リスク・マネジメントは(本当に)可能か? (2004/12/15)

『大規模中小企業』 (2004/11/14)

トヨタ式『付随作業率』削減法 (2004/10/27)

「似非IT度」測定法 (2004/10/07)

買い物の流儀と法則 (2004/09/21)

隊員求む--ERP誤訳探検隊 (2004/09/05)

在庫は誰の責任?(その2)--ブレーキとアクセルの口論 (2004/08/12)

在庫は誰の責任? (2004/08/03)

自分自身を予約する (2004/06/30)

チャイナ・シンドローム(2) 中国が買い占める世界のエネルギー資源 (2004/06/13)

チャイナ・シンドローム (2004/06/06)

プロセスシステム工学はSCMの展開に貢献できるか (2004/05/16)

モノサシを疑え (2004/04/03)

スケジューリング問題の存在しない工場(2) -- 真の問題とは (2004/03/02)

スケジューリング問題の存在しない工場 (2004/02/23)

日誌をつけよう(3)--スケジュールとの統合 (2004/01/20)

日誌をつけよう(2)-To Do Listのつくりかた (2004/01/13)

日誌をつけよう (2004/01/04)

リスク・マネジメントは(本当に)可能か? (2004/12/15)

PMBOK Guideによると、プロジェクトとは「特定の製品またはサービスを創出するための時限的営為」である、と定義されている(A project is a temporary endeavor undertaken to create a unique product or service)。正直に言うと、PMBOK Guideは最近「教科書」として過剰に絶対視され過ぎていると私は思うのだが、冒頭にあるこのプロジェクトの定義も、若干の違和感を感じる部分である。なぜなら、この定義には『リスク』の語が欠けているからだ。

プロジェクトとは、リスクを伴う、時限的営為である。プロジェクトにはリスクがつきものだ。私の勤務先のPM技術部にいる同僚などは、「プロジェクト・マネジメントはリスク・マネジメントにつきる」とまで断言している。たしかに、一度限りの営為であっても、リスクの全くない仕事、たとえば飲み会の相談など、誰もプロジェクトとは呼ばないだろう。

PMBOK Guideはそれでも、1章を割いてリスク・マネジメントを論じ、プロジェクト管理の9領域の一つと説明している。また最近はリスク管理論の出版も増えつつあり、通信講座の電話勧誘までかかってくる始末だ。

ところで、私は現在のリスク・マネジメント論には、不満を持っている。PMBOK Guideを含めて、通常の解説では、リスクを洗いだし、それを定量/定性評価して、どう抑え込むかばかりが論じられる。そして、前半をリスク・プランニング、後半をリスク・コントロールと名付け、コントロールの手法として保有や転嫁(移転)があるが、このための金銭的用意をリスク・ファイナンスという、という風に続いていく。

だが、はたしてこれで良いのだろうか? リスク移転とはすなわち保険による対処に他ならないのだが、プロジェクトのリスクは本当に保険屋がかぶってくれるのだろうか?

私が思うに、実はリスクには3種類ある:
(1) 予測され、計数化されたリスク
(2) 予測されたリスク
(3) 思いもよらない潜在的なリスク
プロジェクトにおいて実際に問題となるのは、プロマネが一番神経をすり減らすのは、圧倒的に(3)ではないだろうか?(なお、ここではidentifyという英語によい訳語がないので、「予測」としている)

ふつうのリスク管理の教科書では、(2)をどう(1)にするかという問題ばかり、詳しく説明されている。しかし、そもそも私の実務感覚では、予測されたら、それだけでリスクは半分減ったような気がする。お化けが出てから、それを枯れ尾花と見極めるのはたやすいので、怖いのはどんなお化けが出るかわからないからなのだ。この「怖さ」は、定量化されていないにもかかわらず、プロマネやチーム員の心的エネルギーを、確実に消耗させていく。

保有と転嫁について言えば、保有すれば自分に被害がかかる可能性があるのだから、転嫁の方が良いように思える。でも、ふつう転嫁にはお金がかかる(だから保険屋は商売として成り立つのだ)。まして、保険は間接損害はカバーしてくれない。私の勤務先である日揮は25年ほど前、事故で一度つぶれかけたことがあった。アルジェリアの建設現場に送る巨大な機器の輸送船が海に沈んだのだ。損害保険は、沈んだ機器の再製造費用は出してくれるが、機材の到着遅れによるプロジェクト全体の納期遅れについてはカバーしてくれない。プロマネの悩みを完全に救ってくれるような保険など存在しないのである。

リスクを保有する場合は、プロジェクト実行予算の上で、予備費用をもっておく必要がある。予備費用は、予期されたリスクに対するアロウアンスと、予期できぬリスクに対するコンティンジェンシーに分類できる。つまり、いずれにしてもリスク・ファイナンスとは、お金で持つか現物で持つかの違いでしかないのである。

こうして見ると、ふつうのリスク・マネジメント論には、ひとつの大きな欠落があることがわかる。それは、予測できない障害事象が起こってしまったら、どう対処するかという方針論が欠けていることだ。発生防止が王道だろう。しかし発生後の対策も必要である。

交通事故というリスクを考える時に、車の衝突安全性を上げる工夫や、運転技術を向上させる方策だけを論じるだけでは十分とは言えない。車の改造や運転講習会もいいだろう。しかし通勤途上で事故にあったら、どこの誰にどう連絡するか、決めておくことも必要なのだ。プロジェクトで何か起きたら(そして大概なにか起きるのだ)、それを誰が誰に報告してどう判断するかを考えておかねばならない。

以前、「サプライチェーンのリスク・マネジメント」に書いたように、リスク低減策は冗長性・多重化を要求するので、プロジェクトのコストダウンの要求とはかみ合わない。サプライヤーの絞り込み、人的リソースのミニマム化、などはすべて相反する。スリム化しすぎたプロジェクト組織では、変動に対処する自由度がなさすぎるのだ。

リスク・マネジメントにとっては、自由度がもっとも重要である。自由度がなければ、現場で代替手段を判断できない。プロジェクト計画における自由度の大事さを、もっと広く認識してもらうよう努めて行かねばならないだろう。

『大規模中小企業』 (2004/11/14)

「いやあ、ウチは中小企業ですから、そこらへんは・・」「あそこはさ、しょせん中小企業だから、社長が一言いえば・・」--よく、人はそんな言い方をする。一種の漠然とした形容詞として、身軽さと不安定さとの入り混じったイメージで使うようだ。

ところで、普通の人は知らないだろうが、じつは「中小企業」には法律的な定義がある。『中小企業基本法』なる法律があって(1963年制定・1999年改訂)、その中で「中小企業とは以下の基準を満たすものである」と定められているのだ。その基準は、資本金と従業員数ではかられる。

業 種 資本金 労働者数
(1)小売業 5千万円以下 50人以下
(2)サービス業 5千万円以下 100人以下
(3)卸売業 1億円以下 100人以下
(4)それ以外の業種(製造業等) 3億円以下 300人以下

この法律的定義によると、常時雇用する労働者数が51人いるスーパーマーケットは、すでに大企業だ(少なくとも中小企業ではない)、ということになる。なかなか意外ではある。基準が業種別なのも、建設業が明示されていないのも、たいていの人には驚きだろう。たいていの人、どころか、経営者だって知らない人がほとんどだ。

しかし、知らないのは無理もない。どこかに資格審査がある訳でもない。「おめでとうございます! あなたの会社は中小企業の基準に合格しました!」と、だれかが免状を渡してくれるわけでもない。日本には『中小企業庁』という、まず誰も知らない役所が経産省の下にあって、そこの中小企業支援施策(猫の目のように毎年変わる)の適用を受ける資格ができるのが、法律的に中小企業であることの唯一のメリットなのだ。

ところで、法律的行政的永田町霞ヶ関的世界観をはなれて、中小企業的であることの意味を考え直してみると、もう少し別の視界が開けてくる。じつは、世間には規模は大きくても、中小企業的な経営の企業はたくさんあるのだ。

中小企業的な経営といわれたら、人は何をイメージするだろうか。ワンマン社長の恣意的な経営? なるほど。明文化されていない業務手順や過酷な労働環境? そうかもしれない。優秀な人材の不足? ふむふむ。情報化への立ち後れ? そのとおりだ。そして、こうした特徴は、人も知る有名な上場企業・大企業にも、じつは見いだされる。コンサルティングの仕事を続けていると、企業規模だけは大きいくせに、経営手法が中小企業の域を出ない会社によく巡り会うのだ。私はこのような会社を、内心「大規模中小企業」と呼んでいる。

大規模中小企業の特徴--それは、働いている人々の中には、けっこう優秀な人やまともな人がいるのに、会社全体としては一貫性のない、前近代的な意志決定プロセスをふむことだ。営業と企画と製造と研究とが、それぞれ勝手にバラバラなことを言う。視点がタコツボ化していて、各人が局所最適しか考えない。ノーという権限はあるのに、イエスという権限がない。だから整合性のとれた情報化が進められない。

結局、大規模中小企業とは、戦略に一貫性がないのだ。前回「考えるヒント」の『仮説検証のトレーニング』でも書いたように、戦略とは組織が持つ仮説を意味する。つまり、組織レベルで仮説を共有できていないのが、大規模中小企業なのである。

本物の中小企業ならば、社長が自分で戦略を決め、命令を下すから、一応の一貫性はある。社員数が200人以下ならば、社長が全社員の顔と名前と性格を覚えていられるから、近代的な労務管理手法はなくても、希少な人材は活かされるだろう。しかし、なまじ大規模に水膨れしてしまった中小企業は、もはやこうした長所を失ってしまっている。一代でたたき上げた創業者の目的意識は消え失せて、組織の存続だけが自己目的化している。一貫性を持つ大企業は、この国には本当に少ない。

大企業こそ、注意が必要だ。大企業こそ、外部の支援を必要としている。支援とは、冷静な眼だ。コンサルタントの存在意義とは、そこにしかあるまい。

トヨタ式『付随作業率』削減法 (2004/10/27)

先日、MIF研究会の工場見学会で、日野自動車の本社工場を見せていただいた。御存じの通り、日野自動車はトヨタ系でトラックやバスなどの大型車を生産している。私は大型車の製造ラインを見るのは初めてだったので、大いに興味深く拝見した。

(余談だが、工場見学ほど面白いものはないと私は思っている。生産理論の本を10冊読むより、工場を半日ほど子細に見せてもらう方が、はるかに勉強になる。もっとも、そのためには良いガイドが必要だが、MIF研のようなプロのコンサル集団では、互いの補足説明がガイドの役を果たすのが良い点だ)。

日野自動車の工場では、正式に申し込めば、小学生でも最終組立ラインのコンベヤのすぐ横を歩かせてくれる。見学者の前や後ろを、部品供給のための無人搬送車(AGV)やフォークリフトが走りまわる。AGVで部品を自動供給、というとスマートでハイテクなイメージに聞こえるが、実物を見ると、明らかに手作りの、見た目をかまわぬ実質本位のローコスト搬送車である。

工場全体の印象も質実剛健、の一語に尽きる。見学者を受け入れているわりに、ショーケースとしての見栄がまったくない。新規な仕掛けや見所もない。そのかわり妙な標語や精神主義の匂いもない。実質本位の合理性、それにつきる。

われわれ見学者は、かの有名な「かんばん」を見せてもらおうとしたのだが、不思議なことに、案内の人が探しても、ラインのそばには、かんばんがほとんど見あたらなかった。でも、じつは不思議でもなんでもない。なぜなら、トヨタ生産システム(TPS)では、最終組立ラインはプッシュ型で計画的に供給しているからなのだ。

トヨタ式生産システムでは、最終組立ラインは異なる車種を混流で一個流しする。コンベヤに投入する順序計画は、販売店からの受注情報をもとに、事前に決められている。そして、コンベヤ・ライン上の組付け工程それぞれに対して、エンジンやタイヤやキャビンなどのモジュール部品が、タイミングを合わせて供給される。車種ごとに異なるモジュール部品が必要だから、その供給もすべて厳密に決められている。つまり、受注生産でMRPを回しているのと同じで、ほとんどがプッシュ型の指示である。

自動車工場の最終組立ラインの工順は、多数の組立作業から成っている。ふつうは、各作業に使う部品在庫はバケットに入れて、ライン側に置いておき、組み付け作業者がそれを取って使うのが原則である。バケットが空になったらかんばんがはずれ、それを「水すまし」と呼ばれる役割の人間が見て、資材倉庫から補充する、という仕組みになっている。

ところが、日野自動車の工場では、あらかじめ各車両向けに部品をセット組みしてバケットに入れ、AGVでライン側まで供給する方式をとっていた(だからラインの周辺にかんばんが見あたらないのだ)。工場内の別の区画に部品在庫の棚がならんでおり、そこでピッキングしてセット組みしているようだ。エンジン組立工場では、部品のピックに手作りのデジタル・ピッキング・システム(DPS)を利用している様子も見えた。

なぜライン側に部品棚を置かないのか。大型部品だからライン側に置ききれないということもあるだろう。しかし、私の想像では、ラインでの「付随作業率」削減が究極の目的なのだ。

ライン上の組立作業は、1タクト分の時間が定められている。この数分間のうち、部品組み付けに必要な「正味作業時間」と、ライン側の棚から部品を探してピックしてくる「付随作業時間」の比率が問題になる。そこで、ピッキング作業と組み付け作業の担当者を分離してしまうのである。これによって、ライン作業者にピンポイントで部品を供給し、正味作業率を100%に近づけようという訳だ。作業者の記憶すべき負荷も下がる。

「かんばん」は、決してトヨタ式生産方式の中心ではない。部品をジャスト・イン・タイムに供給する一手段にすぎないのだ。別の手段が必要ならば、それに変えてしまう。この、こだわりの無さ、徹底した合理性こそ、トヨタ生産システムの真髄なのだろう。

一人勝ちで儲けすぎだとか、作る車に面白みが無いとか、下請けは疲弊しているだとか、トヨタに対する批判はいろいろある。しかし、この会社は少なくとも、思考と行動に一貫性がある。付加価値に結びつかないものは、たとえ数秒の作業でも、断固として排除すべし、との哲学があるのだ。それがトヨタという会社の、もっともおそるべき点だと思う。

「似非IT度」測定法 (2004/10/07)

現在、私が委員として参加させていただいている「製造業XML推進協議会」の中に、文書連携XMLワーキング・グループが結成され、過日、私も第2回目の討議に出席した。製造現場で発生する、おびただしい量と種類の文書を、てんでんばらばらの状態から、ゆるやかな連携が可能な仕組みにしていくために、どのような課題があるのか、そんな議論をしている段階だ。

ところで、ディスカッションを進めるうちに、『そもそも文書とは何だろう』という話になった。うかつなことに、誰もが自明なものと思っていたのだ。製造指図書とか、工程検査記録とか、運転申し送り書とか、たしかに紙の帳票のイメージは、みなそれぞれに持っている。それを電子化することで、仕事の質が上がる。ま、少なくとも検索や保存は楽になる。そういう気がする。

しかし、もう少しつきつめてみると、その帳票に書くべき内容は、どれほど形式化されているのだろう? 運転オペレーターの申し送り書は、ある意味で製造ノウハウのかたまりなのに、今やなぐり書きの符丁か暗号めいたものになっている、嘆かわしい、との意見が出された。では、その符丁を、もう少し日本語らしく文章化して、さらに電子ファイルに記録したとして、それは誰がどのように検索して役立てられるのか? 

以前、「ITって、何?」に書いたとおり、私はITとはデータと情報のサイクルを回すことだと考えている。情報は人間に意味をもたらすものだ。しかし、それを形式の枠に押し込めてデータ化しないと、計算機という機械の処理には持ち込めない。処理されて出てきたデータから、われわれ人間はまた意味をくみ取り直すのだ。

だとすると、ながながと文章を書き込んだ帳票は、まだ情報の段階であって、いまだ形式化された客観的データからはほど遠いものだ。それを単にbit列に変換しただけでは、ITと呼ぶほどの価値はあるのだろうか? 

こう考えているうちに、私は、もう10数年も前に、「あなたの会社のOA化度は?」という質問がはやった時代があったことを思いだした。もはやOAなどという言葉は誰も使わないが、当時のOAとは、ほとんどの場合、コンピュータで美しい活字の文書を作成することを指していた。つまり、コンピュータとは、情報処理ではなく、清書の道具だったのだ。

こうした理解、ないし誤解は意外なほど根強い。昔の「OA度」は、今や「IT度」になったかもしれないが、本来のITの意義とは無縁なものだ。むしろ、「似非IT度」と呼ぶべきだろう。そして、それを測定するためのチェック・リストならば、すぐにいろいろ思いつく。たとえば--

  • あなたの仕事場のブランクフォームは、紙にプリントアウトしたときに美しく罫線がレイアウトされていませんか?
  • あなたの会社の日報や月報は、文章を記録するデータベースではありませんか?
  • あなたの使っている承認ワークフローは、紙の伝票添付と印鑑を義務づけていませんか?
  • MS-Word文書を添付ファイルで送っていませんか?
  • あなたの会社の名刺や電話帳は、組織変更のたびに誰かが手作業で入力・修正していませんか?
  • あなたの会社は、最初に会計システムから入れませんでしたか? 会社の業務の根幹は製造なのだから、まず製造のシステム化を優先すべきだと、誰も主張しなかったりしませんか?

そして--

  • あなたの会社では、ITを「仕事を楽にする」道具だと思っていませんか? 「仕事を変える」「不可能だった仕事を可能にする」道具だと、正しく認識されていますか?

こんな質問には、全部「NO!」と言える会社ばかりであるような世の中になることを、私は切に望むのだ。

買い物の流儀と法則 (2004/09/21)

デパートの売り子を見ていると、“この仕事はシステム・アナリストに似ているな”と、よく思う。上手な売り子は、お客が来て商品をあれこれ見ては悩み、あれにしようか、これにしようかと考えるのを、しばらく任せておく。そして、客が自分に似合いそうもない服を選び始めると、控えめに、だがはっきりと、「お客様には、こちらがお似合いじゃありませんか」と口をはさむ。お顔の色が映えるとか、体つきにしっくりなじむとか。そして、客がそれなりに納得して買い物できるように、うまく誘導していく。必ずしも高価な商品をすすめるとは限らない。

上手な売り手というのは、単に客が「欲しい」というものをすすめるのではなく、客が「必要としている」ものを見分ける力を持っている。そして、“こちらの方がシックですよ”などと相手がその気になるよう表現する能力もある。「これは、自分が選んだのだ」そう信じれば、顧客満足もみたされよう。これこそまさに、システム・アナリストが備えるべき能力と等しいではないか。

しかし、これを逆の方角から表現すると、『客は自分が必要とするものが何かを知らない』ということになる。ことに、日本のお客はそうだ。なんとなく、漠然と「スーツでも買おうか」と買い物に来る。心の中にあるのは、買いたい商品のイメージではなく、買いたい商品のカテゴリーにすぎない。これがたとえばフランスあたりのデパートやブティックだと、客は自分の欲しい商品のイメージを、非常に明確に持って買い物に来る。ハイネック・スタイルのセーターで、毛糸は太め、色は明るい青で・・といった具合だ。買い物は探し物であり、より自分のイメージにマッチしたもので、なおかつより安いものを探すのだ(彼らはケチなので価格はきっちり交渉する)。

してみると、買い物の流儀には二種類あるらしい。自分が何を欲しいのか自覚せずに、売り手の提案にゆだねる買い方が一つ。さもなければ、自分が欲しいものを明確にして、売り手には価格努力のみを求める買い方の、二種類だ。それでは、どちらがより賢い買い方だろうか?

なんとなく、自分が欲しいものを明確にして、安く買い物をする方が、賢そうに思えるかもしれない。実際のところ、本当にモノを安く買いたかったら、複数の売り手から価格の見積もりを取って、競争させるのが定石だ。そして価格をきちんと比較するためには、欲しいモノの仕様がはっきりしていなければならない。オレンジと林檎の値段を比較してもしょうがないからだ。

売り手から見積が上がってきたら、その商品の詳細について吟味して、はたして自分が欲しいと指定した仕様に合致しているかを、質問して明確にしていく。要求からずれているところは訂正させ、また、相手があえて代替案を提示してきたときは、それを評価する。発注の前に行なうこの作業を、クラリフィケーション(Clarification)と呼ぶ。これが横文字で、対応する日本語がないところを見ても、われわれ日本の文化はどうやら調達の流儀や原則をきちんと教える場がないらしい。

むろん、売り手の方の知識が買い手よりもまさっている場合は、提案に任せる買い方も理があるだろう。寿司屋で言えば「おまかせ」というやつだ(自分の要求仕様で選ぶのは「おこのみ」である)。売り手が信頼できる場合は、「おまかせ」でも無駄を省けて安い買い物ができることも多い。そして、どうやらわが国では、昔はずっとこの流儀で買い物をしてきたものらしい。

にもかかわらず最近は、不況のご時世のせいか、はたまた欧米風スタイルに影響されたのか、自分の頭の中は依然として「おまかせ」流なのに、競争見積で安いモノを調達しようと考える企業をしばしば見かける。どこかで、調達の根本を誤解しているようだ。

調達の根本原則とは何か。それは、買い手の要求するモノやサービスの仕様と、売り手の供給できるモノやサービスの性状との間の、マッピング作業に他ならない。両者が一致したところで、その取引が合意され、対価を支払う約束がなされる。要求仕様と供給性状のギャップが小さいほど、価値は高くなる。そして、供給者に代替性が高いほど(つまり売り手の競争が激しいほど)価格は低くなる傾向がある。

自分が何を欲しいのか正確に知らないのに、一番安いのを買いたいと思うのは愚かだ。何が欲しいのか、何がフィットするのかを知るのは、一つの価値だ。調達という専門職の価値とは、このマッピングをいかに上手に行なうか、に存する。「賢い消費者」という言葉がひと頃はやったが、企業がもっと賢い買い手にならない限り、この構造不況からはなかなか簡単には抜けだせないことだろう。

隊員求む--ERP誤訳探検隊 (2004/09/05)

ERPやMESはカーナビのようなものだ。ことあるごとに私はそう言い続けてきた。カーナビは登場したころはかなり高価で、贅沢品と思われていた。カーナビが無くても運転はできるし、別に困らない。ERPやMESも、無くても生産活動はできるし、それで不都合というわけではない。

しかし、世の中が移りかわってカーナビの普及が進むと、車を買う人の意識も変わってきた。あって当然、ないと不便に思う人が増えた。自分が現在いる場所も正確にわからないのに、よくも初めての地域の知らない道を行こうと思えたものだ--そんな気がしてきた人も多いにちがいない。ERPやMESも同じで、慣れてしまうと、無かったころは在庫も進捗も正確に分からぬまま、どうやって手配をかけていたのか首をひねるようになる。

このようにカーナビが普及してくると、しかし、それにともなって、つまらぬ問題も普及してくる。それは、用語の問題なのだ。いや、英語の問題といってもいいかもしれない。私の車のカーナビは、電源を入れると、若い女性のアニメが画面に出てきて、音声でこうしゃべるのだ:
"Hello, Panasonic Navigation System. Let’s enjoy safety driving."

英語の発音がとても日本人的なのは、許そう。妙にネイティブ発音で話されたら、かえって気障に感じるユーザも多いと思う。しかし、何なのだ、この意味不明な英語は。なぜ、"Welcome to.."ではないのだ? いつからsafetyは“安全な”という形容詞になったのだ!?

そして、似たような体験は、外国産の大手ERPパッケージでも楽しめる。たとえば、某パッケージには、『逆日程計画』と『順日程計画』なる不思議な言葉が出てくる。これが何を意味するかお分かりだろうか? 私は、これがバックワード・スケジューリングとフォワード・スケジューリングの訳語なのに気がつくまで、しばらく時間が必要だった。『保管場所』なる用語もあって、これは倉庫内のBin Locationのことかと思うと、さにあらず、工場倉庫や物流デポなどの在庫センターのことを指すのである。

数多くのERPやMESパッケージに内在するであろう、この種の不思議な訳語は、もしかすると、生産管理の知識の浅いエンジニア達には、正しい用語として受け取られ始めているかもしれない。そう思うと、何となく、気が気でない。言葉には、それぞれ由来も経緯もあって形ができてきているのだ。そして、業界や学会で共有されている。それなのに、パッケージ販売者ごとに別々の方言や珍訳が拡大再生産されているのだとしたら--ERP誤訳探検隊をつくろう! と思うのはこんな時だ。

念のため言うと、私は英語の先生ではないし、他人の誤訳をあげつらって笑う趣味もない。しかし、電車の吊革広告に、(財)交通道徳協会+JT+JRの名前で、不自然な英文がイラストとともに羅列されていたりすると、どうにも恥ずかしくなってくる。なぜ、きちんとしたネイティブの校正を受けないのか。それとも、彼らの雇っているネイティブはあれを通すほど、検査のレベルを下げているのだろうか? 

パッケージを翻訳する会社だって、複数の生産管理のプロフェッショナルに監修を頼むべきではなかっただろうか。なぜみんな、それほどまでに自分の英語力に自信があるのだろう? 何度も言うが、しょせん、『ぼくらに英語はわからない』のだ。

ひとの誤訳ばかりを例示するのはいやなので、私が最近見かけて、とても感心した英文を紹介しよう。それは札幌の路面電車の優先席にかかげてあった説明だ。
"Please yield this seat to
Elderly, Disabled, Those with children, Pregnant women"

この、yieldという語句の由緒正しい使い方に、私はほとんど爽快さを覚えた。賭けたっていい、札幌市交通局は、この英文表示をネイティブに頼んだのだ。

誰だって、自分の知らないことは、その道のプロに頭を下げて頼めばいい。それが、本当のプロフェッショナリズムというものだ。偽物の用語をふりまわす、偽物のパッケージを見つけたら、どうかお知らせください。

在庫は誰の責任?--ブレーキとアクセルの口論(2004/08/12)

自動車教習所に通ったのはずいぶん昔のことだが、なぜかいまだに覚えていることがいくつかある。その一つは初めて運転席に座った実技第1時間目のことで、エンジンがかかっていると、アクセルをとくに強く踏み込まなくても、車はゆっくりと前に走っていくのを知ったときだ。自動車というのは、自動的に前に進むようできているのだな、と思った。

もう一つ忘れがたいのは、教習の先生が座る助手席に、もう一つブレーキがあったことだ。これは教習所の車特有の仕様だ。危険なときには、運転手がブレーキを踏みそこなっても、先生の判断だけで車を止めることができる。一種のインテリジェントな安全装置である。

免許を取ってからも、ときどき、教習の先生なみに口やかましい人を助手席に乗せてしまうことがある。やれスピードの上げすぎだ、やれギアはもっと早く入れろ、やれカーブの切り方が甘い、と批評されるので、まことに閉口する。そういうときは、ハンドルもブレーキも自分の手元にあることに感謝したくなる。小言を言われた上に、勝手に運転機能の一部まで乗っ取られては、たまらないからだ。

それにしても、一つの車に二つのハンドルがついていたら、さぞ珍妙な光景だろう。右へ行くのか左に切れるのか、端で見ている者も、運転している人間達も、予想がつかないわけだ。・・と、ここらへんまで読んだ勘のいい読者の方は、私が自動車を借りて企業活動のことを暗喩しているな、とお気づきかもしれない。ご明察である。運命共同体のことを『一つ船の乗客』ということがあるが、一つの組織に二つ以上、意志決定があったら、その船は山に登ること必定であろう。

しかし、ハンドルは一つだが、もう少し穏和な形で、アクセルとブレーキが別々の座席にあるような会社は、じつは少なくない。それは、在庫の問題である。

製品の在庫量を自動車の運転にたとえるなら、製造作業はアクセルに相当する。そして、販売(出荷)作業は、ブレーキに相当する。たくさん作れば、在庫は増える。一杯売れば、在庫は減る。単純な論理だ。ハンドルはたとえるならば、どの市場に向けた製品に重点を置くか、という判断になる。

ところで、営業倉庫の中にある製品在庫の数量は、誰が決めるのだろうか。ブレーキは明らかに営業部門がかけている。一方、アクセル(つまり工場から出荷される量)の方は、だれが踏み込んでいるのだろうか。明らかに、工場の生産計画を決めた部署である。そして、たいがいの会社では、営業部門の出す「販売見通し」をもとに、製造側が数量を見なおして、生産計画を立てている。つまり、アクセルは工場が踏んでいるのだ。

製品在庫を営業部門の「在庫責任」とする論理を、最近ときどき見かける。しかし、それは営業部門が、自ら基準生産計画(MPS)を立案する権限を持っているケースに限られるべきだ。ブレーキとアクセルを別々の人が好き勝手に踏む状態で、どうして速度違反の責任をとれるだろうか?

同じような議論は、原料資材の在庫にも当てはまる。資材を消費するブレーキ役は工場側だが、資材を供給するアクセル役は本社調達部で、そこの判断で集中購買を行なっているケースなど、やはり在庫責任は誰もとりようがない。

日本の会社というのは不思議なもので、同じ社員同士は連帯感があり仲もいいのに、部門間では口論状態で、ろくに対話が成立しないケースが少なくない。そして、片方からは在庫を減らせ、と号令がかかり、片方からは出来るだけ製品を作れ、という指示が来て、矛盾のさなかで計画担当者は夏痩せしてしまう。そこで営業部門と製造部門の両方を統括できる立場の者を探すと、結局社長までたどり着いてしまうことだってある。だとすると、在庫責任は社長にあるのだ。だが、社長がいちいち生産計画を毎週立てていたら、会社は成り立つまい。

ところで、最近の医薬品業界の中には、今後の規制緩和を見込んで、「ロジスティック本部」や「需給コントロール部門」を組織の中に作り、販売計画と生産計画を同一担当者が立案するよう、権限体系を改革した勇気ある企業がある。作りすぎて在庫を増やしたり、作り足りずに欠品を起こしたりしても、明らかに判断の責任はその担当者の上にある。このような体制になって初めて、「在庫責任」の考え方は意味を持つのである。

「在庫責任」などという概念をもてあそぶのだったら、それ相応の権限体制づくりが必要である。そして、これが一番難しいのだ。計画プロセスの確立、計画権限の確立、これがAPSやERP導入の最大の課題であって、これに比べればソフトウェア自体の構築など、単なる力仕事の部類に属することを肝に銘じるべきである。

在庫は誰の責任? (2004/08/03)

私は暑い時期が苦手だ。暑がりでもあるが、むしろ冷房に弱い体質で困っている。だから私は夏になると毛糸のベストをオフィスにおいておき、執務中はほとんど着ている。先日アメリカ人と打ち合せたときも、「失礼だが貴方はなぜ夏にセーターを着ているのか?」と聞かれた。だがこれは、じつはアメリカ人のせいなのだ。

私が冷房病になったのは、1986年にハワイの学際的研究施設「東西センター」(East-West Center)に客員研究者として滞在していた時のことだ。熱帯とはいえ1年中貿易風の吹くホノルルは、直射日光さえ避ければ、気温・湿度とも上がらないので快適にすごせる。しかし、研究所の建物は常時強い冷房がかかっていた。なにせ雨が降っていてもスプリンクラーで芝生に水を撒き続けるアメリカ人のことだ。建物に冷房はあって当然という観念がある。

とくに困ったのは、私に与えられた個室に、その階の冷房系統の温度センサーが設置されていたことだ。当初しばらく私は冷房に辟易して窓を開けていたのだが、このおかげで冷房システムは室内温度が上がったと判断し、より強い冷気を供給するようになる。その冷気は、私の部屋とは反対側のフロアの吹き出し口からでてくる。そのエリアにいる人達から強硬な抗議を受けて(さすがの屈強なアメリカ人も寒かったらしい)、私は窓を開けることを禁じられた。しかたなく私はベストを着ることにした。

それにしても、フロア全体の冷房の効きすぎは、私の責任だったろうか? 少なくとも私が意図して気温を下げたわけではない。なぜ温度検知器の設置位置と、冷気の主な吹き出し口があれほど離れているのか、私にはとても不思議だった。室温であれ何であれ、およそコントロールしたい対象があったら、そのレベルを計測するポイントと、システムの主要なアウトプット(冷気吹き出し口)が離れているのは、あきらかに不合理ではないか。責任を問うべきだとしたら、そんな空調設計をした建築家にあるはずだろう。

ところで、在庫の世界でも、ときおりよく似た事象が発生している。「在庫責任」という言葉が最近流行になっているが、その中身を良く吟味してみると、ハワイの建物の空調と同様、在庫の利用者の意図とはかけ離れた結果になるよう、仕組みができているのだ。

まず、在庫のレベルをどこで計るかというと、販社や営業所の末端在庫で見ている。そして、在庫に欠品があれば工場に出荷依頼を出すという仕組みだ。ところが工場では生産リードタイムがあるから、依頼されてから出荷して販社の手元に着くまでには、ずいぶん時間がかかる。他の得意先に緊急出荷で横取りされることもある。センサーの場所と出口が離れすぎているのだ。

おまけに、在庫では生産リードタイムの時間分、需要と供給にずれが生じる(これを制御理論ではむだ時間という)。これがぶれを増幅させる。たとえて言うならば、シャワーを浴びようとしたら水温が低すぎた。あわてて温度を上げると、ボイラーや配管が暖まるまで時間がかかるから、出てきたお湯は今度は熱すぎる、というような状況に陥るのである。

およそ「責任」という言葉を使うのならば、それは、その人やその部署に意志決定の権限(自由度)が与えられており、なおかつ正確な現状把握手段(センサー)が適切な位置とタイミングで働く仕組みになっていなければ、おかしいと私は考える。自分がコントロールできない結果に対して、誰が責任を負えるだろうか。およそ、組織人のやる気を奪う一番効き目のある方法は、その人が差配できない事柄によって責めることである。運不運の結果だけで、人を評価することである。

常夏の島で1年間をがたがた震えながらすごした私は、すっかり冷房に弱い体質になって帰国した。そして、夏の気温の上下によって、売上が左右される季節性製品の在庫と生産計画のシステム作りに、奇しくも参画することになった。季節商品の場合、安全在庫の考えだけではうまく生産と需要をコントロールすることはできない。先読みと作りだめの仕組みが必要である。こうして次第に、計画作業それ自体の重要性について強く感じるようになり、スケジューリングの世界に踏み込むこととなったのである。

そして、夏のベストも、あいにくまだ手放せずにいる。

自分自身を予約する (2004/06/30)

以前、「日誌をつけよう(3)--スケジュールとの統合」の中でも書いたとおり、自分のスケジュールとTo Do Listの統合が一番の課題だと思っている。ところで、私の同僚は、この問題にちょっと風変わりだが、見事な解決をつけている人がいることを、最近知った。

私の課題をもう一度述べておこう。私は基本的に、会社でやるべき仕事のTo Do Listを、一元管理している。また、自分の予定はすべて、グループウェアのカレンダーに入力している。そして、朝、会社の席に座ったら、まずその日にやるべきアクション項目をTo Do Listから拾い出して優先順位をつけておき、また打合や来客などのイベント的な予定を確認する。

問題なのは、この二つのデータが別々に存在していることだ。誤解しないでいただきたいのだが、両者は同じグループウェアに登録している。しかし、同じソフト内で、二種類の画面を行ったり来たりしなければならないことが困るのだ。とはいえ、To Doという、納期がキーになるデータ項目と、イベントという開始・終了日時が決まっているデータ項目とは、そもそも構造がちがうのだから、これは致し方のないことだと、ずっと思っていた。

しかし、もっと困るのは、私のカレンダーを誰かがのぞいたとき、予定が入っていないと「ああ、佐藤君はこの日は空いているんだな」と思われてしまうことである。じつは、その日はTo Doがたくさんあって多忙かもしれないのに、である。

ところで、くだんの私の同僚は、実に意外な方法でこの問題を解決している。彼はプロジェクト屋だから、とうぜんTo Do Listを毎日抱えているわけだが、自分のカレンダーに、To Do Listの作業項目を、時間枠をとって書き込んでしまうのである。たとえば、「10:00-12:00 マンスリー・レポートを書く」といった具合である。To Doが増えて仕事が多忙になれば、当然カレンダーはどんどん埋まっていく。だから、勝手に他人が予定をのぞいて「彼はこの日はひまそうだから会議を入れよう」などと出来なくなるのだ。まさにコロンブスの卵である。

彼はこの方法を、「自分で自分を予約するのです」と説明していた。たしかにグループウェアには、会議室や機材などの資源を予約する機能がある。この類比で言えば、彼は自分自身の労働時間という資源を予約しているのである。

自己予約することによって、必然的に、そのTo Doのアクション項目が、どの程度の作業時間を要するのかについても、真剣に見積もることになる。また、あとでタイムシートをつける際にも、カレンダーをさかのぼって参照すれば、どの仕事に何時間働いたか、すぐに分かるという仕掛けだ。実に合理的である。

この彼の知恵は、資源の予約とは何か、という問題をあらためて私に考えさせるきっかけとなった。たとえば製造資源の予約という行為である。生産スケジューリングとは、ある意味で資源の予約と確定に他ならない。また、生産予定の予約は、ATP管理すなわち生産座席予約システムともつながっていく。しかし、目に見える機械資源の予約はある意味でわかりやすい。

むずかしいのは、目に見えにくい知的労働力の資源の予約と確定である。私は最近、ホワイトカラーの生産性向上とは、結局、自己管理能力のレベルアップにつきるのではないかと感じてきている。だとすれば、彼のような「自分自身の予約」は、奇抜に見えるけれど極めて良い方法ではないかと考えている次第である。

チャイナ・シンドローム(2) 中国が買い占める世界のエネルギー資源 (2004/06/13)

原油価格が昨年から世界中で高騰している。OPECが2度にわたり増産を決議したが、それでも市況は落ち着きを見せない。おかげで燃料費が高騰し、電力費や輸送費、航空運賃などに影響が出始めている。

多くの人は、イラク情勢が不安定だからだと、漠然と信じているようだ。しかし、石油関係者の見方はちがう。実物経済としての石油の需給がタイトなのだ。その第一の理由は、米国におけるエネルギー・サプライチェーンが脆弱であることだ。サプライチェーンが脆弱とは、原油や石油製品としての備蓄量が少ない上に、供給チャネルも弾力性を欠いていることを意味している(昨年10月の日誌に書いた「サプライチェーンのリスク・マネジメント(2)」も参照されたい)。

しかし、第二の理由は、中国にある。中国の需要増加が、世界規模で石油・天然ガスのエネルギー市場を逼迫させているのだ。

中国は今年、とうとう日本を抜いて、米国に次ぐ世界で二番目の石油消費大国となった。2004年度は、昨年の13%増の620万バーレルの国内需要が見込まれている。周知の通り、中国大陸は資源に恵まれ、原油も産出する。しかし、じつは中国の産油量は伸び悩んでいる。すでに1/3を輸入に頼っているのである。だからこそ、世界の石油市場のバランスが崩れてきているわけである。

中国では、天然ガスの需要も急上昇中だ。2020年には2001年の50倍の600億ドル市場になるといわれている。その半分は、やはり輸入である。たとえば、最近、サウジアラビア南部のルブアルハリ砂漠の天然ガス田の利権を、むこう10年間、中国石油化工(シノペック)が取得する契約をかわした。これはほんの一例である。イラン・アルジェリアなどとも相次いで開発参入や輸入契約を交わした。カリブ海の開発利権も中国企業が取得した。意外に思うかもしれないが、彼らはもう、すでにそれだけの資金力を持っているのである。

ご存じかどうか分からないが、中国には三つの巨大な石油関連企業がある。
(1)中国石油天然気集団(中国石油=ペトロチャイナ):売上高4兆円、当期利益1兆円で、NYSEに上場している。今年、英BPと提携した。
(2)中国石油化工公司(中国石化=シノペック):売上高6兆円、当期利益3千億円で、NYSE/Londonに株式上場している。こちらは最近、英蘭シェルと合弁を発表した。
(3)中国海洋石油(CNOOC):売上高6千億円、当期利益1.6千億円で、NYSE上場企業だ。
これら3社はいずれも豊富な自己資金を持つ上に、米英で株式上場も果たし、直接資金調達も可能になっている。とくに注目すべきはその収益性だ。収益性こそ資金を調達する最大の担保なのである。

中国が買いたいものは、まだある。化学工業の主要原料であるオレフィンも、エチレン換算で年間1千万トン以上が不足する。日本全体のエチレン生産能力が800万トンであることを考えれば、これがいかに莫大な量かわかるだろう。しかたなく中国は現在、中間製品であるポリマーを輸入している。このままでは2010年には世界のポリエチレンの半分を輸入していくことになると言われている。

最近中国はロシアから電力を輸入しはじめた。年10億キロワット以上という。電力不足も非常に深刻だ。だから、今後25年間に原発30基を新設する計画がある。

重工業の素材も足りない。とくに鉄鋼だ。国内の旺盛な建設ラッシュをまかなう用途で、日本をはじめ世界中から鋼材を買っているために、日本では過去1年間に5割近く相場が上がってしまった。おかげで国内の建設業に影響が出始めている。

こうした動きを、「中国特需」として歓迎する向きも、一部にはあるようだ。中国経済の急成長は、その余熱を東アジア経済圏にばらまいている。新日本石油は日量2万バーレルの受託精製をペトロチャイナと契約した。これは精製能力がだぶついている日本の石油業界にとっては、恵みの雨に近い。ただし、今後は韓国・タイなどと精製価格競争になるのは見えている。いつまで喜んでいられるかは、誰もわからない。へたをすれば、素材もエネルギー価格も高騰して、国内経済はまだ冷え込んでいるのに輸入インフレになる危険性だってある。

誤解しないでほしいのだが、私は別に中国のことを非難しているわけではない。誰もが経済原則にしたがって動いているだけなのだ。日本だって、世界第二の経済力にあかせて、核燃料からマグロにいたるまで自分たちの欲しい資源を世界中から買い集めている。ただ、エネルギーについて言えば、日本はその殆どを輸入に頼っている。そして備蓄量は決して多くはないことを自覚しておくべきだ。

いや、そればかりではない。米国でさえすでに、石油自給率は1/3程度しかないのである。米国と中国が原油の供給源をめぐって争う時代になったら、日本のエネルギーは誰がどう確保するのだろうか? 根拠もない『中国生産恐怖症』におびえている暇があったら、こちらの問題を心配すべきだろう、今すぐに。

チャイナ・シンドローム (2004/06/06)

2001年の4月から1年ほど、私は仕事で海外に出ていた。駐在を終えて帰国したとき、マスメディアのニュースや論調に、ある共通した問題意識ないし固定観念があるのに気づいて、なんとも奇妙な違和感を感じたものだ。それは、日本の『中国恐怖症』である。

中国恐怖症といっても、中華人民共和国という国家が軍事的に脅威だとか、経済的に不安定で危険だということではない。中国の公害問題や人口増加が地球環境にとって大きなリスクだという話なら私も十分納得できるが、そうでもなかった。

では、どんな話かというと、“このままでは日本の製造業が全部中国に持って行かれてしまう”という不安感なのである。とくに中小・下請けのメーカーは、こぞって仕事を中国に奪われてしまう、あるいは、自ら中国に進出して生き残りに賭けるしかない、という論調が目立っていた。生産系コンサルタントの中にも、口を開けば「中国生産をどう考えておられますか」ときく人がいた。

その根拠は、中国製品が安いから、である。人件費が圧倒的に安く、土地も資源も豊富で、人民も勤労意欲が高いし、IT化にも抵抗がないし、なによりも国家的な方針で産業育成支援を強引に進めているし・・という具合に説明がある。だから、これから中国は世界の工場になるはずだ。日本の製造業も、部品製造はすべて中国への委託外注や調達になるだろうし、そうしないと競争に負けてしまう。中国に負けないためには、日本は高付加価値の製品開発と最終組立生産に特化しなければ、いやJIT生産がそれを救うんだ、等々と議論がつづいた。

こうした議論を何回か読むうちに、私は急に国際線の食事のメニューのことを思いだした。そして、笑いが止まらなくなった。「ああ、またやってるな。」と。

じつはその少し前に、私は久しぶりに日系の航空会社の飛行機に乗った。そして、驚いた。食事のメニューから、牛肉がすっかり姿を消していたからである。あなたは覚えておられるだろうか? 当時の日本の狂牛病騒ぎを。国内で初めてBSE感染の牛が見つかって、またたく間に国内の食料品店から牛肉が姿を消した、と私は駐在先の新聞で読んでいた。そして、同様に国際線の食事のメニューからも消え去ったというわけだ。

日本人が牛肉を食卓から退けたのは、プリオン感染のリスクを少しでも下げたいからだったろうか? ちがう。単に不気味だから、というだけなのだ。リスクの問題ならば、危険性を評価した上で、効用(つまり食欲)および価格との間でトレードオフを考えるだろう。それが普通の合理性というものだ。そして、選択肢としては残っているはずだ。現に、欧州ではBSE問題に対してそう反応した。おかげで牛肉の価格は下がり、品質は向上したと、フランス人は言っていた。

選択肢を消してしまうのは、まったく別の論理である。それは感情の論理なのだ。われわれ日本の社会は、右向け右で、いっせいに選択肢を捨ててしまう、一点集中の感情的性癖を持っているらしい(「考えるヒント」の『一点集中型アプローチの限界』参照のこと)。マスメディアは、あきらかにその傾向に輪をかけている。輪をかけることで、儲けている。

中国恐怖症も、同じような一点集中の論理の上に乗っていた。人件費が安く資源の豊富な国はアジアに限っても、まだまだ他にたくさんある。にもかかわらず、なぜか名指しで「中国」なのだ。ベトナムやタイやインドネシアやブルネイなど、他の選択肢と比較した上で、中国生産で成功する条件を客観的に分析した記事など、私はほとんど見たことがない。中国から船便で物を運んで通関して、それでもJIT購買が成り立つ業界はどこか、私は読んだ記憶がない。

『中国恐怖症』の根底にあるのは、日本の経済的将来に対する不安感である。行き場のない不安感情は、えてして何かターゲットを見つけると、どっと凝縮して恐怖感情になりやすい。それをふつうは、感情のはけ口と呼ぶ。自分が何かの恐怖症に陥っていることに気づいたら、“自分は本当は何を不安に思っているのだろう”と一歩引いてみた方がいい。

私が小学生だったころ、日本は三流国だった。日本製とは安価な粗悪品の代名詞だった。「使うほど安く良くなる国産品」という標語の垂れ幕が通商産業省(当時)にかかっていたことなど、誰もが忘れているようだ。いま、世界市場でその位置を中国製品が占めている。人件費の優位性も、劣悪な品質も、永久に続くことではない。それは、自らが歩んできた道を見れば分かることではないか。

資源が無くて人件費が高くて土地が狭いことを憂う必要があるだろうか? だったら、オランダやスイスという国はとっくの昔に滅びているだろう。彼らがいかにして裕福な社会を実現しているのか考えてみたらいい。オランダは通商で、スイスは保険・金融業で成り立っている。じつはどちらも情報産業だ。それでも日本の基盤はものづくりだ、と信じているなら、せめて薄利多売競争に突っ走らない方法を、じっくり考えるべきなのだ。

プロセスシステム工学はSCMの展開に貢献できるか (2004/05/16)

「日本学術振興会プロセスシステム工学第143委員会」という、たいへん長い名前の研究会に参加してきた。毎年5月ごろに、浜松に集まって1泊2日の合宿形式のワークショップを開催している。産学各界から50人ほどの出席者があり、とても活発な議論を交わすことができた。

プロセスシステム工学という学問があるのをご存じだろうか(=長いので英語Process Systems Engineeringの頭文字をとってPSEと略称する)。確立したのは1960年代だから、すでに40年以上の歴史を持っている。製造業の中でも、いわゆるプロセス産業に属する種類の工場をプロセス・プラントと総称するのだが、その設計論・制御論を研究する工学である。旧来の化学工学が、個別の化学機械の設計論であるのに対して、プロセス・プラント全体をシステムとして取り扱う。

機械・電子など組立加工中心のディスクリート系産業における工場全体の設計論は、SLP(Systematic Layout Planning)などの技法はあるが、いまだにあまり体系化されているとは言いにくい。たとえば日本の自動車会社のビッグ3を訪れると、その工場設計思想のあまりの違いに驚かされる。これに対して、日本のエチレンセンターのビッグ3を訪れて、その装置構成やプロセスフローが全然違うなどということは、まったくあり得ない。良し悪しは別として、プロセスシステム工学は、かなり確立した分野なのである。

ところで、こうした議論自体を、浜松という場所で行なうこと自体、とても面白かった。浜松市がとても気持ちの良い中規模地方都市であるし、それに、(ほとんどの出席者が知らないようだが)静岡県西部というのは、実は今や日本のロジスティクスの一大中心地になりつつあるのである。そしてそれは、日本の製造業が海外生産に大幅に頼っていることと関係があるのだ。いったいなぜだろうか。

日本企業が輸出一本槍だった時代は、工業地帯に付属する港湾、つまり東京港や大阪港などから貨物を出荷すれば良かった。港の位置は、工場立地に依存した。ところが現在は、部品材料から最終消費財まで、アジア各国から大量に輸入する国になっている。では、輸入貨物はどこに陸揚げするのがよいだろうか。まさか全国の大都市に順に寄港して、少しずつ荷揚げする、などという非効率なことはできまい。どこか一ヶ所で陸揚げ・通関して、いったん物流センターに保管し、必要に応じて陸上配送する方が合理的である。

そこで浮上してきたのが静岡県だ。まず、清水港という24時間対応の国際貨物港がある。東名高速など陸路も充実している。そして土地代も人件費も安い(いまどき誰が土地代の高い大都市に倉庫を借りたがるだろうか?)。本州の中央に位置して、東京・名古屋・大阪など工業地帯・消費地への配送にも便利である。

こうして、新幹線に乗っていると、新富士から静岡・掛川・浜松までの沿線で、のどかで風光明媚な田園地帯に並ぶ近代的な物流センターや加工工場を見ることができる。もっとも、土地はともかく、労働力供給はそろそろタイトになってきているらしく、静岡銀行に入るとATMの画面には見慣れぬ外国語の案内が表示されてくる。

さて、浜松の研究会での議論だが、製薬会社におけるサプライチェーンの事例などを勉強し、SCMとは何で、その課題とはいかなるものかの検討から始まった。PSEという学問は、ある意味で抽象化された生産設備から構成されるシステムの、最適設計や制御論をいろいろと持ち合わせている。したがって、サプライチェーンを工場の界面を超えて広がる供給のシステムととらえれば、その最適化にPSEのもつモデリングの能力が役に立つのではないか、との意見が多くの支持を集めた。

私自身は、SCM展開の最大の壁は、技術論を超えたルールの問題だと考えている。なぜなら、企業とはローカル・ルールの集合体だからだ。H社のパソコンの蓋を開けてみると、中にライバルT社の半導体チップが乗っていた、という話が、その典型例である。H社にも半導体事業部があるのに! どうみたってSCM的には不合理な話だ。しかし、H社のPC事業部から見ると、社内振替単価で自社製品を使うよりも、外部のT社から購入する方が安かったにちがいない。ミクロな合理的決定を積み上げても、マクロな合理性にはたどり着かない例が、『囚人のジレンマ』に代表されるように、この世間にはあまりにも多いのだ。

が、まあその議論はとりあえずおいておこう。技術屋として、あるいは研究者として、何が課題か考えてみる。サプライチェーンのモデリングは連続系プロセスのシミュレーションと異なり、離散系のダイナミックスを扱う必要がある。じつはこのとき、意志決定ポイントが分散していることや、需要変化を先読みする人間の能動的な対応(計画系機能)や、学習能力(の無さ)などをシミュレートすることが、不可能とは言わないまでも、きわめて煩雑である点が課題なのだ。SCORに準拠して、ビジネスプロセスの標準モデルを作れば、あとはそれで最適化問題としてすらすら解けるような単純な話ではない。

プロセスシステム工学の持つモデリング能力は、たしかに切れ味の良い刀のようなものだ。しかし、対象を切り刻むために、その対象に寄ってみて初めて見えてくる事柄は数多い。その点で、抽象化モデルの力を過信しない方がいいと思う。いつのまにか静岡が物流のハブになりつつある状況を思いだしてほしい。さまざまな、見落としがちな要因が集まって、一つの流れを作りだしている。サプライチェーンの長期的なダイナミックスとは、こうしたものなのだ。PSEがそこまで踏み込んだ上で、切れ味を発揮してくれることを心から期待している。

モノサシを疑え (2004/04/03)

企業の最終的ゴールはお金をたくさん儲けることだ。入社式で新入社員に美辞麗句をならべて何を訓示したにせよ、経営者はみな内心そう思っている。“そのために諸君の若い力が必要なのだ、頑張って欲しい”、と。

頑張ることの意義を、疑う人は少ない。この国では、自分の属する組織や場のために頑張ることは美しいと思われている。そうでなければ、なぜあんなに高校野球が好きなのか。若者は素晴らしい、なぜならつねに一生懸命だから、というわけだ。

では、会社で頑張るとはどういうことか。お金儲けという目標のために、組織が全力を尽くすこと。それはすなわち、各人がおのおのの持ち場で最大限の努力をはらうことだ。そのために、各部門で目標となるモノサシが与えられている。利益とはすなわち売上マイナス原価である。したがって、営業は売上の増大をはかり、工場は製造原価を低減しろ、と求められる。物流部門は物流コストを低減しろ。調達部門は安価なサプライヤーから買え。あるいは安価な外注先に製造委託しろ。設計部門は新製品投入までの時間を極力短くしろ。IT部門は運用保守コストを削減しろ・・・。

各部門に利益最大化のための尺度が与えられ、期間ごとの成果がもとめられる水準に達したかどうかで、人事評価や部門評価が決められる。こうして、すべての部門が『頑張る』ことを求められる。

その結果、何が起こったか。

営業部門はシェア拡大のために、価格競争に走った。工場は生産効率を求めて、設備能力の許す限り大ロットで生産した。人員削減のためにロボットや高価な自動化設備を導入し、機械の稼働率を最大限に上げるようスケジューリングした。調達部門は下請けを限界までたたいてJIT納品を強制し、それでも足りないと、安価なメーカーを求めて中国から海外調達に乗り出した。企画開発部はますます数多くの新製品を作りだし、手間のかかる詳細設計は廉価な協力会社やサプライヤーなど外部に投げるようになった。

物流部門は子会社化され、単価を切り下げられ、“物流で儲けてはいけない”とされた。それでも足りなければ、3PLに委託され、人員ごと移管された。情報システム部門もよく似た運命をたどった。ERPパッケージを入れ、アウトソースして間接人員削減をせまられた。人事部は成果主義を導入して、高齢社員から順に削減していった。

そのおかげで、企業の収益は上がり、日本経済は復活したか? --それは我々の知るとおりだ。

利益率を無視した拡販で、企業は体力を消耗した。工場には製品・半製品がうずたかく積み上がり、それなのに物流部門は欠品で悲鳴を上げている。作りやすいものばかりを大ロットで作った結果だ。需給が合わないので、生産計画担当部門は寝る間もなくなり、現場は度重なる指示変更や設計変更にうんざりしている。しかも中国ベンダーからの部品は通関でトラブって1ヶ月も来ない。

設計部門も丸投げのために技術が空洞化し始め、製造現場が作りにくい特注部品は増えるばかり。ベテランの熟練工を首にしたおかげで、品質レベルは下がる一方だ。労災も頻発するようになった。

ITで効率化どころか、摩訶不思議な社内ルールや例外処理で、せっかくのパッケージがカスタマイズの山となり、予算超過でプロジェクトが立ち往生している。

そして全員が全員、頑張ることに疲弊している。どこまで頑張っても、利益にも給料にもロクに反映されてこないからだ。設計も製造も間接部門も、いつ人員対象の削減になるかとおびえている。効率を上げれば人が余って首を切られる。しかし効率が悪ければ、部門全体が外注されてしまう。自分の足元を掘り崩す仕事に、熱中するのはむずかしい。

どうしてこうなってしまったのか。それは、企業全体の目標を、部分目標に分解可能だと、皆が信じていたからだ。そして皆が、自分自身にあてられた尺度で頑張ることの意義を、誰も疑わなかったからだ。

利益=売上-原価だとしても、それを売上目標と原価目標に分解したら、なぜ売上と原価を、それぞれ独立にマネージ可能だと思うのか。新製品で売上を伸ばせば原価率は上がるし、少品種大量生産で製造原価を落とせば、多様な顧客ニーズを満たす売上は達成できまい。運動会の綱引きならば、一人でも力を抜けば全体の力が落ちる。しかし、販売と製造、設計と物流は足し算では動いていない。全体のダイナミクスは連動しており、頑張るべき部分と、手を抜いて様子だけ見ていればいい部分は、そのときどきで動的に移っていく。それを決めるのが戦略なのだ。なぜなら、(知人の宗文洲さんの言葉を借りれば)『戦略とは無駄な戦いを略くこと』だからだ。

各人がつねに持ち場で頑張れば良い結果を生む、という考え方は迷信だ。それは戦略の不在を意味している。頑張りという主観だけで人間を評価するのは間違いだ。それは各人から戦局を判断する力を奪っていく。部門を固定した尺度で動かすのは誤りだ。選ぶべき尺度を戦略によって変えなければ、組織のエネルギーは部門間のコンフリクトに消えてしまうだろう。

新入社員諸君。自分が自分自身の主人になって自由に考えたいか? だったら、まず自分にあてられているモノサシを疑おう。


スケジューリング問題の存在しない工場 -- 真の問題とは (2004/03/02)

「うちの工場には、スケジューリングを仕事にしている人間なんか一人もいません。」こう胸を張っていたその会社は、自動車部品の系列(インバウンド・サプライチェーン)にきっちりと統合されている。顧客からの注文をカンバンで受け取り、加工工程は一個流しで、差立てで平準化をはかり、サプライヤーへの資材の発注もカンバンで行なう。

モノを加工する仕事と異なり、スケジューリングは製品に何の付加価値も生まない仕事である、とその会社では認識されているようだ。なるほど、生産計画立案やスケジューリングは、ある意味では典型的な間接業務である。「スケジューリングをして、それで“自分は仕事をしている”などと思いこんでるような職長は、うちにはいない。」--そうも言われた。ごもっとも。

ところで、バッチ(回分)式の表面加工装置や、金属切削などの工程は、一個流しでなくロット生産になる。そこでは、ロットサイジングや段取り時間を考えた、もう少し複雑な平準化の方法が必要になるはずだ。そう思ったのだが、しかし、それらの工程については、あいにく非公開といわれて、見学させていただけなかった。だから、どのような見事な工夫がなされているのかは、知ることができなかった。

さて、かくも徹底してトヨタ生産方式による合理化をつきつめた、この会社には、スケジューリングの問題はないのかもしれないのだが、じつは別の困った問題があった。

この会社は赤字なのだ。

それも、2年続いての経常赤字である。今期はどうやら多少上向いているようだが、いまだに無配だ。土地資産を売却し、従業員の希望退職も募った。それでも、今年も業績の下方修正を余儀なくされている。

その理由がなぜなのか、どういう方針で解決しようとしているのか、その説明は工場見学の中ではきくことができなかった(むろん、外部に言いたくないこともあろう)。財務諸表は公開されているが、第三者がそこから分析できることには限りがある。親会社からの発注単価が無謀なほど安すぎるのか、海外メーカーとの価格競争にたえきれないのか、今ひとつわからない。研究開発費負担の過剰や、財テク失敗といった要因でないことはみてとれるが、本格的な企業診断をしなければ、本当の理由はわからない。

ただし、これは見学に同行した知人のコンサルタント本間峰一氏が指摘したのだが、工場を見て一つだけ気になったことがある。直接工に対して、間接要員が多すぎるのだ。間接部門といっても、営業や総務ではなく、生産技術のような仕事に就いている人たちだ。生産計画もスケジューリングも不要なのに、なぜ生産技術屋がたくさん要るのか?

それは、おそらく絶えざる改善運動のために必要なのだ。生産革新、原価低減、省力化活人化、これがこの会社のテーマである。生き残るためには、生産現場の工夫を積み重ねて、コストダウンにかけるしかない。そう信じて、変化の早くライフサイクルの短い電装部品が現れては消えるたびに、彼らは工程を再配置し機械を組み替えては改善に努めているのにちがいない。そして教育と、提案制度と、表彰と・・・。これらはすべて間接人員を必要とする。

継続的改善は良い経営手法だ--今ではISO-9000/14000やCMMをはじめ、誰もがそう信じているらしい。しかし、私は少々疑問に思う。改善活動は苦労もあるが、知恵が実れば達成感もあり、楽しいだろう。しかし、改善活動には一つ大きな問題点がある。それは、改善すべき尺度自体に対する疑問を忘れさせてしまうことだ。この会社にとって、果たして本当に一個流しによるコストダウンは、赤字解消のために最も有効なことなのだろうか? もっと別に考えるべきことがあるはずではないのか。それも戦略的レベルで。

改善は戦術にすぎない。しかし戦術をいくら積み上げても、戦略の問題を訂正することはできないのだ。「環境に適応しすぎた生物は、進化の袋小路に入り込んで絶滅するリスクが高くなる」--生態学の教えを思い出すにつけ、私は努力と改善意欲にあふれたこの会社のことが、ひどく心配になるのである。

スケジューリング問題の存在しない工場 (2004/02/23)

1年ほど前のことになるが、ある自動車部品メーカーの工場を見学させていただく機会があった。小物部品を数多くつくっており、その一部は直接ユーザ企業(自動車メーカー)に納入しているが、かなりの部分は大手部品メーカーに納入する。いわゆる、二次下請けメーカーである。取引先はトヨタ系列が多い。

この会社はトヨタに直接学んで現場改善に力を入れており、それは工場のレイアウトや作業方式にもあらわれている。工場をたてた最初のころはベルトコンベヤーにそった流れ作業だったが、今ではコンベヤを全部捨ててしまい、ほとんどをセル生産に切り替えている。作業もみな立ち作業にかえた。最初は従業員から「疲れる」などと抵抗があったが、あれほど多かった頸腕症候群が無くなってしまい、今は誰も不満を言わないという。

典型的な加工作業のセルを見せてもらった。トヨタ式のセル生産の原則は、多能工化・一個流しのようだ。間口の小さな加工機械を歩幅の間隔に並べて、仕掛品は人がその間を持って歩く。ちょうどパチンコ台が7-8台、コの字型に並んでいるさまを思い浮かべるといいかもしれない。玉を1個、端の台に入れる。と同時に、受け皿に出てきている加工済みの玉(ちょっと前に投入してあったもの)をつかんで、となりの台に一歩移動し、そこに投入する。そして受け皿に出ている玉を持って、また隣の台に移動する。無論、パチンコ台と違って、、一つ一つの加工機械は別々の装置で、異なる加工機能を行うのだが。

熟練した若い女性作業者の動きを見ていると、敢然としていてまったく無駄が無い。まさに改善合理化の極致である。各機械のタクトタイムが、歩幅とピッチに、見事に同期化されている。1人で機械8台からなるセルをうけもつが、人数を2人投入すれば、1人4台を受けもてば良く、生産能力はちょうど倍になる。負荷変動に簡単に対応できるのだ。

しかし、この工場を見学して一番驚いたのは、説明してくれた方が、「うちの会社にはスケジューリングを仕事にしている人などは一人もいません」と胸をはって言われたことである。なぜか。それは、この会社が客先からの注文も資材メーカへの購買も、すべてカンバン方式で指示しているからだ。むろん、客先からは月単位での内示を事前にもらっているが、日々の発注はすべてカンバンでうけとっている。

その引取カンバンは、工場の出荷口に近い差立て用の棚に置かれる。棚のスロットは細かな作業時間帯をあらわしている。カンバンを置くときには、なるべく品種や時間帯をかたまらないよう散らして差し立てる。これがすなわち平準化である。そのためにシングル段取や一個流しを実現しているのだ。

たしかに、この工場にはスケジューリング担当員は存在しない。トヨタの系列の自動車部品メーカーは、長いインバウンドのサプライチェーンの中に位置して、全部がカンバンによる制御系で同期化される仕組みになっていることがよくわかる。したがって、生産計画は末端のトヨタで行われるだけで、あとはほぼ計画不要な状態になっている。というよりも、余計な計画などしてくれないようにすることが、全体制御のためには望ましい訳だ。「計画はずし」などという計画不要論のスローガンが現れる由縁である(もっとも、トヨタ自動車自身はきちんと生産計画を立てており、この点を多くの人は誤解している)。

最適なスケジューリングの手法を、と求める人達に対して、私はくり返し、『最適化は生産計画レベルでマクロに考え、スケジューリングにおいては現実の変動に追随しやすい仕組みを実現すべきだ』と主張してきた。スケジューリングは最適化の問題ではない、とも言ってきた。トヨタ系列の仕組みを見ると、「ある意味で」このテーゼを見事に実現していることがわかる。ある意味で、と書いたのは、ここにはAPSも有限負荷制約の解決も自由度の思想も、入りこむ余地がなさそうにみえるからだ。だから、ここにはスケジューリング問題はほとんど存在しない、といってもいい。

ただし、この工場に問題が全然存在しない訳ではない。それについては、また項を改めて書くことにしよう。
→つづく

日誌をつけよう(3)--スケジュールとの統合 (2004/01/20)

さて、これまで2回にわたって、日誌をつけよう、To Do Listと併用しよう、と格好のいいことをいってきたが、実は私自身まだうまくできていないことがある。それは、スケジュールとの統合だ。むろん、ここでいっているのは工場の生産スケジュールやプロジェクト・スケジュールのことではない。自分のパーソナル・スケジュールだ。

誰でも、自分自身の個人予定を書き込むために、スケジュール帳を持っているだろう。手帳か、あるいは、月単位の見開きデスク・ダイアリーかもしれないし、さもなければ壁に掛けたカレンダーに鉛筆で書き込む、という人もいるかもしれない。スタイルは様々だが、とにかく日時の枠内に、打合だとか出張だとか飲み会だとかのイベントの予定を書き込むためのものがあるはずだ。

そして、日誌を書くときには、その日のイベントもまた日誌に記録したいものだ。朝、一日の始まりに、まず本日の予定されている(時間の決まっている)イベントを確認する。そして、To Doをならべる。一日が終わると、日誌をまた開いて、予定されていたイベントの実際の開始・終了時刻を記録し(会議だと例によってたいてい終了が延びるのだ)、必要に応じて出席者名と結果を簡単に走り書きし、そしてやり終えたTo Doを消していく。これで、日誌に記すべきほとんどの項目がカバーされる。理想的には、こうあってほしいのだ。

ところが、私自身はそこまで実現できていない。私はスケジュール帳とTo Do Listを統合したソフトを使っている。しかし日誌には別のソフトを利用している(以前書いたようにアウトライン・プロセッサを使っている)。その結果、私は毎日、その日のイベント・スケジュールを日誌に転記している訳だ。何とも間の抜けた、無駄な作業だと、自分でも思う。しかし、一つだけ言い訳がある。それは、スケジュール帳の情報は本来、公開して仕事の同僚と共有すべきものだから、ということだ。

日誌はこれと異なり、読み手は基本的に(未来の)自分だけだ。この点にズレがあるのだ。日誌も公開すればいいのかもしれないが、個人的な記録や発見も書いておきたい(ちなみに、そうしたネタの中から、この「コンサルタントの日誌から」ができてくるのだ)。そうすると、結局は別な場所に何か書き込まざるをえなくなって、また二重化してしまう。

以前、書評のコーナーで紹介した、「やっぱり変だよ 日本の営業」の著者・宋文洲さんは、世間一般の営業日報を批判して、“文章をだらだら書き連ねた日報など、営業管理には何の役にもたたない。必要なのは、誰と、いつ、どこで、どういう用件で会ったか、などの事実だけだ”といっている。私も基本的には賛成だ。日誌の内容はできるだけ客観的であるべきだ。だが、毎日のルーチン業務に関連して、いろいろなことを思いついたり発見したりするのも、計画屋の重要な職務である。この間の線引きが、むずかしい。

私は実は、さらにQuickenという個人用の金銭出納ソフトも使っている。欲をいうと、これも日誌と統合したいのだ。スケジュール予定とTo Doと交通費や経費の記録と仕事上の反省とを、あっちをめくりこっちに転記して、ではやりきれない。しかし、こんな機能を全部組み込んだソフトがあったら、自分は飛びつくだろうか? 何だかそんな、「パーソナルERP」みたいな巨大ソフトは、重くって使い物にはならないだろうな、などと考えているもんだから、いつまでもどうどう巡りは終わらないのである。

日誌をつけよう(2)-To Do Listのつくりかた (2004/01/13)

生産計画やプロジェクト・マネジメントに従事するホワイトカラーも日誌をつけよう、と前回書いたが、お仕事の日誌を習慣づける一番簡単な方法は、To Do Listとともに使うことだ。

To Do Listとは文字通り、「やるべき用事(to do)」のリストである。仕事の上でやらなくてはいけない用事を、リストの形で書いておく。毎日の仕事とは、誰かに電話をかけるとか、製品Aの昨年度の実績を調べるとか、来週の会議用資料を用意しておくとか、やらなければいけないこまごまとした用事の集合体であるとも言える。

そこで、To Do Listのフォロー結果が、そのまま日誌になるようなスタイルを考えてみよう。毎朝、職場に着いたら、まずその日にやらなければいけない用事のリストを作成する。その中には、前日のTo Do Listもにあったのだが、前日にはできなかった用事も含まれるだろう。また、その日に新たに付け加わった仕事もあるにちがいない。

リストができたら、つぎに、その中で今日の内にどうしてもやっておきたい事、やっておかなければならない事を選び出す。それを日誌に書き写す。そして、一日の仕事が終わったら、かえる前に、もう一度日誌の中のTo Do Listを見なおして、やり終わったものには丸印をつける。必要なら、手短なコメント、たとえば「相談の結果、2/14から製造する予定」などと書いておく。こうすれば、一日の終わりに自動的に日誌が出来上がっている。所要時間は、朝の10分と、夕方の5分の、合計15分。簡単である。

To Do Listの具体的な項目や形については、拙著「革新的生産スケジューリング入門」の第1章にも書いたので参照してほしい。ただし、効果的なTo Do Listをつくるには、守るべき原則が4つほどある。それを説明しよう。

(1)一元化すること
 何よりも、これが一番大事な原則だ。自分のTo Do Listは、ただ一つに集中すること。やるべき用事が、手帳と、会議のノートと、PCのメモパッドと、e-mailの受信ボックスと、机の上のポストイットと、あれやこれやに散らばっていたら、どこから手をつけていいか自分でも解る訳がない。To Doは必ず一元化しなければならない。
 もしあなたがTo Do ListをデスクトップPC上のExcelファイルで管理したければ、それでもかまわない。しかし、そのときは、会議で決まったことやメールで依頼されたことなども、すべてそれに記録しておかなければならない。一つの空港に管制塔がいくつもあったら、パイロットは発狂するだろう。あなたの管制塔もたった一つにしておこう。

(2)先日付のTo Doを書き込める場所もつくっておくこと
 用事の中には先日付、たとえば来週の金曜日になってから、はじめればいいと分かっているものもある。こうした先日付の用事を記録しておくためには、あらかじめ向こう数週間か数ヶ月分の記入枠を用意しておき、その該当日付に書き込むようにする。ようするに「カムアップ・システム」である。この目的のためにも、To Do Listと日誌は統合化するメリットがあるのだ。

(3)中期的なタスクを考えながら、日々のTo Doに落とすこと
 やるべき仕事の中には、飛び込みの用件や突発事故への対応などのように、あらかじめ予測も予定もたてづらいものがある一方で、中期的な「テーマ」ないしタスクも多く存在する。むしろ、仕事というものは、毎日のイベント・ドリブンな用件を減らして、いかに計画的にすすめていけるようにするかが、大事である。
 ただし中期的なタスクそれ自体をTo Do Listにそのままのせるのは、おすすめできない。人間は誰しも、同じTo Doを毎日毎日ずっとながめつづけると、いやになってしまうものだ。たとえば、「主力製品の需要パターンを分析しておく」などといった大きなタスクは、「昨年の製品Bの月別出荷量を調べて表にする」「住宅着工件数との対比でグラフ化する」のように、1-2日で完了できる程度の小さな用事に分解して、順に片づけるようにする方がいい。

(4)優先度は日々見直すこと

 私は上記の本の中で、「To Do Listには優先度をつけろ」と書いた。ただし、優先度はずっと固定してはいないはずだ。期日が迫ってくれば(スケジュール上の自由度がなくなってくるため)優先度を上げて仕事をせざるを得ない。客先の要請などの事情で、優先度をかえることも、無論あり得る。
 米国のPMコンサルタント、Neal Whitten氏は「能力のあるプロジェクト・マネージャかどうかを見分けるのは簡単だ。その日にするべき仕事Top 3を聞いてみればよい」といっている。まともなプロマネならば、すぐにきちんと答えられるからだ。仕事のできる人は、やるべき事に適切な優先度をつけている。そして時間を無駄にしない。

 時間を大切にし、時間の悩みを取り去るためにも、日誌とTo Do Listを活用しよう。

日誌をつけよう (2004/01/04)

一年の計は元旦にあり、などという諺はもう言い古されて、「計」とは本来「計画」の意味だったことさえ、誰ももう思い出さないようだ。それでもなお、新年は何か新しい目標やチャレンジを考えてみる、いいタイミングではある。

そのときに、“よし、今年こそは日記をつけよう!”などという古典的な、ほとんど凡庸とさえ思える決心をする人が、今どきどれほど存在するかは知らない。“今年こそは家計簿をつけるわ”と思い立つ主婦が大勢いると信じて、昔の婦人雑誌の新年号は分厚い「特別製家計簿」を付録にしていたものだ。今年こそ日記をつけようと決心する人の数は、おそらく家計簿を下回って、かなりマイナーな趣味に属するかもしれない。

ところが世の中の変化とは不思議なもので、文房具店の日記コーナーや婦人雑誌の豪華付録が消滅していくかわりに、日記をつける人はかえって目立つようになった。インターネットの世界でのことだ。自分のホームページに、日記代わりの文章をアップしている人の数は、(公式な統計が存在するかどうかは知らないが)今では数万を下るまい。昔風の、紙に書いて、鍵付きの箱にしまっておく、私的で内密な日記はすたれて、オープンで、ちょっと気取った、他人が読むことを最初から意図した日記は増え続けている。これが現代のトレンドというものらしい。

ところで私は、あえて逆の提案をしたい。「公開を目的としない、個人的な記録を毎日つけよう。1日に15分、自分の時間をそれに当てよう」と。そして、それをスケジューリングやプロジェクトマネジメントの訓練として行なおう、と。

そんな習慣が何の役に立つかって? そう疑問に思う人は、私的な日記を想像するからだろう。しかし、私が提案するのは、個人的な記録、つまり『日誌』なのである。

船の船長はみな、「航海日誌」をつけている。私は航海日誌もつけないような、だらしない船長の船には乗りたくない。同じように、私は「プロジェクト日誌」をつけないような、訓練の足りないプロジェクトマネージャの仕事はしたくない、と思う。ところで、あなたの知っているプロマネは、日誌をつけているだろうか? なぜ海運の世界では当たり前のことが、ことホワイトカラーのオフィスの世界ではほとんど行なわれないのだろう?

航海日誌に書くことと言えば、どんなことだろうか。私も知らないので想像するだけだが、その日の船の位置、進んだ方向と距離、天候、その日の主要な作業項目や出来事、寄港したならば寄港地名と積み卸しの内容、船員や乗客の動静、発生したトラブルや将来起こるかもしれないリスク、などだろう。長く航海していれば、こうしたことをすべて頭の中だけで記憶しておくのは不可能だ。

航海の途中で、「通信機の調子が落ちている・・このところ荒天が続いて傷んだからかもしれない・・そういえば前にオーバーホールしたのはいつだったろうか?」というようなことを考えるとき、日誌がなければ困ってしまう。また、一つの航海が終わったとき、次の航海の計画を立てる場合にも、過去の航海日誌は役にたつ。そして日誌は、基本的に書いた人間が自分で読んで利用するものだ。ならば、プロジェクト・リーダーのあなたも、日誌を付けない理由が何かあるだろうか?

「日記」は(たとえそれがインターネットで公開されようが)基本的に文学の領域に属する。日本では日記文学の長くて立派な伝統があり、またその姉妹として身辺雑記のエッセイも発達している。だからみな、毎日の記録というと、すぐそうしたものを連想する。

これに対して、「日誌」は客観性の領域に属している。自分の主要な関心事、ふつうは仕事の(学生ならば研究の)ことを記す。だから散文的だ。他人が読んでもつまらないし、日誌はそもそも他人に見せることを意図していない。日誌の想定する読者はたった1人、未来の自分なのだ。

ただし私の提案する日誌は、鍵付きの小箱入りのノートではなく、パソコンで記録することをおすすめする。理由は簡単、日誌の主要な目的が「過去の検索」にあるからだ。何も立派なデータベース・ソフトである必要はない。ワープロや、テキスト・ファイル+エディタの組合せで十分だ。なぜなら、日誌に記録すべき項目はしだいに変わって行くからだ。仕事を通じて、自分の役割も、範囲も、関心点もかわっていく。人はそれを『成長』と呼ぶ。へたなシステム分析を行って、自分の「管理項目」を固定してしまわない方がいい。あとで必ず窮屈になって、使うのをやめてしまうだろう。

日誌に割く時間は1日にせいぜい10分か15分。それ以上かかるようなら、書くべき項目を減らした方がいい。さもないと休日や何かの理由で書けない日が3日続いたとき、間を埋めるだけで1時間近くかかってしまい、だんだんいやになってくる。日誌は継続しなければ、何の意味もない。

あなたも、もしも今つけていないのなら、日誌をはじめよう。今つけているのが文学的「日記」だったら、内容に「日誌」も加えよう。その習慣をだれかれに言う必要はない。自分一人で、心の内に宣言すればいいだけだ。そしてときどき過去を検索したり、読み返してみよう。3ヶ月続けてみたら、あなたは、何となく、気分的な安定を少しだけ感じているはずだ。それが「成長」ということなのである。

(この項続く)