タイム・コンサルタントの日誌から(2011年)

契約は他人のはじまり--または、海外プロジェクトの基本的感覚 (2011/12/11)

問題解決の練習としての“お悩み”相談 (2011/12/04)

仕事に心をつかってはいけない (2011/11/17)

『知的マネジメントの技術』のすすめ (2011/11/03)

そんなものを戦略というのですか? (2011/10/10)

マネジメントを専業化する分岐点のスケール (2011/09/25)

新任リーダー学・超入門(4) 測れないものはマネジメントできない
(2011/08/27)

「探し物」という名前の時間泥棒 (2011/07/30)

新任リーダー学・超入門(3) 仕事を指示するときに必要な事 (2011/07/22)

農業のサプライチェーンを考える (2011/07/04)

農業に日本の未来を感じ取る (2011/06/20)

新任リーダー学・超入門(2) マネジメントとリーダーシップというコトバに気をつけよう!
(2011/06/12)

新任リーダー学・超入門 (2011/05/21)

仕事のレポートはこう書こう (2011/05/03)

安全と危険の距離を考える (2011/04/19)

危機における技術のマネジメントとは (2011/03/26)

計画技術者の目から見た『計画停電』 (2011/03/20)

休めない人々 (2011/03/12)

ビジネスにおける「政治力」とは何か (2011/02/23)

R先生との対話(つづき) - リーダーシップの第4の軸 (2011/02/09)

R先生との対話 - プロジェクト・マネジメントをどう教えるか (2011/02/03)

リーダーシップの3タイプ--その価値観と望まれる能力 (2011/01/10)

3つのリーダーシップ・タイプと未来予測の可能性 (2011/01/04)

契約は他人のはじまり--または、海外プロジェクトの基本的感覚
(2011/12/11)

10月にPMI日本支部の「PMI
Japan Festa
」に呼ばれて、『海外プロジェクトとプログラム・マネジメントの勘所 ~ リスク戦略を考える』という、はなはだ大げさなタイトルの講演をさせていただいた。その講演では、日本企業が直面している“海外プロジェクト”で陥りやすい問題点や、過去の成功体験がなかなか通用しない理由、そしてリスクに対する考え方などを、ざっと自己流に披露したわけだが、その中で、こんなクイズを聴衆の皆さんに出して考えてもらった。


問題のシチュエーションは、こうである:「外国企業から受注した大規模プロジェクトを開始して6ヶ月。設計がほぼ固まったので、仕様にもとづき外注製作の見積をとったら、なんと当初予算より5割増の金額がオファーされてきた。予算は、プロジェクト開始前に概略仕様をもとにベンダーからとった参考見積で決めたものだ。しかしこのベンダーいわく、仕様拡大ならびに資材価格高騰のため、元の値段ではできないという。3社に引合いを出したが、いずれも同じような回答だった・・・」


さて、あなたならどうするだろうか?

(1)予算がないので、意中のベンダーに対し「指し値」で交渉する

(2)発注経験はないが、安いと評判の新興国ベンダーをみつけて発注する

(3)3社の中から発注先を選び、客先には追加予算を請求しない

(4)顧客に状況を説明し、もっと予算をくださいと要求する


(1)は、発注者が下請ベンダーに対してかなり強い立場をもっている時に(しばしば建設業などで)行われる方法である。(2)は製造業で最近かなり行われ、とくに中国ベンダーからの調達が多いようだが、品質や納期トラブルなどで痛い目にあったケースも聞く。わたしの予想では、聴衆の多くは(1)か(2)を選び、残りがやむを得ず(3)を選ぶだろう、と思っていた。


ところが驚いたことに、2/3近くの人が、(4)「顧客にもっと予算をくださいと要求する」に手を挙げたのだ。つまり、分かりやすく言えば“お客に泣きつこう”という行動を選択するというのである。実は半年ほど前にも、大阪で別の講演をしたときに、同じクイズを出したことがあった。その時も半数以上の聴衆が(4)を選んだのだが、“うーん、大阪ってやはり、浪花節が通用する世界なのかな”と思った。しかし東京でもほぼ同じ結果が出て、ひどく考え込んでしまった。


ちなみに、このクイズをわたしの勤務先の若手エンジニア達にしたら、ほぼ間違いなく、こう反応するだろう。「その仕事はどういう契約形態ですか? もし一括請負契約なら、(3)を選ぶしかないですね」。わたしの勤務先はエンジニアリング会社だが、海外顧客向けのプロジェクトが85%以上である。海外プロジェクトでの普通の反応はこれで、おそらくライバルの同業他社に働く若手だって、同じ答えをすると思う。別にプロマネでなくても、設計専門部のエンジニアの、これが普通の態度である。つまり、仮にお客に泣きついても、“それは君たちの責任範囲だ”と言われて話はお終いになるから、(4)は考慮の対象に入らない--そう、みな考える。


海外、海外といっても広うござんすで、日本以外の事情を、一律でこうとは言えないだろう、という反論はもちろん分かる。しかし今日、欧米相手でも、アジアや南米の新興国相手でも、その契約的ふるまいの規範はほとんどの場合、英米がこの1世紀ほどの間にしいてきた路線の延長上にある(中国だけは多少違うといってもいいが)。それはすなわち、「自分は自分、他人は他人。協力はするが、お互いの合意した責任範囲は、互いが責任をとる」という原理に立っている。自他を区別する原理、と言ってもいい。自分と相手の間には、透明だが固い壁のようなものがあって、それで領域が仕切られている。その各自の領域をScope
of Workと呼ぶ。PMBOK Guide(R)にいうScope Managementとはここから出てきた概念である。


ただし、ここで言う責任とは「遂行責任」である。お金の支払いについては、大きく一括請負契約と、実費償還契約に分けることが出来る。一括請負契約のもとでは、先に述べたケースで、途中で思わぬ見込み違いがあっても、予算追加は顧客に要求できない。自分の責任でベンダーを選び、赤字や納期遅延は自分の負担になる。


ところが『実費償還契約』ならば、上のケースでは客先の承認を条件に、5割増の費用での発注を認めてもらえる。ただし、わたし達はサービスの人件費をもらえるのみである。というのも、実費償還契約では発注は客先自身の行為だからだ。当方のscopeは発注先の評価選定というサービスに限られている。以前も書いたが、一括請負契約は食べ物屋で言えば「おまかせ」であり、実費償還契約は「おこのみ」型である(厳密に言うと両者の間にはいろいろなバリエーションがあり得るが、ここでは省略する)。


米国では、いろいろな経緯から、実費償還契約がけっこう幅をきかせている。これはscopeに曖昧性がある場合に、客の側が注文を選べる自由度を持ちたいからだ。ただしそれでも、どちらかといえば一括請負契約を好む傾向がある、と米国人から聞いたことがある。


一方、日本のビジネス慣習では圧倒的に一括請負契約が多い。しかもこの一括請負契約、じつはscopeの区分が曖昧で客先はいろいろ注文をつけたがる、という代物である。あとで注文をつけるくせに、金額はいったん決めたら滅多なことでは追加を認めない。つまり、顧客と受注者側を仕切る壁は、ひどくソフトでウェットな壁なのである。「すり合わせ型」といってもいい。自他の区別と責任範囲の概念は、ひどく希薄である。それでも受注者側がついて来られたのは、ある局面で損失を出しても、相手に泣きつけば、先々の取引の中でなんとかカバーしてあげよう、という暗黙の合意があったからである。


そのような関係は、高度成長からバブルまでの右肩上がりの時代には、たしかに成り立った。しかし低空飛行のこの20年間は、もはや“先々の取引”の保証がなくなってきたはずだ。にもかかわらず、両者の意識はなかなか変わっていないことを、最初のクイズの回答が示しているようだ。困ったらとりあえず客に泣きついてみる--この意識の根強さに、わたしは驚いたのである。この意識のまま、海外プロジェクトに取り組むのは危険きわまりない。見えないが固い壁にぶち当たって、玉子みたいに壊れてしまうのがおちだ。しかも、海外の現場でプロマネがそうした困難にぶち当たっても、本社のマネジメント側はちっとも問題のありかが想像できないし、解決も支援できないのである。


英語教育者として知られた中津燎子氏が以前、本の中で書いていた言葉がある。ある知りあいの若い女性から、“国際人としての心構えの基本”をたずねられたのだった(今だったら、“グローバル人材の条件”という質問になっているだろう)。それに対する答えは「あなたが朝、食卓に座って、お母さんがお茶を入れてくれたら、『ありがとう』と言いなさい」というものだった。あなたと、お母さんは別人である。ほかの人があなたに何かをしてくれたら、(たとえそれが無償であれ有償であれ)まず、Thank
youと言う。自他を区別する--それが世界での基本である。ちっとも大げさなことではない。そういう意味の回答だったが、はたして質問した女性には、その意味が本当に分かったかどうか。


互いに別の、自立した者同士が(個人だろうと法人だろうと)、何かを協力しようと合意したら、それぞれの責任範囲を果たすべし、というのが世界の常識である。わたしの勤務先の大先輩と最近お会いしたとき、「海外の顧客の方が、日本の顧客よりも、実はずっとやりやすい。なぜなら、そこにはルールと線引きがあるから」という意味のことを言われていて、わたしも同感だった。これ自体は、日本でだって常識であるはずだし、あるべきだ。ただ発注と受注という関係をとったとき、なぜかそこに「上下関係」みたいな封建制の遺物的な意識がいつの間にか混入してくる。同時に、上のわがままを下は受け入れ、下の面倒を上が見てやるという、親子か男女関係みたいなウェットなふるまいが期待されるのだ。


日本的慣習の全てがまずいとは、わたしは決して思わない。しかし、もし海外にビジネスの活路を切り開きたいと考えるなら--他者を自分の延長のように考える契約感覚からは、そろそろきちんと卒業すべきだと思うのである。


問題解決の練習としての“お悩み”相談
(2011/12/04)

3ヶ月ほど前のこと、日本プロジェクトマネジメント協会(PMAJ)のシンポジウムの懇親会場で、若手の人が「PMクリニック」という演し物をやっていた。白衣を着た“PMドクター”が、参加者の皆さんからお悩み相談を受けて診断する、といった趣向である。悩み事は紙に書いて提出する。司会役の人が一枚ずつ読んで、“ドクター”がアドバイスを授ける、という具合だった。肩の凝らない、しかしシンポの趣旨からはずれない、うまい試みだ。


お悩み相談とか人生相談というのは、問題解決を学ぶ格好の練習場所だとつねづね思っている。新聞や雑誌でよく見かけるが、相談する側の悩み事を、回答者が背景までうまく掘り下げて、適切なアドバイスを与える。掘り下げ方がへただと、“これじゃかえって悩みが深まるんじゃないかな”と感じたりするが、適切な回答はピタリと決まって相手も納得しそうだ。だから、こういうコーナーを見かけたら、答えを読む前にまず、自分ならどう答えるかを考えることにしている。一致すればそれはそれで良し、一致しなければ、自分と回答人の視点はどこが違うのかをチェックするいい機会になる。


わたしの知る中では、作家の橋本治氏などは見事な問題分析者で、著書「青空人生相談所」や、共著の「愛の処方せん」(氏の担当分のみ)は、そうした練習問題集として、とても役に立つ。短い相談文面から問題のシチュエーションをうまく摘出するのみならず、相談者の甘えや思い違いもずばりとえぐり出す。こうした人生相談の回答には、むろん正解は無い。無いが、どこまで遠近法をもってパースペクティブを広げられるかが分かれ目に思う。


さて、くだんの「PMクリニック」で読み上げられたお悩みの一つに、こういうのがあった。IT業界における若手のプロジェクト・リーダーの相談事である:



「チームの先輩エンジニアが『仕事なんて金のためにやっている事さ』と言って、皆のモチベーションを下げてしまいます」


この、ごく短い相談に、あなただったらどう回答するだろうか? ちなみに、わたしが問いを聞いた瞬間に思ったのは、“仕事はお金のためというのは、当たり前じゃないか。それの、どこがおかしいのかな?”だった。このリーダーさんは、もらうお金以上の仕事をすることを、自分にも皆にも期待しているのだろうか?


大学を出てエンジニアの仕事についたその日から、仕事はまず第一に給料のため、とわたしは思ってきたし、今でもそれは変わらない。だが、それがゆえに大勢の人の邪魔をしてきた、とも思えないのだ。もちろん、お金をもらう以上、最後まで果たす責任はあると信じている。ただし、もらうお金に見合った責任、である。それにしても、どうして、相談した若いリーダーとここまで落差がでるのだろうか。わたしもその“こまった先輩エンジニア”と同類なのだろうか。


もちろん、その若いリーダーさんのいう事もわからないではない。くだんの先輩は、そんなわかりきった事を大声で言うことで、じつは自分の不満だか不幸だかを周囲に撒き散らしているのである。だから周囲のモチベーションをさげてしまうのだろう。


ところで、サラリーマンの不平とはたいてい、自分が正当に評価されていないという一点に代表されるものだ。自分が正当に評価されていると感じられれば、ちょっとぐらい安い給料でも、我慢してしばらくは働くものである。ということは、おそらくその先輩は、後輩の下で働かされる事自体に不満なのだろう。自分より若くて経験も浅いこいつが、なんでプロジェクト・リーダーなんだ。なぜオレがこいつの下で残業までして頑張らなけりゃいけないんだ。そう考えているのではないだろうか。


では、仮にそうだとしたら、どうアドバイスしたらいいだろうか? おそらく、このリーダーさんと先輩とが直接対面して“よく話し合って”も、あまり、らちは開くまい。先輩は後輩リーダーのことを面白く思っていないのだから、何を言っても馬耳東風である。では、直属の上司に相談すべきか? むろん、リーダーや担当者の任命をしたのは上司だろうから、事情の一端に責任はある。では、その先輩を換えてください、とお願いして、聞いてもらえるだろうか? きっと“そうは言ってもなあ、他の人間もみんな別のプロジェクトでとられて多忙だし、無い袖は振れないのだよ”といった程度の答えが返ってくるのがオチだろう。そもそも上司自身が、別の問題プロジェクトにかかりきりで、他を見ている余裕なんか無い、というのも十分あり得る。


わたしが思うに、その先輩の抱える問題は、self-esteemすなわち自己評価(自負心)と、他者の評価にギャップがあることが根幹にあるのではないか。それは技術的なことかもしれないが、それよりもむしろ、マネジメントの能力、あるいは対人コミュニケーション能力などの限界をかかえているのかもしれない。だから彼はリーダーになれず、後輩の下で甘んじなければならない。技術屋としては自分の方が上なのに、何でアイツが。それは、エンジニアの世界で結構広く見いだされる不満ではある。


だとしたら、その先輩氏は、何か資格試験にチャレンジしたらいいと思うのだ。情報処理技術者試験でも、別のものでもいい。あるいはPMPでもいいだろうが、もっと技術的な方が向いているような気がする。資格を得ることで、自己の評価を第三者に裏書きしてもらうのである。そうすれば自信が得られる。たとえ会社の中で評価が低くても、“オレは客観的レベルから見ればもっと能力があるんだ。それが見抜けない上の奴らが馬鹿なだけだ”と、自己を維持できるだろう。自己を維持できる人は、少なくとも不満の障気を周囲にまき散らすことはしなくなる。じじつ、難しい資格試験をパスすることがきっかけで、不平家でつき合いづらいと言われてきた人が、開放的性格に変わる例をわたしは見てきた。不満は、自己評価を職場だけに委ねるから生じるのである。


もっとも、資格にチャレンジしたら、とリーダーさんが先輩に直接言ってもダメだ。こういう時こそ、上司を使うのである。上司から、先輩にアドバイスしてもらう。それくらいの責任は上司にとってもらおう。


最後に、このリーダーさんにもアドバイスしておきたいことがある。それは、わたしが中間管理職になるときに、大先輩から教わった原則である。会社の中で人の上に立って部下を使うようになったら、そこには三つのレベルがあるというのだ。



・第一レベル:部下が、安心して働けるようにすること

・第二レベル:部下が、責任感をもって働けるようにすること

・第三レベル:部下が、よろこびをもって働けるようにすること


第一レベルは、最低限のレベルである。それは職場の安全とか、労働衛生とか、あるいは失職の不安などにおびえずに、当面働けるような環境を作り、それを伝えることだ。びくびくと不安におびえる人間は、決して高いパフォーマンスを出すことはできない。だから罰則や恐怖で人を動かそうとする管理者は、最低限の結果しか得られないのだという。


第二のレベルは、働く人が、その仕事を『自分のもの』としてオーナーシップを感じるようにせよ、との意味である。部下の裁量(自由度)と、部下の仕事の結果が結びつくようにすること。言いかえると、仕事の成果を上司がかすめ取らないこと。それではじめて、前向きな気持ちで働けるようになるのである。


そして第三のレベルは、仕事自身の中に面白さややりがいを見いだせる類の仕事を作り出して、部下に与えろ、というものだ。それでこそ、人は最良のパフォーマンスを出すことができる。目先のちょこっとした面白さではない、労苦を超えて初めて得られるよろこびを言っている。これはわたし自身、とうてい出来ていないことだ。たぶん一生かかっても殆ど到達できないレベルなのかもしれない。


だが、たいていの人は一度か二度、目先の損得を抜きにして、力一杯仕事をしてみたいと望んでいるはずである。そういう場を作り出すのはとてもむずかしい。むずかしいかもしれないが、その努力の中にこそ、やれマネジメントだ戦略だリーダーシップだといった空疎な言葉をならべても得られない、仕事の真の実感があるのではないか。夢想家のわたしは、ときどきそんな風に考えるのである。




仕事に心をつかってはいけない
(2011/11/17)

「軽い胃潰瘍ですね。」内視鏡を見て、医者はそう言った。去年初めのことだ。正月明けからときどき胃が痛く、心配になって検査に行ったのだった。単なる胃炎であることを願っていたのだが、自分でも画像を見せてもらい、しかたなく納得した。まあ、しかし、それだったらピロリ菌を駆除してもらえばいい。それで長年の胃患いがすっきり治った知人の話を思いだし、希望をつないだ。


ところが数日後に組織検査の結果をききにいったら、医者は意外なことを言った。「ピロリ菌はいないようですね。二つの検査で、両方とも陰性です。」「そんな馬鹿な。じゃあ、わたしはなんで胃潰瘍になったんですか?」医師は安堵させるような顔をわたしに見せて、こう答えた。「ストレスでしょうね。たしかに胃潰瘍の9割は菌のせいですが、精神的ストレスでなるケースだって、あるんですよ。」


思い当たる節があった。通常の仕事に加え、自分の能力以上にいろんなことに手を出しすぎていたのだ。体がもう、“これ以上はつきあいきれません”と信号を出してきたに決まっている。しかたがない。薬を飲めといわれた3ヶ月間は、酒も刺激物も甘い物も一切やめるしかない。そう、心に決めた。


それにしても、心と体のつながりは不思議である。気持ちのあり方が身体に作用して、病変を作る。こうした状態を心身症というらしい。昔は、胃潰瘍はその代表例といわれた。ほかに喘息や皮膚疾患や大腸やら血圧やら心臓やら、いろいろな所に症状を出現させる。どこにどう出るかは、その人の遺伝や体質、環境などで決まるのだろう。そういえば、頭の毛もストレスでよく引き合いに出される例だ。


それだけいろいろな場所に影響を及ぼすのだから、脳に病変を起こすことだってあるのではないか。全くの素人考えだが、いわゆる「メンタルな病気」の少なからぬ部分は、心理的なストレスが、「脳という臓器」の心身症として発現したものではないか。そんな風に思ったりもするのである。メンタルな病気にかかった人や、それを克服して復職された方を多少知っているが、ほとんどはきわめて真面目な人たちだ。真面目なるがゆえに、仕事のストレスを抱え込む。まあ病気にまではならなくても、不眠に悩んだり深酒したりする例は数多い。みな、“真面目なるがゆえに”陥る症状だ。


そうした人たち、あるいはその予備軍に贈る言葉が、主題の「仕事に心をつかってはならない」である。これは、わたしの大先輩にあたるプロジェクト・マネージャーから昔聞いた言葉だった。聞いたときは、今ひとつ意味がよく分からなかった。“仕事はビジネスライクに、ドライにやれ”って意味なのかな、それとも“仕事で余計な気遣いなど無用だ”という格言なのかな?


それから年月が経ち、自分が寝る前に胃薬を飲んでベッドに横たわる身になって、だんだんその意味の深さが分かるようになってきた。人間関係には、もちろん心をつかっていい。しかし、自分の仕事に、感情的に入れ込みすぎてはいけないのだ。過剰に心配したり、過剰に怒ったり、過剰に悩んだり、過剰に誇ったりしてはいけない。つまり、自分の大切なリソースである『感情』を、給料分以上にすり減らしてはいけないと、この言葉は諭している。これは感情の切替えが下手なわたしには、耳の痛い言葉だった。


感情は自分の身体と自分の精神とをつなげる、大切な役割を持っている。感情を失えば、人生の価値も失われる。それは、脳に器質的な障害を受けて感情機能を喪失した人の症例からも分かることだ。自己の経験に強い意義づけを与えるのが、感情なのである。


そして、感情をリソースとして他者に提供するサービスを、『感情労働』と呼ぶのだと以前書いた(「サービス、『感情労働』、そしてプロジェクト・マネジメント」)。『感情労働』は知識労働と肉体労働の間にあって、一種の“見えない労働”として提供され消費される。だが、どんな人間も、感情は使いすぎれば、すりへって疲弊していく。これを回復させる時間と場所が必要なのだ。


自分が真面目に仕事に入れ込みすぎると、24時間、感情が仕事から離れられなくなる。それが危険なのだ。入れ込みすぎると、気分のアップダウンが激しくなる。急に怒ったり、ふいに落ち込んだり、また急に舞い上がったり振幅が大きくなるので、チームの他のメンバーがついていきにくくなる。チームというところは、誰かが本気で怒っていたら、まずなだめて、それから原因を探らなくてはならない。余計なエネルギーが消費されるのである。またアップダウンが激しいと、注意深い知的な判断がしにくいので、仕事のクオリティも安定しない。それやこれやで、結果がまた本人に巡りめぐってきてストレスになり、負のスパイラルを生じるのである。


それでは、このような状態を避け、「仕事に心をつかいすぎない」ためには、どうしたら良いのか。すぐ思いつく処方箋は二つある。まず、“オフになったら仕事から物理的にも心理的にも遠ざかる”ことだ。もう一つは、“自己完結的な気晴らしを別に持つ”ことかもしれない。


“物理的に遠ざかる”とは、ともかく距離的に離れることである。わたしの勤務先のメインのビジネスは、砂漠の真ん中とかジャングルの中とか、およそ人里離れた所にプラントを建てる仕事だが、こうしたプラントは、当然ながら住む場所(キャンプ)も同時に作らなければならない。ところで、ふつうキャンプはプラントからある程度離れた場所に設置する。これは防犯や騒音などの理由もあるが、建設現場のすぐ隣では、心が切り替わらないのである。ある現場所長は、「オフの飲み会では、仕事の話は一切禁止」をルールにしていた。そうして、自分の心を、ちょうど大型船の防水隔壁が水を遮断するように、仕事の心配から切り離しておくのである。そうしないと、病気になるからだ。


“自己完結的な気晴らし”というのは、自分だけで楽しめる趣味のことだ。単に趣味をもて、という意味ではない。「自分一人でできる趣味」でなくてはいけない。書画とか、料理とか、陶芸とか、編み物でもいい。最初から最後まで自分でプランして、結果を出せるものがいい。プロジェクトというのは所詮、自分の思うようにはいかないものである。たとえ自分がプロマネでもスポンサーでも、自分がデザインしたようにはできあがらず、考えたとおりには進まないのだ。これは大人数で協働する仕事の宿命である。にもかかわらず、仕事では結果責任を問われる。これはとくに、デザイナー気質の強い(いいかえれば創造的な)人にとっては強いストレスである。だから、別に自分自身のはけ口を作っておくのだ。


それにしても、人はなぜ、仕事に入れ込んでしまうのか。それは、仕事の成果で自分の給料も決まるからさ、と言えば言える。しかし、人は給料だけのために、パンのみに生きるわけではない。1時間たかだか数千円の給料のために、病気になるほどストレスを抱えたら、あべこべではないか。


それは結局、仕事の成果で自分の『評価』が決まるから、なのだろう。競争心の強い人にとっては、他人との比較で優位になるために。自負心の強い人には、『自己評価』で高位になるために。つまり、仕事を通じて“自己実現”を目指そうとするから、感情まで打ち込むのだろう。お金よりも強い、自己実現の欲求。そして、それでこそ、最高のパフォーマンスを生み出せるのだ、とのたまう人事コンサルタントも多い。


だが、本当なのだろうか。わたしがPMOとして過去何年間にわたってやってきたのは、“誰がやっても及第点がとれるマネジメント・システム”の構築だった。工場を作るときに考えるのは、労働者の個人的技能に頼らない、一定品質をうむ生産ラインだ。およそ、技術というのは、移転可能な、誰がやっても同じ成果を出せる手法のことではなかったか。つまり、会社組織というのは、各個人が部分品のように「交換可能」な状態になる方向に、努力し進化しているのではないか。


だとしたら、(わたしがオーナー経営者でもない限り)会社の仕事だけに自己実現を賭けるのは間違っているのである。会社は必ず、社員の自己実現の欲求を裏切る方向に進化していく。そうでなければ、今度は会社自体が競争から脱落していくはずである。会社は“自分探し”の場所ではない。そこはお金と引き替えに仕事をする場所だ。だからこそ、仕事に心をつかってはいけない、という格言が生きているのである。




『知的マネジメントの技術』のすすめ
(2011/11/03)

梅棹忠夫・著知的生産の技術」
(岩波新書)
は、学生時代に読んでもっとも影響を受けた本の一つだった。この本を読んで初めて、“知的生産”という概念を学んだ。そして、知的生産のために『技術』が存在するのだ、とのメッセージは鮮烈だった。知的生産とは、自分の目的意識を持って学び、考え、書く(表現する)ことである。学ぶと考えるの間には、情報を蓄積し、整理し、また自在に組み合わせるための、いわば情報のハンドリングがある。この本は情報のハンドリングを中心に、学ぶ・考える・書くためのいろいろな技法を、著者である梅棹忠夫氏自身が苦心しながら発明していくありさまが書かれている。


もともとこの本の存在を知ったのは、受験生のときだった。通信制の受験講座で送られてくる冊子に、解答・解説や順位発表の他に、受験生からのQ&Aのコーナーがあった。そこに、“試験まであと3ヶ月を切りましたが、急に東大に行きたくなりました。勉強法を教えてください”との質問が載っていたのである。こんな無茶な問いを聞く方も聞く方だが、答える方も答える方で、“じゃあ、まず梅棹忠夫の「知的生産の技術」を読みなさい”と書いてあったのである。その先にどんなアドバイスが書かれていたかは忘れたし、この質問者が希望を果たせたかも不明だが、ともあれ気になって読んでみたのである。


この本の画期的なところは、それまでは精神修養や徒弟制で身につけるしかないと思われていた知的生産の能力が、移転可能な『技術』でかなりの程度、レベルアップできるとの主張にある。技術の本質とは、それが組織的に学習・移転可能な能力であることにある。逆に個人に付随し移転できない能力は、『技能(スキル)』と呼ばれる。知的生産という一見混沌とした能力を、情報を中心としたプロセスに分解し、そこに適用可能な技術・技法を明らかにしていく。じつに理工学的な発想である。それもそのはず、著者の梅棹忠夫は、(民族学者だから文系だと思っている人もいるようだが)生物学出身で、理学博士である。


ちなみに日本の伝統的な大学・学問の世界は、ある意味で旧・中国の士大夫(読書階級)のライフスタイルを無意識の内に模範と仰いできたらしく、書画と人文の世界に身を置いて超然と沈思黙考し、その上で世俗の民を指南し引導する姿を、理想としてきた。士大夫は科挙によって選ばれる。それがすなわち現代では東大や京大の入学試験に相当する、という訳である。ここにある思想は、「指導者はもって生まれた資質によって決まるべきであり、それは青年期の試験で選別できる」との考え方だ。どこにも技術の入り込む余地がない。


このところ何度か、人前でプロジェクト・マネジメントやサプライチェーン・マネジメントについて話したり、学生に講義したりする機会をいただいた。そのたびごとに強調したのが、「マネジメントにはテクノロジー(技術)がある」との主張である。理工系むけに話すことが多いので、“そもそも技術には二種類ある。『固有技術』と『管理技術』だ”という話から入る。固有技術とは、対象固有の科学法則に縛られる領域におけるテクノロジーである。例えば、機械設計、材料開発、システム設計、等々だ。他方、管理技術とは人的作業の集合に対して適用されるテクノロジーで業種・分野固有の部分がないため、汎用的である。それが例えばWBSであり、PERT/CPMであり・・と説明していく。


むろん、マネジメントとは「ゴールを達成するために、人に仕事をしてもらう」ことであり、人が人を動かす行為には、不可避的にヒューマン・ファクター(属人性)がかかわってくる。しかし同時に、マネジメントを計量化・客観化し、誰もが一定レベルで遂行可能にするためのテクノロジーも知られている。そう説明を続けていくのである。


だが、残念ながら必ずしも反応は芳しくない。学生・院生はともかく、社会人になると今ひとつピンとこない顔をする人が多いようだ。


無理もないのである。ふつうの企業や官庁の組織(ファンクショナル組織)では、マネジメントの職務は、その人の地位にかたく結びついている。上司が部下に指示・命令を下し、部下が上司に報告する。上司は部下の人事評定権をもっているし、予算の執行権も握っている。指示に逆らったら、ひどい目にあわせるからな、という言外の強制がそこにある。つまり、上司は部下に対して強制力を持つのである。そしてたいていの組織では年功序列制がまだ生きているから、上司は部下よりも経験が長く、分野知識もそれなりに知っている。


ところが、マルチ・ファンクショナルなプロジェクトや、複数組織・企業が協業するサプライチェーンにおいては、計画や指示を出す職務は『役割』にすぎない。互いに対等な複数の機能が、混乱せずに整然と強調しあえるように指示する仕事は、航空管制官とか、オーケストラの指揮者のようなものだ。管制官はパイロットの上司ではないし、楽器奏者は客員指揮者の部下ではない。そこには直接的な強制力はない。従わなかったらどんな混乱した結果になるか、実行する側が予見できるから自発的に指示に従うのである。だから、行使できるのは『影響力』だけである。こうした仕事では、マネージャーは役割の一つにすぎない。べつに他よりエラい訳ではないし、年長とも限らない。


このような分野では、マネジメントのために技術が必要だし、また有効でもある。というのは、プロジェクトもサプライチェーンも、それなりに複雑で見えにくい『システム』を構成しているからだ。それは設計課長が部下に設計計算の仕方を指導するのとは、ちょっと違っている。固有技術の中で采配をふるえばすむ話ではない。


しかし、わたし達の社会では、マネジメントの上手下手はまったく属人的なものだ、という思想が強い。その結果、マネージャーの地位は、学歴・年功序列・出身等により選ばれることが多い。マネジメントは、「地位に付随する権能」
であって、前もって研修・訓練が必要な技術と考えられていない。日本では残念ながら、「マネジメントにも技術がある」という概念が希薄なのである。これは、欧米の企業と多少は仕事をしてきた経験からも言えることだ。嘘だと思ったら、マネジメントとは何かを、手近なリーダー格の人に問いかけてみるといい。


 「マネジメントは人だよ、人。」

 「勘と度胸と根性だ!」

 「組織は規律とルールで動かすべきものです」


こうした答えが返ってくる可能性がとても高い。べつにこれらが間違いだと言うつもりはない。それぞれ、たしかに真実ではある。だが、これがマネジメントの全てではあるまい。ちなみに昨年、サウジアラビアの国営石油会社の若手社員達を相手に同じ質問をしたら、すぐに


 「人を動かして、目的を達成すること」


と、答えが返ってきた。彼らが受けてきた欧米流の教育がそう言わせたのだろう。こういう目的指向の、機能的な理解があると、“じゃあどう動かせばベターか”“そこに必要な技術は何か”と議論を進めることが出来る。その後の講義がとてもスムーズだったことは言うまでもない。


日本では、マネジメントは理工学的研究の対象とも思われていない。現に東大にも京大にも、理系のManagement Science系の学科が学部レベルでは存在しない。つまり、文科省の世界観の中には、マネジメント・テクノロジーという発想が欠落しているらしい(ま、私学の早稲田や慶応には経営工学系の学科があるが)。


それはちょうど、文科省の頭の中に「情報学」の発想が欠けていた50年前の状況とよく似ている。だとしたら今のわたし達に必要なのは、第二の梅棹忠夫が現れて、「知的マネジメントの技術」なるベストセラーを出すことではないかと夢想するのである。




そんなものを戦略というのですか?
(2011/10/10)

わたしの同僚に、兵法書や戦争論を読むのが好きな男がいる。別に兵器オタクではない。本人はいたって知的で温厚な紳士である。ただ、プロジェクト・マネジメントをどう理解すべきか、その源流をたどっているうちに、そちらの世界に近づいてしまった、ということらしい。


事実、彼から聞いた、将軍達や参謀達の名言録のいくつかは、なかなか面白い。たとえばパットン将軍と言えば、戦車隊を率いてドイツと闘った、第二次大戦の米国の英雄だが、こんなことを言ったらしい:


・部隊はスパゲッティのようなものだ。押し出すことはできない。前線に立って引っ張る方が動く。

・指揮責任の95%は命令の遂行を確認することだ。正しく遂行されることに、粘り強くこだわらねばならない。

・やりかたまで指示するな! 目標だけを伝えよ! そうすれば相手は、きっと驚くべき方法を考え出すだろう!

・一段下の階級に指示し、二段下の階級の状態を把握しろ。

・指揮官の第一の使命は自分の目で見ること。そして実地見聞に出かけている姿を兵隊たちにさらすことだ。将軍も危険に身をさらして戦っているのだと態度で示すのは、他ならぬ将軍の仕事だ。

・判断は早すぎても遅すぎてもいけない。しかし最大の過ちはなんの判断も下さないことだ! オールドミスならだれでも知っている!

・成功の欠点は、その先に失敗がまっていることだ。成功とは失意の後でどこまで立ち直れるかの問題なのだ!


などなど。どれもなかなかいい。とくに最後のフレーズなど、亡くなったスティーブ・ジョブズの非凡な生涯を思い起こさせる(本当に惜しい人を亡くしたと思う)。


もう一つ、その同僚に教えてもらった話に、モルトケの戦略論がある。モルトケはプロイセンの参謀総長だった人である。その中で面白いと思ったのは、「戦略は個別だが、戦術は普遍的である」という言葉だった。戦略は、個々の戦争において大局的状況を判断しながら決めるものだ。しかし戦術というのは、もう少し小さな戦闘局面においてくり出す、一種の定石のようなものだという。


なるほどな、という感じである。前にも書いた(『戦略シンドロームと改善病
2010/10/24)が、わたし自身はあまり「戦略」という言葉を使わず、『シナリオ』という言い方をするようにしている。あの、ちょっと大げさな、しかもかすかに硝煙の匂いが漂う軍事用語を、ちょっと頭をひねって作った程度のプランに使うのは気が引けるからだ。


それでも、ときにやむを得ず使うこともある。たとえば、昨日はPMI日本支部主催のPMI
Japan Festa
という催しに呼ばれて、講演をしてきたところだ。テーマは海外プロジェクトとプログラム・マネジメントの勘所だが、サブタイトルが「リスク戦略を考える」だった。


もちろん、自分なりの言い訳はある。というのも、PMBOK Guideにはリスク対応の指針として、「回避」「転嫁」「軽減」「容認」の四つをあげ、これを『リスク対応戦略』と呼んでいるのだ。ちなみに回避とは、リスクの影響をさけるため、計画変更やスコープ縮小を行うこと。転嫁とは、リスクの影響を、責任とともに第三者へ移転すること。保険が、その典型だ。軽減は、リスク事象の発生確率や影響度を、受容可能な限界値まで低減すること。そして受容が、有効な対応戦略を見つけられない際に、プロジェクト計画を変更しないと決めることである。


ところで、別の場所であるとき、この内容を説明したら、大学院生の一人から「保険かけるだけのことを、戦略なんていうのですか?」と聞かれてしまった。その通りで、たしかに大げさなのである。その場は、教科書に書いてあるから、と言って押し通してしまったが、今ひとつ自分でも引っかかる。たしかにモルトケの定義をかりれば、この4種類の方策は汎用性があるのだから、『戦術』とよぶべきではなかったか。


それにしても、その後、いろいろな局面で「戦略」の議論にぶつかるたび、わたしの耳にはあの、“そんなものを戦略というのですか?”という若い声が甦ってくるのである。このプロジェクトの受注戦略をどうするのか。あの外注先とのネゴシエーション戦略は。そして、国の官庁の作る新○○戦略やら、企業がIR資料に書く××発展戦略やらを読むたびに、疑問の声が渦巻いてくる。それって、単なる数字を並べただけじゃないか。それって総花的な施策の列挙では。それって当たり前の手法です。それって頑張ろうの精神論だ。それって--それって戦略というのですか?


わたしが考えるに、何かの指針や方策が『戦略』と呼ばれるに値するとしたら、そこには三つの条件があるはずだ。


(1)全方位的ではなく、ある方向に集中していること。そのために、逆にある部分は手薄になることを覚悟の上で、戦いの場所を選ぶこと。これだったらたしかに、戦略的といえる。自分の資源は有限なのだから、どこかに集中して使う必要がある。方向性を選ぶ際には、なにかの見通し・仮説にもとづいて決める。


(2)短期的には損になるように見えても、長期的には益を生むような仕掛けであること。つまり、ある見通し・仮説にもとづいた、一種の投資である。これは(1)の条件を、時間軸上に展開したものであるとも言える。戦略的といえる物事は、どこかで「あえて弱点や損を承知の上で、強い部分をつくる」ことなのだろう。


(3)それを遂行するためには、自分の組織を変える必要があること。つまり、現有の陣容で、片手間でできるようなことは『戦略的』とよぶに値しないのだ。それをやるためには、自分の側でも変わる覚悟がいること。それが戦略的な行動のだ。


結局、これらをまとめると、「戦略とは、仮説にもとづく『賭け』である」とも言えるだろう。賭けだから、必ず勝つとは分からない。だから、自分の側にも覚悟を要求する。


もともと戦略というのは、計画と遂行がワンセット、車の両輪である。計画だけの戦略など、絵に描いた餅だ。また計画のない遂行は戦略ではなく、「出たとこ勝負」にすぎない。継続して、ある方向性を持って遂行していくためには、信じるべき仮説がなければならない。そして覚悟と。つまり、「覚悟してやらないものは戦略ではない」のである。これからもし、またあの“そんなものを戦略というのですか?”という声が聞こえたら、ぜひ自問することにしよう。自分は覚悟を決めて、これをやっているのかと。




マネジメントを専業化する分岐点のスケール
(2011/09/25)

スケジューリング学会は人数的にはこぢんまりした規模だが、親密な雰囲気のある学会である。元々は’90年代頃から機械学会やOR学会、経営工学会、計測自動制御学会など複数の学会の間で、共通領域として「スケジューリング」の重要性が浮かび上がり、共同でシンポジウムを開催したことがきっかけとなって生まれた学会である。わたしも10年ほど前、『革新的生産スケジューリング入門』を上梓した頃から参加しはじめたが、今年から「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」を立ち上げ、主査となった関係もあって、いろいろお手伝いする機会が多くなっている。


その学会の年1回の大会(上記の経緯から「スケジューリング・シンポジウム」という名称をつづけている)は、この3連休に大阪工業大学で開催された。今回は研究部会のイベントとして、パネル・ディスカッションを企画し、学会長である静岡大学の八巻直一教授と、以前からの知人である日本IBMの論客・中村実氏にパネラーを引き受けていただいた。テーマは主に“プロジェクトの価値と評価”をめぐってであったが、会場から活発な質問が出て、有意義な意見交換ができた。


ところで、そのパネル・ディスカッションの最後の方に出た質問で、デザインレビューやフェーズ毎のゲートやレポーティングなど、プロジェクトに関わる管理のオーバーヘッドが大きくなる傾向をどう考えるか、との質問があった。これはちょうど、管理過剰の問題について悩んできたわたしにとって、ちょうど痛いところをつかれる問いかけだった。八巻先生はISO
9000に代表されるPDCAサイクルの病(一度制度化されると自己目的化して、数年後には改善効果がないまま運用されるようになる)について言及され、中村さんはプロマネがレビュー対策やPMO対策みたいなものに走る傾向を批判的に紹介された。


この問いについて、わたしが答えたのはこうだった:自分の勤務先では、Man-Hour(以下MHと略す)のタイムシートはWBSコード別に記録することになっている。その中には「プロジェクト・マネジメント」という種別のコードもある。これが、プロジェクト全体で消費したMHの中で占める比率を分析してみた(対象は中規模以上のプロジェクト)ところ、ばらつきはあっても、ほとんどはある範囲内(10%内外)に納まることが分かった。逆に言えば、ジョブ毎にいろいろ特性や事情の違いはあっても、もしマネジメントに20%以上の時間を割いていたら、それはとりすぎと判断すべきだろう、と。


ところで帰り道、これを逆に考えたらどうだろう、と思ってみた。つまり、プロジェクト・マネジメントという機能が、独立した専門職を必要とするようになるのは、どんな条件なのか。


上に述べたとおり、マネジメントに割く時間は、全体のMHの約10%、多い場合でもせいぜい15%程度だろう。となると、約100人月の仕事(たとえば平均8名×12ヶ月程度)で、10-15人月分だ。つまり、最初から最後まで1人のプロジェクト・マネージャーが専任でマネジメント業務をやっても引き合うサイズとは、これが分岐点であろう。それ以下の仕事の場合、たとえば30人月(5人がかりで半年間)のプロジェクトだったら、3-4人月がマネジメント業務だから、全期間を通じて専任のプロマネをおく余裕はない。当然、プロマネも一部は自分の手を動かして仕事をしなければならない。


もっとも、同じ100人月でも、33人が3ヶ月働くプロジェクトの場合(仮にそんな仕事がありうるとしてだが)、プロマネ1人だけでは足りず、サブとしてあと2名程度がコーディネーション兼雑用係として必要になる勘定だ。まあ、33人の人間が同時並行して働くチームのお守りをするとなると、その程度の手間はかかるに違いない。つまり、プロジェクト・マネジメント・チーム(PMT)の出現である。


一般論として、平均N人の人間がMヶ月間働くプロジェクトでは、MN/10程度のマネジメント業務が付加的に発生する。これはすなわち、一月当たりN/10(人月)のマネジメント業務量だ。もしN>10(つまり組織の規模が10人以上)ならば、プロマネに専任者が必要になる。それ以下だったら、マネージャーは直接業務との兼業になるだろう。


むろん、実際のマンニングは、このようなN人×Mヶ月といった、長方形の配員になることはまずあり得ない。ふつう、最初は少人数でスタートし、ピーク時には大勢を抱え、また終結時には少人数に戻るというパターンを取る。ピーク時の人数は、全期間の平均人数の2倍以上になるのが常だ。そういう意味では、プロマネさんだって初期にはマネジメント専業ではなく、ある程度、設計など実作業に首を突っ込むはずだし、そうでなければ良いリーディングはできないとも言える。またピーク時にはプロマネ1人では足りず、PMTの形になる。ちなみにエンジニアリング業界では、たいていのプロジェクトはPMT組織をもち、組織的な調整と階層的意思決定をしていく。


先進的なITや宇宙開発など、技術的に高度で複雑な分野ならばマネジメントは難しいから、もっと比率も高くなるはずだ、という見解もあろう。それも一理ある。だが、例えばもっとずっと単純な力仕事的な業務だったら、マネジメントの比率はずっと低くて済むだろうか? エンジニアリング会社の工事管理などの経験から見ると、必ずしもそうでもない。つねに10%かかるとは言わないが、これが2-3%で済むかというと、決してそんなことはないのである。結局、頭脳労働だろうが肉体労働だろうが、人間集団を率いて動かしていく時には、それなりのマネジメントの手数がかかる証左なのだろう。


では、プロジェクトの規模が大きくなれば幾何級数的にマネジメントの手間も増えていくのか? エンジニアリング・プロジェクトの経験から見ると、不思議なことに、必ずしもそうはならない。マネジメントMHの比率は高まるが、少なくとも冪乗で増えていくような傾向は見られないのである。これは結局、PMT以外のプロジェクト実働チーム側もまた、階層構造化されて、その中で情報伝達や指示やローカルな判断・問題解決がなされていくからであろう。


そういう意味で、仕事の組織とは、生物の体組織とよく似ていると思う。最初(仕事が小さなうち)は、似たような細胞が、ほぼ同等の機能をはたしている。しかしある程度、規模が大きくなると、それぞれが果たす種々の機能が次第に分化して、専門職集団が生まれる。こうして、臓器や、筋骨系や循環系、そして神経系が進化してきた。マネジメント専門職の集団(PMT)というのは、神経系の一種だと思えばいい。全体の調整やら同期をとり、情報を伝達・蓄積するのが神経系の役割である。神経系もさらに成長すると中枢と周縁に分化するが、すべてのことが中枢に伝わり処理される訳ではなく、無意識の内に、ローカルに処理されることも多い。こうして、中枢系が水ぶくれすることを防いでいるのである。


わたし達の組織も生物に習って、適時、権限を委譲して、マネジメント系を軽くすることを考えないと、脳が重すぎて歩けない生き物になってしまう。人間の頭は体重の1割くらいあると思うが、どうみても筋骨系的には、これが限度であろう。それでも、ヘンな姿勢を続けているとてきめん、筋肉や循環に影響が出てきてしまう。パソコンに向かってこんな文章を書き続けているから、おかげで今日も肩が凝るのだ。


新任リーダー学・超入門(4) 測れないものはマネジメントできない
(2011/08/26)

Sさん。前回は、仕事の指示に最低限必要な4つの情報についてお知らせしました。それは「アウトプット」・「インプット」・「リソース」・「完了条件」の4つでした。今回はそれとは別の角度から、リーダーとして理解しておくべき事を書きたいと思います。


Sさんは、Action Listという道具をご存じですか。これはプロジェクト・チーム内で共有する、一種のTo
Doリストです。プロジェクトで、必要なActionが発生したら、期限と担当者を決めてリストに記入します。そして、毎週の定例ミーティングなどでステータスを追いかけるのです。「課題管理表」という名前で、顧客と共有する使い方をしているところもあるでしょう。呼び方は会社により様々です。Action
Listは典型的には、以下のような表になっています。


番号  アクション内容       記入日   期限    担当者  ステータス

---------------------------------------

12  マニュアル制作会社に連絡  7月17日 8月30日  佐藤  完了

13  C社に開発機を貸し出す   8月11日 9月10日  田中  -

14  営業部長にタイミングを相談 8月18日 9月15日  中村  -

・・・   ・・・          ・・・       ・・・

・・・   ・・・          ・・・       ・・・


これ自体は変哲もない道具ですし、広く使われています。ただ、このAction Listを見るたびに、わたしは思い出すことがあります。あるIT系企業のX社と共同で製品開発プロジェクトをやっていた時のことです。X社側は体制をかためるために、新たに一人、経験者を雇ってソフト開発チームのリーダーにすることにしました。Kさんというのが、彼の名前です。30代だったでしょうか。前は準大手のSIerにいて、X社に転職してきたそうです。


Kさんの初仕事は、週次のミーティングで挙がった作業項目をAction Listにまとめる仕事でした。ところが、数日後にメールで送られてきたAction
Listを見て、思わずわたしは部下と顔を見合わせため息をついてしまいました。その表は、Microsoft Wordの表機能で作られていたのです。


「ダメですね。これじゃ、使えないや。」わたしの部下は気短に言い捨てました。

「うん。・・ちょっと、うまくないかもね。」と、わたし。


なぜそう思ったか、おわかりでしょうか。Action Listは、わたし達が想定していた事と、現実の要求事項の間のギャップを調整するための道具です。だからプロマネやリーダーは、毎日これを眺めて暮らすことになります。その時、Action項目は全体でいくつあり、その中で未完了の項目はどれくらいあるのか、また一番期限に遅れているのはどれか、誰が一番多く抱えているのか、などを必ず気にかけるはずなのです。


ところが、Wordの表では、こうした数の分析がすぐにはできません。ということは、このK氏は、そうした見方に気を回したことが一度も無かったらしい事を暗示しています。普通だったら、こうした表はExcelその他、データ処理のしやすい道具で作るでしょう。


Actionの中には重いのも軽いのもあるのに、単純に数なんかかぞえる意味なんかあるのか? そう反論する人もときにいます。でも、そういう人だって、お宅は何人家族ですかと聞かれて、“大人も赤ん坊もいるのに、そんな質問に意味はない”とは答えますまい。日本の経済成長率はOECDの順序で何番目か、という質問に、“大国も小国もあるのにナンセンス”と言うでしょうか。


もしActionの手数に違いがあるというのなら、ABCとか松竹梅でもいいから、重みをつけて加重計算すれば良いだけです。問題は、自分のプロジェクトの状態やパフォーマンスについて、数値化しようという意識が少しでもあるかどうかなのです。


数字はいつも見ているさ、だって予算もスケジュールも工数も、しょっちゅう確認しているし、上からうるさく言われるじゃないか--K氏だって、聞けばこう反論してきたかもしれません。ところで、それは顧客や上司から要求されるから見ていたのでしょうか。要求がなくても、自分から測ったでしょうか。


測れないものはマネジメントできません。何かの状況をつかみたかったら、そして向上させたかったら、それを測るためのモノサシと基準が必要です。「あと少しです」「頑張っています」「出来は良いですよ」--こうした『言葉による形容』では、主観による比較から抜け出せず、検討しても決着がつきません。何かをどうにかしたかったら、改善や変革をしたかったら、対象を数字で測る習慣をつけるべきです。測りにくい対象でも、多少強引にでも数値化するマインドこそ、マネジメント・テクノロジー化への第一歩なのです。


そして、どのような時にはどのモノサシを選ぶべきか、その精度はどの程度の粗さか、それで何を見たいのか、つねに意識していかなければなりません。


K氏は残念ながら、一月ちょっとでその会社を辞めていきました。穏和な性格で頭もそれなりにいい人です。上司との折り合いその他、いろいろ事情もあったのだとは推察しました。彼は辞めていく時、わたしにだけメールを送ってきました(別の会社だから、かえって言いやすかったのかもしれません)。その中で彼は、憤懣やるかたないという調子で、「私の仕事は、工程表をつくるという事だったというのです!」と書いていました。


しかし、「当たり前じゃないですか。それが貴方の仕事ですよ」というのが、読んだわたしの感想でした。SE上がりのK氏は、開発プロジェクトのリーディングを、設計の指導か何かのように考えていたのでしょう。工程表作りなど、本筋とは無縁な管理的雑用だと。でも、それは勘違いです。それはちょうど、映画の助監督に採用された人が、現場の段取りやキャストとの調整をわきにおいて、脚本のストーリーばかりに首をつっこむようなものです。デザイン(What)とマネジメント(How)は別物であって、小さなプロジェクトではチーフ・デザイナー自身がリーダーを兼務することもありますが、それは脚本兼監督みたいなもの。デザイナー=リーダーが、本来の姿だと思うのは誤解です。


工程表作りは、立派なHowのプランニングです。そして、現実のスケジュールがプランからどれだけずれているかを測って監視していく。遅れたら原因の問題をつきとめ解決していく。これがリーダーに求められるマネジメントの仕事です。Sさんも、これから自分が仕事をリーディングしていかれる際は、「何をもってこの仕事のパフォーマンスを測ろうか」という視点を心にとめておかれるよう、おすすめいたします。


「探し物」という名前の時間泥棒
(2011/07/30)

ある工場に調査に行った。工場は2階建てになっていて1階に機械加工工程、2階に組立工程がある。ごく典型的な日本の工場レイアウトだ。金属部品を削ったり曲げたりする部品加工は、しばしば大きくて重たい工作機械を使う。だから1階に置く。他方、手作業中心の組立工程はさしたる設備は必要ないので、2階になる。これを逆にすると、2階に重たい機械を並べることになり、床荷重の確保や振動の防止、耐震強度などで建物に余計なコストがかかることになる。ちょうど戸建て住宅の設計でも、冷蔵庫や風呂桶など重い物のある台所や風呂場などは1階に置くのが通例であるように。


ところで、住宅の玄関が1階にあるように、工場の資材・製品の入出荷場も、普通は1階にある。家が斜面の途中にでもない限り、わざわざ2階から出入りするような口は作らない。組立工程は2階にあるわけだから、できあがった製品は1階に下ろし、逆に加工の終わった中間部品類は2階に上げなければならない。こうして、工場には必ず縦の物流動線が必要になる。そして、搬入した素材部品、加工した中間部品、ならびにできあがった製品の置き場所も必要だ。これらをどうレイアウトするかで、じつは工場の生産性はけっこう左右される。


さて、調査に行ったその工場で、組立ラインのそばに立ち、作業の様子を見ることにした。ちょうど生産は最盛期で忙しいはずの時分だった。だが、どういうわけか組立工程の作業者が寸暇を惜しんできびきび立ち働く、という感じを受けない。組立作業は奇妙に断続的に、ある意味では間延びしたテンポで行われていた。働いている人の顔は真剣そのもので、のんびりした表情はない。ただ、見ていると、数名一組で作業班が編成されているのに、その中の1,2名が、つねに作業場から出たり入ったりして持ち場から居なくなるのだ。


しばらく見ているうちに、だんだんと理由が分かってきた。持ち場を離れた作業者たちは、部品か工具のような物を手にして戻ってくるのだ。どうやら何か捜し物をしにいくらしい。この組立ラインには、主要部品は工程担当者が手押し台車で搬送してくる。また主なサブ部品は、作業場横の常備品棚に置かれている。だが、それでは足りない部品がしょっちゅう出るらしい。


組立ラインから中間部品倉庫に回って歩いてみて驚いた。倉庫は組立を待つ部品で一杯で、入らずにあふれた物が、近くのフロアに所狭しと床置きされている。この工場はすべての部品にきちんと現品票をつけているのだが、それでもこの中からめざす物を探すのは一苦労に違いない。中間部品倉庫の位置と大きさが適切でないせいで、こういう状態になっているのだろう。組立工程の作業者は、しばしば捜し物のために時間を奪われ、組立のスピードが落ちる。すると中間部品の消費が減るので、さらに倉庫の物が増え、捜し物がもっと大変になるというダウン・スパイラルが生じている。


あるいは、たぶんこの工場だって、20年以上前に建てられた時にはこれで十分だったのだろう。しかし、顧客の特殊仕様によるバリエーションが増えて、必要な部品の種類が増大し、現場の常備品棚や中間部品倉庫に収まりきれなくなったのかもしれない。いずれにせよ、この工場では組立がボトルネック工程のようだから、工場全体のパフォーマンスが、少なく見積もっても5%くらい落ちている、と推測された。工場のレイアウト設計は、かくも重要な問題なのだが、いまはそこには深入りしない。


わたしが問題にしたいのは、捜し物をしている作業者は、一所懸命に働いていると自分で考えているだろう点だ。たしかに、彼らが仕事をさぼっているとは、誰も非難できない。捜し物が出てこなければ、製品は出荷できないのだから、必要な仕事でもある。だが、この捜し物の時間は、付加価値創造には何ら結びつかない時間なのだ。


ミヒャエル・エンデの童話『モモ』には、“時間どろぼう”なる連中が出てくる。彼らは大人たちをたぶらかして、その時間を盗んでしまう。おかげで人々はゆとりを無くしていつも忙しく生きている。わたしは著書「時間管理術」を書いた際に、タイム・マネジメント能力を向上したいと思うのなら、自分の仕事にとって何が“時間どろぼう”なのかを考えてみるべきだ、として練習問題をつけた。また、タイム・マネジメントについて学生に教える際も、何が自分の“時間どろぼう”だと思うか聞くことにしている。通学時間、TVを見る時間、ネットで費やす時間、答えは様々だ。


この工場の例では、「探し物」が明らかに“時間どろぼう”だった。困ったことに、探す作業は主観的には立派に仕事をしている時間なのだ。タイム・シートをつける職場ならば、当然、作業時間として記録する。でも、企業全体から見ると付加価値時間ではない。その無駄は、部品の適切な置き場所と、探しやすい置き方の工夫を怠ったことで生じる。


そして、わたしたちも同じようなことを、オフィスでしているのではないか、とときどき感じる。わたしの職場のPCのハードディスクにはフォルダが何百も(もしかすると何千も)ある。ファイルサーバのフォルダ数は、その何倍もだ。そしてキャビネットに収められている膨大な書類ファイル群。その中をしょっちゅう、ひっくり返して何かを探している。米国のデイヴンポートという人によると、オフィスワーカーは平均して年間に140時間も、探し物に費やしているのだという。つまり、12ヶ月のうちほとんど1ヶ月は、無付加価値のことで時間を費やしているのだ。


なぜモノが見つからないのか。それは整理整頓の問題だ、という人がいる。たしかに正論だ。だが、「整理」と「整頓」を一口でいっしょにしていいのだろうか。書斎の中の本を、女中は整頓できるだろう。だが、整理は主人しかできない。整頓はいわば物理的な保管場所の整列と、通路の確保である。ところが、整理は「探しやすい」ようにモノを並べることである。整頓がハードウェアの保全の問題だとしたら、整理はソフトウェアの要求定義の問題なのである。整理するためには、最低限、これから使うもの、いつか使うかもしれないもの、そしてもう使い終えたものの認識と区別が必要だ。こういう当たり前の習慣を作らぬまま、やれITだマネジメント・システムだと流行り言葉を弄しても、空しいだけだと思うのである。


新任リーダー学・超入門(3) 仕事を指示するときに必要な事
(2011/07/22)

Sさん、ばたばたして前回から1月以上、間が空いてしまい、どうもすみません。前回は「マネジメント」という言葉を取り上げて、世の中に流布している思い込みと誤解についてお話しした訳ですが、そろそろ前口上はお終いにして、具体論に入ることにしましょう。


マネジメントが「人を動かして目的を達成すること」を意味する以上、他人にどうやって働いてもらうか、が出発点になることは間違いありません。じゃあ、動いてほしい他者と、目的を共有する? たしかに、それはそれで、大事なことです。でも、目的を共有したからと言って、その相手が自発的に、ちょうど自分の求めるとおり動いてくれるとは限りませんね。


それに、たとえば外注先に何かをしてもらうような場合、先方の目的は自分の目的とは異なるでしょう。こちらは新製品で何か最新の技術を試したいと思って、部品加工を発注する。しかし相手は、当方の新製品という目的には無縁で、受注金がほしいだけかもしれません。両者をつなぐものはお金だけ、という関係は企業間ではごく普通のことです。


さて、人に動いてもらうためには、こちらから指示ないし依頼を出す必要があります。指示(Order)と依頼(Request)の違いはお分かりですね? 当方に命令の権限がある時には「指示」できます。相手の側に、するかどうか判断する権利がある場合は、「依頼」をすることになります。上司-部下の関係では、基本的に指示になります。部署間の関係では、社内の権限規定に従います。たとえば、生産管理部から製造部に生産指示(Production
Order)を出したり、営業部から物流部に出荷指示(Shpping Order)を出すのは、普通のことでしょう。一方、たとえば保全部から資材購買部に対しては、購入依頼(Purchase
Request)をかけることになるかもしれません。他社に発注する場合は、発注書(Purchase Order)という名前の指示を出すことになります。


では、その「指示」や「依頼」には、具体的にどのような事柄を指定べきでしょうか? 生産指示や購買依頼などは伝票化されていて、たぶん書き込むフォーマットが決まっています。しかしオフィスで、ホワイトカラー同士が非定型な業務を指示するときには、いちいち伝票なんか書きません。とはいえ、たとえ伝票化されていなくても、そこで規定すべき最低限のデータ項目は決まっているのをご存じですか。人を動かす時に最低限伝えるべき情報--これこそマネジメント入門の第一歩ですね。


指示に必要な基本要件は、4つあります。「アウトプット」・「インプット」・「リソース」・「完了条件」の4つです。誰かに仕事をしてもらう時には、必ずこの4種類の情報を伝えなければなりません。


アウトプット」とは、仕事の成果物です。何を作って届けてほしいか、を指定します。ものづくりの仕事の場合は、成果物は具体的な部品や製品ですから、分かりやすいでしょう。でも、成果物がモノではなく、紙や電子媒体に書かれた情報の場合もあります。たとえば、調査という仕事を依頼した場合の成果物は、「レポート」という情報です。また、モノと情報の両方を、アウトプットとして要求する場合も、もちろんあります。製品と同時に、その性能テストの結果表を添付して提出するようなケースですね。


2番目に必要な要件は「インプット」です。インプットもまた、モノの場合と情報の場合があります。ものづくり系の仕事では、インプットは素材や部品など、最終的には成果物の中に組み込まれてアウトプットされるモノですから、イメージしやすいでしょう。情報のインプットの場合は、その作業(知的作業のはずですが)に必要なデータや情報源を指します。市場調査の依頼なら、ベースとなる統計資料や、ネットの情報源がそれにあたります。レポートや論文を書く時に、「参考資料」として挙げるのが情報のインプットです。


三番目は、「リソース」です。リソースについては、わたしのサイトでも何度か述べましたが、なかなか日本ではなじみの薄い、定着していない概念です。なまじ「資源」という訳語があるため、通じたような気になりますが、誤解も多いため、もう一度ここで説明しておきます。リソースというのは、仕事の遂行中は占有するが、仕事が完了したら解放される性質のものです。たとえば、ものづくりでは、工作機械や工具、作業者、作業スペースなどがそうです。オフィスワークならPC・プリンタなどもそうですね。


リソースの特徴は、それ自体は成果物に組み込まれ消費されて無くなったりせず、ほぼ元のまま残る(多少は減耗するが)ことです。とくに、作業者・担当者というリソースを、ヒューマン・リソースHuman
Resourceと呼びます。


余談ですが、よく「経営資源は人・モノ・金」という言葉を聞きますが、正確に言うとこの中でリソースなのは人だけです。モノ(部品材料)は製品となって消費されますし、金も消費されます。さらに「情報」も加えて四大経営資源と呼ぶ人もいますが、情報は作業中だけ占有される性質のものではありません。


最後の要件は、「完了条件」です。指示するその仕事は、どのような条件の下に完了すべきか。たとえば、完了期日(納期)はいつなのか。成果物は、どう受け渡すのか。それを規定します。以上をまとめると、以下のような表になります。





















































要件 項目 内容
(1) アウトプット 成果物の品目・数量・仕様
出力情報 など
(2) インプット 材料品目
入力情報 など
(3) リソース 担当者
道具・機械
作業場所 など
(4) 完了条件 期日
受け渡し方法 など


「アウトプット」・「インプット」・「リソース」・「完了条件」の4つが決まれば、どのような仕事であるかが決まります。他人に仕事を指示・依頼する時には、上の項目をカバーした表を作って、渡すようにします。


逆に、Sさんが誰かから(たとえば上司から)仕事を頼まれる時には、上記の4項目をきちんと確認し、表に書いてからスタートすることをお勧めします。ことにオフィスワークでは、こうした要件は曖昧にされがちで、後で「自分の暗黙の期待と違った」云々、と言われることが多々あります。自分の仕事にメリハリをつけるためにも、(まあ上司が上記の表を記入して渡してくれることが理想なのですが、たぶんあり得ないでしょうから)自分の頭の中で、表を作って整理しながら指示を聞く習慣が必要なのです。


なお、「インプット」や「リソース」は、相手が考えるべき事であって、こちらが指定しなくてもいいのではないか? という疑問を持たれたかもしれません。それは場合によります。相手と同じ仕事を繰り返し行っている時や、相手が材料もリソースも自分の責任で手配する約束の時は、それでもかまいません。ただし、その場合は、できあがった成果物の品質についてはあまり文句は言えません。とくに情報がアウトプットとなるオフィスワークでは、成果物の品質はインプット情報や担当者(リソース)に大きく依存します。だから、品質のリスクは、頼んだSさんの側に残ることをお忘れなく。


今回は、これで終わりです。他者に対し仕事の指示を出す時、最小限ここに書いた4要件はつねに意識するようにしてください。そのうち、マネジメントも中級になってくると、さらに追加的な項目が必要になってきますが、誰でもまずは初級からです。この表が、Sさんのリーダー業務の滑り出しの助けになることを願っております。




農業のサプライチェーンを考える
(2011/07/04)

先週、農商工連携セミナーの準備で、また北埼玉に行った。今度は農家の見学だ。わたしは工場見学が大好きなのだが、生産農家の見学は初めてだ。その前日、「日本一熱い町」熊谷市は気温39.8℃を記録した。一種のフェーン現象らしいが、風がけっこう強く、"まるでヘアドライヤーの温風の中に立っている如き"状態だったという。だが、当日はそれほどひどい天気ではなかった。「しかし、この頃は異常気象が『普通』になってしまって」と、見学を受け入れてくださった田沼氏はいわれる。


「農業の仕事は作物との会話です。今、作物は何をほしがっているか、それを感じ取る技術がいります。天気や環境は毎日変わるし、『これで正解』というのは無い。」–こういう話を聞くと、なんだか部下を持つマネジメントの仕事との奇妙な類似性を連想するわたしは、きっと芯から産業社会に染まりきっているのだろう。


田沼氏は現在、主に水稲・人参・ネギを作っておられる。作付面積は三種類でほぼ同じだが、収入の構成比率は、水稲:人参:ネギ1:3:6
くらいだという。稲作が一番保護されて、儲かるものだとばかり思い込んでいたので驚いた。逆に言うと、それだけ人参やネギの生産性が高いのだろう(今年は人参が安いが、普段はもっと良いらしい)。農地1反あたりの年間収入を「反収」と呼び、農業経営の基本単位であるが、田沼氏のやり方では野菜の方がずっと反収が高いのだ。ちなみにキャベツ・ブロッコリーで1反30万円くらいだ。ネギだと1反100万円以上行くという。


それにしても、いくら有名な深谷ネギの産地とはいえ、ネギはさほど値段の高い野菜ではない。なぜそれだけ反収が高いのか。不思議ではないか。その秘密はどうやら、出荷期間の長さと関係があるらしい。氏のやり方では、ネギの定植は1ヶ月間の間だが、出荷期は9ヶ月間もあるという。ほぼ同時に植えて、収穫の時期をそれだけ長くするためには、肥培管理などの技術が必要だ(肥培は「ひばい」と読む)。また必要に応じて葉先だけを刈り取ったりもする(ネギはすぐに伸びてくる)。そうして、それぞれベストな時に出荷する。ちなみにネギの一番の旬は冬で、霜が降りる頃に味の差が出るという。ネギの品種は全国同じだが、その差は育て方の差だ。


田沼氏は機械を使った省力化にもかなり積極的に取り組んでいる。大家族が当たり前だった昔の農家ならいざ知らず、現代ではどこも少数の手しかない。田沼氏に、ネギの自動定植機や、自動収穫機を見せてもらった。機能としては、稲作のコンバインなどと同様だが、機械メーカーと開発段階から協力したという。それでも高価なのだが(水田用機械と違い、量産効果が出にくい)、これなしではやっていけない、といわれる。田沼氏のネギは、幼苗栽培である。自分で育苗し、機械の力を借りて植え付ける。これが省力化では一番の方法だという。育苗は、タネ屋さんも定植機を作って温室管理した苗を売っているが、自分で育苗すべきだ。育苗が、一番技術がいる。県の普及所の指導員さんも、そこまですべては教えきれない。–これが氏の意見だ。


なるほど、と感服したが、まだ何か論理のつながりが欠けている気がする。機械化は、原価低減(省力化)には役立つかもしれないが、ネギの売価を上げはしない。では出荷先についてはどうなのだろうか? 氏は深谷の生産市場に出荷している。生産市場の買い手の8割以上は転送する仲買業者と地元スーパー・チェーンだ。市場は、買う側の顔が見え、要望が分かる点が良いのだそうだ。また売り手も「生産者番号」で顔が分かる。


ちなみに、20年前からJAには全然出荷していない、という。納入は午前11時までという制限がある(生産市場には日中の制限はない)。農協出荷は京浜の市場向けが多く、運賃もかかる(10kgで80円かかる)。そして販売手数料を25%も取られる。つまり年に軽トラック1台分くらい収入が違ってくる。県北で収穫し、農協経由で東京の青果市場に持って行き、また戻ってここらのスーパーの店頭に並べられる。往復だけ無駄ではないか。昔は市場も東京集中だったが、今は地産地消になった。


これをきいて、前回「埼玉産直センター」で聞いた話を思い出した。あちらでも、生産者と組合は作付契約をして、収穫したものは基本的に全量出荷する。つまり農協には出さないわけだ(地域の義理などがあるから、完全にゼロにはならないらしいが)。なぜ、農協を通さないのか。それは、農協→卸売市場→仲買→小売り、という長いサプライチェーンに問題があるからだ。


どういう問題か。非効率、というのも一つの問題だろう。手数料の増加、輸送の長距離化・大ロット化などがある。また、古くからの「市場」を通すことで、消費者のニーズが見えにくくなることも障害だ。


だが、最大の問題は、サプライチェーンの需給調整機能が働きにくい点にある。サプライチェーンには、種々の変動の結果、需要も供給も変動するリスクがある。もし供給が多くなれば在庫の形で、また需要が高まれば納期(バックログ)の形で、リスクの吸収と調整が行われる。しかし、困ったことに野菜はあまり在庫がきかない上に、消費者はバックログも許さない(え、キャベツが品切れなの? じゃあ、今日は別の料理にするわ)。その結果、需給調整機能はもっぱら、価格によって行われることになる。こうして相場の乱高下が起きやすくなる。いや、それだけではない。古くからの農協関係者には、どうも「相場」が逆に儲けるチャンスに見えるらしい。そういう面も、無くはないだろう。しかし大組織ならともかく、各農家はそれでは生活のメドが立たずに困ってしまう。


それを解決する方法が、出荷期間を長くすることだったのである。いわば、畑に「在庫」しておく方法だ。需要が強い時には多めに出荷し、弱まれば出荷を遅らせる。無論そのためには、水・肥料・農薬そして幼苗の定植など、細心の注意が必要となる。それでも、出荷期間を長くして出荷量を平準化できれば、相場の変動に巻き込まれにくくなる。なお、「平準化」という生産管理用語を使ったが、これは工場などにおける平準化とは違った狙いがある点に注意して欲しい。工業製品は基本的に、いつ作るかは好きな時に決められる。作業負荷のばらつきを抑えるために、また「作りすぎ」を防止するために、平準化するのである。一方、農産物は季節性の強い制約がある。だから一時にたくさん出来てしまう。これから逃れるために出荷の平準化を行うのである。


サプライチェーンの形は産業により、様々である。しかし、共通していることがある。それは、需給のギャップが生じるリスクがつねに存在する点だ。そのギャップを、自ら調整する能力を持つ者が、そのサプライチェーンの支配力を持つ。逆に、調整能力の最も小さい者には、つねにリスクが押しつけられることになる。自動車のサプライチェーンと家電・電子機器のそれが似て非なる理由は、ここにある。自動車はメーカーが支配力を持つ。しかし電機業界では、小売りの側がヘゲモニーを奪ってしまったのだ。そしてしわ寄せを食うのは、どちらも下請けの部品サプライヤーである。


田沼氏の知り合いに、化粧品関係の下請け工場の経営者がいるが、農業に興味を持っているのだという。量産型の工場は、はたには良く見える。だが下請けは注文がなくなれば収入の道はない。農業は、とりあえず作れば売れる。むろん、そのためには販路が必要だが、今は農業もやり方で差が出る時代だ。そう語って、田沼氏は笑顔になった。


農業に日本の未来を感じ取る
(2011/06/21)

埼玉県北部の岡部という町に行って、「埼玉産直センター」の見学をしてきた。文字通り、農産物の産地直送を扱う団体である。農事組合法人という法人格を持ち、県北一帯の227生産者(=つまり農家)が組合員となっている。主な産物はミニトマト、トマト、苺、キュウリ、小松菜、ネギなど。組合員の畑で穫れた野菜を集荷して、仕分けし(一部加工して)納入先に発送する。主な納入先は北日本の生協と、一部スーパー、チェーンストアである。年商26億円で、国内でも有数の規模を持つ農事法人だ。法人化して、もう30年近くになる。


産直センターの施設それ自体をみると、製造業における物流センターと同じように見える。倉庫(野菜のため冷蔵倉庫)があり、仕分けとパッキングの作業場があり、出荷ヤードがある。主力のミニトマトの等級別仕分けとパッキングは機械化されており、自動ラインが2ライン並んでいる。ラインに金属探知機が組み込まれているのが珍しい。ミニトマトはそのまま生食するので、万が一にも金属片(ホチキスのかけらなど)が入り込まないようにしたのだそうだ。あとは手作業による仕分けとパッキングである。出荷トラックは1日約20台程度で、入荷は各生産者が自分で持ち込んでくる。


年商を組合員数で単純に割ると、一人1,100万円以上になる。農業の原価率はよく知らないが、まあまあの収入ではないだろうか。このあたりは生産者一人あたり農地のかなり狭い地域だから、ハウス園芸ものが多いとはいえ、生業として成り立つ数字だろう。それよりも大事なのは、収入に安定性があることだ。組合では年に2回、各生産者との間で作付面積・品種と出荷時期・価格の取り決めを事前に行う。「昔は一日働いて100円にもならない日があった。それではとてもやりきれない。価格に見通しが立つなら、やる気も起きてくる。農業を続けていけるような仕組みにしようとの願いで、ここまで続けてきた。」と専務理事の山口さんは言われる。


それが可能になった理由は、生協や大手チェーンなどと直接、(卸売市場を通さずに)年次契約してきたからだ。集荷し選果・出荷するだけなら農協と変わらない。違う点は、青果市場という価格変動の大きな流通メカニズムに委ねない点だ。ついでに言うと、産直で出荷すれば、農産物はすぐに現金化できる。ところが農協を通すと、お米の場合は、なんと代金回収が3年後だという。古米という名の在庫があるからだ。


こうした話は、すべて聞き書きである。じつは診断士仲間の河野先生に頼まれて、2年ほど前から「農商工連携」の人材育成事業というセミナーをちょっとだけ手伝っている。講師としてプロジェクト・マネジメントの勘所を、初心者向けに説明する役割を受け持っているのだ。わたし自身は都市近郊育ちで、農業のことなど何も知らない。それでも、管理技術=マネジメント・テクノロジーというものは良くしたもので、分野を問わず応用が利くことになっている。


とはいえ門前の小僧がちょっとずつ農業にまつわる話を聞き、見聞などをするうちに、わたし達の社会の基盤であるはずの第一次産業がいかにねじくれた構造になっているかを知るようになった。上に書いた「一日働いて100円にもならない」が典型である。何も農地が狭いとか日照りが続いたとかではない。市場経済に押されてそうなるのだ。“豊作貧乏”などはその典型かも知れない。沢山働くと、かつ天候がよいと、マイナスになって自分に降りかかってくる。これで「農業を引き継ぐ若者が居ない。近頃の若者は・・」などと嘆いてみても、まったく無意味ではないか。若者のこころざしの問題ではない。


このような矛盾が起きる理由は何か。わたしのような第三者の目から見ると、はっきりしているように思える。サプライチェーンが歪んでいるのである。サプライチェーンの需要と供給を一致させるマネジメントの仕組みが歪んでいる。需給にギャップがある場合、そのままでは在庫か価格が調整機能を果たすことになる。ところが農作物(青果類)は基本的に在庫がきかない。冷蔵しておけるのはほんの数日間で、あとは価値が無くなってしまう。そのために、価格が数量調整の歯車になる。だからちょっとした需要の変動が価格の乱高下につながる。お米の場合は在庫がきくが、こちらは国策で価格を高めにしてしまっている。だから在庫が無尽蔵に増えていってしまう。


したがって必要なのは、中期的な需給の計画と、短期的な調整機能である。これがサプライチェーン・マネジメントの中核なのだが、このような発想が従来の農業政策には全く欠けていたのだろう。かわりにあったのは、奇妙な補助金的発想である。休耕田など、仕事を休むと補償金がもらえる。そうこうしているうちに、農業を継ぐものがどんどん減っていき、後に残ったのは広大な耕作放棄地である。


河野先生の観察によると、面白いことに、産業誘致策の成功した県には、ちゃんと農地が残っているのだそうだ。理由は、息子世代が家にいるからだ(自分の家に田畑があれば、兼業でだって少しは続けようという気になる)。一方、産業のない県では耕作放棄地がやたらと目につく。それが特に目立つのは、原発立地県であるという。原発があると県や自治体にはお金が落ちるが、結局農業のためには活きてこない。過疎対策で誘致したのに、かえって過疎を生むのだ、ということらしい。


しかし、農業統計の数字をよく見てみると、じつは農地の集約化がこの5年くらいで急速に進んできていることがわかる。それを可能にしたのが農業法人だ。法人経営というと、なんだか大企業が農業の世界に入ってきて儲け主義で云々、というステロタイプな印象を持つ人もいるようだが、主役はあくまで農業従事者である。冒頭に挙げた埼玉産直センターなどは、その一つの例であろう。生産者が中心になって、法人体制を作る。さらに、自ら農地を有償で借り上げて、生産効率を上げるところも増えている。なにせ跡継ぎが居ないし、先祖から受け継いだ農地を荒れさせるくらいなら、人に貸した方がなんぼかましだと思うのも当然だ。そうした法人はまた、日本の製造業などの技術や知恵を学ぶ意欲も高い。


というわけで、農商工連携のセミナーを、今年も手伝うことになったのである。ちなみに「農業分野の生産性向上のためのIT・IEプロジェクトマネジメント研修」というのが今年のタイトルだ。興味のおありの方は、河野経営研究所の募集ホームページをのぞいてみてほしい。申込期限はあと1週間足らずだが、無料である。なぜ無料かというと、農商工連携というのは、経産省の補助金事業だからだ。なぜ農業なのに経産省!? と不思議に思うかもしれない。でも、経産省はTPPによる「第二の開国」をねらっているから、日本の農業にも強くなってほしいという意図(下心?)があるのである。


日本の農業をここまでおかしくしてしまったのは、政治家と役人(農水省)の無定見・無策だったのだろう。護送船団的な補助政策と、厳しい参入規制。そして奇妙な序列意識と、プロダクト・アウトの発想。日本が昭和時代に作り上げたシステムは、どの業界もすべてこれだ。無論その裏側には、民間の横並び体質と過当競争もあっただろう。農業の場合、『貧農史観』も尾を引いていたのかもしれない。しかし、このような保護政策のおかげで、温室育ちの野菜のように、環境変化に耐えられない産業があちこちにできてしまった。


「TPPで日本の農業は滅びる!」という意見も多い。でも、TPPがあったって大丈夫、今の農業の流れをみると、きっと負けないはず、というのが河野先生の持論である。わたし、もそうであってほしいと思うし、それだけのポテンシャルを日本人は持っていると信じている。ご存じだろうか? この2,3年、農業系学科への大学志望者が急増しているのだ。東京農工大学では、農学部の入試レベルがとうとう工学部を抜いてしまった。若い人たちが、農業に新しい希望を持っている。その希望をつぶさずに育てるのが、わたしたち大人の使命だと思うのである。


新任リーダー学・超入門(2) マネジメントとリーダーシップというコトバに気をつけよう!(2011/06/12)

Sさん、丁寧なご返事ありがとうございます。おっしゃるとおり今日の企業は、規模の大小を問わず、設計・製造工程のいろいろな部分を外注に頼っていますね。だから、新人の頃から「人を使う」立場で動かざるを得ない--Sさんのお言葉を借りれば、“技術を極めることを最初から半分あきらめざるを得ない技術者”である訳です。じゃあ最初から「人を使う」マネジメント職として育ててくれるかというと、そうでもない。とても中途半端な育て方じゃないかという憤懣をもたれるのも、ある程度は理解できます。


前回の『新任リーダー学・超入門』にも書きました通り、「リーダーシップ」というのは、くせ者の言葉です。そして最近流行りつつある「マネジメント」も同じくらい危ない言葉でしょうね。サン=テグジュペリの「星の王子さま」には、たしか“言葉とは誤解を生み出すもと”だ、というようなセリフがあったと思うのですが、とくに外国生まれの言葉には気をつけた方がいいのです。スパゲッティの話を聞いて、ああ、それはうどんのことなんだな、と素敵に滑稽な理解をしてしまう可能性がよくあるからです。


日本語のマネジメントが英語のManagementとどう対応し、そしてどう違うか、ご存じですか? 「マネジメント」によく似た日本語には「経営」と「管理」があります(いずれも「する」をつけて動詞としても使います)。一方、英語におけるManagementの近親語というと、Administration,
Controlが思い浮かびます(これらも動詞の名詞形です)が、そちらの区別はご存じですか?


英語の方から先に説明しましょう。Management, Administration, Controlはいずれも「管理」と訳されることが多いのですが、意味はずいぶん違います。Manageという動詞には、“暴れ馬を乗りこなす”といった語感がともないます。"I
can manage."には、何とかやり遂げてみるよ、といった意気込み、苦心、あるいはリスクなどを連想します。一方、Controlは「制御」とも訳されるように、より精確さが伴います。だからControlは道具や機械といった無生物を対象に使うことが多いのです。"I
can control."には安心感の響きがするのですね。"I can control my car."は車の運転の自信のほどを示します。これが"I
can manage my car."だと、君の車は暴れ馬みたいに言うことを聞かないのか、と思われます。


ということは、I can control my job.とI can manage my job.では、全然意味が違うのですね。その差は、リスク感覚や意志決定の有無です。入国審査は英語でPassport
controlといいますが、パスポートを一つ一つ参照して規定を満たしているか確認し、記録をつける行為がcontrolです。個別の担当官が入国を「リスクテークして決定する」権限を持っている訳ではないので、Passport
managementだったらおかしい。


あるいは、Sさんもご存じの制御理論の概念を借りれば、control業務はfeedback制御の範囲内であり、manage業務はfeed
forward制御やモデル予測制御の次元である、と言えるかも知れません。


じゃあAdministrationは何かというと、日本企業でたとえるなら「総務」の仕事に近い。働く環境を保つための諸処の雑用を含む仕事です。「行政官」の仕事と言ってもいい。え? だったら経営学修士をなぜMBA
= Master of Business Administrationと呼ぶのか? Business Administrationこそ「経営」ではないのか--こうした疑問がわくかも知れません。答えはYesでもありNoでもあります。MBAという名のコースが米国で初めて設置されたのは1908年のハーバード大学でしたが、一種の妥協的な命名で、当時の総長室はこれを「醜い呼称」だと言ったのだそうです。


以上を整理すると、こうなります。


(1) Management やっかいな対象を、先読みとリスクテークしながら、動かすこと

(2) Control 主に無生物を対象に、決まった基準に合うよう、御すること

(3) Administration 働く環境を保つために、手続きどおり記録しサポートすること


さて。日本語の「経営」「管理」に目を向けてみると、ここには明らかに地位に相応する区別があります。経営者と言えば、役員以上です。一方、課長も係長も中間「管理」職です。社長の仕事と課長の仕事には、質的な違いがありますよね? でも、両者の仕事の区別は、(不思議なことに)英語では表現できません。社長の仕事もmanagement、課長の仕事もmanagementです。英語でなんとか「経営者の仕事」を表現しようとすると、functions
of the executiveなどと言う必要があります。


だんだんと、スパゲッティとうどんの違いが見えてきましたか。英語のManagementは、人に仕事をしてもらうための間接的業務のうち、リスクと意志決定を伴う部分を指しています。日本語のマネジメントには、そういう含意はあまり無い。そのかわり、人の上に立つ地位の含意がある。たとえばドラッカーのような経営学者がmanagementという場合、経営者の業務のうち、manageする機能を意味している。ところがこれが翻訳されたとたん、うっかりすると「管理者の権能」全般として受け止められかねない。機能と権能。誤解にご注意、です。


それでは、リーダーシップの方に話を進めましょう。Leadershipは英米人の大好きな単語です。にもかかわらず、冷静に訊ねてみると、Leadershipの正確な定義は誰もまだ下せていないようです。皆がLeadershipを信じている。でも、誰も言葉で明確に述べることはできない。不思議だと思いませんか。


リーダーLeaderとは、同種の職能集団、あるいは対等な個人集団における牽引役、手本です。これは前回もご説明しました。Leaderは民族移動や西部開拓のようなときには、必須です。ゲルマン系諸民族や、米国人がLeadershipを好きな理由は分かりますね。むろん変化の少ない環境でも、リーダーは必要です。それは、後進の若い人たちへの手本として、人間の成長のために重要な役目を果たします。


ついでに言うと、英米では、リーダーは手本となり、権威(つまりフォロワーからの尊敬)によって人を引っ張る英雄、というイメージがあります。これに対して、マネジメントとは尻を叩くもの、権力と金とルールで(つまり恐怖で)人を追い立てるもの、という感覚がある。


この「英雄」の神話的でロマンティックなイメージこそ、じつは英語のLeadership概念の中心にあるものです。英雄である以上、皆の目標にはなるが、現実はあちこちに居るはずはない。この国には100万人単位の業務リーダーがいるはずです。でも、この国に100万人もヒーローがいると思いますか? だから、職場の「業務リーダー」が皆、英雄的「リーダーシップ」を発揮する、というのはありそうもない話です。これは英語をカタカナに倒したが故に生じる誤解です。


では、その数100万人のリーダーは何を発揮すべきなのか? こたえは英語的な意味における「マネジメント」だ、ということになりますね。マネジメントはロマンティックでなく、もっと散文的な仕事、でもこの世のあちこちで実際に必要な仕事なのです。滅多に見られぬものではなくどこにでもあるもの、目覚ましいものではなく目立たぬもの--それがマネジメントです。なんだかSさんの勇ましい勤労意欲を阻害しているような気もしますが、これがわたしの現実認識です。


この国の昨今の情勢をみていると、わたし達は「強いリーダー」「神話的リーダー」を求めているようです。震災、原発事故、そして復興を巡る政財界のすったもんだでは、トップの首をすげ替える議論ばかりがはびこっています。○○じゃあダメだ、だったら××ではどうか・・。わずか1年足らずで追い立てる。今や日本では、リーダーは「消耗品」であり、使い捨ての「消費財」になってしまった観がある。どうしてこうなるかと言えば、仕事の成否はリーダーの人格で決まる、という信念が漠然と広まっているからでしょう。


わたし達にいま本当に必要な議論は、「誰がやるか」ではなく、「何をやるべきか」ではないでしょうか。つまり、リーダーシップの議論ではなく、マネジメントの議論です。話が拡がってしまいましたが、Sさんには地位や人名ではなく、ぜひ仕事の中身に集中して、頭脳を使ってほしいと願う次第です。



新任リーダー学・超入門
(2011/05/21)

Sさん。昇格おめでとうございます。お知らせをいただいたのに返信が遅くなって申し訳ありません。


いよいよ「リーダー」格になられたわけですが、この1ヶ月間のご感想はいかがですか。思ったより面白い、とか、思ったほど仕事の中身は変わらなかった、とか、感じ方はいろいろあると思いますが、ともあれ「マネジメント」職に一歩、踏み出されたわけです。


それにしても、「リーダー」という職名は不思議なものです。わたしの業界では「リード・エンジニア」という言い方をしますが、まあ実質は同じです。課長とかマネージャーではない。でも、責任ある立場で、後輩をまとめる仕事を任されます。小さな案件ではプロジェクト・リーダーとして、直接顧客と折衝する必要にも迫られる。つまりリーダーとは、管理職手当の付かない、しかも残業代はしばしばサービスさせられる立場に与えられた名前だ、と皮肉混じりにおっしゃりたくなる気持ちは分かります。


リーダーにはリーダーシップの発揮が求められる--それが、上の方々の期待とのことですが、この「リーダーシップ」もまた、くせ者の言葉です。もともと、英語でLeaderというのは文字通り、先導(lead)する人、の意味です。どこかに向けて移動する、一群の人たちの先頭に立つ者です。ここには格別、上司部下とか指揮命令とかいった権力関係はありません。英語のLeaderは、同格の人たちの中で筆頭の人物を指す言葉なのです。ちょうどSさんがお得意の楽器にたとえれば、オケの中の独奏者みたいなものです。


ところが一方、Sさんが今度なられた「リーダー」職は、同じ職能を持つ技術者集団を引っ張る立場ではありますが、同時にマネジメントすることも求められています。この二つの仕事の違いがお分かりでしょうか?


たとえばSさんが映画監督になったと想像して下さい。監督のSさんは、シナリオに従ってカット割りを考え、カメラマンや照明に準備させます。そして主演女優に演技をこう指示するのです。「そこでカメラの方に振り向いて、涙を流すこと。」 さて、そのとき女優が「どうやって泣くんですか? 悲しくもないのに涙なんて流せません!」こう答えたらどうしますか? 


「そんなことは自分で考えなさい。貴女はプロの女優なんだから。」--これが「マネジメント」の答え方です。マネジメントとは、他者に仕事をしてもらうことです。その仕事は、必ずしも監督自身ができるとは限らないし、できる必要もない。ただ、ほしい結果(アウトプット)だけを指定する。やり方のプロセスは相手に任せる。これがマネジメントです。だからこそ、マネジメントは、複数の異なる職能をたばねて動かす事ができるのです。


これに対し、「自分の感情を集中して、過去のある場面をなぞりながら、顔をゆがめてごらん。そうすれば、自然に涙が流れてくるから。」--こう指示したら、それは「コーチング」の答え方です。コーチングは、固有技術における上手なやり方(プロセス)を教える。コーチは当然、相手よりもうまくできる(あるいは、少なくとも過去には上手だったことがある)必要があります。


日本の会社はほとんどどこでも、初級技術者(担当者)からはじまって、熟練し経験を積むことで、職位の階層を上がっていく、という人事制度をとっています。新入社員の時には、100%固有技術の世界で働きます。そして昇格昇進し上級管理職になると、ほとんど100%マネジメントの仕事になる。ちょうど図のような感じで、固有技術とマネジメントの比率が変わっていくのです。そして、リーダー職は、固有技術70:マネジメント30、くらいの比率でしょうか。固有技術の部分は、自分で手を動かす仕事もありますが、部下へのコーチングの仕事も含まれるのです。



問題は、図で水色の部分、すなわち「マネジメント」のスキルが、きちんと組織内で教育されないし、十分認知もされていない点にあります。マネジメントのスキルが必要なのに、そこを気合いと根性の「リーダーシップ」で乗り超える、なんて期待が漂っているのです。


マネジメントのスキルは、実際にはハード・スキルとソフト・スキルに分けることができます。ハード・スキルとは、テクノロジー(技術)として形式化し、またシステムにできる知識です。たとえば、モダンPM理論で言うEVMSだとかWBSだとか、生産マネジメントならば経済ロット量や最小スラック順だとかいった技法で、これらは本や講義で学べるものです。ハード・スキルは「マネジメント・システム」化することができる点が特徴です。またシステム化することで、誰がやってもそこそこの水準が得られるように仕組みを作れます。


他方、ソフト・スキルとは、もっとヒューマン・ファクターに近い技能です。交渉とか問題解決とかビジョンの創造といった能力で、これらは簡単に座学で学べるものではありません。素質も必要ですし、磨くための経験の機会も必須です。かなり属人的な能力で、システム化することも難しい。世間で「リーダーシップ」と呼んでいるのは、じつはこのマネジメントのソフト・スキルを指すことが多いのではないかと思います。いうまでもなく「リーダーシップ・システム」なんて作れないし、誰も求めないでしょう。これがマネジメントとの違いです。


固有技術能力とマネジメント能力は、リーダー職にとって車の両輪です。どちらかが弱いと、スムーズに前に進めません。固有技術が7割ですから、それだけでも一応仕事は回りますが、かなり効率が落ちるし、事態の変化に対応してハンドルを切ることも難しい。だから新任リーダーのSさんにとって大事なのは、これまで未知の領域だった、マネジメントのハード・スキルとソフト・スキルを学ぶことだと思います。


そういう訳で、ご要望に応じ、これから何回かに分けてマネジメント・スキルの初歩をサイト上で解説していこうと思っています。名付けて、『新任リーダー学・超入門』。どうか、肩の力を抜いて、おつきあい下さい。


具体的な内容は次回から書くつもりですが、まずはご質問にもあった「新任リーダーにとってお薦めの参考書」をご紹介しましょう。なかなか良いお訊ねで、何を選ぼうかちょっと迷いました。世間の書店には、ビジネス書のたぐいは山積みになっています。そのほとんどが、前述のソフト・スキルの個別論ですが、玉石混淆なのは致し方ありますまい。むろん、拙著『時間管理術』(日経文庫)を挙げたい気持ちは山々ですが、ここはまあ謙譲の美徳(笑)を発揮して、長い間読み継がれ評価の定まった古典から選ぼうと思います。


1. D・カーネギー著「人を動かす


第一冊目は、アメリカの自己啓発本の古典、「人を動かす」です。原題は"How to win friends
and influence people". 直訳すれば“友人を得て他者に影響を与える方法”ですが、これを『人を動かす』と訳した訳者も偉い。あまりに古典すぎて今さら、と感じられるようでしたら、書店でためしに第1部第1章「盗人にも五分の理を認める」の冒頭の数ページと、「人を動かす原則1」を立ち読みしてみてください。マネジメントとは、繰り返しになりますが、人を動かし、人に働いてもらうことです。どうすればそれが上手にできるようになるのか、ソフト・スキルの第一歩はそれを自分に問いかけることでしょう。


2. 梅棹忠夫著「知的生産の技術


二冊目は、先ごろ物故した民族学者の梅棹忠夫が1960年代、まだパーソナル・コンピュータなど影も形もない時代に著した、画期的な書物です。「知的生産」に「技術」がある、などとは、それまで日本では誰も考えもしなかった事でした。紙のカードやカナタイプライターその他を駆使して、「情報」をいかに「定型化」して処理し知的生産に用いるかを、自ら考案し実践した著者の慧眼には驚くばかりです。このような視点は、著者がもとは理系で理学博士であったことと無関係ではないと思います。


3. C・N・パーキンソン著「パーキンソンの法則


これも’60年代に一世を風靡した本です。この著者は初期のものほど面白いのですが、本書は組織における仕事量と人数には関係がないことを明らかにし、なおかつ官僚的組織では要員数は一定比率で単調増加していく法則を世間に知らしめました。それ以外の章も、イギリス風の知的なウィットに満ちていて、組織で働くことの意味を考えさせてくれます。


よければ手にとって読んでみてください。けっして損にはならないと信じます。


最後に、次回からの各論に入る前に、一言つけ加えさせてください。これからリーダー、さらには上級管理職へと階梯を上がっていくだろう前途有望なSさんには、ぜひ「知性」と「感情」のバランスと統合をめざしてほしい、とのアドバイスを贈りたいと思います。わたしが“この人にならついて行っても良い”と思った尊敬すべきリーダーは、みな知性と感情が一人の人格の中で統合されていて、知に働きすぎず情にも流されずに人を動かしていました。感情だけで動く人は、リーダーには向きません。でも、頭は良いが他人の感情が理解できない人も、困ってしまいます。


知的なSさんのことですから、正論を主張したのに皆が動かない、と不満を持たれたこともあると思います。でも、正しいだけでは、組織も人も動かない。人にも組織にも、“感情”があるからです。感情はやっかいな存在ですが、仕事の意味を豊かにもするのです。どうかこのことは忘れずに、毎日の仕事に精進されることを祈っております。


仕事のレポートはこう書こう
(2011/05/03)

ときおり、大学教育の意義は何だろう、と考える事がある。自分の子どもにも、“せめて高校だけは出ておけよ、今の世の中、最低限それだけは必要だからな”と言ったが、“必ず大学へ行け”とは言わなかった。専門学校でも別に良い、それは本人の選択なのだから、と考えたのだ。まあ、結局本人は大学を選んだが、この混沌の時代、大卒だから生涯にわたって大きなアドバンテージを得る、とは誰も思うまい。昭和の時代には大卒はホワイトカラー、高卒その他はブルーカラーという区分があったが、この境目も平成以降、次第に曖昧になってきている。


それでも大学を出ることで、出なかった者と何ほどかの違いがあるとしたら、それはどのような点だろうか。まさか専門知識の有無ではあるまい。専門分野の知識があるに越したことはないが、企業の側がそれに大きな期待をかけている訳ではない。工学部を出たってすぐ設計ができるとは言えないし、まして法学部や文学部で学んだ知識が企業で役に立つとは到底思えまい。それでも、青年期の4年間を大学で過ごすことで、教育上得るものがあるとしたら、それは何か。


もしかしたら、それは多少なりともちゃんとした長さのレポートを、何度も繰り返し書かされることかも知れない--そう思うことがある。期末レポートや中間レポート、実験レポートから卒論まで、大学ではずいぶんレポートを書かされた。そして企業では、大卒の人間はそれなりに「考える仕事」を要求される。その“考える”ことの大事なプロダクト(成果物)として、レポートという存在がある。この、レポートをきちんと書ける能力こそ、大卒の人間に共通に求められる資質の一つではないだろうか。


実際、ホワイトカラーの仕事においては、多種多様のレポートが頻繁に作成される。たとえば調査レポートである。これは市場調査や技術評価のレポートもあるだろうし、外部企業や生産現場の実地調査報告(サーベイレポート)もある。また出張に行けば必ず出張報告を書かされるが、これだって立派なレポートである。ひとつのプロジェクトが終わればプロジェクト完了報告もいる。遂行途上でもマンスリー・レポート(進捗報告)を要求される。トラブルが起これば問題報告と、とにかく何か“考えなくてはならない”状況があれば、必ずそれに付随してレポートが提出される。


誰に出すのか? 基本は上司である。Report to..という英語があるが、これは上司部下関係を示す意味で、I report
to him/her.といえば、彼(彼女)はわたしの上司であることを表す。上司部下関係というのは、指示/報告関係なのである。


これだけレポートは重要なファンクションを担っているにもかかわらず、わたし個人は「レポートの書き方」について会社できちんとした教育を受けた記憶がない。大学を出たんだから、当然書けるだろう、という暗黙の論理で会社は動いていた。でも、昨今それでは動かなくなってきているのも事実のようだ。そこで、これから社会に出てレポートを書かされる立場になる人たちのために、内緒で秘訣を教えちゃおうではないか、というのが本稿の趣旨なのである(いつもながら前置きが長くてすみません)。


レポートを書く時に一番大事なのは、構成である。といっても、「序論・本論・結論」という、国語の教科書にあった論文構成はお勧めしない(だってこれじゃ何書いたらいいか分からないじゃないか)。


わたしが代わりにお勧めする構成は、じつはわたしが中学一年生の時に習ったことである。今からxx年前、わたしは横浜市立万騎が原中学校というところに入学した。わずか12歳だった(当たり前か)。この1年生の時の理科の先生は、とても偉かった。毎週1回、生徒に実験をさせ、そのレポートの書き方を教えてくれたのである。一番良くできたレポートは先生がB4横1枚のガリ版に手書きで写して印刷し、生徒全員に毎回、手本として配布した。手本に選ばれる生徒が羨ましくて、自分も選ばれたいと懸命に書こうとした。そしてとうとう学年の最後の実験で、自分のレポートが選ばれた時の喜ばしい気持ちを、今でも覚えている。


その先生が教えてくれた実験レポートの構成とは、とてもシンプルで、以下の4つの節から成り立っている。


1.目的

2.方法

3.結果(事実)

4.結論(考察)


この構成は、中学の理科実験のみならず、じつは自分がこれまでに書いたほぼすべてのレポートに共通に使える、きわめて汎用性の高いアーキテクチャーであった。大学のレポートも、卒論も、いや学位論文だって、この構成を基本として作成した(多少は複合し応用したが)。会社のレポートも、ほぼすべてこのフォーマットで書ける。無論、レポートの種類に応じて、これとは違う構成でも書くことはできる。だが、事実と思考を他者に報告し共有するために、共通して依拠できるスタイルという点で、最も適した構成だと断言できる。


最初の「目的」は、明確に書く。何が問題なのか。何を明らかにしたいのか。その行為に至った背景と意図。自分の持っている仮説。そして、「何が明確になれば、本目的を達成したと言えるのか」を、きちんと定義する。そうすれば、「結論」のところで、成功したとか、失敗だったが教訓を得た、という風に書きやすくなるし、最初と最後がきちんとかみ合うので全体構成がまとまるのである。


次の「方法」は、調査なら調査の方法を、実験なら実験の方法を書く。つまりどのように問題にアプローチしたか、どうやって事実を収集したかを書くのである。たとえば調査ならばネット検索で当たりをつけ、参考書や文献を読んで調査したとか、実地に訪問して見てきたとか、そこに行ったことのある人たちからインタビュー調査したとか、あるいは実験してみたとかである。ここは図などを利用して書こう。簡潔で良い。適切に調査したのか、再現性はありそうか、などが読む人に判断できればそれでいい。


結果」は、事実の記述である。普通は、予備的な調査の結果がまずあり、それから本調査のデータや記述が並ぶ。表や図などを使って、わかりやすくまとめることが肝心だ。レポートは長ければ良いというものではない(一部の官庁系の請負仕事をのぞく--あの分野には「100万円の委託業務だからレポートの厚さは最低10cmね」などといったナンセンスな要求が存在する)。もしもデータ量が多くて長くなりすぎるときは、詳細は「添付資料」にして本文を短くする方が、読み手にとって親切である。レポートの読み手はふつう上司だったり教師だったり顧客だったり関係者だったりするわけで、書き手を批評できる立場にある。だからわかりやすさが尊ばれる。


「結果」を書くときの注意点は、事実と意見をなるべく区別しようという態度で進めることだ。そのための一つの方法は、言葉(形容詞)ではなく、数字で記述するよう心がける事である。「大勢の人が感心した」と書かずに、「70%の参加者が『興味を持った』とアンケートに回答した」という具合だ。あるいは、「4人の著者のうち、3人がこの見解に賛同している」と書く。こうすることでレポートの客観性が増す。


むろん、哲学的に言えば「事実」と「意見」は厳密に分けられるものではない。どの事実を報告し、どの事実は無視するかを決める時点で、すでに書き手の価値観と評価が入り込む。しかしここでは、客観性を尊ぶ姿勢で書くことが、読み手の受容度を上げるポイントだと考えよう。なぜなら、同じ手順を踏めば、読み手も同じような結果を得られるはずだ、と思わせるからである。


結論」の部分は、前節とは逆に、自分の考察や評価、つまり意見を書く。このように客観的事実のセクションと主観的意見のセクションを分離することにより、「君の結論には賛成できないけれども、このレポート自体は役に立つ」という風に、有用性を認めてもらう可能性を高められる。モジュラリティを高めることで再利用性を確保するわけである。


考察を書く際に一番大事なポイントは「気づき」である。ただ単調に、数字やデータだけの事実が並んでいるのを眺めただけでは気づかない点を「発見」できると、考察としての価値が生まれてくる。そのためには、数値をグラフ化して傾向や相関関係をつかんだり、あるいはエピソードを4象限のフレームワークでプロットし分類したりして、その「気づき」を伝えることである。「目的」の節では、意図と仮説を持って仕事を始めた。「結論」では、肯定的であれ否定的であれ、その仮説が検証される訳だが、ここに新たな気づきが加わることによって、考察の多面性が生まれる。結果として、一つの問題は解決したが別の問題に気づいた、ということでも構わない。むしろそのような態度こそ、次の問題解決につながる前向きな書き方だと言えよう。


このように考えてみると、良いレポートというものは全体として、ある一つのキーワードを軸に構成されていることが分かる。それは『検証可能性』である。「目的」で仮説を提示し、「結論」でそれを検証する。「方法」も追試検証が可能なように記述する。「結果」では誰でも真偽を判定できる客観的事実を並べる。このように、他者にとっても検証可能な形でレポートを提示することで、その再利用性と信憑性が高まるのである。


繰り返しになるが、レポートとは、事実と思考を他者に報告し共有する道具だ。そこでは「自分の名札付きの意見」は珍重されない(自分が斯界の権威でない限り)。誰が行っても同じ結論に至る、無名の客観性が重要なのだ。では、レポートの質や創造性はどこに出るのか? それはスタイルにはない。「仮説」設定の上手さと「気づき」の深さで評価されるのである。


安全と危険の距離を考える
(2011/04/19)

先日、作業現場の安全に関連して「度数率」という概念を紹介したが(「安全第一とはどういう意味か」参照)、これに多少似た概念で「事故率」という尺度がある。こちらは交通輸送などで使われる数字で、一人(あるいは1台)移動距離あたりの事故発生数である。たとえば国交省によれば、国内の全道路における自動車の走行台・キロあたりの「死傷事故率」は現在100件/億台キロ前後である。言いかえると、自動車で100万キロ走行すると、平均約1回死傷事故に巻き込まれる可能性があることになる。


一方、航空機についての事故率は、輸送実績1億人キロあたりの死亡乗客数=0.04人という数字がある。台と人という単位系の違いがあるが、自動車1台に乗る人数は知れているから、両者を比較すると、自動車よりも飛行機の方がはるかに「安全」である、ということになる。実際、わたしの知るアメリカ人は北米と東南アジアを頻繁に往復する仕事で、通算100万マイル以上も飛び回っているが、“車で通勤するよりずっと安全だ”と自分に言い聞かせて乗っているといっていた。


もっとも、“自分に言い聞かせて”というあたりがミソで、彼だって何となく不安を感じるのである(時差等で肉体的にしんどいのもあるだろうが)。ここらへんが、安全に対する人間の感覚の微妙さを表していると思う。車を運転すれば、事故の可能性がある。それは承知だが、だからといってマイカー通勤やドライブ、あるいはタクシー利用を危険視する人はそんなに多くない。自動車の利便性が高いからである。


では、ある日、身なりの上品な見知らぬ紳士がやってきて、「恐縮ですが、ちょっと車に同乗して10kmほど走っていただけませんか。謝礼は特にお出しできませんが、同乗するだけで、別に運転は必要ありません。私どもの用意したプロの運転手がおりますので安全は請け合います。」と言われたら、あなたならどうするだろうか? あなたにはとりたてて、出かけたい場所も用事もない。でも相手は「10km走行して事故に遭う確率は、10万分の1しかありませんから」と慇懃に詰め寄ってくるとしたら?


OKと答える人の数は、少ないだろう。謝礼が出れば、多少は違うかも知れない。千円位くれるというなら、行ってもいいとは思う。でも相手が「直接の謝礼はお出しできませんが、あなたの行為は社会を巡りめぐって、あなたにプラスとして返ってきますから」というような説明だったら--わたしだったらお断りだ。メリットがあまりにも迂遠すぎるからである。


安全とは何だろうか。じつは、『安全』にはISOで決めた国際的な定義がある。それは



受け入れ不可能なリスクがないこと」(ISO/IEC Guide 51)


である。


この定義を知ると、消費者運動などでよく見る『絶対安全』という言葉は、ちょっとおかしな概念に思えてくる。それは一切のリスクをゼロにしろと言う要求であり、ちょうど絶対零度に物体を冷やせと言うようなものだ。逆に言えば、ISOは「受入可能なレベルのリスク」に抑えていることを「安全」と呼ぶのである。消費者運動のお嫌いな方など、これを知って、そら見たことか、運動家連中の言うことは完璧な間違いだ、と思われるかも知れない。


だが、ちょっと待ってほしい。ならばISOは「リスク」については、どう定義しているのか。調べてみると、不思議ことが分かる。ISO
31000にその名も「リスクマネジメント」という規格があり、その定義は、



リスク:目的に対する不確かさの影響effect of uncertainty
on objectives


だという。これを、上記の安全の定義に代入すると、どうなるか。

「安全とは、受け入れ不可能な、目的に対する不確かさの影響がないこと」

になるが、これで意味の分かる人はいるだろうか? ISOは何を考えているのか?


じつは、ISOにはリスクの定義が複数、存在するのである。たとえば、「国際規格等における『リスク』の定義について」という資料は、今や話題の原子力安全・保安院が6年前に作成したものだが、4種類のISO/JISの定義を列挙している。その中で、上記の「安全」の規格に対応するのはISO/IEC
Guide 51:1999であり、



リスクの定義 :危害の発生確率と危害のひどさの組合せ


と引用されている。


簡単に言うと、ISOは安全工学や環境学などに関連した分野では、危害とか危険などのマイナスの意味で「リスク」を使ってきた。ところが最近になって、(主に経済学や金融工学の影響だと想像されるが)プラスもマイナスも含めた不確実性のことを「リスク」と呼ぶようになったのである。わたしが以前「『リスク』という言葉に伴う不確実性」で書いたように、非対称型の概念から、対称型の概念に変わってきている。


ただし、そもそもISOの定義はいずれも、マネジメント・システムの体系の中で使われている点に注意してほしい。つまり各単語には意味空間が定められているのだ。だから、ISOに定義がある場合でも、ワン・センテンスだけをとりだして、「これが世界標準であり正解である」と思い込むのは危険なのである。それはいつの間にか思考停止の道具になってしまう。そもそも、マネジメントの問題には一般に正解なんか無い。


そこで、安全の定義にもどろう。上記をまとめると「安全とは、受け入れ不可能な危害の発生確率と影響度がないこと」になる。だが、疑問はまだ残る。誰にとって「受入可能」なのか? 判断する人と、判断基準は何だろうか?


答えははっきりしている。「リスクを受け入れ可能かどうか」は、その行為・目的の与える便益や価値を基準にして決めるのである。誰が決めるかというと、ISOは「マネジメントシステム」であって、その主体(通常は企業組織)が決めることになる。組織が価値を受け取り、また危険にもさらされる訳だから。え? 勝手に決めるのは本社で、危険にさらされるのは、その事も知らされていない現場の作業員(あるいは下請け)だろうって? もしそうなら、それはマネジメント・システムとして機能していないことになる。なぜなら、システムというのは組織の構成員全員にちゃんと説明して、ちゃんと理解し従うことに合意した上で成立・維持するものだからである。


自分に何の具体的便益もないまま、リスク(危害の確率や影響度)にさらされた場合は、それを「受け入れる」かどうかは、本人の意志で決めることになる。「車に同乗して10km走って下さい」という要望には、お応えしかねる、という返事になるはずだ。何の便益も無いのなら、まあ受け入れなくても当然だろう。これが危険物質などの場合でも、身体や健康に「影響のない量」だから「安全である」とはならないのだ。


学生の時、放射線の安全な許容量は、科学的ではなく社会的に決められた値だ、と知った時の驚きはまだ覚えている。そして、通常の人よりも原子力関係の仕事に従事する人の許容量がずっと高いのも、奇異に感じた。だが、安全とはリスクと便益を天秤にかけて決められるものなのだ。便益や価値が、科学ではなく社会や各人の主観で決まるものである以上、それは当然のことだ。たばこは健康によくないが、吸う人は気分的な便益があるから吸っている。一方、益もないのに副流煙を吸わされる傍の人にとっては、迷惑以外の何者でもない。


困ったことにわたし達の社会は、巨大で複雑な文明社会である。ある所に便益をもたらすはずの文明の道具が、離れた別のところでは危険の原因になったりする。便益も危険も同じ当事者・組織ならば話は分かりやすい。しかし、それが離れていると、その間で話し合って決めるしか無くなる。その話し合いは、厄介で時間のかかる代物である。そこで、何か社会的な目安になる拠り所を求めたくなる。だが、危険度の基準はしょせん目安であることを忘れるべきではない。「絶対安全」を求める人々も、「基準以下だから文句を言うな」という人々も、ともに価値の判断を回避している点では同じである。安全と危険との線引きに正解は無い。最終的な判断は、自分でするしかないのだ。


危機における技術のマネジメントとは
(2011/03/26)

「どうだ、状況は?」

「かなりヤバイ。温度が上がってきている。液面も落ちてきた。」

「困ったな。一番の問題は容器内の圧力だろう。今どれくらいある?」

「計器のトラブルでよく分からないんだ。表面温度から見てたぶん7~8気圧くらいになってる」

「設計圧力は?」

「4.5だ。5や6くらいまでなら持つ自信はある。でも8となると、正直厳しい。」

「時間との勝負だな。安全弁をふかせるしかないか。ポンプさえきちんと回せれば抑え込めるはずなんだが。」


エンジニアは、こういうしゃべり方をする。ちなみに、上の会話は創作である(念のため)。エンジニアの会話は、数字と見込みと判断と、そして感覚からなっている。これは、科学者や、役人や、政治家や、法律家の話し方とはずいぶん違う。科学者は「ヤバイ」という言葉遣いはしない。科学者は論理的に確実なことしか言わないし、論理的でないことを言えば、科学者でなくなってしまう。政治家は耐圧性能に対して自信を述べず、法律家は「時間との勝負だな」とは言いはすまい(たまには言うかもしれないが、彼らの時間感覚はだいたい月単位である)。


前回も書いた通り、わたしはエンジニアだ。エンジニアリング業界で働き、周りも技術屋ばかりである。だからエンジニアがどういうしゃべり方をするかよく承知しているし、技術屋同士の話が一番分かりやすい。世間ではよく「科学技術」と一括りにするが、この二種類はかなり違う。科学は真理への探求心が主軸にあるが、技術屋は徹頭徹尾、目的合理性と実用の観点で動く。技術の対象は(たいてい)複雑な系である。必ずしも全ての情報が手に入るとは限らない。そこで、入手可能な数値的データから、系の状態について推測し判断することを求められる。かりに論理的に確実でなくても、経験的に因果関係があれば、なんらかの手を打つ。「一応、念のため」とか「気は心さ」などと口にしつつも。


ここで「技術者」といわずに「技術屋」とわざわざ書いている点に注意してほしい。エンジニアとは生計を得るための商売である。聖職とかではない。そこに自尊も卑下もあるのだし、だから対象から距離をとって正気を保っていられるのだ。技術屋は不確実性の中にいる。そして、一定の制約条件下で判断を下さなければならない。判断のためには、なんらかの価値基準がいる。こうした、不確実性と制約と判断が、エンジニアの直面する日常的問題である。


だからエンジニアを使う時には、それに合った使い方、マネジメントの仕方を理解する必要がなる。とはいえ定常的なオペレーションにおける技術屋のマネジメントについては、ここで詳しく述べるまでもないだろう。『PDCA』という言葉は全国的に流通しているからだ。計画を立て結果を検証し、必要に応じて改善のサイクルを回すことは、普通の企業だったらどこでも行っている。


ここで論じたいのは、技術的な問題発生時、それも重大な危機的問題の発生時のマネジメントでだ。そもそも『問題』とは、“現状が期待と乖離した状況”を指すのだが、それにも軽重がある。普通は三段階、すなわち、プロジェクトやオペレーション全体を止めてしまう可能性のある重篤な問題(英語でいえばShow Stopper)と、当面は迂回可能な問題と、後日修正すれば済む軽微な問題とにレベル分けされる。ABCなどのランクで区別されることも多い。大事なことは、Aランクの危機的問題と、BCランクの問題では、マネジメントの仕方を変える必要がある点である。


Aランクの危機的問題においては、マネジメントは次のことに集中しなくてはならない。

1 リソースを動員する

2 外部影響を遮断する

3 代替案を出させて決定に責任をとる

以下、意味を説明しよう。


1 リソースを動員する



マネジメントは、問題解決に当たる技術者に対して、必要なリソースを可能な限り動員・調達するべく努力してほしい。『リソース』が何を意味するかについては、最近解説したばかりなので、ここで詳しくは繰り返さない(「仕事の最小単位--アクティビティの構造を学ぶ」参照のこと)。技術者が問題解決に必要としているリソースは人であるかもしれないし、特殊な道具・機械・設備かもしれないし、あるいはユーティリティ(電力・燃料・水等の用役)かもしれない。一口に人と言っても、専門家の場合もあるだろうし力仕事の労力の場合もあるだろう。何であれ、必要と思われるものは、可能な限りすみやかに調達する。そのためのロジスティックスも手当てする。これがマネジメントの第一の仕事である。


リソースは、最初からできるかぎり多めを動員する。足りなくて困るよりは、多すぎて迷う方がましだからだ。戦力の逐次投入が、一番いけない。わたしの知る優秀なプロジェクト・マネージャーやプロジェクト・スポンサーはたいてい、問題発生時のリソース投入の判断が早くて正確である。しかもリソースが多すぎて現場が混乱しないよう、その整理と差配も同時に考えている。


2 外部影響を遮断する



これはエンジニアを問題解決に集中させるためにぜひ必要なことだ。ここで外部影響とは、「外部からの影響(雑音)」と、「外部への影響(波及)」の両面を指す。危機的問題の発生時は、経営トップをはじめ、顧客やら監督官庁やら地域コミュニティからメディアにいたるまで、ありとあらゆるステークホルダが疑問や注文を投げかけてくる。現場の担当技術者がこれらに対していちいち資料を作って答えていたら、肝心の「考える時間」が取れなくなる。そこでマネジメントの第二の仕事は、担当者に代わってコミュニケーションを引き受けることで、担当者を雑音から遮断し、問題に専念させることである。


「外部への影響」の遮断とは、問題事象がなんらかの形で物理化学的に近隣施設やコミュニティに影響を与えている時に必要となる。むろん、物理的遮蔽や化学的中和は技術者の仕事である。マネジメントの仕事とはそうではなくて、遮断による経済面・心理面・法律面での影響について交渉し対処しておくことである。本当に必要なら、行政を説得し近隣住民を予備的に避難させることも案の一つである。かりに現時点で直接の危険性がなくとも、それによって技術者のとれる選択肢の幅が拡がるなら、十分に意味がある。


3 代替案を出させて決定に責任をとる



これがマネジメントの第三の、そして一番重要な仕事である。マネジメントとは、担当者に仕事のやり方を指示命令することではない。技術に関しては、技術者が一番よく知っているのだ。大事なことは、技術者に問題解決のための複数の選択肢を考えさせ、その中の一つをマネジメントの責任の下で選ぶことである。複数の選択肢について、それぞれの技術的可能性、有効性、コスト、時間、影響、リスクなどを簡潔にまとめさせる。そして、総合的判断の下、最善と思われるものを選ぶ。


担当技術者に選ばせない理由は二つある。担当者は問題事象に集中しているため、より大きな観点からの得失が見えにくくなっているおそれがある。たとえば、技術屋というのは、自分が面倒を見てきた装置やら製品やらシステムが可愛い。だから、できるかぎりは破壊から守ろうと無意識に考える。しかし、「それはもう捨てろ」と命じるのが、マネジメントの役割なのだ。「過去つぎ込んだ金や時間への執着は忘れろ、それはSunk
Cost
だ」と言わなくてはならない。もう一つの理由は、当然のことだが、結果に対する責任を引き受けるためである。かりに技術者のリコメンド案をそのまま受け入れる場合であっても、責任はマネジメントに残る。うまくいかなかった時の非難は、マネジメントが受け取る。うまくいったら担当者を賞賛する。これがアカウンタビリティーの原則というものである。


以上の三つの仕事を煎じ詰めれば、マネジメントの仕事とは技術者を「支援する」ことだ、と分かるだろう。現場に乗り込んで陣頭指揮、とか、一刀両断に問題を解決、といったかっこいい「リーダーシップ」を世間では求めたがる。マネージャーも現場感覚は必要だから、現場には行くべきだと思う。だが、あいにく、技術的問題に関しては、技術者が解決するしかないのだ。技術のマネジメントとは、脚光を浴びず、非難ばかり浴びる仕事である。それは当然なのだ。なぜなら、危機における技術のマネジメントとは、『支援』の別名だからである。


計画技術者の目から見た『計画停電』
(2011/03/20)

わたしはエンジニアだ。調査票やアンケートにもそう記入する(選択肢があれば、だが。無い場合はしかたなく「会社員」を選ぶ)。工学部の大学教育を受け、エンジニアリング業界で働き続けている。職場で周囲を見渡しても技術屋ばかりだ。


何の専門のエンジニアか? と聞かれたら、わたしの場合は相手の立場を見て答えを決める。まったくの素人さん相手なら、「プラント関係の仕事です」と答えるだろう。これで相手は分かった気になる(らしい)。理工系相手なら「大学の専門は化学工学です」と答えたいところだが、8割以上の人は『カカクコウガク』というものが分からないので、白衣を着てビーカーを振っているように思うらしい。自慢じゃないが白衣なんて中学以来着たことがない。でも、これが英語での質問なら、"I’m
a chemical engineer."でピタッと理解される。英米では、mechanical engineerと並んでメジャーな職種の一つだからである。


でも、もしも同じ業界の人に聞かれたら、"I’m a schedule engineer."だと答えるだろう。「スケジュール・エンジニア」という専門職種が、わたしの業界には確立しているからである。ああ、それじゃあPlanningとかProgress
controlとかを毎日やっているんだ、と理解してもらえる。Time Managementが専門の技術者、と言いかえても良い。


そのスケジュール・エンジニアの目から見て、今回の「計画停電」というのは、率直にいって、きわめて筋のわるいスケジューリングのやり方である。ちなみに、電力会社はわたしの勤務先の顧客筋の一つに当たる。そして、わたしは一応このサイトを実名で書いている訳だから、あまり批判めいたことをするべきではないのだが、家庭用電力の単なる一ユーザーとして、一言述べさせていただこう。


計画とかスケジュールというのは、何のために立てるのか。それは、あらかじめ「準備するため」である。準備して、事態に備える、あるいは、仕事をスムーズに立ち上げる。それを見越して材料や要員を頼んでおく。


逆に言うなら、スケジュールで一番大事なことは、準備できるだけの時間を前もってとって公表することである。準備に1時間かかる作業を、5分前になって指示されても、誰もついて行けない。もう一つ大事なことは、「やる」と計画したら、多少遅れてもよいからきちんと「やる」ことである。「やるかやらないか、その場にならないと分からない」では、やった準備作業が無駄になってしまう。だから、今回のやり方はたいへん失礼ながら「無計画停電」というに等しい。


電力を落とすということは、鉄道・交通信号から工場・商店の操業そして医療・保育まで、ありとあらゆるところに大きな影響が出る。それは電力事業者ならば誰でも分かっていることだ。でも消費電力のたぐいは気象にも左右されて、気まぐれで予測が難しい。そして、供給能力は限られていて、万が一にも消費が上回ったら、(家庭内で電気消費が大きすぎるとブレーカーが突然落ちるように)それこそ大規模停電がいきなり起きてしまう。--こういう、電力会社や監督官庁の不安は、もちろん分かる。


需給がバランスを欠きそうな時に、手立ては二種類ある。需要側に、自主的な節減努力を期待するか、供給側でコントロールするかである。そして、この国は後者のやり方をいつも好んでとってきたように思う。かつて米の不作の時もそうだった。


だが、わたしは需用者側のふるまいに期待するのが近代社会のサプライチェーンの姿ではないかと思う。そのためには、たとえば供給エリア毎に「使用量」と「供給可能上限」とを、リアルタイムに「見える化」すればよい。それこそ、メーターの形にしてネットで見せるだけでも効果があろう(どうせ制御監視室ではこの数値を見ているのだから)。今日の技術ならきわめて簡単に実現できる。携帯でちらとメーターを見て、やばい、この地域は上限に近づいてる、節電しなきゃ、と消費者が考える--これが実現されれば、「さすがは日本人だ」と世界中が感心するはずではないか。


あるいは、もう少し大がかりな手法で、電力需要ピークを下げるために、工場や職種を選んで2~3時間程度の時差勤務を要請する、というアイデアを提案している人もいる。前倒しと後ろ倒しのグループ間で最大4時間程度の差をつければ、ピークはかなり減ると考えられる。一種の大規模なサマータイム制である(これは電力会社だけではできないので、その監督官庁のガイドラインによる指示の形になろう)。


それでも、無責任で気まぐれな国民なんか信用できない、計画停電しか方法はない、というのなら、せめて以下の二点を提案したい。


・地域を18グループくらいに分けて、停電時間は1時間以内とする

・計画された停電は、必ず実行する。スケジュールは週単位で固定し、3日前に予告する


1 時間以内とする理由は、各種の自家発電装置や無停止電源装置の容量を考えてのことである。3時間分もの容量をもつ事業所は多くあるまい(たしか、例の福島原発の緊急ディーゼル発電機が背負っていた補助バッテリも1時間分じゃなかったか?)。また毎日3時間分の燃料油を確保するのも困難だ。さらに人間の心理としても、1時間程度ならまだしも我慢しやすいだろう。


停電時間帯が毎日変わるというのも、困難さの大きな一因だ。これはせめて週単位で固定すべきだろう。そして、スケジュールは、先に述べたように、準備期間を考えて3日前には予告する。予告したら、もう計画は変更しない。これをスケジューリング用語で「タイム・フェンス」と呼ぶのだが、ここが守られないから皆が困惑しているのだ。


むろん、たとえ1時間でも停電してもらっては困る、という事情も、あり得るだろう(とくに工場や食品関係では)。たとえばわたしの勤務先は大型コンプレッサーを多数、関東に工場を持つ企業に発注しているのだが、もう製造は出来上がってこれから出荷前検査という段階に来ている。ところが、24時間連続運転試験ができないから、出荷の見込みが立たないのだ。こうした事業所には、一週間連続給電するかわりに一日停電する、といった代替の選択肢が与えられるべきだと思う。


現在の「計画停電」のやり方では、停電する区域は事前に分からないし、どういう基準で決められているかも不明だ。ある企業は交渉して停電を免除してもらっている、などというまことしやかな話(根も葉もない噂だと信じたいが)も通用し始めている。このままでは、電力という公共財としての商品が、『利権』の対象になりかねない。そのような状況は、ぜひ避けるべきだと思うのである。


休めない人々 (2011/03/12)

あれほど多くの人を路上で見たのは初めてだった。職場から家まで歩いて帰る途上、横浜の海沿いの国道は歩道を歩く人たちで一杯だ。車列も満杯だが、こちらは渋滞がひどくて青信号でもぴくりとも動かない。津波警報が出ている時に、こんな海抜0メートルの道を歩くのは愚の骨頂だ。それは承知しているが、ウォーターフロントのオフィス街から逃げ出す道はこういう道しかないのだった。


それでもわたしは帰ることができただけラッキーだった。職場にはまだ多くの同僚が不安な気持ちを抱えたまま、夜明かしを覚悟で残っていた。交通機関がバスをのぞいて一切ストップしていたからだ。男達はそれでもまだいい。女性、とくに小さな子どもを家や保育園にあずけて働きに来ている女性たちの心配は尋常ではない。携帯電話が機能マヒし、固定電話もろくにつながらない状況で、どうやって子どもの安全を確保するのか。


わたしが帰れたのも偶然の結果にすぎない。たまたま職場にいて出張にも外出にも出ていなかった、たまたまエレベーターにも閉じ込められなかった、たまたま家も近くだった、たまたま面倒を見るべき直属の部下もほとんどいなかった、そして、たまたま国道を歩いている時に津波が襲ってこなかった・・それだけのことで、自分の意志や才覚とは一切関係がない。自分は自然災害には全く無力なのだった。


たまたま偶然のことで帰る人、帰れない人が分かれてしまう。しかし、帰らずに留まらなくてはならない人もいるのだという、当たり前のことに気がついたのは、帰路を歩き出してしばらくたってからだった。


帰らずに留まる人とはどんな職種の人たちか。たとえば、保育園の保母さんがそうだ。母親達が迎えに戻れぬうちは、幼児を施設に預かったまま留まり続けなければならないだろう。彼女たちだって自分の住居や家族がひどく心配なはずだ。だが、職業的な責任上、持ち場を離れられないのだ。


それに消防署の職員だってそうだ。横浜は、ビルから見えた範囲では火事の煙は見えなかったが、かりに火の手が上がったとしても、こんな渋滞した道でどうやって駆けつけるべきか。それから、発電所・ガス会社・電話局・鉄道会社の人たちもそうだ。こうした「ユーティリティ」事業の運転・保全の人達は、たとえ機能が停止しているように見えても、中では必死に回復に努めているにちがいない。わたしが高層ビルの階段を帰るために歩いて下りる最中も、ビル保全の人は階段を逆に駆け上っていった。彼らは帰りたくても帰れず、休みたくとも休めないのだ。


それからもう一種類、休めない人たちがいる。会社や組織の「責任者」の人たちだ。部下や設備の安全に責任を持つ人たち--全体の状況を把握し、全員の無事を確保するまでは仕事から降りて休めない。ちょうど船長が総員の退去を確認できるまで船を下りられないように。


わたし達の社会は、こうした保母さんや駅員や運転員や保全マンや事業所長・店長などの無名の人たちの努力によって、かろうじて支えられているのだった。それに比べれば、大企業の中間管理職でござい、と偉そうにしている自分自身など、いたって居なくたって何の変わりもないではないか。


いや、あの人たちだって仕事で給料をもらっているじゃないか。一瞬、そう思った。だが、制服にヘルメットをかぶり、交差点に立ってあたりを警戒している若い消防署員の、不安そうな顔を見て、思い直した。彼らは給料のためだけに働いているのではない。誰だって人は「パンのみに生きるにあらず」ではないか。それに、わたし達の社会は、彼らの危険と不安と責任感に見合うだけの給料の差額を払っているだろうか? ほんの一瞬でも、危険をお金で差し引きしようと考えた自分が、ひどく恥ずかしく思えた。


サービスという仕事は、ある意味で精神的に引き合わない仕事である。サービス業の中核は、「リソース」の提供と保守だ。「仕事の最小単位--アクティビティの構造を学ぶ」でも書いたように、リソースとは、何らかのプロセスの中にあって必要とされるが、アウトプットに組み込まれずに、作業が終わるとリリースされるような存在である。それは「人」Human Resourceの場合もあるし、場所や設備機械の場合もあるし、水道光熱を供給する仕組みの場合もあるし、交通や通信などシステムの場合もある。またバックアップとして、緊急時や異常時のみに必要とされる種類のリソースもある。保育、鉄道、電気、ガス、電話などはみなリソース提供のサービスだ。消防や医療もまた、異常時のためのサービスである。


そしてサービス業が精神的に報われないのは、こうしたリソース提供の仕事は、「100%動いていて当たり前、機能しなかったらガンガン責められる」扱いを受けやすいからだ。その昔、初めて電力で灯がともされた頃は、電気は貴重だったろう。あれば嬉しかっただろう。だが世の中が発展し、いつの間にか電気は通じて当たり前に感じるようになった。どんなものもそうなのだ。初めてWWWとMosaicが登場した頃、ユーザは皆、その希少性に熱狂した。今はWebサーバが落ちればとたんに文句を言われる。ネットの維持は「当然の仕事」になったのだ。


この天災を目の当たりにして、Twitterをはじめ多くのチャネルを通じて善意ある情報や申し出がなされている。そのことはわたし達の社会にも健全性が残されている証拠であり、うれしい。しかし、溢れるほどの沢山の『善意』と、『当然の仕事』観のギャップに時折驚くこともある。


海沿いの国道から離れて自宅の方に向かう道を曲がった時、その前から頭の中で生まれては消えていたメロディの断片が、急に全体像をとって鳴り響いた。


 凍れる 月影 空に冴えて~ 

 真冬の 荒波 寄する小島


それはなぜか、『灯台守の歌』だった。海の孤塁で、文明の小さな光を守る、古い時代のロマンチックな歌を、なぜ思い出したのかわからない。だがそれは、揺れ動くわたし達の社会に、確かに必要なもののシンボルなのだった。


* * *




今回の地震・津波で被災された方々が一日も早く安心した生活に戻れますことを、また不幸にも亡くなられた方のご冥福を、心からお祈りいたします


  佐藤 知一


ビジネスにおける「政治力」とは何か
(2011/02/23)

わたしの好きな米国のマンガに "Dilbert"がある。アメリカのハイテク企業を舞台に、その馬鹿々々しい内幕を皮肉ったマンガで、読んでいると米国ビジネス界での思潮や流行が、コマの向こうから透けて見えてくる。あの国の新聞連載は日本と違って3コマなのだが、日曜日は2段8コマ分くらいの"長編"になるのがふつうだ。日曜版の新聞はマンガの増ページで、マンガのコーナーができるからだ。


先日の日曜のDilbertは、こんな話だった。例の、"無能を絵に描いたような"部長が、部下を前にこう切り出す。

「明日、CEOと大事な予算会議がある。でも予算獲得競争は容易じゃない。他の部ときたらみんなプロの詐欺師連中だからな。」

そこで主人公のDilbertが聞く。–そりゃちょっと言い過ぎでは?

だが部長は切り返す。「じゃあ、お前さんはマーケティング部のことをいつもどう呼んでる?」

–オーケー、まあ、そこはゆずりましょう。とDilbert。

「なら営業部は? 広報部は?」 –うーん、しかし、まあ・・

「財務部は? 法務は?」 –うわ。そこは忘れてました。

「次は自分で挙げてみろ。」 –じゃ人事部は・・ぼくの負けでした。


『プロの詐欺師』の原文はProfessional liarsだ。英語では
"liar"は日本語の「嘘つき」より、はるかに厳しい非難の意味を持つ。米英に限らずキリスト教文化圏では、事実と異なることを人に告げる行為は「偽証」であって、道徳的にはなはだ蔑まれる行いと考えられている。"嘘も方便"という日本語の感覚で「ユー・アー・ライアー」などと口に出そうものなら、相手は血相変えて怒るはずだ(日系三世の片岡義男は、子どもの時うっかりこれを言って、黒人の米兵から力いっぱい張り飛ばされた、と書いている)。


Dilbertに話を戻すと、このマンガは米国企業の技術者が、他の部門に対してどういう感覚を持っているかをあらわしている。なお、上で挙げられた他部門が、営業を除けばほとんど本社部門で、かつ「事務屋」の領域(日本の感覚で言えば)であることに注意して欲しい。ここにはロジスティクスも製造も生産技術も、登場しない。主人公Dilbertだって、これら実務ライン部門を詐欺師とは非難しないだろうと思う。もっとも、今日の米国企業のことだから、すでに製造も物流も子会社化されたか、第三者にアウトソースされてしまっている可能性は大である。こうなると"正直者の"エンジニアの牙城は、技術部門(設計・開発部)しか残っていないのかもしれぬ。


正直一本槍だけではビジネスがなかなかうまく立ち回れないのは、洋の東西を問わぬ事実であろう。誇大なる広告も、甘美なセールストークも、見かけ倒しのリース制度も詭弁すれすれの許諾契約も、他社との生存競争に生き残るためには必要とされている。これら販売・広報・融資・契約はすべて「言葉」の運用によって進められる仕事である。いわば「言葉」の技術・技法であり、そこでの論争や競争も言葉で行われる。


ところがあいにく技術は「数字」で語る世界だ。1秒は2秒より短く、1
tonは100 gよりも重たい。わたしがエンジニアリング会社に入って最初にたたき込まれたのは、"技術屋ならば数字で語れ"ということだった。「この装置はけっこう大きい」などと言わず、「この装置の処理能力は3万ton以上です」と言う。「今かなり忙しくて」ではなく、「来週中に8基の熱交換機のDatasheetを作成する必要があって」と言う、といった具合だ。数字の世界では、白か黒かは明瞭だ、という訳である。


もっとも、技術の世界だって実際にはグレーゾーンがかなりある。それは経験を積むごとに分かってきたのだけれど、最初からグレーの頭でスタートするのと、白黒がある領域があると知ってスタートするのでは、ずいぶん違う。ちなみにわたしを指導してくれた先輩は文系の出身だったが(→「わたしが新入社員の時に学んだこと」参照)、理非ではなく声の大きさや政治力で勝つ、というような仕事のやり方を好んでいなかった。


政治力」とはいったい何だろうか? リーダーにとって、「政治力」は必須の能力なのだろうか。では、マネジメント教育の中には、「政治力講座」が必修科目としてあげられるべきなのだろうか?


マネジメントには「人を動かす力」が求められる。そして人を動かす力は、「強制力」と「影響力」に分けることができる。前者は、人を(その意志に反してでも)無理矢理動かすことのできる力である。後者は、他人が自らの意志で動いて、ついて行きたくなるような力である。


強制力のためには、アメないしムチ(あるいはその両方)が必要だ。普通アメのためには金銭、地位、名誉などの賦与が用いられ、ムチには罰金、降格、毀損など、その逆が行われる。さらに、法的な力(警察力等)も強制の根拠となる。わたしたちが組織の職制の中で、上司→部下に対して及ぼされる力は、基本的に強制力(「業務命令」)である。命令に従えばアメが与えられ、反すればムチ打たれるわけだ。このような力を普通、「権力」と呼ぶ。


組織の中では、ステータス(地位、順位)に応じて権力が配分される構造になっている。それは同時に、「責任」の配分順位でもある。「責任」と対応させる場合、経営学では権力と言わずに「権限」と呼ぶ。権限とはその人において意志決定の許される範囲、すなわち(私の好きな用語で言えば)『自由度』を表すわけだが、これは組織では強制力によって裏書き保証されている訳である。ただし、余りに恣意的な意志決定権限が乱用されると困るので、ある程度権力の自由度を狭めておくために、規則やルールというものが定められる。これでようやく「近代的組織」のできあがりだ。


もちろん、ある種の組織では、強制力ではなく影響力が主に行使される場合がある。ボランタリー(自発的)な組織、たとえばボランティア団体とか学会などがそうである。ここでは、違法行為でもない限りほとんど強制力が存在しないため、影響力と、構成員の「合意の力」だけで運営されていく。よく、企業を定年退職した男の人がボランティア団体に参加したはいいが、周囲から煙たがられたりする光景があるが、あれは強制力に永年慣れすぎた企業人が影響力の磁場で方向感覚を見失ってしまうためだと思われる。ともあれ、影響力の非常に強い人にあるのは権力ではなく、「権威」である。


ところで、企業や官庁などの権力型組織に話を戻すと、組織の構成員は、順位や権力を得るために競争をするよう、動機づけられる。その結果いつの間にか、なんらかの共通目的達成のためにあったはずの組織が、「権力維持の場としての組織」に変質していく可能性があるのである。企業の共通目的は第一に利益を上げることだが、利益という経済合理性を差し置いても、権力獲得のために種々の行為がなされていく素地ができあがる。


わたし達がビジネスの場において「政治力」という用語で形容したくなるのは、このような状況が生じたときである。たとえば、あるサプライヤーだけが上司との緊密な関係によっていつも選ばれたり、有利な仕事がいつもある種の人脈の上に与えられたり、ある人物が実力にもかかわらずポジションで冷遇されたりする時、わたし達はそれを「政治的」な決定と呼ぶ。すなわち、ビジネスにおいて「政治的」であることとは、“権力ないし地位獲得のために目的合理性を逸脱した行為に走ること”を意味するのである。営利企業の場合、それは経済合理性を逸脱した行為と言うことになる。


このような行為を、なぜ「政治的」と名付けたくなるかは、若干不思議ともいえる。だが、はっきりしていることは、ビジネスにおける「政治的」なるものは、国政だとか地方政治とかには関係がない、という事情である。ある企業が、経団連の割り当てによってどこかの政党に寄付金を出すとか、労組のメンバーが特定政党の支持する候補者の応援活動をするとかいった行為と、先に述べた経済合理性を逸脱した行為とは全く別種類の話だ。


「政治的」なるものは、「政治」そのものではない。ちょうど「女性的」なものが必ずしも女性そのものではないように。かりにモーツァルトの旋律が優美で女性的だったとしても、それは「モーツァルトの音楽が女性だった」ことを意味しない。ただ、権力争いのために組織の目的合理性を逸脱する行為は、きっと政治の周辺で最も良く観察されるのだろう。だからこうした行為を、半分軽蔑を込めて「政治的」と呼ぶのだ。


ここでの書きぶりでもお分かりの通り、わたし自身はビジネスにおける『政治的』なるものはあまり好きではない。わたしは企業内のあらゆる行動がすべて合理的であるべきだとか、合理的であり得る、などと信じている訳では必ずしもない。だが、「政治的」なるものが跋扈しすぎる組織は、成長できないと思う。どこかに限度があるはずなのだ。どんな組織も拡大すると効率性のために分業と権力の序列を生み出すが、それが故に合理性を逸脱する危険性をも孕む。これは組織というものの持つ根本的矛盾なのだ。この矛盾を意識しないまま、どんな合理的な議論を振り回しても、それは空しいばかりだと思うのである。


R先生との対話(つづき) - リーダーシップの第4の軸
(2011/02/09)

前回のつづき)R先生を訪問して、リーダーシップの3つの軸からなる類型論(「知性型」「意志型」「強運型」-『リーダーシップの3タイプ--その価値観と望まれる能力』参照)を説明したわたしは、“軸が一つ欠けている”と先生に指摘される。


--もう一つ、軸、ですか?


「そうだ。もっとも大切な軸がな。それは“協働”だよ。それがなければ、どんな仕事も意味を失う。君のプロジェクトってのはまさか、一人でやるものか。」


--そんなことはありません。でも、それってリーダーシップとは別次元の話じゃないでしょうか?


「そうかな? 考えてもみたまえ。知性型のリーダーがどんな立派な計画を立てようが、皆がそれに向かって協働しなければ、物事は予測通りになるかな? 意志型のリーダーがどんな号令をかけようが、皆が協働しなければ何の足しになるだろうか。」


--それでも、運不運はどうします? 強運型リーダーは協働とは関係ないでしょう。


「じゃあ聞くが、“運のいい人”ってのは、どんなやつのことをいうと思う?」


--そりゃあ、大事なときに、うまくチャンスが回ってくる人のことでしょう。良いポストをオファーされたり、上等な客に巡り会えたり、ピンチの時にうまく誰かが助けてくれたり・・。あれ? 待てよ。


「やっとわかったかな。運の強いやつというのは、つまり、チャンスを膨らますべき時に他人が助けてくれる人のことをいうんだ。運のない奴というのは、肝心なときに人に見捨てられるような人間のことをいう。運というのは、人間の集団によって大きく左右されるものなんだ。」


--・・そういえば、セレンディピティー(偶然の発見学)に関する本を読んでいたとき、良い友を多く持つことは幸運な発見に導く秘訣だ、という話をよんだことがありました。


「そうだ。だから君も、人から助けてもらえる人になりなさい。そのためには、単に待っていてはダメだ。自分から、貸し借りや損得抜きで人を助けなさい。そうしたことを、むしろチャンスだと思いなさい。それが協働意識を育てる第一歩なのだよ。」


--でも、競争意識に絶えずさらされているサラリーマンとしては、むずかしいですよね・・。


競争と協働は、社会の二大駆動力だ。どちらもなくてはならない。競争意識はある意味で文明の進歩をうながした。我々が今こうして快適に暮らせるのは文明のおかげだ。でも、競争意識だけが独走すると、諍いや騙し討ちが増えて、世の中はろくな事にならない。会社というのは元々、個人が一人だけでは達成できない大きな目標のために協働してつくったものじゃないか。」


--会社の中にもポジションの上下があって、それをめぐって競争がありますが。そして運不運も。


「それもまた組織を動かす一つの仕掛けなのだよ。また、たしかに出世しやすい人、出世しにくい人というのはあるな。出世しやすいというのは、たとえば--」


--たとえば?


背の高い男だ。」


--背の高い!? それって、どういうことですか?


「なんだ。君は今まで気づかなかったのかね? あるポジションがあって、二人の候補者がいるとする。いろんな条件はほぼ互角だとしよう。そうすると、背の高い方が選ばれる傾向がある。そうだな、四分六くらいで有利かな。」


--そんな馬鹿な。

(小柄に生まれついたわたしは、思わず長身で体格の良いR先生を見た。先生は一時はある会社の経営陣にいた。)


「だから競争なんて運不運だと言っただろ。背の高さなんて自分じゃ決められない。でも、上背がある方が、なんとかく信頼感があるんだろうな。知ってる会社の経営層を見てごらん。背の高い男の比率が、一般社員より多いんじゃないか。それが人間の無意識の傾向なんだ。それにな、女は圧倒的に不利だ。」


--女性が不利って、わたしがそんなこと授業で口走ったりしたら総スカンですよ。下手したらクビになりかねません。


「それが良いことだとは言ってない。だが、これは事実だ。日本は圧倒的に男社会だからな。平均的な男は、女性が怖いんだ。だから差別する。」


--怖いんですか? そうかなあ。こわかったら差別する必要はないでしょう。


「人間というものは、自分と異質で、かつ、ある程度の数いる者達が怖いんだ。異質とは、見かけも違う、考えてることもわからん、そういう人間だ。それが希にで現れるだけなら、単なる個人的偏見ですむ。でも系統的に繰り返し出現すると、無意識に恐怖心を抱く。これが差別として社会的に固定化される理由だ。男から見ると、女はその典型だろ? 日本じゃ、外国人もそうだ。差別というのは、恐怖心が薄らいで慣れるまで続くのだよ。えーと、何の話だったかな?」


--・・リーダーシップの『協働』軸の話でした。


「そうか。君の得意のセリフに、“戦略とは仮説である”というのがあるよな。それから、何だっけ、“計画=予測プラス意志決定”か。あれはな、結局同じ一つのことを言っている。マネジメントの意志決定というのは、いつでも不確かな状況下で迫られる、仮説への賭けのようなものだ。

 しかし、いったん何かに賭けたら、皆でその仮説が現実となるように協働していくのが仕事なんだ。仮説が合ってるか合ってないか、客観的な立場で観察・判断すべきものじゃない。仕事は化学の実験じゃないんだからな。“仮説に合うように現実を動かしていく”ことが仕事なんだよ。そのために、皆が協力するのだ。」


--そうすると、このリーダーシップの三角形はどうなるんでしょう。もう一つ次元を加えて、三角柱になるのかな? ・・いや、そうじゃなくて、四面体にすればいいのか!



「さあな。その手のマンガは、君の得意技だろうから任せるさ。だが忘れないで欲しい。仕事は一人でやるもんじゃない。君の頭の中は、マネージャーと、マネージされる人との二階層で仕事が出来上がっているようだな。」


--でも、マネジメントとは、人に仕事をしてもらうこと、でしょう?


「そこだ、君の問題は! 『人に仕事をしてもらう』じゃない。『人とともに動く』なんだ。そこが分からない限り、君には本当のマネジメントは分からないよ。人とともに動いて、どんな結果が出ようと大丈夫と腹をくくっておれば、しぜんと道は開けるさ。」


--腹をくくる・・もしかして、それが先ほど出されたリスク対応の宿題の答えですか?


「おっと、口が滑ってしまったな。その通りだ。リスクへの態度で一番大事なこととは、『腹をくくる』ことだ。どんな管理表を作って、どんな対策を考えても、リスクというのは最後まで残って、無くならん。それは自分が全知全能ではないからだ。それで、思わぬ事象が起きて、責任を問われたら、どうする?

 腹をくくらないから、何も決めず、何もできずにおたおたするのだ。失敗してもやむなし。かりにゼロになって振り出しに戻っても、また自分で道を切り拓こう。そう覚悟できるかどうかが、決断の質を決めるのだ。君は、ビジネスマンとして、中間管理職として、腹はくくっているかね?」

 

--はい。・・いや、あの、どうでしょう。


「しっかりしなさい、いい年をして! 君だけじゃない。人とともに動く、腹をくくる--もっと大勢の人が、この気持ちになれば、まだまだこの国は捨てたものじゃないよ。」



R先生との対話 - プロジェクト・マネジメントをどう教えるか
(2011/02/03)

新春、R先生を久しぶりに訪問した。先生は半ば引退した経営コンサルタントで、人生の大先輩である。


「最近、大学でプロジェクト・マネジメントを教えているそうだが、どうだい? 調子のほどは。」


--なかなか、難しいですね。やっと2シーズン目が終わったばかりですが、相手は大学3年生です。プロジェクトどころか、人と一緒に何か働いたという経験が、ほとんどありません。そういう人たちに、半期とはいえ実質3ヶ月ちょっとの期間で、プロジェクトのポイントを伝えるのに苦心しています。


「そりゃま、そうだろうな。そもそも社会人の世界でも、『プロジェクト』という感覚が薄いからな。」


--そうなんです。そこで2年目は、以前先生にいただいたアドバイスを思い出して、授業で教える知識の量を少し減らしました。かわりに、例題を出して自分で考えてもらうようなグループ演習を増やしてみたのですが。


「そうか。少しは効果があがったかね?」


--どうでしょうね。でも、教室で知識だけ教えたって、どうせすぐ右から左に抜けてしまうのは、自分の学生時代を思い出しても当然のことでしょう。『自分の頭で考えついたことしか、人は実行できない』と昔先生がおっしゃっていた言葉が、あらためて身にしみます。


「そのとおりだよ。それが、コンサルティングする場合の要諦でもある。君みたいに、客先の問題を全部自分で解決して見せよう、なんて力んでみても、うまくは行かない。相手に考えてもらうんだ。もちろん、ヒントくらいは出すけれどね。」


--でも、そこが実行が難しいんです。顧客の頭の中にある、問題を捉える枠組みみたいなものがあって、それが変に固定されてしまっているために、一つの視点に捉えられて別の見方ができないケースが多いんですよ。たとえば、技術志向の強い相手の場合、なんとかして技術論で問題を解決しようとします。じつは契約条件を変えれば問題が解消するにもかかわらず、そっちに水を向けてもかえって感情的に反発されたり・・。


「でも、あくまで向こうに考えさせなければいけない。思考の枠を外して考えれば、かならず解決策は出てくる。そして、うまく小さな成功体験ができれば、それをきっかけに少しずつ変化が拡がっていくはずさ。それがコンサルティングのテクニックというものだ。むろん、時間と根気は必要だがね。

 学生の授業に話を戻すが、どんな構成で授業を組み立てているのだね?」


--まあ、ありきたりですが、イントロダクションの後は、スコープ、WBS、スケジュール、コスト・・と、一通りPMBOK
Guide風に項目を追って進めます。さらに進捗コントロール、コミュニケーション、リスク、プロジェクト評価と進んで、最後にグループの課題発表会をして終了です。最終課題には1ヶ月くらいの期間を与えてます。


「学生はどの項目に興味を示す?」


--うーん、どれでしょうかね・・。コストなんて、人件費の絡みで自分達の就活にも関わるので、注意して聴いています。スケジュールもまあ、わたしの得意分野でもあるし、クリティカル・パスを見つける演習なんかで理解はしてくれてるようです。

 難しいのは、日本語に対応する概念のない、スコープとかリスクでしょうね。あと、コミュニケーションというのは逆に、若い人の言語運用能力が低いので、うまく教えていく必要のあるところだと感じています。


「スコープ意識やリスク感覚の無さ、そしてコミュニケーション能力の乏しさは、大人たちだって同じだろう。学生というのは社会の鏡だからな。当然の結果だ。」


--コミュニケーションでは何を教えようかと悩んだのですが、とりあえず、『事実』と『意見』を区別して述べる、を中心にしました。この区別は、日本じゃ学校でもほとんど教えませんが、外国人とコミュニケートする場合はほぼ必須のスキルです。今の学生は、遠からず否応もなく外国人とやりとりする場面に投げ込まれるでしょう。その時、客観的に見える“ものの言い方”ができないと、頭のわるい幼稚な人間に見えてしまって、ひどく不利になります。


「そのとおりだ。リスクについては何を教えてる?」


--これが難しくて。わたし自身は、リスク登録簿中心にリスク・プランニングさえすれば事たれり、というPMBOK Guide風の考え方はあまり好きではありません。それは必要最小限の出発点でしかないわけです。が、どうしても教科書風に、リスク対策の基本戦略とは、って感じの講義になっています。


リスク対応の基本戦略とは何だね。」


--そりゃあ、回避する・転嫁する・低減する・保有する、の4つの戦略ですよ。もとはR先生から教わったことじゃないですか。


「なんだ、そのことか。しかし、それではリスクに向かう一番肝心なところが抜けている。両手両足があって、胴体がないようなものだ。」


--え。胴体ですか。


「知らんのか、君は。リスクに向かうときの基本中の基本となる態度だ。それが無かったら、いかなるリスク対策も意味がなくなる。考えてみなさい。」


--うーん・・。どういうことでしょう。


「分からなければ、宿題にしておこうか。これで先生だと言うんだから、困ったもんだな。」R先生は大げさに顔をしかめてグラスをとった。「学生達のことだから、リーダーシップ論とかには興味を持たないのかね?」


--あるのかもしれません。でも、あまりリーダーシップ論や戦略論は教えないつもりなんです。MBAや経営学の講義じゃないですから。もっと地に足のついた、大げさじゃないプロジェクトの進め方を学んでほしいと思ってます。リーダーシップとマネジメントは違うんだ、という話は最初にしてますけど。


「さて、それはどこまで伝わってるのかな。若いうちはヒーローが好きだし、ヒーロー的リーダー像に憧れるものだ。ちがうかな。」


--でも、誰もがヒーローになれる訳ではありませんが、たいていの社会人は大なり小なり、マネジメントにたずさわるようになるものです。マネジメントって、ずっと散文的で実務的なもんですから。

 それで思い出したんですが、最近、世の中のリーダーシップ像に3つの類型があると気がついたんです。知性型と、意志型と、強運型リーダーです。それが、予測可能性と、意志の力と、運不運との三つの軸にそれぞれ対応しているんですね。ちょうどこんな三角形に表現できます。

 

わたしは『リーダーシップの3タイプ--その価値観と望まれる能力』の図を、紙の上に描いてR先生に説明した。先生はしばらく図をじっと見ていたが、顔を上げて眼鏡の奥からわたしを見た。


「この図にはもう一つ軸が欠けているよ。」


(この項つづく


リーダーシップの3タイプ--その価値観と望まれる能力
(2011/01/10)

世の中におけるリーダーシップのあり方はさまざまだが、『計画』に対する態度によって、そのタイプを分類することができる。「計画=予測+意志決定」という公式を基準にするならば、予測に力をおく「計画重視型のリーダー」、あるいは意志の力を信じる「意志貫徹型のリーダー」、という2タイプが見えてくる。そう、前回書いた。


ところで、これ以外に第3のリーダーシップ・タイプがあり得ることにお気づきだろうか? それは、「勝ち組型リーダー」とでも言うべきタイプだ。


このタイプの人たちは、予測というものを信じない。そもそも、世はつねに乱流のごとく変転していると考える。しかし、意志の力があればどんな未来をも作り出せる、とも信じていはない。かれらが信じるのは、“世の中の流れ”である。相場の流れ、勝負の流れ、人脈の力関係の流れ、といった流れを瞬時に読んでは、勝ち組の側につく。そうして、世の荒波を生き残っていく。


言いかえるならば、彼らが読んでいるのは、乱流にも似た運の流れなのだ。カオス理論を引き合いに出すまでもなく、複雑系としてのビジネス環境は方程式では予測しがたい動きをする。運勢の大きな波には、誰も抗しえない。そして、その波に乗った方が勝ち組になる。だから、このタイプのリーダーの第一特性は、「運の良い人」ということになる。彼らの何より信じるものは、“この世には運不運がある”との信条だからだ。


そもそも、『勝ち組』対『負け組』という近年流行りの区分自体が、このような運の流れを増強する方向に働いている。本来は小さな一時的な差に過ぎないはずのものを、大げさに吹聴することで、市場心理的な固定化へと向かわせる。勝ち組・負け組は格差を説明する言葉ではなく、格差状況を強めるために用いられる概念というべきであろう。この考え方をさらにつきつめていくと、家系や身分や階層の高い生まれつきの人間が、リーダーにふさわしいという思想に行き着く。なぜなら、人間が自分の意志でどうにもできない最大の要素、運不運が最も端的に表れるものが、その人の出生なのだから。貴族主義というのはある意味、こんなところに端を発しているのである。


「計画重視型」、「意志貫徹型」、そして「勝ち組型」。さて、あなたの職場では、どのタイプが主流だろうか。どれが望まれているだろうか。自分はどれになりたいと思うか? それともう一つ、新人採用の時は、どのタイプを採ろうとしているだろうか。就活ではとても重大な問題だ。


「そりゃ頭も優秀で、意志も強く、かつ運も強い人間が望ましいさ。」というのが平均的な答えかもしれない。ところが、じつはこの望みは叶わないのだ。よく考えてみると、この要望は、自己矛盾しているからだ。


それは、この3種類のリーダーシップ・タイプを頂点とした、理想論の三角形を描いてみるとわかる。上から時計回りで、A「意志貫徹型」・B「計画重視型」・C「勝ち組型」を頂点に置いてみよう。あらゆるリーダーは、三要素の強さに従って、この三角座標の中に位置できるはずである。意志力が大事だが計画も一応必要、と思うものはやや左上に位置し、運の強さが大事だが知性も必要、と思う人はやや右下側にいるはずだ。



では、右辺AC上に位置する人たちの共通性は何だろうか? それは「計画の予測可能性を信じない」ということだ。A(意志があれば予測ははね返せる)、C(先のことは誰も分からない)のいずれも、予測の力を信じない。つまりBと右辺を隔てるのは「予測可能性の軸」なのだ。また、左辺AB上に位置する人の共通性は、「運不運を信じない」だ。A(意志の力があれば)、B(予測する知性があれば)、自分は運不運などに左右されないと考える。Cと左辺を隔てるものは、「運勢論の軸」である。


では、底辺BC上に位置する共通項は? それは、「意志の力を信じない」だ。だって、B(予測通り物事は起こるはず)、C(運が全てを決めている)なのだから。底辺とAを隔てるのは、「自由意志論の軸」なのである。



日本のバブル時代には、世の中の考え方がCの頂点近くに限りなくシフトした。なにせ、運良く資産を持っていたかどうかが、全てを決めたのだ。土地や株のキャピタルゲインで運良く儲けた人間は、報償として出世できた。汗水垂らして工場で働くなど時代遅れの馬鹿げた事になった。当時の週刊誌に「東京家付き娘を探せ」という人気記事があったが、まことに時代を象徴していた。親が東京に家と土地を持っている。それが未婚女性の最高の価値であった。ここに意志の力など入りようがあるだろうか? 運がよい。--それが全てだったのだ。


高度成長期はBの「知性型」、つづくバブル期はCの「幸運型」が時代の主流だった。バブル崩壊後は、欧米流グローバリズム経営や金融工学的思想の影響で、ふたたびBの「知性型」が脚光を浴びた。わたし達の社会はかくして、長らくBとCの底辺、意志無用論の軸上を右往左往していたわけだ。どんな意志も無力だとしたら、社会が鬱状態になるのは当然ではないか。


それでは、A「意志貫徹型」リーダーに飛びつけば、万事解決だろうか? 社会がきしんで閉塞感が高まると、一種の英雄期待論の気分をこめて、このタイプのリーダーへの期待感が高まる。彼らは他のタイプに比べて、我々の持つ「ヒーロー」の神話的イメージに近いからだ。だが、この動きが行きすぎると、竹槍でB29爆撃機と闘う精神主義になりかねない。だからこそ戦後日本は、リーダーをB型から選び直そうとしたのだろう。


頭も最優秀で、意志も最強、かつ運も最良の人間を望む事が、矛盾であることはお分かりいただけただろうか? それは予測可能性と予測無用論とを、同時に採用していることを意味する。あるいは、決定論と運勢論とを同時に信じることを意味する、自己矛盾した価値観なのだ。たいていの組織は、この3タイプを、無意識の内に、ほぼ刹那的に求めている。だが三角形の三頂点を、同時に占めることは誰にもできない。


では、わたし達は、どれか一つを選ぶべきなのか? それとも、知性も意志も運も中途半端なところで、妥協すべきなのか? わたしの答えは、いずれもNOである。能力を、個人的・固定的な尺度で見ているから、わからなくなるのだ。望ましいのは、時期と状況に応じて、重心を動的に変えられる組織的能力ではないか。予測しやすい成熟した分野には「知性型」を、新しい分野には「意志型」を、そして動きの激しいリスキーな分野では「強運型」を登用する。と同時に、彼らの弱点を補うべく、異なるタイプの補佐役スタッフを布陣する。また出発期・発展期・撤退期にもそれぞれ変えるべきであろう。


前にも書いたが、たまたま現在わたしはPMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)的な部門の仕事をしている。そして横断的にプロジェクトをウォッチしている。見ていると分かるが、プロマネには、とても様々なタイプの人がいる。彼らが持ち合わせている能力は一様ではないし、ペーパーテストで一律に測ることもできない。大事なのは、どの種の仕事にはどのタイプの人を配員するかなのである。リーダー達の能力を憂う前に、まず配員自体の能力を向上するべきなのだ。


・・・さて、以下は蛇足であるが、わたしもまた「今年の計」について少し考えている。今年はプロジェクト・アナリシスをテーマにした勉強会ないし研究会を立ち上げたいと思う。プロジェクトの状況把握・診断・評価に関する技術の共有である。そこでは、最新の理論や研究成果についても勉強するが、同時に実務にたずさわる者同士が、具体的な悩みを語り合える「症例研究会」的な場も設定できるようにしたいと企画している。恒常的な場にできるよう、学会等の援助もお願いする予定だ。この種の問題に興味を持っている方の参加を期待している。詳細については、決まり次第またこのサイトでお知らせしていきたい。


3つのリーダーシップ・タイプと未来予測の可能性
(2011/01/04)

「一年の計は元旦にあり」の『計』はもともと、計画のことを意味していた。ところが、ときどきこれを漠然と『合計』の意味だと思っている人がいるようだ。すでに初日に一年の合計が決まっている。反語だとしても、ちょっと意味の通らない箴言である。表の第一行に、表の合計欄が設定されている。まあ、Excelに毎日追いかけられている現代人にふさわしい理解なのかもしれぬ。


最初の計画が肝心である、というのが元の諺の意味だ。それにしても、計画というものに対する考え方や態度には、ずいぶんバリエーションがある。計画をきちんと進めたい。でも計画を立ててもなかなかその通りには動かない。いや計画は単なる計画さ(つまり絵に描いた餅に過ぎない)。計画なんか不要だよ、その場でなんとかしてみせる。いや計画なんか本来有害だから『計画はずし』を広めるべきだ・・・。これらはいずれも、リーダーシップの発露の姿ではある。だが、そこに何と大きな開きのあることか。


ちなみに、わたしのこのサイトは「計画とマネジメントの未来形」がテーマである。計画の意義や価値をプロモートしようと、微力ながら旗振りをしているわけだ。それにしても世の中の変動がこう激しいと、「計画の価値」も相場が弱含みになりそうだ。変動の手始めは、気候変動だろうか。年末も寒波と雪で、あちこちの交通手段がマヒしかけた(関東は穏やかだったが)。北半球全体が12月から寒波に覆われ、クリスマス前後から欧州便はかなり欠航が目立った。これを見て、早くも「地球温暖化説は間違いだ」と主張する人たちが出てきている。昨夏の猛暑の記憶もまだおぼろだというのに。


(余談だが、地球温暖化説に関する議論については、わたしはかねてから不思議に思っている。「温暖化している!」「いや温暖化なんかしていない!」と、二派に分かれて論争しあっているが、むしろ問題なのは平均値ではなく、統計で言う『分散』の大きさではないだろうか? 平均気温が上がるか下がるかより、最近は気温変動の激しさが増していて、少し先の気象が予測しがたい点に、社会が困惑しているのではないか。季節に関するかつての経験や知恵が使えなくなり、それが農業・交通をはじめ、あらゆる問題を難しくしているのだ。)


さて、「計画=予測+意志決定」である、というのがわたしの主張である。計画には予測と、意志の二つの要素がある。ところが、この『予測』がどれほど確実に行えるかによって、計画とマネジメントのスタイルは、かなり変わってくる。世の中のリーダーシップ・スタイルを、この観点から分類することもできる。たとえば「計画重視型のリーダー」対「意志貫徹型のリーダー」、という具合だ。


計画重視型リーダー」は、言いかえると物事の予測可能性を強く信じているタイプでもある。彼らは、市場動向なり顧客需要なり、ビジネス上の主要な外部要件について、きちんとしたモデルをたて、数値的な予測手法を用いたがる。そしてその予測結果に対しては、自信を持っている。それに添う形で計画を立案する。意志決定というのは、モデルやパラメータを決める際に、また現実が予測から多少ずれた場合にフィードバック的制御を行う際に、ちょっと必要となる程度だ。彼らは人を説得する時には、論理と数字で理由を説明する。


一方、「意志貫徹型リーダー」は、あまり予測というものを信じない。あれば参考程度にするだけ。むしろ、意志の力で現実を乗り切ることに自信を持っている。気合いと根性で、どんな局面も打開できるというのが彼らの強い信念だ。大事にするのは、数値やデータではなく、人とのつながりや信義や人脈である。人を説得する時には、大きな声と説得力ある表情を何より重視する。


いうまでもないが、世の中の仕組みが比較的安定している時代は、「計画重視型」がリーダーの主流になる。このタイプは知性によって組織を動かそうとする。言いかえるなら、「頭の良い人」がリーダーたる資格の最重要ポイントである、という事になる。かくして、右肩上がりの高度成長期は、もっぱら「一流大学」を出た秀才達が官庁や企業の枢要なポジションを占めることになった。また、米国流のビジネス・スクール教育も、非常に知性重視であり、分析と予測を専らの武器とするタイプのsmartなMBAリーダー達を大量に輩出した。


一方、今日のように変化が激しく先行きが見えにくい時勢では、「意志貫徹型」が待望されることになる、はずである。坂本竜馬のようなヒーロー像が尊敬を集めるのも、わかる話だ。少し言い方を変えると、「意志の強い人」がリーダー資格の要件となる。根性があり、顔の広い、いわば体育会系の人というイメージかもしれない。


ちなみに、「計画重視型」は決定論者、「意志貫徹型」は自由意志論者、という言い方も可能であろう。西洋哲学では、長い間この両者の間で論争があった。人間の行動はどの程度まで環境によって決定されているのか、あるいは人間の自由意志の範囲は無限なのか。この問題は、中世では刑罰や救済ともからんで、かなり重要な論点だったし、近代になっても形を変えて何度も争われた。まだ十分決着がついたとは言い難い。マネジメントの問題を掘り下げていくと、いつのまにか哲学の鉱脈にまで突き当たる(少なくとも西洋では)ことは覚えておいても損はない。


さて、ところで、計画重視型と意志貫徹型以外に、第3のリーダーシップ・タイプがあり得ることにお気づきだろうか? それが、わたし達の時代の気分のあり方をかなり決めているのである。・・が、年初ながら、いつものくせで、長くなってきたようだ。この続きは、次回また書こう。


(この項つづく

Follow me!