コストセンター

コストセンターというのは奇妙な用語である。多義的だ、とか、意味が確定しにくい、とかいう訳ではない。コストセンターとは「費用だけが集計される部門単位」という定義が明確にあり、その点では、ほぼゆらぎがない。にもかかわらず、この用語は様々な価値判断や感情的評価を込めて使われている。ネットをちょっと調べてみれば分かるが、「もうコストセンターとは呼ばせない!」とか、「コストセンターからプロフィットセンターへの脱皮を」といった風に、ネガティブな意味合いで使われることが多い。あるいは「所詮コストセンター子会社だから」とか。いったい費用だけが集計される会社とは、どういう意味だろうか。収入がない会社が存在するのか?

もともと「コストセンター」とは、会計学から発した言葉だった。日本語では「原価中心点」という、いささかぎこちない訳語があてられている。意味は先ほど紹介したとおり、費用集計の部門単位である。企業の中には部門がたくさんあり、どこでも費用が発生するから、コストセンター(つまり中心点)がたくさんある、ということになる。なんだか幾何学的にはヘンな気もするが、まあ気にせず通り過ぎることにしよう。たとえばSAPの導入コンサルだったら、コストセンターは主にこうした会計的意味で、会社の組織定義のプロセスで使っているはずだ。

これに対となる用語がある。それは収入だけが集計される部門単位で、こちらは「レベニューセンター」と名付けられている。ところが、現実にはどんな仕事だって、人が動けば(最低でも人件費は)発生する。特許収入のように座っていればお金が流れ込んでくる種類の仕事でも、最低限の知財事務は必要なはずである。だから、純粋なレベニューセンターは実際の会社には存在しない。

そこで、コストも収入も発生し集計される部門単位が登場する。これを「プロフィットセンター」と呼ぶ約束になっている。

さて。ここまでは会計学(とくに原価管理)の概念である。会計学の特徴として、きわめて厳格に定義されているが、価値判断からは中立だ。会計士は、この製品は好ましいだとか、あの部門はアホだとかは言わないのである(少なくとも表では)。ではなぜ、コストセンターという語に、価値と感情がからみつくことになったのか。それは、会計学に隣接する別の学問、経営学の世界にこの語が取り込まれたからだ。経営学では(とくにサイエンス志向のあまり強くない経営学者の間では)、用語は厳密性より「説得力」が求められる。まして経営学のさらなる隣接地、経営コンサルやメディアの分野では、概念の「物語性」が最大の価値となる。

さて、経営学の分野ではマネジメントが主題である。そのため、部門をマネジメントする際に、その部門の性格、ならびに管理目標が問題になる。そこで、コストセンターは費用だけが集計される部門であり、費用で管理するべきだし、プロフィットセンターは収入と費用の両面で(つまり収入-費用=利益で)管理すべきだ、という見方が誕生する。

ちなみに、営業機能と開発・製造機能の双方を併せ持つ「事業部制」という仕組みを発明したのは、GMの社長スローンだったと言われている。それまでのGMは、開発・製造・販売・・と機能別に縦割り型の部門が、すべての車種を面倒見ていた。彼はそれを変えて、製品ファミリごとに、開発から販売まで自己完結・一気通貫で動く組織をつくった。この事業部は製品ごとの特性に応じて意思決定も資源配置も迅速に行えたため、大きな成功をおさめた。おかげでGMも成長したし、彼の名はMITのビジネス・スクールの名前に残った。このような事業部は、まさに収入と費用の両方を自己管理できるという意味で、プロフィットセンターと呼ぶにふさわしい。

ところで、用語というものは流通していくうちに、しばしば本来の意味から離れていく。いつの間にか、事業部制をとらぬ通常の企業でも、営業部門は収入を集計するから「プロフィットセンター」で、製造や物流や研究開発部門は(そして人事経理など本社部門も)、「コストセンター」と呼ばれることになった。これは、元の会計学的な意味では正しい。しかし、経営学的には正しいだろうか? 製造をコストだけで管理する--それはどういう意味だろうか。

コストだけが部門の評価尺度と言うことになれば、向かう方向は必然的に「コストダウン」しかなくなる。コストは小さいほど良い。だから、コストセンター部門は必要かもしれないけれど、会社から見れば重荷でしかない、一種の必要悪である、という事になってしまった。このような見方は、コストセンター部門の子会社化による切り離し、という動きにつながり、’90年代後半から加速していく。その典型は物流子会社であろう。また工場の製造子会社化も広く行われるようになった。その背景には、わたしが以前から指摘している「サプライチェーンにおける生産から販売へのパワーシフト」があった。

ところで、よく考えてみてほしい。コストセンターを子会社化するというのは、その対象部門に「売上が立つ」事を意味する。そうでなければ会社として成り立たない(税務署だって認めまい)。工場を製造子会社化する場合、営業部門はそこから製品を価格付きで仕入れる事になる。今まで一つの会社だったときには意識されなかったモノの途中段階の値段が、急に浮上してくる。これを「移転価格」と呼ぶ。

この移転価格はどうやって決まるのか? 本社の販売側は「安ければ安いほどいい」から、製造原価で出せと要求するかもしれない。しかしそれでは利益ゼロで、子会社の経営が成り立たぬ。他方、原価よりずっと高い価格をつけたらどうなるか。本社側のマージンがその分減少する(無論、減った分は子会社に計上されるが、連結決算ではプラスマイナス・ゼロになる)。だからここは駆け引き、交渉になるのだが、まあ通常は本社の立場の方が強い。本社としては、製造原価とまでは言わぬ、子会社だって間接部門を維持し研究開発だって少しは必要だろう、だから原価+販売管理費の分までは負担しよう、と言うはずだ。

だが、もし子会社が100%親会社への内販だけでビジネスをしていたら、これはつまり会社として内部留保も成長余地もないことを意味する。あなたがこのような「コストセンター子会社」の経営者だったら、どういう将来展望を描き、どうやって従業員のモチベーションを高めるだろうか? ずいぶん難しい課題ではないか。

そうなると、残された道はただ一つ、親会社以外への外販比率を高めて、そちらで儲けていくしかない。だが、これは口で言うほどたやすいことでない。それは世の中に数多くある物流子会社を見ればよく分かるはずだ。営業人員だって不十分な機能子会社に、どうやって顧客を捜してこいと言うのか。一部の例外を除けば、多くは内販に頼っている現状がある。こうした会社は会計的にはプロフィットセンターだが、親からは相変わらずコストセンターと呼ばれている。

話を少し戻す。かりに子会社ではなく社内の機能部門だったとしても、コストというものは、本当にそれ単体で管理できるものなのだろうか? コストのみに責任を持つ組織というが、ここには何か欠けている要素がないだろうか?

コストの高低を言う場合、大事なことがある。それは、比較のベースである。製品コストならば、数量と、品質と、納期があってはじめて、比較可能になる。クラウンとカローラを比較して、カローラの方が安いといってよろこぶ愚か者はいない。また、同じものを作るにしても、1個作るのと100個作るのでは、当然値段は違ってくる。自分が外からモノを買うときを考えればすぐ分かる。

いいかえるなら、「コストだけに管理責任を持つ組織」では、マネジメントとしては全くの片手落ちである。いわば借方に対する貸方、つまり方程式の等号の反対側に、管理項目がなければならない。製造のようにマテリアルを供給する機能の場合は、品質・納期になる。物流のようにサービスを提供する機能の場合は、誤配率に代表される物流品質ということになる。言いかえるなら、サービス・レベルである。つまり、コストセンターは、サービス・レベルとコストに大して管理責任を持つ組織であるはずなのだ。品質が高ければ、コストもそれなりにかかる。納期が正確なら、それなりに費用もかかる。これが道理というものだ。もちろん数量も大事なコストの因子だ。だが、数量はむしろ需要側(販売側)が責任を持つべき項目であろう。

繰り返すが、経営学的にコストセンターをとらえるならば、サービス・レベルを規定した上で、コストを管理目標としていかなければならない。そうしてこそ、初めて他社との比較も意味を持ってくるのであり、また適正な移転価格レベルについても議論可能な状態となるのである。

(追記)英語版Wikipediaによれば、「プロフィットセンター」という用語をマネジメントの世界に最初に取り入れたのはドラッカーだったらしい。しかし彼は後にこの用語がおかしな意味で一人歩きしたのを見て後悔し、「企業内にあるのはすべてコストセンターだ。唯一プロフィットセンターと呼ぶべきは、不渡りでない小切手を切ってくれる顧客である」と述べている。