品質とは(本当は)何だろうか - (2) 応答

品質とは(本当は)何だろうか - (2) 応答 (2012/04/25)

先日、あるプロジェクト・マネジメント関係の研究に目を通していたら、要件定義段階における「顧客要求の品質」という表現に出会って、ちょっと驚いた。周知の通り、IT系プロジェクトにおける要件定義とは、顧客のもつ『要求』を引き出し明確化するプロセスのことを言う。ここで作成される要件定義書が、その後のシステム設計の基礎となっていく訳だ。ところが、この顧客の提示してくる要求内容が、しばしば曖昧模糊としており、また部門や担当者の間で相矛盾していたりする。受託側としては非常に悩ましい問題で、たしかに、これ自体がプロジェクトの成否を左右すると言っても過言ではない。

そこでこの発表者は、要求工学やIEEE standard 830: "Recommended Practice
for Software Requirements Specifications" などを引用しつつ、正当性・明瞭性・完全性・一貫性・追跡可能性などを、要求仕様が満たすべき『品質特性』と呼び、それを満たす程度を『要求の品質』と考えたらしい。もちろん、この人の言いたいことはわたしも分かる。とくに一部の顧客が、それこそ「不当・不明瞭・部分的かつ矛盾した要求」を後出しジャンケンのように次々と繰り出してくるときには、「なんて品質の低い要求だ!」と言いたくなるし、あるいはISO
9000の品質保証コンサルが、“こんな品質の要求を出したらダメですよ、お客さん”と諭してくれたら、さぞや気が晴れるだろう、とも想像する。

しかし、このような物言いはJISやISOの思想には合致しないのだ。なにしろ品質とは「本来備わっている特性の集まりが、要求事項を満たす程度」なのだから、要求そのものの品質を議論すること自体が、ISOの枠組みを超えてしまう。現行のISO
9000では顧客重視が第一原則であり、要求とは顧客から来るもの(自社組織が勝手に想定し押しつけるものではない)と読み取れる。そもそもISOの定義によれば、要求事項(Requirement)とは、「明示されている、通常暗黙のうちに了解されている、または義務として要求されているニーズもしくは期待。」ということになっているのである(3.1.2節)。だから『顧客要求の品質』の議論は、いわば“メタ品質”ということになってしまう。

(ところで、上記の要求事項の定義文章は、なんだか日本語としてちょっと分かりにくい。正確には、「明示されているか、あるいは通常暗黙のうちに了解されているか、または義務として要求されている、ニーズもしくは期待)と補って読むべきであろう。JIS制定委員の人たちは、日本語の品質について少しは考えなかったのだろうか?)

ともあれ、わたし達が顧客要求の「質」を論じたくなるのは事実である。また、上記のような顧客にあたったら、それこそ「質のわるい客だぜ!」と嘆くだろう(質という漢字は「たち」と訓読みする)。それはいったい何故だろうか。

前回、コンビニで売っている60Wの電球と100Wの電球を例に、「100Wの方が60Wより品質が高い」という物言いを普通はしない、と述べた。また同じ型の自動車で、1600ccの車種の方が1300ccより「品質が高い」とは言わないとも書いた。たしかに両者は重要な特性が違い、だから価格も違う。なのにわたし達は、品質の差違ではなく、「仕様が違う」と認識するのである。

そのポイントは実は、「明示」にある。電球のワット数も自動車の排気量も、主要な性能特性(仕様)としてメーカー側から「明示」されている。これは、顧客の側から義務として要求される事柄についても、同様に当てはまる。ステンレスを使え、と指定された機械部品に、もし腐食しやすい通常の炭素鋼を使ったら、それは「品質が低い」のではなく、もはや「不適合(non-conformance)」なのである。QualityのLow-Highではなく、ゼロの問題になってしまう。契約で明示された義務を怠ったからである。

つまり、逆に言うならば、わたし達が品質の高低・よしあしを問題にするときは、「明示されない暗黙の期待」を満たす程度、について論じるのである。「1300ccクラスの車なのに、この足回りの加速性はどうだ!」と感心するとき、わたし達は期待したよりも高品質だな、と感じる。ところが100W用と明示された電球を、100Wのソケットにつけてちゃんと点灯しても、それは当たり前だ。明示された特性は、合致するのが当たり前である。たまに合致しなければ欠陥で、そこにはYesかNoしかない。品質の高低が大事になるのは、「明示されない期待」の時だけなのである。

あるいは、「一応は言葉で明示されているけれども、数値的に検証不可能な特性」も、品質の高低で語られる。その良い例は、前回挙げた化粧品である。“お肌が若返る”といった効能書きは、個々の消費者にとっては事実上、検証が不可能である。こうした商品に対しては、品質の高低という、ある意味ひどく感覚的な言葉でしか語れない。

そこでもう一度、設計の品質という問題に戻ってみよう。品質管理論では、「前向き品質」(forward
quality)と「後ろ向き品質」(backward
quality)という言葉が使われることがある。そして設計行為などの品質は「前向き品質」とよび、製造段階での品質を「後ろ向き品質」と呼ぶ。あるいは、このかわりに、「魅力的品質」と「当たり前品質」と呼ぶこともある。設計で作り込むのは主に魅力的品質で、製造で実現するのは当たり前品質という訳だ。

「製造部門は設計図どおりに作ること!」などという標語を、大きな文字で掲示している工場はない。設計図に明示された事項を、製造が実現するのは“当たり前だ”と、皆が考えている(少なくとも日本では)。じじつ、製造の当たり前とは、つまり、製造に対する明示されない暗黙の期待である。そして当たり前品質の特徴は、「それが欠落しているときにのみ論じられ、合致しているときは意識されない」ことにある。だから不良や欠陥の発生(当たり前品質の欠落)が、工場の品質管理の主な仕事なのだ。

だが設計の成果物のレビューは、そうはいかない。設計とは、要求事項や仕様を、部品やソフトの「機能と構造」に変換し、製造可能な仕組みに落とし込む作業だからである。明示された要件定義書がある場合は、もちろん組み込まれていなくてはならない(設計における「当たり前品質」)。しかし明示されていない期待についても、それを想定し、考慮に入れる必要がある。ここが設計の「魅力的品質」の部分である。

顧客がすでに明示したもの、それは魅力ではない。顧客が自分でうまく表現できないもの、でも実際に現前したら価値あると感じるもの、それが魅力なのである。たとえば「魅力ある異性」とは、まさにそんな存在ではないか。

日本の品質管理は、戦後の復興期における、統計的品質管理手法のアメリカからの輸入ではじまった。それは高度成長期に普及し、日本的な現場の小集団活動と結びついて、TQC活動となった。’80年代はまさに品質管理全盛の時代だったと言っていい。品質はすなわち利益に結びついた。ところが’90年前後のバブル景気時代から、しだいにTQCは色あせてくる。かわりに入ってきたのは、英国発のISO
9000の品質保証思想であった。ここで、品質とはペーパーワークである、という誤解が広く受けいれられた。

つづく「失われた20年」の不況の時代は、工場切り捨てと海外移転の時代だ。この時代、日本企業が本当に必要としたのは『前向き品質』『魅力的品質』を創出する仕組みだったはずだ。だが、そのためには品質の遂行主体を、工場の品質管理課から、営業も企画も技術も巻き込んだクロス・ファンクショナルな体制に移す必要があった。わたしの知る限り、このような思想を持って進んだ企業はきわめて少ない。

それでも、前向き品質をなんとか確保したいと願う技術者は多いだろう。そのためには、どうしたらよいか。一番良いのは、創造性のある人間を揃えて自由度を与えることだが、それは決して簡単ではない。そこで、次善の策として、「前向き品質を後ろ向き品質に変換する」ことを考える。つまり、意識されざる・表現されざる特性を、まずは言葉で表現するのである。具体的には、上にあげたような、正当性・明瞭性・完全性・一貫性・追跡可能性など“メタ品質特性”を「設計思想」の形でドキュメント化し、意識化するのである。もちろん、設計の途上では、完全性や一貫性を阻害するコストとのトレードオフ要素が沢山出てくる。それに対しても、優先順位の考え方を明確化する。

設計の品質を上げたければ、「設計思想(Design Philosophy)」を固めることが、結局は必須の条件なのである。おかしなことに、わたしたちは「思想」という言葉に対して身構える習性をもっている。だが、この苦境を乗り越えたかったら、もう一度、原点にかえって思想と格闘するしかなさそうである。



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