ガバナンスと自由の3つのレベル (2013/02/26) 『ガバナンス』という言葉は多義的な語だ。元々Governという動詞は政治の用語で、英国王は「君臨すれども統治せず」(the king reigns, but doesn’t govern) のように、権力や統治の意味で使われてきた。それがいつからか経営の世界に入り込んできて、もう少し別の意味で使われるようになった。たとえば「コーポレート・ガバナンス」とは、主に“企業の行動が株主の利害に一致するよう仕向ける事”で、社外取締役を置いて第三者の目で、幹部たちの運営をチェックする、といった仕組みなどを指す。統治よりもやや弱く、牽制や監視という程度に近い。(もっとも、企業の反社会的な行動を抑制することがガバナンスの主目的だ、という議論もあるが、ここでは深入りしない) 企業行動をその株主の利害に一致させるという点では、子会社政策のあり方も「ガバナンス」の一種であると考えられる。親会社と子会社の関係には、全面的指示から自由放任まで、後述するようにいろいろなパターンがあるが、どれをとるのが適切かを考えるときに「ガバナンス問題」が論じられるのである。 これが「ITガバナンス」となると概念はもっと茫漠としている。経産省の定義によれば「企業が競争優位性の構築を目的としてIT戦略の策定及び実行をコントロールし、あるべき方向へと導く組織能力」なのだそうだが、だとしたら経産省自身のような官庁・公共団体のITガバナンスはどうなるんだ、とツッコミを入れたくもなる。そもそもこの定義だと、ITのマネジメントとどこが違うのか、疑問が生じる。マネジメントとはまさに、戦略や計画を策定し、組織を動かして実行をコントロールすることではないのか? しかし、このITガバナンスという言葉には、妙なところで出くわすことがある。今でも思い出すのは10年近く前、ある大企業の本社を訪れた時のことだ。某地方の工場(製造子会社)の複雑なスケジューリング問題に関連して、いろいろと知恵を絞って解決策となるはずのシステム構想を作成した。計画系だけでなくMES(製造実行システム)をうまく組み合わせた点に工夫があると自負していた。 見積書を客先担当者に提出し、それなりの評価をもらったな、と感じたのはいいが、「予算は工場子会社が出すが、本社の情報システム部門に説明して了承をとってくれ」、という。(それって本来あなたの仕事じゃないの?)という気もしたが、そんなことを言っていたら仕事は取れない。のこのこ本社に出かけて情報システム部長に面会したところ、ちょうどそのころ某最大手ERP導入が佳境に入っていてイライラしていたらしい。言下に「NO」と拒絶された。理由を聞くと、「ITガバナンスの観点上」という。 「ITガバナンスの面でどういった問題点があるのでしょう?」と質問したが、あまり明確な理由はない。「今のこの時期に、こんな金額の投資は認められない」というだけだ。本社に相談せずに、現場側で先走ったとの印象を持たれたらしい。「お金は別に貴方が出すわけではなく、子会社が負担するんでしょ」と口に出かけたが、それを言ったら喧嘩になるだけなのは見えている。本社の『ガバナンス』の壁にすごすごと引き下がるしかなかった。今でもあの工場は、複雑なスケジューリングを、たった一人の担当者のExcelスキルでまわしているのかな、と思う。 顧客の意思決定権限を確認するのは、セールスの基本だ。営業的な手順を間違えたわたしの失敗談はさておき、「ガバナンス」という言葉が使われる局面をいろいろ調べていくと、ひとつの共通点に気がつく。それは、“ある程度の自立性を持つ相手を、どう動かすべきか”という局面である。「自立性」がキーポイントだ。子会社などその典型である。相手は一応、企業として自分で稼いで利益を上げている。だから自分の行動は自分で決められる(はずである)。しかし親会社は、自分たちが望む方向性にベクトルを合わせたいと考える。これが、自立性のない相手、たとえば直接の部下だったらガバナンスではなく「マネジメント」になるはずだし、意識を持たぬ機械だったら「コントロール」(制御)と呼ぶはずである。あるいは外注先の場合も、発注金額と契約書で勝手な自立性を縛っているわけだから、ガバナンスなどとは誰も言わない。これはITに限らず、どの分野でも共通である。 このガバナンスのあり方だが、具体的な仕組みや方法はさておき、大きくいって三つのレベルがあるのではないかと考えられる。それは「統治力」の強さによって分類される。相手の「自立性」をどれだけ制限するか、と言い直してもいい。(わたしの好きな用語でいえば、相手の「自由度」を制約する度合いである) 統治力として最も強いのは、完全な中央集権的ガバナンスである。上位側が、相手側の一挙手一投足、箸の上げ下ろしまですべて指示命令を下して実行させる。自立性はほぼゼロだ。決められたことをやるだけ。そのかわり、結果の責任も全部、上位側が引き受けることになる(当然だが)。むろん、投資などの費用も上位側がすべて負担する。 この対極にあるのは、自由放任だ。いちいち指示はしない。とにかく自分で動いて勝手に稼げ、と。もっとも、完全な自由放任で、相手が何をやっているのかもわからない状態だと、「ガバナンスは存在しない」と同義だ。だからこれをガバナンス・レベル=0と呼ぶことにしよう。 では、最低限のガバナンスとは何か。それは、相手側の行動が上位側につねに見えるようにしておくこと、すなわち「見える化」「可視化」の実現である。これを、ガバナンス・レベル=1、と考えよう。相手の行動は見えるが、何かを決めるのは基本的に相手側の自立(自律)によっている。このレベル1ではふつう、大きな問題や異常が起きた時だけ、上位側に相談がくることになる。 レベル1と、先ほどの中央集権型ガバナンスとの中間レベルには、どんなものがありうるか。それは、「承認型ガバナンス」であろう。予算あるいは権限のどこかに上限を設けておいて、そこを超えるような事案については、上位側の承認をうける。上位側は審議権(拒否権)を持つ。これをガバナンス・レベル=2と呼ぼう。レベル2は、会社とプロジェクト・マネージャーとの間などでもしばしば取り交わされる形式だ。こうして、プロマネが自分の恣意性や私益のために、勝手に巨額発注することを防ぐのである。この順でいえば、中央集権型はレベル=3になる。もちろん中間レベルをさらに細かく区分することも可能だが、そういう議論は学者にまかせよう。 レベル0からレベル3まで、図式化すると下図のようになる。レベル0はガバナンスの範囲外である。1-3のレベルに従って、上位からの指示命令(権力)は強くなるし、逆に対象側の自由度は小さくなる。自由度とは何かというと、つまり指針がない状態のことである。さらに、これらと対になる項目として、ビジネスの結果への責任と、投資の費用負担をあげても良いだろう。指示命令の力が強いほど、結果への責任が大きくなり、投資は対象側の負担比率が下がる(上位側の負担比率が上がる)。つまり、金も出すし口も出す、という状態である。どれをとるかは、その企業グループの経営方針によるが、同時に、相手側のビジネス環境や市場変化の速度、上位側からの注文への依存度などなどで、一番まともなレベルを選ぶべきである。企業だけでなく、地方自治などもこの図式でみると分かりやすい。 そして、大体において議論がこじれるのは、この4つの項目の比重がアンバランスになる場合だ。上位側が口は出すのに金は出さない、とか(上にあげた某大企業のケースはややこれに近いかもしれぬ)、相手側は自立した稼ぎがあまりないのに自分で全部決めたがるとか。口を出すのに責任はとらない、あるいは、言うことを聞かないのに投資ばかり求める、などなど。 考えてみると、サラリーマンが飲み屋で議論したがる問題点も、ある意味で「上位側=上司」と「相手側=自分」との自由度と責任の確執ばかりだといっていい。つまり、「ミニ・ガバナンス問題」なのである。部下には通常自立した予算執行権はないから、厳密にはガバナンスと呼ぶべきではないだろうが、上司が部下の仕事にどこまで指示(介入)するかは永遠のテーマでもある。 ただし、一つだけ忘れてはならぬ事がある。それは、ガバナンスのレベルを中央集権に近づければ近づけるほど、上位側の情報処理能力がたくさん要求されることだ。相手側の箸の上げ下ろしまで指示するわけだから当然だろう。それも、業務が正常に回っている間はまだ良い。問題は、異常が発生したときだ。異常が大きく、リアルタイム性が高ければ高いほど、上位側の処理は間に合わなくなるだろう。だから現場側に権限移譲が必要になるはずだ(現場が責任を上にかぶせて逃げる傾向があれば別だが)。逆に現場側に隠し立ての傾向が強く、あまり「可視化」できていない組織の場合、重大な問題を上位側がつかむのが手遅れになりがちだ。その場合は上位側が相手に踏み込まなくてはならない。 つまり、ガバナンスのレベルをどう決めるかのルール決めはもちろん大切だが、「どういうときは、そのルールを乗り越えなければならないか」を共有することの方がもっと大切なのである。だからこそ、ガバナンス問題はややこしくて難しいのだ。