年、受注型ビジネスの世界にいると、この両者の区別が分からなくなってしまいがちだが、それは最終ユーザーの視点を忘れてしまうからだろう。プロジェクトは、何らかの施設や仕組みを作るために実行される。もう少し抽象化した言い方をすると、プロジェクトは、組織がなんらかの『能力』を得るために行うのである。工場ならば生産能力を得る。新製品ならば、市場開拓能力を得る。ベネフィットとは、こうして得られた能力の価値を表している。 では、通行料を取らない、普通の橋をかけるベネフィットは? 無料なのだから、何も価値を生み出さないではないか? --そんなことはない。交通工学によれば、地域間を行き来する交通量(トリップ数)は時間距離の2乗に反比例して増大する。橋ができて近くなれば、交通が増え、それは経済活動や通勤・通学などの社会的便益を生み出す。そしてそれは、きちんと計算できるのである。 もちろん、プロジェクトの便益は、そうした金銭で換算可能なものばかりではない。プロジェクトを通して得られる経験値とか、人材の成長とか、無形の便益もいろいろある。それら便益を総合し、投下する費用・時間との対比を通じて、プロジェクトの価値が評価できるのである。そして、このようなプロジェクト価値評価を客観的に行う専門職として、『プロジェクト・アナリスト』が望まれるのだ。 ところが、現在のプロジェクト・マネジメント学には、この価値評価理論が欠けている。せいぜいあるのは、金融工学におけるDCF法によるNPV・IRRとか、さらにCAPM理論やリアル・オプション理論だが、あいにくプロジェクトのダイナミクス(動力学)や内部構造までは、切り込む力が弱い。そもそも、金銭面しか測れない。だから、プロジェクト価値評価の研究が必要であり、それがために研究部会を立ち上げたのである。 以前も書いたとおり、プロジェクトの成功を、「スコープ・コスト・スケジュールを満足させたか」だけで測ることに、わたしは基本的に賛成しない。それは成功の一部でしかない。本当の成功というのは、「プロジェクトが大きな価値を生み出すこと」であるはずであり、プロジェクト・マネジメントの仕事とは、「プロジェクト価値を最大化すること」でなければなるまい。プロジェクト・アナリストの仕事は、それを助けることなのである。プロマネの仕事を経営者の仕事にたとえると、プロジェクト・アナリストの仕事は証券業界のアナリストにたとえられる。自分でチームを統率し実行するのとは、別種の能力がそこには求められる。 今、わたし達の社会は、経済の低成長に悩んでいる。GDPを押し上げるには、国内投資が必要である。民間企業が国内に投資しないので、公共投資がそれを引っ張るべきだという議論がある。経済成長とは、お金が貯まることではなく、お金が回ることだからだ。だが投資には、生きたお金の使い方と、死んだ使い方がある。車の通わない橋、旅客の来ない空港をいくら作っても、そんなプロジェクトには「価値がない」。しかし、現在の経済理論は、その区別を無視しているように思える。あるいは、うまく区別できずにいる。 わたし達の社会が、投資を有効に行うためにも、プロジェクト・アナリストの職域確立が急務だと、わたしには思えるのである。