Chirstmas メッセージ--運命共同体として (2007/12/22)

マネジメントとはいったい何だろうか? (2007/11/16)

高い買い物をする方法 (2007/10/23)

マネジメントは必要か? (2007/10/08)

アメリカ製造業の衰退 (2007/10/01)

マネジメントを科学する (2007/09/15)

クールなSCM専門企業ベスト10社とは (2007/09/06)

情報の経済的ロットサイズを考える (2007/08/29)

情報技術(ICT)の先行きを占う (2007/07/25)

工場見学ほど面白い物はない (2007/06/14)

プラント業界のリスク・オーバービュー (2007/05/29)

ITは組織形態をかえるか (2007/05/21)

誰のための生産管理? (2007/05/06)

時間の量から時間の質へ (2007/04/19)

時間、売ります (2007/04/10)

流れをつくる (2007/03/18)

To Doリストなんか書いている時間がない (2007/03/11)

使用者と補充者の分業 (2007/02/12)

タイム・マネジメントの心得 (2007/01/10)

変わりたいですか? (2007/01/02)

Chirstmas メッセージ--運命共同体として (2007/12/22)

私の勤務先は70-80%が海外向けの仕事だ。20年以上前に入社したときから、この比率はあまりかわっていない。ずっと、世界市場で直接の競争を生き延びてきた。しかし、仕事のやり方はそれなりに変わってきたと思う。一番の変化は、海外企業との共同プロジェクトが増えたことだ。昔は一社単独で元請けになり、国内や海外のメーカー・工事業者をつかうやり方だった。いまでは半分以上のプロジェクトが、海外のエンジニアリング会社との共同遂行で行われている。

こうなった理由はいろいろある。プロジェクトの規模が大きくなりすぎて、単独で請け負うにはリスクが大きくなりすぎたのも一因だ。プラントの値段はこの10年間で2倍以上にはね上がり、1案件2000億円以上のジョブが珍しくなくなってしまった。それ以外に、日本人エンジニアのマンアワー単価が高いため、南欧や中進国の比較的安価な会社と組んで価格競争力をねらう、という面もある。

こうした海外企業との共同プロジェクト遂行におけるリスク因子については、今年の初めにプロジェクトマネジメント学会誌に同僚の秋山氏と論文を書いたので、興味のある方は読んでいただきたい。そこで私たちが強調したのは、「文化の差は主要な問題ではない」ということだった。

カルチャー・ギャップが主要な問題でなければ、何が問題なのか。それは、一口で言うと『フォーメーション・デザイン』である。もう少し具体的に言うと、相互の協力関係をいかに契約とスコープ分担に反映させるか、という問題だ。

同一プロジェクトを共同遂行するときに大事なことは、参加する会社が利益共同体の関係になり、同じ方向を向くことだ。全員が同じボートに乗って、利益の浮沈をともにする。そのためには、内部で利益背反がおこらないよう、協力関係の仕組みを最初にうまく設計する必要がある。

共同遂行には一般に、ConsorciumとJoint Ventureの二種類がある。Consorciumは、お互いが別々の財布を持ち、分担を切り分けて遂行する。いわば独立採算制だ。この方式は単純でよいが、残念ながら、プロジェクト遂行の途中で発生した境界線上の問題は、互いに押し付け合いになりがちだ。パートナーが損をしても、自社が得をすればよい--こんな風潮が許されると、プロジェクトは難関を乗り切れなくなる。

そこで生まれたのが、Joint Venture(J/Vと略す)による、profit/loss shareの考え方だ。これは、複数の会社がプロジェクトで共通の財布をもち、得をしても損をしても、お互いにシェアしましょう、という仕組みである。J/V体制の元では、プロジェクトに問題が発生した場合、たとえ原因がどちら側にあるにせよ、それを解決するために協力して動くようになる。皆が一つの方向を向くのである。つまり、真の利益共同体になるのだ。

最初にこのJ/Vによるprofit/loss shareの契約方式を知ったとき、ずいぶん感心した。なるほど、これが欧米流の大人の考え方というものか、と思ったものだ。実際にJ/Vを遂行するとなると、いろいろと方式や思惑など面倒なセットアップがあるのだが、それでも複数の会社を一つの利益共同体にすることのメリットには代え難いと感じる。

ところで、私が生産スケジューリングやサプライチェーン・マネジメントの分野に取組み出してから常々思うのは、この方式を一つの会社の中でも使ってみたらどうか、ということだ。なぜなら、製造業ではしばしば、部門間がちっとも利益共同体として働かないからだ。生産と販売、需要と供給を同期化することがサプライチェーン・マネジメントの根幹である。それなのに、たいていの会社では、この両者は仲が良くない。なぜか? それは、両者が別々のモノサシで、いわば別会計で動いているからだ。そこで、つねに問題の押し付け合いが生じてしまう。Consorciumと同じだ。

それならば、営業と生産がJoint Ventureと同じように、Profit/Loss shareを取り決めればよいはずである。売価から、仕入れた値段を差し引いた、会社で産み出した付加価値総額を、営業部門と生産部門がシェアする。比率は50:50でもいいし、40:60でもいい。それは社内の取り決めである。営業が高い値段で販売できたら、その利益を工場も甘受する。だから技術部門は客先のニーズや悩み(ペイン)をうまく解決できるような製品機能を工夫する。また、工場が生産性を上げたら、営業も成績がアップする。そこで、営業は無理な割込み注文をとって生産計画や購買手配を混乱させない。そう動ければ、ベターではないか。

いや、そもそも会社というのは、そういう風に動くはずのものではなかったか。それなのに、なぜ営業はシェアと売上高ばかりを追い、工場はサプライヤーに単価低減/短納期の無理難題を押付ける存在になってしまうのか? なぜ、問題を、自分のいるサイロの外側に投げ出すだけでこと足れりとしてしまうのか。

それは、「自分たちは利益共同体である」という基本的な事実を忘れて、部門業績ばかりを追いかけるからである。また、それを促すような、評価基準や成果主義がはびこるからである。これを断ち切るには、一度ためしに、各部門から人を出して、部門横断的な小さなプロジェクトを進めてみると良い。プロジェクトの成果は、参加者全員の成果とする。そうしたら、部門間で経費の押し付け合いをしている暇はなくなる。互いに、相手の立場で考えることができるようになるはずだ。そう。同じボートに乗った仲間ならば、みな運命共同体なのだ。

さて、ここまで考えてみて、気づいたことがある。それは、私たちの地球もまた、運命共同体ではないか、ということだ。それを、目に見えもしない地表の境界線で分断して運営して、本当に皆が満足し納得できるのだろうか。

今年、日本はまた「記録的な気象異常」をあちこちで記録した。それは日本ばかりではなく、今年ばかりでもない。私たちは今、ちっぽけなボートに一緒に乗っていて、その船には何かきなくさい煙が立ちこめはじめている。もう一度言おう。私たちは、同じ船に乗っている。運命共同体なのだ。ならば、世界がひととき活動を休めて平和を願うこの季節に、さまざまな国に住む人々が、分断されずに、同じ目的を目指して生きるにはどうすべきかを、せめて考えたいと願うのである。

マネジメントとはいったい何だろうか? (2007/11/16)

ある金持ちの叔母さんが亡くなって、その遺産があなたのところに転がり込んだ。遺産とは、彼女がオーナーだった会社の株だ。その会社は、空位となった社長の座を、あなたにやってくれないかと頼みにきた。役員会の決議だという。一夜にしてあなたは経営者になったわけである。

社長室の大きな机に座って、あなたはこの会社の経営状況を理解しようと試みる。ユニークな技術によって専門的製品を作り出し、一定のユーザに認められてきたという。しかし近年、売り上げは伸び悩み、利益は急降下だ。有力な代替技術があらわれたらしい。ユーザの一部は、安価な中国製品に流れている。けっこうピンチではないか。何か手を打たなければならない。

役員会と部長会で、あなたは新社長としてあいさつし、業績回復にむけて力を合せよう、とスピーチする。だが、幹部たちの反応は鈍い。工場長や営業部長に資料を要求しても、言を左右してなかなか報告して来ない。彼らはあなたの部下ではないか。社長の指示を社員がきかないなんて、こんなことがありうるとは!

そこであなたは卒然として悟るのだ。マネジメントとは地位ではない、と。社長になっても、それだけでは、経営はできない。

そのうち、あたなには社内の情勢が隠微なかたちで見えて来る。社内に派閥があり、技術開発を先導してきた常務と、財務畑で数字に明るい専務が争っている。どうやらあなたは、彼らの後継者争いに決着がつかぬため、「つなぎ」として担ぎ出されただけだったらしい。

だが落胆している暇は、あなたにはない。関西で、重要な商談に負けたという報が入って来る。営業は工場の高価格体質を非難し、工場は仕様条件が直前まで決まらず情報不足だと反論する。しかもあなたは、昨年度の財務諸表を子細に見ている内に、どこかに粉飾があるのではと疑いはじめた・・・

あなたは皆に「頑張れ」ということはできる。だが、具体的にどうすべきかをいうことはできない。これではまるで、バッターボックスの打者に、「とにかくホームランを打て」とサインを出す野球監督と同じではないか。あなたは、マネジメントとは単にリーダーとしてビジョンや指示を出すことではない、とようやく気付きはじめる。

それでは、マネジメントとはいったい何だろうか? マネジメントの中心には、「人を動かすこと」がある。自分自身で手を動かすこと、ではない。第一、あなたには製造も販売も経理もできない。みな他人にやってもらわなければならないのだ。江戸時代みたいに技術も市場もずっと変化しなければ、社長などいなくても会社はまわるだろう。だが、あなたがすべてを各部門に任せて何もしなければ、きっと会社は破綻する。つまり、マネジメントとは、変化しやすい環境において必要とされるものらしい。

あなたは、市場や法規性の制約条件の下で、資金・設備など利用可能なリソースを活用し、先行きを読んで目標を達成すべく、実行可能な形で人を動かさなければならない--それが「マネジメント」なのだ。モノ・金についての理論や道具類は、これを支えるものでしかない。

それにしても、人はなぜ動くのだろうか? 答えは二つある。強制と、自発だ。強制とは、たとえば暴力による脅しだ。あるいは生計の柱である給料を握ることである。金と力の行使に筋を通すため、法や規則が生まれる。こうした方法は、すなわち「権力のシステム」だといっていい。社長や裁判官に権力がある、とはそういう意味だ。これに対して、人々が自発で動くのは「権威のシステム」と呼ばれる。たとえば教祖について行く、有徳の士にしたがう、師範のアドバイスをきく。彼らに権威があるというのは、強制力がなくても人が従うからだ。権力のシステムは文明の、権威は文化の一部だといって良い。

もちろん、強制と自発の間には、広大なグレーゾーンがある。たとえば「サービス残業」は自発だろうか、強制だろうか? QCサークルの活動は? グレーゾーンにあるものが、しばしば自発の装いをもつのは、強制よりも自発の方がより良いと信じられているからだ。人間は「やらされている」よりも「自分からやっている」方がパフォーマンスが高い。奴隷労働がけっして近代経済社会で生き残れなかったのも、そこに遠因がある。

ところで残念ながらあなたには、生まれついてのカリスマ性も、永年の苦労で得た人徳もない。しかし、社長であるあなたには、一つだけ利点がある。あなたは視野が広いのだ。財務屋の専務や技術屋の常務や、工場長や営業部長よりも、広く問題を見ている。おまけにあなたは既成概念にしばられない。失敗して座を追われたって、遺産を受けつぐ前の状態に戻るだけだ。あなたはむやみに指示するのをやめ、人々に考えさせることにした。ただし業務の枠を超えて問題を投げかけるよう、工夫して。あなたは、「人は自分の頭で考えたことしか、本気でとりくまない」とつくづく悟ったのだ。

人を動かしたかったら、人を動かそうとしてはいけない。これこそ、マネジメントの中核にあるパラドックスである。指示や強制は長続きしない。しかも、人の考えはバラバラだ。脳は複雑系で、個別には予測不可能だと学者もいっている。だからマネジメントには、いつでも使える『魔法の方程式』がないのである。

高い買い物をする方法 (2007/10/23)

「安い買い物をする方法」についての解説は、インターネットにたくさん出ている。と思う。誰もが安い買い物をしたいと思っている。“ウチの店なら安い買い物ができます”という情報は、もっと多いに違いない。

そこで、このサイトでは差別化のために、「高い買い物をする方法」を教えようと思う。おっと、“高価なブランド品・高級品を買う方法”ではないので、誤解なきよう。あくまでも、本来ならもっと安く買えるものを、あえて高いお金を払って買う、非常に社会貢献度の大きな方法である。もちろん、経営者から怒られたりはしない。むしろ、誉められたりする。その方法である。

まず、買うべき対象のものであるが、自社仕様品でなければならぬ。世の中にあふれているコモディティ(日用品)で、店に行けば棚に並んでいるようなモノでは、誰でもどこが安いかわかってしまう。これではいけない。そもそも、自社のビジネスのために購買するものである以上、自社の要求にぴったりとフィットしていなければならぬ。とうぜんながら、求める仕様も、細かく微妙だが多岐にわたる。これは、過去の経緯や実績をふまえ、かつ社内各部署の便利を考えた上で、同業他社との差別化がはかられた仕様であるから、当然の結果である。「ニーズにあった、最適なものを買う」--こう主張すれば、役員会でだって、胸を張って説明できよう。(ただし、決して“特注品”などと呼んではならぬ。言葉づかいには注意すべきだ)

ところで、この「仕様」を決める際に、重要なポイントが一つある。それは、できるならば『構成・構造』ではなく『性能』で定めるべき、ということである。何気筒何千cc排気量のエンジンを積んだ自動車、などと指定してはいけない。時速200kmで何時間突っ走っても平気な乗り物を、というべきだ。これは以前、「モノを買うのか、機能を買うのか」(考えるヒント、2005/07/21)にも書いたことだから解説は不要だと思うが、ユーザというのは基本的に、生産財であれ消費財であれ、機能にたいしてお金を払うものだからである。

製品の性能は、内部構成・構造の設計結果から生まれる。だから買い手は、メーカーがいかに部品構成を設計するかなどに口出しすべきではない。もし、「何気筒何千cc」的な仕様でモノを買って、それが200km/hで走れなかったら、誰が責任をとるのか? 仕様を満たす責任は、必ずメーカーにとらせるようにしなければ、賢い購買とは言えない。設計はメーカーの仕事であって、見積はそれをタダでやらせる絶好の機会である。設計の結果生まれたアイデアは、無論もらっていいのだ。

さて、個別仕様品を購入することが決まったら、次は見積引合である。当然ながら、たとえ形式的にでも、3社以上から競争見積をとるべきだ。同じモノをくりかえし買う場合でも、頻繁に競争をさせる。こうすると、ベンダーの営業に刺激を与えるから、とても良いサービスを引き出すことができる。なお、打合せにはなるべく大勢の人間がぞろぞろ出てくるような会社を選ぶのが望ましい。こういう会社は、管理システムがしっかりしていて、専門分化した職種間で誰もお互いにリスクをとらないようできている。だから販売管理費もとても高くなる。

リスクといえば、自社にとってリスクとなる部分は、すべてベンダーに押しつけることが肝要である。これはリスク・マネジメントの観点からみて、当然すぎる処置だろう。したがって、仕様書はなるべく曖昧な文章で、かつ詳細に多岐にわたって明文化すべきである。そうすれば誰が見たって立派な購買プロセスである。できれば引用文献や標準図書などを多数オマケに付けてあげるべきだ。そうすればベンダーの設計部も喜ぶだろう。

見積引合をとるときには、なるべく短期間で出させること。これは案外見過ごされているが重要なコツである。2週間より1週間がよく、3日よりも「明日まで」がいい。こうすれば、ベンダーの営業マンは徹夜であなたの会社に誠意を見せてくれるし、しかもコストダウンを検討する余地などなくなる。ただし、注意。建設業の世界では、700万円以上の想定価格のものを、3日以内に下請けに見積もらせると、明確な法律違反になる。コンプライアンスの観点から、こういう場合は口答で指示して、下請けの「自主的営業努力」にまかせなければならない。なに、同情など不要だ、なぜならあなたは高い買い物をしてあげているのだから。

また、購買組織を本社に集中化するのも、ぜひともとりたい手段である。集中購買の担当者はたいてい文化系で技術は知らないから、「この材料をこう変えればコストダウンになる」などという知恵を出す心配はない。彼らの仕事はバイアウトであり、値切り率が勲章である。だから、あなたもベンダーの営業マンに対しては、“購買部門に値切りシロをのせて持って行きなさい”と耳打ちすることができるだろう。こうすれば、5%アップでオファーされた見積書を、3%値切って買うことができる。かくて、あなたもベンダーの営業マンも本社の購買マンも、誰もがハッピー、三方一両得である。かつ、ベンダーに恩を売ることもできたわけだ。

発注量は、ぜひ多めにしたい。大量購買の方が効率的だと、誰もが信じている。品質問題だってある。鋳物にスが入っていたら、どうするのだ! 欠品は誰もが嫌がる。それに今どき、在庫金利なんてゼロ同然ではないか。多めの注文を、なるべく短納期で発注しよう。それも、ときどき急な変更や飛び込み注文も出して、ベンダー側が怠惰にならぬよう刺激を加えるべきだ。製造直前の変更は、目に見えにくいコストがとてもかかるが、それは営業のせいでも設計のせいでも工場のせいでもないから、誰も傷つかない。たんに、高コスト「体質」のせいになるから、全体にうっすら価格が上がるだけだ。

では、おさらいをしてみようか。高い買い物をする秘訣は、次の通りである:

  • 自社仕様品を買う
  • あいまいな性能要求で見積もらせる
  • 分厚い引合い書類をわたす
  • 設計をさせる
  • アイデアをうばう
  • 形式的にでも競争見積にする
  • 短期間に見積もらせる
  • 集中購買にする
  • 短納期で多めの量を注文して直前に変更する・・・

こうすれば、必ずやメーカーでは設計費や販売管理費がかさんで、高い買い物をすることができる。そして手続きは購買管理の教科書にのるぐらいに適正である。

読者諸賢。これこそ、日本の製造業が大きな内需を生み出す秘密である。2010年には、中国のGDPが日本を抜くのは、ほぼ確実だろう。しかし、一人あたりGDPではまだしばらく差があるはずだ。だから、高い買い物は当分つづけられるはずである。え? この秘密を海外メーカーも知ったらどうしようかって? --心配はご無用。このサイトには、英語版は(まだ)存在しないから。

マネジメントは必要か? (2007/10/08)

私の家のすぐ近くに、平川町という小さな商店街がある。昔はどうやら大工町だったらしい。表具屋・ガラス屋・桶屋・シート屋・土木屋そして提灯屋(!)なんかが、まだ少しだけ残っている。義父が元・桶屋なので、桶屋さんの店の前にちょっと興味をひかれて立ち止まり、桶職人の仕事を見ることがある。

その店では年配の店主がたったひとりで、手桶などを作っている。残念ながらもう、木の風呂桶のような大物を注文する客は少ないのだろう。それでも職人仕事は、見ていると面白い。職人がたった一人でも、やはり工場と同じ機能があるからだ。前にも書いたように工場見学ほど面白い物はない、と私はいつも思っている。

桶というのは水を使うから、原則として釘をつかわずに作る。基本は溝でかみ合わせて「タガ」でしめるだけだ。義父によると、たとえば一尺の手桶でどれくらいの板材が入り用で、削るときの曲率をどうするか、一々計算などはせずに作ったという。つまり、BOM=部品表も工順も、インメモリで全部頭の中に入っている。とても効率が良い。MRPも不要。すべて目分量だが、文字通り「一人屋台生産」のような生産方式だから、フレキシビリティが高いのだ。受注量の変動に、簡単に追随できてしまう。

そんな桶屋の親父さんが一人で組立製造も仕入れも納品も受注もやる店では、『マネジメント』はどこにいるのか? この「いるのか?」は、居るのかという意味と、要るのかという意味と両方の疑問である。

ところで、話は(例によって)突然飛ぶが、このサイトの読者の中で、家計簿をつけている人はどれくらいおられるだろうか? ついでにもう一つ。私が「日誌をつけよう」などで以前からおすすめしている、プロジェクト日誌をつけている方は、何人いらっしゃるだろうか?

そう聞きたくなったのは、あの桶屋の親父さんはいつ、帳簿つけをしているんだろう、と疑問に思ったからである。職人は、一日の仕事の仕舞いには、道具の刃を研いで終わる。工具すなわち製造資源のメンテナンスは、ルーチンに組み込まれているのだ。しかし、店である以上、帳簿も必要なはずだ。それは、誰にとっても面倒くさい仕事だろう。もしも会計がマネジメントの主要な仕事の一つだとしたら、マネジメントとは、正味作業時間を奪う、仕事のブレーキとしての存在ではないのか?

マネジメントは付加価値生産性に対するブレーキである--そんなことは経営学でもビジネススクールでも、絶対教えてはいるまい。しかし、生産性とは、投入に対する産出で定義される。付加価値生産性は、投入した労働時間に対する、付加価値(=売価-仕入)の比率で示される。もしマネジメントによって、直接労働時間が減るならば(そして事実減るわけだが)、明らかに付加価値生産性に対するマイナスになるはずだ。

では、マネジメントは何のためにあるのか? たとえば、財務会計は何のためにやるのか。だって法律で規定されているから--たしかに、それは答えの一部であろう。しかし、法律で規定されていなかったら、帳簿はつけなくても良いのか?

じつは、たいていの人は、心の中でそう思っている。その証拠に、家計簿をつけている個人は少ないからだ。QuickenだってMicrosoft Moneyだって、日本では使ってますという人を見た覚えがない。日誌もそうだ。日誌は時間の使い方についての家計簿です、と『時間管理術』でも書いたと思う。しかし、日誌をつけている人はきわめて少ない。会社のタイムシートだって、放っておくと月に1度、まとめ入力ですませてしまう。理由を聞けば、「忙しいから」と答えが返ってくる。以前も書いたように、「忙しい」という答えは、「そんなのは優先度が低いので、やりたくありません」の言いかえにすぎない。

つまり、何かを記録する作業は、客先にたいして何かを作り出す作業よりも、優先度が低いと思われている。だから、やらない。やっても評価されない。そんなのは付加価値を生まない間接作業だ--これが、私たちのビジネス文化に共通する態度らしい。

ところで、ちょっと考えてみてほしい。職人は一日の仕事の仕舞いに、道具の刃を研ぐ。あれは間接作業ではないのか? あれは仕事のブレーキではないのか。

そんなことはない。道具の刃がなまれば、切れ味が落ちて生産性に影響する。だから、砥石に向かう時間を惜しまないのだ。砥石に向かいながら、今日の仕事のできばえを心の中で反省する。それから夕餉の酒に向かう。これが由緒正しい職人の姿である。

私はかつて、生産管理とは直接製造業務を支える全ての間接業務である、と書いた。間接作業というものは、直接作業の生産性を上げるという形で、付加価値生産性に貢献できる可能性があるのだ。逆に言えば、マネジメントをブレーキにしたくなければ、付加価値生産性に結びつける努力がいるのだ。それは経費の無駄の発見かもしれないし、使用人の教育かもしれないし、仕入れ先の吟味かもしれないし、新規販売先の開拓かもしれない。

マネジメントとは、過去と現状を把握して、将来の見通しを立て、ターゲットに向けて人を動かしていく仕事である。それは地位ではなく、機能である。それは誰の仕事の中にも、少しずつ含まれている。そのことを忘れなければ、世の中を騒がす流行の三文字言葉たちにもおびえずに暮らしていけるのだ。


アメリカ製造業の衰退 (2007/09/30)

その写真を見た者は全員、目を疑った。火炎バーナーのついたフレアスタックの高い煙突の先端が熱で溶融し、まるでロウソクのように日を追って短くなっていたのだ。海外でプラント建設に従事して帰国したエンジニアは、製造元である米国の某メーカーを名指しして、『顧客の指定でしかたなく発注したけれども、もう二度と使うべきではない』と報告会で叫んだ。

フレアスタックとは、プラントで随時発生する、可燃性だが品質が低くて利用できないガスを燃焼し無害化して大気に放出する、バーナー付きの煙突である。プラントで先端に炎が燃えている煙突を見かけたことがあると思う。その煙突が、自分の燃焼熱でどんどん溶けて短くなったら、とても使えたものではない。明らかに不具合である。だが、彼の話では、メーカーは決して自分の非を認めず、まとまに誠意を持って対応しないままだった。契約納期に追われているので、結局仕方なく、日本のメーカーに再製作を依頼せざるを得なかったという。

そのエンジニアが怒ったのは、むろん、設計/製造における不具合もある。しかし、それ以上に腹立たしかったのは、クレームに対する応対のわるさであった。やりとりの詳細はきかなかったが、私も自分の体験から、どんな木で鼻をくくったような返事が返ってくるか、容易に想像がつく。契約の文言だけを盾にとり、黒を白と言いくるめつつ、他者のみを非難する。技術者と話しているというよりも、弁護士と話しているような感じなのだ。

アメリカという国が、製造業に対する興味を失って、大分たつ。かつてはあの大国の国民経済を支えた製造業が、今やGDP比率でわずか14%以下しかない。雇用面で見ても、製造業で働く人間は、10人中1人ちょっとである。私の友人には技術者が多いが、彼らはもはやかなり少数派の、マイノリティ的存在である。米国APICSの会誌も、年々薄くなっていき、もはや同封の広告程度になってしまった。

それに平行するように、製品リコールも増大している。記憶にあるかぎりでも、制御弁、PLC(機械制御用のロジック・コントローラ)、液体用安全弁、などなど様々な製品が欠陥が見つかり、回収対象になった。われわれプラント・エンジニアリング会社はそうした製品をつかって作った工場の顧客にたいして、きちんとした情報提供をする義務がある。しかしそうした欠陥製品を生み出す米国メーカーはたいがいどこかに買収されており、ひどく事務的な木で鼻をくくったような対応しかしない。なぜかって? ちょっと考えてみてほしい。働いている人間は、いつ首を切られるか分からないのだ。だとしたら、顧客よりも経営者の方だけを見て動かざるを得なくなる。

マネジメントを科学する」に書いたように、アメリカはテイラーの科学的管理法の理論を生み出し、さらにフォードの流れ作業方式による大量生産工場を生み出した。その二つは、米国を製造業によって世界第一の大国に押し上げる力をもたらした(それ以前の米国はむしろ農業国だった)。しかし、’80年代に入る頃には、米国製造業にはさまざまな問題が発生していた。ワシントンの政治家たちは、海外企業のダンピングだとか為替のせいにしたがったが、明らかに製造業の経営自体に、何かおかしな点があったのだ。どこでどうしてこうなってしまったのか?

その答えは、アメリカの経営思想の中にあるはずだ。とくに、本社重視・現場軽視の思想の中に。それは、製造現場を単なるコストセンター、単なる道具と見なす考え方につながっていく。おかげで、80年代から米国企業は安い製造コストを求めて、どんどん海外に工場を移転していった。’90年代の初め頃、米国の友人が「In this country, ‘production’ means buying something that looks productive」と手紙に書いてきたのを思い出す。

その結果、何が起こったか。技術の空洞化である。技術とは、(私もエンジニアのはしくれだから書くのだが)科学の理屈だけでなく、現実からのフィードバックによって確立していくものである。その現場を、すべて自分の外に出してしまったのだ。「お前はおれの設計図と契約書の通りに作ればいい」という風に指示することがエンジニアの仕事になってしまった。そうなると、現場の問題から生まれる知恵や改良は、外注先のものになる。こんな状態が3年も続けば、賭けたっていい、自分の技術勘が無くなっていくのだ。

私は、米国人の技術屋の友人たちの顔を思い起こすたびに、こんな状態を残念に思う。彼らだって、エンジニアらしく、良い仕事をして満足したいのだ。しかし、経営がそれを許さない。

とはいえ、ふと我に返って思うこともある--はたして我々の国でも、それは他人事なのだろうか、と。

マネジメントを科学する (2007/09/15)

マネジメント論の系譜をさかのぼると、いまからちょうど100年前、アメリカのF・テイラーが提唱した『科学的管理法』にいきあたる。鉄鋼会社の技師長であったテイラーが考えたのは、工場における労働者の生産性を上げるにはどうしたらよいかという問題だった。テイラーは労働者の作業動作を時間の観点から分析することからはじめた。ストップウォッチを片手に、どのような動作をおこない、どのようなタイミングで休憩をとるのが一番生産性を高めるか、さまざまな観察と実験をおこなう。そして、そこからベストの作業手順を編み出すのである。

彼が実際に示した有名な例は、工場で銑鉄(ズク)のかたまりを運搬する作業だった。それ以前の現場では、労働者がどんなに頑張っても一人一日あたり12.5トンが限界だった。しかしテイラーは時計で時間を計りながら観察と実験をくり返し、作業を改善していく。そしてその結果、労働者の運搬量はなんと1日47トンまで増大した。しかも彼は休憩の頻度と長さについても改善し、1時間のうち働いている時間が平均25分、休んでいる時間が35分がベストであることを見いだした。つまり、労働時間の半分以上は休憩しているのである! 究極の時間管理術だといえよう。

テイラーの時代、労働者の賃金は日給や時間給ではなく、出来高払い制が多かった。すなわち、彼の科学的管理法のもとでは、労働者は前よりも多く休んで、かつ高い賃金をもらうことができるようになったのだ。また経営者の側も、4倍もの生産性向上を得ることができたのである。今で言うWin-Winの関係だ。

テイラーの手法は、タスク(Task=課業)の概念、作業の分解と標準化、そして計画と実行を分離した機能組織からなっている。とくに時間研究と作業研究は科学的管理の中心手法として発展した。これを、IE=Industrial Engineeringと呼ぶ(日本語では「経営工学」とよばれる分野である)。そして、この手法は米国産業が大量生産時代に突入するとともに、どんどん普及していった。

ところで、ここまで読んだ人の中には、「マネジメントとは、単なる動作の改善よりももっと広い仕事だろうに」と思った人もいるにちがいない。そのとおりだ。では、その広い仕事とは、いったい何をさすのか。どうすればうまくいくのか?

ここに、アンリ・ファヨールというフランスの鉱山会社の社長が登場する。この人はテイラーとほぼ同時代の、手腕ある経営者だったが、抽象思考も得意だったらしく、『管理過程論』という考え方を提唱する。マネジメントの仕事とはプロセス、すなわち「何を」でなく「いかに」を組み立てることだ、とファヨールはいう。そのために彼は、今日でいうPDCAに相当するマネジメント・サイクルを定義する。さらに、組織における「ライン」と「スタッフ」の分化を明らかにし、また、マネジメントにおいて従うべき原理原則を定義した。

エンジニアリング(工学)的観点にたつテイラーに対し、ファヨールは組織とルールという社会科学的な切り口から問題をみている。しかし、この二人に共通しているのは、「マネジメントは科学的でなければならない」という意識だ。経験や慣習や勘や度胸だけでなく、合理的なアプローチで改良されるべきだ、という信念だ。トップの出身階級や性格や人徳だけでは、人はうまく動かないと、彼らは考えた。だからテイラーとファヨールは、今日の経営学の創始者とよばれている。

ちなみに、テイラー以前のアメリカの産業界では、マネジメントとは労働者を命令と賃金と罰則で動かすことと同義語だった。これはすなわち、奴隷制のプランテーション経営の発想である(アメリカの産業革命を支えた労働力は、南北戦争の結果として奴隷状態から「解放」されて都市に流入してきた黒人労働力だった)。このような奴隷労働的な経営思想は、現代に至るまで米国流マネジメント観の底に流れていてることも忘れてはならない。彼はこうした思考法に変革を起こそうとしたのである。

さて、戦後日本は、機械や電子など要素技術の導入には熱心だった。が、管理技術には(統計的品質管理を除けば)あまり関心がなかったようだ。だから今でも、IE屋が全く居ない工場、原理原則を学ばないプロジェクト・マネージャー、管理過程論のことを何も知らない経営者が少なくない。

今日のマネジメントは素人がやっている」と100年前のテイラーはなげいた。それから1世紀たった今、我々はどれだけ前進したのだろうか。世間の経営流行をおって右往左往していないか。彼らの残した宿題を、我々はまだやり終えてはいないのである。

クールなSCM専門企業ベスト10社とは (2007/09/06)

ARC Advisory Groupは、米国の製造業向け調査会社の老舗である。とくにオートメーション業界の動向に強い。そのARCが7月に、ちょっと面白い記事を流していたので紹介しよう。それは、"10 Coolest SCM Boutique Consultants" すなわち、「今、一番クールなサプライチェーン・マネジメント専門企業10社」という内容だ。

SCM関連業界を洋服業界にたとえるならば、IBMのような大型百貨店、SAPやi2 Technologiesのような大手メーカーがいる。しかし、記事を書いたSteve Banker氏が対象に選んでいるのはboutique、すなわち専門店に相当する、小粒だが個性のある企業だった。どの会社とどの会社が選定されているのか、くわしくは原文を見ていただくとして、ここでは興味深い何社かをあげてみよう。

たとえば、Clarkston Consultingというコンサルティング会社がある。Clarkston社は、特定業界にフォーカスすることで特色を出している。得意分野は消費財とライフサイエンス分野である。これらの分野では、SCMそれ自体の確立に負けず劣らず、製品戦略の策定が重要になる。それは商品企画やイノベーションの領域までを含む。彼らはしかし戦略を策定するだけでなく、システムの導入までもおこなう。実績で一番多いのはSAP(APOを含む)だが、CASやOracleが選ばれることも多いという。コンサルタントとしてベンダー中立な点がポリシーの一つであるようだ。

あるいは、Chainalyticsも面白い。この会社は主にサプライチェーン・ネットワークのデザインを主力としている。すなわち、どことどこに物流拠点を置き、どのような輸送手段を用い、どこにどれだけ在庫を持てば最適か、といった問題を専門にするのだ。これは広大な米国では、中規模以上の企業にとって、つねにつきまとう悩みである。(この種の問題は私たちもトライしたことがあるが、日本は狭くて道路網が発達しているため、アジア広域で水平分業しているような大企業を除けば、ニーズが少なくてビジネスとして成り立たない)。同社の強みは、全米および海外での、ロジスティックスに関するコスト・データをかなり持っていることである。

enVista社は、SCEシステム(サプライチェーン実行ソフト)導入の専門企業だ。SCEシステムが何であるかについては、『SCE(Supply Chain Execution)ソフトとは何か』(生産計画 ワンポイント講義)を参照されたい。いわゆるWMS(Warehouse Management System=倉庫管理システム)や輸送管理・作業者管理などのソリューション構築にたけている。彼らもまた輸送コストに関する独自データベースをもっていて、顧客の実際の物流コストをオーディットし、どれくらいの節約が可能かを分析するサービスもおこなっている。

しかし、一番おどろいたのは、リストにOliver Wight Internationalが入っていたことだ。故オリバー・ワイトといえば、’70年代に「MRP十字軍」の名前のもとに、全米の製造業にMRPⅡの思想を普及して回った人物ではないか。彼の、米国における生産管理思想への貢献はきわめて大きい。その彼のコンサルビジネスを継承して、計画系のプラクティスを支援する会社が30年後にも生き残っているのだ。これは、米国におけるMRP Ⅱが、ERPに支えられながら、いまだに主流として継承されていることを意味している。

こうした専門コンサルティング・ビジネスの会社が米国で成り立つことは、日本とは大きな違いだと言えるだろう。日本では、コンピュータ・メーカー、大手会計系コンサル、金融系SI総研などが、大企業の信用力とブランドで市場を系列化してしまっており、知恵だけでビジネスを立ち上げて伸ばすのは容易なことではないからだ。

とはいえ、よく考えてみると、それは米国産業のあり方の変化にも、関係しているのかもしれない。たとえば、別の老舗調査会社AMR Researchが最近の記事に書いているように、3PLやロジスティクスの世界にも、業界内合併や投資銀行による買収の波が押し寄せてきている。たとえばSchenkerによるBAX Global買収($1.2B)、Deutsche Post/DHLによるExel Logistics買収($6.6B)などは前者の例だし、Apollo ManagementがTNT logisticsとEGL Global Logisticsを買収したのは後者だろう。

こうした合併や買収の後には、必ず物流ネットワークの整理、拠点の集約化、情報システムの共通化、そして人員削減などがおこなわれる。そのとき、プランを出すのは誰だろうか。合併や買収をリードするのは本社にいるMBAあがりのマネージャーや財務マンたちで、彼らは現場の状況をよく知らない。しかも米国企業はある意味でトップダウン、上意下達の組織であって、現場の知恵に上層部が耳を貸す風習はない。そうなると、呼ばれるのは外部のSCM専門家たちである。かれらが現場に分け入ってデータを収集し、分析検討の結果、案を出す。

かくして米国では、複数の企業・地域のデータを保有するコンサルビジネスが成立する、という具合である。たしかに、これにより横断的な比較とベンチマーキング、ベスト・プラクティス確立が促進されるといっていい。それは一つの知恵ではある。日本企業にときおりあるように、自社内の経験知だけでものを考える内向きなスタイルには、いらいらさせられるのも事実だ。しかしその一方で、エンジニアとしての私は、現場の知恵を計画や設計にフィードバックできる、統合された組織の姿に、より大きな価値を感じるものだ。スマートでクールなコンサルが軒を並べる米国の姿に、多少の違和感をぬぐえないのである。

情報の経済的ロットサイズを考える (2007/08/29)

部品材料の購買においては、経済的ロットサイズの理論があって、買う量がそれより多すぎても少なすぎても、余計にコストがかかることを、前回書いた(「生産管理 ワンポイント講義」2007/08/21)。この事情は、社内の製造工程などにも同じように当てはまる。最終組立などは一個流しが理想といわれているが、材料加工・塗装やチップマウントなど、技術的制約からどうしてもロット加工の方がやりやすい工程が存在するものである。こうした工程では、ロットサイズを決める際に、Wilsonの公式から割り出した経済的ロットサイズ(EOQ)をたよりに計算すると効果的だと考えられている。

社内加工の場合には、購買発注をかけるたびにかかる手数のコストのかわりに、段取り替えのセットアップ・コストをつかって計算する。ロットをあまり小さくしすぎると、段取り時間ばかりが増えて正味作業率が下がることになる。逆にロットを大きくしすぎると、仕掛り在庫量が増えてしまう。

ところで、この考え方をさらに敷衍して、社内を順に流れる情報についても適用できないだろうか、と思うことがある。それは、プロジェクトにおいて機能組織の間を流れていく情報の、経済的ロットサイズである。

たとえば、私にとって一番身近な、エンジニアリング系のプロジェクトを例にとってみよう。こうしたプロジェクトでは通常、最上流工程で機能設計を行い、ついで運用設計も加味して基本設計図面に落としこむ。後工程の部門は、これを受け取って構造設計・制御設計・電気設計・・などに展開し、部品表BOM)と仕様書を作成する。購買部門はさらにそれを受け取って、引き合い書類を作成し、また生産技術/工務部門は加工手順計画を立案して労務手配に動く、といった風になる。つまり、情報が上流工程部門から下流工程部門へと、順に加工されて流れていくのである。

このとき、問題となるのは、どれだけのかたまりで情報を下流部門に流すか、である。ここのさじ加減が、結構適当に決められる場合も多い。いうまでもないが、仕事というのはある程度の分量がまとまらないと、結果を公式に発信しにくいものだ。また受け取る側も、ある程度まとまらない限り、手をつける気がしないものである。こうしたことは単なる感情論だと思われがちだが、そうではない。知識労働においては、頭を切り換える時間(頭を次のことに向けて準備し集中するための時間)は案外、大きい。つまり思考のロット切替には見えないコストが無視できないほどかかっているのだ。このため、情報ロットは大きめになりがちである。

では、そうした切替ロスのコストを承知の上で、情報のロットサイズを意図して小さくしたら、何か効果がえられるだろうか。工場の部品の場合は、仕掛り在庫が減るという、目に見えるメリットがある。しかし、情報の場合、そもそも在庫という概念がマッチしない。すると、利点はないのだろうか?

そんなことはない。むしろ私は、情報のロットサイズは小さめにした方が効果が現れやすいと考えられる。どこにその効果が出るかというと、プロジェクト全体の「リードタイム短縮」である。

IEの工程分析をやったことのある方ならおわかりだろうが、そもそもロット生産における最大の問題点は、「ロット待ち時間」の無駄の発生である。ロット全数について、ある仕事が完了しないと、次の工程に流れないような工場内物流設計の場合、ロットを構成する個別の部品にとっては、仲間がそろうのを待っている時間が一番多くなるのだ。情報のロットサイズにも、この問題がつきまとってしまう。逆に言うと、情報の受け渡しの単位を小さくすれば、それだけ全体のリードタイムは短縮される。

これは、プロジェクト・スケジューリングにおける「ファーストトラッキング」の技法にも通じる。ファースト・トラッキングとは、2つのタスク間に“先行が完了→後続が開始”という順序依存関係(F-S関係)がある場合に、それを“先行が開始→後続もつづいて開始”という並列関係(S-S関係)に変えてしまう技法である(「StartとEnd — タスク間の依存関係」『プロジェクト・マネジメント ワンポイント講義』参照)。つまり、上流からの情報が全部そろうのを待たずに、少しずつ受け取ったはしから処理を開始するやり方を意味している。

しかし、だからといって、情報のロットサイズをむやみと小さくすればいいというものでもない。たとえば、BOM(部品表)データを、できた端から毎日1個づつ流されたのでは、下流部門はたまったものではない。加工計画や購買手配は、ある程度の量と全体像が見えてから進めないと、かえって非効率になってしまうからだ。

そこで、一番ちょうど良いロットサイズがどこかにあるはずだ、という考えに至るのである。むろん、Wilsonの公式はそのままでは適用できまい。もう少し別の数学的道具立てが必要となってくるのである。しかし、私の見るところ、設計段階でコンピュータ利用が進んできているのにもかかわらず、普通に行われている情報のロットサイズは、過去の紙の時代の習慣を踏襲して、大きすぎる状態だと感じる。どのような単位での流し方が適当なのか、もう一度熟考すべき問題である。

情報技術(ICT)の先行きを占う (2007/07/25)

このサイトをごらんになっている多くの方はお気づきだろうが、私は「革新的生産スケジューリング入門」というホームページと、「タイム・コンサルタントの日誌から」というBlogの二つのサイトをもっている。そして、メインの記事は両方のサイトにほぼ同時にアップしている。いわゆるマルチポストの状態になっているわけだ。おかげで、タイトルをもとにYahoo!で検索すると前者が、Googleで検索すると後者が(ときには両方が)みつかるという、読者にとても不便な状態になっている。

なぜ同じ文章を二つサイトにアップしているのか。その理由は簡単だ。私がExciteにBlogを開設したのは昨年の初めだった。動機は単純で、「タイム・コンサルタントの日誌から」というコーナーをBlog化して、もう少しこまめに更新しようと思ったのだ。それにまあ、遅ればせながらBlogってどんなものか、少しは体験するのもいいかなと考えた。Blogならば検索機能もついているし、トラックバックもできる。元のホームページのコーナーは休止して、Blogへのリンクに切り替えた。

ところが、切り替えてわずか2ヶ月後のある日、突如として会社のPCからExciteにアクセスできなくなってしまった。Exciteだけでなく、Blogの類は一切、アクセス制限に引っかかる。urlをたたくと、「このサイトはアクセス禁止です。あなたのアクセス履歴はサーバに記録されました。」と恐ろしげなメッセージがproxyから出る。会社では以前から、いわゆるアダルトサイトへのアクセス制限をかけていたが、その対象がBlogに広がったようなのだ。SNSもyouTubeもネットの掲示板もダメ。だからYahoo!の株価情報はOKなのに、株コーナーの掲示板は見えなくなった。

念のため書くが、私は自分のサイトへの投稿は、自宅のPCからアップしている。だから、別に会社のPCからアクセスできなくても、直接は困らない。しかし、自分の会社でこういう制限をかけているということは、おそらく他の企業でも似たような状況が起きているにちがいない。つまり、Exciteに何をアップしようが、それは他の企業人からは読めなくなってしまうのだ(サーバ側記録では、日中のアクセスは圧倒的に企業ドメインからが多い)。私の気まぐれな文章に多少は情報価値があるとしても、読めなければ誰の役にもたたなくなってしまうだろう。結局私は、いったん閉めた旧サイトのコーナーを復活し、同じ記事を両方にマルチポストすることにした。

それにしても、会社からのBlogのアクセス禁止が広がっているは事実である。なぜそんな必要があるのか、私には合点がいかない。Blogの情報が玉石混淆だということは、読む側が気をつければすむことだ。だが、この時に私はひとつの確信を得た。それは、次世代の情報技術ではBlogやSNSが主流になるにちがいない、という確信だ。なぜなら、普通の会社が禁止するものは次の世代のICTの主流になる、という歴史的法則があるからだ。

たとえば、かつて職場ではホスト・コンピュータのダム端末だけがIT(当時はEDPといったが)への窓口だった。正式文書の清書はタイプ室で、高価で大型の日本語ワードプロセッサー機械(写植機に似ていた)で集中入力だった。そこにPCなるものが持ち込まれるようになって、会社の管理部門は顔をしかめたものだ。それでも、最初の内はIBMなど由緒ある汎用機メーカーのPCだけは存在を許された。しかしNECのPC-9801のような我流の機械は排除された。

98がどうしても排除しきれなくなったのは、日本語ワープロソフトの普及のせいだった。これは日本語タイプ室の存在意義をあやうくしたので、論議が出たものだ。しかし、AppleのMacintoshなどというマシンは論外だった。コマンド・プロンプトのないコンピュータなど、システム屋から見たら知性不要のおもちゃだったのだ。

一時普及しかけたMacの進撃を止めたのは、皮肉にも会社が一人1台ずつホワイトカラーにパソコンを配備するようになったからだ。統一管理の観点から、DOSマシンの天下になった。それでも、Windowsは高価なスペックを要求するので、会社は消極的だった。結局Win95の時代になってゲリラ的に普及が進み、管理部門も追認せざるを得なくなった。

その後に来たのはLANとネットワークの波だ。LANサーバは高価なので、ファイルはローカルに保存して、重要書類のバックアップだけに使用するように、とガイドラインが出たものだ。「セキュリティを確保」するため、部門単位にフォルダに壁が仕切られた。“米国では電子メールなどというものが流行っているが、あれは個室中心オフィスで事業所が大陸に分散しているから必要なだけで、日本では普及しない”という評論も読んだ覚えがある。

それでも社内の電子メールは便利なのでしだいに普及していった。しかし、社外との接続は検討外だった。発信ミスによる情報漏洩の危険性を説くために、法務部門までがかり出された(そんなリスクはFAXだって同じだろうに)。どうしてもつなぎたい場合は、x.400などのセキュアなものに限られた。インターネットなど論外である。そもそも、送達される保証すらないではないか!

それでも世間の普及に負けて、名刺にメールアドレスをする企業はしだいに多くなった。だが、Web閲覧は別である。自分の机からネットサーフィンなど、企業で許される所業ではない。検索がしたければ情報部門の部屋の端っこにおいてある専用端末から使うように規制された・・

もういいだろう。結局、このいたちごっこの背景にあるのは何なのか。エリート階層のサラブレッド馬につける横目隠しなのか。あるいは、ガレー船には窓は不要、ということか? それとも情報システム部長の髪の毛がとがっている(www.dilbert.com)からなのか? 

そうではあるまい。ここには、一貫した誤解があるだけなのだ。それは、会社という仕組みは公的なコミュニケーションだけで成り立つはずである、という誤解だ。非公式コミュニケーションこそが会社組織を活性化し生産性を上げることを、じつは「ホーソン実験」はすでに20世紀前半に実証している(「ITって、何?」第20回参照)。しかし、会社の管理部門は、なぜかこのことを知らないか、無視しているようだ。

ICTの発達は、個人単位で発信できる非公式なコミュニケーションを、より活発にさせる方向で一貫して進化してきた。だから会社の方針とぶつかり合うのだ。SNSもyouTubeもSecond Lifeも、すべてその方向にある。エンターテインメント性があるかどうかの問題ではない。それは応用分野の一部にすぎないのだ。社員の情報漏洩を恐れてBlogを禁止するなどナンセンスだ。現に、多くの有用な情報はスタティックなホームページからBlogに移ってきて、情報検索の効率はBlogを排除するとかなり落ちてきている。エロサイトをブロックすることだってナンセンスだ。昼日中から、おかしなサイトを見て遊んでいる奴は、端から見ればすぐ分かるのだ。そのために同僚がおり、上司がいるのではないか。副作用をおそれて薬を飲まなければ、適応力が落ちるばかりだと、もうそろそろ知るべきだろう。

工場見学ほど面白い物はない (2007/06/14)

今月はじめ、中国の大連に行って来た。中国東北部の玄関口にして最大の港町・大連市である。100年前にロシア人が建設した、アカシアの並木の美しいこの街は近年、急速に発展中だ。今回は、コンサルタント集団「生産革新フォーラム」(略称MIF研)主催の、中国工場見学ツアーに参加しての旅行だった。ただし(大連は日系企業もこぞって進出しているが)見学先はすべて中国企業にかぎった。中国の製造業の本当の実状ないし実力を見たい、というのがそのねらいだったからだ。紹介の労をとってくれたのは大連理工大学で、そのキャンパス見学も行なった。

結果は、衝撃的だった。見学の第一印象を一言で言うと、「まいった」になろうか。あるいは「すごいな!」かもしれない。いくつかの企業を回り、大学を見学したあとの感想は、正直、「やばいぞ。」にかわっていた。

見た工場のどこがすごいのか。それを言う前に、なぜ私は工場見学をするのか、書いておきたい。じっさい、私は工場を見るのが大好きだ。そうでなければ、独立コンサルタントでもない私が、なぜ会社まで休んで、自費で海外への見学ツアーに参加するのか。

それは、一言でいって、工場が複雑なシステムだからである。だから設計は難しく、かつ面白い。工場は単に、建て屋のドンガラのなかに製造機械をならべただけのものではない。生産にたずさわる人がいる。部品・材料・製品・副資材などのモノが流れる。電力やガスや用水などのユーティリティも供給しなければならない。制御システムや情報システムもいる。そこには生産思想のすべてがあらわれてくるのだ。以前、『流れをつくる』(「タイム・コンサルタントの日誌から」2007/03/18)や『製品という名のシステム、工場という名のシステム』(2005/11/14)にも書いたことだが、製品に設計思想があらわれるように、工場にはサプライチェーンの設計思想があらわれる。

ところで、日本でイメージする中国の製造業というと、安い人件費の労働者を大量に投入した、人海戦術のものづくり、といった風のものだろう。’90年代以降、日本企業が中国に工場進出した最大の動機は、“安価な労働力”だった。品質はあまり望めないが、とにかく安い部品や、低付加価値の製品。Made in Chinaのイメージそのものだ。

では、じっさいに私たちが見た工場はどうだったのか。たとえば、大連三至机器(正しくは「至」ではなく土の上にムを3つ並べた漢字だが、無いので代用)という会社を見学した。年商50億円程度の中堅製造業だ。給排水に使う大口径コルゲート樹脂のパイプを製造する産業機械のメーカーである。大型の産業機械だから、とうぜん受注生産である。しかも、部品製造からの受注生産なのに、生産リードタイムはわずか50日だという。

ふつう日本の工場だったら、ひと声「納期は6ヶ月」というところだ。基本設計に1ヶ月、鋳物やモーターや特殊部品の資材購入に3ヶ月、部品加工1ヶ月、組立と立合検査に1ヶ月、というわけだ。まあ、この50日が部品購買リードタイムを含むのかどうかは、確認しなかった。鋳物やモーターがあるから、それもふくめて50日というのはかなり難しいから、工場で部品加工に着手してから完成出荷までの期間だろうか。しかし、購買が個別注文ではなく標準品だったら、それでも全体はかなり早いはずだ(日本で購買リードタイムがやたら長くなるのは、手配慣習に起因する理由があるのだが、それはまた別の機会にふれよう)。

ここの工場は、スペイン製の大型FMSマシンをはじめ、森精機の多軸NCなど自動加工機械が20台以上、ずらりと並んで直線的な加工ラインを形づくっている。汎用機もあるにはあるが、補助的役割に見える。モノは工程内にあまり滞留しないで、きれいに流れて行くらしく、フロアに仕掛りがそれほど無い。これが日本の普通の工場だったら(たとえ大手企業でも)、マシンの回りに1ヶ月も2ヶ月も前の部品が平然と積まれていたりするものだ。

こうした自動機のオペレーターは、みな若い。大連の専門学校で加工機械を学んだ人材を採用しているという。人よりも機械の台数の方が多い。ぜんぜん人海戦術ではないではないか。それだけではない。自動化ラインを中心に部品加工をしているということは、部品設計自体が、それなりに自動加工を意識して標準化されていることを意味する。つまり、製品設計・生産技術・製造管理全体に、筋が一本とおっているのだ。

部品加工を自社でやれば、それだけ設計ノウハウ・製造技術ノウハウが自社に蓄積される。多くの日本企業がやっているように、最終組立だけ自社に残して部品加工を外に出してしまうと、付加価値額の比率も低下するし、結局自社の力が落ちていくのだ。

くり返すが、ここは民間資本の中堅企業である。投資はまったくの自費でやっている。国家から土地建物や資金を投入されている国策会社ではないのだ。それなのに、生産の『あるべき姿』を考えて、果敢に挑戦している。まことに恐れ入った。

なんだかベタ褒めみたいになったので念のために書いておくが、私は別に中国ファンでもないし、誰かに何か恩義があるわけでもない。中国にだって政治的不自由やバブル経済や農村の疲弊、環境破壊などさまざまな困難がある。中国人が理想的な人格者ばかりでない(むしろ聖人君子からははるかに遠い人が多い)のも、先刻承知だ。だがむしろ問題なのは、『チャイナ・シンドローム』(「コンサルタントの日誌から」2004/06/06)にも書いたように、私たち日本人の単層な思いこみの方なのだ。

最後の日は、今回の見学先を紹介してくれた大連理工大学を訪問した。広々とした落ち着きのあるキャンパス、すぐれた設備にも感心したが、いちばん印象を受けたのは真面目に勉強する学生たちだった。東北3省のトップ校であり、むろん優秀な人間は多いと思う(東北3省だけで人口は1億3千万人と日本をしのぐから、そこのトップとは、東大以上のレベルといってもいい)。

しかし、何より、今の中国では、一所懸命に学べば、それだけ良い未来につながるはずだという、単純な希望がある。百年前の清朝末期には考えられもしなかった希望である。若い人が、希望を持てる社会。理想を目指しても嘲笑されない社会。私たちも、そうした世の中をもう一度つくらなければ、きっと5年後10年後には、中国に「先進事例」を逆に学びに行くことが当たり前になっていくだろう。

プラント業界のリスク・オーバービュー (2007/05/29)

プラント資機材の値上がりがはじまったのは、2003年の中頃だったと思う。最初はステンレス鋼の品薄だったのだが、みるみるうちに価格が急騰し、年が明けてもおさまるばかりか、勢いはますます激しくなった。品種もステンレスや合金材から、炭素鋼の値上げに波及していき、2005年は高止まりのうちに暮れた。2006年はニッケルや基礎化学材料も上げた。納期も長くなった。そのため、この時期にうっかりした見積を出して受注したメーカーやエンジニアリング会社は、ずいぶん影響をうけることになったはずだ。

プロジェクトのリスク・マネジメントは、まず計画段階でリスク分析表を作成し、方針を決めてコントロールしていくやり方が基本だ。リスク分析表には、考えられうるリスク項目を列挙し、その影響度を定量化し、かつその発生確率を想定して、重要度と対策をきめていく。こうしたことはプロジェクト・マネージャーの常識であって、誰でも必ずやらなくてはならない。リスク分析もせずにスタートするのは、天気予報も見ず、傘も持たずにピクニックにでかけるようなものだ。

しかし、それだけで十分なのだろうか。フランク・ナイトというアメリカの経済学者は、「企業活動を左右する真に重要な要因は、発生確率が予測できないような不確実性にある」と考え、確率が予測できる「リスク」と、確率が予測できない「真の不確実性」を区別すべきだと主張した。これは、不確実性や結果のばらつきをリスクだと定義する、たいていの経営学や金融工学の見解と真っ向からぶつかる。

2003年の当初に、資機材が5割も上がると想定できたプロマネは、ほとんどいなかっただろう。たいていのプロマネは、自分のつくるべきものについて、技術的・組織的・採算的リスクはよくわきまえている。しかし、資機材市場の高騰のように、すべてのプロジェクトに横断的な事象までは、とうてい予見できない。こうしたリスクを察知するためには、PMOだとかコントロールセンターだとかいった、高見からみる(オーバービュー)組織が必要なのだ。だが、それでもなかなか予見は難しい。

プラント・建設業界の資機材がなぜ高騰したのか。なぜ需給がタイトになったのか。それには大きく二つの理由が考えられる。一つは中国であり、もう一つは中東である。2008年オリンピックにむけて猛スピードで突進しはじめた隣の大国は、その旺盛な食欲で東アジア市場の資材をどんどん飲み込んだ(『チャイナ・シンドローム(2) 中国が買い占める世界のエネルギー資源』、タイム・コンサルタントの日誌から 2004/06/13参照)。中央政権が多少のブレーキを試みたが、それではぜんぜん止まらない。

ちなみに、最近、米国のEnergy Information Administrationは年報の中で、世界のエネルギー消費は現在から2030年までの間に、57%も増加するだろうというショッキングな予測を出した。中国は2020年代には、アメリカを追い越して、世界最大のエネルギー消費国になるという。当然ながら、中国を含む発展途上国のCO2の排出量も増大して、先進国をしのぐことになる。

いま、日本国内では石油製油所の改造工事が盛んだが、これも中国が影響している。製油所の装置構成をかえて、ガソリンや灯油といった薄利の消費財をつくる工場から、プロピレンのような化学原料を製造する工場にかえつつあるのだ。その化学品の行く先も中国である。

その中国は今や、あきらかな株バブルの中にいる。今年の初め頃、いったん株価が下げて全世界に波及したが、まだ過熱状態の中にいる。北京オリンピックまで本当にもつのか、疑問に思う人も増えてきた。ゆるやかに減速着陸してくれればいいが、あの国でそんな高度な制御が可能なのかどうか。クラッシュ・ランディングになったときの影響は、ステンレス高騰どころの騒ぎではあるまい。

もう一つの要因は中東のバブルである。これはもともと、原油価格がずっと高止まりしていることに起因している。そのため、中東産油国に大量のオイルマネーが流れ込むことになった。ExxonMobilやShellの好業績をみると、欧米の石油企業だけがもうけているかに見えるが、じつは世界市場におけるオイルメジャーの支配力はかなり下がっており、原油の利益の大半は産油国の国営石油会社に入るかたちになった。

とはいえ、いくら中東にオイルマネーが流れ込んだといっても、最近のプラント資機材の値上がりは投資事業計画に影を投げかけはじめた。すでに、延期やキャンセルになったプロジェクトも出始めている。

加えて、中東にも大きな不確実性がある。イラン問題だ。今年に入ってからずっと、米英は明らかにイラン攻撃を考えている。4月には英軍が領海侵犯を口実に露骨な挑発を行なったが、イランは賢くも(狡猾にも?)それに乗らなかったので、いったんは戦争の危機は去ったかに見えた。しかし、最近再び米国は空母をペルシャ湾に送り、大規模な演習を行なっている。トルコやパキスタン国境付近でも、イランと事を構えるべく多数を動員している。

その直接の背景には、イランの核燃料濃縮問題があるが、このままイランを放置しておくと中東でのプレゼンスが大きくなりすぎ、アラブ諸国が脅威と感じている現実がある。こうした情勢は日本のマスコミではなかなか分からないが、プラント業界に身をおくものとして、当然ながらイラン情勢については懸念をもってニュースをウォッチしてきた。たとえば東京財団の佐々木研究員による「中東TODAY」などを読むと、現地における緊張感がつたわってくる。まさにかつて、イラク戦争がはじまる前に、『海の向こうで戦争がはじまる』(「考えるヒント」2002/12/05)で書いたときとそっくりだ。

こうして考えてみると、プラント業界の活況は、薄氷の上でたき火を焚いている宴のような状況だ。みなが賢明に振る舞って、何事も起こらずに好況が続くことを、切に望んでいる。しかし、どんな不確実性についても、いちおう考慮しなければならないのが、我々の因果な仕事なのである。

ITは組織形態をかえるか (2007/05/21)

Kさん。メールをいただいたのに、ご返事が遅れて申し訳ありません。ITは組織形態をかえるか、というご質問ですが、ちょっと考えはじめてみたところ、意外に奥の深い問題なのに気付き、どうご返事しようか迷っていたのです。私自身、まだ頭の中で完全に答えが整理しきれたとはいえません。

この問題が難しいのは、「組織の変化」を考える際に、それが構造の変化なのか機能の変化なのかを区別する必要があるからです。企業組織に限らず、どんな仕組みであれ、それが目的に対してはたすべき機能があり、その機能を実現するために諸要素を組み合わせて構造をもたせます。組織を論じるとき、ふつうの人はすぐ「組織図」を連想しますが、これは目に見える構造の面をあらわしているだけです。しかし、構造は機能とあわせて、しかも現実の制約条件の下でみないと、正しく理解できません。

ちょっとわかりにくいと思いますので、例を挙げましょう。A社は全国に販売網をもつ、耐久消費財とサービス部品のメーカーです。組織は営業部門、物流部門、生産部門といった縦割り型です。ところでA社では少し前に、サプライチェーン・マネジメントの実現のために生産システムの改革を行ないました。ここは、全国各地の営業所・デポで製品在庫や部品在庫を持っています。以前は、営業所単位で販売動向と在庫量を見て、出荷依頼を工場に対して行なう形でした。

ところが、各営業所の在庫をオンラインで結ぶとともに、A社では営業の出荷依頼業務自体をやめてしまいました。かわりに物流部門が毎週、オンラインで各営業所の在庫量を見て、ある定数から減った分だけ補充輸送するようにかえたのです。工場としては、各地からバラバラに出荷依頼(=生産指示)がくるかわりに、ある程度まとめられた形で物流部門から依頼が来るので、計画がやりやすくなりました。それも在庫が切れる前に前向きにアクションできるので、緊急オーダーが少なくなったのです。物流部門も、いくつかの補充品種の混載などを考える余地が出てきました。

さて、この会社はITで組織が変わったと言えるでしょうか? 組織図上は、何もかわっていません。しかし、機能的には大きくかわりました。営業部門から補充手配業務を減らしたことは、『使用者と補充者の分業』(「コンサルタントの日誌から」 2007/02/12)の観点からいうと、はっきりと進歩です。

そればかりではありません。物流部門は、以前はただ「言われたとおりのことをする」だけの部門でした。しかし、(1)NOという権限が無く、(2)成功して当たり前で失敗すると怒られ、かつ(3)付加価値がないから外注化でコストを下げるだけ、と思われている部署で、だれが喜んで働けるでしょうか。それが、少しながら采配の自由度をもつ部署に生まれ変わったのです。

組織論は、勤め人の最大の関心事でしょう。それは自分の評価と直結しています。できれば大きな部門の、上の階層になって、花形として責任ある仕事をしたい。みな、そう思っています。だから組織図の方ばかりに目がいく。機能はどうあるべきか、という話には、なかなかならない。なっても、自分のささやかな権限を少しでも拡大したい、という方向にばかり願望は向かいます。

Kさん。あなたが「ITは組織をかえるか」という問題を立てられたとき、その底には、“今の組織はかえるべきだ”という潜在的な意識があったことと思います。しかし、現状のどこに問題があるのか。それは機能の問題なのか構造の問題なのか。かえるとしたら、何の理由で、何を目的にかえるべきなのか。そこが大事です。まさか、栄達や権力がほしいから、という理由ではありますまい。

組織をかえると言うとき、たいていの人はフラット型を空想します。ますますピラミッド型に、管理階層を高くする方向にかわってほしいという人は、めったにお目にかかったことがありません(本社の上の方の人は別として)。

しかし注意すべきなのは、ITが組織のフラット化をもたらすか、というような問題の立て方をしないことです。「組織のフラット化」は、ビジネス・ジャーナリズムが外資系の高級経営コンサルと一緒に、一種のマジック・ワードとして宣伝したおかげで、それ自体が目的化したきらいがあります。「二大政党制」だの「国際化」だのと同じ、是非の議論が忘れられた思考停止用語と化しているので、気を付けなければなりません。

ITの発達はほぼ確実に、中央集権化をうみます。これまで地方や現場が自律性をもてたのは、状況が本社からすぐ見えなかったからです。組織のトポロジーは、指示命令形態と情報伝達速度によって決まります。情報と意思決定の関係がこれを左右するからです。そして、意思決定(権限)範囲は、原則的には「責任」の範囲(これをスコープと呼ぶ)に対応するわけです。

Kさん。私は、すべての企業に共通な、理想的組織像など存在しないと考えています。ITが、その理想像を「ベスト・プラクティスとして」提供してくれる、などと思わないことです。まず目的があり、必要な機能がある。そして制約条件を満たすように、構造を決めていく--これが「設計」というものではないですか。ならば、制度設計も同じです。エンジニアならおわかりでしょう。どうか、その視点を忘れないでください。

誰のための生産管理

「佐藤さん。もし3億円の宝くじがあたったら、どんな仕事を選びます?」 ソフトウェア会社の親しい営業マンが、私にたずねてきた。客先からの帰り道、一緒にローカルな電車に乗っているときだ。え、3億円当たったらどんなものを買うか、じゃなくて? 何だか質問がおかしくない? 思わず、そう聞き返した。しかし、聞き間違えではなかったらしい。彼はこう答えた。

「今は私、ソフトウェアの営業をしていますが、学校を出る頃は、どんな仕事に就こうかいろいろ迷ったわけです。収入と、仕事の内容と、労働条件と、就業地と、いろんな条件を天秤にかけて、多少の成り行きもあって今の仕事になりました。で、もし3億円当たったら、(親兄弟に多少配っても)あとは、今の自分の生涯賃金の残りの分、あるわけですね。贅沢さえしなければ、食べる心配は無くなります。

でも、そのとき、毎日何もせずにだらだらしていたら、自分がダメになると思うんですね。そこで、あらためて仕事を選び直すとして、でも最大の制約条件である賃金の多寡を、もう考えなくてもいいんですから、だとしたら何がいいかな、なんて時々思うんです。」

今、食べる心配が無くなったら、どんな職業を選び直したいか。それは気軽に聞こえながら、ずいぶん本質的な問いだった。それよりさらに心を打たれたのは、『毎日遊んでいたら自分がダメになる。だから働かなくちゃいけない』と考える、彼の市民的倫理の誠実さだった。この人はずいぶん信頼できる、まともな人だな。そう、思った。たしかに、働くことは、人間がちゃんと生きていくために必要なことだ。かつて、精神を健康に保つ秘訣をたずねられたフロイトは、「働くことと愛すること」と答えたという。

それでは、工場で、来る日も来る日も似たような仕事を、それもキツくてキレイでもない仕事を続けていく労働者にとって、働くことの意義は何だろうか。代償としての賃金だろうか。たしかに、それが最大の目的ではあろう。しかし、それだけで人間は仕事を続けるだろうか。人が働くのは、多少なりともそれが好きであり、かつ、それが自分の精神的満足につながるからである。仕事がなぜ満足につながるかのか。人間は(不思議なことに)「だれか他者に求められる」ことを必要としており、仕事はその製品やサービスなどの成果を通じて、だれかの求めにフィットすることを示すものだからだ。それが付加価値というものの源泉なのである。

ちょうど1年前、『生産管理とは何か』(「生産計画とスケジューリングの用語集」2006/5/07)で私は、“生産管理とは、『生産システム』の円滑な運用のために必要とされる間接業務の全てを指す”と書いた。これをもっとわかりやすいように敷衍しよう。それは、こうだ。「付加価値を生み出す直接作業を、サポートするための間接作業すべてが、生産管理である」、と。

付加価値を生み出す直接作業、とは何か。それは、部品や材料を加工し組み立てる作業だ。ならびに、製品を工場から消費者の元に運ぶ作業である。それ以外はすべて間接作業だ。治具をセットしたりバイトを研ぐのも間接作業、部品を倉庫から配膳するのも間接作業、機械設備の保全も間接作業。差立や生産指図をつくるのも、生産計画やスケジューリングをたてるのも、設計図を引くのも、すべて間接作業である。工場の管理職として朝礼で訓示を垂れたりするのは間接業務の最たるものだ。

こうした間接作業が不要だ、などと言っているのではない。バイトがなければ旋盤はひけない。部品が製造ラインにこなければ組立はできない。だが、こうした仕事はすべて、直接作業を「支える」ためにあるものだ。プレイヤーではなく、サポーターである。主役はあくまで製造部にいる労働者であって、あとの物流課や資材課はそれを下で支えている。その下にはさらに、生産管理課や生産技術課や設計課などの技術屋がいる。その下には管理職が、そして一番下の縁の下に、「工場長」がいるのだ。こうして、工場組織図のピラミッドとはまったく上下が逆の、逆三角形型のピラミッドが見えてくる。これが、生産システムというものの姿なのだ。

さて、それで。プレイヤーとして最上辺にいるはずの、製造課の労働者の働くヨロコビとして、いったい何が差し出されているのか。賃金だろうか。尊敬だろうか。正社員としての身分の安定だろうか? かれらが宝くじにあたったとき、それでも選び直す仕事だろうか?

トヨタ生産方式を導入すると称して、脱コンベヤライン・一人屋台生産の方式が広まりはじめたとき、多くの生産管理者は「これで生産量に応じたフレキシブルな配員が可能になる」といって評価した。生産技術者は省スペースに安堵した。これらはお金に換算できることだ。もう少し労務管理よりの人間は、立ち仕事が腰痛や腕肩の故障を減らすことを喜んだ。これもまあ、お金にかかわる問題だ。

しかし、「これで働く人間のモチベーションアップにつながる」という面をトップに評価する人は、決して多くなかったように思う。なぜモチベーションアップか。それは、自分の責任範囲が一つの製品全体に及ぶようになるからだ。それが働く人間の喜びではないだろうか。ただし、これは組立工程だから言えることで、加工や成形工程となると、製品への関わりは部分的にとどまらざるを得ない。こうした作業区の直接工には、人間としての最低限のシビル・ミニマムとして、何が配慮されているか。それが生産管理の中心課題ではないのか。

「シビル・ミニマム」という言葉は、もう死語に近い。『パンのみに生きるにあらず(2002/2/08)』(「コンサルタントの日誌から」2002/2/08)にも書いたとおり、企業は利益目的の経済合理性がテーゼであるにもかかわらず、仕事に魅力がないと続かないという、非合理性を合わせ持っている。会社というもののもつ、根本的な矛盾である。フロイトの言う「働くことと愛すること」を、直接工がどう仕事で感じられるか。そのことを忘れた生産管理は、人間不在の管理論、根と肥料を忘れた農業のようなものだ。

え? あなたの会社では、すでに現場は全員、派遣になっている? 低コスト化のためにEMS(受託製造会社)に売却した? おかげで利益が上がって株価も上昇した、と。なるほど、おめでとう。すでにあなたの会社は根っこを失った「切り花」の状態だ。根を捨ててポータビリティを獲得したわけだ。美しく咲いている間に、資本市場というマーケットで、禿げ鷹ファンドに切り売りされる日も遠くないだろう。

時間の量から時間の質へ (2007/04/19)

自分はどちらかというと夜型の人間である。こうして、サイトにアップする文章を書いているのも夜のことが多い。まわりが暗くなり、あたりが寝静まって、音も光もレベルを落としたときが一番、思考に集中できる。以前、『静寂の価値』(「考えるヒント」2004/08/20)にも書いたが、雑音に囲まれBGMをかけながら数式や文章をひねったりするなど、まったくできない。

私の場合、朝一番にその日の仕事のTo Doリストを見ながら段取りと手順を考える(最近はこうした時間管理術の基本を「パーソナルPM」などと呼ぶ人もいるようだ)。その際、込み入った文章をつくる作業はどうしても夕方以降にスケジューリングすることになる。最近は以前より早めに出勤する習慣にかえたが、だからといって朝一番に頭が集中できる訳でもないところがつらい。夕方から用事や会合がある日の多い週は、成果物がなかなか上がらないことになる。だから、私の場合、集中できる夕方から夜の時間をいかに確保できるかが、仕事の能率を左右するわけだ。

それで、昼間は何をするかというと、いわゆる“管理”をしている。これは幸いにも、中間管理職という種類の動物には、いくらでもついて回るような仕組みになっている。プログレス・レポートの数字を集計したり、ミーティングの議事録を整理したり、出張承認をしたり、部下の設計書に些細なミスを見つけてインネンをつけたりといった、高邁ではあるがあまり集中力のいらない軽微な労働である(ジョーダンですよ社長。本気にしないでください^^;)。

しかし、管理職になる以前、すなわち会社の付加価値にもう少し直接的貢献をしていた時代には、昼間も仕様書や設計計算の仕事をしていた。そして、生産性は当然ながら夜間の集中時よりもずっと落ちていた。周囲の雑音や大声が障害になる。なにより、昼間は仕事への割り込みが多い。上司に呼ばれたり電話がかかってきたり。少し能率が上がってきたところで、すぐスローダウンしてしまう。

私の勤務する業界では、仕事量を計る基準として、マンナワー(Man-hour、人時)を使う習わしだ。むろん人日や人月ではかる業界もある。いずれの単位を取るにせよ、人数と時間の積は、人件費コストを算出する指標としては適当だろうが、仕事量の尺度としてはまったく不適当だ。それは、昼間だと2時間かかるフロー図の作成が、夜だと1時間以内でできてしまうことからも明らかだ。ましてや、集団の仕事においてはミス・リーディングでさえある。

あるまとまったプロジェクトが、5人がかりで12ヶ月、つまり60人月かかる、と仮定しよう。この仕事は、倍の10人を投入すれば6ヶ月でおわるだろうか。60人投入すれば一月で、1,800人投入すれば1日で済むか? むろん、そんなバカなことはない。人月という「量としての時間」だけでは、開始から終了までの期間という「線としての時間」は出てこないのだ。では、その両者をつなぐ物は何なのか?

その答えは、「並列性」と「タスク集中度」である。並列性とは、その仕事を細かく分けて同時並行に進められる程度である(コンピュータ・アルゴリズムの世界における並列性の概念を思い出せばいい)。たとえば100通の封筒に宛名と切手を貼る仕事は、1人でやるより2人でやる方が2倍効率が良い。他の担当者と関わりなく、各自が進められるからだ。しかし、100枚のタイルに絵を描いて、大きな壁画をつくる仕事では、完全に人数に比例して効率は上がらない。どうしても他人とのインタフェースが発生するからだ。まして、ブロックを下から順に100枚積む仕事となると、並列性はさらに損なわれる。

リソースを追加投入してタスクの期間を短縮することを、PMBOK Guideでは「クラッシング」と呼ぶ。クラッシングが可能になるためには、そのタスクの並列性が高くなくてはならない。一般に力仕事の方が並列性は高い。仕事に内部構造があって、相互の連関性や依存性が高いほど、クラッシングはききにくくなる。システム設計はその典型だろう。

もう一つのポイントである「タスク集中度」は、どれだけ連続した時間を一つのタスクに集中できるかである。“集中”には二重の意味があって、雑音抜きで精神集中できる時間、という面と、複数案件のかけもちをせずに一つの仕事に専念する、という面がある。いずれも、とくに思考を要するタスクにおいて重要である。逆に言うと、ある仕事が50時間を必要とするというときは、それは「連続して集中できる50時間」が必要だ、と意識して使うべきなのだ。細切れな1時間を50回足しても、それは50時間にはならない。それが質のある時間ということである。

時間の量だけでなく時間の質を問題にしたければ、割り込みを許して時間を細切れにしてはいけない。そのためには、直近の予定は固定する必要がある。そして、自分自身を予約してしまうことだ(『自分自身を予約する』 2004/06/30)。サラリーマンの場合、これは自分一人の努力だけではなかなか勝ち取れないだろう。だから私は、朝一番にTo Doリストを見て一日のパーソナル・スケジューリングをすることを皆にすすめるのだ。ほんのわずかな時間である。整流のために時間を取らないことが忙しさの原因だということに、みんな早く気づくべきだろう。

時間、売ります (2007/04/10)

まだ大学生の頃のこと。サークルの部屋に、卒業した先輩が遊びに来た。役所に勤めて、ぱりっとした背広を着込んだ彼が、こう言うのだ。「働いてみたら、『就労とは自分の労働時間を売ることだ』という経済学のテーゼは、実感とは全然ちがうことがわかったよ。」--つまり仕事とは、使命感をもってするものであって、給料のために自分の時間を売買取引することではないのだ、というのが彼の説明だった。またそうでなければ、とても良い仕事なんてできやしない。そう語った彼の言葉を、今でも覚えている。

やがて、自分も就職した。同業のライバル会社に入社した同期の友人とあったら、彼は「部署に配属になったら、まずタイムシートなる表を説明された。毎日、どの仕事で、何時間働いたかを逐一記入させられる。エンジニアリング会社って、こんなところまで人を管理するのか! とあきれた。」と憤然としていた。これも忘れられないセリフだ。

ところで、私自身の感覚は少しちがった。私は働いた時間をタイムシートにつけることに抵抗はなかったし、自分は会社と契約関係にある、とも思っていた(今でもそう思っている)。たぶんこの二人に共通していて、私に欠けていたのは、“仕事とは使命感ややりがいをもってなすべき創造的活動であり、それに従事している人間は労働時間などで事細かに計って管理されるべきではない”という信念だったのだろう。自分の仕事に対する自負心、といっていいかもしれない。私が『時間管理術』という本を書いて、主人公を新米のマーケティング・マンに設定したとき、じつは最初に思い出したのがこの議論だった。

ホワイトカラー・エグゼンプション」の議論が最近かまびすしい。ホワイトカラーは裁量範囲の多い、知的で創造的な業務についているのだから、仕事の成果で給与を測るべきであり、工場労働者のように残業したから時間給をいくら、と払うのにはそぐわない--これがホワイトカラーの“エグゼンプション(適用除外)”の主張だ。近年、フレックスタイムや年棒制、裁量労働制などの事例が増えてきたが、それをもっと徹底して、何時間働こうが残業代は一切なし、きまった給料のみ、というやり方である。成果主義とも通底する思想だ。

ところで、このホワイトカラー・エグゼンプションの主張は、上にあげた二人の考えに、内容的に共鳴することをお気づきだろうか。創造的な業務であり、細かい管理にはそぐわない。だからタイムシートなど不要だ、となる。それでは、自分たちの仕事の『成果』はどのように量るのだろうか。本当に計れるのだろうか? まさか仕様書や建議書のページ数が尺度ではないはずだ。

じつは私も新入社員の集合研修で、ある言葉を聞いた。それは、「わが社のエンジニアは、マンアワーという単位で仕事量を計り、その価値を7,500円という値段で顧客に請求してビジネスをしている」という説明だった。「だから諸君。この部屋に100人以上集まって、1時間私の話を聞いているということは、会社は100万円近くのコストとひきかえに、君達の教育に投資しているんだよ。」と言葉は続いた(値段は当時)。

労働者は会社に時間を差し出して時給をもらっている。しかし、会社もエンジニアの時間を売って商売にできる、という感覚は、そのときまで私にはなかった。でも、考えてみれば弁護士なども同じビジネスモデルではないか。勝ち負けの成功報酬や書類のページ数で料金を決めるわけではない(事実、弁護士もふつうタイムシートをつけている)。以来、私は時間を売っているという感覚から離れられない。

医師だって、本来はそうであるはずだ。診察料とは、医師の時間に対する費用のチャージである。その頃から問題になっていた「薬漬け医療」は、結局、医師の診察料が安すぎるために、薬の差益で医療ビジネスを成り立たせざるをえないことから発生していた。もし医師がきちんと診察料を得られる保険の仕組みになっていれば、ていねいに患者を診てもちゃんと引き合うはずなのだ。

およそ『プロフェッショナル・サービス』、プロと名前の付く専門職の仕事とは、そうしたものなのである。成果ではなく、時間を売る。いいかえると、モノではなく、知恵とアドバイスを売る。なぜか。それは結局、その知恵を自分の問題解決につなげられるかどうかが、それを受け取った者に依存するからなのだ。知的な仕事の成果に価値があるかどうかは、作り手だけの問題ではない。じつは作り手と受け手の共同責任なのだ。この点を、多くの議論は忘れている。忘れたまま、見かけだけの成果主義に走っている。

(ちなみに、今どき工学部出の技術者なんて二束三文だが、古代ギリシャでは、医師と法律家と技術者は3大プロフェッションとして尊敬されており、同時に高い倫理も求められていた)

それでも、たいていの会社は成果主義や年棒制に走るのを止めないだろう。1日24時間の限られた持ち時間の中で、どう会社の求める「成果」を発揮するのか、考えなくてはならない時代になったようだ。そのとき大事になるのが、(本の中にも書いたように)「長さとしての時間」と「量としての時間」の区別である。あるいは、質としての時間量としての時間、といいかえてもいい。今回はこの問題を議論するつもりだったのだが、例によって長くなりすぎてしまった。この続きは、次回書こう。

流れをつくる (2007/03/18)

とある大企業の工場管理棟の一室。客先から示された図面を前にして、私と同僚は少しの間、絶句していた。図面は新工場の平面レイアウト図。作成したのはトップクラスの建築設計事務所で、背後では有名なゼネコンが手伝っているらしい。ややあってから、私は口を開いた。「入荷した物の流れがよく分からないのですが、説明していただけませんか。」

工場を見学者に説明するときは、普通どこでも物の流れにそって順番に説明して歩く。原材料を入荷して、検品して、入庫・保管して、払出して計量・裁断して、製造の上流工程からラインに供給し、加工・検査をへて付加価値のついた製品として出荷されるまで、順に見ることになる。小さなサプライチェーンと言ってもいい。工場見学とは、製造業の社内サプライチェーンを簡単にたどるツアーなのだ。

ところで、今日の工場はどこも多品種少量化が進んでいて、きまった製品を大量生産し続けるような所はほとんど無い。コンベヤラインがあっても、品種は混流で流れていたりする。だから、物の流れも情報の流れも、錯綜しやすい。それをどうさばくかが、その企業の生産管理の実力の見せ所である。また、工場のレイアウトは、その企業の生産管理思想を体現したものでもある。製品に設計思想があらわれるように、工場にはサプライチェーン・マネジメントの思想があらわれる。

その思想性は、工場を見学すると一発で明らかになる。設計思想のない(あるいは貧弱な)工場では、製造ラインしか流れが見えない。製造にはさすがに崩せない順序があって、ふつうはその順に機械や作業区がならぶからだ。しかし原材料・中間部品・製品の物流にかんしては、無思想ぶりがあらわになる。現場を見るとごちゃごちゃにモノがあふれかえっているか、あるいは無駄にスペースがあるかどちらかだ。

私が見たその新工場のレイアウト図面は後者だった。入荷した物はフロアを半分横切って保管庫(自動倉庫)にいくらしいが、入荷検品やパレット移載の手順が見えない。そこでも仮置き・滞留は必ず起きるはずだが、漠然としたスペースがあるだけだった。入り口と出口は分ける、というのが工場設計の基本である。入口と出口を分けることで、モノの流れを作るとともに、FIFO(Fisrst in, first out=先入れ先出し)を確実にし、またロケーション管理の手間を省く。こうすると、必然的に滞留時間も目に見えるようになる。こうしたことが、そのレイアウト図には何もうかがえなかったのだ。

ところで、ここまで読んでこられたあなたが、仮に開発や製品設計にたずさわるホワイトカラーで、工場とは無縁の場所に座っておられるなら、“なあんだ、こんな話、自分に関係ないや”と思われたかもしれない。しかし、じつは関係大ありなのだ(私の話はいつも前半が長くて申し訳ない)。なぜなら、モノの流れにあてはまることは、ほぼ情報の流れにもあてはまるからである。

たとえば、あなたの机の上にあるメールボックスや書類箱は、FIFOになっているだろうか? いつでも最初にきた書類が最初に手にとれるだろうか。あなたのタスクやTo Doリストは、自動的に優先順位が決まるようにできているだろうか? あるいは一日のはじめにTo Doリストの優先順位を決めたら、その日のおしまいまで、それを守っているだろうか。

今日の設計や開発の仕事もまた、複数の事案をマルチでこなさなければならないようになっている。そのとき、情報の社内サプライチェーンにかんして、設計思想はあるだろうか。おそらく、大方の会社には欠けていると想像する。だから、ホワイトカラーの執務する場所は、どこでもごちゃごちゃな印象を与えるのである。紙を捨てて各人がノートPCをもち、ペーパーレス化をすすめれば、一見オフィスの中はすっきりする。しかし、その場合、今度はサーバの中がぐちゃぐちゃになるだけだ。工場のラインはきれいに整頓されているが、倉庫の中は混沌状態、というのに似ている。

え? 私の仕事はFIFOでは処理できません? それはなぜですか。上司に呼ばれたり、電話やメールで割込みがかかってくる--なるほど。でも、なぜ、いちいちメールをあけて中身をチェックするのですか。仕事のできる人ほどメール処理の時間帯をあらかじめ決めている、という米国の調査結果もありますが。いや、そもそも、仕事に集中するために、時間帯を決めて「ノー割込みタイム」を実践している会社もありますね。その間は打合もしない、電話もかけない、とらない。これがオフィスワークの設計思想というものではないでしょうか・・

工場では、FIFOで処理できないモノを保管するには、ロケーション管理が必要になる。そのためには保管場所を決めて番号をふり、またモノにも現品票を貼ってIDをふる訳である。だとしたら、設計・開発タスクにも、きまったID(すなわちWBSコード体系)が必要だ。指示票としてのTo Doリストもいることになる。サーバのフォルダ名称だってファイル名称だって、規約にしたがってつけるべきだ。電子メールのタイトルだってそうだ・・

冒頭のケースでは結局、建築構造の制約は守りながら、入荷物の通り道を確保し、倉庫への入口と出口を分けてパレットをハンドリングする仕組みを提案することになった。フローですむ部分とストックにする部分を切り分ける。そして両者はそれぞれ適したコントロール方法を考える。これが「流れをつくる」ことの基本である。そして、以前『「設計管理」の必要性』(2006/06/22)でも書いたように、これが欠如しているオフィスでは、ホワイトカラーはいつまでも多忙の乱流状態から抜け出すことができない運命なのである。

To Doリストなんか書いている時間がない (2007/03/11)

日本の製造業が景気回復の手応えを感じはじめてから、もう2年近くたつ。業種・地域ごとに濃淡の差はあれども、いまはどこの会社に行っても、多忙な状況だ。10年以上続いたひどい不況の時代に、企業は可能なかぎり人減らしをすすめたから、今さら急に業容が拡大したって、体制が追いつかないのは事実だろう。

製造現場はそれでも、派遣労働者をあつめてきて何とかしのいでいるみたいだが、技術者となると、そうはいかない。その業種・その会社の技術内容をよく知った人間でないと、エンジニアはつとまらないからだ。おかげで、どの会社でもエンジニアの労働時間がふえる一方だ、このままでは過労で倒れそう、と声なき悲鳴が聞こえる昨今である。

そんな現状があるからだろう。人・モノ・金につづく経営資源の第4の要素として、『時間』があらためて注目をあびるようになった。会社組織として、時間をいかに管理していくか。それは納期短縮にも製品開発競争にも人事施策にも人件費削減にも直結する。例の「ホワイトカラー・エグゼンプション」の議論も、ある意味その一環にちがいない。

ところで、人や金といった他の経営資源とちがって、時間は管理できない。時間は所有できないからだ。万人に共通に与えられ、使わなくても手元から消えていく。お金の予算は、ゼロになれば「無い袖は振れない」となって、使えなくなる。しかし、時間は足りなくなっても無限に消費(補給)可能だ。だから、どんどんプロジェクトの予定が遅れていく訳である。ここが、タイム・マネジメントの基本的な問題点である。

いうまでもないが、時間を占有できない我々にとって可能なのは、「時間の使い方」のコントロールである。つまり、時間の「予算」(スケジュール予定)・「実行記録」(日誌とTo Doリスト)・「決算」(進捗と生産性評価)の3つが、がエンジニアのための時間管理術において、中心の技法になるのである。

ところで、こうした話をすると、よく“ぼくらは忙しすぎてTo Doリストなんて書いていられませんよ”と反論されることがある。毎日が忙しすぎる。だからうまくスケジュール管理はしたい。でも、自分がかかえているタスクのリストは書きたくない。なぜなら“忙しすぎるから”だ、と話が円環を描く。聞いているこちらは、酒飲みの国を訪問した「星の王子さま」みたいな気分になってくる。では、どうしたらいいのか?

じつは、「忙しすぎてできません」というセリフには、どんな場合にも裏側の意味がある。これは、“自分が本当に多忙かどうかはともかく、自分の優先順位評価から見ると、それは優先度が低い仕事です”といっているのだ。ウソだと思ったら、押し売りの電話に自分がどう答えるか思いだしてほしい。「今忙しいから」といわないだろうか?

To Doリストを書いたり、日誌をつけたりすることに対する“忙しすぎるからできない”との言い訳も、同じ意味である。「そんなの、やってもやらなくても仕事の結果にはかかわらない。だからやりたくない」と考えているわけだ。タイムシートはつけ忘れたら残業代にさしつかえる。しかしTo Doリストは給料に影響しない。だから自分にとって本来の仕事ではない。第一、書いている時間があったら、やってしまった方が早いじゃないか。

ここには、どうやら根本的な誤解があるらしい。それは、To Doリストは宿題(タスク)をもらった人間が書くものだ、という誤解である。もしも、あるタスクが誰かからの指示によって発生したならば、それは指示(発注)する側の人間が書きこむべきなのだ。それが、作業のオーダーという意味なのである。

考えてみてほしい。設計担当者が工場の製造現場に対して、何らかの製造指図書や作業指示書を出す場合、それはエンジニアが書くのが当然だと、誰もが思うだろう? だとしたら、ホワイトカラーが指示や依頼でタスクを他のホワイトカラーに渡したときだけは、なぜ受け取った側が紙に記録すべきだと考えるのか? 頼んだら、頼んだ側が忘れないよう心がけるべきではないか。

べつに、他人のTo Doリストに直接書き込むのではなく、ミーティング・メモやメールの形で書いてもいい。依頼した側と依頼された側が誤解なく、忘れないようになっていれば良いのである。あるいは、電子的にリストを共有する仕組みを使うのもいい。「e工程マネージャー」をはじめ、最近ではグループ内でタスク・リストを共有するツールはたくさんでている。いや、Excelで運用しても、カードに書いて渡してもいい。方法など、いくらでもあろう。

顧客からの電話での依頼はどうするか? たしかにその場合は、自分で書くしかあるまい。電話連絡票をかいて、「自分はこれこれのタスクを受け取りました」と顧客にメールで返しておく。これが由緒正しいやり方である。とくに有償サポート契約などでは、どこでもそうしているはずだ。

では、顧客や他部署からの質問はどうするか? すぐ答えられなければ、調べなくてはならない。その場合、人件費が発生するわけだ。だから、サービスフィーをもらうべし、というのが筋道になる。え? そんなの非現実的だ? --そうだろうか。たしかに、実物経済中心の今の取引慣行では、そうかもしれない。しかし、いつまでもそうでありつづけるだろうか。これだけタイム・マネジメントの意識が普及していけば、しだいに「時間のコスト」に皆が自覚的になっていくはずではないか。

人件費だけはただ、という時代は早く卒業するべきだろう。

使用者と補充者の分業 (2007/02/12)

ずいぶん以前のことになるが、病院の中の調査を少し手伝ったことがある。目的は物品管理と物流動線の合理化だった。プラント・エンジニアリング会社に勤めているくせに、なぜかプラント以外の分野にしばしばかかわる巡り合わせになっているらしい。しかし、工場で用いるIE(Industrial Engineering、日本語では経営工学と呼ばれることが多い)の手法を病院内業務に用いて調べると、いろいろと面白いことがわかってくる。

その一つは、ナースの業務時間の分析である。知ってのとおり、ナースの仕事は忙しい。しかし、その中身を調べてみると、じつはベッドサイドで患者に接している看護の時間は、決して比率が高くない。それ以外に、ナースセンターにおけるさまざまな業務の時間が多く、しかもその内容をいろいろと調べてみると、申し送りや看護記録の記帳以外に、伝票書きなど雑用ともいうべきクラリカル・ワークやモノ探しの時間がばかにならないのだった。

医療の現場では、医薬品以外にも衛生材料やディスポと呼ばれる使い捨て材料、リネンなどさまざまな物品が行き交っている。いわゆる多品種少量のモノの流れである。そうしたものの多くは、ナースセンターに「現場在庫」として保管され、使用され、補充されている仕組みになっている。

そして、たいていの日本の中堅規模以下の工場と同じように、その現場在庫の管理レベルは、決して高くない。まず、在庫量が把握できていない。いや、それ以前に、モノがどこにあるか場所が決まっておらず、いちいち探さなくてはならない。見当たらないと、払出し伝票を書いて、薬局や中央材料室にもらいにいく。当然、毎回少し多めにもらってくる。使用残がでたら、ナースセンターに余剰としてストックしておき、次回にそなえるわけだ。しかし、もらってきた担当者が勝手気ままな場所におくから、シフトがかわると別の担当者は見つけられない。そこでまた払出し伝票を書いて薬局に受け取りに行く。こうして、ただでさえ狭いナースセンターは雑多な在庫品であふれかえり、しかも気づかぬ内に使用期限が過ぎてしまったりする・・。

こうした状況下で、しばしば病院の経営者は、高価な薬剤の在庫管理がいいかげんになっていることを問題視する。しかし、我々の見たところ、もっと大きな問題があるのだった。それは、ナースの時間管理上の問題、すなわち、「直接時間比率の減少」である。本来、ベッドサイドで直接、患者の看護をすることがナースの最大の仕事であるはずだ。しかし、ナースの勤務時間が、そうした直接作業とは関係のない、伝票書きだの薬局までの往復などといった間接作業についやされてしまう。これは、看護レベルの確実な低下をもたらしているにちがいない。

それでは、どうすべきか。こと物品管理に関する限り、われわれの答えは明快である。工場と同じことをすればよろしい。それは、「使用者と補充者の分業」であった。

たとえば、自動車工場を見学した人ならご存じのように、組立ラインの近くには、組立作業に必要とする多種多様な部品が、棚や箱に整理され、あるいはセット組みされて並んでいる。組立作業の従事者は、そこから部品をとって使用する。そして、ラインサイドの部品が足りなくなると、組立工とは別に、補充係の担当者が間髪を入れずに補充する仕組みとなっているのだ。だから、組立工がモノ探しだとか伝票書きだとかで直接時間を減らさずにすむ。彼らは、組立作業だけに専念できるようになっている。

物品の種類や量が増えるにしたがって、使用者と補充者を分業させるのは、最初にふれたIEの定石である。病院において、われわれの設計した解決策も、これに準じたものだった。まず、ナースセンターに物品管理に適した機能的な棚とトレーを配置する。その中に、どの物品をいくつ配備すべきか、使用実績データを分析して(ま、これが大変なのだが)決める。そして、補充作業は中央材料室の責任とする。

ナースセンターの現場在庫の在庫管理は、「定数補充」とよばれる方式がもっとも適している。これも工場と同じだ。定数補充とは、定期・不定量発注による補充だ。もっと平たくいうと、担当者が週に1~2回巡回して、トレーやボックス内の物品の残数を調べて記録する。そして、消費して足りなくなった分だけ、そこに補充するのである。在庫定数が20個だとして、今日調べたら、12個残っている(つまり前回の補充日から8個使用したわけだ)。そうしたら、8個補充して、20個に戻してやる。7個消費だったら、7個補充してやる。つねに、ナースセンターの現場在庫は一定数を確保して、品切れにならないようにするのである。あるいは、フルに物品の詰まったトレーやボックスをあらかじめ運んできて、トレーやボックスごと交換してしまい、補充詰め合わせ作業は中央材料室に持ち帰ってからやってもいい(混み合って狭いナースセンターでやるより効率的だ)。

そして、機能的な現場保管の仕組みというのは、基本的にこうしたものなのだ。これは、たとえていうならばコンビニの飲料が並んでいる冷ケース(冷蔵庫)のようなものである。買い物客はドアを開けて手前から商品を取り出し、レジに持って行く。客が使用者である。店員は、冷ケースの裏側から商品を補充する。さらにいいことは、コンビニの冷蔵庫は入れる側と出す側が分かれているため、先入れ・先出し原則が守られることだ。だから、賞味期限切れのリスクが少なくなる。

これに対し、従来の在庫管理とは、家庭の冷蔵庫のようなものだった。自分が買ってきて補充し、自分で使用する。少量の場合は、これでもよかろう。しかし、最近の家庭用冷蔵庫は容量が増えてきている。中に何と何があって、いつが賞味期限で、どれをいつ使う予定かなど、当の主婦も覚えきれなくなっているのではないか。だから、家庭でも、もしかしたら冷蔵庫の仕組みを変えていく必要があるのかもしれない。

じつは、このような定数補充方式は、わが国でははるか昔からあった。「VMIとウォールマートと富山の薬売り」(2006/10/20)でも書いたとおり、いわゆる富山の薬売り方式がそれである。しかし、そのメリットや、成立条件については、あまり正確な分析がなされてこなかったように思われる。もう一度いうが、いちばん重要なことは、使用者の直接作業時間比率が向上することなのである。在庫管理は、それ自体が自己目的化してはいけない。どれだけエンドユーザ(病院ならば患者さん)に対する付加価値生産性の向上に資するかで、判断すべきなのである。

タイム・マネジメントの心得 (2007/01/10)

イベント・ドリブン」(event driven)という形容の句をご存じだろうか。外部から飛び込んできた出来事を起点にして動くような仕事の仕方、あるいは外部に振り回されるような状態を指す言葉だ。『割込み駆動型』とも訳す。もともとはコンピュータのソフトウェア工学で生まれた用語である。ユーザによるキーボード入力やマウスのクリックやメールの到着などを、出来事(イベント)と考え、それぞれに対応する処理を設計する技法だ。

たとえばコールセンターのような仕事は、典型的なイベント・ドリブン業務である。顧客からの電話がかかってきたことを起点に、仕事がはじまる。なすべき特定のタスクを、あらかじめ自分自身が抱えているわけではない。銀行窓口をはじめ、窓口業務にはこうしたスタイルが多い。

これと対極にあるのが、「スケジュール・ドリブン」な仕事のスタイルである。あらかじめ決めた計画通り、時間表にそって進めていく。なんだか模範的受験生の生活みたいだが、多くの会社では、年次計画があり、月間目標があり、週次定例会議や日程表で仕事を動かしていくのだから、基本的にはスケジュール・ドリブンを理想としているわけだ。

たいていの技術者は、この両者が入り混じった生活をしている。計画に従い、設計作業を進めていると、上司から調べものを命じられたり、顧客からクレームの電話が飛び込んできて、しばらくその対応に追われる。一段落すると設計の図面に戻る。しかし次の日には定例進捗会議で、別のことを優先してやれと命じられる、といった具合だ。

エンジニアが自分自身の時間のマネジメント、あるいはパーソナル・スケジューリングをするにあたっての基本は、日誌をつけることだ。その目的は、自分の時間の使い方の事実を把握することにある。たいていの人は、事実を知らぬまま、忙しい忙しいと感覚だけで言っている。しかし、その忙しさの中身は、イベント・ドリブンな仕事の忙しさなのか、それともスケジュール・ドリブンな仕事の忙しさだろうか。両者はどれくらいの比率で入り混じっているか、自分はすぐに答えられるだろうか?

じつは、「忙しさ」の感覚の大半は、イベント・ドリブンな仕事から来る。スケジュールに沿って仕事を進めているときは、たとえ時間的には忙しくても、前に進んでいる達成感がある。これに対して、他人からの割込み駆動型で動かされているときは、自分で自分の時間の使い方を決められないもどかしさがある。どうしても、被害者意識のようなものが出てくる。かりに勤務時間が同じだとしても、心理的に追われている気分になるのだ。

それでは、どうしたら良いのか? 配置転換をのぞむしかないのか? いや、そんなことはない。答えは簡単である。それは、イベント・ドリブン型で発生したタスクを、日々の自分のスケジュールの中に入れてしまえばいいのだ。

これには、二つの意味がある。まず第一に、イベント・ドリブンな仕事のために、自分の時間を一定比率、空けておく。例えば私の場合、経験的に25%くらい割込み型に仕事の時間をとられる。ということは、その日や週にやらなければならない、前から決まっていた仕事があったとしても、1日6時間、週に30時間分以上は、スケジュールに予定してはいけないということだ(実際には定例のミーティング等もあるから、スケジュール可能な時間数はもっと少ない)。かりに50時間くらいかかりそうなタスクだったら、うーん、こりゃ半月は期間が必要だな、と考えるわけである。このように、割込み時間比率をスケジュールに繰り入れるのが、第一の意味である。

そして、第二の意味は、タスクがその場ですぐ解決できないような、時間のかかるものであった場合、それをTo Doリストに、期日とともに書き込むのである。To Doリストは毎日見なおして、その日の時間の使い方を決めるためのベースだ。To Doリストに書き込まれた仕事は、すでにスケジュール・ドリブンな枠の中に収まっている。むろん、割込み仕事の中には緊急性が高くて、他の仕事の手を全部止めてかかりきりにならなければいけないものも時にはある。だが、いつもというわけではない。飛び込みではあるが、期日に余裕のあるタスクは、スケジュールに組み込んでしまえばいいのだ。これが二番目の意味である。

このようなことを実施するためには、To Doリストと日誌を一体化した運用が必要になる。これについては近著『時間管理術』の中に述べたのでくわしく説明はしないが、この両者がタイム・マネジメントに必須の心得であることは、ぜひ記憶に留めておいてほしい。

変わりたいですか? (2007/01/02)

新年にあたって、たいていの人は、今年はこうしたいとか、ああなってほしいなどと考える。新年の誓いと期待とは、昨年までの自分のあり方から、何らかの『変化』を望む気持ちのあらわれだ。

G・ワインバーグは、機知にあふれた著書「技術コンサルタントの秘密」の中で、“コンサルタントとは人々にたいし、彼らの要請にもとづいて変化を及ぼす仕事をする人”だと書いている。これは報酬の有無にかかわらず成り立つ、うまい定義だ。クライアントは何かを変えたい、もっとうまくやりたい、変化したい、と望んで、その要請をコンサルタントにぶつける。コンサルタントはクライアントの変化の案内役を務める。だから、コンサルティング技法の中心には『変化論』が要るのだ、というのが彼の論法だ。

ところで、変化への望みには、2種類の仕方があると私はつねづね感じている。それは、何々にになりたい、という願望と、何々をしたい、という期待である。うまく変化の道をたどれるかどうかは、このどちらの種類の望み方をするかにかかっているのではないか。前者はどちらかというと夢であり、「お姫様になりたい」という女の子の夢想に近い。そこには結果像だけがあって、お姫様にはどうやったらなれるのかという、具体的プロセスが欠けている。だから「今年は業界で一番になりたい」という目標は、意外に華奢(きゃしゃ)な望みなのだ。

これに対して「今年こそみんなと一緒に鉄棒を楽しみたい」は建設的である。そのためにはどうしたら逆上がりができるようになるか、握力を強くするにはどうしたらいいか、など挑戦すべき課題が次々に出てくる。こういう風に、課題とプロセスが次々に展開してくる願望の方が、ベターなのだ。「~になりたい」は単なる夢だが、「~をしたい」は希望である。「今年は業界で一番になりたい」より、「今年は性能が5割アップの製品を作りたい」へ。つまり、「~になりたい」から「~をしたい」に、まず望みをシェイプアップすることが、変化への近道なのだ。

ちなみに「お姫様」は身分であり、「逆上がり」は活動である。この対比を、私は政治学者・丸山真男の論考「『である』ことと『する』こと」から学んだ(岩波新書「日本の思想」所収)。彼は前近代の身分制社会から、近代の機能的社会への変化を重視する人で、最初高校生の時に読んだ際には、ちょっと図式的過ぎると感じたが、最近この問題は案外奥が深いな、と思うようになった。彼は「女であること」は小説の題になりうるが、「男であること」というタイトルは少し滑稽な感じがする、と書いている。昭和まで続く伝統的思考においては、女は身分だが、男は社会性だ、ということらしい。ここらへんは、平成も20年近くなった今では、すこしずれてきているようだが。

変化論に話をもどすと、「変化」とは現在のあり方・やり方を捨てることである。捨てなければ、変化できない。ここに、変化への抵抗の源がある。現在、それなりになんとか成り立っているやり方や仕組みを捨ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか? とりかえしのつかないことに、なりはしないか。こうした不安は、誰しもが感じる。だから結局、これまでの『やり方』を手放さないまま、新しい『あり方』だけを夢想するような、“~になりたい”目標が出てくるわけだ。

現状維持はすなわち、現状を捨てることに対するリスク判断が大きすぎる結果として、生まれる。前例がない、という役人得意の文句はその典型である。こうした組織では、変化は起こりにくい。以前「リスク確率と代替可能な仕事の価値」の中でも書いたように、リスク確率とはじつは主観確率である。現状以外にたいするリスクの主観確率が高い組織では、だから変化は決して起こらない。

その長期的結果として、どうなるのだろうか? 簡単なことだ。外界は変化していく。しかし自分は変化できない。だから、しだいに環境に適応できないようになる。そして、恐竜と同じ運命をたどることになる。変化するための小さな代償を拒んだがゆえに、自分自身の存続という最大の代償を払うのだ。

ワインバーグは上記の本の中で、「何かを失うための最良の方法は、それを離すまいともがくことだ」と書いている。変化を規制すると、失うものも多い。プロ野球の長期低迷から日本コメ農業の危機まで、その実例を私たちはあちこちで見ている。

変化とは賭けであり、賭けとは選んだ選択肢以外を捨てることである。古い皮を脱ぎ捨てなければ、自分も組織も大きくなれない。だから、新年の望みを持つならば、「~したい」という形で希望を語るようにしよう。